竹島問題

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 韓国が竹島を領土の一部とするもう一つの根拠に、1770年に書かれた『東国文献備考』という史料があります。その一篇の輿地考(よちこう)の中に「輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり」という記述を受けて、于山島が日本の松島(=昔の竹島の呼び名)であるとして、日本より古い文献に于山島の名があるので、歴史的に竹島は韓国固有の領土であるというわけです。問題となるのは、于山島という島が日本の松島、今日の竹島を指しているのかどうか、つまり、『東国文献備考』の記述(分註)が正しいのかどうかです。
 ですが、この『東国文献備考』は、例の記述の分註に引用される際に改ざんされています。その過程を検証したいと思います。

 『東国文献備考』百四十巻は、英祖の命により、古今の文物制度の典拠を網羅する目的で編纂されました。『東国文献備考』の編纂が本格的に始められたのは、李潭、金応淳、洪名漢、徐浩修、申景濬などが編者に命じられた英祖四十六年(1770年)正月十一日以後のことで、英祖四十六年(1770年)閏五月に編纂事業を終え、同年八月に刊行されました。
 したがって、編纂期間は僅か5ヶ月ほどで、異常に短い。百巻以上の大部になる編纂事業であるのに、編纂から出版まで半年で終えられたのは、既存の文献を収集し再編集するだけであると考えられます。

 したがって、安龍福の記事を載せた『東国文献備考』の分註にも典拠としたオリジナルが存在していました。
 では、『東国文献備考「輿地考」』に記載された鬱陵島関連の記事は、どのような文献を典拠にして編纂されたかが問題になります。その原典は、『英祖実録』の英祖四十六年(1770年)閏五月十六日条に依れば、「輿地考」の底本には、編者である申景濬の『旅菴全書』(1756年)の「彊界考」が使われています。では、「彊界考」の鬱陵島に関する記事はというと李孟休の『春官志』を典拠としています。
 
 また、『東国文献備考』の記事と、『春官志』の「鬱陵島争界」を比較してみると、『東国輿地勝覧』や『世宗実録「地理志」』と記事が重複する部分を除くと、多少の潤色が加えられていますが、数句を除いて『春官志』の本文と一致します。

 それでは、肝心の部分を、それぞれに比較してみます。
まず『東国文献備考』では「輿地志に謂う、鬱陵、于山皆于山国の地。于山は即ち倭の所謂松島なり」とあり、原本の『春官志』の鬱陵島の註では「蓋しこの島、その竹を産するを以ての故に竹島と謂い。三峯ありてか三峯島と謂う。于山、羽陵、蔚陵、武陵、磯竹島に至りては、皆、音号転訛して然るなり」原本の『春官志』では、確かに于山島を鬱陵島の別称としています。
 一方で申景濬の「彊界考」では、「按ずるに、輿地志に云う、【一説に于山、鬱陵本一島】而るに諸図志を考えるに、二島なり。一つは則ちその所謂松島にして、蓋し二島は倶に是れ于山国なり」

 ここでの問題は、申景濬の「彊界考」の記述が、すべて柳馨遠の『輿地志』からの引用かどうかであります。この柳馨遠の『輿地志』が、日本側の呼称「松島」という地名を知っていたかどうかが問題なのです。しかし、柳馨遠の『輿地志』は現存していません。それゆえに引用された箇所を確認する事は出来ません。そして『東国文献備考』の編纂期間が僅か5ヶ月と短いために、その『輿地志』から正確に引用されたかどうかも不明です。

 安龍福が拿捕されたのは1693年、柳馨遠の『輿地志』は安龍福の証言よりも40年ほど早い1656年に成立、米子の大谷甚吉は、鳥取藩に竹島(鬱陵島)への渡海を願い出たのは1617年。現時点では韓国の史料で「松島」という島名が出てくるのは、安龍福に関する『粛宗実録』(1728年)からです。現況では、柳馨遠の『輿地志』より前に「松島」と言う呼称が朝鮮に知られていたと言う事を示す史料はなく、『輿地志』に松島という文言が出てくることは有り得ません。よって、2行目の「而る」に以後の記述は申景濬自身の私見ということになります。

 さらに、冒頭の「按ずるに」は、「考えをめぐらすに・思うに」という意味です。ですから「按ずるに、輿地志に云う〜」と書くと「思うに輿地志に言うところの一説には于山、鬱陵は元々は一島である」ということになり、「而るに」に繋がります。そして、2行目以降で『輿地志』の一説とは反対の説を唱えているのだから、「而るに」は逆接の接続詞で使われている事も分かります。

 もし、「而るに〜」以後の言葉も輿地志からの引用だとすれば「按ずるに」という冒頭の言葉は、どこにも繋がらなくなります。「引用した文についての考えを巡らしてみて、結論はどうだったのか」そのつながりは、どこにもない事になります。

 このことで、申景濬が柳馨遠の『輿地志』から引用したのは、「一説に于山、鬱陵本一島」だけであり、「而るに」以下は、申景濬の私見であることが分かるのです。

 また、原典の柳馨遠の『輿地志』では、「一説に于山、鬱陵本一島」と、【于山島と鬱陵島は同じ島の別の呼び方(同島異名)がある】としているだけで、松島(=現在の竹島)のことには、全く言及していないことも分かってきます。申景濬は、古地図や文献に于山島や鬱陵島が描かれていることを理由にして、『輿地志』の字句を改めて、于山島と鬱陵島を別々の島=二島と按じています。

 さらに申景濬は、安龍福の供述である「于山は則ち倭の所謂松島なり」と言う語句を、まるで『輿地志』の説であるかのように挿入して、于山島を松島と臆断して、それを于山国に入れているのです。于山島は断じて竹島ではありません。

 韓国政府が竹島の領有権を主張する根拠とした『東国文献備考』の分註は、こうして改竄されたものであったです。


 

 安龍福のでたらめな証言を検証します。前の記事(http://blogs.yahoo.co.jp/dune01220227/54222851.html)を参照してご覧下さい。

 (1)安龍福が鳥取藩に密航する4ヶ月ほど前の1696年(元禄九年)1月28日、既に幕府は鬱陵島への渡海を禁じています。それ故に、鬱陵島で鳥取藩の漁民達と遭遇することは不可能です。また、禁を犯して漁民達が処罰されたという記録もありません。

 (2)さらに、「倭船が多くいた」と証言しているが、鬱陵島に渡海する際に、鳥取藩から大谷家に発給する往来手形では、船は一艘であり、船頭以下21人の乗組員が認められていただけである。
 *朝鮮王朝の空島政策により無人島となっていたこともあって、1618年から80年ぐらいまで、江戸幕府は朝鮮領の鬱陵島を実効支配していた。それに伴い、幕府から鬱陵島を拝領していた米子藩は村川家と大谷家に開発をさせていた。

 (3)安龍福は、鬱陵島で遭遇した日本の漁民が、「我々は、もともと松島(=現在の竹島)に住んでいる」と言ったように証言しているが、松島では飲料水の確保も難しく、人の定住は困難です。安龍福は、松島がどのような島であるか、そんな事も知らないで、朝鮮領の于山島だと思いこんだと思われます。事実、安龍福は「舟を曳いて入った」とする于山島の描写でも、馬脚を現しています。

 (4)于山島では、「釜を列ねて魚膏を煮ていた」と供述していますが、大谷家と村川家が海驢から膏(あぶら)を採取していたのは、鬱陵島であり、岩礁に過ぎない松島(=現竹島)には、燃料となる薪がなく、釜を並べて魚膏を煮ることが出来る場所もありません。さらに舟を曳いて進める浜辺もない。于山島に渡った事もなく、松島もどのような島か知らないで、安龍福は「松島は于山島である。これも我が朝鮮の島である」と証言していたのです。

 (5)さらに、「翌暁、舟を曳いて于山島にはいると〜」と言っている。しかし、鬱陵島から于山島(竹島)までは日本の船で一日は要します。それなのに安龍福は暁には舟を曳いて到着したと述べているという事は、彼が上陸した于山島は、鬱陵島に極近い島である必要があります。

 (6)安龍福の証言では、彼は日本人を蹴散らした事になっているます。しかし、日本の漁師船の乗組員は21人いる。そして鳥銃7丁と刀剣も所持しています。安龍福が武器を持った日本の漁民と鬱陵島で小競り合いを起こし、本当に杖で大釜を撞破したならば、日本漁師がこそこそと釜などを拾い集めて逃げ去るだろうか?という率直な疑問があります。さらに、安龍福自身が言っています。日本の漁民に遭遇した朝鮮の船人は、「皆、恐れた」と・・・。これでは、初めから勝負になりません。安龍福だけが恐れなかったとするのも、不自然です。

 (7)安龍福は、鳥取藩では藩主と対座し、そこに対馬藩主の父親が息子の命乞いに来た、と証言している。しかし、鳥取藩主・池田綱清は当時、参勤交代のため江戸にいたことは記録で明らかです。帰城したのは7月19日となっており、藩主と対座する機会はありません。父が命乞いをしたとされる対馬藩主・宗義倫は、その前々年の1694年(元禄七年)9月27日に24才の若さで病没していて、既に死去した人間(=宗義倫)の助命を願うというのは、いかにも不自然です。しかも、安龍福が鳥取藩に密航した時期には、義倫の父・宗義真は新藩主の後見役となり、参勤交代で江戸にいました。いずれも、安龍福とは対面できないのが明らかです。

 このように、安龍福は、その核心的な部分は、悉く偽りです。嘘八百を並べ立てています。

 そもそも、対馬藩は、幕府の命を受けて鬱陵島問題(=これは竹島一件といい、つまりは鬱陵島の領有問題)に関わったのであり、安龍福達を拿捕した対馬藩を通じて、朝鮮漁民達の越境を抗議させようとしていた時に、その命令を下した幕府自身が、安龍福に「鬱陵島と于山島は朝鮮領である」とする書付を与える事など有り得ません。

 それに安龍福が言う于山島は、人が住めて鬱陵島よりも頗る大きい島ですが、そのような島は、鬱陵島と隠岐島の間には存在しません。ましてや、日本と朝鮮の間で争われているのは鬱陵島であり、于山島は問題になっていません。日本と朝鮮の間では、鬱陵島の領有権も確定していない時期に、存在していない島=人が住めてすこぶる大きな「于山島」までが朝鮮領と認定される事などありません。

 安龍福は越境侵犯の生き証人として連れてこられてた犯罪人であったことを忘れてはいけません。犯罪人である安龍福が、日本でどのように発言しても、現実に越境侵犯証拠として朝鮮に送還された以上、幕府が犯罪人の安龍福に「鬱陵島と于山島は朝鮮領である」とした書状を与える事は決してないのです。

 こうしてみると、この証言のうち正しいのは、「鬱陵于山両島監税を僭称」したこと、「安龍福が駕籠に乗り、他の者が馬で鳥取の城下」に入った事だけです。

 韓国はこのようなデタラメの安龍福証言に依拠しているのです。

 安龍福証言の検討の前に、安龍福とは何者かを見て行きます。Wikipediaの文章が分かりやすかったので、それを記載します。
 水軍経験のある漁夫。1693年(元禄6年)不法に鬱陵島へ渡り漁労していた時、この島を開発していた日本人に遭遇し日本へ連行される。安龍福はその後朝鮮へ送還されるが、これが発端となり鬱陵島の領有をめぐる日朝間の外交問題に発展した(竹島一件)。三年後に自ら日本へ渡り、鬱陵島と于山島は朝鮮の領土だと訴える。しかし、帰国時朝鮮政府に捕らえられ、日本への不法渡航や訴訟事件を起こしたとして流罪となる。当時日本人の呼ぶ松島(現在の竹島)を于山島だと主張した最初の人物で、現在の竹島問題に発展している。

 まずは安龍福の証言が記録されている「粛宗実録」の内容を見てみます。
安龍福は、粛宗二十二年(1696年)五月に日本に密航しますが、その目的は表向きは、鬱陵島と于山島を朝鮮領として日本側に認める事。でも、于山島が松島であると言う彼の発言の真意は不法渡航の罪を免れるための虚言と考えるのが自然です。
 しかし、安龍福ら11人は、所期の目的も達せず、自力で帰還、八月二十九日のこと。九月乙亥(九月二日)、安龍福はソウルに連行され、国境問題を管轄する備辺司で推問されることになり、その時の供述調書が「粛宗実録」の粛宗二十二年九月戌寅条に採録されています。

 粛宗実録 巻三〇 二十二年九月戊寅

備辺司、推問安龍福等、龍福以為、渠本居東莱、為省母至蔚山、適逢僧雷憲等、
備説頃年往来欝陵島事、且言本島海物之豊富、雷憲等心利之、遂同乗船、
與寧海蒿工劉日夫等、倶発到本島、主山三峰高於三角、自南至北、為二日程、
自東至西亦然、山多雑木、鷹鳥猫倭船亦来泊、船人皆恐、渠倡言欝島本我境、
倭人何敢越境侵犯、汝等可共縛之、仍進船頭大喝、倭言吾等本住松島、偶因漁採出来、
今当還往本所、松島即子山島、此亦我國地、汝敢住此耶、遂拾良翌暁沱舟入子山島、
倭等方列釜煮魚膏、渠以杖撞破、大言叱之、倭等収聚載船、挙帆回去、渠仍乗船追趁、
埣偶狂飆漂到玉隠岐、島主問入来之故、渠言頃年吾入来此処、以鬱陵子山島等、
定以朝鮮地界、至有関白書契、而本国不有定式、今又侵犯我境、是何道理云、
爾則謂当転報伯耆州、而久不聞消息、渠不勝憤椀、乗船直向伯耆州、
仮称欝陵子山兩島監税将、使人通告、本島送人馬迎之、渠服青帖裏、着黒布笠、穿及鞋、
乗轎、諸人並乗馬、進往本州、渠興島主、対坐廳上、諸人並下坐中階、島主問何以入来、
答曰、前日以兩島事、受出書契、不啻明白、而対馬島主、奪取書契、中間偽造、
数遣差倭、非法横侵、吾将上疏関白、歴陳罪状、島主許之、遂使李仁成、構疏呈納、
島主之父、来懇伯耆州曰、若登此疏、吾子必重得罪死、請勿捧入、故不得禀定於関白、
而前日犯境倭十五人、摘発行罰、仍謂渠曰、兩島既属爾国之後、或有更為犯越者、
島主如或横侵、並作国書、定譯官入送、則当為重処、仍給糧、定差倭護送、
渠以帯去有幣、辞之云雷憲等諸人供辞略同、備辺司啓請、姑待後日、登対禀処、允之。


 大意は以下の通りです。
鬱陵島は、山には雑木鷹鳥猫が多く、倭もまた多く来泊していた。
(同行の)船人は皆恐れた。渠(かれ・安龍福)は「鬱陵島は朝鮮領だ。なぜ、倭人は何故、我が領土を侵犯するのか。おまえら皆縛ってしまうぞ」と、さらに、船の舳先に進んで大喝すると、

 倭人が吾等に言うには、「我々は、もともとは松島に住んでいて、たまたま漁採のために来ただけで、ちょうど今、本所(松島)に帰ろうとしているところだ。」と答えました。

 そこで私は「松島は即ち于山島だ。これも我が朝鮮の地だ。どうして住む事が出来よう」と言ってやりました。

 その翌暁、舟を曳いて于山島にはいると、倭人たちは釜を列ねて魚膏を煮ている最中でした。そこで私が杖で撞き破り、大声で叱りつけると、倭人たちはそそくさと辺りの物をまとめて船に載せ、帆を挙げて去っていきました。そこで追いかけたのですが、途中、狂風に遭って隠岐島に漂着しました。

 隠岐島では島主が入来の目的を尋ねるので、先に私がこの地に来たとき、鬱陵・于山等の島を朝鮮側の境界とする関白(=将軍)の書付があったはずだが、それが徹底していないようで、今また、我が朝鮮の境界を犯す者がいる。これはどうしたことなのか。鳥取藩に取り次ぐように求めましたが、返答はありませんでした。

 そこで憤激した私は、直ちに鳥取藩に向かい、「鬱陵于山両島監税」と仮称して、人を通じて鳥取藩に告げると、鳥取藩では人馬を迎えてくれました。私は駕籠に乗り、他の者は馬に乗って鳥取藩まで往きました。

 鳥取藩では、藩主と対座し、諸人は中階に控えておりました。鳥取藩主が「なぜ、参ったのか」と聞くので、「先に両島のことに関しては、書付を出したことは明白ではないか。それなのに、その書付を対馬藩の藩主が奪い取り、朝鮮政府と江戸幕府の間にあって偽りの使臣を送ってよこすのは言語道断である。私としては関白(=将軍)に上疏し、対馬藩の罪状を明白にしたいと思う。」と申しますと、鳥取藩が許すというので、ついに李仁成に書かせました。

 すると対馬藩主の父親がやってきて、ねんごろに鳥取藩主に語るには、「もし、この疏文が幕府に渡れば、我が子は必ず重い罪を得て死ぬ事になる。どうか幕府には提出しないで欲しい。」と言うので、幕府には上申しないで、その代わり先日、鬱陵島に渡っていた十五人は、捕らえられて処刑されました。

 そこで鳥取藩主が言うのには、「鬱陵島と于山島は既に朝鮮領となったのだから、再び越境する者があったり、対馬藩が無理な要求をしたりしてくれば、国書を作成し、訳官を送ってよこせば重く罰してやろう。」と言い、

 帰国に際しては食糧と護衛の使者をつけてやると言ってくれたのですが、差し障りがあると申しまして、お断り致しました。

 では、韓国側の主張を打ち破るには相手がどのようなことを主張しているかを知る必要があります。
 韓国が竹島領有を主張する根拠として、1770年に書かれた『東国文献備考』の一篇「輿地考(よちこう)」の中に「輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり」という記述を挙げています。于山島(うさんとう)が日本の松島だと言うのです。*松島は、昔の日本での竹島の呼び名です。
 そして、韓国は于山島(国)を竹島であるとして、日本よりも先に領有していたと言いたいわけです。確かに于山島(国)の名は、古くは6世紀の『三国史記・新羅本紀』から出て、その他、『東国輿地勝覧』(1481年成立)や『世宗実録・地理志』(1454年成立)にも出てきます。
 一方で、日本は松江藩藩士の斎藤豊仙が著した「隠州視聴合記(いんしゅうしちょうごうき)」(1667年)を基本的に論拠としていたので、韓国側は自分たちの方が早く領有していると言いたい訳です。

 ただ、于山島=竹島(独島)との記述があるのは、『東国文献備考』だけです。そもそも韓国で、于山島は竹島であるという先入観が出来たのは、『東国文献備考』にある安龍福の供述の分註からです。しかし、『東国文献備考』での「竹島は于山島」とする干山島と、『世襲実録・地理志』や『東国興地勝覧』の于山島がそれと同一の島である証明は、なされていません。韓国が日本よりも先に竹島を領有していることを証明するためには、安龍福・証言以前に、于山島=竹島(独島)を認識していた事を示す必要があります。そうしないと、時期的に日本側の方が早くなります(安龍福が鬱陵島で日本に捕まったのは1693年)。ですが、それが出来ない以上韓国の主張は通りません。

 もっとも、これは安龍福の供述(『粛宗実録』に記述がある)又は東国文献備考にある安龍福の供述の分註が正しいことから出発しています。ですから、安龍福の供述が間違っている、デタラメであることを証明すれば韓国側の根拠は一気に崩れてきます(実際デタラメですので、その論拠を示します)。また、韓国が拠り所とする『東国文献備考』の「于山島=竹島(独島)」であることの記述は改竄されていまして、その改竄の過程も合わせて示します。
 
 そもそも、韓国が竹島を領有していたというなら、詳細な地図の一つも出てもよいものです。百歩引いて地図がなくても、竹島が2つの主島で構成されていることを示す史料がないことは韓国は竹島を(日本より先には)認識していないと見るのが自然です。韓国がいう竹島とする地図はすべて一島になっています。つまり、韓国は別の島の地図を竹島であると言い張っているだけです。ちなみに江戸時代の日本の竹島の地図は、詳細に二島からなっています。
 なので、韓国側の論拠を破るべく、(別記事になりますが)安龍福の供述のデタラメさと『東国文献備考』の改竄の過程、そのほか史料の検討をしていきたいと思います。

竹島問題の概略

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 第一回目として、竹島問題の概略を説明しようと思います。

 竹島は島根県沖、韓国との間にある孤島です。

 竹島は北緯37度9分、東経131度55分に位置する、日本海に浮かぶ孤島です。西島と東島の二つの島と数十の岩礁からなり、総面積は0・23平方キロ。東京ドームの約5倍ぐらいの面積です。
 飲料水の確保が困難で、しかも四方は2島とも断崖(だんがい)絶壁。昔から人が住めない島でした。


 韓国では、竹島を独島(ドクト)と呼称していまして、その領有権を巡って、韓国との間で決着がついていません(実際は韓国に正当性はありません)。事の発端は、戦後に韓国政府の李承晩大統領が、一方的に日本海域に李承晩ラインを設定し、その範囲に竹島を含めたことから始まります。1905年2月22日、竹島は島根県に編入されましたが、そのライン内に竹島が入っていたからです。そして1954年9月2日、韓国政府は竹島の武力占拠を決定し、15日には灯台を設置して日本に通告しました。
 
 これに対して日本は国際裁判所への提訴を韓国政府に打診しましたが、韓国側はそれを拒否しました。以来、日韓基本条約の締結時にも、竹島についての解決は持ち越され、今日に至るまで日韓の間で竹島問題に対する話し合いがなされていません。

 そして、日本が竹島(独島)の領有権を主張すると「妄言」とされ、話し合い自体が拒否され、解決の道筋は示されずにいます。
 一方で韓国では、韓国固有の領土を日本が「悪意」で奪ったのであり、日本侵略の最初の犠牲が「独島」であり、日帝の朝鮮侵略のシンボルとされています。その島を奪還したという認識が韓国人にあります。でも実際は、日韓併合条約は諸外国から承認されているので国際法的に有効で合法なので、侵略であるとは言えません。また、韓国は1882年と1900年に鬱陵島の調査をした際に竹島を確認していません。竹島が島根県に編入された時、竹島はどこの国にも属さない無主の地ですから、日本が竹島を島根県に編入したことは、侵略行為とは言えません。
*関連記事 竹島編入についての韓国側の批判Q&A
http://blogs.yahoo.co.jp/dune01220227/54257395.html
 
 ロシアとの北方領土問題とは「意味」の異なる問題がここにあります。それ故にこそ、韓国のその歴史認識が虚構であることを白日の下に晒し、この竹島をわれわれ日本人が奪還することに意義があります。私は韓国側の主張には歴史の読み替え、解釈の齟齬が多すぎるように思えます。一つ一つ、それらをチェックして検証してみようと思います。

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