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 2008年(平成20年)7月21日のアサヒ新聞に以下の文章が書いてありました。

 風向計:若宮啓文(本社コラムニスト)
 『竹島と教科書』 笑っているのは誰か

 「いっそ、こんな島は爆破してしまえばいい」と、日本外務省の高官が口にしたのが韓国側の議事録に残っている。いや、韓国の大統領がそう言ったのだ、という説も根強い。
 日韓基本条約の交渉が竹島(韓国名・独島)の領有権をめぐって難航したころの話だ。結局、この問題は棚上げされて1965年に条約はできたが、ノドに刺さった骨が抜けたわけではない。
 その骨が、また激しくうずいている。
李明博大統領と福田首相が日韓関係を前向きに動かし初めた矢先に、何という皮肉だろう。
 これに韓国が猛反発した。駐日大使を帰国させたり、日本大使館の敷地に卵が投げ込まれたり。「表では笑い、裏では裏切る」「厚顔無恥な歪曲」といった言葉が新聞などにあふれている。
 ほくそ笑んでいるのは、北朝鮮の金正日総書記に違いない。牛肉輸入の問題で米韓の亀裂が深まったのに続いて、日韓までこの始末だ。李政権が打ち出した「日米韓の連携強化」は、労せずしてガタガタではないか。
 折も折、北朝鮮兵士が金剛山で韓国人女性を射殺した。日本は拉致問題の解決へ躍起である。そして、大事な段階にきた北朝鮮の核問題。どれ一つとっても日韓の協力や結束が大事なのに、いったい何をしているのだろう。

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 3年前、島根県の「竹島の日」で騒動になったころ、私は当コラムで「いっそのこと島を譲ってしまい、『友情島』にしてもらう」との「夢想」を書いた。おかげで「国賊」ともたたかれたが、思い切ってトゲを抜き、東アジアの自由主義国どうし絆を固められるなら勘定も合わないか、ものは考えようだ、という発想だった。
 それが現実になろうとも思わないが、それにしても、「独島」に寄せる韓国の情念を知りつつ、なぜまた刺激するのか。小泉政権で決まった方針とはいえ、このセンスはどんなものだろう。
 と、しばし嘆いた後で気がついた。待てよ、ものは考えようだ。
 そもそも「竹島は我が国固有の領土で、韓国に不法占拠されている」というのが、これまで一貫した日本政府の見解だ。政府の見解を学校では教えるな、というのもいささか無理がある。
 しかも政府は悩んだ末、竹島を教える際に日韓の「主張の相違」に触れるよう求めた。 自分の立場だけでなく、相手の言い分も聞いてみよう、ということだ。
 3年前には、竹島について日韓が「対立している」と書いた中学の教科書が、文部科学省の検定によって「韓国が不法占拠している」と書き換えられた。百八十度ともいえる今度の転換を、韓国もけなすばかりではもったいない。
 いや、この意味は案外もっと大きいかもしれない。教科書や授業で韓国の主張に触れるとあれば、子供たちに少なくとも過去の植民地支配や、支配された側の思いを伝えないわけにはいかない。
 とかく現代史を知らずに育ってしまう日本に子供たちにとって、竹島が「過去」に触れる入り口になるなら結構なこと。日本にはいい先生も少なくないし、教え方によっては可能性も広がるだろう。そういう発想はできないか。
 ところで、竹島が「我が国固有の領土」かどうかは日韓の相違だけでなく、実は日本の中にも長い論争がある。政府見解を否定する研究者も少なくないのだ。
 いまは島根大の内藤正中名誉教授らがそうだ。明治政府は竹島を韓国領だと見ていながら、軍事的な思惑などで1905年に島根県に編入した。そんな見方を著書や論文で展開している。
 そしそうなら、日本の竹島編入は韓国併合への前段階だったわけで、韓国が「奪われた島」に格別な思いを抱くのも理があることになる。日本では定説になっていないこうした見方も、内務省などの資料による論証だから軽視できまい。
 ならば、と私も書物を比べて読んでみるが、古来の文章は島の名称からして入り乱れ、歴史も法的解釈もややこしい。だからこそ専門家の見方が割れるのだが、私にも分かるのは、島の所属も昔はひどくあいまいで、さして大きな問題ではなかったこと。それが、近代になって違ってしまった。
 昨今、領土となると「断固」や「毅然」の言葉が行き交いがちだが、大事なのはむしろ昔のあいまいさを思い、未来に向けて柔軟な発想をすることではないか。
 それは、韓国にも言いたいことだ。この島を植民地解放の象徴と特別視する気持ちは分からぬではないが、さりとてまるで宗教争いのように、異論を激しく排斥するばかりでは話が進まない。
 「君の意見には反対だが、君がそれを言う権利には賛成する」とは、仏蘭西の思想家ボルテールが残した自由主義の原理だ。この精神は忘れずに論じ合いたい。
 「何が言論の自由だ。何が民主主義国どうしの連携だ」。そんな北の高笑いは聞きたくない。

 
以上アサヒ新聞より

 この若宮さんですが、3年前にも凄いことを書いています。以下それも紹介します。

 言論の覚悟 ナショナリズムの道具ではない

 教育基本法に「愛国心」が盛り込まれ、防衛庁が「省」になることも決まった日の夜だった。
 「キミには愛国心がないね」
 学校の先生にそうしかられて、落第する夢を見た。
 いわく、首相の靖国神社参拝に反対し、中国や韓国に味方したな。
 卒業式で国旗掲揚や国歌斉唱に従わなかった教職員の処分を「やりすぎ」だと言って、かばったではないか。
 政府が応援するイラク戦争に反対し続け、自衛隊派遣にも異を唱えて隊員の動揺を誘うとは何事か。
 自衛隊官舎に反戦ビラを配った者が75日間も勾留(こうりゅう)されたのだから、よからぬ記事を全国に配った罪はもっと大きいぞ、とも言われた。「そんなばかな」と声を上げて目が覚めた。
 月に一度のこのコラムを書いて3年半。41回目の今日でひとまず店じまいとしたいのだが、思えばこの間、社説ともども、小泉前首相や安倍首相らに失礼を書き連ねた。夢でよかったが、世が世なら落第どころか逮捕もされていただろう。
    ◇
                  中略
    ◇
 こんな古い話を持ち出したのも、いま「言論の自由」のありがたみをつくづく思うからにほかならない。現代の世界でも「発禁」や「ジャーナリスト殺害」のニュースが珍しくない。
 しかし、では日本の言論はいま本当に自由なのか。そこには怪しい現実も横たわる。
 靖国参拝に反対した経済人や天皇発言を報じた新聞社が、火炎ビンで脅かされる。加藤紘一氏に至っては実家が放火されてしまった。言論の封圧をねらう卑劣な脅しである。

 気に入らない言論に、一方的な非難や罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせる風潮もある。それにいたたまれず、つい発言を控える人々は少なくない。この国にも言論の「不自由」は漂っている。
 私はといえば、ある「夢想」が標的になった。竹島をめぐって日韓の争いが再燃していた折、このコラムで「いっそのこと島を韓国に譲ってしまったら、と夢想する」と書いた(05年3月27日)。島を「友情島」と呼ぶこととし、日韓新時代のシンボルにできないか、と夢見てのことである。

 だが、領土を譲るなどとは夢にも口にすべきでない。一部の雑誌やインターネット、街宣車のスピーカーなどでそう言われ、「国賊」「売国」「腹を切れ」などの言葉を浴びた。
 もとより波紋は覚悟の夢想だから批判はあって当然だが、「砂の一粒まで絶対に譲れないのが領土主権というもの」などと言われると疑問がわく。では100年ほど前、力ずくで日本に併合された韓国の主権はどうなのか。小さな無人島と違い、一つの国がのみ込まれた主権の問題はどうなのか。
    ◇
 実は、私の夢想には陰の意図もあった。日本とはこんな言論も許される多様性の社会だと、韓国の人々に示したかったのだ。実際、記事には国内から多くの共感や激励も寄せられ、決して非難一色ではなかった。
 韓国ではこうはいかない。論争好きなこの国も、こと独島(竹島)となると一つになって燃えるからだ。
 そう思っていたら、最近、発想の軟らかな若手学者が出てきた。東大助教授の玄大松(ヒョン・デソン)氏は『領土ナショナリズムの誕生』(ミネルヴァ書房)で竹島をめぐる韓国の過剰なナショナリズムを戒め、世宗大教授の朴裕河(パク・ユハ)氏は『和解のために』(平凡社)で竹島の「共同統治」を唱えた。
 どちらも日韓双方の主張を公平に紹介・分析しているが、これが韓国でいかに勇気のいることか。新たな言論の登場に一つの希望を見たい。
 日本でも、外国の主張に耳を傾けるだけで「どこの国の新聞か」と言われることがある。冗談ではない。いくら日本の幸せを祈ろうと、新聞が身びいきばかりになり、狭い視野で国益を考えたらどうなるか。それは、かつて競うように軍国日本への愛国心をあおった新聞の、重い教訓ではないか。
 満州へ中国へと領土的野心を広げていく日本を戒め、「一切を棄つるの覚悟」を求め続けた石橋湛山の主張(東洋経済新報の社説)は、あの時代、「どこの国の新聞か」といわれた。だが、どちらが正しかったか。
 最近では、イラク戦争の旗を振った米国のメディアが次々に反省を迫られた。笑って見てはいられない。
 だからこそ、自国のことも外国のことも、できるだけ自由な立場で論じたい。ジャーナリズムはナショナリズムの道具ではないのだ。

    ×    ×
 このコラムは終わりますが、今後も折に触れて紙面でお目にかかります。「風考計」の連載分は来春、朝日新聞社から出版される予定です。


 長くなってしまい申し訳ありません。そもそも、自国の領土を、それも不法に占拠されている領土を「譲る」などと言ったら批判されるのは当然で、右とか左の問題ではないはずです。

 この御仁は、秋葉原の通り魔や八王子書店員殺人などの犯人と同じく自己完結型の人間(=客観的な事実や周りの声には一切耳を貸さず、自分の殻に閉じこもりその自身の世界だけで物事の基準や価値観を決めてしまう人間)だと思います。こういう人間は狂信者になったり、極端な思想に取り付かれがちで、とても危険です。ですが、今の日本ではこの自己完結型の人間が増えているようです・・・。

 韓国はこの若宮発言を歓迎していて、中央日報が進歩性向紙のコラムニストとしてわざわざ載せています(http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=102750&servcode=A00§code=A10)。

 アサヒ新聞と言えば、月刊誌「論壇」の休刊(廃刊)が決まったばかりです。もはやアサヒ新聞の主張を本屋でお金を出して買う人間などほとんどいないことの表れでしょう。
 

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前回が以外に好評?だったので、第二段もやってしまいます。第二段は暑い毎日が続くことも考慮しまして、精神的に涼しさを感じてもらうべく、モーリス・ラヴェルの「水の戯れ」をお送りしようかと思います。

この曲は昔、コンクールで弾いた曲です。いくつかの中から選択して弾くというものでして、私は迷うことなくこの曲を選びました。私の見解としては、この曲のイメージは、「全体な雰囲気は同一性を維持しつつも、時に緩やかに流れ、時には噴出するくらいの荒々しさを出す、まさに水のように様々な形を顔を見せてくれます。」水は偉大です。

音楽は不思議なものでして、同じ曲なのに弾く人によって音がまるで違います。まるで生き物のようです。私は、かつて(ピアノの)先生に作曲を勧められました。それは自分で音を紡ぎ出すようになれば、楽譜に書かれている音符の意味なども(自分なりに)見えてくるようになると。つまり「音を知るようになる」と。ある程度練習すれば、楽譜通りに弾けますが、それは自分の音ではありません。楽譜を読み込んで消化して自分なりに解釈してはじめて自分の演奏が出来るというのです。そのことを当事の私がどれだけ理解できたか分かりませんが。また、表現力を増すため、作った曲に物語(ストーリー)を付けろとも言われました。だから、出来た曲に簡単なストーリーをレポート用紙に書き添えました。中学時代が最も曲を作りました。

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