楽興の時・音の絵

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■映画「北辰斜にさすところ」
2007年12月23日(日) シネマスクエアとうきゅう

 戦後60年、85歳を迎えようとしている上田勝弥(三國連太郎)のもとに、「五高七高対抗戦百周年記念試合」の案内状が届く。かつて第七高等学校の野球部のエースとして活躍し、その後軍医として出兵、戦後は開業医を営み、今は悠々自適に老後生活を過ごす勝弥。せっかく野球部の仲間たちが、勝弥の故郷・熊本県人吉市の球場で開催することに決めたその試合だったが、勝弥は「ワシは行かんよ」と断ってしまう。実は、彼には最も尊敬し、慕った同郷の先輩・草野正吾(緒形直人)を、なす術なく戦場に遺して帰ったという辛い過去を抱えており、いまだにその懺悔の思いを断ち切れずにいたのだ。そして記念試合の日が刻々と迫ってきた――。(cinemacafe.netから)

(以下、ネタバレ注意)
 「北辰斜にさすところ」という標題は、鹿児島の旧制第七高等学校の寮歌に由来する。作品は冒頭、ファイアーストームで七高生たちが寮歌を放歌高吟し踊り狂うところから始まる。さらに1926(大正15)年、熊本で七高と五高との野球試合がおこなわれ、七高応援団が五高の寮歌をばかにしたため、熊本市民を巻き込んだ騒動になる逸話も紹介される。

 前半は、それから後、日本が中国との戦争に突入しようとした時代に、七高で学生生活を送った三國連太郎扮する上田勝弥を中心に、バンカラながら文武両道にいそしみ、女性には純情な旧制高校生たちの学生生活を表現。後半は、その旧制高校生の多くが戦争で命を散らしていく様を描く。勝弥の弟の勝雄は沖縄戦で戦死してしまう。勝弥は九州帝大に進み、軍医として南方に派遣される。そこで野戦病院の部隊に命令が下り、瀕死の草野を戦場に置き去りにして転戦せざるをえなかったことが、心の傷になっていることが浮き彫りにされる。神山監督の演出は、さすがに「月光の夏」「ひめゆりの塔」「三たびの海峡」などの作品を残してきた監督らしく、戦争の悲劇を声高でなく丹念に告発する。

 指宿の海岸で孫・勝男(林征生)にたいして、勝弥が「帰ってこられない者がいっぱいいるんだ」と語る場面がとりわけ印象深い。三國連太郎の重厚で抑制のきいた演技が光る。神山作品でおなじみの緒方直人が旧制高校生役というのは年齢的にもちょっと無理ではないかと思っていたが、それなりにはまっている。また、勝弥とバッテリーを組んだ相手で「記念試合」を前に亡くなってしまうキャッチャー西崎(織本順吉)をはじめ、七高OBを演じる神山繁、滝田裕介、土屋嘉男、犬塚弘、高橋長英、五高OBを演じる樋浦勉、鈴木瑞穂らが渋い。特に神山の「暴走老人」ぶりにびっくり。西崎の妻に扮する佐々木すみ江、勝弥の子息を演じる林隆三が脇を締めている。個人的には「若い広場」以来のファンであり、最近は原爆小頭症問題の研究でも注目している斉藤とも子さんの健気な母親姿がよかった。犬塚の演じる「天本」は、あの仮面ライダー・死神博士でおなじみ天本英世氏がモデルというのも驚きだ。

 バンカラな寮歌の世界というのは苦手だし、女子禁制の寮生活のなかで「デカンショ(デカルト・カント・ショーペンハウエル)、デカンショで半年暮らす」とうたわれた旧制高校のエリート教育が、日本の進路を正しくリードする力になり得なかったことを、われわれは知っている。そういう意味で作品世界にのめりこめない面があることを告白せざるをえない。また、部分的に鹿児島や人吉の名所案内的場面が挿入されるところは、ご当地映画独特のゆるい感じもある。最後の「記念試合」の場面は賛否が分かれるかもしれない。しかし、当時の若者が多く戦場で命を散らしたことへの悲しみを受けとめたい。

 余談だが、プログラムの巻末の協力者一覧のなかに、鹿児島大学に進んだ高校時代の同級生の名前を見つけた。こういうかたちで文化を支援する友人がいるのは実に嬉しい。

【データ】
 監督・脚本・製作:神山征二郎
 製作:廣田稔
 原作・脚本:室積光『記念試合』(小学館刊)
 プロデューサー:鈴木トシ子

 上田勝弥(七高伝説のエース、開業医):三國連太郎
 草野正吾(ミスター七高生):緒形直人
 上田勝弘(勝弥の息子、開業医):林隆三
 橋本富子(勝弥の長女):佐々木愛
 上田勝弥(青年時代):和田光司
 上田勝男(勝弥の孫、高校三年生):林征生
 上田勝雄(勝弥の弟):笹村浩介(特別出演)
 西崎京子(七高生のマドンナ、西崎浩一の妻):清水美那
 露崎真知子(エレベーターガール):大西麻恵
 本田一(七高OB、東京七高会の幹事長):神山繁
 海路政夫(七高OB、同窓会委員):北村和夫
 西崎浩一(勝弥の女房役だったキャッチャー):織本順吉
 村田聡(七高OB):滝田裕介
 赤木吾郎(七高OB):土屋嘉男
 真田喜信(七高OB、鹿児島七高会の事務局長):坂上二郎

 2007年・日本映画 111分

■樋口隆一編著『進化するモーツァルト』(春秋社)

 本書は、モーツァルト生誕250年にあたる2006年11月、明治学院大学で開催された国際シンポジウム「モーツァルトの大衆性」において、内外の研究者によって発表された論考をテーマ別に再構成したもの。もっとも、それぞれの論考は、活字化するにあたり当日の発表の内容からかなり手を入れたようだ。所収論文は以下のとおり。
 G・グルーバー「2006年の視点から見たモーツァルト受容史」
 M・H・シュミット「音楽祭創設以前のザルツブルクのモーツァルト受容」
 O・ビーバ「モーツァルトとヴィーンの聴衆」
 O・パナーグル「文学におけるモーツァルト像」
 海老澤敏「日本のモーツァルト受容」
 星野宏美「モーツァルトとメンデルスゾーン」
 福田弥「リストがとらえたモーツァルト像」
 M・シュミット「二十世紀ヨーロッパ音楽におけるモーツァルト受容」
 西川尚生「ラノワ・コレクションのモーツァルト資料」
 樋口隆一「日本のモーツァルト伝承」

 興味深かった論及をいくつかとりあげたい。テュービンゲン大学のマンフレート・ヘルマン・シュミットの論文は、タイトルの「音楽祭創設以前」という記述から1920年の第1回「音楽祭」直前のことかと思うとさにあらず、18〜19世紀のザルツブルクの話だった。モーツァルトのオペラのうち生前もっとも成功したのは「後宮からの逃走」で、1784年から死後の1803年にかけて20回上演されている(24頁)。しかし、モーツァルトのヴィーンとプラハで上演された残りのオペラに関しては、作曲者の死後になってようやく上演されるようになった。ザルツブルク初演の年次をみると「劇場支配人」「ドン・ジョヴァンニ」「魔笛」が1797年、「フィガロの結婚」が1798年、「皇帝ティートの慈悲」が1803年…。シュミットは「特徴的なのは、《コシ・ファン・トゥッテ》が欠けていることである。もしこのオペラが、宮廷知識人が支配する故郷から見はなされたのだとすれば、それは、この作品が未だに改善の必要な、不謹慎な出し物だったからにほかならない」(25頁)と指摘する。

 シュミットはまた、「重要なのは、モーツァルトのイタリア語オペラが、ザルツブルクではすべてドイツ語のジングシュピール形式によって、すなわちレチタティーヴォなしで上演されたことである。レチタティーヴォの代わりに、テクストは話し言葉の散文体に変更された。このやり方はドイツ語圏およびボヘミア、ハンガリーにおけるモーツァルト作品の普及に特徴的なものであり、公衆用に作品を移し替える際の一つの指標でもあった。モーツァルトのオペラは宮廷の領域を離れ、市民的聴衆の教養財産となったのである」(25頁)と解明している。以前、ある友人との会話で“モーツァルトのダ・ポンテ三部作は当時、ドイツ語圏でもイタリア語で上演されたのか?”という話題になったが、少なくともヴィーンのような「国際都市」でないザルツブルクではドイツ語で上演されていたということらしい。

 次に、ヴィーン楽友教会のオットー・ビーバの論文は、モーツァルトの予約演奏会の聴衆層について考察している。ビーバは、1784年3月に開かれた3回の「予約演奏会」の会員リストをみると、3回まとめて予約した176人について「そのほとんどが貴族であることから、モーツァルトの聴衆は主に貴族階級であったという誤解をしばしば生んできた」が、実際はそうではなかったという。つまり「演奏会主催者としてのモーツァルトを予約によって財政的に支えていたのは、確かに主に貴族階級だったが、当日券や立ち見席を買った人々は主に市民階級であった。彼らは、予約会員リストには載っていないが、演奏会を実際に聴いたのである」(36頁)、「言い換えれば、モーツァルトの聴衆には貴族階級と市民階級、三回の演奏会すべてを予約購入した人々と一回ごとの演奏会の当日券を購入した人々の両方がいた」(37頁)というわけだ。また、傑作オペラ群が上演された「ブルク劇場は、約630の座席があり、立ち見席は規制ないし限定されていなかった」(同)のであり、「観客の中には上級貴族と下級貴族、上流市民と下層市民が混じっており、それぞれの社会階層は、それぞれ決まった場所に席を定めていた」(38頁)という。

 ザルツブルク大学のオスヴァルト・パナーグルの論文は、モーツァルトが文学者にどう受容されたかについて検討する。具体的には、ゲーテ、F・グリツパルツァー、E・T・A・ホフマン、メーリケ、等々。特に後半では、メーリケ『旅の日のモーツァルト』と、プーシキンの『モーツァルトとサリエリ』の2作品について詳しく考察している。さらに、20世紀の作品では、ヘッセ『荒野の狼』とピーター・シェーファー『アマデウス』の2作品に言及している。ヘッセの作品は未読だが、1927年に書かれたこの小説は「1960年代にはアメリカのヒッピー運動にとってほとんど一種のカルト本にまでなった」(68頁)という話は、今まで知らなかったことであり俄然興味が湧く。

 国立音楽大学名誉教授の海老澤敏の論文は、明治以降の日本のモーツァルト受容史を「8つの変奏曲」という気の利いた見出しのもとに考察している。
 第1変奏 徳育変奏曲
 第2変奏 五月の歌またはモーツァルト、自然を歌う
 第3変奏 アイネ・クライネ・ナハトムジーク――日本人モーツァルト愛好家のモーツァルト初体験曲
 第4変奏 短調変奏曲――日本人モーツァルト愛好家の短調作品偏好
 第5変奏 「私のモーツァルト」――自己告白の拠り所としてのモーツァルト
 第6変奏 映画『アマデウス』の衝撃――<モーツァルト歿後200年>を前にしてのモーツァルト像の変貌
 第7変奏 <歿後200年>映画『アマデウス』の余波――<アマデウス・シンドローム>は続く
 第8変奏 新しい世紀のモーツァルト祝年<生誕250年>の只中で――モーツァルト狂騒曲を奏でた日本
 この8つの柱立てを追うだけでも、百数十年の流れがなんとなく見えてこよう。

 海老澤論文で特に興味を引いたのは、第4変奏にて小林秀雄『モオツァルト』が読者に与えた衝撃を紹介しているところで、「このエッセイの純粋、真正な日本的な性格、生粋の日本語的表現によってか、外国語に訳されたことがなく、また、よしんば外国語に訳されたとしても、いかほどの共感、理解を得られるものか、筆者には予測がつかないのが実態である」(91頁)と、海老澤氏が否定的に描いていることだった。第8変奏では、2004〜06年に日本で刊行されたモーツァルト本は100冊にも及ぶが、「研究書や新しい知見を提示し、モーツァルト理解に貢献したと語れる書物は翻訳本も加えて、10点ほどであろうか」(103頁)とのべ、その他の大半が売らんかなの通俗的なものだったとして「モーツァルト大衆化の時代の到来を物語る現象」と皮肉まじりに慨嘆している。「これは日本に特有な<モーツァルト現象>であるかに思われる」という指摘には考えさせられた。

 以上、本書で特に興味深く読んだ論文を「読書ノート」的にまとめたが、率直にいって、「モーツァルトの大衆性」というテーマにそくして彼の音楽と社会とのかかわりについて考察をくわえたものとしては、海老澤氏のユニークな論文を除いて、外国の研究者のもののほうが総じて面白かった。この本に限らず、日本の音楽学研究者の書くものに、えてして視野の社会的な広がりが感じられないのは、どうしてなのだろうか。

【データ】
 編者:樋口隆一
 発行所:春秋社
 発行日時:2007年11月20日第1刷発行
 本体価格:2500円

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