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後街道を行く 第3回

後街道を行く 第3回


3.内牧から笹倉まで

●  内牧宿

 旧道から再び県道に出た。しばらく歩いたら大きなタブの水が目につく。近づいたら菅原天満宮だ。鳥居の横に大きくそびえていた。もうここは内牧宿。御殿様の二泊目の地。街道は右に左にと直角に曲がる。

「内巻(牧)は豊後街道の宿なり。宿の西外に熊本より十里という木あり。これより一里ごとに皆札たてり」と、桃節山が書いている。それが十字路に十里木跡として標示されている。

何年か前までは槙の木があったそうだが枯れてしまい、店の駐車場に変わっている。ここ内牧宿は熊本から十里、豊後街道全行程の三分の一地点となる。

内牧は天文年間(1532〜1555)に、辺春丹波守が内牧城を築いて一帯を支配した頃から始まる。天正年間(1573〜1592)、島津氏が侵入して、ここを始め阿蘇郡内の城がことごとく落ちる。

しかし慶長六(1601)年、加藤右馬允可重(うまのじょうよししげ)が内牧城主として入り、七万五〇〇〇石を賜った。

その後元和元(1615)年の一国一城制によってその城は壊され、加藤氏は熊本へ移り、清正・忠正二代にわたって家老として忠誠を尽くす。

加藤氏没落後細川氏が入国して、城跡に手永会所や御茶屋など諸役所を置いて、阿蘇一帯の統治の中心地とした。今でもその跡として、阿蘇市支所に会所跡、図書館・スポーツ公園に御茶屋跡として伝わる。

御茶屋跡は今でも町のはずれのちょっとした丘となっていて、城の一部、石垣や堀が残っている。それを示す記念碑があるが、碑文の部分が壊されていて読み取れない。誰がいたずらしたのか。これでは由緒ある城跡、御茶屋跡も泣いていよう。

「会所門前横道より南側十間家造禁制」との石柱もあり、町屋を遠避けて造られていたことが分かる。

●  内牧宿の勝海舟

 この御殿には勝海舟たちも宿泊した。そして熊本藩政に感服している。「(二月十九日)内の牧に宿す。この地もまた山中、山泉自由なり。惣て鶴崎よりこの地まで、土地厚瘠、熊領は大材甚だ多し。

我、この地を過ぎて、領主の田野に意を用いしこと、格別なるに歎服す。また人民、熊本領にして素朴、他国の比にあらず」 勝海舟のことは前にも書いたが、さらに続ける。

文久・元治のこの頃(1861〜1865)、攘夷運動が盛り上がっていた。長州藩は、馬関海峡を通る外国船を砲撃して意気を上げていた。

その長州藩を攻撃しようと欧米列強は画策する。それがやがて四力国の下関砲撃となる。この動きを知った幕府は、勝海舟を長崎へ派遣させて外国公使などと交渉にあたらせる。

その命を受けた海舟は、坂本龍馬たち海軍操練所の若者を率いて長崎へ急行した。神戸から航海して佐賀関へ着岸し陸行して、鶴崎から豊後街道を歩き、この内牧に宿泊した。なお、帰路もこの逆コースをたどる。

その時熊本で、坂本龍馬を横井小楠宅に訪ねさせ、小楠の甥(横井大平と左平太)を預かる。彼らはその後、アメリカへ留学して、その一人横井大平は熊本洋学校を立ち上げ、教育に大きな役割を果たした。そのことも付記しておこう。

海舟はこの長崎行きを日記にしたため、今も『勝海舟日記』で読むことが出来る勝海舟は幕臣ではあるがその視野は広く、将来を良く見据えていた人物であったと思う。龍馬を引率したわけが理解できる。

伊能忠敬たちも宿泊した。文化八(1811)年十二月十五日ヽ大津から測量して、五里十九町四十一間三尺と打ち出し、客殿に止宿した。翌日、いつものように出立して小池野村まで測り、坂梨本陣に泊る、また翌年六月二十五日もここに泊って、宮原へ進んだ。

 内牧宿はたびたび大火に見舞われた。中でも文政年間(1818〜1830)には二度も町が全焼した。それで町内に空き地を設けて、火除けの碑を建てている。

下町の火除け碑、猿田彦大神前とヽ新町のそれが今も残っている。それぞれに角口九間とか六間、つまり約12m〜17mで火除け空き地を造るように刻みこんでいる。

町内を歩いていると、荒神さんがあったり、古い造り酒屋があったりと、古い歴史をしのばせる。また、温泉旅館や共同浴場が目につくがヽ江戸時代はそうではなかった。御殿様は温泉でゆっくりしていないようだ。湯山に泉源はあったが、町まで導入出来ず、温泉町となったのは明治以降のことなのである。

 節山は、「内巻にも出湯あり。宿町より少し相離れたる所にあり」と述べているが、入湯したろうか。

●  山頭火句碑

 温泉町と名が売れ出しだのは明治以降で、それから温泉町として栄えていく。多くの文人墨客がやってきた。その中の一人が種田山頭火だ。昭和初年の漂泊の俳人だ。

山頭火句碑に会いに内牧をさらく(歩く)。会う人ごとに尋ねるが、「わからない」の返事ばかり。山頭火もここでは忘れられた存在か。やっと民宿のご主人と出会い、親切に連れて行ってもらう。町はずれのひなびた温泉宿があって、庭先にその碑はあった。

 コスモス寒く阿蘇は暮れずある空  井泉水
 すすきのひかりさえぎるものなし  山頭火


昭和四(1929)年十一月、萩原井泉水門下生八人が阿蘇吟行に出た時、この「ともした(塘下)旅館」へ泊った。

山頭火の句碑は各地にある。街道歩きをしていると、必ずといっていいようにその句と出会う。

  こんなにうまい水がある (島原街道)
  湯壷から桜ふくらんだ (長崎街道・嬉野宿)
  人生即遍路 (四国八十八霊場)


山頭火は現在の旅好きの人にとっては憧れの人である。旅人の気持ちを良く表わしているからだろう。また山頭火とは出会うこともあろうから、今日はこのくらいにしておく。

内牧温泉にはこのように多くの歌人が立ち寄ったので、たくさんの歌碑がある。地元の宗不旱、宮柊二、吉井勇、与謝野鉄寛と晶子の比翼歌碑など。歌碑巡りも楽しそう。

やたらと町内の街道は折れ曲がる。これは清正公の御本陣防衛策なのか。町外れに大きな神社の鳥居が見える。

加藤神社で、内牧を開いた加藤右馬允(うまのじょうよししげ)を祭っている。この山手に高さ三五mの大杉があって、御神木としている。

この脇の道を登ると、大観望へ出る。阿蘇展望第一の地だ。その名は徳富蘇峰が命名した。やはりここ熊本の人だ。

●  霜神社

 街道は黒川沿いに進む。大きな遊水地もあって、黒川流域の整備が進んでいる。平石橋を渡る。千石とは、米の千石も出来る所だということにちなむようだ。

犬塚太次兵衛義元が、正徳二(1712)年、小池、今町、小里、小野田開田のために小里用水を引いた。
その時、黒川を横断させるのに苦労した場所がここ千石である。その完成でこの辺り一帯が豊かな水田地帯となった。それでその名がついた。一面、青々とした稲穂の中を進む。今年も豊作だろう。

正面に阿蘇五岳が広がり、仏様が寝ているお姿にそっくりだ。顔が根子岳、胸が高岳、お腹からわずかに煙を出していらっしゃる。へそで茶を沸かす? その頭の部分に向かって街道を進む。

その広い水田の中を進むと、十一里木跡がある。圃場整備のために動かしたのか、標示石柱は無粋なコックリートブロックの上にのっかっている。

役犬原という珍しい地名の所を通る・阿蘇家の神事、下野の狩に使用した猟犬を飼育したことにちなむ゜この集落の端に、霜神社がある。阿蘇の火祭りで有名な神社である。

ここには、的石で紹介した、健磐龍命と鬼八にまつわる話がある。健磐龍命から追われた鬼八は捕らえられてヽ首をはねられた。その時、「この恨みはきっとはらす。阿蘇に霜を降らせてやる」といい、亡くなったという。

そのために阿蘇では霜の害が続いて、農民は大困り。それを聞いた健磐龍命は、火を焚かせてその害を防いだそうだ。それが火祭りの始めという。

毎年八月から十月まで乙女がこもりて火を焚き続け、十月十八日には火渡りの神事が執り行われる。国の無形民俗文化財にも指定されている。

●  塩塚の道標

 直進すると阿蘇神社、街道は右へ曲がって宮地へと進む。その交差点に道標と石仏が立っている。 高さ2mくらいの石柱には、正面に「阿蘇神社(自是東八丁坂梨迄一里余)」と左面に゛明治九年七月七日栗林権蔵再建」と刻まれていることが読める。

並んで、不動明王像、馬頭観音像ヽ聖観音像ヽ自執石などが立っている。

街道は阿蘇神社を避けて通る。東岳川沿いに進む・農道となって道幅が狭まった所に十二里木跡がある。その先は草道となって、川を渡る。もちろん橋はなく、川底にコンクリート道があるだけ。

 この辺りは火山灰地で軟弱な地盤であるから、雨ごとに洪水となって川を洗゜たのだろう。それで石畳の敷かれた徒歩渡りであったようだ。

 国道五七号線に出た。すぐ宮地の駅である。

●  あそBOY(ボーイ)

 宮地駅に着いたら、思いがけずにSLあそボーイ号がいた。春から夏にかけての土日、祭日に運行しているとのこと。願ってもないことだ。これに乗って帰ることにする。

私たちの世代は、みんな蒸気機関車にあこがれていた。特に同行のMさんはおおはしゃぎである。昔の鉄道少年で、それを今でも引きずり、大の鉄道旅行好き。早速、機関車談義が始まる。

ホームに出て、記念の写真撮影。そしてSL58654号を舐めるように見つめる。黒煙とその匂い、排蒸気の音など懐かしいね。運転士さんと話し込む。四〇代と、意外に若かった。JRでは、蒸気機関車の歴史と伝統をちゃんと継承しているのだな。

「ボーッ」腹の底まで響く汽笛を一声、ガッタンゴットッと動き出す。後方の展望車へ行き外を眺める。線路沿いにはたくさんの人が集まり、手を振っている。今でも蒸気機関車の人気は高い。

この機関車はハチロクの愛称で人気の高いSLだ。大正十一(1922)年誕生と、車体に刻まれている。九州各地を走りまわり、走行距離334万Kであった。

昭和五十(1975)年に廃車になって人吉で展示されていたが、再び復元されてこの阿蘇を走るようになった。

牽引する客車もウェスタン風で、名づけて「あそボーイ」という。運行は昭和六十三(1988)年の夏からで、熊本・宮地間を往復している。やはり阿蘇には蒸気機関車が似合う。阿蘇山の麓を、煙を吐きながら走る「あそボーイ」は一幅の絵になる。

 「ガッタンゴットン、ボオーツ」

あそボーイ号はゆっくりと進む。立野駅に近づいた。ここは阿蘇外輪山の切れ目で、ここの急坂を乗り越すために、線路は三段のスウィッチバックとなる。

阿蘇谷へ鉄道が開通したのは大正七(1918)年のことである。大正になって生まれた宮地軽便鉄道は、大正三(1914)年六月大津駅まで開通し、いよいよ阿蘇の外輪山越えの工事にかかる。

二年後の十一月には立野駅まで通じ、さらに阿蘇谷へ鉄道敷設するために、高度技術を採用した。それが三段式のスウィッチバック方式で1000分の33.3の急勾配を越え大正七(1918)年十一月、宮地駅まで開通出来た。やっと阿蘇谷を汽車は走ることが出来たのだ。

さらに大分県側ヘレールは延びた。阿蘇東外輪山を越すために、長い室坂・坂下両トンネルを掘るなど難工事が続き、やっと昭和三(1928)年十二月に宮地駅・玉来(竹田市)駅間が開通し豊肥線148Kが全通して熊本県と大分県が結ばれた。

車窓の景色を眺めたり、阿蘇の鉄道の歴史などを考えてうとうとしていたら、いつの間にか熊本駅に着た。あそボーイ号ともお別れである。


残念なことに、もう、あそボーイ号はいない。平成十七(2005)年八月二十八日引退した。この一七年間に約五二万人を運んで、人気も高かったが、なにせ、その誕生は大正十一(1922)年で、交換する 部品もなくなり、手造りしなければならないそうだ。

また蒸気機関車の運行にはかなりの経費がかかるからである。今後は「ディーゼルあそBOY」として阿蘇の麓を走るそうだ。また人気も高まろう。

バスで熊本港まで行き、フェリーに乗り換えて島原に着いたら、もう暗くなっていた。
 
●  阿蘇神社

 街道から離れているが、阿蘇神社を訪れる。なにせ阿蘇の神であり、肥後の総鎮守の神であるから、道中安全祈願のためだ。御祭神は健磐龍命で、他十二神を祭る。

この神はいわずと知れた阿蘇国造りの神で、神武天皇の孫神であるそうな。大昔、阿蘇谷は満々と水を貯えた湖水であった。健磐龍命はこの大湖の水を切り落として、美田を開いた。このように農耕の道と国造りに尽くしたという伝説が語り継がれている。

中世以後、阿蘇氏は肥後の大半を領有して大きな勢力を振るう。それで一一世紀以降、肥後一宮と仰がれて肥後の総鎮守神となった。現大宮司は九一代目という。

このように長い歴史がある大社だから見事な社殿と二層の楼門を持つ。どこにもない構えである。

境内に入る。神々しい中に拝殿し、御神恩を頂く。みやげに不老長寿の水といわれる「神の泉」をペットボトルに詰めて出発だ。

昔から多くの旅人が参拝に訪れているが、桃節山の『西遊日記』を読んでみる。

「(宮地に至る)町屋あり、家数百軒余ある由。呉服類を始め、諸品皆相応に備わる。阿蘇大明神の宮あり、参拝す。阿蘇大明神は神武天皇の御孫タテイワタツノ命。

上古、阿蘇山の麓は一円の湖水なりしを、阿蘇大明神ここに来たまい地理を見て、スガル(数鹿流)村より水を切り落とし(スガルの滝則これなり)、水の落したる湖水の痕を開墾して田地としたまい、ついに六万石の田となる。今の阿蘇郡これなり」

●  坂梨宿

 国道を約二K歩いたら、右手へ分かれ道があって、それが豊後街道である。すぐ坂梨宿の入口となる。国道改修時に別に道を通したので、坂梨の町が残った。今でも宿場の町並みやその面影を残している。

町の入口に大きな恵比須石像がある。もちろん材質は阿蘇凝灰岩である。HISTRY・ROAD「豊後街道歴史の道」と、案内板がある。ここも見所いっぱいの町である。

坂梨手永会所跡がある。しかし今では古井戸だけで、隣に坂梨小学校発祥の地との石碑も立っている。天神橋を渡る。肥後の名工が架けた眼鏡橋である。

「弘化四年丁未春吉辰 棟梁八代郡種山手永 石工卯助」親柱にそう刻まれている。あの緑川に架かる長さ37.5mもの大型石橋の霊台橋を造った人だ。

肥後には種山の名工と呼ばれた岩永三五郎たち石工がいて、各地で眼鏡橋を架けていた。その甥に卯助、宇一、丈八兄弟かおり、彼らの技術は古今絶無といわれ、肥後の名工の名をさらに高めていた。

この天神橋を築くために三年をかけたという。約一〇〇個の石を積み上げ、見事なアーチを描いている。以来一五〇年間、多くの人々や車が通り、特に近代になってトラックやバスが通過してもびくともしない。

肥後は石橋職人を多く生んだ所で、彼らの労作が街道各地に残ってい。

●  坂梨宿と伊能忠敬

 町筋から少し離れた南手に坂梨御茶屋跡がある。大きな建物が残るが、住む人もいないようだ。広大なその屋敷の残る姿は痛々しい。

坂梨御茶屋は藩主の宿泊地ではなくなったが、本陣として使われていた。伊能忠敬が測量時に宿舎としてたびたび使用している。

 「十二月十六日、内牧宿出立、黒川沿い、小里村、小池村、小倉村(字黒流、字今町)、竹原村(枝役犬原)、宮地村(字塩塚)、

これより阿蘇神社華表前まで測(細川国印四石鎮座は別記)二里六町三間、同所社人にて中食、阿蘇神社前より初め、坂梨村字古閑、字馬場、滝室坂、

小池野村まで測(坂梨止宿まで二十八町五十二間、合一里二十町二間二尺)、本陣客殿、別宿」

「十二月十七日、(同所逗留、小雨この日大いに寒し)、小池野村より初め、字戸の上、字笹倉(小池野、大利)、村界まで測(一里二十六町四十五間)、帰宿、この夜大曇にて雪あり」

「十二月十八日、(雪後大寒午前より小晴)坂梨村出立」極寒の中を伊能測量隊は豊後街道沿いに測るが、この宿で二泊している。その後測量を続けて久住に泊る。翌年にもやってきて宿泊して、内牧へ去る。

「(文化九年)六月二十四日、上色見村字前野原出立、肥の尾峠(根子岳間阿蘇岳裾)、坂梨村(野坂家中食)、坂梨町(二里五町二間一尺八寸)、止宿坂梨客殿」阿蘇谷東端にある坂梨が、昔から阿蘇地方交通の中心地であることが良く分かる。

またこの地には吉田松陰も宿泊した。

「(二月)十八日、坂梨に泊る」

 しかし、これだけしか書いていない。どの旅寵であったか、もう今では調べようがない。

町内をきょろきょろしながら歩く。というのも、当時の屋号を書いた灯龍風の看板が掛けてあるからだ。大黒屋はどこだ。ここは西南戦争時に薩摩軍の本陣が置かれた所という。

三月に二重峠で敗走した官軍は、大分県側から兵力を増強して坂梨を襲う。明治十(1877)年四月十三日、薩軍を蹴散らし、阿蘇谷へ入る。
 
●  子安観音

 街道の両側を清水が流れる。これまた阿蘇の伏流水だ。その名水を利用した豆腐屋さんがある。おいしそうな豆腐が泳いでいるが、まだ中食には早いと、水だけ頂いて立ち去る。小さな水車が回っている。

側には水車小屋地図があって、盛んだった頃の様子をまとめている。

木喰上人作の子安観音像を拝む。町の大富豪、虎屋の奥方が依頼して刻ませた等身大の観音様だ。

虎屋はそれを天神社境内に堂を建て、子安観音として祭った。すると霊験あらたか、子どもの救い神となった。

それで近郊からの参拝者も多く、今でも子どもの病や母乳不足の解消にと、甘酒を竹筒に入れてお参りする人も多いそうだ。

町中に十字路がある。その道を右へ行くと高森方面へと通じる。

つまり野尻・日向道で、根子岳山麓を越える現在の国道二六五号線。まっすぐ行くと豊後街道。本当に坂梨は交通の要地だ。

町も終わる所が桝形になっていて、坂梨番所が置かれた所である。そこには馬頭観音像や秋葉山大権現板碑などがある。また一里山といって、十三里本もあったようだ。その記念石柱はこの五○○m先、国道端へ移されていた。

余りの坂梨宿歩きが終わった。いい所である。これまたお勧めの道である。国道に出てしばらく歩くと、限前に外輪山の壁が広がる。滝室坂が待ち構えている。

「大坂に坂なし、坂梨に坂あり」

坂梨の地が標高543m坂の上が786mだから、その差250mを3k歩いて越さなければならない。二重峠と比べてどうだろうか。覚悟して登る。

「土人(土地の人)の方言に、大坂に坂なし、坂なし(梨)に坂ありとて、豊後より坂なしに入るは片坂にて険阻の下り一里半」と、古河古松軒は書いている。また高山彦九郎は、寛政四(1792)年、竹田から熊本へ行く時ここを通り、この急坂のことを書いている。

「岩坂を下る事半里計りにして坂梨町なり」

だんだんと高度を高めていく。この道は明治以来も旧県道として残ったから、この所は歩きやすい。道の一部は石畳で固められている。街道の真正面の一段高いところに、祠があった。登ってみたら護法神社である。

護法というが、乙護法のことで、仏法守護の神様のこと。これまた二重峠にあった「ごうさま」のことだ。祠内には木彫りの護法様を祭り、周りには千手観音石像もいらっしゃって、道中の安全を見守ってくださる。

さらに坂道を進む。川沿いに廃道が続く。頭上に岩が迫る。実はこの辺りで道を間違えたのだ。進んだ所が河原で、岩石がごろごろ。なんと前方の壁面に線路が見える。

JR豊肥線の一部で、このために道は行き止まり、歩いてきた道は旧県道であったが、平成二(1990)年の大水害で線路ともども崩壊したものである。仕方がないと、護法社近くまで引き返して休憩。一息ついてそこに立つ説明板を読む。

●  滝室坂

 道を間違えたら、引き戻ることが街道歩きの鉄則だ。そして一休みして考えてみること。

旧道の入口を探していたら、草刈り機の音がする。その人を探して尋ねこの人たちは、この年の夏休みに熊本の子どもたちが豊後街道を歩くために、道普請をしているところという。

熊本では毎年夏休みに、小中学生に地域の文化と歴史を学んでもらおうと、「参勤交代・九州横断徒歩の旅」を催している。 

もう20年以上も続いているそうで、街道沿いの皆さんはこんなふうにサポートしているのだ。ありかたい、地獄に仏とばかりに街道のことを色々聞く。

ここら一帯がこの前の水害ですっかり荒れ果てたから、雑草を払ったりと道を整備しているとのことだ。
ありかたいことだ。

小川を越え、雑草雑木の中を進む。先ほど読んだ説明板を思い出す。

ここには石橋があった。川幅2m深さ2mほどの谷が切り込んでいたからで、そこに長さ2.5m、幅30cmの細長い板石を五、六枚並べて石橋を架けていた。橋の基礎部は石垣で固めていた。

それが明治以降廃道になって、たびたびの水害に遭い、次第に壊されていった。とうとう平成二(1990)年七月の大水害で、跡形もなく破壊されてしまった。阿蘇の地質は火山灰のためにもろいから、雨水でよく流されていた。

手を入れなくてはこのようになってしまうのだ。歴史ある道だから、ぜひ二重峠道のように整備・復元していただきたいものだ。

完全に廃道となり、小川となってしまった旧街道を今度は沢登りだ。急ごしらえのハシゴが架かっている所もある。これは先はどの人たちが作られたものか。感謝して使わせてもらう。

難行苦行、大きく息をはきながら歩く。悪い時には悪いことが続くものだ。カメラを落としてしまった。

それでこの辺りの写真が、一枚も撮れていなかった。その後、写真撮影のために坂梨宿から滝室峠まで歩いたが、廃道を歩くことは止めた。あの難路を一人では行けないと、弱音がでたからだ。

どのくらい苦闘したろうか、頭上から自動車の音が聞こえる。国道五七号線は間近い。しかしそれからもひと苦労。そこへの出口が分からない。

国道からの排水溝沿いに行ったら、やっと出ることができた。滝室坂の強行突破である。古人がいったように、今でも一番の難所である。

●  砲台跡

 阿蘇外輪山上に出た。数軒の店があるだけで見晴台などない。街道が車時代のために大きく変わり、阿蘇の雄大な景色も見られない。

二重の峠ではその美景に疲れも吹き飛んだがと、みんな不満。初めてこの地で阿蘇を眺望した勝海舟は書いている。

「山上より阿蘇岳を見る。この岳に並び立ちたつ高峰あり。猫が岳という。人跡至らず。山の頂上、大石、剣の如く成るもの直立す。

妙義山に比すれば、更に一層の奇峰なり」海舟や龍馬が目にしたと同じ美景を探すが、その地は地区の共同牧草地になっていて立ち入れない。残念。

砲台跡と木碑が立っている。明治十(1877)年、西南戦争の時に砲台が築かれたところ。なるほど阿蘇谷が一望でき、街道筋も見通しだから守衛にはもってこいの場所であっただろう。

今では地区の共有土地となって、牧草や熊笹で覆われている。土地の人三人がここで戦死したと標示板に書かれているが、どんな戦闘であっただろうか。合掌して進む。

●  カヲの墓

 広い阿蘇平原に出たら、平らな道が東へと延びる。少し下り坂となって街道は進む。坂の上というと小集落がある。もうここは波野村(現・阿蘇市波野地区)だ。

波野とは、阿蘇国造りの神・健磐龍命の鼻息で、野原のススキが波のように美しく揺れ動いたからそう呼ばれたそうだ。事実、旅人の記録にも、「阿蘇辺十里四方茅野原と申事之由」(桃節山『西遊日記』)とある。

杉林の中に「カヲの墓」と書いた木の板が立てかけてある。「カヲというジョウモンがいて」と、土地に言い伝えられた人で、藩主がここで休憩した時、お茶を献上した美女だそうだ。その墓なら立ち寄って、お参りしなくてはなるまいと、みんなの意見が一致。

   集落の裏手、杉がうっそうと茂っている地区の共同墓地の中にその墓はあった。正面に観音像を彫り込み、左右背面に「釈尼妙信不退転位 俗名カヲ」「文政十三年寅二月二四日」と、刻まれている立派な墓だ。170年もたつのに、さすがよく祭られている。合掌。

●  四里塚

 道は平道で歩きやすいが暑い。国道をギラギラと太陽が照りつけ、その中を歩かなければならない。難所越えでエネルギーを使いすぎたのか、遅れる人が出始める。Sさんのあごが上かっている。

左手に枯れ川や農道があるが、それが旧道である。 周りは一面野菜畑で、広い火山灰地の畑にキャベツの苗を植え付け中である。

「あれっ、機械植えばい」と、同行のSさんは驚く。
広々とした畑に大型トラクターが次々と苗を植え付けて行く。田植機は見たことがあるが、野菜の植え付けも機械でできるのかと、島原では見られぬ機械化農業だ。阿蘇の農業は、これまた大陸風で、大規模である。

四里塚集落に十四里木跡があるはずだが、何にもない。見慣れた里数木碑がない。バス停名にその名がついているだけだった。

十四里木なのになぜ四里塚なのか。ここが久住から四里にあたるからそうつけられた。この地が久住から移住した人によって開発されたからである。

「道の駅・波野」という大きな施設がある。現在のお休み処だ。波野の村は神楽の里で売り出し、ここにも神楽小屋が建っている。

九月七日に神楽の定期公演開催と、大きな看板が立っている。ぜひ見たいと思っていたら、その願いが通じて、春の観光シーズンに訪ねたら特別公演があっていて、お目にかかることができた。

そうはいっても神楽は夜に見るものだ。雰囲気が全然違う。しかしこれは贅沢というもの。

   村直営のそば屋、農協の野菜直売所、手造り食品の店などで賑わっている。お土産として買いたい物があるが、荷物になるからと、一番おいしそうな山菜飯とヨモギまんじゅうを腹につめ込んで再出発。

●  笹倉

 道の駅からすぐ笹倉に着く。かつては御茶屋もあった所だが、今ではひっそりとした集落だ。その名残が各家の屋号に留まっている。

   細川重賢時代(1747〜85年)に藩財政改革のためにこの御茶屋は廃止された。それまでは藩主の参勤もこの地泊まりであったようだ。またこの宿場町に打撃を与えたのが、西南戦争だ。

   東京府警視隊は三月一日、大分県に着き、豊後街道を進み熊本を目指した。しかし二重峠で押し止められる。大利、産山、笹倉に布陣して兵を立て直して、四月には滝室坂で薩軍を破り、阿蘇谷へ入る。

 二重峠を突破して熊本へと進軍した。この時期、町は焼き払われた。

「知事さんの塔」があると聞き訪ねる。それは町外れの高台に立っている。

   明治の御一新で熊本県が生まれたが、旧藩主はそのまま藩知事となる。ただ名が変わっただけであるが、細川氏は違う。明治三(1870)年、熊本藩知事細川護久の手で藩政改革が行われた。

「村々小前共へ」との書き出しで始まる、知事直筆の減税令の書き付けを彫り込んでいる。あげ米(上納米とは別の年貢)、口米(検査で抜き取る米)、会所並村出来銭(村役人の給与経費)の三つを免除する布告が書かれている。

   旧藩時代の重い負担に苦しんでいた農民を救済するために、重い年貢と夫役から農民を解放しようとの試みである。本年貢の三分の一をカットするという。

   これに感激した農民、特に阿蘇地方の農民は碑を立てて知事を称え、子々孫々まで伝えることにした。それで他国でも、肥後の大減税を目標にと、百姓一揆を勇気づけたといわれた。

   この時期、藩庁は進歩的な実学党が勢力を持っていた。熊本の前途を考えて、農民救済を考えたのである。


   高さ90cmの板碑には細川家の九曜紋を彫り、布告文をそのまま刻んでいる。このような碑が今でも九ケ所あるそうだ。

   滝室坂越えで時間と体力を意外にも消耗したので、ここで本日はおしまい。帰りのバス時間までラジオ体操などして疲れた体をほぐす。                        

(豊後街道を行く第3回はここまで)つづく

・・次回はいよいよ大分県へ・・




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