人物・伝記

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--- 西郷隆盛 ---

9  西郷の上京から廃藩置県まで

9 - 1  明治新政府の苦悩

 西郷が鹿児島に帰国した後、明治新政府には次々と困難な問題が生じてきました。

 明治2(1869)年6月、明治維新に功績のあった者に対し、「賞典禄(しょうてんろく)」や「位階」といった形で論功行賞が行われたのですが、それらの恩賞は薩摩藩と長州藩出身の人物に厚く、他藩の者が軽く扱われた形となりました。

 倒幕を成し遂げた原動力となったのは長州と薩摩藩でしたので、その結果は当然であったとも言えますが、他藩出身者にはどうも納得出来ません。そのため、薩摩や長州藩出身者に対して、各方面からの非難が起こりました。

 また、長州と薩摩藩の間でも、新政府のポストについての派閥争いが起こり、双方が反目しあうという事態も生じてきたのです。

 このように混乱した状態になると、当然新政府内の風紀も乱れてきます。

 新政府の役人らは、昔の苦労を忘れ、豪華な邸宅に住み、大人数の使用人を雇い、美妾を蓄えるなど、まるで旧大名を真似たような驕奢な生活をするものが増えました。

 そして、権力をかさに着て、民に対し横暴な振る舞いをする者も多く出たのです。

 こんな乱れた新政府に、民衆は大いに失望しました。

「新しい世の中になったと言うが、これでは江戸幕府の時代の方がよっぽどましだ」

 このような声があちらこちらから聞こえてくるような状態となり、全国各地では重税に苦しむ農民らが蜂起し、それが飛び火して一揆が続発しました。

 また、腐敗した政府を憤る者達が政府転覆を企てるなど、反政府行動を取る人物も現れてきたのです。

 当時の新政府の中心人物は、公家の三条実美、岩倉具視、長州藩出身の木戸孝允、そして薩摩藩出身の大久保利通の四人でした。彼らは続発する農民一揆や民の不満等を押さえるため、日夜努力を続けていたのですが、なかなか上手い対策が打てません。

彼らも新政府がこのままではいけないことは十分に分かっていました。このままでは苦労して樹立した新政府が瓦解する恐れがある……。

そんな危機感を持っていた四人は、鹿児島の西郷を東京に呼び戻し、彼の力や徳望をもってして、一大改革をやろうと決心したのです。

 このような混迷した事態を打開するためには、人々から仰ぎ慕われる人望を持ち、かつ勇気と決断力を併せ持った英雄的人物が必要になってきます。

 残念ながら、大久保や木戸には、知謀や知略といったものは十分に持ち合わせていたでしょうが、人々から信頼され、なおかつ勇気を持って改革を成し遂げる力は、当時の彼らには不足していたと言っても過言ではありません。彼らが西郷を鹿児島から呼び戻そうとしたことにそれが表れています。

 西郷は、最もたくましい勇断力と人々から慕われる絶対的な人望を併せ持った人物でした。新政府の危機を乗り越えるには、どうしても西郷の力が必要だったのです。

 西郷の盟友である大久保は、西郷の弟でヨーロッパ視察から帰ってきたばかりの西郷信吾(さいごうしんご。後の従道)に、兄の隆盛を東京に呼び戻してくれるよう説得を頼みました。

 大久保から依頼を受けた信吾は、明治3(1870)年10月、一路鹿児島へと向かったのです。

9 - 2  西郷の上京と廃藩置県工作

 明治2(1869)年6月以来、国元鹿児島に引きこもっていた西郷は、突然の弟・信吾の訪問に驚きましたが、ヨーロッパから帰ってきたばかりの信吾に積もる話もたくさんあったことでしょう、喜んで迎え入れました。

 しかし、弟の信吾から聞かされる新政府の腐敗した実態に、西郷は怒りと憤りを感じました。また、新政府がこんな風に堕落してしまったことに、維新を迎えることなく非業の内に倒れていった数多くの同志達に対し面目が立たないと大いに涙を流したことでしょう。

 弟・信吾から大久保の上京要請の話を聞いた西郷は、いよいよ上京する決意を固めます。鹿児島に引きこもっていたとは言え、西郷の頭の中には常に中央の政府のことがありました。

東京から鹿児島に帰郷した人々を通じて、少ないながらも新政府の情報が西郷の耳に入っていたのです。これらの情報を聞いていた西郷は、堕落し切っている政府をいつか改革しなければならないと常日頃から考えていました。

 明治3(1870)年12月、勅使・岩倉具視と大久保が鹿児島に来訪しました。西郷を正式に東京に呼び戻すためです。

 鹿児島に帰った大久保は、西郷と共に新政府の一大改革案について話し合いました。

 それは、「廃藩置県(はいはんちけん)」のことについてです。

 明治の世になってからは、日本の政治形態を「郡県制度」にするか、それとも「封建制度」のままにするかの大きな議論が起こっていました。

(つまり、「藩」というものを廃止して「県」を置くか、そのまま身分制を引き継いで藩を存続させ封建制にするかの議論)

 明治2(1869)年6月には、新政府が諸大名から土地と人民を朝廷に返還させる「版籍奉還(はんせきほうかん)」を実施していましたが、これは形式だけのことであり、実際には藩はそのままの形で残っており、藩主も「知藩事(ちはんじ)」という名前に変えられただけで、領内の運営は全てこれまで通り藩が行っていたのです。

 しかし、廃藩置県というものは、実質的に諸大名から土地(つまり領土)や人民を新政府が取り上げることとなります。

西郷も大久保も、この廃藩置県を明治維新の総仕上げという風に考えており、これを成し遂げないことには、真の革命が成立しないとも考えていました。

 ただ、この廃藩置県には大きな危険が伴っていました。

 廃藩置県というものは、いわば大名という地位と特権を無くし、各藩の経済的基盤を奪い去ることに繋がります。迂闊に廃藩置県の情報が他に漏れれば、各地の諸大名が蜂起し、日本中にまた内乱が勃発してしまうかもしれません。

そのため、西郷と大久保としては、慎重に事を運んでいかなければなりませんでした。

 西郷と大久保は相談の結果、薩摩、長州、土佐といった三大藩の力を利用して廃藩置県を行うことに決定し、西郷と大久保は岩倉と別行動を取って一路山口へと向かい、当時山口に帰郷していた木戸孝允と面会しました。

木戸との話し合いでも、当然廃藩置県のことについて話が出たことでしょう。

 そして、その後三人は揃って高知に出向きました。薩長土三藩の力無くしては、廃藩置県は断行出来ないと考えたからです。

三人は高知で板垣退助(いたがきたいすけ)と会い、薩摩、長州、土佐を代表とする四人は揃って上京することになったのです。

9 - 3  廃藩置県

 西郷ら一行が東京に着いたのは、明治4(1871)2月のことでした。

 新政府に復帰した西郷は、廃藩置県に向けて着々と準備を始めました。

 西郷を中心とした新政府は、まず薩摩、長州、土佐の三藩に「御親兵(ごしんぺい。政府直属の兵)」を差し出すよう命じました。廃藩置県断行の際に予想される各地の反乱に備えるためです。

西郷も一時鹿児島に帰国し、常備隊四大隊と砲兵四隊(約五千人)を率いて東京に戻ってきました。

 また、西郷らは御親兵以外にも、日本の東西に鎮台(軍の機関)を置くことを決定しました。もし、廃藩置県に反対する諸大名が武力行動に出た際、迅速に鎮圧できるようにするためです。

 このようにして、西郷は軍事面での強化を行なうと共に、6月になると木戸と共に参議に就任し、実質的な新政府の首班となりました。その後、制度取調会の議長となって、内政面での改革にも取りかかりました。

 明治4(1871)年7月9日、木戸邸において、西郷ら新政府の首脳メンバーが集まり、廃藩置県についての秘密会議が催されました。

 しかし、会議は紛糾しました。この後に及んで時期尚早であるとか、廃藩を発表すればどんな騒ぎになるか分からないなどという慎重論が起こり、木戸や大久保の間で大激論となったのです。

 その激論を黙ってじっと聞いていた西郷は、ついに口を開きました。

「貴殿らの間で廃藩実施についての事務的な手順がついているのなら、その後のことは、おいが引き受けもす。もし、暴動など起これば、おいが全て鎮圧しもす。貴殿らはご懸念なくやって下され」

 重いそして力強い西郷の一言でした。

 木戸と大久保は、その西郷の一言で議論を止め、西郷の大きな決断力で、廃藩置県が最終的に決定されることになったのです。

 明治4(1871)年7月14日、「廃藩置県」が発布されました。

 民衆はこの大きな改革に驚きました。また、各地の諸大名にとっては、この廃藩置県に怒り心頭だったことでしょう。地位と財産を一遍の詔勅によって奪い去られたわけですから、当然のことだと思います。

 例えば、当時薩摩にいた島津久光は、廃藩置県を聞いて烈火の如く怒りました。

 以前にも簡単に述べましたが、久光は保守的な性格で、日本の政治形態は今までとおり封建制が望ましいと考えていたのです。

それが自藩士の西郷や大久保らによって、廃藩が行われたと知るや、怒り心頭に達して、鹿児島の磯の別邸(現在の鹿児島市の磯庭園)からいく艘もの船を出し、終夜花火を打ち上げさせ、その鬱憤を晴らしたという逸話が残っています。

 しかしながら、西郷らが作り上げた御親兵や東西の鎮台が反乱に備えて各地ににらみをきかせています。久光や諸大名としては、廃藩置県に反抗するわけにはいきません。

 このように廃藩置県という一大改革は、ごくごく平和的に達成されたのです。

 日本に滞在していた外国の公使らは、廃藩置県が平和的に行われたことに驚愕しました。権利というものに敏感なヨーロッパなどにおいて、このような改革を行なえば必ず戦争になり、平和的な解決は想像できなかったからです。

 廃藩置県という維新革命の総仕上げに、西郷がいかに努力したのかを分かって頂けたのではないかと思います。そして、西郷の徳望と勇断力をもってして、この廃藩置県という一大革命が成し遂げられたと言えましょう。(つづく)





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