|
-- 西郷隆盛 --
8 戊辰戦争から西郷の帰国まで 8 - 1 彰義隊討伐 西郷と勝の会談により江戸城の無血開城は達成されたのですが、それに不満を持つ旧幕臣を中心として結成された彰義隊は、江戸の各地において、新政府軍と衝突を起こしました。 西郷はその事態を憂慮し、勝や山岡を通じて、彰義隊に軽挙な行動は慎むようにとの諭告や説得を続けたのですが、彰義隊の人々は一向耳を傾けようとはしませんでした。 西郷はそんな状況下でも、諦めずに平和的解決を目指し日夜努力をしていたのですが、そんな西郷のやり方を非難する人々が出てきたのです。 「西郷は勝に騙されている」 「西郷のやり方は生ぬるい」 といった具合にです。 その結果、京から軍務局判事として江戸に派遣された長州藩の大村益次郎(おおむらますじろう)が中心となり、とうとう彰義隊の討伐が決定されたのです。 明治元(1868)年5月15日、午前七時頃、上野に結集した彰義隊約三千人に対して新政府軍の総攻撃が開始されました。 総攻撃を全面的に指揮したのは大村益次郎です。西郷はこの上野攻撃に際して、最も激戦区となった黒門口攻撃を一薩摩隊の隊長として指揮を取りました。 戦いは大村の作戦が見事にあたり、午後五時過ぎには彰義隊は完全に鎮圧されたのです。 8 - 2 庄内開城 彰義隊が討伐されたことにより、西郷は後事を大村に任せ京に向かいました。目的は兵力の増援を藩主に願い出るためです。 彰義隊が討伐されたとはいえ、奥州各地においては、新政府に反抗の意を示している会津藩を始めとする奥羽諸藩の勢いが盛んになっていました。 新政府軍は常に兵力不足に悩んでいたため、西郷としては何とかして増援部隊が欲しいと考えたのです。 新政府軍は所詮諸藩の寄せ集めにすぎません。いつ何時、戦況が変われば、新政府軍を裏切る藩が無いとも限りません。結局は頼りになる藩と言えば、薩摩、長州の両藩しかなかったのです。 西郷は京に帰着すると、藩主・島津忠義と共に鹿児島へ帰国し、その後藩兵を率いて、明治元(1868)年8月10日、新潟の柏崎港に到着しました。 この前月、越後長岡藩を中心とした兵が、長岡藩の家老・河井継之助(かわいつぐのすけ)の巧妙な指揮により、果敢に戦い、新政府軍を悩ましていたのです。 西郷の実弟である西郷吉二郎(きちじろう)も、この長岡戦線で重傷を負い、死亡しました。 しかし、西郷が柏崎に到着した頃には、新政府軍が既に長岡を占領した後でした。 その後、西郷は、米沢、会津を経て、出羽・庄内藩の城下・鶴岡に到着しました。 庄内藩といえば、鳥羽・伏見の戦いのきっかけともなった江戸薩摩藩邸焼き討ちを行った主力藩であり、江戸無血開城後も今の秋田地方において、執拗果敢に新政府軍に戦いを挑んでいました。 庄内藩兵は強く、そして勇敢でもあったので、戦局は一進一退となり、新政府軍はややもすれば押し返されるような状態でした。 しかしながら、いかに庄内藩が頑張ろうとも、周りの奥羽諸藩が次々と新政府軍に降伏してしまい、庄内藩は一藩孤立したのです。 当時の庄内藩主・酒井忠篤(さかいただずみ)は、重臣と協議した結果、新政府軍に対し降伏恭順することに決定しました。苦渋の選択でしたが、庄内藩としてはもはや援軍を望めない以上、こうするより手立てはなかったのです。 庄内藩の人々は、降伏した際、新政府軍から過酷な降伏条件を突き付けられることを覚悟していました。今までの経緯から考えると、薩摩藩や長州藩の恨みを多く買っていると考えられたからです。 庄内藩の降伏の申し出を受け取ったのは、新政府軍の庄内方面司令官の薩摩藩士・黒田了介(くろだりょうすけ。後の清隆)でした。 その黒田は、意外や意外、そんな庄内藩に対し、非常に寛大な降伏処置を取ったのです。 実はこれら黒田の寛大な処置は、全て西郷が黒田に対し指示していたことでした。黒田は西郷を尊敬し、西郷の一番弟子を自任していたような人物でしたので、西郷の指示に従い行動したのです。 そんな黒田と西郷の寛大な態度に感激した藩主・酒井忠篤以下、庄内藩の人々は、西郷を慕うこと一方ならず、その後藩主自ら鹿児島の西郷の元へ教えを請いに出向くなど、この庄内処置をきっかけに、庄内藩士と西郷の交流はその後も長く続いていくことになるのです。 8 - 3 西郷の帰国 庄内藩の処置を済ませ、その後一度帰国した西郷は、榎本武揚(えのもとたけあき)ら旧幕臣を中心とした集団が立てこもる、北海道函館の五稜郭へと援軍に向かいます。 しかし、西郷が到着した頃には戦いは既に終わっており、「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」といわれる新政府軍対旧幕府軍との一連の戦いは、この五稜郭の戦いをもって全て幕を閉じることになったのです。 その後、横浜に帰った西郷は、新政府への出仕を辞退し、明治元(1868)年6月、鹿児島へ向けて帰国しました。 明治維新最大の功臣と言われた西郷の帰国は、内外を問わず波紋を広げました。 西郷を扱った伝記や本のなかにも、この西郷の帰国を境に、西郷評価を分けているものが少なくありません。 「西郷は自分が政治家に向かないと分かっていたので、故郷に帰り隠遁しようと考えたのだ」と書いている本もあり、ひどいものともなると、「西郷が明治を境にバカになった」というようなことまで書いてあるものもあるほどです。 しかし、これらの批判や見方は、西郷を上辺だけしか見ていない浅薄な論であると言えましょう。 確かに、西郷には隠遁志向がありますが、この西郷の帰国をそれだけのものとして片付けてはいけないと思います。 私が思うに、この西郷の帰国には、非常に重大な意味が隠されていると感じています。西郷の帰国については、いずれ別の機会にサイト内で取り上げたいと思っています。 (つづく) ーーーーー 以上 ーーーーー |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用





