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■新国立劇場演劇公演「ゴドーを待ちながら」
2011年4月26日(火)18時30分開演 新国立劇場小劇場
アップする順番が変わってしまったが、4月末に1本演劇を見ている。新国立劇場小劇場で上演されたサミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」だ。あまりにも有名な作品だが、それを今回は新訳で上演するというので、見に出かけた。あらすじは以下のとおり。
田舎道、一本の木がある。
夕方。
エストラゴンが道端に座っている。靴を脱ごうとするのだが、なかなか脱げない。そこへヴラジミールがやってきて他愛のない会話が始まる。やがて、エストラゴンが立ち去ろうとするのをヴラジミールが留める。
エストラゴン どうして。
ヴラジミール ゴドーを待ってる。
エストラゴン そうだね。
二人はゴドーに会ったことはなく、いつまでも待ち続ける。そこにポッゾとラッキーがやってくる。やがてラッキーは哲学的な演説を始める。
二人が去った後、少年が現れゴドーの伝言を伝える。今夜は来られないが、明日は必ず来ると。
そして翌日、同じ時刻、同じ場所。
エストラゴンとヴラジミールはまたゴドーを待ち続ける。
(新国立劇場ホームページより)
新国立劇場のピットの中央につくられた、ほとんど装置のない舞台のうえに、たった1本だけ木が立っている。それも最初は葉っぱも何もない木。3.11の後、映像でくり返し見ている光景――瓦礫の山と化した街に1本だけ残った「希望の松」を想起せずにはおれず、胸を突かれた。現れないゴドーを待ち続ける2人の男たちの会話という「不条理」が、東日本大震災をへて、なんともリアルな光景に見えてくるというのが、今回の上演を見ての最も強烈な印象だった。そして、ポッゾとラッキーの関係に端的に表れている支配・被支配の関係性も、リアルな触感をもって立ち現われてくる。実は、これは記事のアップが遅れた言いわけに過ぎないが、そうした「不条理のリアリズム」とでもいうべき空気をどう受けとめるのか、いまだに整理がついていない。
橋爪功と石倉三郎のコンビは、いかにも男くさいがどこかすっとぼけた味があって面白い。青年座の山野史人と、東京ヴォードビルショーの石井愃一の2人は「怪演」というほかないだろう。
なお、岩切正一郎訳による戯曲そのものは『悲劇喜劇』2011年5月号に掲載されている。国内で上演された外国作品の戯曲の翻訳を入手するのは意外に苦労することが多いので、著作権問題をクリアして活字媒体で読めることはありがたい。新国立劇場がこういう役割を担うことは大いに歓迎したい。
【データ】
作:サミュエル・ベケット
翻訳:岩切正一郎
演出:森新太郎
ヴラジミール:橋爪功
エストラゴン:石倉三郎
ポッゾ:山野史人
ラッキー:石井愃一
少年:柄本時生
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