楽興の時・音の絵

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■東京二期会オペラ劇場公演――モーツァルト「フィガロの結婚」
2011年4月30日(土)14時開演 東京文化会館大ホール

 東京二期会・宮本亜門演出の「フィガロの結婚」は、2002年初演、06年再演に続き、今回で3演めになる。筆者にとっては06年に見て以来2回目。意外というと失礼かもしれないが、宮本亜門の「フィガロ」は基本的に奇を衒わないオーソドックスな演出だ。

 「フィガロ」の場合、ジャン=ピエール・ポネルの往年の舞台のように階級対立の側面を強調する演出(20世紀のニューヨークに舞台を移したピーター・セラーズ演出などもそれに含まれよう)がある一方で、男女間の微妙な感情の機微を重視する演出もよく見られる。この宮本演出は明らかに後者だろう。たとえば、第1幕で、アルマヴィーヴァ伯爵とバジリオがそれぞれスザンナに横恋慕する場面などは、二人の男性に両方から引っ張られて苦悶するスザンナを強調するし、第3幕でスザンナが伯爵を誘惑する素振りを見せるところも積極的だ。そうした所作がよくついていて、かつその出入りが自然できびきびしている。こうした人の動かし方の巧さは、演劇・ミュージカル畑で活躍している宮本亜門ならではと言ってよいだろう。

 歌手もなかなか粒が揃っていて良かった。なかでも白眉は、伯爵夫人を演じた澤畑恵美さん。もともとこの人の伯爵夫人を見たくて、この日のチケットを取ったのだが、第2幕の「愛の神様、手をさしのべてください」でも、第3幕の「どこにあるのかしら、甘く」でも、伯爵の愛を取り戻すことを切望する女の情感をドラマティックに、しかし決して表現過剰にならず、格調高く歌い上げている。スザンナの菊地美奈は、伸びやかな歌声を聴かせ、くりくりとよく動く目の表現が上手で、さわやかさと華やかさを兼ね備える。さらにこの日の収穫は、ケルビーノ役の杣友惠子だろう。ズボン役で男の子の衣裳を身につけると、新庄剛志になんとなく似ているのはご愛嬌だが、ルックスもよいし、声量が豊かで安定している。男声陣も、アルマヴィーヴァ伯爵の鹿又透、フィガロの久保和範らが、いずれもきちんと歌いこなしながら、演技面でもきびきびとよく動いていた。全体として、アンサンブル・オペラの良さがよく出ていた。

 評価の分かれるのは、デニス・ラッセル・デイヴィスの指揮ではないだろうか。全体として丁寧な音楽づくりをしていることは分かるのだが、テンポ設定は最近にしてはかなり珍しいくらい遅めのテンポを採用。それが、伯爵夫人の歌をしっとり聴かせるようなところでは良い方に作用するが、第2幕のフィナーレの7重唱のような事態が目まぐるしく展開するところでは、もう少しテンポを速めないと、作品そのもののもつ躍動感を殺してしまうことになりはしまいか。

【データ】
 指揮:デニス・ラッセル・デイヴィス
 演出:宮本亜門
 装置:ニール・パテル
 衣裳:前田文子
 照明:大島祐夫
 振付:麻咲梨乃

 アルマヴィーヴァ伯爵:鹿又透
 伯爵夫人:澤畑恵美
 ケルビーノ:杣友惠子
 フィガロ:久保和範
 スザンナ:菊地美奈
 バルトロ:池田直樹
 マルチェリーナ:清水香澄
 バジリオ:吉田伸昭
 ドン・クルツィオ:渡邉公威
 アントニオ:境信博
 バルバリーナ:砂田恵美
 花娘1:盛田麻央
 花娘2:長谷川忍

 フォルテピアノ:デニス・ラッセル・デイヴィス
 合唱:二期会合唱団
 管弦楽:東京フィルハーモニー管弦楽団

■東京二期会オペラ劇場公演――R.シュトラウス「サロメ」
2011年2月22日(火)19時開演 東京文化会館大ホール

 ドイツ出身のペーター・コンヴィチュニーは、いつも大胆な読み替え演出をおこなうことで知られる。管理人は、この人の演出作品についていえば、これまで「魔笛」「タンホイザー」「アイーダ」、それに東京二期会で上演された「皇帝ティトの慈悲」「エフゲニー・オネーギン」を観ている。権力観や家族観への問いかけ、退廃・混迷した現代世界への風刺に独特の鋭さがあり、大いに得心のいった場合もあれば、必ずしも納得いかなかった場合もあるが、この人の演出なら観てみたいと思わせる磁力をもっていることは間違いない。それだけに、社会の混乱や倒錯した家族関係を題材にした「サロメ」のような作品は、コンヴィチュニーにとって最もふさわしいのかもしれない。

 今回の演出では、第3次世界大戦後の核シェルターをイメージしたような閉塞した空間のなかに、テーブルがいくつも並んで置かれており、その周りで人々は酒と麻薬におぼれ、変態的なプレイにはまっている状況が描かれる。ヘロデはヘッドホンをつけて音楽を聴きながら自分だけにノリノリになっているし、ヘロディアスはテーブルの下に隠れて男とセックスに興じている。ユダヤ人やナザレ人らはいずれも黒のスーツに身を包んでおり、どことなく「マトリックス」風でもある。ヨカナーンは地下の獄中ではなく、テーブルの中央に布の袋を頭に被せられて座っている。そうしたなかで、享楽から身を措いて一人ソファに寝転んで本を読んでいるサロメ。途中の間奏曲では、サロメが男たちに切り裂かれて食べられるカニバリズムが出てきたり、死んだナラボートの遺体に男たちが死姦したりといった、醜怪な場面がこれでもかといわんばかりに登場する。他方、男たちの享楽に対して、サロメとヨカナーンと小姓の3人が舞台の幕の外(手前)に放り出されているという状況も描かれる。

 「7つのヴェールの踊り」では、世の男性客の期待(?)に反して、サロメは踊るけれども脱がない。テーブルの中央にヨカナーンが座っており、その両側に男たちが座っているが、この図柄が想起させるのは「最後の晩餐」にほかならない。そして、サロメが周囲の壁に出口のドアの絵を描き、そこに身体をぶつけて脱出を図ろうとし、他の人物たちもそれを真似ようとする姿も表される。だが、それは果たされず、大方の男たちは最後に倒れてしまう。他方、ヘロディアスはヨカナーンを椅子に縛りつけ、性行為に及んでいる。次第に浮かび上がってくるのは、閉塞状況で刹那的な享楽に陥り、混迷を深めている大人たちに対して、唯一そこからの脱出を理性的に模索しているのが少女サロメだという構図だ。そして、ヨカナーンに恐らくは尊敬の念も含む深い愛情を抱くに到ったサロメは、この閉塞した空間からヨカナーンを救い出すことを決意する。イエスを裏切ったユダとの好対照の構図が浮き彫りになる。少女が決然とした意思をもち、困難な状況を自ら打開していく姿は、コンヴィチュニーが演出した「魔笛」でのパミーナ像とも通じるところがある。「7つのヴェールの踊り」が終わり、男たちが倒れてしまい、ヘロデとヘロディアスが舞台の奥でよりを戻している(?)なかで、サロメとヨカナーンは手で幕を引き、さらに舞台袖に脱出していくのだ。そして最後は父ヘロデではなく、客席の男が「あの女を殺せ」と叫ぶという、相当サプライズの幕切れを用意した。

 こういう演出だから、それぞれの登場人物のキャラクターがくっきりと浮かび上がる。サロメ役の林正子は、立ち姿の美しい方なので筆者はファンなのだが、決して強い歌唱ではないけれども、この動きの多い演出のなかで、理知的かつ意志の強い女性像を表現している。ヨカナーンの大沼徹も、やや声が控えめな印象はあったが、作品本来の性格からいっても、またこの演出のコンセプトからいっても、若々しくたくましい純朴な青年の雰囲気が出ている。ヘロデの高橋淳は、こういうクセのある演出の場合、その設定を照れずに演じきれる力量が発揮され、コミカルな演技といやらしい歌い方が巧い。板波利加のヘロディアスのキャラクターも強烈で、どことなくマツコ・デラックスみたいに見えるのが笑える。

 シュテファン・ゾルテスは、管理人は初めて聴く指揮者だが、1997年以来、ドイツ・アールト音楽劇場(エッセン歌劇場)音楽監督をつとめ、オペラ指揮では定評のある人だそうだ。かなり快速系のテンポ設定で、あまりテンポを揺らすことはしない。歌手の声をかき消さないように、全体としては表現を抑え目にした印象があるが、かっちりと手堅くまとめている。今回の公演のオーケストラは、ピットに入る機会が珍しい東京都交響楽団。この楽団らしいクリアーで引き締まった響きをつくりだし、なかなかの好演だった。

 カーテンコールでペーター・コンヴィチュニーが登場すると、客席からはブーイングとブラヴォーが飛び交ったが、演出家は当然多くのブーが飛ぶことは織り込みずみだったろう。してやったりという感じの笑顔で受け流していた。

【データ】
 指揮:シュテファン・ゾルテス
 演出:ペーター・コンヴィチュニー

 サロメ:林正子
 ヘロデ:高橋淳
 ヘロディアス:板波利加
 ヨカナーン:大沼徹
 ナラボート:水船桂太郎
 ヘロディアスの小姓:栗林朋子
 ユダヤ人1:大野光彦
 ユダヤ人2:岡本泰寛
 ユダヤ人3:与儀巧
 ユダヤ人4:松永国和
 ユダヤ人5:境信博
 ナザレ人1:小田川哲也
 ナザレ人2:西岡慎介
 兵士1:吉川健一
 兵士2:福山出
 カッパドキア人:須山智文
 子役:山中真希
 助演:菅原源
 管弦楽:東京都交響楽団

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■マリインスキー・オペラ公演――リヒャルト・シュトラウス「影のない女」
2011年2月13日(日)14時開演 東京文化会館大ホール

 R.シュトラウスが作家のフーゴー・フォン・ホフマンスタールとの共同作業でつくりあげ、1919年に初演された「影のない女」。国内ではめったに上演される機会のない作品だが、昨年5月に新国立劇場で上演されたのに続き、ワレリー・ゲルギエフ率いるマリインスキー・オペラの日本公演の演目の一つになった。率直に言って、作品の筋書きそのものはあまり共感しにくいが、実演に接する機会が少ないので、出かけることにした。本当は翌日のベルリオーズ「トロイアの人々」の日本初演(演奏会形式)も聴きたかったが、どうしてもスケジュールの都合がつかず、今回の日本公演では「影のない女」だけを観に行くことになる。

 正直なところ、期待値が必ずしも高くない舞台だったのに比して、意外にも結構楽しめた。ジョナサン・ケントの演出は、皇帝と皇后の澄む天上の世界は紗幕を下ろして幻想的に描きだす一方で、バラク家のほうは雑然とした現代の零細な染物工場という装置で、きわめてリアルな場面を設定している。天上の世界では、舞台の真ん中やや下手に大きな木のセットがつりさげられる。これにたいして人間界は、洗濯機や乾燥機などが所狭しとならんでおり、生活感がにじみ出ている。この天上界と人間界との対比が鮮明で、分かりやすい演出になっている。これまで苦手意識をもっていた「影のない女」だが、変な読み替えをせず、適切に現代化を図ったと言えるのではないだろうか。細かいことだが、照明は皇后に影をつけないよう、かなり工夫されていたように思われる。

 歌手は、女声陣が総じて割に良かった。とくに、皇后役のエレーナ・ネベラが伸びやかな声、情感のこもった表現で好演。ヴィジュアル的にもスレンダーな美人で吉。バラクの妻のエカテリーナ・ポポワも、声量が豊かで、倦怠期の主婦の雰囲気を演技面でもよく出している。乳母のエレーナ・ヴィトマンは、ヒール役というべき役どころを表出し、なかなかの存在感がある。これにたいして男声陣のほうは、バラクのエデム・ウメーロフはまずまず。だが、皇帝のオレグ・バラショフは高音がさっぱり出ず、大ブレーキ。どうも風邪でもひいていたのか、「体調不良」という理由で、第2幕から前日にも歌っていたヴィクター・リュツクに交代した。

 ゲルギエフ指揮のマリインスキー歌劇場管弦楽団は、R.シュトラウスの繊細なオーケストレーションを表現するには、いささかバリバリ鳴り過ぎという印象もある。第3幕第3場で石にさせられそうになった皇帝が救われるところなどは、ド迫力の演奏だった。

【データ】
 指揮:ワレリー・ゲルギエフ
 演出:ジョナサン・ケント
 舞台美術:ポール・ブラウン
 照明:ティム・ミッチェル
 映像:スヴェン・オーテル、ニーナ・ダン
 振付:デニ・セイヤーズ

 皇帝:オレグ・バラショフ(第1幕)、ヴィクター・リュツク(第2・3幕)
 皇后:エレーナ・ネベラ
 乳母:エレーナ・ヴィトマン
 バラク:エデム・ウメーロフ
 バラクの妻:エカテリーナ・ポポワ
 王の使者:ニコライ・プチーリン
 宮殿の門衛:オクサナ・シローワ
 鷹の声:タチアナ・クラフツォーワ
 天上からの声:エカテリーナ・クラピヴィナ
 青年の幻影:アレクサンダー・ティムチェンコ
 バラクの兄弟たち:ワシーリー・ゴルシコフ
          アンドレイ・スペホフ
          ニコライ・カメンスキー
 3人の召使:スヴェトラーナ・チュクリノーワ
       エレーナ・ジェレズニャコーワ
       ユリア・マトーチキナ
 児童合唱:杉並児童合唱団(合唱指導:津嶋麻子)

■新国立劇場オペラ公演――團伊玖磨「夕鶴」
2011年2月6日(日)14時開演 新国立劇場オペラパレス

 「夕鶴」というタイトルを見ると、ある人物のくだらないエピソードを思い出す。この人物は20年以上前、定年を迎える前に仕事をリタイヤしたが、そこそこの退職金が入ったため、退職直後は連日のように、中には怪しげなものもある金融商品や不動産取引の勧誘電話や訪問があった。世はバブル経済の時代。利殖にはほとんど関心がなかったので、最初はまじめに断りを言っていたが、相手もなかなか引き下がらない。彼は高校時代、演劇部で「夕鶴」の運ず役をやったことがある。一度試しに「おかね、おかね、……、分からない、あんたの言うことが何にも分からない」と言ったら、相手のほうもこれは変な所に声をかけて拙かったと思ったらしく、すぐに引き下がった。それに味をしめて以来、この対応を繰り返していた。そのことを「ワシは<つう>になって、勧誘を断ってるんや」と自慢げに語っていた。今なら「振り込め詐欺」の撃退にも役立つかもしれない。実は、こういうアホなことをやっていたのは、ちょうど20年前にぽっくり逝った、管理人のろくでもない父親である。

 閑話休題。管理人は、はっきり言って、團伊玖磨(1924〜2001)という作曲家に、あまり良い印象がなかった。別に「素戔鳴」や「建・TAKERU」のような記紀神話に素材をとった作品がアナクロだからといった理由でも、また「ラジオ体操第2」が嫌いだったからでもない。大阪の衛星都市にある我が出身中学の校歌がこの人の作品なのだが、それが何ともつまらない歌だったからだ。1970年代、郊外のベッドタウンの人口急増地帯に開校した公立の新設校で、5年目に校歌をつくるという話が浮上した。詞は公募のコンクールで生徒の母親の作ったものが入選し、誰かに作曲を依頼することになった。学校側は当初ジャズ・ピアニストのS氏に委嘱したが“校歌など作曲できない”といって固辞されたため、團氏に作曲を依頼することになった。ところがその曲は、中学生でももっとマシな曲をつくるだろうと思うような、やっつけ仕事感のぬぐえない陳腐なメロディー。にもかかわらず、それなりの額の作曲料を支払ったと聞く。幼心に「『おかね』ってそんなにほしいものなの?」と思わざるを得なかった。

 本題に移ろう。「夕鶴」は日本オペラでたぶん一番有名な作品だ。ガキの頃、我が家には伊藤京子さんがつうを演じたLPレコードがあったし、今は作曲者自身が指揮した鮫島有美子さんらのCDも持っているが、前に鮫島さんの舞台を見に行くつもりでチケットをとっていたのに、急な出張で行けなくなったという記憶もある。だから、演劇ではその昔山本安英の「夕鶴」を見ているが、オペラ版の生の舞台を見るのは、実は今回が初めての機会となる。

 そして、正直に告白すると、自分でもまさかと思ったが、第1部の途中から結構ウルウルしてしまった(風邪をうつされないように、サージカルマスクをしていたので、鼻水を隠せたのは良かった)。それは演奏の素晴らしさに負うところが大きい。何といっても釜洞祐子さんの「つう」だ。もともと釜洞さんは好きな歌手だが、その清楚な色香が吉。有名な「つうのアリア」は若干セーブモードのように思われたが、与ひょうに「布を織れ!」と言われて以降、家の外に出て「あたしの与ひょうを引っぱらないで。お願い、お願い、お願いします」というあたりから、歌唱への感情の込め方と演技が真に迫ってくる。抗し難い運命に対して、それでも必死で立ち向かおうとする姿が、実に凛としていて気迫に満ちている。さらに、自らの生命と引き換えに布を織ることを決意する場面での、決然とした芯の強さが見事に表現されている。また、第2部での与ひょうに別れを告げて、舞台奥に飛び降りていくまでの歌唱と演技も素晴らしい。何よりこの人は、日本語の発音がきれいなのが良い。与ひょう役の経種廉彦さんも、正確かつ伸びやかな歌唱とともに、演技面でも過度におバカな感じに陥ることなく好もしい。惣ど役の峰茂樹さん、運ず役の工藤博さんも、ベテランらしく安定感のある歌唱。ことに峰さんは声量も豊かで、悪役としての存在感が際立った。

 くわえて、今回の公演で特筆すべきは、高関健指揮東京交響楽団の演奏だろう。引き締まった演奏で、とくに相澤政宏さんのフルート、荒絵里子さんのオーボエのソロをはじめ木管陣が光っていたし、弦のひんやりとした透明感のある響きも印象的。「物欲の主題」での金管に迫力があり、機織りを表現するハープやパーカッションを含め、作品世界を緻密かつダイナミックに表現していた。CDでは分からない、オケの部分の力強さや細やかな表現がよく伝わってきた。

 栗山民也氏の演出は、下手側に曇ったアクリル板によって温室か何かのような壁をこしらえており、上手の手前につうと与ひょうの家があるが、リアリスティックではなく、かなり抽象的な舞台。舞台の中央には葉の落ちた細い木が1本立っている。下手のアクリル板の壁の一カ所に出入口が設けられており、そこが都市や貨幣経済との出入口を象徴的に表現しているのだろう。先に釜洞さんの演技にふれて書いたが、第1部での「あたしの与ひょうをひっぱらないで」あたりの演技の付け方が実に動的だし、第2部のつうの別れを告げる場面にも惹きつけられた。つうと与ひょうというカップルの感情の動きを丁寧かつ細やかにつくりあげている。舞台はまったく動かないが、白、青、オレンジなどで情景に変化をつける照明も美しい。

 というわけで、たいへん満足度の高い舞台となった。中年オヤジになって心根がずいぶんひねてきたとはいえ、思いがけず「夕鶴」のような作品に素直に感動してしまった自分に驚いた。それはやはり公演の水準が高かったからだろう。團伊玖磨氏についても評価を多少改めることになった。

 ところで「夕鶴」は日本の代表的なオペラにもかかわらず、かつてLD時代に鮫島さんの舞台(鈴木敬介演出)が発売されたが、いまは入手できる映像ソフトがない。これは持論だが、文化庁と新国立劇場は、こういう作品こそ、きちんと映像ソフト化する予算をつけて、海外に発信すべきではないのだろうか。「クール・ジャパン」は漫画やアニメ・ゲームだけではないだろうに――。そのことは最後に強調しておきたい。

【データ】
 指揮:高関健
 演出:栗山民也
 美術:堀尾幸男
 衣裳:植田いつ子
 照明:勝柴次郎
 振付:吾妻徳彌

 つう:釜洞祐子
 与ひょう:経種廉彦
 運ず:工藤博
 惣ど:峰茂樹

 管弦楽:東京交響楽団
 児童合唱:世田谷児童合唱団

■新国立劇場オペラ公演――リヒャルト・ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」
2010年12月28日(火)17時開演 新国立劇場オペラパレス

 管理人にとって2010年最後の舞台芸術鑑賞は、新国立劇場の「トリスタンとイゾルデ」になった。モネ劇場音楽監督を経て、リヨン歌劇場首席指揮者として活躍し、文化功労者に選出されたばかりの大野和士の指揮ということで、チケットは発売早々に売り切れていた。国内では、今年10月の沼尻竜典指揮大阪センチュリー響(びわ湖ホール)、来年7月のアルミンク指揮新日本フィル定期(すみだトリフォニーホール)と「トリスタンとイゾルデ」の公演が3つ続くことも、注目を集めていた。

 指揮の大野和士と演出のデイヴィッド・マクヴィカーとのコンビといえば、モネ劇場を引き連れての凱旋公演で上演された「ドン・ジョヴァンニ」がそうだった。マクヴィカーは、あの時もそうだったが、今回の「トリスタンとイゾルデ」でも、全体として暗い舞台をつくっている。今回の場合、それは昼の虚飾にたいする「夜の国」――死への憧憬ともつながる――を具体化したということなのだろう。ショーペンハウアーの厭世哲学の書『意志と表象としての世界』の世界観を可視化したものということもできようか。もう一つの特徴は、3つの幕ともに、舞台に水を張った舞台にしたことだ。第1幕では、暗い闇の中に、ぽっかりと丸い光が浮かんでいて、周囲が暗いので最初は月なのかと思っていたが、次第に赤くなってくるので、太陽だと分かる。そういう形で、虚飾の昼の光を強調している。そして、舞台奥から難破船のような舟が水の中を動いてきて、手前の岸壁に接岸するという動きをする。第2幕では、やはり水を張った暗い舞台のなかに、舞台の上手奥から下手の手前に向かって花道のような通路がつくられている。第3幕は、舞台の手前がカレオールの城で、舞台奥に水が張られている。

 ただ、演出家は水にこだわっているが、第1幕と第3幕はともかく、マルケ王やメロートらが森の中に狩りに出かけていく第2幕の場合、たしかに「せせらぎの流れ」のような歌詞は出てくるものの、舞台に水を張る意味は分かりにくい。また、助演の家来たちが「アイーダ」のエジプト兵士のような衣裳をつけていたのと、第1幕最後の「てっぱん踊り」のような妙ちくりんな所作をはじめ、動きがいかにもチョコマカとうるさいのは、視覚的に違和感が残った。さらに、第3幕の幕切れで太陽が沈んでいくのだが、それが下手側に落ちるというのは、シドニーのオペラハウスならともかく、日本の新国立劇場では具合が悪いのではないだろうか(「♪西から上ったお日様が東に沈む〜」という感じがしてしまう)。こうしたいくつかの疑問は残るが、演出全体は割にオーソドックスで、分かりやすいものといえるだろう。

 演奏は、全体として充実した公演だった。大野和士の指揮についていえば、もっと淡々と進むのかと予想していたら、意外にもテンポを遅めにとって、かなり濃厚な音楽づくりをしていた。同時に、ここぞというところは思い切ってテンポをあげるというように、緩急の振り幅を大きくするとともに、聴かせどころはかなりオケを煽り、メリハリを効かせている。たとえば、第1幕では、トリスタンとイゾルデが媚薬を飲んで以降はテンポを一気に上げて、二人の愛と官能の高揚をドラマティックに印象づける。第2幕も「愛の二重唱」はたっぷり聴かせ、マルケ王一行が登場してくるところは速めのテンポにして畳みかける。さらに「マルケ王の嘆き」は相当遅いテンポ設定にして、マルケ王の苦悩をこれでもかというくらいに纏綿と聴かせる。第3幕の「愛の死」でのオケの高揚も印象的だ。このあたりは、オペラ指揮者としてキャリアを積んできた大野和士の鋭い感覚が発揮されたものと言えるだろう。きびきびとキューを出す様子も見られ、おそらく歌手は歌いやすい指揮だったのではなかろうか。ただし、合唱について、完全にPAだのみにしていたのは、音楽的な処理としてはいかがなものか。カーテンコールでも合唱団と合唱指揮者は一切出てこなかったので、なおさらそのあたりの事情が気になってしまった。

 東フィルは大野の指示に応えようとしており、第1幕ではアンサンブルの悪さ、響きの薄さが多少気になったが、第2幕以降は、弦の厚みと艶のある響きが聴かれ、「マルケ王の嘆き」のクラリネットなど木管も充実していた。ただ、金管楽器陣にはイライラさせられた。第1幕でも、二人が「トリスタン」「イゾルデ」と言って抱き合う直前のところでホルンがずっこけたし、第2幕冒頭の狩りの角笛や、幕切れ近くのトランペットなど、肝心のところがきちんと決まらないのは困る。ジャンプの着地に失敗したフィギュアスケートみたいで、これでは減点対象とされても致し方あるまい。

 歌手は全体として充実。イゾルデ役のイレーネ・テオリンは、第1幕ではいささか叫ぶ感じの歌唱だったし、「愛の死」はもっと情感が表現された方がよいと思ったが、第2幕はとりわけ素晴らしかった。それにこの人はなかなか細やかな演技力があって、とくに目力が凄い。トリスタン役のステファン・グールドは、第1幕の「イゾルデ!」がかすれ気味で一瞬ヒヤッとしたが、全体としては安定感のある力強い歌唱で、さすがと思わせた。この二人による第2幕の二重唱は、抜群の聴きごたえがあった。クルヴェナール役のユッカ・ラジライネンは、第1幕は酔っ払った感じで登場するなど不思議な役づくりだったが、渋ごのみの歌唱で要所を締めた。ブランゲーネ役のエレナ・ツィトコーワは、声はよく飛んでくるし、今回は常にイゾルデの行く末を案じている若い侍女という感じを演技面でも巧く表現しており、意外に良かった。マルケ王のギド・イェンティンスは、杖をついて相当年配のおじいさんという役づくりをさせられていた(管理人は「マグマ大使」のアースを思い出した)のは疑問だが、深々とした歌唱で、第2幕の「マルケ王の嘆き」でも、第3幕でもひきつけるものがあった。

 演出・演奏とも若干の注文的な感想をのべたが、それでも客席の集中力を途切れさせず、密度の高い公演だったことは間違いない。ただ、幕切れの拍手は、まだイゾルデに照明が当たっていた間だったので、明らかにフライングである。45分の休憩を2回はさんで、5時間40分以上の長丁場。終演後、カーテンコールまで終わると、22時50分になっていた。急ぎ足で帰宅したが、日付変更線を超えていた。

【データ】
 指揮:大野和士
 演出:デイヴィッド・マクヴィカー
 美術・衣裳:ロバート・ジョーンズ
 照明:ポール・コンスタブル
 振付:アンドリュー・ジョージ

 トリスタン:ステファン・グールド
 マルケ王:ギド・イェンティンス
 イゾルデ:イレーネ・テオリン
 クルヴェナール:ユッカ・ラジライネン
 メロート:星野淳
 ブランゲーネ:エレナ・ツィトコーワ
 牧童:望月哲也
 舵取り:成田博之
 若い船乗りの声:吉田浩之

 合唱:新国立劇場合唱団
 管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

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