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豊後街道を行く 第2回
2、大津から内牧まで〔大津〜的石16Km、的石〜内牧〜宮地16Km〕 ● 大津宿 肥後藩主の参勤交代時にはここ大津宿で一泊していた。二泊目は内牧宿で、三泊目は久住宿、四泊目は野津原宿で、五泊目が鶴崎御茶屋で、そして御座船乗船となっていた。つまり豊後街道三一里を四泊五日の旅であった。 出発と到着時は一日に五里と少なめの旅程だったが、その間は七、八里とスピードアップ。私のとても歩けない速さであった。 しかし急ぐ旅人はもっとすごい。長崎へ急行した吉田松陰は三泊四目で歩き通している。坂梨から熊本まで十三里を一日で踏破しているから、何と私の三日分を一日ですませている。 まあ、急ぐ旅でもないし、あちこちをぶらり見物の旅だから、のんびりと行こう。とりあえず、今日の目的地は的石御茶屋跡までとしよう。その距離四里、途中には阿蘇外輪山越えの二重峠もあるし、楽しみだ。 出発したら、雨が降り出す。傘をさしての街道歩きとなった。まあ、長い道中にはこんなこともあろう。 雨中の歩行も乙なものである。幸い小雨で良かった。 ● 大津堀川 豊肥線をまたいで街道は鉄道と別れて大津へ入る。したがって道幅も狭まり、大津町内へと進む。ここで旧国道とも別れ町裏へ進む。とうとうと音を立てて清水が流れる川筋へと出た。堀川、上井手である。 いうまでもなく、農業用水として開削されたものである。阿蘇白川の水を瀬田で取り入れ、延々六里(24Km)、熊本の坪井川まで運んだ。その結果、阿蘇西山麓の水田、一三〇〇町歩を潤した。加藤清正時代に始まり、細川藩主に引き継がれて完成した。 「この辺阿蘇川を引いて用水としたる水あり。……建石あり、清正公水利の為に湊屋重助に命じて、阿蘇川を分けて引かしめ、石の柱六本立てられる由を仮名書きにて刻みつけたり」(『西遊日記』)阿蘇山参拝のためにここを通った桃節山は、この水利に注目して旅日記に書いている。 節山は松江藩校教授で、幕末肥後藩へ招かれた人物である。その記録は当時の世相を知る良い史料となっている。 この堀川築遺時の排士で築かれたのが塘町。ここは街道に而していたから、旅龍や多くの店軒を並べていた。また名物の銅塘糖(落雁)屋もあった。大津宿の中心となっていたのである。 また節山の道中記を見る。 「(十一月朔)大津へ着、伊勢屋庄太郎方に宿す。この家も郷士の由、伊勢屋は仮名なるべし。大津は大分大宿なり、家数は千軒辻もあるよし」 川向こうの寺への参道には石橋が架けられている。見事な眼鏡橋である。こんな橋が今でも四橋残っている。古くは安永年間(1772〜1781)から文化文政期(1804〜1830)に造られたもので、もう200年以上も利用されているのだ。 そのひとつを渡って大願寺へ行く。見事な山門を潜る。そこには西南戦争時の弾痕の跡が残っているというが雨中で良く分からなかった。上の円通庵には、芭蕉塚がある。芭蕉百回忌に建立されたもの 「鳶のいる花の賤やとよあかさむ」 御高札場跡、大津手永会所跡、御茶屋跡、木戸口跡など旧大津宿の中枢部を通る。道幅は5〜6m当時そのままだ。 ● 御茶屋跡 高札場は諸法度や御触書などを掲示した場所。年一回の踏絵が行われたところでもある。この隣に地蔵尊が祭られているが、天明に飢饉で死亡した子どもの霊を弔い、この地蔵堂を建てたという。天明の大飢饉は全国に被害を及ぼしたが、ここも悲劇に襲われたのか。 手永会所とは、手永、つまり大津周辺五二町村を統治する役所で、明治期の郡役所にあたる所である。その役所が日吉神社鳥居南側にあって、広さ三〇〇〇坪。屋敷内には評定所、学問所、演武所などがあった。 伊能忠敬は文化九(1812)年12月14日ここに宿泊、翌日また測量のために豊後街道を進んだ。 御茶屋とは藩主の宿泊所で、つまり御本陣。敷地一八〇〇坪に主屋一七四坪、別棟七五坪、部屋数二九もあって、威容を誇っていた。 肥後藩の公的な旅館であるから、参勤のたびに肥後藩主が宿泊している。勝海舟、坂本龍馬たち一行は御公儀の用向きであったから、藩の公的宿所で昼食をとったのである。 日吉神社社司日記(元治元・1864年2月20日)に「公儀役人衆通行、当所昼にて熊本の様参られ候、(中略)総人数五十人の由、重き取扱に御座候。御茶屋会所御客屋に入り候」とある。 この地に海舟や龍馬は立った。そして賓客としておもてなしを受けたのだな。どんなご馳走であったろうか。 大津は、その昔戦国時代に合志氏の一族、大津十郎義廉が東嶽(今の日吉神社)に舞鶴城を築いた時から始まる。街道の要地として、大津という地名が伝わる。 それが江戸時代、参勤交代の宿場町となり、さらに堀川による新田開発が進んで肥後三大御蔵のひとつの地となった。このように大津は、阿蘇入口にある政治、経済の中心地として栄えていた。 簀戸口は宿場の臨時関所である。藩主の参勤など通行の前後に、道の左に竹製の二開扉を立てて、通行者を監視していた。宿場町の出入口に置かれ、藩士が目を光らす。 町外れに五里木跡がある。草むらの中に、それを示す石碑だけがぽつんと立っている。熊本から20K地点だ。このあたりから広い畑の中を街道は進む。その中にホンダ技研の大きな工場が建っている。周りには団地や住宅地も聞かれて、大津の町が更に発展している。 ● 清正公道 街道は阿蘇へ向かって真っ直ぐ進む。旧国道五七号線と別れて、通る車も少なくなったようだ。 明治になって、豊後街道がすたれていく。なにしろ阿蘇外輪山を乗り越えなければならなかったので、車時代には向かない。明治十七(1884)年、この二重峠道に替わり、下の道である大津・立野・阿蘇県道が開通した。 これが現在の国道五七号線で、九州横断の幹線となる。しかし今では、豊後街道は県道として整備され、ミルクーロードと称している。国道のバイパスとしてヽまた農業道路となって活用されている。 外輪山へ向かってだんだん登り坂となる。大津の町が標高100mで、峠鞍部が645mだから、10Kmかけて550mの峠越えとなる。 高尾野を通る。旧街道が良く残されて、堀切り道となっている。桃節山の道中記に、その記事がある。 「(二重)坂の下より半里計り下りて堀が谷という所あり。ここより自然につまさがりにて先は平地なり。この所より熊本迄の間、左右に大杉を植え並べ、大いなるは四周十二尺より三周余りあり。道は切り下げたるものにて。左右堤高き所に至っては一丈余りあり。 切り下げし道に水さがり悪きを計りしものと見え、道の中高くヽ左右に溝を掘りたり。皆、清正公の時出来し由なり」全くその通りの道がしばらく続く。 今、その道の中には芝を植えて公園化して、上から眺められるようになっている。この堀切り道は、いざ戦という時には、下を通る敵兵を上から一斉に撃ちかけることも出来るようにと造られた。清正公の戦略によるものか。 工業団地前に清正公道公園がある。広い街道の半分を利用して、ロードパークとしている。もちろん半分は自動車用の道、ミルクーロードである。 手にしている二万五千分の一地形図にも、この辺りに「清正公道」との地名がある。加藤清正が初めて肥後に入国した時、この道を通った。それ以来、参勤の道として杉の大樹を植えるなどして整備した。それで清正公様の造った道と呼ぶ様になったようだ。 清正公道とはどこを指すのか。いろんな解釈があってよくわからない。豊後街道全体をいったり熊本と二重峠間を指したり、地図のようにこの辺一帯、つまり大津・堀ガ谷間としたり、まちまちである。 ● 六里木跡 新小屋という所に六里木跡があった。このあたりの土地の記念碑に合わせてその由来を刻んでいる。それを眺めていたら、老婦人がこられて、六里本のある場所へ案内していただく。 Iさん宅の庭の一角にその木は残っていた。タブの大本で、回りにある樫などの本々より抜きんでて高々と聳え立っていた。数百年もの問、街道の移り変わりを見てきた大本である。 ロードパークが終わる所に記念碑があった。説明板があって、「人馬水呑場」とある。 文化八(1811)年に惣庄屋斉藤形右衛門が、東1Km先から水道を引き、堀が谷と高尾野に水舟(水槽)を置いて旅人と馬の水呑場を作ったと書かれている。さらに水道は大津まで八?延長されて、今でも新小屋や高尾野地区ではその恩恵を受けているそうだ。 では、惣庄屋さんに感謝して水をご馳走させてもらおう。「うまい!もう一杯」。 堀ガ谷で自動車道と別れて山道へと入る。いよいよ阿蘇西外輪山越えである。その人口に瓦葺き屋根の案内板があり、それを頼りに進む。かなり坂道となった。しとしとと雨が降る。雨中の坂道はつらい。同行の皆も話すこともなく、ひたすら歩く。 小一時間歩いたろうか、再び自動車道へと出た。ここは「峠」と地図にも記載されているところ。かつて峠茶屋があったが、今では無人の家が一軒あるだけ。その前を自動車がビユンビユン走り去る。阿蘇・九重間の観光ルートになっているから車も多い。その脇を身を潜めて歩く。 昔は山道には追いはぎが出て、身の危険があったが、現在では自動車ほど恐いものはない。道端を小さくなって歩く。 ● 二重峠 七里木跡があった。林の中に木柱だけが立っている。またそこから山道となり、ほっとする。車の洪水から解放されて、薄ぐらい木立の中をのんびりと歩く。と、視界が明るくなった。幸い雨もあがった。また自動車道となったが、周りは一面草原である。阿蘇外輪山頂に出た。 「おーっ、ここは大陸だ」 Hさんはうなる。 三六〇度、草原が広がる。一面、緑のじゅうたんを敷いたようだ。 二重峠の頂上だ。海と出しかない島原に住む者にとっては、ここは大陸だ。九州にこんな大草原があったとは、と改めて阿蘇の雄大さに目を奪われる。 西の外輪山の地点に目をつけて、街道を開いたわけが良く分かる。ここから北へ小国道が通り、肥後北部へも往来できる。小国地方の農民は、この道を利用して大津まで年貢米を運んでいた。東へ進めば阿蘇谷で、今も昔も阿蘇の交差点である。それで古代からこの道は存在していたようだ。 二重の名の起こりは、阿蘇国造りに由来する。健磐龍命(たけいわたつのみこと)が阿蘇原の水溜まりを排水するために、ここを蹴り破ろうとしたが失敗したそうだ。良く調べると、山が二重にあったそうで、それでこう呼ぶようになったとか。 実際に歩いてみると、この峠の頂上とさらに進んだ所にも高まりがあって、二つの峠があるから、そういったのだろう。 頂上には大駐車場があって、大きな案内板が立っていて、車のお休み処だ。大きな石碑があって、二重峠西南之役戦跡と刻まれている。こんな山頂でも戦いがあったのか。 明治十(1877)年、薩摩軍四〇〇余人はここと坂の下(阿蘇谷)黒川口に砲台を築いて豊後街道筋を防衛した。三月十三曰、警視隊五〇〇は地元士族有志の応援を得て一斉に攻撃した。 しかし官軍は三四人の死者を出して敗退する。内牧、坂梨を経て大分県側へと敗走した。再度、官軍は七〇〇に増強して四月二十日総攻撃する。今度は薩軍を大津方面へ追い払うことに成功する。これがここでの戦闘の様子だ。 広いこの草原上で両軍が戦ったとは、これまた大陸的。その喚声が聞こえてくるようだ。豊後街道は人と物と文化を運ぶ道であったが、戦争の道でもあったんだな。歩いていると、その戦跡があちこちに散らばっている。 ● 二重の石畳 阿蘇高原を歩く。雨は明けるが、どんよりした雲のために、阿蘇五岳が見えないのが実に残念である。草原の中に、旧街道が細い道となって残されてはいるか、牧草地に変わり、鉄線で囲まれているので通行不能。 仕方なしに自動車道を歩くと、参勤交代の道(石畳道)の看板が目につく。立ち寄ったら、駐車場も造られていて車のお休み処になっている。街道が、この端から整備されて阿蘇谷まで石畳の道となって続いている。 標高差225mを1600mかけて一気に外輪山を下るので、坂道には石を敷き詰めて、歩行の便を図った。 50センチ四方くらいの石を幅二間(約4m)に並べ、隙間には芝を植えている。そ壮が延々と。1.6Kも続く。だから石の数は何万個になろうか。 昔の苦労が偲ばれる。その苦労を噛みしめながら、一歩一歩下る。雨明かりでやっと阿保谷が見え出したが、せっかくの景色も今一つ。もう一度天気の良い目に歩きたい道のりである。この石畳の道も街道歩きのお勧めの場所だ。 明治の初年、新しく県道を通した時に、この道は見捨てられてしまった。長い間通る人もなく放置されていたが、それがこうして整備されて歴史の道として復活したのである。ありがたいことだ。 ● 峠越え 苦労して峠越えをした人の記録を紹介しよう。 海舟は「二重の峠あり、甚だ高く、峠の道十八、九町、最難所、路、山の脚、殆ど頂上をめぐる」と述べている。阿蘇谷側より登ったのできつかったろう。なにせ200mを一気に登らねばならない。この時、海舟四二歳で同行の龍馬は三〇歳であった。 桃節山は「坂上に登りて阿蘇郡を見渡し候えば四方に山を以てに屏風を立てる如く包み回し、一郡全くくぼみて如何にも古昔は湖水にてもあるべき平をその地勢よく見るなり・・・坂の下より七合計り登りて峠なり」と記している。 勝海舟や桃節山が見たままの風景を、本当に今も目にすることが出来るのである。阿蘇の自然は時空を超えて大きく存在する。 何度も繰り返して書くが、豊後街道は肥後藩主の大切な参勤の道で、肥後藩内のメインストリートであった。 それで大事に道は保持されていた。特に阿蘇外輪山越えは、その急坂でおまけに土質がもろい火山灰地であったから、その管理が大変だった。その道普請には農民があたったことはいうまでもない。 その苦労を物語る遺物がある。「岩坂村つくり」と刻まれた1m余りの石が斜面に横たわっている。説明板があって、道普請に駆り出された農民が夫役の合間に自分たちの村名を刻みつけたものであろう、と書いてある。 岩坂村は大津町の川向こうの村だから、ここから三里もあり、そんな遠い所からも夫役に駆り出されていたのである。まだこの周りにはいくつもの石が転がっている。 さらに下った所に、牛王の水という清水が湧き出ている所がある。阿蘇外輪山上には水が無いので、この水は旅人にとっては命の水であったろう。ここで休憩してのどを潤して峠を越えていったろう。それで、霊地として乙護法を祭り道中の安全を祈ったようである。 乙護法とは仏法守護の神で、童子の姿で行者に仕えて霊地を守る。それで護法童子ともいわれる。ここでも旅人は手を合せ、一休みして元気をつけて峠越えしていたことだろう。 今も二体の石仏があって、それには「坂下の和七」や「熊本紺屋町の大坂屋」などと刻まれている。はるか遠い熊本の商人が商用で往来した時、地蔵尊をつくり寄進したのだろう。旅の苦労を物語っている。 ● 坂下駕籠据場 採石場への取りつけ道を横切ってさらに下る。今まで草原地帯だったのが森林へと変わり、坂下りが終わったようだ。 石畳も変わっている。石畳に水切がある。左手山手からの雨水を右下へ流す排水溝で、石畳を保護する工夫である。道の敷石を低くして、石畳に斜めの溝を刻み、水を早く流そうとするものだ。これまた肥後藩の高い土木技術を教えてくれる。 さらに下ると、桧の大本があって、「阿蘇町天然記念物・参勤交代の桧」という木柱が立っている。この大木はここに数百年立っていて、ずっと参勤を見届けて来たのだ。歴史の証人である。その話を聞けるものなら是非聞いてみたいものだ。 幅が1m足らずの石橋がある。四、五個の石板を並べて橋としている。川幅が狭いところではこれで十分。これまた街道を守る工夫がなされている。 やっと下り切ったようだ。林の中に、坂下御茶屋跡があり、駕籠据場が復元されている。 藩主を運んだ駕籠舁き人夫もここで交代した。大津手永組から梨坂手永組へ引き継ぐ。 「ご苦労であった」と道中奉行の声が聞こえるようだ。峠越えの皆さんご苦労さん。 ● 阿蘇谷を歩く 「阿蘇」という名は、後で訪れる阿蘇神社に関わる。行幸の天皇が、人家一つないこの広い原野に立って、「この国に人はいるのか」と尋ねた。土地の神、阿蘇都彦と阿蘇都媛か「我ら二人がいます。何ぞ人がいないことがありましょう」と答えた。この「何ぞ」が「阿蘇」というようになったそうだ。 その広い広い阿蘇谷盆地を行く。田植えも終わり一面青々とした稲で覆われている。この風景は何百年も変わらない、阿蘇の、日本の原風景だ。しかし外輪山を見ると、茶色く岩石がむき出しになっている所がある。 二重の石畳の石を取り出した所は、今では大がかりな採石場になっていて、山肌を剥ぎ取っているのだ。 阿蘇は広い。江戸時代でも旅人が驚嘆している。「阿蘇郡にて今、二万八千石の地といへども東西凡十里、広大なりといえども、山野ばかりにて、土人の物語には開田せば阿蘇郡に十余万石も出来るべき平地あり」(『西遊雑記』) このように古河古松軒は二二〇年前に書いている。土地の人が予言した通り、現在は開発が進み、八万人が暮らしている。米だけでなく畜産など、熊本の大農業地域になっている。 街道は阿蘇谷北部をほぼ半周して、再び東外輪山を越して阿蘇を去る。その開ずっと阿蘇五岳を眺めながらの歩きだ。その美景に、参勤の駕籠も遅れがちだったそうだ。 殿塚に八里木跡がある。大きな杉の下にその標示板が立っている。これらの里木は今も歩きの良い目安となる。今日の目的地、阿蘇神社まであと四里か。 めぐすり石がある。蔦に覆われている大石は年中水がかれることがないという、何とも不思議な石である。いつの頃からか限病の人が詣でるようになって、この水で目を浸して薬にしていたとか。では私も、この水いただきます。 近くの人家に殉難碑が立っていて、花と水が供えられている。ここの人、山内抑八が西南戦争時に死亡したので、供養しているものである。豊後街道は平和な旅人の道であったが、時代によっては戦さ道にもなっている。合掌。 ● 的石御茶屋跡 的石には御茶屋が残っている。藩主が昼食をとっていた、その家・屋敷が残っている。屋根が葺き替えられているだけで、間取りはそのまま、一段と高くなった殿様御成の間もあるそうだ。阿蘇の山々から湧き出る水をうまい具合に使った池と庭園は、それはそれは見事なものだ。 この泉水で、二月二十日勝海舟たちも一休みした。 「的石村あり。ここに領主小休の亭あり、素質、底に山泉一面流る。 北に北山あり、南に阿蘇あり。阿蘇の脚、甚だ広く田野あり」 代々小糸家が勤め、今も十三代ご当主が守っていらっしゃる。 昔の面影を残す御茶屋はもうここだけしか残っていない。貴重な文化財で証人でもある。大切にしたい。 ここに立っていると、その辺りからお殿様が出てきそう。江戸の昔に引き戻された気分になり、ちょっと贅沢な気分になれる。しばしぼんやりとたたずむ。 御茶屋の水源をたどると、神社にたどり着いた。隼鷹(はやたか)天満宮である。清水がこんこんと湧き出ている。阿蘇の外輪山からの伏流水で、阿蘇に降った雨水が長年かけて湧き出たものである、阿蘇谷にはこのような名水が多く見られる。 隼と鷹を名に持つこの神社の由来は、藩主の参勤に関わる。 細川綱利三代藩主が参勤の途中、海上で天候が悪化した。御座船が波に呑まれそうになった時、一羽の自鷹が飛んで来て帆柱に止った。 すると嵐もおさまり、無事航海も終わり上陸できた。綱利藩主はその夜、霊鷹は的石天満宮の化身であるとの夢を見、その霊験あらたかなることを感じて、社殿建立を命じた。歴代藩主ゆかりの神社で、藩主奉納の絵馬や神殿の額などが見られる。 巨本に囲まれた境内は静かである。歌碑かある。「隼鷹の宮居の神はやぶ中の石のかけにておはしけるかも」 阿蘇が生んだ歌人、宗不旱の作。昭和十四年にこの地を訪れて詠んだもの。各地に彼の歌碑があちこちあり、「阿蘇の歌人」として、土地の人たちに大切にされている。 大きな槙の木がある。樹周3.1m、樹高約35m、樹齢約三〇〇年といわれる巨木である。神社建立の綱利藩主お手植えの木といわれている。 ● 的石 的石の名の起こりとなった大石がある。それで地名も「石の前」である。街道左手へ石段を上がった所にその大石は鎮座していた。前に広場があって、山腹に大石が現れていてしめ縄が巻いてある。 阿蘇伝説の一つがこの石にまつわる話である。 阿蘇を開いた神・健磐龍命は阿蘇往生岳に登っては、そこからこの外輪山中腹にあるこの石めがけて弓を射る稽古をしていた。お供の鬼八法師はその度ごとに矢を拾っては往生仏へ帰り、何度となく往復していた。 鬼八は足が速かったが、九九回も繰り替えして走ったら疲れ果てて、一〇〇本目の矢を足でけり返した。するとミコトは怒った。鬼八は逃げる。ミコトは五ヶ瀬川まで追いつめて、鬼八の首をはねてしまった。この時に的となったのがこの大石である。それで「的石」というようになったそうだ、この後の話もまだあるが後にしよう。 ● 産神社 外輪山麓を歩いているが、ずっと湧氷点が続く。それを利用する集落が発達している。その一つが産小屋で、水の湧き出す所に神が祭られている。トヨタマヒメを祭る産神社で、昔から産婦の乳もらいの神といわれた。周囲4mの大杉が木陰をつくっている。ひと休みだ。 参道の橋が新しくなっている。以前は10mの眼鏡橋があったようだが、今ではコンクリート橋に生まれ変わり、その石材が野積みされたまま残っている。復元はできないのか。 冷水を飲んで汗を拭いていると、境内のゲートボール場が賑やかだ。地区の大会とみえて、多くの人が集まっている。呼ばれて行くと、昼食中のチームがあって、ソーメンやマンジュウ、焼酎をご馳走になり、だべる。 肥後のおばあちゃんたちは元気が良い。しかし、焼酎のお接待には参った。 まだ道中は長いので、酔っては歩けないから、心を鬼にしてお別れする。 このように歩いていると、祭りに出会ったり、集まりに呼ばれたりとその土地の人たちとの出会いと交歓が楽しい。 ● 九里木 両肥(肥前・肥後)交歓会で口にした球磨焼酎がきき出した。少しポッポしながら歩いていると、九里木跡に着いた。小高い丘が残り、一里山という塚だ。地図上にも一里山とあり、このように呼ぶのはここが内牧から一里の所にあるからだ。なるほど、逆ルートの熊本行きならそういうのかと変に納得。 豊後街道には一里ごとに里程本があるので、それをたどっていく楽しみがある。 その間一里、つまり4kを一時間という目安で歩くというペースメーカーの役割もある。しかしそのペースもダウンして、一時間以上かかると、そろそろ本日の歩行も終了だと足が教えてくれる。清正公さんはいい道造りをしてくださった。 ● 五高道場跡 この一帯は黒川流域で、見事な水田地帯である。しかし昔は「無田」とい大湿地地帯であった。ここを旅した桃節山は、書いている。 「内牧より少し行きて右の方に路傍に千町無田というあり。無田は肥後辺にて田に成らざる沼の如き所をいうなり。 この所にくぐ茅生し、茅の中にまむし蛇多くいる。鶴はそのまむしを食してここに巣くう由、今三羽見ゆ」 街道はその湿地を避けて山手へ通している。その旧道が一里山の先に復元されている。土道で、石畳もある。杉の植林の中を通る。車も通らない道だから、静かで、歩きやすい。 亀石がぽつんと置かれている。なるほど亀の形をしていて、ちゃんと頭と甲羅がある。ちょうど腰を下ろして休むにはいい場所だ。 次に観音さんがいらっしゃる。大石に波模様を彫り込んだ石塔が立っている。地蔵祠もあり、たくさんの供え物がある。長く忘れられていた道だから、良く昔のものが残っている。うれしいね。 五高道場跡と大きな石碑が立っている。つまり現在の熊本大学研修所がこの道下にある。一万坪の広さに1000坪の学生合宿場が、昭和十五(1940)年に開かれた。学生自治会が発案して、地元から土地を無償で提供してもらい、学生と卒業生の奉仕作業で造り上げた施設である。 もちろん今も使われていて、ずっと学生の身体と心の修養に役立ってきた所だ。瀟洒な三〇〇坪の山小屋風建物があったそうだが、今はもう残念ながらない。 (第二回大津〜内牧までは以上) 次回に続く |

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