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■文学座公演・紀伊国屋書店提携「美しきものの伝説」
2011年2月18日(金)19時開演 紀伊国屋サザンシアター
劇作家・宮本研(1926〜1988)の作品といえば、以前、2007年に地人会の公演で「ブルーストッキングの女たち」を見ている。そのまんま東(東国原英夫)氏が2006年に宮崎県知事になってからあまり日が経っていない時に、元妻のかとうかずこさんが出演するというので、多少興味本位で観にいった記憶がある。今回観たのは、1968年に文学座のために書き下ろされた「美しきものの伝説」。あらすじは以下のとおり。
物語は大正元年、伊藤野枝が社会主義活動家・堺俊彦の売文社を訪ね、大杉栄や平塚らいてうに出会う場面から始まる。〈売文社〉〈芸術座〉をめぐって、人々がいかに生き、ハイカラでモダン、モボ・モガが闊歩する美しき時代“ベル・エポック”と呼ばれた大正期は、実は明治史に一大汚点を残したと言われる明治43年の"大逆事件"以来、大いなる挫折のあとの「冬の時代」であった。しかし、そのような弾圧の中でなおすべてに対して挑戦的に、ひたむきに生き抜いた人々がいた。売文社を中心とする堺利彦、その売文社にあきたらず新たに近代思想社をつくった大杉栄、荒畑寒村、また芸術座を中心に活躍する島村抱月、松井須磨子、沢田正二郎、青鞜社を中心とする平塚らいてう、神近市子、伊藤野枝等がモデルとなっている登場人物たち。花を咲かそうとして死んでいったのか…。史実と虚構が入り交じった人物たちの物語が楽しくも哀しく展開していく…。(劇団ホームページより)
「美しきものの伝説」を文学座が初演した1968年といえば、大学闘争やベトナム反戦運動などで世の中が騒然としていた時期にあたり、演劇分野では従来の「新劇」にたいして、小劇場運動などが新しく盛り上がっていた時期でもあった。その後、新国立劇場やシス・カンパニー、新劇合同公演、さらに直近では昨年暮れの「さいたまネクストシアター」の上演が話題になったばかり。管理人はようやく物心ついたころだが、あらためて今日見ると、そうした1968年という時代の雰囲気が伝わってくる。
この作品が描いているのは、1910年の「大逆事件」と、その翌年に幸徳秋水ら12人の死刑が執行されてから、1923年の関東大震災による混乱のさなかに大杉栄・伊藤野枝の両名が憲兵隊によって虐殺されるまでの10余年だ。政治の世界では、ここに登場する堺利彦(1871〜1933)や荒畑寒村(1887〜1981)といった人物は、明治社会主義の流れをくみ、この作品の舞台となる「冬の時代」から「大正デモクラシー」の時期を経て、日本共産党の創立(1922年)に参加するが、その後共産主義から社会民主主義に転じていく。これにたいして、大杉栄(1885〜1923)は、この作品でも描かれるように、荒畑と「近代思想」「平民新聞」などを発刊、堺・荒畑とともに「売文社」(1910〜19)で活動したが、幸徳秋水の影響をうけてアナキストとなっていき、先述のように1923年には東京憲兵隊の甘粕正彦によって殺されてしまう(最近は別人の犯行という説もあるらしい)。また、1911年には平塚らいてう(1886〜1971)が女性解放運動の団体「青鞜社」を発足させ、神近市子(1888〜1971)が参加、さらに後には伊藤野枝(1895〜1923)がくわわる。1916年には、伊藤野枝に心を移した大杉を、大杉の愛人だった神近が刃物で刺す「葉山日陰茶屋事件」を起こしている。ちなみに、神近は戦後、社会党選出の衆議院議員にもなっていた。こうして「大正デモクラシー」の時代は「左翼」の分化が起こっていた時代であり、それは1960年代の日本社会党や日本共産党など議会活動を重視したいわゆる「既成左翼」と、直接行動主義を採用していく「新左翼」との対立ともオーバーラップしてくる(なお「既成左翼」「新左翼」という用語は、どちらかといえば後者へのシンパシーを含む感があるため、議論の余地があるが、ここの説明には便利なのでさしあたり採用しておく)。
他方、演劇の分野では、島村抱月(1871〜1918)や松井須磨子(1886〜1918)らの「芸術座」が芸術性と商業性とを融合させて「復活」で好評を博し、島村と相馬御風による歌詞に中山晋平(1887〜1952)が作曲した劇中歌「カチューシャの歌」は一大ブームとなる(その経緯は、永嶺重敏著『流行歌の誕生―「カチューシャの歌」とその時代』吉川弘文館、2010年、にくわしい)。これにたいして、小山内薫(1881〜1928)は、モスクワ芸術座のスタニスラフスキーらの影響をうけてリアリズム演劇を導入しようとし、関東大震災の翌1924年には築地小劇場を開設する。これが、その後の紆余曲折をへながらも、戦後の新劇運動の源流になる。小山内に師事した久保栄(1900〜58)は、その後プロレタリア演劇運動を経て、戦後は「劇団民藝」の指導者となり、新劇運動の中心的担い手となっていく(「民藝」はもともと「民衆藝術劇場」である)。また、当初は島村抱月に師事していた沢田正二郎(1892〜1929)は、松井須磨子と対立して芸術座を退団し、より大衆的な演劇をめざして「新国劇」を結成し、剣劇ものなどで独自の世界をつくっていく。しかし、きわめて大雑把な言い方になるが、こうした新劇や商業演劇の流れを否定するような形で、先述のように1960年代以降「新左翼」運動とも共鳴する面も含みながら、アングラ演劇、小劇場運動が盛り上がっていた。この作品の第2幕の前、いわば「幕間狂言」の形で、神楽の衣裳をつけた男女がシャウトするような言葉づかいでオスカー・ワイルドの「サロメ」を上演する場面があるが、これはそうしたアングラ演劇のパロディーとも言えるだろう。
この作品のいわく言い難い感じは、以上のような歴史をふまえて書かれていることと、深く結びついているのだろう。すなわち、既成の社会運動への対抗的な動き、作品中でいえば大杉栄・伊藤野枝らのアナキズム、サンジカリズムに心情的にシンパシーを表しているように見えながら、それが文学座というれっきとした既成の新劇劇団のために書き下ろされたということだ。43年前の初演時、この作品が当時の観客にどのような見方をされたのだろうかということを想像しながら、それを「追体験」することを意識して舞台を注視していた。同時に、冒頭で石川啄木の「時代閉塞の現状」が引用され、2011年の日本の政治・経済・社会状況との重なりも感じさせられる。「閉塞感」はおそらく、高度成長期のさなかにあり、同時に立場の違いを超えて「演劇で世界を変える」といった言葉が影響をもっていた1968年当時より、43年後の今のほうがはるかに深いのではなかろうか。
今回の舞台は、大半が20〜30代の若いキャストによって演じられている。役柄で得をしている面があるが、クロポトキン(大杉栄)に扮した城全能成がかっこよく存在感を放っている。これにたいして、四分六(堺利彦)の松角洋平は、ぬけぬけとした老練な食えないオヤジという感じを強調する。先生(島村抱月)の得丸伸二は、その尊大な雰囲気を滑稽に演じる。野枝を演じたのは、以前「女の一生」の布引けいに抜擢された荘田由紀で、屈託のない奔放な女性像を衒わずにつくるが、もう少し“影のある女”でもよいように思われた。
ところで、あらためて気づいたことだが、この作品の初演当時、荒畑寒村、平塚らいてう、神近市子の3人は存命だったわけだ。作品のなかの世代間対立は、1968年当時もリアリティをもって受けとめられていたということだろうか。
【データ】
作:宮本研
演出:西川信廣
松井須磨子:……
先生(島村抱月):得丸伸二
ルパシカ(小山内薫):星智也
早稲田(沢田正二郎):鍛治直人
音楽学校(中山晋平):岸槌隆至
学生(久保栄):佐川和正
クロポトキン(大杉栄):城全能成
暖村(荒畑寒村):石橋徹郎
四分六(堺利彦):松角洋平
野枝(伊藤野枝):荘田由紀
モナリザ(平塚らいてう):松岡依都美
サロメ(神近市子):鈴木亜希子
幽然坊(辻潤):神野崇
尾行:関輝雄
突然坊:清水馨
女給:石川ひとみ
男優:山森大輔、高塚慎太郎、永尾斎
女優:牧野紗也子、木下三枝子、石川ひとみ
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