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■新国立劇場オペラ――ジュゼッペ・ヴェルディ「オテロ」(全4幕)
2009年10月6日(火)18時30分開演 新国立劇場オペラパレス
新国立劇場オペラ部門の2009/2010シーズンオープニング公演。当初行く予定だった日に仕事が入ったため、チケットを職場の同僚に譲り、あらためて楽日を観ることにしたが、この日は思わぬハプニングがあった。第2幕と第3幕の間の休憩後、女声のアナウンスでまず「開幕が遅れます」とあり、だれかの不具合は察せられたが、20分ほどたって今度は「指揮者のフリッツァが体調不良のため、指揮者が新国立劇場音楽ヘッドコーチの石坂宏に交代します」というアナウンスが流れた。客席は一瞬ざわついたが、ピットに指揮者が登場すると、どこからともなく温かみのある拍手がおこった。石坂の指揮については後で述べるように、フリッツァと明らかにテンポ感が違うことは否めない(特に第3幕)が、ともかく急な代打で後半をまとめた点は敢闘賞としておきたい。終演後、新国立劇場の係員によると「フリッツァは肩を傷めて振れなくなった」とのことで、一説には「右肩の脱臼」らしい。NBSあたりならササチュウ氏が舞台に現れて「おわび」を言うのだろうが、若杉氏亡き後の新国には、そういう体制が整っていない状況も透けて見えてくる。
それはともかく、今シーズンのオープニング公演は、全体としてまずまず楽しめる水準だった。舞台を牽引したのは、私見では、前半はイアーゴ役のルチオ・ガッロ、後半はデズデーモナ役のタマール・イヴェーリであり、また、アクシデントに見舞われたものの、千秋楽まで全体を統率した指揮者のリッカルド・フリッツァだろう。
イアーゴ役のルチオ・ガッロは、声の力でぐいぐい引っ張るタイプではないが、クールに奸計をめぐらす知能犯的な人物像を緻密な歌唱でつくりあげ、その場の雰囲気をつくってしまう演技力も素晴らしい。たとえば、第1幕の悪意をこめた乾杯の歌「喉をうるおせ」の場面での顔の表情、第2幕でオテロがデズデーモナを疑い始める場面では、離れたところを歩きながらほくそ笑むといった演技も、性格俳優的で念が入っている。この役最大の聴かせどころである第2幕の「クレード」の歌唱もやや線が細いが、感情過多でなく知的で神経の行き届いた表現だ。
デズデーモナ役のタマール・イヴェーリ。もともとこの役はノルマ・ファンティーニがやる予定だったが「健康上の理由」で降板し、代役として新国立劇場に初登場した。グルジア出身でまだ若手といってよいが、2003年にポーランド国立歌劇場来日公演で同役を歌い、同年のミラノ・スカラ座来日公演でもアンドレア・ロシュトの裏番で歌っているそうだから、この役に関してはキャリア十分と言ってよいだろう。やや小柄、丸顔で眼が大きいチャーミングな歌手で、同時に若々しい色気も感じさせ、この演出のデズデーモナとしては、ファンティーニ・ファンには悪いが、かえって合っているかもしれない。東欧系らしいやや暗めの声質だが、ヴィヴラートが小さく、音程が正確なのも良い。特に第4幕の「柳の歌」から「アヴェ・マリア」にかけては、歌詞の内容を的確に伝える緻密でしっとりとした表現で、彼女の悲しみを歌いあげ、客席の耳目をひきつけた。後半のフリッツァ降板という困難な状況を建て直したのは、彼女の功績によるところが大きい。
オテロ役のステファン・グールドについては、すでにあちこちのブログで賛否が分かれているが、管理人も上の2人に比べると評価は微妙。もともとヘルデンテノールなので、ヴェルディ作品には声がいささか堅く、高音がくぐもった感じに聴こえてしまうのだが、疲れもたまっているのか、冒頭の「喜べ!」では最高音がかすれてしまった。第1幕の「愛の二重唱」もどこか上の空。その一方で、第2幕のイアーゴとの「復讐の二重唱」は健闘したし、第4幕のデズデーモナの死を嘆く「恐れることはない」は感情が伝わってくる。楽日ともなると全編フル回転とはいかないのかもしれないが、気合いの入ったところと、力の抜けたところの段差が歴然と分かるのは、どうしたものだろうか。
カッシオ役のブラゴイ・ナコスキは、長身で若々しく見栄えも良く、この役に合っていると思うが、声の線が細いため、この面子のなかでは沈んでしまった。日本人歌手は今回ほぼ藤原歌劇団勢によって占められたが、そのなかでは、エミーリア役の森山京子が丁寧な歌唱で存在感を示した。
前半のフリッツァの指揮は、アップテンポでやや前のめりになる感じはあるが、緊迫感が持続し、東フィルから艶やかな音を引き出し、かつ豪快で、聴きごたえがあった。彼はかなり強引なところのある人物のようだが、「マクベス」「アイーダ」に続き、実力の高さを発揮した。ところが上に述べた事情で、第3幕からは指揮者が石坂宏に交代した。この指揮者は初めて見たが、1987年に渡独し、スイス・バーゼル歌劇場、ドイツ・キール歌劇場で専属指揮者を歴任するとともに、89〜2004年にフライブルク国立音楽大学オペラ科講師をつとめ、07年9月より新国立劇場で活動、08年4月より同音楽ヘッドコーチに就任したという。慶応大学出身というから、奇しくも若杉氏の後輩ということになる。ピンチヒッターの指揮が安全運転に徹せざるを得ないのは致し方ないが、第3幕ではオケも歌手も様子見になった感は否めない。もっとも第4幕では、イヴェーリの歌う静かなスローテンポのところを丁寧にリードした点など、要所を締めた点は評価しておきたい。新国立劇場合唱団は、初日を聴いた知人が冒頭の合唱を絶賛していたが、声量はあるしよく揃っていることは認めるけれども、厚みを感じられないのは気のせいか。それから、効果音のPAの音が大きすぎるし、何やらブーンというノイズがずっと聴こえていたのは、どうにかならないか。
マリオ・マルトーネの演出について。公演パンフレットのプロダクションノートで、マルトーネは「私が特に注視するのはイアーゴです。私にとって、彼を理解するキーワードは『蜘蛛の巣』です。今回の舞台装置が表すのはヴェネツィアという街の空間ですが、それはオテロの心の中の都市であり、あたかも蜘蛛の巣が張っているかのような、迷宮としてのヴェネツィアなのです。といいますのも、この物語におけるヴェネツィアとは、つまり『イアーゴの街』であり、この悪人が君臨する土地であるからです。オテロはそこでは『異邦人』のままです。イアーゴが自分で糸を吐いて作り上げた巣に等しいこの街では、糸の部分が道であり、糸と糸の間の空の部分、それが水の世界になります」と語っている。
こうして舞台をキプロスではなく、ヴェネツィアにおきかえ、装置を一杯飾り(転換のない舞台セット)にして、舞台上に水をはって運河に見立てるという趣向をとった。また、第2幕では、照明で波のゆらぎをつくりだし、その場面ではデズデーモナがロデリーゴを誘ったり、キャシオとキスシーンを演じたりするといった、主人公の「妄想」を可視化するという手法も見せた。この演出については、賛否両論がありえよう。水路の緑色に濁った水にイアーゴの心の闇が象徴されていることは、第2幕の「クレード」で彼が水をすくって壁に十字を書いたうえで、それに水をかけて消してしまうという行為に、端的に表現されている。神をも恐れぬ人物像の表出と言えるだろう。先にガッロの歌唱についてのべたが、イアーゴの人間像がよく彫琢されているのはマルトーネの演出によるところも大きく、この作品の真の主役がイアーゴであることが明瞭に浮かび上がってくる。同時に、そのことによって逆に、オテロの存在感は薄くなることも事実。また、舞台設定の置き換えの問題としては、ヴェネツィアを舞台にしてしまうと、第3幕でヴェネツィア総督の命令が発せられるところは、舞台設定と歌詞とがちぐはぐになってしまう。オテロの「妄想」という形でデズデーモナのエロスを可視化してみせるのは、演出意図として分からなくもないが、いささか説明過剰な印象も残った。
来年2月には二期会が白井晃演出で「オテロ」をやることになっているが、さてどうなることやら。
《追記》
「良家の娘は黒人と駆け落ちすべからず、人妻はハンカチ類を失くさぬよう用心すべし、夫は証拠を十分確認してから嫉妬すべし」――トマス・ライマーという人物が『悲劇管見』(1693年)という書物で「オセロー」の欠陥をあげつらいつつ、この芝居の示す教訓として、こんなウィットを飛ばしたそうである(白水社Uブックス版『オセロー』の渡辺喜之氏の「解説」による)。人種偏見的表現はともかく、オセローが軍人にしてはあまりにだまされやすいことなど、設定の弱点を突いた批評として、なかなか鋭いのではないだろうか。
【データ】
指揮:リッカルド・フリッツァ
演出:マリオ・マルトーネ
オテロ:ステファン・グールド
デズデーモナ:タマール・イヴェーリ
イアーゴ:ルチオ・ガッロ
ロドヴィーゴ:妻屋秀和
カッシオ:ブラゴイ・ナコスキ
エミーリア:森山京子
ロデリーゴ:内山信吾
モンターノ:久保田真澄
伝令:タン・ジュンボ
合唱:新国立劇場合唱団
児童合唱:NHK東京児童合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー管弦楽団
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