楽興の時・音の絵

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オペラ

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■音楽堂バロック・オペラ――ヘンリー・パーセル「アーサー王」
2010年2月28日(日)15時30分開演 神奈川県立音楽堂

 エルヴェ・ニケの率いるル・コンセール・スピリテュエルは一昨年の来日公演で、ヘンデルの「水上の音楽」と「王宮の花火の音楽」の鮮烈な演奏によって話題をよんだ。あいにくその演奏は聴けなかったのだが、今回、英国の作曲家ヘンリー・パーセル(1659〜1695)のセミ・オペラ「アーサー王」を演奏するというので、横浜まで出向いた。ところが、大津波警報の影響でJRのダイヤが乱れまくり、開演時間が当初予定の15時から30分順延となった。筆者もJRで行く予定を変更し、東急東横線で「みなとみらい」駅からてくてく歩く。「備えあれば憂いなし」とはいうものの、なぜ桜木町以西で電車を停めないといけなかったのだろうか。

 閑話休題。バロック・オペラは、筆者にとって得意分野ではない。パーセルといえば「ディドとエネアス」くらいはCDをもっているが、むしろブリテンの「青少年のための管弦楽入門」のイメージが強いという程度の認識で、わずか36歳の若さで世を去ったこともよく知らなかった。だが、県立音楽堂のバロック・オペラでは、2006年にヴィヴァルディの「バヤゼット」の演奏を聴いて度肝を抜かれたので、食わず嫌いはしないようにしている。この公演は価格がリーズナブルなのが魅力だ。

 演奏時間約80分。本来は、17世紀の英国の詩人・劇作家ジョン・ドライデンの台本による芝居のなかで、儀式や戦闘の場面、魔法使いや妖精が登場するシーンだけに音楽がついているという構成らしい。芝居の部分を全面的に再現すると、5時間ほどかかるそうだ。この日の上演では、舞台の中央に20数人の管弦楽が陣取り、その後ろ左右に18人の合唱が配され、上手と下手に簡単な舞台がこしらえられて、そこにソロ歌手が登場したり、バレエダンサーが登場したりする。舞台の上の反響板に字幕が映し出され、その下に正方形のスクリーンのような箱がつくられ、そこに絵や文字が投影されたり、背後で踊るダンサーが影絵のように映し出されたりする。

 バレエダンサーを登場させ、17世紀に上演された芝居の雰囲気を伝えつつも、ル・コンセール・スピリテュエルの演奏を楽しんでもらおうという、構成の仕方は悪くない。だが、伊藤隆浩の演出は、作品の娯楽性や官能的要素を強調しようとするあまり、絵や文字でやたらに説明しすぎる。以前の「バヤゼット」の時も伊藤の演出で、ただ登場人物を交通整理しただけのような舞台だったが、あの方がまだマシだった。例えば今回、戦闘の場面のところで、わざわざ「9.11」などの文字をだすなどは、必要だったのか。また、終幕の合唱で農民が「十分の一税」を上げようとする権力と聖職者たちを揶揄的に歌うところは、そのままで風刺であることが分かる内容なのに、あえてわざわざ「消費税アップ?」とか「事業仕分け、芸術も?」とかいうように「アーサー王」の内容と直接関係ない文字を映しだすのには興ざめした(演出上の政治風刺が悪いと言っているのではない。こういうベタな演出が興ざめということなので、念のため)。それなら、むしろ作品の情景描写の説明をした方がよかったのではないか。

 エルヴェ・ニケ指揮ル・コンセール・スピリテュエルの演奏は、いささか猥雑でにぎやかな作品世界をうかがわせるもので、17世紀の英国の劇場で聴かれていた音楽の雰囲気が味わえ、それはそれで魅力的だった。歌手はいずれも比較的に若手で、装飾音の巧さなど歌唱力でねじ伏せるというタイプではないが、当時の市民階級に親しまれた劇音楽の雰囲気を伝える点では、作品の性格にうまく合致していたように思われる。

【データ】
 音楽監督・指揮:エルヴェ・ニケ
 演出・構成・字幕翻訳:伊藤隆浩

 ソプラノ:アナ・マリア・ラビン
 ソプラノ:シャンタル・サントン=ジェフェリー
 カウンター・テナー:アーウィン・エイロス
 バリトン:マーク・キャラハン
 バス:ジョアン・フェルナンデス
 管弦楽・合唱:ル・コンセール・スピリテュエル
 バレエ:東京シティ・バレエ団
  (上山千奈、小林洋壱、安藤紗織、松浦美穂、清水愛恵、岡博美)

■東京二期会オペラ劇場――ジュゼッペ・ヴェルディ「オテロ」
2010年2月20日(土)14時開演 東京文化会館大ホール

 以前このブログで紹介したことがあるが、17世紀の英国の評論家トマス・ライマーは、この芝居の示す教訓として「良家の娘は黒人と駆け落ちすべからず、人妻はハンカチ類を失くさぬよう用心すべし、夫は証拠を十分確認してから嫉妬すべし」とのべたことがあるそうだ(小田島雄志訳『オセロー』所収の渡辺喜之氏の解説)。シェイクスピアの「4大悲劇」の主役級のなかで、オセロー(オテロ)ほど単細胞な人間はいないだろう。だいたい、権力につく人間が、あんなに簡単に他人の言説を信用するものだろうか。そのくせ妻の言説を信用しないのも困ったものだ。だから、主役にもかかわらず感情移入しにくい。むしろ、可哀想すぎるデズデモナにどうしても感情移入してしまう。イアーゴは悪役だが、こういう毒性は誰もが心の奥底に持っているだろうから、こちらにもつい目がいってしまう。ヴェルディの「オテロ」の場合、沙翁の原作から第1幕が除かれているなどプロットが単純化されているため、なおさら主人公の単細胞ぶりが際立つ。率直に言ってそこはリアリティに欠けるのだが、にもかかわらず、ヴェルディの音楽の説得力には抗しがたいものがある。

 今回の東京二期会公演の演出は、演劇畑の白井晃。演劇では「三文オペラ」や「ルル」といった作品を演出しているから、いずれオペラにも進出してくるだろうと思っていた。まったくの余談だが、白井晃といえば、もう10年以上も前に「お味噌なら×○△」のCMで、学芸会の練習で先生にダメだしされた子どもをもつ父親に扮し「なにぃ〜、先生にダメ出されたぁ〜?!。さあっ、×○△のお味噌汁を飲むんだっ! リアリティだっ! スタニスラフスキイだっ!」と叫んでいたのを思い出す(テレビCMにスタニスラフスキイの名前が出てくるのはたぶん他に例があるまい。白井演出はスタニスラフスキイ・システムとは全然違うと思うが…)。今回の公演パンフレットによると、2005年に世田谷パブリックシアターで彼が「ルル」を演出した時、東京二期会の栗林義信氏が直接オペラ演出を依頼したそうだ。筆者もこの演劇版「ルル」は観たが、シャープな演出に秋山菜津子、根岸季衣、浅野和之らが応えた好舞台だった記憶がある。

 この白井晃による演出が素晴らしかった。演劇畑の人のオペラ演出は、おおむね登場人物の出し入れの手際が良いが、この舞台も例外でない。いわゆる読み替えはしておらず、簡素な舞台で「オテロ」の心理劇としての特徴を浮かび上がらせる。全体として、黒と白、グレーを基調にした抽象的な舞台で、上手の奥の方に向かってかなり急な傾斜のついた台がしつらえられ、半透明のアクリルのような板に霧のような塗装を吹き付けたような装置が仕切りに使われる。デズデモナとカッシオとの会話や、イアーゴがハンカチを手に計略を巡らす場面は、その半透明の板の奥でおこなわれる。第4幕は舞台中央やや下手に、寝室を示す白い箱型の装置が置かれる。そこがデズデモナ殺しの現場になるわけだが、白い箱と照明がデズデモナの無垢な姿を象徴している。特に印象深かったのは、第3幕でオテロのモノローグが終わって、オケが俄然緊迫感をくわえるところで、舞台中央やや下手に立っていた柱のまわりを照明がぐるっと回って、柱の影を急転回させるとともに、暗雲が垂れ込めるかのように照明を次第に暗くしていったこと。オテロの疑念が一気に深まり、物語が悲劇的結末に向けて「不可逆点」となったことを的確に視覚化している。

 音楽的にも水準が高かった。特に評価しておきたいのは、とれとれぴちぴちブリニョーリの指揮と東京都交響楽団の演奏。そしてデズデモナの大山亜紀子の熱唱だ。ブリニョーリという指揮者は、ミラノ・スカラ座でムーティの助手をしていたそうだが、なるほど間を詰めて前にたたみかけるようなリードで、オケを勢いよくひっぱっていく。一方、歌の聴かせどころでは、イアーゴの「クレド」のように思い切りドラマティックに強弱をつけたり、「柳の歌」「アヴェ・マリア」のようにテンポを落としてしっとりと聴かせたりと、オペラのツボを心得ている。第3幕終わりのコンチェルタートの盛り上げ方も見事だ。都響は強奏のところでもう少し音色に艶が出るとなおよいが、第2幕の幕切れでの弦の弱音など、澄みきって磨き上げられており、木管のソロも安定している。あまりピットに入る機会のないオーケストラだが、いい仕事ぶりだったのではないか。

 デズデモナの大山亜紀子は、少し細かいヴィブラートがあるが、高音の伸びがよく、歌に説得力がある。「柳の歌」から「アヴェ・マリア」にかけての気品ある切々とした歌唱には、涙を誘われた。以前よりスレンダーになったのか、顔の輪郭がすっきりしてデズデモナにふさわしい顔立ちになってきたのも吉(余計なお世話だが、チラシの写真は顔がでかいので、変えてあげた方がよい)。オテロの福井敬は、声の強さで圧倒するというよりも、むしろ丁寧に感情の起伏を表現しようとしていたように思う。イアーゴの大島幾雄は、抑え目で丁寧な歌唱だが、この役としてはさらに深みと凄みがほしい。エミーリアの金子美香、カッシオの小原啓楼、ロドヴィーゴの小鉄和弘なども安定していた。

 圧倒されるタイプの演奏ではないが、それでも第3幕のフィナーレから第4幕にかけて、結構ウルウルきてしまった。無駄のない引き締まった白井晃の演出ともども、全体としてきちんとまとまった良い舞台だった。

【データ】
 指揮:ロベルト・リッツィ・ブリニョーリ
 演出:白井晃
 装置:松井るみ
 衣裳:前田文子
 照明:齋藤茂男

 オテロ:福井敬
 デズデモナ:大山亜紀子
 イアーゴ:大島幾雄
 エミーリア:金子美香
 カッシオ:小原啓楼
 ロデリーゴ:松村英行
 ロドヴィーゴ:小鉄和弘
 モンターノ:村林徹也
 伝令:須山智文
 合唱:二期会合唱団
 児童合唱:NHK東京児童合唱団
 管弦楽:東京都交響楽団

■新国立劇場オペラ――ワーグナー「ジークフリート」
2010年2月17日(水)16時開演 新国立劇場オペラ・パレス

 「トーキョー・リング」の再演。昨年の「ラインの黄金」「ワルキューレ」に続き、今年は残る「ジークフリート」と「神々の黄昏」の上演となる。昨年もそうだったのだか、パンフレットには「初演演出 キース・ウォーナー」という記述がされている。聴くところによると、本人は再演演出も意欲満々だったようだが、諸般の事情で新国立劇場側が彼を招聘せず、若干のトラブルもあったらしい。事情通に言わせると演出が甘くなったともいうが、ウォーナー原演出の舞台は、カラフル、ポップで分かりやすい。たぶん、このシリーズのなかでは、分かりやすのではないだろうか。「リング」4作のなかでも、幾分暗い影はさすものの、唯一ハッピーエンドだし、そもそもが「ジークフリートの冒険」をテーマにしたメルヘンタッチの作品だから、これはこれでよいのだろう。

 第1幕は1960年代くらいのアパートの一室という雰囲気。サイケ調の派手な内装、キッチンには冷蔵庫や電子レンジなどが所狭しと並ぶ。舞台の前方に鉄床は置いてあるが、ノートゥングを鍛えなおす作業は、キッチンで刻まれた剣の破片をミキサーで混ぜ、電子レンジに入れ、さらにフリーザーで冷やされるという作業でおこなわれる。冷蔵庫から取り出した緑色の着色料で色づけされて出来上がり。スーパーマンTシャツにオーバーオール、いかにもやんちゃなガキ大将という感じのジークフリートにたいして、育ての親ミーメは途中から、派手なジャケットを着たクイズの司会者(さすらい人との問答の場面)、黄色いガウンと学帽を被った教授(ジークフリートに「怖れ」を教えようとする場面)、さらにコックへとお召し換えをする。途中で焦土となった映像がでてくるのは、前作「ワルキューレ」での女戦士たちが病院で走り回るという演出と、オーバーラップさせようとしているのだろうか。

 第2幕の森の場面では、木々がゆがんだ矢印で象徴的に表現される。安っぽいモーテルのような建物が上手からスライドして登場し、右側の部屋にはアルベリヒが長く逗留しているらしく、ハンバーガーなどの包装紙が乱雑に散らかっている。左側の部屋にさすらい人が登場し、左右の部屋でやり取りが始まる。さすらい人が出て行った後には、同じ部屋にミーメとジークフリートがやってくる。ファフナーは怪しげな大木で表現されており、そこには彼の餌食になった人型がぶら下がっている。ジークフリートがファフナーを倒そうとやってくると、人型はゾンビとなって蘇り、ジークフリートと闘う。ジークフリートが大木に一太刀浴びせると、木は真っ二つに割れ、根元で「ラインの黄金」の同じようないでたちのファフナーが倒れている。この幕切れは、森の小鳥の案内でジークフリートがブリュンヒルデのいる岩山をめざすのだが、舞台奥に向かう小鳥が青い着ぐるみを脱いで、セミヌード(ボディスーツ?)の後ろ姿を披露するところで幕になるのが、かなりサプライズだ。これは第3幕で消防服に着替える前振りだが、ジークフリートが女性に目覚めていくことへの前振りでもあるように思われる。

 第3幕は、まず第1場でのエルダの眠る場所が、真っ白の壁の地下のシェルターのような部屋で表現される。ウォーナー演出の一つの型であるジグソーパズルのピースの上にエルダは横たわっている。上への向かう梯子では秘書のような女性3人が昇降をくり返している。周囲にはフィルムが乱雑に散らかっており、さすらい人はそれを引きちぎる。このことは、続く「神々の黄昏」につながり、神々の大きな物語の破たんを示唆しているのだろう。続く第2場では、岩山ならぬアパートの一室のような部屋のベッドの上で、ブリュンヒルデが眠っている。愛馬グラーネは「ワルキューレ」と同様、おもちゃの馬だ。しかし、二人が愛の歓喜を歌いあげる場面では、基本的にあまりひねりはなく、幕を迎える。

 とここまで書いてきて、「ワルキューレ」に比べて「ジークフリート」の演出の方が隠喩性は低いように思われたが、「ジークフリート」の世界は「ワルキューレ」第3幕の凄惨な戦争の現場を潜りぬけた「戦後」が舞台とも言えるだろう。だとすれば、ノートゥングという新たな武器を手にしたジークフリートと、甲冑を脱いだブリュンヒルデという二人は、そもそも矛盾した存在であって、やがて破局に陥ることを初めから運命づけられていたのではないだろうか、という見方が可能かもしれない。そんなメッセージ性を読み取るのは、穿ちすぎだろうか。

 演奏について。この日の公演の歌手陣は、いずれも水準が高かった。何といっても標題役のクリスティアン・フランツの健闘をたたえたい。第3幕になってやや声が弱まり、高温が出きらないところは見られたが、ともかくヘルデンテノールらしい張りのある声を貫きとおした。以前「トリスタンとイゾルデ」のトリスタン役で観た時は、メタボ体型が残念だったが、やんちゃなジークフリートにはビジュアル的にも合っているかもしれない。

 ミーメ役のヴォルフガング・シュミットは、この役にしては筋骨隆々としすぎだが、姦計をめぐらすこの役を、説得力をもって表現する。アルベリヒ役のユルゲン・リンは声の強弱のコントロールが細やかで、感情表現が巧みだ。さすらい人のユッカ・ラジライネンも、昨年のヴォータンよりパワー全開の印象で、かつ安定感がある。ブリュンヒルデのイレーネ・テオリンは、いささかヴィブラートのきつめの歌唱が気になったが、立ち姿が結構スマートで女戦士らしい格好良さがあるのは吉。エルダのシモーネ・シュレーダーがこの面子のなかではやや弱かったが、安井陽子、妻屋秀和の日本人組を含めて、全体に穴のない歌唱陣だったことは高く評価しておきたい。

 ダン・エッティンガーの指揮は、ときどきいささか作為的にテンポを落としたり、やけに長くルフトパウゼをとったりするところがあるが、東フィルの特に弦楽器陣から、厚みのある響きを引き出していた。14日の公演を聴いた知人が、第3幕になってガクンと体力が落ちた感じという感想を漏らしていたので、どうなるかと思っていたが、むしろ第1幕よりも、第2幕・第3幕のほうがエネルギッシュな演奏だったように思う。ただし、第2幕のジークフリートの角笛のホルン・ソロは何とかならないものだろうか。

《追記》
 第3幕第3場のブリュンヒルデの寝台で、目覚まし時計の針が11時50分をさしていることについて、例の「核戦争○分前」の「終末時計」ではないかという読み解きをしたブログ記事があった(hbrmrsさんのブログ)。拙者もこの読み解きに1票投じておきたい。

【データ】
 指揮:ダン・エッティンガー
 初演演出:キース・ウォーナー
 装置・衣裳:デヴィッド・フィールディング
 照明:ヴォルフガング・ゲッベル
 振付:クレア・グラスキン

 ジークフリート:クリスティアン・フランツ
 ミーメ:ヴォルフガング・シュミット
 さすらい人:ユッカ・ラジライネン
 アルベリヒ:ユルゲン・リン
 ファフナー:妻屋秀和
 エルダ:シモーネ・シュレーダー
 ブリュンヒルデ:イレーネ・テオリン
 森の小鳥:安井陽子
 管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

■藤原歌劇団公演――フランシス・プーランク「カルメル会修道女の対話」
2010年2月7日(日)15時開演 東京文化会館大ホール

 フランシス・プーランク(1899〜1963)の「カルメル会修道女の対話」は、何度聴いてもやりきれない思いの残る作品だ。フランス革命がロベスピエールらによる「恐怖政治」へと展開するなかで、1792年9月に追放処分となった「カルメル会修道院」の女性たちが、コンピエーニュ市内に隠れ住んで修道院時代と同様の祈りの生活を続けていたが、1794年6月に告発されて逮捕され、革命裁判所によって死刑宣告されて、1794年7月17日に16人が一斉に処刑された。この悲劇的な歴史上の事件を素材にしたオペラだからだ。

 この歴史上の事件をふまえつつ、ドイツの女性作家ゲルトルート・フォン・ル・フォール(1876〜1971)が1931年、ブランシュ・ド・ラ・フォルスという架空の女性を主人公に設定し、小説『断頭台の最後の女』を発表した。さらに、この小説の仏語訳を読んだフランスの作家ジョルジョ・ベルナノス(1888〜1948)が、第2次世界大戦後の1947〜48年、小説に大胆な加工をくわえて戯曲化した。しかし、ベルナノスは、映画用台本として書いたこの戯曲が上演されるのを見ないまま世を去り、残された作品は結局のところ演劇作品として独訳され、1951年にチューリヒで初演されて成功を収める。そして、プーランクは、ミラノのリコルディ出版社から、この戯曲をオペラの題材として提示され、1953年8月から1956年6月までの2年10カ月をかけて完成させた。こうして複雑な経過をたどったが、もともとフランス革命下のジャコバン独裁時代に起きた悲劇的実話をもとにした作品だけに、気の滅入る作品であることは否定しようがない。プーランクの宗教曲といえば「スターバト・マーテル」「グローリア」など荘厳で美しい合唱曲が多いと思うが、管理人はカトリックの信仰の境地がよく理解できていないうえに、フランス革命の時期にカトリック教会がアンシャン・レジームの主要な柱だったことを考えると、カルメル会修道女たちの悲劇に過度の思い入れをする気持ちは、どうしても起こってこないのだ。

 この作品を実演で見るのは2度目。1度目は昨年の新国立劇場オペラ研修所の公演で観たが、今回は藤原歌劇団による公演。藤原歌劇団といえば、イタリア・オペラの印象が強いが、これまでもマスネの作品などフランス・オペラもそれなりにとりあげているので、期待も抱きながら見に行った。

 演奏自体は、全体になかなか健闘していたのではないだろうか。フランスの指揮者アラン・ギンガルは、これまでも藤原歌劇団とは3回共演していて、今回は4度目になるそうだが、作品を掌中に収めていて、特段の面白みはないが、東フィルを手堅くまとめている。東フィルは、響きの薄さは否めないが、重たくならず透明感があった点は評価しておきたい。

 歌手では、女性歌手陣がフランス語の発音に苦労していた様子はうかがえるものの、ベテラン・若手ともそれぞれ持ち味を発揮した。最も印象に残ったのは、若手の方では、コンスタンスを演じた大貫裕子は今回藤原歌劇団の公演としてはデビューだったそうだが、抜けのよい高音と正確な歌唱が光るとともに、演技でもコケットな面をだしていた。彼女が1年半前、東京室内歌劇場「夜長姫と耳男」で素晴らしい歌唱を聴かせていたことを思い出した。主役の佐藤亜希子も若手ソプラノで、今回のブランシュ役は大抜擢ということだろう。表現がやや勢いに任せている感なきにしもあらずだが、声はよく飛んできている。ベテランの方では、クロワシー修道院長を演じた郡愛子は、オペラの舞台で久々に見たような気がするが、死の恐怖を乗り越えることができず苦悩する院長の姿を歌・演技の両面で豊かな表現力をもって描いている。他方、後任のリドワーヌ修道院長を演じた本宮寛子は、低い音のところで声量がやや足りないきらいはあるものの、気品のある格調高い歌声で、とくに第3幕第3場での凛とした歌唱は説得力があった。マザー・マリーの牧野真由美も深みのある歌唱だ。男声陣では、司祭の所谷直生の声がよく飛んできていた。

 松本重孝の演出は、オーソドックスなものだが、決して古臭い感じはしない。冒頭のド・ラ・フォルス侯爵の書斎の場面がずいぶん歴史主義的、写実的だったが、その後は取りたてて変わったことをしてはいないものの、柱のようにも見える4本の黒い布をうまく活用して場面転換していた。暗転で作品の流れが止まることなく、手際のよい舞台回しになっていたのは良かった。最後の断頭台の場面は、舞台奥にギロチンの図をシルエットでだしていたが、効果音にあわせて、舞台上に一列に並んだ修道女たちが「サルヴェ・レジーナ」を合唱で歌いながら、ひとりまたひとりと倒れていくという象徴的なやり方を採用していた。最後に現れたブランシュが倒れて、彼女たちの姿に照明があてられると十字架のように見えるというのが、演出家が幕切れに見せたかった絵柄なのだろう。

 あまり上演機会のない作品を、きちんとまとまった舞台にしていて、まずは楽しめる舞台になっていたのではないだろうか。

【データ】
 指揮:アラン・ギンガル
 演出:松本重孝

 ド・ラ・フォルス侯爵:三浦克次
 ブランシュ・ド・ラ・フォルス:佐藤亜希子
 騎士フォルス:小山陽二郎
 クロワシー修道院長:郡愛子
 リドワーヌ修道院長:本宮寛子
 マザー・マリー:牧野真由美
 コンスタンス修道女:大貫裕子
 マザー・ジャンヌ:二渡加津子
 マティルド修道女:松浦麗
 司祭:所谷直生
 第1の人民委員:川久保博史
 第2の人民委員:清水良一
 ジャヴリノ(医師):柿沼伸美
 役人:羽渕浩樹
 ティエリー(従僕)/看守:坂本伸司
 マザー・ジェラール:家田紀子
 クレール修道女:吉村恵
 アントワーヌ修道女:立川かずさ
 カトリーヌ修道女:清水理恵
 フェリシティ修道女:村瀬美和
 ジェルトリュード修道女:安達さおり
 アリース修道女:宮本彩音
 ヴァランティーヌ修道女:渡辺ローザ
 アン修道女:吉田郁恵
 マルタ修道女:山崎知子
 シャルレ修道女:但馬由香
 合唱:藤原歌劇団合唱部
 助演:大西啓善、鈴木光
 管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

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■新国立劇場オペラ劇場――ベルク「ヴォツェック」
2009年11月23日(月・祝)14時開演 新国立劇場オペラ劇場

 アルバン・ベルクの「ヴォツェック」は20世紀オペラを代表する作品の一つであり、今夏亡くなった若杉弘・新国立劇場オペラ部門芸術監督がオペラ史上の「7大重要作品」のなかに位置づけ、どうしても上演したいと語っていたことが記憶に残る。その作品がようやく初台の舞台で見られることになった。今回のプロダクションはバイエルン州立歌劇場との共同制作となっており、2008年11月にミュンヘンで上演されている。演出はドイツの演出家アンドレアス・クリーゲンブルク。ハンブルクやミュンヘンなどで、主として演劇の分野で活躍している人らしい。その演出については、すでに「朝日」11月20日付夕刊に片山杜秀氏のきわめて好意的な批評がいち早く掲載されたし、ネット上でも複数の音楽評論家によって高く評価するコメントが出ている。愛好家のブログでも温かい感想が多いようだ。だが、評者はあえて異論を唱え、いくつかの点で大いに疑問が残る演出だったことを、率直にのべておきたい。

 クリーゲンブルクの演出意図は、それなりに理解できるものではある。公演パンフレットで、次のようなことをのべているのも、理解の助けにはなろう。
 「中心となるテーマ、それは、貧困がおよぼす暴力ともいうべき力が、どれほど大きいかということでした」
 「この演出では、ヴォツェックの目を通して世界を描こうと思いました。家族であるマリーと息子以外の人物は、モンスターのように描きました。そうすることにより、ヴォツェックにとって家族だけが唯一のよりどころであり、彼は家族のもとでのみ人間性を維持できるのだということを浮かび上がらせたいと考えたのです。」
 「私が伝えたかったのは、貧困によるひずみは、世代から世代へと受け継がれていくということです」
 また、舞台前面に水を張っていることについて――。
 「私にとって水は二つの点で重要な要素です。一つは、自然の音の体験という点です。水のぴちゃぴちゃという音。至高の芸術である音楽に対して、それとは違う音を対抗させたかったのです」
 「また一方では、この作品の登場人物にとって、水は、じめじめとして、冷たく、いとわしいものです。そして、特に水の冷たさ、水が鏡のようになっているということも大切なモチーフです。つまり彼らは、しっかりとした固い大地の上ではなく、自らの姿を鏡のように映し出すその像の上に立っているのです」

 「ヴォツェック」の中心テーマが「貧困がおよぼす暴力」にあることは、そのとおりだろう。ヴォツェックにとって愛すべき存在であるマリーと息子以外の人物が、異様に太っていたり、異様にマッチョだったり、コルセットと義足(?)をしていたり、せむしのような姿だったり、乳房が極端に大きかったり、という具合で「モンスターのように」描かれているのも、ヴォツェックと敵対的な関係にあり、強弱はあれ彼にとって抑圧的な存在であることを象徴的に示すものだろう。また、10人前後の黒服の助演者が、ヴォツェックと同じく貧困にあえぐ存在として描かれ、被抑圧者が多数者であることを象徴的に表現している。首から「Arbeit」(仕事)と書いた札を下げて登場したり、ときどき撒かれるパンを求めて奪いあったりする姿は、路頭に迷う多数の労働者の存在を示している。第2幕第4場の酒場の場面では、彼らが楽隊の乗っている舞台を這いつくばって下から支えているというような形にしているのも象徴的ではある。

 マリーの息子がかなりの部分で黙役の形で舞台に登場しており、水の上に吊り下げられた装置の壁に、黒いペンキのようなもので、第1幕第2場では「Papa」と書き、第3場では「Geld」(お金)と書き、さらに第3幕第1場では「Hure」(売春婦)と書く。この「Hure」のところでは、後で字を見つけたマリーが泣きながら手で消すという所作がつけられているのも目をひく。言うまでもなく、彼がヴォツェックの私生児であること、貧困にあえいでいること、そして母親がジェンダー的に抑圧されていることを示している。「Geld」(貨幣)と「Arbeit」(労働)とくれば、言うまでもなく「資本主義」のキイ概念にほかならない(『資本論』を想起し「Ware」=商品も出てくるのではないかと思った)。ヴォツェックとその家族には「階級的な抑圧」と「ジェンダー的な抑圧」(ヴォツェックも自分よりマッチョな男性に抑圧される存在であることに注目)とが二重にのしかかってきていることを、印象づける演出ではある。

 だが、そうした演出意図は一応理解したうえでなお、このクリーゲンブルクの演出には、どうしても得心がゆかなかった。3点をあげておく。

 第1に、舞台全面に水を張ったことは、上に紹介したような演出家の意図はあるにせよ、やはり根本的に疑問を感じざるをえない。ぴちゃぴちゃという水の音は、現代音楽では、たとえばタン・ドゥンの「TEA」のように、作品中に意図的に用いられることがあるからだ。そういう音が、演技のなかで第3幕に部分的に出てくるというのならともかく、全幕のかなりの部分で聴こえてしまうというのは耳障りであり、精緻をきわめるベルクの音楽を邪魔することにしかならない。「至高の芸術である音楽に対して、それとは違う音を対抗させたかった」という演出家の発言は、はっきり言って傲岸不遜であり、オペラの演出としては問題が大きいと思う。

 第2に、ヴォツェックがマリーを殺した後の第3幕第3場ではなく、第2幕第4場の酒場の場面で、すでにヴォツェックの右手が血塗られた状態になっていたこと。この演出意図がよく分からない。「白痴」の歌う「血の臭いがする」という歌詞にひきつけ、第2幕第3場でヴォツェックがマリーの浮気を確信して以降、すでに殺意をもっていたということを言いたいのかもしれないが、第3幕第3場で右手や右ひじに血が付いていることを初めて見とがめられる歌詞とは、完全に齟齬をきたしてしまう。手についた血というのは「マクベス」を引きあいに出すまでもなく、オペラや演劇では重要な要素だが、それを第2幕第4場で見せてしまうというのは、どういう狙いなのか。評者はこの場面以降、その奇妙な演出が気になって、舞台に集中できなかったことを表白しておく。これも演出が作品を邪魔した一例と言わざるをえない。

 第3に、第3幕第5場で、すでにおぼれて死んでいるヴォツェックを息子が捜しにきて見つけるという演出をつけたこと。息子は母の死より前に、母を殺めた父の死を知っているということになるわけだ。本来この作品では、第3幕の幕切れで子どもたちが輪になって遊んでいるところに、別の子どもたちがマリーの死骸が見つかったということを知らせに来たのに、マリーの子どもだけが事情をのみ込めずお馬さんごっこに興じて取り残されているという落差が、子どもの不幸きわまる境遇を観客に印象づけて涙を誘うのだが、そういう展開にならなくなる。事態をすべてを見通してしまっている冷徹な息子という印象を植えつけられることになる。その息子に他の子どもたちが石つぶてのようなものを投げつけるのも、抑圧の再生産を示す意図だとしても、過度に説明的であろう。さらに、幕切れでの子どもの冷ややかな目線とナイフを研ぎだす様子は、むしろ社会的抑圧の最底辺にいた彼が「第2のヴォツェック」にならざるをえないことを表現したかったのだろうが、それも説明的ではないか。こうした一連の演出は、作品の本来もっている喚起力を押しつぶすことになったように思われる。

 これは勝手な想像だが、亡くなった若杉氏は、こんなに音楽の邪魔をする演出を決して喜ばないのではないだろうか。

 演奏について。ヘンヒェン指揮の東フィルは、全体として緊密によくまとまっており、ダイナミックに鳴らすところは鳴らしつつ、歌手とのバランスもよくとれた好演だったと思う。これはソロでも活躍したコンマスの荒井栄治の奮闘も大きかったことと推察するが、トランペットやホルンが何度か音を明らかに外していたのには残念な思いが残る。歌手ははっきり言って、でこぼこがあった。素晴らしかったのはマリー役のウルズラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネンで、第1幕第3場の「マリーの子守唄」も、第3幕第1場の聖書を読む場面も、情感がこもっていて美しい。これに対して標題役のトーマス・ヨハネス・マイヤーは、全体としてはヴォツェックの怒りや悲しみを、適度に抑制をきかせながら的確に表現していたと思うが、高音でやや苦しいところが見られた。鼓手長のエンドリック・ヴォトリッヒもやや一本調子だが、張りのある声でマッチョな役どころには合っていた。ブレーキ役だったのは、大尉役のフォルカー・フォーゲル。中音域は調子がいいのだが、高音になると急に声がなくなり、最高音でははっきりしないファルセットでごまかしたところが何箇所か見られたのはがっくり。聴くところによると、初日からずっとこういう調子だったらしい。日本人歌手は、アンドレスの高野二郎、医者の妻屋秀和、マルグレートの山下牧子のいずれも、外国人勢に伍して健闘していた。それから、幕切れを除いて黙役で活躍したマリーの息子役の中島健一郎君には、敢闘賞をあげたい。

 現代的演出は決して嫌いでない(むしろ好きな)評者だが、先に述べたような理由でこの演出には共感できなかったため、カーテンコールは早々に退出させていただいた。

【データ】
 指揮:ハルトムート・ヘンヒェン
 演出:アンドレアス・クリーゲンブルク

 ヴォツェック:トーマス・ヨハネス・マイヤー
 鼓手長:エンドリック・ヴォトリッヒ
 アンドレス:高野二郎
 大尉:フォルカー・フォーゲル
 医者:妻屋秀和
 第一の徒弟職人:大澤健
 第一の徒弟職人:星野淳
 白痴:松浦健
 マリー:ウルズラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネン
 マルグレート:山下牧子
 マリーの子ども:中島健一郎
 兵士:二階谷洋介
 若者:小田修一

 合唱:新国立劇場合唱団
 児童合唱:NHK東京児童合唱団
 管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

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