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八 いいや、ここんとこ10日ほど 見ないね。おおかた、引きこもりの 息子に包丁で刺されて、 くたばっちまったんじゃないか? 熊 この頃、ヤな事件が多いからって そんな物騒なこと言うもんじゃないよ。 それに、ご隠居さんところは 娘さんしか、いねぇよ。 八 じゃあ、タウリンで毒殺か…。 熊 どうしても殺したいんだな、 おまえは…。それに、タウリンじゃなく タリウムだったろう。タウリンは ファイトー・イッパツーッってやつに 入ってる元気成分だろ。とは言え ともかくご隠居さん、歳も歳だし心配だね。 まさか、死んじゃいないと思うが、 ちょっと、様子を見に行ってみるかい。 * 八 ちわっー。ご隠居さ…、あれ? あ、動いてらぁ。生きてる。 熊 書き物してる…。 隠居 おい、八っぁん、入ってくるなり 生きてるって、どういう意味だい。 八 いけねぇ、聞こえてたか。いえ、あの、その、ここんところ あんまり姿が見えないんで、娘さんに毒・…ど・ど…ど、 いや、ど・どこか具合が悪いか聞こうと思いまして…。フーッ。 隠居 おや、心配してくれたのかい。うれしいねぇ。 どこも悪くないよピンピンしてる。N.Y.から帰ってから 仕事がちょっと溜まってたもんで精を出してただけのことだよ。 でも、ま、ひと区切りついたんで、あがって、お茶でもどうだい? 八 ん、じゃ、そうするか。ばあさん、 おーいお茶、それに羊羹を…。 隠居 これ、それは私のセリフだよ。 ま、いいや。そうそう、お茶と言やあ、 N.Y.でもずいぶん緑茶が飲まれるように なったようで、アッパーウエストに 日本茶の葉を売る専門店があってね。 熊 へー、日本茶を? 隠居 中に入って聞けば、伊藤園の 経営だということだったが、お客さんは アメリカ人のセレブっぽい人ばかりで たいそうな人気だったよ。500mlの ペットボトルの「おーいお茶」も 売っていて、1.5$だったから そんなに高くはなかったね。ただ、
whole foodsというマーケットの中の
お寿司屋さんで、お茶を頼んだら日本人の板さんに、2$ですが いいですかって、確認されたね。 八 なにぃ、寿司屋で上がりをもらうと 2$? それはいけねえ。マリアンだ。 熊 お前さんが言いたいのは、 あんまりだ、だろ? 八 アメリカじゃ何でも 逆に言うんだって聞いたぜ。 熊 かばねし! 八 ? 熊 死ね、バカ、ってことだよ。 隠居 まあまあ、つまんない言い合いは およしなさい。確かに、寿司屋で上がり1杯が 2$というのは暴利には違いないが、 日本でもコーヒーが200円、300円は普通だし、 高い店だと1000円なんて店だってあるだろ。向こうじゃ1$で 飲めるところがウンとある。 郷に入れば郷に従えで、おあいこだ。 隠居 おー、よくわかったね。メトロポリタン美術館だ。 熊 いいんですか、写真、撮って…。 隠居 おー、熊さんは物知りだね、 たいがいの美術館が撮影禁止なことをよく知っているね。 ところがだね、、 このメトロポリタン美術館という所は ストロボを焚かなければOKと しごく太っ腹なんだ。それだけでなくって、 名画がガラスケースにも入れられずに飾ってあって 絵の具の匂いがするほど近寄ることもできるんだよ。 八 指紋をつけたりして? 隠居 これ、世界的な遺産に指紋をつけてどうする。 もちろん、角々に警備員はいるし、きっと、何かすごい アラームシステムがあるはずだが それにしても鷹揚なもんだったね。 熊 広いんですよね、この美術館は。 隠居 1日や2日では見切れない 広さだね。あたしの場合は、100以上 ありそうな部屋の2つだけを選んで 鑑賞してきた。オランダ・ルーム。 世界で35・6点しかないと言われている フェルメールをここだけで5点も 持っているということだったので。 ついでといったら失礼だけど レンブラントもたくさん見てきた。 たった、2部屋なのに、それでも 2時間近くかかってしまったよ。 八 フェル…なんとかってのは ご隠居さんのお気に入り…? 隠居 うん、うん、ここ数年 フェルメールの小説や映画を見たり その絵が出てくるミステリーを何冊か 読んだりしたもんだから、ちょっと 詳しくなってしまって…。 何年か前に、日本でも展覧会があったんだが、 確か、大阪だけで行われて、東京の人間は 悔しい思いをしたしね。 で、このメトロポリタンの近くにある フリックコレクションという 別の美術館にも、フェルメールが 3点あるというので、そこへも 行って来た。こちらの美術館は さほど大きくないが、鉄鋼王の 豪奢なお屋敷をそのまま使ったもので 絵だけでなく、インテリアも なかなか見応えがあって、いい 目の保養をさせてもらった。ここの フェルメールも、柵やガラス棚に 遮られるず、鼻づらをつきあわせて 眺めていたんだが、あんまりにも 近づきすぎていたらしくて 警報が突然なり始めたりして…。 もちろん撮影も禁止だった…。 八 世界的な遺産に、鼻息をかけて どうする。 隠居 あ、これは一本取られたね。 それはともかく、半日で、現存する フェルメールの絵の22%を 今回の散歩の大成果だったね。 熊 あれ? ご隠居さんのN.Y.は 散歩だったんですか? 旅行じゃなくって。 隠居 飛行機に乗って行ったんだから 厳密に言えば旅行なのかもしれないが 添乗員もなし、ガイドブックもなし。 気の向くままに、コースも決めず 五感と足だけを頼りに、毎日3万歩、 N.Y.の住民気分で歩いていたから、 散歩と言ったほうが近い感覚だな。 熊 3万歩ですかぁ。足が痛く なったりしませんか? 隠居 さすがに2万歩を超えると、 そこかしこが悲鳴を上げてくるね。 熊 でも、切り上げない? 隠居 デリで休憩したりして 回復したらまた歩く。 おかげでデリ事情に詳しくなった。 熊 おい、八。おまえ、ちっと 違うことを想像してないかい? 八 ……。 熊 ご隠居の言うデリというのは デリカテッセン…惣菜のことで、 まあ、日本で言えばコンビニと カフェをまぜたようなもんらしい。 八 ふー、驚いた。あっしはまた デリヘルかと思った。 熊 ご隠居がそんなものに用が あるわけないだろ。 隠居 信用されてるんだか、バカに されてるんだか…。ま、ともかく 疲れたな、と思ったら、デリに入る。 コーヒーを飲んだり、おやつがわりに スープやベーグルを買って食べたり、 おかげでデリ事情に詳しくなった。 ロスあたりの西海岸では、日本の コンビニもちらほら見かけるが N.Y.はデリ王国なので、さすがの コンビニも進出できないようで 今回はまったく見なかったねぇ。 熊 デリのメニュー、結構、 おしゃれですね。アメリカっぽく もっと無骨でデカいのかと…。 隠居 いや、ほとんどが熊さんの 言うようなもので、この写真は 東京で言えば青山のような おしゃれ系タウンにある店のもの。 バカ食い系のデリしかないときは たとえば、公園のベンチに座って、 ヒマをつぶしてる金髪美女や 赤ちゃんを散歩させてる ベビーシッターの様子なんかを 観察したり、本屋さんに寄って 写真集を眺めたり あるいは、教会の信者席に座って ステンドグラスを眺めたり… 足を休めているときも、 見るモノが多くって退屈しなかった。 熊 ウォーキングにもいろいろワザがあるんですねぇ。 隠居 まあ、散歩だけに、テクにはこと欠かない…。 熊 なーる。うまい、座ぶとん1枚。 |
ニューヨーク寄席
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隠居 おい、そこを行くのは熊さんじゃないかい。
お松さんの具合はどうだい? 熊 具合? ウチのカカアの? 別段 変わったことはありませんが? 八のヤツが、さっき飛び込んできて お松さんが血を出して倒れたって、 言ってやがったが…。 熊 ああ、あれですか。いや、何、 少しばっかし鼻血を出しただけで…。 隠居 何だぁ、鼻血かぃ。こら、八、 大袈裟に言うんじゃないよ。 八 いえね、あのー、血も涙もない お松さんが血を出してたんで、 すっかり驚いちまって…。 熊 血も涙もない? どういう意味だ。 八 だって、N.Y.行くんで、 ゼニを貸してくれって頼んだら ははは、と笑いやがって…。 熊 そりゃ、誰だって笑うさ。 正直に、銭湯代がない、って 言えばいいものを。 隠居 まあまあ、バカな話はその辺で。 ところで、お松さん、鼻血とは一体 どうしたっていうんだい? 八 いえね、昨日、ご隠居に 借りた写真を家に戻って、 松のヤツに見せたら とたんに鼻血を出したってわけで…。 隠居 おや、おや。で、 どんな写真だったんだい? お松さんが鼻血を出したのは…。 八 これでさぁ。 隠居 おーこれかい。これは、 アバクロって店の男の子だ。 正式には Abercrombie & Fitch、 アバクロンビー・フィッチ。 若い人のファッションブランドの店で まあ、日本で言えば、 ユニクロのような店だと思えばいい。 店んなかはクラブのように暗くって、 商品にだけスポットライトが 当たっていて。音楽もガンガン 鳴っていて、まあイマドキの 言い方をすれば「いけてる店」だな。 熊 洋服を売ってる店で、 なんでまたハダカの男がいるのか 合点がいかねぇ。 隠居 もっともだな、それも。 まあ、客寄せだな。何でも、 オーディションをして集めた 看板娘ならぬ、看板イケメン君らしい。 選りすぐりの美形を集めてるそうで、 聞いた話では1ドル払えば、いっしょに 記念写真に入ってくれるとか。 アメリカの女の子も日本の娘と同じで きゃきゃあ言いながら、カメラを 構えておったわ。 八 ああ、嘆かわしい! 男は 顔じゃないんだがなぁ。 熊 悪いが、顔のまずいおまえが そんなことを言ってもなぁ…。 ところで、ご隠居さん、この写真の 男たち、ずいぶんベルトの位置が 低いように見えるんですが…これが かっこいいってわけですかい。 '隠居 ローライズと言ってな、 足の長い国の人たちの発明らしいが 最近では、日本でも女性たちに、 たいそう人気じゃよ。ほれ、よく お尻を出し加減で闊歩しとる子を 見かけるじゃろ。こんな激しいのは さすがにあまり見ないが…。 お松さんは、この一見、見えそうな アブナイ恰好に動転したってわけか。 熊 面目ない。その通りで。 隠居 お前さんが謝るこたぁないよ。 あたしだって、美形の金髪女性に ずっとクラクラしっぱなしだったから。 この店の近所に、両側に宝石店が並ぶ ダイヤモンド通りってところがあって ちょうど朝の開店前に通りがかったら どの店も、店員がショーウインドーに 商品を並べておったんだが、その 美しいこと。まるで品評会じゃ。 お金もないし、貢ぐ女もいないもんだから 店の中に入って、宝石を見るこたぁ できないんだが、美女を眺め歩くだけで、 気持ちはジュエリーだったね。 航空賃の元を取ろうってコンタンで 2回も通りを往復したりしてね。 ついつい、飾り窓の女なんて言葉を 思い出してしまってな。 八 ♪いーけないんだ、いけないんだ。 熊 八つぁん、飾り窓、知ってるのか? いけないんだ、なんて言ってるが。 八 知らない。 熊 なんだい、知らねえのかぁ、ほら、 教会のきれいなガラス窓があるだろ、 あれだよ、あれ。 隠居 これこれ、ウソ教えちゃちゃあ いけないね。教会の窓はステンドグラス。 飾り窓ってのはオランダの色町のことだ。 窓越しに女性を品定めするんで、 そんな名前がつけられたってわけだ。 ユダヤの商人ってことばがあるが、この 通りの宝石店はほとんどユダヤ人の経営。 金融や映画産業同様、ユダヤ人が 宝石業界も握っているようだ。 まあ、しかし、この店の女性に限らず あたりを歩くニューヨーカーは 別に気張っているわけじゃないのに なんだか美しくって、お松さんじゃないが きょろきょろしちゃあ、 May I take a photo? ばかり 口をついてきてしまったね。 八 あ、ご隠居さん、英語 しゃべれるんだぁ。 隠居 いや、その程度だよ。 あとは辻元議員サンと同じで ソーリー、ソーリーの連発で。 八 あ、それならわかるぞ、 アイム・ソーリー、ヒゲ・ソーリー、 アーメン・ソーメン・ヒヤソーメン…。 熊 何をくだらねえことを…。 隠居 そうそう、そのアーメンで 思い出したんだが、ニューヨークの町は 繁華街の華やかなブランドショップや 高層ビルの隣に、突然、立派な由緒ある 教会がひょっこり現れたりして 言ってみれば、銀座や青山、六本木に 増上寺や浅草寺が建ってるような、 そんな感じがなかなか楽しい町だな。 ふらっと入って、パイプオルガンの 演奏を聴きながら、しばらく座ってると どこの国にいるのか忘れちまいそうで。 八 お賽銭はあげねえんですか? 隠居 日本の神社と同じで、だいたい 入り口に献金箱があるので、コインやら 1ドル札を入れてきたよ。ともかく N.Y.という町、キャンディ箱のように 色んなものがキラキラ詰まった町だと 言えるかもしれない。ほら、これが お上りさんよろしく、高いビルから 撮った写真だ。雑多な、それでいて きれいな町っていう感じがわかるだろ。 おー、長話をしてしまったな。 ま、きょうのところは、このあたりでお開きとしようじゃないか。 熊 あれ? オチはないんすか? 隠居 高いビルの話で、落ちてたら、命があぶないだろう。 |
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八 あんまり見ねえもんで、 とうとう行っちまったか、と…。 隠居 おや、心配してくれたのかい。 うれしいいねえ。 熊 で、ご旅行とか? どちらへ? 八 冥途にきまってらぁ。 隠居 これこれ、冥途に行ったら、 帰って来るわけいかないだろ。 うん、旅行と言うより散歩なんだが ちょっとニューヨークに。 八 なんだ、銭湯へ散歩かぁ。 熊 違うよ、八。アメリカだよ。 自由の女神やら、摩天楼のある…。 八 エッフェル塔やらピラミッドやら。 隠居 八は、外国はどこも同じ国だと思っているようだな。 今回は、アメリカの、しかもニューヨークの、その中の マンハッタンの、さらに上のほうだけ、 ほんの点のようなところだけだよ。 熊 じゃあ、グランド・ゼロには行かず? 隠居 お、熊さんは学があるね。あのあたりは 散歩はしなかったが、仕事の関係の女性の マンションに行ったときに、途中で見たよ。 八 なんでえ? そのグランドゼロってのは。 熊 ほら、何年か前に、ビルに飛行機が飛び込んで、 そのビルが崩れてたくさん人が死んだろう。 9月11日の、ビン・ラディン…。 八 ♪ビン・ビン・ビ・ビン…。恋のダイアル6700…。 隠居 これ、そんなところに、フィンガーファイブの 節をつけるヤツがいるかい。不謹慎というものじゃ。 で、そのビルの跡地はまだ工事中の空き地のままで、 倒れたビルの鉄骨で作られた十字架だけがじっと立っていて…。 何だか、心に迫ってくるものがあったね。 熊 そんなところの近くに ご隠居の知り合いが住んでいる? 隠居 おー、そうなんだよ。事件の前は この辺はビジネス街だったんだが みんな出て行って、人気が ガタ落ちなので、多くのビルが 住居用に改造しているらしい。 彼女の住まいも、元は大きな 金融会社が入っていたビルとかで、 1階のロビーはその当時のままの 受付があって、黒人のかっこいい ガードマンが座っていた。 地下には、当時の従業員用の ジムがちゃんと残されていて、 住民なら無料で使えるんだそうな。 八 ウチだってジムあるよ。毎日、懸垂してる。 熊 お前さんのは、かもいにぶら下がっているだけじゃないか。 隠居 ほら、この写真が、彼女の仕事場兼住まいだ。 熊 ういー、家賃、高そうゥ。 隠居 熊や八の長屋の家賃よりは高いが、 それでも広めの1LDKなのに かなり安いね。マンハッタンの 他の地域だと4000ドルや 5000ドルはするらしいねぇ。 熊 うーん、払えそうもないなぁ。 八 ドルなんて持ってないし…。 熊 そういう問題じゃないだろ。 ところで、ご隠居さん、 ミュージカルは? 隠居 いや、今回は見ていない。 ただメトロポリタンで ドニゼッティの「愛の妙薬」という オペラは見たよ。 八 何すか、その地下鉄の ポリタンクてのは。 隠居 ポリタンクじゃないよ、 メトロポリタン歌劇場という 有名な歌劇場の名前なんだ。 近代的な建物だが、それでも 40年は経っているとかで 2階にはシャガールの大きな 壁画が2枚もかけられている 立派な劇場だ。 ほんとはヘンデルのオペラを 見るつもりだったのだが、 チケットが売り切れてしまって、 この「妙薬」にしたというわけだ。 熊 紋付き袴の正装で? 隠居 いや、普通のスーツで 行った。ドレス・コードは特に ないようで、アカデミー賞の たくさんいたが、ジャケット 程度の人も多かったね。天井桟敷には ジーパン・スニーカーの若い人もいたし。 そうそう、そういえば、ゴムぞうりに カルバン・クラインのスーツといった キャリア女性ふうの人も随分見かけたよ。 どうも流行っているようだね。 ビーチサンダルならぬタウンサンダル。 熊 へー、ゴムぞうりですか。 牢屋の囚人みたいですねぇ。 隠居 熊さんの古巣だね。 熊 あっしらの頃は裸足でし… 何を言わせるんですか、人聞き悪い。 隠居 5番街のちゃんとした靴屋の ショーウインドーにも飾ってあったし スニーカーにドレス、という 組み合わせにようやく馴れたと思ったら もう次のものが流行はじめて… めまぐるしいね。 八 次はワラジでしょうね。ウチの 便所のワラジを持っていって、女のコに 渡したら喜ばれるでしょうね。 隠居 八っぁんにしては洒落たことを 言うね。まあ、やってみてごらん。ついでに 納屋にある、火ばしもつけてあげれば まあ、キスのひとつぐらいはしてもらえるかもしれない。 熊 それこそ愛の妙薬ですね。 隠居 なるほど、オチをつけてくれたところで 続きはまたの機会にしようか。 |
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