楽興の時・音の絵

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■小川さくえ著『オリエンタリズムとジェンダー―「蝶々夫人」の系譜』(法政大学出版会)

 「『蝶々夫人』を鑑賞する日本人は、全員とはいわないまでも、その多くが、このオペラの魅力をそれほど簡単に受け入れることができない。この『日本の悲劇』が、愛着と嫌悪をいう両価的な感情を呼び起こすからだ。すなわち一方では、蝶々さんを襲う過酷な運命に深く共感しながら、他方では、むず痒いような違和感や、顔を背けたくなるような不快感に苛まれる。強く魅了されながら、できれば逃げ出してしまいたいという、相反する二つの感情に引き裂かれるのである」(114頁)
 「『蝶々夫人』に感動したことが、鑑賞者を自己嫌悪におとしいれ、ついにはこのオペラを嫌悪させるに至るという屈折した心的プロセスは、少なからぬ日本人に共通してみられる反応といってよいだろう」(115頁)

 上に引いた文章に膝を打つオペラファンは多いのではないか。かく言う管理人もその一人だが、本書にはプッチーニの「蝶々夫人」を読み解く手掛かりを教えられた。それは、著者自身が作品への苦手意識をもちつつ、研究を深めてきたことと関係していよう。

 「本書の中軸を形成するのは、プッチーニのオペラ『蝶々夫人』であるが、わたしは、このオペラに昔から関心があったわけではない。むしろその逆である。オペラは全般に好きなほうだが、『蝶々夫人』だけは、舞台の雰囲気に違和感をおぼえ、できるだけ近づくのを避けていた」(5頁)――ドイツ文学者で宮崎大学教授でもある著者も「まえがき」でこうのべている。にもかかわらず、なぜ研究対象としたのか。それは「日本人にとって屈辱的に感じられる部分も多いので、娯楽作品としては、西欧におけるほど人気が出ないとも理解できるが、オリエンタリズム、ジェンダー、異文化理解等々、現代的な問題の研究対象として、この作品はもっと評価されてしかるべきである」(5〜6頁)という理由だ。

 サイードの「オリエンタリズム」論に依拠し、ジェンダーの視点で『蝶々夫人』を読み解くという分析視角自体は、必ずしも目新しいものではない。むしろ本書の功績は、プッチーニのオペラと、それに先行した、あるいは20世紀末になって変奏曲のように書かれた文学作品を検討し、その系譜を統一的にとらえることによって、オペラ「蝶々夫人」の独自の意義を浮き彫りにしたところにある。全6章の表題は以下のとおり。
  第1章 ピエール・ロティ『お菊さん』(1887/93)
  第2章 ジョン・ルーサー・ロング『蝶々夫人』(1898)
  第3章 デイヴィド・ベラスコ『蝶々夫人』(1900)
  第4章 ジャコモ・プッチーニ『蝶々夫人』(1904)
  第5章 パウル・レーヴェン『バタフライ』(1988)
  第6章 デイヴィド・ヘンリー・ウォン『M・バタフライ』(1988)

 以下「読書ノート」としてまとめてみる。第1章では、ロティ『お菊さん』にスポットが当たる。ロティは仏海軍大尉で、1885年夏、長崎でお兼さんという18歳の女性と1カ月余り同棲生活を送り、その実体験にもとづいて小説「お菊さん」を書いた。そこには当時の長崎の社会の反映がある。若い娘を紹介してくれる「秘密周旋人」カンゴローの存在もその一つ。他方、この小説には「私」の従卒であるイヴという男が登場するなど独特の設定があり、イヴとお菊さんとの仲を「私」は疑うという「三角関係」状況がつくられる。小川氏は「三角関係のモチーフは……ピンカートン、副領事のシャープレス、蝶々夫人の関係として確実に受け継がれている」(39〜40頁)という興味深い指摘をしている。

 第2章で紹介されるアメリカの弁護士兼作家・ロングは、明らかにロティの『お菊さん』を模して小説『蝶々夫人』を執筆した。この作品から「お菊さん」は「蝶々さん」に変容し、「私」は「ピンカートン」に変容する。蝶々さんの改宗と、そのことによる親類縁者、ひいては日本社会からの隔離という設定は、この作品が原型になる。そのことを小川氏は、この作品の「最大の関心事」が「蝶々さんという日本製玩具が……西洋男性の欲望に照らして、どれだけ魅力的に(あるいは奇妙に)アメリカ型に改良されているかという問題」(68〜69頁)と喝破するのは注目される。さらに「問題なのは、いったんはアメリカ人になろうとした蝶々さんの日本人への回帰が、切腹の変種としての名誉の自決という形で示されている点である」(83頁)とし、ここに「東洋的狂暴性」へのまなざしを指摘する。

 第3章は、ロングの小説を劇化したアメリカの劇作家ベラスコの『蝶々夫人』について検討する。プッチーニは「トスカ」英国初演のためロンドンに滞在中、この芝居を観て感激し、作曲の許可を求めたという。ベラスコの戯曲は小説の前半部を切り捨て、さらに後半部も大幅に圧縮した結果、「ピンカートンと蝶々さんの『日本式結婚』の場面はすべて削除され、結婚生活中に浮上した蝶々さんの改宗の問題や、洋妾という立場をめぐる親戚との軋轢といった、明治時代の日本社会のかかえる複雑な問題がほとんど無視された」「残されたのは、夫の帰りを二年間待ちつづけた蝶々さんの最後の二日間だけである」(90頁)という。これはオペラと大きく違っている点だ。他方、夜の場面で、蝶々さんが一晩中寝ずにピンカートンを待つシーンがしつらえられており、これは「当時の観客をあっと言わせた衝撃の十四分」(98頁)だったというが、これは短縮された形で第2幕第2場冒頭に受け継がれる。また、小説と違い、部屋の外にも内にも桜が咲き誇るなかで「ヒロインは舞台上でまちがいなく絶命する」という設定にした。小川氏は、これが異教徒の自殺であって、西洋の観客は「ヒロインの死を衝撃的な見世物として楽しむことができた」(107頁)と断じる。また、原作小説では、ピンカートンの軍艦の入港は日清戦争の開戦に合わせたと見られる9月17日だったが、ベラスコの戯曲では桜の季節に変更された。ベラスコが桜に固執した理由は新渡戸稲造『武士道』の影響だろう、というのが小川氏の推定だ。

 第4章はいよいよプッチーニのオペラ『蝶々夫人』の考察。オペラは、ロングの小説やベラスコの戯曲とは明確な違いがある。第1幕で結婚の儀式とそこに集まる人々の描写がくわえられたことだ。「オペラ『蝶々夫人』もメロドラマではあるが、第1幕で展開されるピンカートンの植民地主義的な言動、日本式結婚に対する蔑視、蝶々さんの改宗が引き起こす親類との軋轢など、開国して間もない明治初期の日本の抱える深刻な社会問題が、この作品に紛れもない政治的な特徴を与えられている」(122頁)とされる。そして、ピンカートンが婚礼に際して自らの結婚観や人生観を滔々と述べるのはオペラだけの特徴であり、「第1幕の追加が、ピンカートンという人物像を観客の前で赤裸々に示し、第2幕以降の悲劇が何に由来するかを明示する結果となった」(123頁)という。

 このオペラを見たことのある人なら承知のことだが、第1幕ではいかにも身勝手なヤンキー軍人ピンカートンが能天気に登場する(ジャン=ピエール・ポネル演出のDVDでのプラシド・ドミンゴの演技!)。他方、蝶々さんの親戚にあたる日本人は、飲んだくれのヤクシデや、鐘に見たてた銅鑼の音と一緒に「チョーチョーさ〜ん」と叫ぶボンゾをはじめ、珍無類な姿で描かれる。そこがこのオペラに「トホホ感」を感じる大きな要因だが、これらがあってこそ、蝶々さんの悲劇性が浮き彫りになるというのだ。より仔細にみれば、たとえば蝶々さんの登場直後から、「ピンカートンの不埒な乾杯」と「疑いを知らぬ蝶々さんの幸福に酔いしれた無垢な歌声」との間に「深い溝」があるとする。そのうえで小川氏は、「まちがいなくこの不埒な乾杯と花嫁の至福の歌声の組み合わせは、ピンカートンの『計算づくめの裏切り行為』を可視化するための設定だといえよう」(126頁)と指摘するが、卓見と言えよう。「婚礼の夜に歌われる愛の二重唱には、支配者(西洋男性)と被支配者(東洋女性)の力関係が明確に描き出されている」(128頁)という評価も納得できる。さらに、蝶の「標本」の話は小説にも戯曲にもなく、オペラにだけ登場することを指摘し、「日本の芸者とアメリカ合衆国の海軍将校を、蝶とその捕獲者のイメージでとらえるこの比喩は、エキゾチックな珍品を手に入れようとするピンカートンの欲望と、その欲望に呑み込まれた蝶々さんの脆さを的確に表現している」(129頁)とのべている。

 第3幕でブレッシャ版以降、ピンカートンのアリア「さらば愛の巣よ」が追加されたことについては、「蝶々さんが、ほんとうの愛を知らなかった男に真の愛を教え、不実な男の罪を赦し、その魂を救う一種の救済者としての側面をいっそう明確に示すことになる」(133頁)とのべ、蝶々さんが「慈愛に満ちた聖母像」を連想させるとしたうえで、蝶々さんがキリスト教に実際に改宗するのは、小説や戯曲ではなくオペラだけだと指摘する。また、蝶々さんが「華奢で純情可憐で献身的な女性のタイプ」は、プッチーニの好みというだけでなく、「近代西洋がひろく希求していた理想的な女性像」(136頁)に合致したものとされる。こうした指摘は、オペラ「蝶々夫人」の内容を理解するうえで重要だろう。

 第5章と第6章では、20世紀末に書かれたドイツとアメリカの作家によるパロディ的な作品について分析をくわえている。ことに第6章で扱った『M・バタフライ』は1993年、デイヴィド・クローネンバーグ監督、ジェレミー・アイアンズ、ジョン・ローン主演で映画化され、日本でもそれなりにヒットしたが未見。「朝日」書評欄で酒井啓子東京外国語大学教授が本書の第6章の分析を高く評価しているが、その当否はいずれ検証したい。また、「あとがき」では、エイドリアン・ライン監督、マイケル・ダグラス、グレン・クローズ主演の映画『危険な情事』について、『蝶々夫人』の音楽と主題を効果的にとりいれた作品として言及している。「この映画のおもしろいところは、男性にとって、自分に命がけで惚れてくる女性が、かならずしも『かわいい女』だとはかぎらないことを示唆している点である。ジェンダーとしての『女らしさ』も、過剰になれば狂気になり、ホラーになりうる。その意味でこの映画は、オペラ『蝶々夫人』に現代的で斬新な解釈の光を投げかけるのである」(203頁)と指摘しているのは、きわめて興味深い。

 こうしてオペラ『蝶々夫人』の系譜を「オリエンタリズム」と「ジェンダー」という二つの道具立てで解剖をしてみせた点で、読みごたえがあった。

【データ】
 著者:小川さくえ
 発行所:法政大学出版会
 発行:2007年10月5日初版第1刷発行
 本体価格:2200円

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