人物・伝記

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--- 西郷隆盛 ---

7  王政復古から江戸無血開城まで

7 - 1  王政復古と小御所会議

 「大政奉還」により、日本の政権は幕府から朝廷へと返還されたとは言え、江戸幕府開府以来、政権を幕府に委任してきた朝廷は、既に有名無実のものとなっていました。

そのため、朝廷は突然慶喜から政権を返上され、その対応に困りました。天皇や公家には、実際に政治を運営する能力や事務処理能力などあるはずもなかったのです。慶喜は既にこのことも予期しており、それが大政奉還に踏み切ったもう一つの理由でもありました。

「朝廷に政治を運営する能力は無いのだから、幕府が政権を返還したとしても、結局朝廷はその処置に困り、また幕府に政権を委任してくるだろう」

 これが慶喜の見通しであり、狙いでもあったのです。

 そして、その慶喜の策略は的中しました。

 朝廷内部では、取りあえず政権をもう一度幕府に委任してはどうかという論も出てきたのです。

 西郷はそんな公家らの動揺を押さえると共に、大久保と協力して朝廷を中心とした新政府を樹立するべく努力しました。

 慶応3(1867)年12月9日、西郷が薩摩藩兵を指揮して宮門を固める中、王政復古の大号令が煥発されました。その内容は、幕府や摂政、関白といったものが廃止され、総裁・議定・参与の三職を設置し、国政を運営するというものでした。

 これが幕府に変わる新しい政府の発足でした。

 しかし、この王政復古は実は形だけのものであり、依然として慶喜は、幕府の強大な軍事力と領地を所有していました。

 西郷としては、何とかして幕府の権力を奪わなくては、新しい政権の樹立にはつながらないと考えていました。

 王政復古の大号令が煥発された同夜、御所内の小御所において、当時まだ15歳であった明治天皇が親臨のもと、諸藩の藩主や公家達が集まり、御前会議が開かれることになりました。

 世に言う「小御所会議(こごしょかいぎ)」です。

 小御所会議において、岩倉具視ら反幕府公卿らは、慶喜に対し、
「辞官・納地(じかん・のうち。官職を辞職し、領地を返納する)」を求めることを決定しようとしたのですが、前土佐藩主・山内容堂がそれに反対し、越前福井藩主・松平春嶽も、その容堂の主張に賛成しました。

また、その容堂と春嶽の主張に対し、岩倉具視が再度反論するなど、小御所での会議は紛糾したのです。

 小御所会議の真っ最中、西郷は会議のことは大久保に任せて、自らは薩摩藩兵を率いて御所周辺の警衛と兵隊の指揮にあたっていました。

 小御所会議での議論がもつれ、いったん休憩が設けられると、会議に出席していた薩摩藩の重臣・岩下佐次右衛門(いわしたさじえもん。後の方平)は、西郷を呼び出し、会議が紛糾していることを告げ、助言を求めました。

岩倉もまたその席に来て、西郷の意見を求めると、西郷は「そいは、短刀一本で用は足りもす」と言いました。

「相手を刺すほどの覚悟を持ってすれば、事は自然と開ける」という意味を込めて、西郷は会議に臨む心構えを岩倉に説いたのです。

 西郷の言葉に勇気付けられた岩倉は、山内容堂と刺し違っても
「慶喜の辞官・納地を成し遂げる」と周囲の者に言い放ちました。

その岩倉の決心をまわりまわって聞いた土佐藩の重臣・後藤象次郎は驚き、主君である山内容堂に対し、土佐藩がここまで幕府に肩を持つ義理はないことを進言し、これ以上岩倉らに反対することは、土佐藩にとっても良策ではないことを説きました。

 山内容堂は後藤の進言に歯噛みしながらも翻意し、再開された会議において、沈黙を守ったのです。

 これにより、慶喜の辞官・納地が決定されることになりました。

7 - 2  鳥羽・伏見の戦い

 小御所会議の開催中、徳川慶喜は軍勢を従えて、御所近くの二条城に滞在していました。そこへ松平春嶽から小御所会議の結果がもたらされたのですが、それを聞いた慶喜は「このまま軍勢を京に留めておくことは非常に危険である」と考え、いったん大坂城に退くことに決めました。

辞官・納地を知った幕府兵が激昂し、薩長勢と衝突すれば、朝敵の汚名をかぶせられるかもしれないと慶喜は考えたからです。

 ただ、このような慶喜の冷静な判断とは裏腹に、江戸では庄内藩を中心とした幕府兵が、江戸薩摩藩邸を焼き討ちにするという大きな事件が起こったのです。

 慶喜自身が薩長との争いを避けようと苦慮していたのに対し、その意を汲み取れない下の者達が勝手な行動を起こしたことは、慶喜にとって痛恨の一事となりました。

 江戸で薩摩藩邸の焼き討ちがあったことを耳にした大坂城内の幕府兵は、士気大いに上がり、薩摩討つべしとの論に火が付き、慶喜はその兵の勢いを押さえることが出来なくなったのです。

 ただ、慶喜自身にも薩摩憎しの感情は、当然の如くありました。慶喜は兵の士気が大いに上がるのを見て、これならば薩長軍に勝てるかもしれない……、と色気を持ったのも事実です。

何せ兵力という点においては、薩長軍が約三千に対し、幕府軍は約一万五千以上の兵力があったのです。慶喜がやる気になったのも無理はありません。

 明治元(1868)年1月3日、幕府軍は「討薩の表(とうさつのひょう)」を掲げて、鳥羽、伏見の二街道を通り、大坂から京へ向けて進撃を開始しました。

 迎える薩長側は、主に薩摩藩兵を鳥羽街道に、長州藩兵を伏見街道に配置し、西郷自身は京の入口にあたる東寺に本営を置き、戦況を見守りました。

 そこへ一発の砲声が鳥羽方面に響き渡りました。

 鳥羽街道で幕府側と押し問答を続けていた薩摩側が砲撃を開始したのです。

 これをきっかけにして伏見方面でも戦闘が始まり、「鳥羽・伏見の戦い(とばふしみのたたかい)」の幕が切って落とされました。

 当初、戦いは薩長連合軍側有利で進みましたが、数を頼りにする幕府軍もじりじりと押し返し、一進一退の攻防を繰り広げました。

 しかし、翌1月4日、薩長軍側に高々と「錦の御旗(にしきのみはた)」が翻り、戦局は一変し、薩長軍側の有利に展開したのです。朝廷公認の軍であることの証である「錦の御旗」を見た幕府軍は、戦意を喪失して総退却を余儀なくされたのです。

 劣勢となった幕府軍の諸隊長らは、前将軍・徳川慶喜の直々の出陣を求めました。まだ大坂城には無傷の約一万の軍勢がおり、幕府軍の将兵達が、慶喜の出陣により士気を高め、もう一度薩長軍に戦いを挑もうと考えたのも無理はありません。

 しかし、朝敵の汚名を受けた感じた慶喜には、この段階でもはや戦意はありませんでした。

慶喜は兵士らに対し「明日出陣する」と宣言しておきながら、老中・板倉勝静(いたくらかつきよ)、元京都守護職の松平容保ら数人と共に、夜中密かに大坂城を脱出し、幕府の所有する軍艦で江戸に向けて出発したのです。

翌朝、主のいなくなった幕府軍は大混乱に陥りました。そのため、各自ばらばらに江戸へ向けて退却することを余儀なくされたのです。

 慶喜の江戸退却により、幕府軍は完全に瓦解し、薩長中心の新政府軍の完全勝利となりました。

 最後に一つだけ付け加えますが、「鳥羽・伏見の戦い」が生じる大きなきっかけともなった「幕府による江戸薩摩藩邸焼き討ち事件」については、西郷の謀略であったと言われることが多いかと思います。

 当時、薩長は幕府との開戦のきっかけを求めており、当時江戸にいた浪士達に対し、幕府を挑発するように指示していたのが西郷だったと言われますが、それは事実と反しています。

西郷は最後まで江戸での暴発が起きることを心配し、同志の吉井幸輔を通じて、当時江戸藩邸で浪士達の取りまとめ役をしていた益満休之助に対し、「軽挙な行動は慎むように」と指示した書簡が現存しています。

 前述したとおり、慶応3(1868)年暮れの段階では、京における勢力は、薩長軍が約三千に対し、幕府軍は約一万五千以上の兵力があったのです。

兵数から見れば、全く薩長には勝ち目がないような状態でしたので、西郷や大久保は、現時点で幕府と事を起こすのは時期が悪いと考え、また長期戦をも覚悟していたのです。

そんな薩摩藩首脳部が、江戸の浪士達に暴動を企てるように裏で指示していたことはあり得ない話なのです。

 鳥羽・伏見の戦いが薩長による大勝利に終わったという結果論から、薩長は開戦のきっかけを求めており、浪士達を影で先導したという導き方は、実は誤ったものであることを知って頂ければと思っています。

7 - 3  江戸無血開城

 鳥羽・伏見の戦いで勝利を収めた新政府軍は、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)を「東征大総督(とうせいだいそうとく)」に任命し、東海、東山、北陸の三道に分かれて江戸を目指し進軍することを決定しました。

 西郷は「東征大総督府下参謀」に任命され、東海道を下り、江戸を目指すことになったのです。

 一方、大坂から江戸に逃れた徳川慶喜は、後事を幕臣の勝海舟に託し、自らは上野寛永寺の塔頭大慈院に入り、蟄居謹慎の生活に入りました。

 東海道を進撃する新政府軍の軍勢が現在の静岡県の駿府に入ると、幕臣の山岡鉄太郎(やまおかてつたろう。後の鉄舟)が西郷に面会を求めてきました。

山岡は勝の手紙を携えており、手紙の内容は「嘆願書」と言うよりも、どちらかというと、脅しに近いような内容が書かれていました。いかにも知略有り余る勝らしいやり方です。手紙の要約はこうです。

「現在、主人(慶喜)は恭順しているけれども、いつその主人の意を分からない不貞の者が、新政府軍に対し反逆を企てるか分からない状況にある。また、この無頼の徒が反乱するか、恭順の道を守るかは、貴殿ら参謀の処置にかかっている。

もし、正しい処置(徳川慶喜に対する)を行えば、何の暴動も起こらず、日本にとって大幸であるが、もし間違った処置をすれば、おのずから日本は滅亡の道を歩むだろう」

 おそらく、面識があり、人物と認めていた西郷が参謀だったからこそ、勝はこのような手紙を書き送ったに違いありません。

 西郷は勝の手紙を読むと、すぐさま大総督府に向かい、総督や参謀達と共に慶喜恭順降伏の条件を相談し、その条件を箇条書きにした書付けを山岡に手渡しました。

 山岡はそれら条件を一つずつゆっくりと読み終わると、西郷に対し、一つだけお請け出来ない条件があると言いました。徳川慶喜を備前藩に預けるという条件です。山岡は言いました。

「西郷殿におかれては、仮に私に立場を変えて考えてみて下さい。島津候が現在の慶喜の立場になられたら、西郷殿はこのような条件を受けられるでしょうか。どうぞ切にお考え下さい」

 山岡は、若い頃から禅や剣道で、強靭な精神力を鍛え、人物の押しも西郷に負けず劣らず堂々としています。

 西郷は、その山岡の立派な態度に感心し、

「分かいもした。慶喜公のことについては、おいが責任を持って引き受けいたしもんそ」

 と言いました。

 山岡もその言葉に感動し、泣いて西郷に感謝したのです。

 山岡はその足で江戸へと戻り、勝に西郷との会談の内容、そして降伏の条件等を報告しました。

 その一方、東征大総督府は、江戸総攻撃を3月15日と決定し、続々と新政府軍は江戸に入ってきました。

 明治元(1868)年3月11日、西郷は江戸の池上本門寺に入り、3月13日、高輪の薩摩屋敷において、西郷は勝と約3年6ヶ月ぶりの再会を果たしました。

 この日、西郷と勝の間では、江戸開城に関する重要な交渉事は何もありませんでした。ただ、明日もう一度、芝の田町の薩摩屋敷で会うことを約束して別れたのです。

 そして迎えた翌14日、勝は西郷が山岡に提示した条件についての嘆願書を携えて、西郷の元を訪れました。

 勝はその14日の会談のことを後年次のように語っています。

「いよいよ談判になると、西郷は、おれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。

「いろいろむつかしい議論もありましょうが、私一身にかけてお引き受けします。」西郷のこの一言で江戸百万の生霊(人間)も、その生命と財産を保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。

このとき、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判のときにも、終始坐を正して手を膝の上にのせ、少しも戦勝者の威光でもって敗軍の将を軽蔑するというような風が見えなかったことだ」
(勝海舟『氷川清話』より抜粋)

 勝の回顧談からは、西郷がどんな人物に対しても、礼を重んじ、丁寧に接することを心がけた人であったことがうかがえると思います。

 西郷は勝の嘆願書を読み、勝と恭順の条件について話した後、隣室に控えていた薩摩藩士・村田新八(むらたしんぱち)、中村半次郎(なかむらはんじろう。後の桐野利秋)を呼び、明日の江戸総攻撃の中止を伝えました。

 この両雄の会談が江戸百万の市民を救うことになったのです。
(つづく)




ーーーーー 以上 ーーーーー








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