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■東京室内歌劇場40期第120回定期公演「夜長姫と耳男」
2008年7月27日(日)15時開演 第一生命ホール

 間宮芳生(1929〜)といえば、日本の民謡やわらべうた、平曲や義太夫などを素材にした民俗的な作風で知られるが、オペラも4作つくっており、4年前に新国立劇場でも上演された3作目の「鳴神」が代表作だろう。今回上演されたのは、大岡信の詩をテキストにして1985年に作曲されたモノオペラ風の作品「おいぼれ神様」と、坂口安吾の小説をもとに1990年に作曲された「夜長姫と耳男」の2作品だった。

 第1部の昔噺「おいぼれ神様」は、この世をつくった神様がおいぼれてしまい、居眠りしながら煙草を吸っていて、火事を起こして地上に落ちてきて、ただのスケベ爺になってしまい、男たちに殴られて死んでしまう、という珍妙な筋書き。義太夫節のような太棹三味線の導入が印象的で、祭囃子のような展開になるかと思えば、ジャジーなブルース風の音楽も登場するなど、千変万化のユニークな作品だ。キャラクター・バリトンのベテラン竹澤嘉明がユーモラスに表現し、ところどころ歌詞の分かりにくいところはあったが、楽しく聴けた。

 第2部のオペラ「夜長姫と耳男」のあらすじは以下のとおり。
 夜長長者の娘・夜長姫のために、飛騨の仏像彫りの匠である耳男は弥勒菩薩の制作を依頼される。耳男の目に映る姫は、冷たく残酷。耳男は持ち前の大きな耳の片方を、戯れから切り取られてしまう。果たして、姫の無垢なる残酷の持つ意味は何なのか? 蛇の生き血をすすりながら、耳男が三年かけて彫り上げた弥勒菩薩のおぞましき姿の意味するものは? そして、耳男にとって姫とは結局何者であったのか? グロテスクな現実と夢幻的な世界のなかで、死を賭した愛と創造の姿が明らかになってゆく。(公演チラシ掲載の長木誠司氏の一文より)

 第1部とはうって変わって、こちらは狂気の世界だ。7つの場面からなるが、第7場に原作にはない「かけ踊り」の場面がつけくわえられているのと若干のカットがあるのを除けば、原作の坂口安吾の同名小説(講談社文芸文庫『桜の森の満開の下』所収)を比較的忠実にオペラ化している。音楽的には、バスクラリネットのソロと拍子木による開始が印象深く、室内楽編成の小楽団による緊迫感ある音楽が展開され、尺八のようなフルートソロ、激しいパーカッションのリズムなどが耳に残る、シャープな作風の音楽といえるだろう。

 演出は中村敬一。舞台装置は簡素だが、彼岸花が咲き乱れ、中央に半透明で反射性の高いアクリル板で奥と仕切るしかけがつくられている。彼岸花は「死人花」といわれたりもするから、やはり坂口安吾の「桜の森の満開の下」と同じく「死」のイメージを強調するものだろう。彼岸花や夜長姫の赤い着物と一体のように、赤い照明を効果的に使い、血のイメージを一貫して見せるところは秀逸だ。照明の当て方によって、アクリル板に耳男の姿が鏡のように映し出される時もあれば、その奥に夜長姫やエナコの姿が映し出されるという趣向も、作品の狂気の世界、耳男の想念と彼の運命を掌る女たちの情念を表現しているようで、なかなか巧みだ。ただし、耳男が蛇をつかまえてはその生き血をすするという狂気性の表現は、所作だけで表現されるので、いささかわかりにくい。もっとも、蛇のリアルなゴムの複製などがでてくるグロテスクな演出よりははるかにマシなのだが。

 演奏では、夜長姫の大貫裕子は、初めて実演に接する歌手だったが、跳躍の多い難しい歌唱を巧みにこなして好演。チャーミングな童顔も、無邪気な中に狂気をたたえた夜長姫の役柄に合っている。エナコの松本薫も出番は多くないが、鮮烈な声で夜長姫の化身のような印象を与える。耳男の太田直樹は声がよく出ているし音程も正確だが、とくに前半では歌詞がいささか聴きとりづらかった。夜長の長者の吉田伸昭も、一部高音に難があったが、芸達者ぶりを示した。初演の時にピアニストとして参加した寺嶋陸也は、今回は指揮者として室内楽的なアンサンブルを手堅く、かつシャープにまとめあげた。

 ともあれ、こういう珍しい日本の作品をきちんと上演する「東京室内歌劇場」の努力は、大いに注目したい。プレトークには長木誠司氏を聴き手に、作曲者の間宮氏本人がお出ましになった。来年で80歳にはとても見えない、明晰で軽やかな語り口に脱帽する。

【データ】
第1部=間宮芳生:昔噺「おいぼれ神様」(21')
 詩:大岡信
 バリトン:竹澤嘉明
 演奏:東京室内歌劇場アンサンブル
 太棹三味線:田中悠美子
 笛:中川昌巳
 打楽器:山口恭範
 ピアノ:ゆう間郁子

第2部=間宮芳生:オペラ「夜長姫と耳男」(69')
 原作:坂口安吾
 台本:友竹正則
 指揮:寺嶋陸也
 演出:中村敬一
 夜長姫:大貫裕子
 耳男:太田直樹
 夜長の長者:吉田伸昭
 アナマロ:多田康芳
 エナコ:松本薫
 助演:志子田憲一/丸山亮
 太棹三味線:田中悠美子
 ヴァイオリン/ヴィオラ:手嶋志保
 チェロ:松岡陽平
 フルート1st:中川昌巳
 フルート2nd:西村いづみ
 クラリネット/バスクラリネット:伊藤紀江
 パーカッション:山口恭範
 ピアノ/チェンバロ:藤原弥生

■パリ国立オペラ公演「アリアーヌと青ひげ」
2008年7月23日(水)18時30分開演 オーチャードホール

 ヨーロッパ・オペラ界の「改革派」の旗手というべきジェラール・モルティエ総裁率いるパリ国立オペラの初来日公演。兵庫での3公演に続く東京公演の初日は、ポール・デュカス「アリアーヌと青ひげ」が取り上げられた。演目の珍しさのせいか、空席もそれなりに目立ったが、初日の華やかさのなかにも、凝った演目に駆けつける客層の独特の雰囲気が感じられる。宮本亜門氏の姿を見かけたと思ったら、なんと新国立劇場人事騒動の渦中にある鵜山仁氏まで来ていたようだ。

 デュカス(1865〜1935)といえば、「魔法使いの弟子」と交響曲、それにバレエ音楽「ラ・ぺリ」くらいは聴いたことがあるが、「アリアーヌと青ひげ」の実演は初めてだった。ひょっとすると、今回の公演を逃すと観る機会はないかもしれない。この作品は、もともとモーリス・メーテルランク(1862〜1949)がオペラ化を前提に執筆した戯曲をもとにつくられ、1907年に初演されている。ヨーロッパで語り伝えられてきた「青ひげ伝説」を素材にしているが、バラージュの台本によるバルトーク「青ひげ公の城」と違い、主人公のアリアーヌが青ひげ公によって幽閉された先妻たちを救いだす明確な意志をもった存在だということだろう。その主張と行動は女性解放運動家のようにも見える。

 女性演出家アンナ・ヴィーブロックは、中世の城ではなく、20世紀の公共建造物の内側のような装置をこしらえている。これを公演パンフレットの解説は「現代の工場」と書いているが、間違いではないとしても適切なのだろうか。工場といってもせいぜい縫製の作業場という感じだし、白っぽい骨組が目立ち下手の窓には板が打ちつけられていることから、精神病院か療養所の共同作業場というような設定ではないだろうか。

 前奏曲が終わり、上手からアリアーヌと乳母が近づいてきて、乳母が第一声を発すると、作業場のそれぞれの個室にいる5人の女たちは部屋のなかで身を隠す。アリアーヌはフェミニズム派のジャーナリストといった設定だろう。薄暗いなか、2人は懐中電灯をもって部屋を一つずつ探索し、6つ目の部屋でケースの中からダイヤモンドの装飾品を見つけるが、背後に青ひげが忍び寄ってくる。舞台の上手側には、装置のなかに置かれたいくつかのカメラの映像が、時々切り替わりながら映しだされる。ミステリードラマのような趣向でもあり、また、監視カメラの映像のようにも見えて、作品世界の不気味さを印象づける(ただし評者は、フーコーのいう「パノプティコン」にも擬せられる監視カメラのように見せるのなら、もっと画面が頻繁に切り替わってもよいと思う)。だが、第1幕の幕切れでは民衆たちの「あいつを殺せ」という声が聞こえ、上手の袖から強い光がさしこんでくる。

 休憩なしで第2幕に入ると、青ひげは上手のドアを開け、7番目の部屋へ姿を消す。乳母が各部屋の女たちを懐中電灯で照らしだし、彼女たちは1番目の部屋に集まってくる。アラディーヌだけは、ひとり5番目の部屋に半ば隠れているようだ。音楽の高揚のなかで、アリアーヌは下手の窓に打ちつけられた板を破る。そこから光がさしこんでくるが、女たちはうずくまっている。それは自分たちの奴隷状態に精神的に拘束されているようでもある。アリアーヌは「私は暗闇に落ちていく」と歌い、6番目の部屋の寝台に身を横たえる。その後、5人の女たちの合唱を経て、アリアーヌと女たちは建物から外の世界に降り立つところで、第2幕は終わる。

 第3幕では、5人の女たちはそれぞれ外行きの美しい衣装に着替える。メリザンドはドレッサーの前で髪をといており、アラディーヌは東洋風のカラフルな衣装だ。だが、外が騒がしくなり、石つぶてがぶつけられたような音がして、舞台奥の壁が何カ所か破られる。女たちはあわてた素振りをみせるが、アリアーヌだけは6番目の部屋で黙々と図面を引いている。乳母の叫びにも似た突き抜ける声がすると、上手から3人の農民に小突かれるようにして、手首をロープで縛られた青ひげが入ってきて蹴り倒される。カメラは横たわる青ひげを映しつづけている。農民たちが引き揚げた後、アリアーヌは5人の女たちにここから出ていくことを働きかけるが、彼女たちは壁の穴をふさぎ、「ノン」という仕草をして、そこにとどまり続ける意志表示をする。アリアーヌは青ひげのロープをナイフで切ってやり、乳母とともに上手に退出していくところで、幕切れとなる。

 公演パンフレットの解説は、この結末を指して「危険も顧みず奮闘した彼女は、ついに妻たちの解放に成功する。しかし、その献身的な行動が実は無用であったと悟り…。」と書いている。それは、作曲者自身が1910年に記した一文に、原作の副題が「無用の解放」とあることから「自らの英雄的な献身が誰にも必要とされない」主人公の葛藤を音で雄弁に語らせた、と綴っていることによるもののようだ。だが、アリアーヌの登場と民衆のデモンストレーションをへて、それまで家父長的抑圧を5人の女たちにくわえていた青ひげの権威は地に落ちてしまったのだから、おそらく青ひげと女性たちの力関係は従来のままではないだろう。ヴィーブロックの演出は、観客にそうした印象をも与えることによって、デュカスの作品世界を再解釈し、作曲者の意図を超えた世界観を提示しようとしたのではなかろうか。初演から100年の間に、女性や社会的弱者にたいする暴力的抑圧にたいしては強力な制裁がくわえられる程度に、世界は変化してきたということを――。

 演奏について。今回の公演でパリ国立オペラ管弦楽団は、精鋭部隊を送り込んできたと聞いた。現代音楽を得意とするシルヴァン・カンブルランの統率のもと、迫力はあるが、決して重たくならず濁らない独特の響きが素晴らしく、一部にアンサンブルの粗さは見られたものの、20世紀初頭のデュカスによるドラマティックな作品世界を堪能することができた。歌手では、なんといっても2時間余出ずっぱりで、しかもその大半を歌っているデボラ・ポラスキの歌唱が見事。ややヴィブラートが大きい感もあるが、強靭な声と表現力でひきつける。彼女抜きでこのプロダクションはあり得なかっただろう。乳母のジェイン・ヘンシェルは、ポラスキに対して控えめに徹していたが、第3幕で青ひげが戻ってきたことを告げる叫びのような声は、場内を突き抜け、鼓膜がびりびりというような衝撃力を感じた。青ひげのウィラード・ホワイトは歌う場面が少ないが、深々とした歌唱が印象的。5人の女たち、3人の農民まで含めて、穴になっているところがないあたりも、公演の水準の高さを物語っている。

 全体として、強い感銘とまでは至らなかったものの、観た甲斐のある公演だった。だが、休憩時に知人と駄弁っていた時に、小耳にしたところでは「演奏は素晴らしいが、演出が合っていない」と文句を言っている声もあったようで、演出界の某大家(冒頭に名前を挙げた方々ではないので念のため)なども憤慨していたとか…。だが、大胆な読み換えというほどでもない演出に、なぜそんなに文句をいうのかが、さっぱりわからない。もちろんこの演出に批判はあってよいのだが、そもそもモルティエがもってきた時点でムジークテアター的な舞台になることは織り込みずみのはずだし、多様な解釈が可能なメッセージの強い作品だ。こういう公演にやってくるセレブ系観客や頭の固い一部業界人は、それをまず虚心にとらえ、考えてみようという発想が必要ではないだろうか。

【データ】
 指揮:シルヴァン・カンブルラン
 演出・装飾・衣裳:アンナ・ヴィーブロック

 アリアーヌ:デボラ・ポラスキ
 青ひげ:サー・ウィラード・ホワイト
 乳母:ジェイン・ヘンシェル
 セリゼット(先妻1):ディアナ・アクセンティ
 イグレーヌ(先妻2):イヴォナ・ソボトカ
 メリザンド(先妻3):エレーヌ・ギルメット
 ベランジェール(先妻4):チェ・ユンジョン
 アラディーヌ(先妻5):ジェヌヴィエーヴ・モタール
 年老いた農民:クリスチャン・トレギエ
 第2の農夫:グレゴーズ・スタスキエヴィチ
 第3の農夫:ユリ・キッシン
 管弦楽:パリ国立オペラ管弦楽団
 合唱:パリ国立オペラ合唱団

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■東京オペラ・プロデュース第82回定期公演―ビゼー:歌劇「美しいパースの娘」
2008年7月13日(日)15時開演 新国立劇場中劇場

 スコットランド出身の詩人・作家のウォルター・スコット(1771〜1832)といえば、「ウェイヴァリ」「アイヴァン・ホー」などの作品で知られ、近代歴史小説の祖とも言われるが、オペラとも関係が深い。いちばん有名なのはドニゼッティ「ランメルモールのルチア」だろうが、ロッシーニの「湖上の美人」や、今回上演されたビゼー「美しいパースの娘」もスコットの原作だ。

 「小さな木の実」という歌が子どものころ、NHK「みんなのうた」で歌われた。高校時代に合唱で覚えたが、2番の後半の「坊や強く生きるんだ/広いこの世界お前のもの」というところが妙に印象に残っている。海野洋司という人が「美しいパースの娘」第2幕のテノールのセレナードに歌詞をつけたものらしい。他方、第3幕のマブと公爵による面妖な二重唱を支えている、場違いなほどに美しいフルートとハープのメロディは劇音楽「アルルの女」に転用され、第2組曲のメヌエットとして有名になった。そんなわけで聴き覚えのある旋律はいろいろ出てくるが、作品自体はめったに上演されない。そのオペラを東京オペラ・プロデュースが日本初演した。あらすじは以下のとおり。

 16世紀スコットランドの内乱の時代。首都パース。ロマの女王マブは男に追われて武具師スミスの家に逃げ込む。そこに恋人キャサリンが来て愛を語る。そこへ領主ロスシー公爵が現われキャサリンを誘惑、マブは怒るスミスの暴力を止めに入る。キャサリンは隠れていたマブをスミスの愛人と誤解し、公爵の誘いに乗りそうに…。マブは公爵に恨みがあり、キャサリンに変装して仮面舞踏会の宮殿に入る。マブの仮装をしたキャサリンが本物と思われ、本物のキャサリンは侮辱と失恋で狂乱するが、マブの告白ですべて判明し大団円となる。(公演チラシより)

 今回の公演を支えたのは二人の女性歌手だろう。ロマの女王マブを演じた岩崎由美恵は、この日一番の好演。明るく伸びやかなリリック・ソプラノで、第2幕の「ロマの踊り」はさらに磨いてほしいが、正確で丁寧、かつ表情豊かな歌唱は好感が持てる。キャサリンの鈴木慶江はかつて「紅白」にも出演した人気歌手だが、今回初めて実演を聴いた。高音にややきついところがあり、ヴィブラートに独特のクセがあるのはあまり好みでないが、声はよく通るし、華のある歌手なので、この役には合っているだろう。

 これに対して男声陣には多々不満が残る。ヘンリーの三村卓也は音程が終始不安定で、高音が当たらず、また伸びきらず、ハラハラさせられることこの上ない。ロスシー侯爵役のヴェテラン工藤博は本来達者な人のはずだが、フランス語に苦労したのか、あまり締まりのない歌唱。そうしたなかで、ラルフの杉野正隆は豊かな声量でひきつけたが、まるでヴェルディ・バリトンのようなドラマティックな表現はいささか過剰にも思われた。公爵の家令にいたっては、なぜ毎度この人に役が当たるのか、観客の立場からすれば奇々怪々というほかないが、大人の事情というやつだろうか。演出と指揮については、とりたてて何ということもない平凡なもの。

 珍しい作品を上演した関係者の奮闘には頭が下がるが、ビゼーのオペラとしては音楽的にも未熟な印象で、名作「カルメン」のように親しまれない理由もわかる気がした。

【データ】
 指揮:松岡究
 演出:八木清市

 キャサリン・グローヴァ:鈴木慶江
 ヘンリー・スミス:三村卓也
 ロマの女王マブ:岩崎由美恵
 ロスシー公爵:工藤博
 ラルフ:杉野正隆
 サイモン・グローヴァ:笠井仁
 貴族:西塚巧
 公爵の家令:白井和之
 合唱:東京オペラ・プロデュース合唱団
 オーケストラ:東京ユニバーサル・フィルハーモニー管弦楽団

 ビゼー:オペラ「美しいパースの娘」(第1-2幕75' 第3-4幕70'、原語上演)

■新国立劇場コンサート・オペラ「ペレアスとメリザンド」
2008年6月29日(日)14時開演 新国立劇場中劇場

 新国立劇場が若杉弘監督のもとで始めたコンサート・オペラの最初の演目として、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」が取り上げられた。今回の公演に関して若杉氏は、東京フィルのコンサートマスター荒井英治氏との対談で、次のように述べていた。

 私が、オペラ400年の歴史でエポックメーキング的な作品と位置づけているものが七つあります。「ポッペアの戴冠」(モンテヴェルディ)、「ドン・ジョヴァンニ」(モーツァルト)、「トリスタンとイゾルデ」(ワーグナー)、「ボリス・ゴドゥノフ」(ムソルグスキー)、「ヴォツェック」(ベルク)、この前本邦初演したばかりの「軍人たち」(ツィンマーマン)、そして今回の「ペレアスとメリザンド」ですね。どれもオペラの概念を広げた名作ばかりです。それ故、本来ならば大規模な装置と衣裳で、宝石のような響きに満ちた「ペレアスとメリザンド」を上演したいところですが、残念ながら、同じフランス・オペラでも、「カルメン」ほどのポピュラリティを有する作品ではない、それも事実なのです。つまり、1800席の劇場で六日間分のお客様を集められるかどうかということですね。だから、今回の「ペレアスとメリザンド」については、まずは、「コンサート・オペラ」の形で、満員御礼を目指して、中劇場での二日間の公演を行うことにしました。(新国立劇場ホームページより)

 本ブログでは、若杉監督体制下のこの1年間、新国立劇場についてかなり辛辣な記事を書いてきたが、決して目の仇にしているのではなく、公正に「いいものはいい、悪いものは悪い」という立場を貫いているつもりだ。新国には多額の税金が投入されているのだから、それだけ納税者から厳しく見られるのは当然だろう。その意味で、若杉氏の「オペラ十八番」をレパートリーとして定着させるべきだという考え方には大賛成だし、今回の「ペレアスとメリザンド」もそうした考え方の一環として注目している。くしくも今年はフルネ指揮日本フィルが1958年にこの作品を日本初演してから、ちょうど50年にあたる。その公演に出かけたが、なるほど中劇場はほぼ満席となっていた。

 「コンサート・オペラ」と銘打つが、オーケストラの定期演奏会などでよくおこなわれるような、楽団の前に歌手が譜面台を置いて横並びというスタイルではない。オーケストラはピットに入り、舞台上には回り舞台を活用して台形の簡素な装置がつくられ、そこで歌手は通例の演奏会用衣裳(男性と國光はタキシード、他の女性はドレス)で登場し、簡単な所作がつく。この形式は物語の展開を理解するうえで助けになるが、歌手は暗譜を要求されるため、準備が不十分だとプロンプターに頼らざるをえなくなる。これは良し悪しで、今回の場合も、第2幕をはじめ、かなりプロンプターの声が聴こえたのは残念。また、演出上でいえば、第4幕の幕切れはゴローがペレアスを倒す山場なので、メリザンドを含む3人が下手にはけるのは、幕をおろしてからにしてほしかった。

 肝心の演奏だが、まずは楽しめる水準だったと言えるだろう。若杉弘指揮の東京フィルはやや響きが重く、もう少し抜けのよい音を望みたいが(中劇場で14型は大きすぎる)、この作品はワーグナーやムソルグスキーの影響を強く受けていて、ドビュッシーの作品としては重厚な部類なので、さほど違和感はない。若杉氏らしい手堅いリードだ。

 歌手は全体として健闘。特にメリザンドの浜田理恵の好演が光る。フランスで活躍している人だけあって発音は明瞭だし、声もよく飛んでくるし、この悲劇的なヒロインの心境を丁寧に歌い上げている。第3幕第1場で歌う「私の長い髪は」はこの作品の聴きどころの一つだが、しっとりとした歌唱で聴きごたえがあった。2008/09シーズンで彼女は、オープニングの「トゥーランドット」でリューを歌うが、今から楽しみだ。男声陣では、ペレアスの近藤政伸は、どうも「蝶々夫人」の周旋屋の印象が強くて、いささか意外な配役だったが、以前も歌ったことがあるらしい。よく通る声が印象に残るが、最高音がややつらいのと、ペレアスのナイーブさとは方向性が若干違う気もしなくもない。ゴローの星野淳も熱演で豊かな声量を誇るが、第4幕第1場でメリザンドにサディスティックな調子で怒りをぶつけるところなどは、抑えきれない苦悩を示すように、表現にさらに深みがほしい。アルケルの大塚博章も健闘したが、タキシード姿だとメイクやかつらでごまかせないので、やや若すぎたかもしれない。ところで、寺谷千枝子はカーテンコールの時、左手で松葉杖をついて出てきたが、どうしたのだろうか。

 演奏や舞台構成に若干の注文はあるものの、こういうスタイルで日本人歌手のレパートリーを増やし、新国立劇場の基礎を固める作業は重要であり、今後の「コンサート・オペラ」の継続と発展に期待したい。

【データ】
 指揮・舞台構成:若杉弘
 合唱指揮:佐藤正浩

 ペレアス:近藤政伸
 メリザンド:浜田理恵
 ゴロー:星野淳
 アルケル:大塚博章
 ジュヌヴィエーヴ:寺谷千枝子
 イニョルド:國光ともこ
 医師/羊飼い:有川文雄

 合唱:新国立劇場合唱団
 管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

■東京二期会オペラ劇場「ナクソス島のアリアドネ」
2008年6月28日(土)14時開演 東京文化会館大ホール

 R.シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」は、本当に難しいオペラだと思う。技術的にも難所が多いのだが、そのことを感じさせずに、この入れ子の作品を愉悦に満ちた舞台に仕上げるというところが難しいのだろう。歌手・指揮者・演出の水準がそろわないと、その面白さが伝わらないという作品でもある。今回の東京二期会の公演について、結論を先に言えば、若手女性歌手たちは大健闘したと思うが、男性歌手はピリッとせず、凡庸な指揮によって音楽の弾けない演奏となり、それが鵜山仁にしては多少ポップな演出ともかみ合わず、何とも不完全燃焼の感をぬぐえなかった。

 今回の公演で何よりも注目は、ツェルビネッタを当たり役としている幸田浩子だろう。同郷の彼女のツェルビネッタを聴きたいために、こちらのキャストを選んだのだが、期待に違わぬ出来だった。何となく冴えない印象で眠気さえ催したプロローグで、彼女が出てきてからは俄然舞台の空気が変わったし、何といっても長大な「偉大なる王女様」のアリアが素晴らしい。最高音がややきつめだったものの、ドイツ語のディクションは良いし、コロラトゥーラの超絶技巧と確かな音程、それに卓越した演技力で満場をひきつけた(アリアが終わらないうちの拍手は困ったものだが)。作曲家役の谷口睦美は、音程がいくぶん下がり気味で、発音も磨いてほしいが、よく通る声で若々しく情熱的な人物像を一生懸命に表現した。また「オペラ」の部分で三重唱を聴かせる増田弥生、木下周子、羽山弘子の3人もなかなかの好演。とくに羽山の高音が美しく印象的だった。これにたいしてアリアドネの佐々木典子は、ドイツ語の発音の的確さや豊かな声量、気品のある表現なのだが、本来力のある人なのに、いかんせん「アリアドネの嘆き」をはじめ、プロンプターの声があんなに客席まで聴こえてくるのは興ざめ。二期会公演についていえば、昨秋の「仮面舞踏会」もそうだったが、やたらプロンプターの声が大きいのが気になるので、改善を望みたい。

 男声陣には不満が残った。そのなかで比較的健闘していたのは、金髪のとさか頭で登場したバッカス役の高橋淳。ドラマティックな声質が求められるこの役に、キャラクターテノールの印象が強い彼がふさわしいのか、聴くまでは疑問だったが、予想外に強い声をだしていた。2〜3年前の一時は相当不調だったが、持ち直したことは喜ばしい。しかし、これ以外の男声陣がピリッとしない。オペラ部分の道化4人はどうも歌が弾けてこず、声量も足りない。前半の音楽教師や上官、舞踏教師もあまり印象に残らない。

 それにも増してつまらなかったのは、ラルフ・ワイケルト指揮の東京交響楽団の演奏。ワイケルトは、堅実で職人的な指揮といえば聞こえはよいが、ただスコアとにらめっこしながら拍子を刻んで交通整理をしているようで、どういう表情の音楽をつくろうとしているのかが見えてこない。特にプロローグが退屈な音楽に終始する。後半で3人のニンフが出てくるあたりから、ようやく音に多少艶とうねりが出てきたが、それまではデュナーミクに欠け、テンポも単調。幸田の好演が光る「偉大なる王女様」でも「のど自慢」のバックバンドのように、ただ邪魔せず付けているだけだ。この作品の愉悦感がさっぱり伝わってこない。

 鵜山仁の演出もあまり面白くない。ピットの上に客席との架け橋をつくり、そこを通じての出入りなど多少の工夫はあるが、結局歌のところになると歌手が正面を向いて歌い、他の登場人物の所作がほとんど止まってしまうという、いかにも日本的な演出。それに上手袖に意味ありげに置いてあった馬は、何を意味するのか分からないまま、後半ではなくなってしまう。後半のオペラ部分の装置は何となく「俊寛」の舞台のようなチープな書き割りなのに、バッカスの登場だけは金をかけてクレーンを使うなど、妙にちぐはぐな印象も残る。ツェルビネッタは生き生きした動きをしていたのに対し、4人の道化たちの振付が中途半端で、歌と同じく弾けた感じが伝わらない。以前、新国立「カルメン」の演出に対し辛口のコメントを書いたが、今回も辛い点をつけざるをえない。鵜山氏はこの間、5月の新国立劇場「オットーと呼ばれる日本人」新制作や、6月のこまつ座「父と暮せば」再演では、いい舞台を見せてくれたのだが、残念なことである。率直に言えば、この短期間にたくさんの舞台を抱えたことに、スケジュール上の無理があったのではないか。

【データ】
 指揮:ラルフ・ワイケルト
 演出:鵜山仁
 装置:堀尾幸男
 衣裳:原まさみ
 照明:勝柴次朗
 振付:謝珠栄
 舞台監督:菅原多敢弘

 執事長:田辺とおる
 音楽教師:加賀清孝
 作曲家:谷口睦美
 テノール歌手/バッカス:高橋淳
 上官:羽山晃生
 舞踏教師:大野光彦
 かつら師:大久保光哉
 召使:馬場眞二
 ツェルビネッタ:幸田浩子
 プリマドンナ/アリアドネ:佐々木典子
 ハルレキン:青戸知
 スカラムッチョ:加茂下稔
 トゥルファルディン:志村文彦
 ブリゲッラ:中原正彦
 ナヤーデ:木下周子
 ドゥリヤーデ:増田弥生
 エコー:羽山弘子
 助演:神野崇、川辺邦弘、頼経明子、渡辺文香

 管弦楽:東京交響楽団

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