楽興の時・音の絵

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■新国立劇場オペラ劇場――ベルク「ヴォツェック」
2009年11月23日(月・祝)14時開演 新国立劇場オペラ劇場

 アルバン・ベルクの「ヴォツェック」は20世紀オペラを代表する作品の一つであり、今夏亡くなった若杉弘・新国立劇場オペラ部門芸術監督がオペラ史上の「7大重要作品」のなかに位置づけ、どうしても上演したいと語っていたことが記憶に残る。その作品がようやく初台の舞台で見られることになった。今回のプロダクションはバイエルン州立歌劇場との共同制作となっており、2008年11月にミュンヘンで上演されている。演出はドイツの演出家アンドレアス・クリーゲンブルク。ハンブルクやミュンヘンなどで、主として演劇の分野で活躍している人らしい。その演出については、すでに「朝日」11月20日付夕刊に片山杜秀氏のきわめて好意的な批評がいち早く掲載されたし、ネット上でも複数の音楽評論家によって高く評価するコメントが出ている。愛好家のブログでも温かい感想が多いようだ。だが、評者はあえて異論を唱え、いくつかの点で大いに疑問が残る演出だったことを、率直にのべておきたい。

 クリーゲンブルクの演出意図は、それなりに理解できるものではある。公演パンフレットで、次のようなことをのべているのも、理解の助けにはなろう。
 「中心となるテーマ、それは、貧困がおよぼす暴力ともいうべき力が、どれほど大きいかということでした」
 「この演出では、ヴォツェックの目を通して世界を描こうと思いました。家族であるマリーと息子以外の人物は、モンスターのように描きました。そうすることにより、ヴォツェックにとって家族だけが唯一のよりどころであり、彼は家族のもとでのみ人間性を維持できるのだということを浮かび上がらせたいと考えたのです。」
 「私が伝えたかったのは、貧困によるひずみは、世代から世代へと受け継がれていくということです」
 また、舞台前面に水を張っていることについて――。
 「私にとって水は二つの点で重要な要素です。一つは、自然の音の体験という点です。水のぴちゃぴちゃという音。至高の芸術である音楽に対して、それとは違う音を対抗させたかったのです」
 「また一方では、この作品の登場人物にとって、水は、じめじめとして、冷たく、いとわしいものです。そして、特に水の冷たさ、水が鏡のようになっているということも大切なモチーフです。つまり彼らは、しっかりとした固い大地の上ではなく、自らの姿を鏡のように映し出すその像の上に立っているのです」

 「ヴォツェック」の中心テーマが「貧困がおよぼす暴力」にあることは、そのとおりだろう。ヴォツェックにとって愛すべき存在であるマリーと息子以外の人物が、異様に太っていたり、異様にマッチョだったり、コルセットと義足(?)をしていたり、せむしのような姿だったり、乳房が極端に大きかったり、という具合で「モンスターのように」描かれているのも、ヴォツェックと敵対的な関係にあり、強弱はあれ彼にとって抑圧的な存在であることを象徴的に示すものだろう。また、10人前後の黒服の助演者が、ヴォツェックと同じく貧困にあえぐ存在として描かれ、被抑圧者が多数者であることを象徴的に表現している。首から「Arbeit」(仕事)と書いた札を下げて登場したり、ときどき撒かれるパンを求めて奪いあったりする姿は、路頭に迷う多数の労働者の存在を示している。第2幕第4場の酒場の場面では、彼らが楽隊の乗っている舞台を這いつくばって下から支えているというような形にしているのも象徴的ではある。

 マリーの息子がかなりの部分で黙役の形で舞台に登場しており、水の上に吊り下げられた装置の壁に、黒いペンキのようなもので、第1幕第2場では「Papa」と書き、第3場では「Geld」(お金)と書き、さらに第3幕第1場では「Hure」(売春婦)と書く。この「Hure」のところでは、後で字を見つけたマリーが泣きながら手で消すという所作がつけられているのも目をひく。言うまでもなく、彼がヴォツェックの私生児であること、貧困にあえいでいること、そして母親がジェンダー的に抑圧されていることを示している。「Geld」(貨幣)と「Arbeit」(労働)とくれば、言うまでもなく「資本主義」のキイ概念にほかならない(『資本論』を想起し「Ware」=商品も出てくるのではないかと思った)。ヴォツェックとその家族には「階級的な抑圧」と「ジェンダー的な抑圧」(ヴォツェックも自分よりマッチョな男性に抑圧される存在であることに注目)とが二重にのしかかってきていることを、印象づける演出ではある。

 だが、そうした演出意図は一応理解したうえでなお、このクリーゲンブルクの演出には、どうしても得心がゆかなかった。3点をあげておく。

 第1に、舞台全面に水を張ったことは、上に紹介したような演出家の意図はあるにせよ、やはり根本的に疑問を感じざるをえない。ぴちゃぴちゃという水の音は、現代音楽では、たとえばタン・ドゥンの「TEA」のように、作品中に意図的に用いられることがあるからだ。そういう音が、演技のなかで第3幕に部分的に出てくるというのならともかく、全幕のかなりの部分で聴こえてしまうというのは耳障りであり、精緻をきわめるベルクの音楽を邪魔することにしかならない。「至高の芸術である音楽に対して、それとは違う音を対抗させたかった」という演出家の発言は、はっきり言って傲岸不遜であり、オペラの演出としては問題が大きいと思う。

 第2に、ヴォツェックがマリーを殺した後の第3幕第3場ではなく、第2幕第4場の酒場の場面で、すでにヴォツェックの右手が血塗られた状態になっていたこと。この演出意図がよく分からない。「白痴」の歌う「血の臭いがする」という歌詞にひきつけ、第2幕第3場でヴォツェックがマリーの浮気を確信して以降、すでに殺意をもっていたということを言いたいのかもしれないが、第3幕第3場で右手や右ひじに血が付いていることを初めて見とがめられる歌詞とは、完全に齟齬をきたしてしまう。手についた血というのは「マクベス」を引きあいに出すまでもなく、オペラや演劇では重要な要素だが、それを第2幕第4場で見せてしまうというのは、どういう狙いなのか。評者はこの場面以降、その奇妙な演出が気になって、舞台に集中できなかったことを表白しておく。これも演出が作品を邪魔した一例と言わざるをえない。

 第3に、第3幕第5場で、すでにおぼれて死んでいるヴォツェックを息子が捜しにきて見つけるという演出をつけたこと。息子は母の死より前に、母を殺めた父の死を知っているということになるわけだ。本来この作品では、第3幕の幕切れで子どもたちが輪になって遊んでいるところに、別の子どもたちがマリーの死骸が見つかったということを知らせに来たのに、マリーの子どもだけが事情をのみ込めずお馬さんごっこに興じて取り残されているという落差が、子どもの不幸きわまる境遇を観客に印象づけて涙を誘うのだが、そういう展開にならなくなる。事態をすべてを見通してしまっている冷徹な息子という印象を植えつけられることになる。その息子に他の子どもたちが石つぶてのようなものを投げつけるのも、抑圧の再生産を示す意図だとしても、過度に説明的であろう。さらに、幕切れでの子どもの冷ややかな目線とナイフを研ぎだす様子は、むしろ社会的抑圧の最底辺にいた彼が「第2のヴォツェック」にならざるをえないことを表現したかったのだろうが、それも説明的ではないか。こうした一連の演出は、作品の本来もっている喚起力を押しつぶすことになったように思われる。

 これは勝手な想像だが、亡くなった若杉氏は、こんなに音楽の邪魔をする演出を決して喜ばないのではないだろうか。

 演奏について。ヘンヒェン指揮の東フィルは、全体として緊密によくまとまっており、ダイナミックに鳴らすところは鳴らしつつ、歌手とのバランスもよくとれた好演だったと思う。これはソロでも活躍したコンマスの荒井栄治の奮闘も大きかったことと推察するが、トランペットやホルンが何度か音を明らかに外していたのには残念な思いが残る。歌手ははっきり言って、でこぼこがあった。素晴らしかったのはマリー役のウルズラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネンで、第1幕第3場の「マリーの子守唄」も、第3幕第1場の聖書を読む場面も、情感がこもっていて美しい。これに対して標題役のトーマス・ヨハネス・マイヤーは、全体としてはヴォツェックの怒りや悲しみを、適度に抑制をきかせながら的確に表現していたと思うが、高音でやや苦しいところが見られた。鼓手長のエンドリック・ヴォトリッヒもやや一本調子だが、張りのある声でマッチョな役どころには合っていた。ブレーキ役だったのは、大尉役のフォルカー・フォーゲル。中音域は調子がいいのだが、高音になると急に声がなくなり、最高音でははっきりしないファルセットでごまかしたところが何箇所か見られたのはがっくり。聴くところによると、初日からずっとこういう調子だったらしい。日本人歌手は、アンドレスの高野二郎、医者の妻屋秀和、マルグレートの山下牧子のいずれも、外国人勢に伍して健闘していた。それから、幕切れを除いて黙役で活躍したマリーの息子役の中島健一郎君には、敢闘賞をあげたい。

 現代的演出は決して嫌いでない(むしろ好きな)評者だが、先に述べたような理由でこの演出には共感できなかったため、カーテンコールは早々に退出させていただいた。

【データ】
 指揮:ハルトムート・ヘンヒェン
 演出:アンドレアス・クリーゲンブルク

 ヴォツェック:トーマス・ヨハネス・マイヤー
 鼓手長:エンドリック・ヴォトリッヒ
 アンドレス:高野二郎
 大尉:フォルカー・フォーゲル
 医者:妻屋秀和
 第一の徒弟職人:大澤健
 第一の徒弟職人:星野淳
 白痴:松浦健
 マリー:ウルズラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネン
 マルグレート:山下牧子
 マリーの子ども:中島健一郎
 兵士:二階谷洋介
 若者:小田修一

 合唱:新国立劇場合唱団
 児童合唱:NHK東京児童合唱団
 管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

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ヴォツェック、大学時代の講義を思い出して懐かしくなりました。
オペラは演出によってだいぶ印象が変わりますよね。

2009/11/24(火) 午前 10:24 あんず

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確かに水の音が気になりました。水面の反射を利用した舞台美術は効果的だったのでしょうが、水の音が「対抗」しているのではなく「干渉」しているようでした。

2009/11/24(火) 午後 0:52 [ kazu ]

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> あんず様。大学時代の講義で「ヴォツェック」論とは、どんな講義だったのでしょうか。拙者は、DVDになっているバレンボイム指揮ベルリン・シュターツカペレのパトリス・シェロー演出が良いと思っています。

2009/11/25(水) 午前 0:22 [ dsch1963 ]

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> kazu様。前回の「オテロ」の場合は、運河だけに水を張っていたので違和感がなかったのですが、舞台全面というのは、演劇ならともかく、オペラの場合は音楽に対するノイズになってしまうだけに、考えものです。

2009/11/25(水) 午前 0:27 [ dsch1963 ]

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