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オペラ

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■東京室内歌劇場第42期第128回定期公演――フランチェスコ・カヴァッリ:オペラ「ラ・カリスト」
2010年12月4日(土)18時開演 渋谷区文化総合センター大和田さくらホール

 渋谷のランドマーク、セルリアンタワーの南側に、11月にオープンしたばかりの文化施設に初訪問。やけに長ったらしい名称になったのは、元大和田小学校跡地で「大和田」の地名を残すべきという区民アンケートの結果と、「桜丘」の「さくら」からホールの名前を採ったからだそうだ。今回は行けなかったけれど、最上階にはプラネタリウムができた。2001年に東急文化会館の解体で「五島プラネタリウム」が閉館して以来、9年ぶりに渋谷にプラネタリウムができたということで、テレビの情報番組などでも話題になっていた。

 そのホールで、17世紀のヴェネツィアの作曲フランチェスコ・カヴァッリ(1602〜1676)のオペラ「ラ・カリスト」が日本初演されるというのは、きわめてふさわしいような気がする。ジョーヴェ(ゼウス)に愛されたニンフである主人公カリストが、ジョーヴェの妻ジュノーネの怒りにふれて熊に姿を変えられてしまうが、最後はジョーヴェの力で天空に昇って夜空を彩る星(大熊座と小熊座)になるという物語だからだ。羊飼いのエンディミオーネが、望遠鏡で天体観測するのが好きというキャラクターというのも、うまく合っている。

 管理人にとってバロック・オペラは、日常的な守備範囲の外(今までいくつかの公演は見ているが)にあり、カヴァッリの「ラ・カリスト」もルネ・ヤーコプス指揮によるDVDが出ているようだが、見たことがない。しかし、予備知識がほとんどなくても、じゅうぶん楽しめる公演だった。バロック・オペラといえば、最後は王様の徳を讃えるというパターンのものが多いが、この作品は趣を異にする。神話を素材にした物語とはいえ、男と女の恋愛と嫉妬を描いた作品であり、結構セクシュアルな歌詞も登場したりして、ヴェネツィアでは大衆劇的に上演されたようだ。それだけに、350年前の作品という古さを感じさせない。

 そうした成果をもたらした功績は、指揮者の濱田芳通の力に負うところがきわめて大きいだろう。ルネ・ヤーコプスの薫陶をうけ、自らリコーダー、コルネット奏者として世界的に活躍している。その彼が主宰する古楽アンサンブル「アントネッロ」をリードして、全編すみずみに血の通った生き生きと活力のある音楽を引き出していた。第1幕の最後では、パーカッションのシンコペーションのリズムに乗せて、濱田自身がコルネットを吹き、ジャズの即興演奏のようにノリの良い音楽を聴かせるなど、アイデアと工夫も満載で楽しい。パーカッショニストは技能賞ものだ。

 歌手もそれぞれ健闘し、充実していたのではないだろうか。とくに、ディアーナ役の野々下由香里の格調高く安定した歌唱が見事。BCJの公演などではおなじみの歌手だが、演技力もあるし、舞台姿が堂々としていて美しいのも吉。エンディミオーネ役のカウンターテナー彌勒忠史も、斯界の第一人者だけあって、伸びやかな歌声でひきつける。カリストの末吉朋子は、若干音程の下がるところがあったが、透明感のある歌声がよく、ひたむきな感じが出ていた。その他の歌手もそれぞれ個性を発揮して面白かった。サディリーノの島田道生は「島田夫妻」というオペラ漫才をテレビで見たことはあったが、ちゃんとした仕事をしていた。

 伊藤隆浩の演出については、これまではあまり良いと思ったことがなかった。昔見た「バヤゼット」の時は交通整理しているだけだったし、今年2月の「アーサー王」の説明過剰な演出については、拙ブログで批判的に書いたことがある(http://blogs.yahoo.co.jp/dsch1963/35585433.html)。
 しかし、今回はかなりセクシュアルな要素もある大衆劇としての性格が、それなりに分かりやすく伝わってきた。例えば、ジョーヴェがディアーナに化けてカリストに迫るところを「二人羽織」にも似た「人形振り」のようにして見せるのは、悪くないアイデアだ。女性を象徴する盾をもった黙役と、男性を象徴する矛をもった黙役のからみなども、ご愛嬌の範囲だろう。簡素な舞台装置で今日性をも感じさせながら、照明を効果的に使って美しい舞台に仕上げていた。

【データ】
 指揮:濱田芳通
 演出:伊藤隆浩
 演奏:アントネッロ(古楽アンサンブル)

 自然/パーネ:藤牧正光
 永遠/ディアーナ:野々下由香里
 運命/ジュノーネ:菅野真貴子
 カリスト:末吉明子
 ジョーヴェ:岡元敦司
 メルクーリオ:谷川佳幸
 エンディミオーネ:彌勒忠史
 リンフェーア:加藤千春
 サディリーノ:島田道生
 シルヴァーノ:大澤恒夫
 怒り:岡庭矢宵
 怒り:前川朋子
 熊:宮澤光太朗
 助演:新井健士、野口唯一、工藤真加、辰巳啓子

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■新国立劇場オペラ公演――U.ジョルダーノ「アンドレア・シェニエ」
2010年11月18日(木)19時開演 新国立劇場オペラパレス

 アンドレア・シェニエは、フランス革命期の実在の人物をモデルとしたオペラ。アンドレアは、フランス名前アンドレのイタリア読み。1762年生まれで、詩人として活躍したが、政治的には穏健な立憲君主主義を説くフイヤン派(ラファイエット派)に属した。そのため、マラー、ダントン、ロベスピエールなど共和主義を説くジャコバン派とは次第に対立を強めた。その後、ロベスピエールによる「ジャコバン独裁」が確立したもとで逮捕され、1794年7月25日に処刑された。ちなみに、その3日後の7月28日には、反ロベスピエール派によるクーデタがおこり、ロベスピエールやサン=ジュストが処刑されるにいたる。

 イタリアの作曲家ウンベルト・ジョルダーノは、1867年に生まれ、第2次世界大戦後の1948年に81歳で亡くなっている。今回上演された「アンドレア・シェニエ」は、彼の代表作と言ってよいが、作曲されたのは1896年というから、29歳の時の作品だった。この若さで後世に残る大作を書いたことには、あらためて驚かされる。逆にいえば、後半生は必ずしも成功作を生み出せなかったということでもある。公演パンフレットに収録されている水谷彰良氏の解説「ジョルダーノの生涯と作品」によると、生涯に11のオペラを残しているが、30代までの5作品はいわゆるヴェリズモ作品で悲劇的な物語だ。ところが40代以降は、一転して喜劇的な作品に転換していく。しかし、時代はオペラの人気自体が翳りを見せていく時期と重なっており、後半の喜劇作品はあまり成功していない。1929年の「王様」を最後にオペラの作曲をできなくなり、ムッソリーニに厚遇され、ファシスト政権10周年讃歌(1933年)や、ムッソリーニを作者とする劇「チェーザレ」の付随音楽(1939年)をつくったというような経歴もある。だが、戦後はファシズム協力者という批判を辛うじてまぬかれた。

 今回の上演は、2005年に初演されたフィリップ・アルロー演出の舞台の再演。5年前も見ているが、当時も随分あざとい演出だと思っていたことを、今回も再確認することになった。アルロー演出は時代の置き換えや読み替えはしていない。舞台転換の際の幕は斜めに切れ目が入っていて、それがフランス革命の断頭台をイメージさせる。トリコロールカラーを意識した照明が多用され、斜めになった壁を組み合わせたような抽象的な装置が舞台中央にこしらえられ、それが回り舞台でくるくると回転することによって、時代の荒波に翻弄される人々の姿をシンボリックに描き出す。そういう点はよいとして、やたらギロチンを意識させる演出になっているのは、いかがなものか。1幕ごとに幕切れでは「シャキーン」というギロチンの刃が落ちる音をSE(サウンドエフェクト)として流すのは説明過剰だし、1幕と2幕の間にはCGで断頭台が「細胞分裂」のように1から2、2から4、4から8と増殖していき、64台までに増える様子が映し出される。このあたりの描き方が、いかにも訳知りという感じだった。第2幕の最後には、ジャコバン派を支持する民衆のなかに、第1幕の舞踏会でガヴォットを踊っていた貴族がにわかに三色旗を身にまとい、革命支持勢力のような顔をして現われている様子も、戯画的に描かれる。舞台から立ちあがってくるのは、民衆の熱狂に浮かされて先鋭化し、陰惨な姿を呈していくという角度からの「フランス革命」像だ。すなわち、アルロー演出は、フランス革命それ自体を事実上パロディー化している。第4幕の幕切れで、民衆たちは4人の子どもたちを除いてすべて倒れ、4人の子どもたちが三色旗をもって舞台奥に消え去っていく。演出家は「終幕では未来への展望を象徴する存在も取り入れています」と述べていたようで、今回のパンフレットにも再録されているが、率直にいってこの幕切れは、文字通りフランス革命は児戯に等しいと結論づけているようにも見える。

 演奏について。プレミエ公演のときは、歌手の時がいま一つだった印象がある。今回は、中心的な歌手に人が揃い、音楽的にはなかなか楽しめた。何といっても、マッダレーナ役のノルマ・ファンティーニが素晴らしい。声量もあるし、なにより役柄になりきって、場面ごとに実に自然に感情を乗せた歌唱ができている。標題役のミハイル・アガフォノフは、ロシア出身なのでイタリア・オペラのテノールとしてはいささか声が硬いし、第1幕のアリアはピリッとしない出来だったが、次第に調子を上げた。第2幕のファンティーニとの二重唱は絶品。ジェラール役のアルベルト・ガザーレは、歌唱や演技がやや一本調子のところがあるが、柔らかい声質で安定している。日本人歌手もまずまず健闘していて、ルーシェ役の成田博之、密偵の高橋淳、マデロン役の竹本節子などが印象に残った。

 フレデリック・シャスランの指揮は、もう少し血湧き肉踊るというところがあってもよいだろうが、東フィルから艶やかな響きをひきだし、全体を手堅くまとめていた。

【データ】
 指揮:フレデリック・シャスラン
 演出・美術・照明:フィリップ・アルロー

 アンドレア・シェニエ:ミハイル・アガフォノフ
 マッダレーナ:ノルマ・ファンティーニ
 ジェラール:アルベルト・ガザーレ
 ルーシェ:成田博之
 密偵:高橋淳
 コワニー伯爵夫人:森山京子
 ベルシ:山下牧子
 マデロン:竹本節子
 マテュー:大久保眞
 フレヴィル:萩原潤
 修道院長:加茂下稔
 フーキエ・タンヴィル:小林由樹
 デュマ:大森いちえい
 家令・シュミット:大澤建

 合唱:新国立劇場合唱団(合唱指揮:三澤洋史)
 管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

■新国立劇場オペラ公演――W.A.モーツァルト「フィガロの結婚」
2010年10月19日(火)18時30分開演 新国立劇場オペラパレス

 アンドレアス・ホモキ演出の「フィガロの結婚」といえば、2003年のノヴォラツスキー芸術監督就任最初の公演で、生き生きとした舞台が鮮烈な印象を残したことを思い出す。それ以来、05年、07年と再演を重ね、今回が4演目となる。このホモキ演出は、白を基調にした抽象的な舞台で、四角い閉じられた空間に、出演者も白と黒を基調にした衣裳をまとい、次第に矩形の空間が解体していくというもの。伯爵やその夫人といった「上流」の人々も、その使用人であるフィガロやスザンナといった「庶民」も、人間としては共通の感情をもち変わらぬ存在であることを印象づけ、既存の支配秩序が次第に崩れていくことを象徴的に表現する。プレミエの時の鮮烈な印象が薄れてくるのはやむを得ないが、よくまとまった好演出と言ってよいだろう。

 今回の公演では、新国立劇場初登場となった外国人女性歌手の充実が印象に残った。伯爵夫人役のミルト・パパタナシュは、ギリシア出身のすらりとした美人で、透明感のあるしっとりした歌唱。伯爵夫人のアリアはとりわけ説得力があった。スザンナ役のエレナ・ゴルシュノヴァも明るい声質、しっかりした歌唱で、この役のキャラクターに合っている。ケルビーノのミヒャエラ・ゼーリンガーは、割にグラマーな女性なので、この役にしては色っぽすぎる印象(昔のトロヤノスのケルビーノを思い出した)もなくはないが、声がよく飛んできて安定している。この3人の充実ぶりは、第2幕などでとりわけ目を引いた。

 男声陣では、アルマヴィーヴァ伯爵役のロレンツォ・レガッツォは、07年公演ではフィガロを演じていたが、この演出に慣れているだけに演技もきびきびしているし、堅実な歌唱を聴かせる。フィガロ役のアレクサンダー・ヴィノグラードフは、新国立で以前「カルメン」のエスカミーリョを演じたイケメン。声質が明らかにバスなので、フィガロにしてはドスがきき過ぎという感じがあるが、この演出では逆に若頭的なイメージが強調されて、それはそれで面白かった。ただ、日本人歌手は、マルチェッリーナ役の森山京子、バルバリーナ役の九嶋香奈枝は健闘していたが、男声陣は表現が硬すぎたり、逆に軽すぎたりするなどして不満が残った。

 今回の公演では、ドイツ・ドレスデン出身の若手、ミヒャエル・ギュットラーが指揮を担当。ドイツのクラーゲンフェルト州立歌劇場の首席指揮者や、マリインスキー劇場常任客演指揮者などを歴任した後、今年11月にはウィーン国立歌劇場に「リゴレット」でデビュー予定という。だが、この人の指揮は、よく言えば中庸をいくが、悪く言えば平板な印象をぬぐえなかった。また、歌手の歌いたいテンポと合わず、オケが後付けになるようなところが散見されたのは問題だろう。

 ところで、新国立劇場は、銚子にある倉庫が手狭になり、過去の公演の装置を廃棄せざるを得なくなっていることが問題になっている。「リング」のセットはすでに廃棄されたという報道があった。管理人は冒頭に書いたように、ホモキ演出のこの舞台は評価しているのだが、装置が四角い箱と段ボールと箪笥だけなので、再演しやすいのかもしれないということに思い到ってしまった。

【データ】
 指揮:ミヒャエル・ギュットラー
 演出:アンドレアス・ホモキ
 美術:フランク・フィリップ・シュレスマン
 衣裳:メヒトヒルト・ザイベル
 照明:フランク・エヴァン
 再演演出:三浦安浩
 舞台監督:佐藤公紀

 アルマヴィーヴァ伯爵:ロレンツァ・レガッツォ
 伯爵夫人:ミルト・パパタナシュ
 フィガロ:アレクサンダー・ヴィノグラードフ
 スザンナ:エレナ・ゴルシュノヴァ
 ケルビーノ:ミヒャエラ・ゼーリンガー
 マルチェッリーナ:森山京子
 バルトロ:佐藤泰弘
 バジリオ:大野光彦
 ドン・クルツィオ:加茂下稔
 アントーニオ:志村文彦
 バルバリーナ:九嶋香奈枝

 合唱指揮:三澤洋史
 合唱:新国立劇場合唱団
 管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

■新国立劇場オペラ公演――R.シュトラウス「アラベッラ」
2010年10月11日(月・祝)14時開演

 世の中は「体育の日」。もともと1964年の東京五輪開会式の日を記念して10月10日に設定された「体育の日」は、10年余り前の「三連休法案」(←管理人は誕生日が休みでなくなったという個人的事情から「稀代の悪法」と思っている)の施行以後、日程がずれてしまうことになり、今年は11日だが、前日までの荒天が嘘のような秋晴れで、見事な「運動会日和」だった。

 そんな青空のなか、新国立劇場2010/2011シーズンのオープニング演目となる「アラベッラ」を観る。尾高忠明新芸術監督体制のもとでの最初の公演だ。「アラベッラ」は、リヒャルト・シュトラウスが作家のフーゴー・フォン・ホフマンスタールと組んだ最後の作品だが、細やかな言葉のやりとりが見られ、高い演技力と歌唱力の求められる作品だけに、国内では上演機会がけっして多くない。新国立劇場でも、8年近く前の2003年1〜2月、若杉弘指揮、鈴木敬介演出で上演されて以来となる。今回は新制作で、演出は新国立劇場で「ホフマン物語」「アンドレア・シェニエ」を担当してきたフィリップ・アルロー。衣裳を森英恵が担当することも話題となっている。

 R.シュトラウスの数あるオペラのなかで「アラベッラ」は、いわゆる悪人が一人も出てこず、最後はハッピーエンドで、「サロメ」「エレクトラ」のようなおどろおどろしさや「ばらの騎士」のような苦さはないので、たぶんもっとも肩がこらずに楽しめる。こういう粋なオペラをシーズンのオープニングに取り上げたことは歓迎したい。尾高忠明さんはウィーンで勉強してきた人だから、ウィーンの雰囲気を伝え、ウィーンの人たちが愛してきた、この作品を取り上げることに、おそらく強いこだわりをもっていたのだろう。その気持ちは理解できる。

 ただ、今回の上演についていえば、フィリップ・アルローの演出には不満が残った。彼の演出は、別にこれといった読み替えをするわけではなく、全体にブルーを基調にした照明を駆使して、すっきりとした美しい舞台ではある。第1幕のホテルの部屋にクリムトの絵を4枚飾っていて、ウィーンのイメージを強調するといった工夫もある。公演パンフレットでアルロー自身が説明しているように、これは本来の1860年頃という設定ではなく、1930年頃をイメージしているらしい。作品世界は現代人にも通じる感情が描かれているので、こういう時代設定の変化も決して無理はないだろう。

 しかしながら、第1幕から幕を追うごとに、既視感がつきまとう舞台だったからだ。これから言うことは、評論家の先生方はあまり口にしないだろうし、他のブログでも今のところほとんど指摘されていないが、歯に衣着せず書いておこう。はっきり言えることは、2007年にチューリヒ歌劇場で上演されたゲッツ・フリードリヒ演出の舞台とよく似ているという事実だ。フリードリヒ演出は、ルネ・フレミングが標題役を歌い、DVDがデッカ(国内盤ユニバーサル・ミュージック)から出ているので、それと見比べれば一目瞭然だろう。白とブルーを基調にした装置や照明もそうだが、特にそっくりなのは、第2幕でアラベッラとマンドリカが舞踏会の雑踏を離れて語り合う場面で、舞台の手前にカーテン状の紗幕を引き、2人をその前に立たせるという形をとったことだ。この手法は、フリードリヒ演出のアイデアを真似したのでないか、と言われても仕方ないだろう。

 それから、第2幕の舞踏会の場面で、会場に入ってくる女性たちが何やらふた昔くらい前のキャバクラっぽくてあまり品がないが、そもそも筆者はこういう設定に疑問がある。なぜなら、そういう舞踏会の主役にアラベッラがなるのだろうかと思わされるからだ。逆にいえば、アラベッラが顔を出す舞踏会の場合、もっと気品というか、格調の高さが求められるのではないのか。この点では、フィアッカミッリや彼女を取り巻く女性たちに、舞台全体の雰囲気とはおよそ異質な赤っぽい衣裳を提供した、ハナエ・モリ女史のセンスにも疑問が残った。

 演奏について。アラベッラ役のミヒャエラ・カウネについては、結構辛い評価もあるようだが、強い声質ではないし、第1幕のモノローグなどはいま一つ魅力に欠けたけれども、ビジュアル的にも長身でボン・キュッ・ボン系の美人であることは、この役柄に適任だし、リリックで丁寧に歌う人で、とくに弱音が細やかなので、その点は評価しておきたい。相手役のマンドリカのトーマス・ヨハネス・マイヤーは、以前新国立「ヴォツェック」で標題役を演じた人だが、熊とも格闘するという一本気で粗野な田舎成金の雰囲気には、それなりに合っている。

 これにたいして、マッテオ役のオリヴァー・リンゲルハーンは、イケメンだが、いかんせん高音の抜けが悪く、声が飛んでこないのが難点。ある知人も感想を語っていたが、ふられ役のエレメル伯爵役を演じた望月哲也のほうが、はるかに存在感があった。妹のズデンカ役のアグネーテ・ムック・ラスムッセンも悪くないが、声がイマイチとんでこないので、演出家がズデンカを作品の中心人物というにしては、そこまでの求心力はなかった。余談だが、遠目には山瀬まみに似ているので、第3幕では「お父さんのためのワイドショー講座」を思い出してしまった、ガッテン(←意味不明)。日本人では、ヴァルトナー伯爵とその妻アデライデを演じた妻屋秀和と竹本節子の両名が、表現に説得力もあり、舞台をうまく引き締めた。なかでも第3幕の妻屋の演技は、実に細かくて、よく行き届いていた。フィアッカミッリの天羽明恵も、アジリタがよく回って健闘していた。

 ウルフ・シルマー指揮の東京フィルについて。シルマーは、何年か前に新国立で「エレクトラ」を指揮したのを聴いて感心したことがあるが、今回もR.シュトラウス作品らしい壮麗さを、よく引きだしてはいる。しかしながら、今回の「アラベッラ」のような作品の場合、もっと室内楽的な精妙さを出した方が良いのではないだろうか。第3幕の前奏曲などは、金管がバリバリと鳴らし過ぎだろう。第3幕の階段の場面は、さすがに細やかに美しく仕上げてはいたが…。

 そういうわけで、そこそこにまとまった舞台だったとは思うが、全体の出来についてはあれこれの残念な思いが消えないことを、率直にのべておきたい。

【データ】
 指揮:ウルフ・シルマー
 演出・美術・照明:フィリップ・アルロー
 衣裳:森英恵

 ヴァルトナー伯爵:妻屋秀和
 アデライデ:竹本節子
 アラベッラ:ミヒャエラ・カウネ
 ズデンカ:アグネーテ・ムンク・ラスムッセン
 マンドリカ:トーマス・ヨハネス・マイヤー
 マッテオ:オリヴァー・リンゲルハーン
 エレメル伯爵:望月哲也
 ドミニク伯爵:萩原潤
 ラモラル伯爵:初鹿野剛
 フィアッカミッリ:天羽明恵
 カルタ占い:与田朝子

 合唱:新国立劇場合唱団(合唱指揮:三澤洋史)
 管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

■びわ湖ホール公演――ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」
2010年10月10日(日)14時開演 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール・大ホール

 今年から来年にかけて、日本のオペラ界はなぜか「トリスタンとイゾルデ」イヤーとなる。そのことは「日経」9月27日付夕刊で瀬崎久見子記者も書いていた。その最初がこの10月のびわ湖ホール公演(ミヒャエル・ハイニケ演出、沼尻竜典指揮大阪センチュリー交響楽団)、続いて12月から1月にかけての新国立劇場公演(デイヴィッド・マクヴィカー演出、大野和士指揮東京フィル)、そして来年7月の新日本フィル定期(コンサート・オペラ形式=演出未定、クリスティアン・アルミンク指揮)の「三連荘」だ。時あたかも、ノーベル化学賞の鈴木章・北大名誉教授と根岸英一・パデュー大学特別教授の受賞で「クロスカップリング反応」が話題だが、媚薬でトリスタンとイゾルデをくっつけたブランゲーネはノーベル賞級の功績かもしれない。だからトリスタン・イヤーというわけはないのだが…。

 びわ湖ホールに足を運ぶのは初めてだ。前日の夕方、東京駅からJR「のぞみ」に乗り、大阪の実家を宿舎にすることにした。ところが、この半月余り仕事が猛烈に忙しく、休日出勤が続いてお疲れ気味だったためか、列車に乗ったら貧血を起こした。幸い2人掛けの隣りが空席だったので、後ろの方に断ってリクライニングシートを最大に倒し、斜めになってだらしなく眠る。名古屋からは通路の反対側の3人掛けが空になったので、そこを寝台代わりにして横になる。みっともない話だが、車掌さんが見逃してくれたのはありがたい。

 その夜はどうにか熟睡できたため、翌日はまずまず快調。関西出身なのに、半世紀近い人生で、大津駅で降りたのは初めて。彦根や近江八幡は行ったことがあるのだが…。街はちょうど「大津祭」の真っ最中で、旧東海道を中心に、大津から浜大津の間は山車が出るなどして賑やか。たまたま入った「旬遊あゆら」は、旧東海道の古い町屋を生かした風情あるお店。ざるそばと加薬ごはん、それに茄子と里芋の煮付の小鉢がつく「ざるそば定食」を注文。つるりとノドごしのよいお蕎麦だった。そこからぼちぼちと歩きながら、湖畔にある「びわ湖ホール」へ。ホワイエから琵琶湖が一望できるので、ロケーションは素晴らしい。会場に着くと、東京でお目にかかる業界関係の方々と何人も会う。座席数は1800余で、新国立より少し小さめだが、場内の印象は新国立劇場や東京文化会館に比べてこぢんまりとした感じ。管理人は2階席(といっても1階席と地続き)だったが、この会場ならどこでも見やすいだろう。

 今回のプロダクションは、ドイツのケムニッツ歌劇場との共同制作。ケムニッツ市はザクセン州にあって、旧東独時代は「カール・マルクス・シュタット」と呼ばれていたそうだが、当のマルクスとは何のゆかりもない土地らしい。旧ソ連・東欧圏のこういうネーミングのセンスを、当のマルクスが知ったら何と言うだろうか、およそ理解の域を超える。それはさておき、演出をつとめたミヒャエル・ハイニケは、1950年東独のドレスデン生まれで、90年よりケムニッツ歌劇場の演出家となっている。

 幕が開くと、どこかで観た建物の景色だと思ったら、ワーグナー家のシンボル的な建物であるヴァンフリート家だ。それが第1幕になると釣りあげられてしまい、舞台奥の方が高くなったやや弧状の装置が登場。その前と奥とをガラスのはまった扉が仕切っていて、手前の室内にイゾルデとブランゲーネが居り、扉の向こうにトリスタンと思われる男が背を向けて立っている。話が進むにつれてこの舞台は回転し、船の船室と舳先であることが分かってくる。第2幕でも冒頭のマルケ王の城はヴァンフリート荘の形をとっており、その窓からイゾルデがトリスタンの来訪を待っている。これは再び釣りあげられ、あとは抽象的な弧状の舞台が、二人の逢引の場面となる屋外を象徴する。第3幕のカレオールの城の室内も、一説によるとヴァンフリート荘を模したものらしいが、イゾルデの到着以後、建物は奈落に沈んでしまい、やはり弧状の装置があらわれる。最後の「愛の死」では、最前面のイゾルデとトリスタンの亡骸の乗った部分だけがせり上がり、後の4人(マルケ王、ブランゲーネ、クルヴェナールとメロートの亡骸)の乗った奥の部分は沈んでゆく。

 こうして舞台装置には独特の工夫が凝らされているが、演出自体これといった読み替えはない。これは最近のドイツのオペラハウスの演出としては珍しいかもしれないが、適度に具体的、適度に抽象的、基本的にはオーソドックスで奇をてらわないものだった。第1幕はわりと具体的でリアルな演出だが、2幕以降は抽象度が増すと言えようか。第2幕の最後で6人が登場し、トリスタンが殺される場面では、上手でイゾルデの両手をマルケ王が後ろからつかんで離さないようにしているとか、第3幕のメロートとクルヴェナールが死んでしまい、イゾルデが「愛の死」を歌い出す直前のところでは、中央にいるイゾルデを、後ろでマルケ王とブランゲーネが見守っていて、この3人が三角形をなす配置にしているなど、抽象的な舞台の上で人間の立ち位置によって相互関係を分かりやすく可視化している点が印象に残った。初心者にも分かりやすい舞台だったろう。

 演奏について。トリスタン役のジョン・チャールズ・ピアーズが米国人である以外は、オール日本人キャストの舞台だったが、いずれもドイツのオペラハウスで活躍した経験のある実力派ぞろいで、その成果のあらわれた良い舞台だった。イゾルデ役の小山由美さんは、これまでブランゲーネ歌いの印象が強かったが(2006年の飯守泰次郎指揮新交響楽団の演奏でも同役を歌っている)、イゾルデは初挑戦らしい。ヴァルトラウト・マイヤーとかクリスタ・ルートヴィヒとか、メゾ・ソプラノでイゾルデに挑戦する人は時々いるが、下手をすると声を潰しかねないだけに、大胆な挑戦だ。なるほどドラマティック・ソプラノのぐいぐい押すような歌唱ではない。第1幕は丁寧過ぎるくらいの印象もあったし、第2幕の最高音はやや厳しかったようだ。しかし、逆に中音域の豊かさが発揮され、歌詞の一語一語を大切にして、情感を込めて歌っていることが伝わってくる。そこから、実に高潔で気品にあふれるイゾルデ像が浮かび上がってくる。こんなにしっとりと、しみじみと歌われた「愛の死」を聴いたのは初めてのことだ(ベルリン州立歌劇場公演のヴァルトラウト・マイヤーも絶品だったが)。小山さんは以前から素晴らしい歌手だと思っているが、さらに新しい境地を開いたことに心から拍手。

 ブランゲーネ役の加納悦子さんは、ケルン歌劇場で経歴を積んだ人だが、安定した歌唱で、イゾルデを甲斐甲斐しく支える働きを、演技面でもしっかりと見せていた。媚薬を入れるところなど、なかなか細やかな演技をしていた。小山のイゾルデとはメゾ・ソプラノ同士ということで、この二人が合わせ鏡のように見えてくるという効果も面白い。

 マルケ王役の松位浩さんと、クルヴェナール役の石野繁生さんの二人も、それぞれドイツの歌劇場で現に活躍している人だ(松位はザールラント州立劇場、石野はシュトゥットガルト州立歌劇場)。以前、松位は新国立「オランダ人」のダーラント役で、石野は新日本フィル「ローエングリン」の伝令役で、日本人にもこんなに素晴らしいワーグナー歌手が現れたかと驚いたことがある。今回の出演も大いに期待していたが、両者ともその期待に違わない出来だった。松位の深々とした格調の高い歌唱は、マルケ王の威厳と奥行きを見事に表現する。石野のクルヴェナールは、今回の演出ではいささか短気で軽い人物に設定されたのが気の毒だが、声に張りがあってよく飛んでくる。また、びわこホール声楽アンサンブルのメンバーである迎肇聡さんという若手がメロート役で登場したが、本場で鍛え上げた実力派の面々に引けをとることなく、なかなか健闘していた。

 このように、日本人歌手がいずれも世界標準からみても遜色ない出来だったのに対して、トリスタン役のジョン・チャールズ・ピアーズがあまり奮わない。第2幕ではちょっと声がなくなってきたのではないかと思うほどだったが、第3幕では辛うじて持ち直した。唯一の外国人キャストがこの程度の出来とは残念だが、ではこれに代わる日本人のヘルデンテノールがいるかというと建設的対案はだせないので、なかなか難しいところかもしれない。

 沼尻竜典指揮の大阪センチュリー交響楽団は、全体としてちょっと速めのテンポ設定。タメをきかせず、全体にサクサクとすすんでいくのは、沼尻さんらしいアプローチ。オケは、ワーグナー作品としては弦にもう少しコクと艶がほしいし、第3幕のトランペット(イゾルデの到来を告げるところ)がちょっと怪しかったけれども、目立った傷はほとんどなく、全体としては大健闘。センチュリー響は、某「行列のできる三百代言」政治屋のせいで、来年度からは大阪府の補助金が全面カットという困難に直面しているが、そうした暗雲を吹き飛ばすようなパワフルな演奏だった。これを自信にして「三百代言」を大いに見返してやってほしい。この公演が2回だけの上演とはもったいない。NHKのクルーが撮影に来ていたので、いずれテレビで放映されるだろうから、10月16日の公演に行けない方もお楽しみに――。

【データ】
 指揮:沼尻竜典
 演出:ミヒャエル・ハイニケ

 トリスタン:ジョン・チャールズ・ピアーズ
 イゾルデ:小山由美
 マルケ王:松位浩
 クルヴェナール:石野繁生
 ブランゲーネ:加納悦子
 メロート:迎肇聡(※)
 牧童:清水徹太郎(※)
 舵手:松森治(※)
 若い水夫の声:二塚直紀(※)※印はびわ湖ホール声楽アンサンブル

 管弦楽:大阪センチュリー交響楽団
 合唱:びわ湖ホール声楽アンサンブル、東京オペラシンガーズ


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