1951年9月7日夜(米太平洋時間)の吉田茂首席全権による演説は、奄美大島、琉球諸島、小笠原群島、そして北方領土問題にも触れた。竹島、尖閣諸島には直接触れていない。ここでは吉田演説に沿って領土問題を考える。竹島、尖閣については講和条約の中身を点検する際に説明するのが適切かもしれないが、ここでも要点のみ別掲しておく。
■奄美、琉球、小笠原「1日も早い」復帰を
吉田はまず奄美大島、琉球諸島、小笠原群島に触れて次のように述べた。
「領土の処分の問題であります。奄美大島、琉球諸島、小笠原群島その他平和条約第3条によって国際連合の信託統治制度の下におかるることあるべき北緯29度以南の諸島の主権が日本に残されるというアメリカ合衆国全権及び英国全権の前言を、私は国民の名において多大の喜をもって諒承(りょうしょう)するのであります。私は世界、とくにアジアの平和と安定がすみやかに確立され、これらの諸島が1日も早く日本の行政の下に戻ることを期待するものであります」
奄美大島復帰の日米間協定調印=毎日新聞社提供
若い読者は首をかしげるかもしれない。ここで琉球と呼ばれた沖縄が1972年5月15日に日本に返還されたことは知っていても、現在は鹿児島県である奄美大島、東京都の小笠原群島がサンフランシスコ講和条約で、国連の信託統治のもとに置かれた事実は忘れられた過去になりつつある。
奄美群島は53年12月25日に、すでに返還されていたトカラ列島(52年2月10日返還)を含む全部が日本に復帰した。クリスマスプレゼントと当時いわれたが、米軍統治は8年余りだった。
一方、小笠原の返還は68年6月26日だった。小笠原返還交渉は、この物語で後に触れることになる沖縄返還交渉の前哨戦だった。
日本復帰が決まり、祝いの横断幕が張られた奄美大島の名瀬銀座通り
=毎日新聞社提供
吉田が述べた「これらの諸島が1日も早く日本の行政の下に戻ることを期待するものであります」が最終的に実現したのは72年5月だから演説のおよそ21年後だった。
しかしいまだ返還される領土がある。ソ連(現在のロシア)に不法占拠された北方四島である。
吉田はこう語る。
「千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだとのソ連全権の主張に対しては抗議いたします。日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議を挿(はさ)さまなかったのであります。ただ得撫(ウルップ)以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地でありました。1875年5月7日日露両国政府は、平和的な外交交渉を通じて樺太南部は露領とし、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話合をつけたのであります。名は代償でありますが、事実は樺太南部を譲渡して交渉の妥結を計ったのであります。その後樺太南部は1905年9月5日ルーズヴェルトアメリカ合衆国大統領の仲介によって結ばれたポーツマス平和条約で日本領となったのであります。
千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日一方的にソ連領に収容されたのであります。
また、日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります」
■「云いっぱなし」の北方四島
改めて確認しておこう。吉田が指摘したのは次の3点である。
・千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだとのソ連全権の主張に対しては抗議する。千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日一方的にソ連領に収容された。
・日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議を挿さまなかった。
・日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領された。
ソ連の不法占拠に抗議はするが、「これらの諸島が1日も早く日本の行政の下に戻ることを期待する」と述べた奄美大島、琉球諸島、小笠原群島の扱いとは差がある。
だから現場にいた宮沢喜一も、後に「確かに『云(い)いっぱなし』以上のものではない」と書いている(宮沢「東京―ワシントンの密談」)。「もっと明瞭な意思表示」ができなかったかと宮沢は考える。
元外交官の東郷和彦は「国後・択捉」と「歯舞・色丹」との間に吉田が差をつけている点に注目する(東郷ほか「日本の領土問題」)。
つまり歯舞・色丹については「日本の本土たる北海道の一部を構成する」とし、国後・択捉は「日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議を挿さまなかった」とするにとどめている。北方領土をめぐる2島、4島の議論とも関連するきわどい表現ともとれるが、4島返還を求める日本政府の説明と矛盾するものではない。
竹島、尖閣諸島についてもサンフランシスコ講和条約との関連する角度から、日本政府の説明を別掲しておく。ともに外務省ホームページの要約である。要するに、竹島も尖閣諸島も、サンフランシスコ講和条約で放棄した領土には含まれない、日本固有の領土であるとする説明である。
<別掲記事1 竹島に関する日本政府の説明>
1. 1951(昭和26)年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約は、日本による朝鮮の独立承認を規定するとともに、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定しました。
2. この部分に関する米英両国による草案内容を承知した韓国は、同年7月、梁(ヤン)駐米韓国大使からアチソン米国務長官宛の書簡を提出しました。その内容は、「我が政府は、第2条a項の『放棄する』という語を『(日本国が)朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945年8月9日に放棄したことを確認する。』に置き換えることを要望する。」というものでした。
3. この韓国側の意見書に対し、米国は、同年8月、ラスク極東担当国務次官補から梁大使への書簡をもって以下のとおり回答し、韓国側の主張を明確に否定しました。
「……合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を(サンフランシスコ平和)条約がとるべきだとは思わない。ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない。……」
これらのやり取りを踏まえれば、竹島は我が国の領土であるということが肯定されていることは明らかです。
<別掲記事2 尖閣諸島に関する日本政府の説明>
Q11
中国政府は、1943年「カイロ宣言」、またその後の1945年「ポツダム宣言」を日本が受け入れた結果、尖閣諸島は台湾の附属諸島として、台湾とともに中国に返還された旨主張しています。また、中国を排した状況で締結されたサンフランシスコ平和条約により米国の施政下におかれることとなった南西諸島に尖閣諸島は含まれておらず、1953年12月に米国政府は『琉球諸島の地理的限度』を発表して米国の管轄範囲を無断で拡大し、1971年に米国が沖縄の施政権を日本に返還する際に尖閣諸島もその返還地域に組み入れられた、中国政府は一貫して尖閣諸島が日本の領土と認めていない旨主張していますが、日本政府はどのような見解を有していますか。
A11
1. カイロ宣言やポツダム宣言は、当時の連合国側の戦後処理の基本方針を示したものですが、これらの宣言上、尖閣諸島がカイロ宣言にいう「台湾の附属島嶼」に含まれると中華民国を含む連合国側が認識していたとの事実を示す証拠はありません。
2. そもそも、戦争の結果としての領土の処理は、最終的には平和条約を始めとする国際約束に基づいて行われます。第二次世界大戦の場合、同大戦後の日本の領土を法的に確定したのはサンフランシスコ平和条約であり、カイロ宣言やポツダム宣言は日本の領土処理について、最終的な法的効果を持ち得るものではありません。
3. 日本は,サンフランシスコ平和条約第2条(b)により、日本が日清戦争によって中国から割譲を受けた台湾及び澎湖諸島の領有権を放棄しましたが、尖閣諸島はここにいう「台湾及び澎湖諸島」に含まれていません。なぜなら、尖閣諸島は、サンフランシスコ平和条約第3条に基づき、南西諸島の一部として米国が施政権を現実に行使し、また、1972年の沖縄返還により日本が施政権の返還を受けた区域にも明示的に含まれているからです。
4. サンフランシスコ平和条約締結に際し、尖閣諸島は日本の領土として残されましたが、主要連合国である米、英、仏、中国(中華民国及び中華人民共和国)のいずれも異議を唱えていません。むしろ、中国は、1953年1月8日人民日報記事「琉球諸島における人々の米国占領反対の戦い」において、米国が、カイロ宣言やポツダム宣言で信託統治の決定がなされていない琉球諸島を、琉球諸島の人々の反対を顧みず占領したと非難していますが、同記事には琉球諸島は尖閣諸島を含む7組の島嶼からなる旨の記載があり、尖閣諸島が琉球諸島の一部であることを認めています。中国はサンフランシスコ平和条約の締約国ではありませんが、日本は当時承認していた中華民国(台湾)との間で日華平和条約を締結しました。同条約において、日本はサンフランシスコ平和条約第2条に基づき、台湾及び澎湖諸島等に対する全ての権利等を放棄したことが承認されていますが、同条約の交渉過程では、日本領として残された尖閣諸島については一切議論されていません。このことは、尖閣諸島が従来から日本の領土であることが当然の前提とされていたことを意味します。
5. 1968年秋に行われた国連機関による調査の結果、東シナ海に石油埋蔵の可能性があるとの指摘を受けて尖閣諸島に注目が集まり、1970年代以降になって、中国政府及び台湾当局が独自の主張を始めました。それ以前には、サンフランシスコ平和条約第3条に基づいて米国の施政権下に置かれた地域に尖閣諸島が含まれている事実に対しても、何ら異議を唱えていません。何ら異議を唱えていなかったことについて、中国政府は何ら明確な説明を行っていません。
Q12
台湾(中華民国)はともかく、中国(中華人民共和国)はサンフランシスコ平和条約上の尖閣諸島の取扱いには反対していたのではないですか。
A12
サンフランシスコ平和条約締結後の尖閣諸島の扱いは、国際的には公知であり、中華人民共和国が当時これを承知していないはずはありません。現に中国共産党の機関紙である人民日報は1953年1月8日の記事「琉球諸島における人々の米国占領反対の戦い」において、米国の施政権下に入った琉球諸島の中に、尖閣諸島を明示的に含めて記述しています。その後も同国は、1970年代まで、サンフランシスコ平和条約第3条に基づいて米国の施政権下に置かれた地域に尖閣諸島が含まれている事実に対して、何ら異議を唱えていません。また、中国側は、異議を唱えてこなかったことについて何らの説明も行っていません。
【参考:カイロ宣言(1943年)関連部分】
同加盟国(注:米、英、中華民国)の目的は、日本国より1914年の第一次世界大戦の開始以後に日本が奪取し又は占領した太平洋におけるすべての島を日本国からはく奪すること、並びに満州、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還することにある。
【参考:ポツダム宣言第八項(1945年)】
八 「カイロ宣言」の条項は、履行せらるべく、又日本国の主権は、本州、北海道、九州及び四国並びに吾等の決定する諸小島に局限せらるべし。
【参考:サンフランシスコ平和条約第2条】
(b) 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
【参考:サンフランシスコ平和条約第3条】
日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島,西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
【参考:沖縄返還協定第1条】
2 この協定の適用上、「琉球諸島及び大東諸島」とは、行政、立法及び司法上のすべての権力を行使する権利が日本国との平和条約第三条の規定に基づいてアメリカ合衆国に与えられたすべての領土及び領水のうち、そのような権利が千九百五十三年十二月二十四日及び千九百六十八年四月五日に日本国とアメリカ合衆国との間に署名された奄美群島に関する協定並びに南方諸島及びその他の諸島に関する協定に従ってすでに日本国に返還された部分を除いた部分をいう。