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豊後街道を行く 第1回   

松尾 卓次 著 (弦書房)

はじめに 

 このところ街道歩きにハマつている。つまり道を楽しむ〈道楽〉をしている。

 今まで「烏原街道」と、その延長の「長崎街道」と歩いた。他にそれらに結ばれる「平戸街道」や「三池街道」、「筑前街道」などを部分的に歩いてみた。

 今度は「豊後街道」の番だと意気込んでいたが、やっと出発点にしてたのは平成15(2003)年の春であった。

 豊後街道は、熊本城から大分・鶴崎湊まで、九州を横断する往還である。その距離31里、124KMとなる。

 この道は、加藤清正が開いたという。そ札で清正公道といわれて、他街道にない特色がある。道幅何十メートルもの大道や掘り込み道。十数キロも続く杉並木道。

一里ごとに槙の大木を植えて何里木と名づけたりと、
400年たつ今もその一部が残っている。

 この道は九州横断の最短コースであったから、肥後藩主は参勤で通り、多くの旅人が往来した。

 幕末のあわただしい中に吉田松陰が三泊四目で駆け抜けたし、勝海舟が坂本龍馬たちを率いて、土地の様了を観察しながら、兵庫から長崎へ駆けつけた。そんな平和な道であったが、西南戦争時には戦さ道となって、政府軍と西郷軍は各地で砲火を交えている。

〈豊後街道は歴史の道である〉

 三一里 、全行程を歩いて見て、いろんな発見があった。急坂には何万、何十万という石を敷き詰めた石畳が残る。村の長は農民を率いて水路を引き農地を開発した。名も知らぬ石工が架けた堅固な石橋、道中安全を祈願した石仏などなど、先人の偉業が脈脈と伝えられていることが分かった。

〈豊後街道は歴史を追体験できる道である〉

 峠を登り切ったら、眼前に雄大な阿蘇の山々が見える。疲れも吹き飛んで気分も爽快となった。何だか自分も阿蘇の山と同じように大きくなった感じがする。石畳が延々と続く。

 一歩一歩踏みしめて歩くと足も軽やかで、流れる汗も気持ち良い。あちこちに歌碑や句碑が立っている。訪れた歌人や俳人はこのすばらしい光景を認めている。声を出してその歌を詠んでみると、その歌人になったような気がする。

● 里木(里数木)

 街道沿いにはよく一里塚が築かれていた。これは旅の目安として、旅人の休憩所として木陰を提供していた。豊後街道でもそうで、榎を植えて、一里木、二里木、…何里木と称していた。

 この里木(里数木)の仕組みは、加藤清正の業績だという。清正の肥後初入国時に、この街道を通り、その制度を決めたそうだ。

 その入国は慶長六年(1601年)であるから、幕府の東海道など幹線整備より早い。いずれにせよ、肥後藩主の参勤の道として、江戸時代初期よりよく整えられていた。

 熊本城内の一角、新町一丁目礼の辻に里程元標があって、ここから豊後街道が始まる。黒髪五丁目に一里木、上立田に二里木、JR三里木駅前に三里木と続く。

 この二里木は唯一残る榎である。親木に寄生した二世木が10mの高さに成長して、昔の面影を伝えている。これ以外の里木は失われてしまったが、地名として残り、熊本県側にはその記念碑が建てられている。

 しかし大分県側には、その仕組みが伝わっていない。国境の産山村大利の一里山(十六里木)が最後で、竹田市神馬に一里山が残るのみ。

 なぜ豊後の地には里木がないのか、里木(里数木)をたどり歩きながら、その謎解きにトライするのもおもしろいだろう。
 
〇里程元標(熊本市新町一丁目)豊後街道など諸街道の出発点。

〇一里木跡(熊本市黒髪五丁目)鉄柵に囲まれた石碑がある。そこには阿部小豆の句が刻まれて

〇二里木跡(熊本市龍田町上立田)親木を土台に二世木が残る。

〇三里木跡(菊陽町津久礼)ここにある駅名も三里水駅。

〇四里木跡(菊陽町南方)菊陽の杉並本の北端に残る。

〇五里木跡(大津町上大津)大津宿のはずれにある。

〇六里木跡(大津町新小屋)近くに清正公道公園があり、地区の記念碑とともに立つ。

〇七里木跡(大津町峠)峠茶屋跡の山道のなかに残る。

〇八里木跡(阿蘇市殿塚)阿蘇谷を歩いていたら杉山のなかに発見。

〇九里木跡(阿蘇市一里山)一里山の地名とともに残る。

〇十里木跡(阿蘇市内牧)内牧宿の西端、商店の一角に残る

〇十一里木跡(阿蘇市小野田)広い阿蘇の水田地帯のなかにある。阿蘇五岳が美しい。

〇十二里木跡(阿蘇市宮地)広い阿蘇水田地帯にあり。

〇十三里木跡(阿蘇市坂架上町)坂梨宿の東端に残る。その位置が移勤している。

〇十四里木跡(阿蘇市波野四里塚)四里塚と名前が変わって残る。

〇十五里木跡(阿蘇市笹倉)笹倉の石畳道にあった。

〇十六里木跡(産山村大利)一里山という丘があったが削られた。豊後と肥後の岡境に近い。

1.熊本城から大津まで(16Km)

● 里程元標跡

 この数年、街道歩きを楽しんできたが、今度は 「豊後街道」である。と何年も思い、準備していたが、平成15年(2003年)春、実現にこぎつけた。やっと出発地に立つことができた。

 出発点は熊本城の一角、札の辻。熊本のすべての道がここを起点に周辺へ延びているところ。北へ豊前街道、南へ薩摩街道、そして東へ日向街道とこの豊後街道である。

 「熊本より鶴崎道 熊本(五里)大津(五里)内之牧(八里一六町)久住(七里二〇町)野津原(五里)鶴崎」

 「熊本札の辻より鶴崎へ三十一里」

 文化十二年(1815年)、この地を訪れている高木善助は「薩陽往返記事』に書いている、また同特に、

「熊本より隣国城下ヘ道規」

 「筑後柳川十六里 、久留米二十四里、三池十二里、肥前佐賀二十里、平戸四十五里、島原十二里、但川尻より船路十里、薩州鹿児島五十一里、豊後府内二十九里、岡二十一里、臼杵三十三里、小倉四十二里、延岡三十二里 、飫肥五十八里、筑前福岡三十里、秋月二十七里、球磨人吉二十五里、日田二十三里、肥前長崎川尻より大回り四十七里、熊本より長崎まで三十四里」とある。

 今この地には、「里程元標」が立っていて、「ここ新一丁目(現・新町一丁目)御門前に藩の種々の政令を掲示する札の辻という広場があった。

 また、ここを起点に里程元標を決め、豊後街道などの里数が測られた。その時に一里、二里、と進むごとに街道の両側に榎を植え、「これを里数木と称していた」などと書かれている。ここが東海道でいうならば日本橋の元標にあたるところと分かる。

 豊後街道はここから始まる。さあ元気を出して出発だ。

 隣接して小公園がある。清爽園と名付けられていた。早速、立ち寄る。西南戦争時の熊本鎮台将兵の戦没者を祭るために、明治十一年(1878年)ここに記念碑を建てた。

 その後、歩兵第十一旅団長・乃木希典の呼びかけで、更に整備されて、昭和になって「清爽園」と命名された。なるほど、熊本城は西南戦争時の大激戦地であったから、今もこうしてその記念碑が残るのか。

● 熊本城内

  街道は城内を通る。それで熊本城内へと入る。街道が城内を通るのは非常に珍しい。長崎街道は佐賀城を大きく北へ迂回し、小倉城下でも西へ回り路を造っていた。それなのに加藤清正はなぜ城内を通過させたのか。

江戸時代中期に熊本に来遊した、古河古松軒は書いている。

 「旅人の通行、北より来る者は東の門よリ入りで西の門に出、南より来る者は西の門より入りて東の門に出る。その問、数問にて城門幾門も通ることにて、左右、高石垣にて箱の中を行くが如し。前後は櫓門にて、その門を閉じる時は遺憾道憾とも成し難き所なり。

 土人の物語に、薩州侯御往来の節、この所にて前後左右を見給い、大名の通るべき所にあらず、かかる地を往来とせしは心無きことと御怒りの色見るべしという。

 定めて虚説のこととは察しながら、いかにも貴人の通行すべき城内にあらず。鳥を捕らえ駕籠へ入るる様の所なり」(西遊雑記)さすが築城の名人、加藤清正である。隔離するだけでなく、積極的に堅固さを見せつけようとしたのだ。

 これほど見事な事事デモンストレーションはあるまい。いうまでもなく築城は加藤清正。清正公の実戦経験から築かれており、着工は関ヶ原の合戦の翌年、慶長六年といわれ、同十二(1607)年に完成した。

 「清止公様、通らせていただきます」


 法華坂を通り、「箱の中」を進んでいる。高い石垣に囲まれた道は何度も曲がる。島津公が槍を立てて通行したら、櫓の狭間一斉に開いたそうで、それ以来、島津侯は槍を伏せて通行していたそうだ。

その様子が分かる分かる。本当に、駕籠の中の鳥だ。吉田松陰も書ている。「熊府の城郭の巨大、実に驚くに堪えたり。人以て九州第一と称す。蓋し過称に非ず」(西遊雑記))

● 百聞石垣

 二の丸跡へ進み三の丸跡へと進む。古い建物があるぞとのぞく細川刑部邸だ。刑部は、細川初代藩主忠利の弟で、11代まで、代々武家屋敷として使用さしてきたもの。それ札を移築して公開している。

 本来の街道は、新堀橋を北に見て京町台地へ進む。しかし刑部邸を見て、百?石垣ヘ出た。

 高さ五間、長さ百十一間もの石垣が続く、すごい光景これを見たかったから回り道をしたのだ。清正公が築いた名城たる所以がここに残る。これまた名城の証である。

 熊水城は天下の名城といわれる、その城構えは大きく、坪ヰ川と井芹川を内郭に、白川を外郭にて、東西一.六丁、一.二丁と二〇〇町もの広人な城域である。

その中に武者返しを付けた石垣の天守を中心に四十九の櫓と十八の櫓門、二十九の城門を備えた名城である。

特に豪壮堅固な石垣に特色があり、その石は城西、松尾山から採出したもの。往時の偉容がここかしこと残る。ここ百?石垣もその一つだ。

 西南戦争で焼失した天守閣を始め、櫓や長塀の復元が続いている。さらに往時の姿を取り戻そうと、市民・県民に呼びかけた大募金運動も始まった「

● 京町・坪井

 新堀の地は、御城と京町台地を繋ぐ地峡部にある。城の搦め手あたる重要なところであるから、ここに僧門を築き、番所を置いた。この地峡部に堀割して陸橋を架けて新堀橋といった。

その上が監物櫓である。米田監物預りの地で、二の丸御門もあった。

この一帯は城へと続く台地であり、その南北末端に目を付けて加藤清止は築城した。

こ台地に高い石垣を築いて城とし、台地の東の坪井川、西の坪芹川を内堀として、強固な城を造り上げたし西南戦時に西郷車の攻撃にも籠城した鎮台兵はよく耐えしのいだ。

 こうして歩いてみると、清正公様の築城ぶりがよく分かる。

 城を出て京町を歩く。ほどなくして右折。真っ直ぐ行くと豊前街道で、久留米、小倉へと通じる。熊本拘置所の塀沿いに坂を下る。観音坂を一気に下る。

中腹に尼寺・観音寺があったが、五○年ほど前の大水害で廃寺となり、その名前だけが残っている。坪井町通りを歩いていたら、壷渓先生の胸像に出会った。

 「この入、誰ですか」と、Hさんが言う。

 壷渓とは、水庭徳治先生の雅号で、ここを流れる坪井川にちなんだ名前である 先生はここに塾を開いて壷渓塾と称した。日本で二番目に古い予備校だそうで、昭和五(1930)年に創立した。

 「単に人学に通るためではなく、高い知性と美しい人問像の育成を目指す」ことを、教育理念とした。 

● 小泉八雲旧宅

また横丁で意外な発見。坪井二丁目の小泉八雲旧宅とゆかりの東岸寺弥陀六地蔵堂だ。歩いていると、周りが良く見えるから面白いものに出会う。

 この寺は、八〇〇年前平家一門の平宗清が開いた。出家して弥陀六となり、諸国行脚の途中に熊本に来て、この地で弥陀六地蔵尊を作り、一字を建立したことに始まる。

 八雲は明治二十三(1890)年来日、日本に帰化して第五高等学校教授として熊本に赴任した。この弥陀六地蔵堂前に二年開幕らして、地蔵様と周りの人たちの暮らしを興味深く見つめている。

 著書『東の国より』には、その特の様子が述べられている。七月二十五日この地蔵さん祭にりがあって、この温顔慈相の仏様が好きで、奉加金を寄進したこと。

それで、門前に3フィートばどもあるトンボの作り物が飾られて、そ札を八歳の。子どもが独りで作ったことを聞き、驚いている。八雲が坪井の温かい人たちと交わるなかで、熊本の良さを堪能している。

長男の一雄さんがここで生まれたこともあって、生涯忘れ得ぬ土地となっているようである。

 熊本電鉄の線路をわたる。旧道三号線へ出た。九州を縦に貫く大動脈である。元は熊本城内を通り、先ほど歩いた京町へ出ていたが、車時代を迎え、交通量が増えて城の束側を迂回することとなった。

なるほど車が多い、しばらく信号待ちする。ここは浄行寺交差点で、正面へ旧国道五七号線(現県道三三七号線)が延びる。戦後、旧豊後街道が国道となったものだ。

 右へ行くと藤崎宮だ。あの馬追い祭りで有名な神社である。多くの勢子に囃したてられて飾り馬が躍る。熊本県人の血を沸がせる秋祭りだ。

 街道に面して赤い鳥居が立っている、見ると立田口大神宮とある。ここには明治初年まで成就院もあったが廃寺となり、神社だけが残る。

 京町から坪井町までは古くからの職人町であったから、その名をつけた町が多かった。しかし今では歴史を伝える旧町名もなくなってしまった。

● 一夜塘

 御薬園跡とは標示枚がある。旧肥後藩の薬園が開かれていたが、今では人家が建て込んでいて、町名だけにその名が残る。子飼橋のたもとに一夜塘があるので立ち寄る。こんもりとした小さな丘になっていて、すぐ裏は白川だ。

つまり白川がこのあたりで人きく曲がり、よく氾濫していたので、その防御のために塘(堤防・井手)を築いた。

 寛政八(1796)年辰の大水の時、斉茲藩主が一夜の内に築かせたので一夜塘というそうだ。今でもそれが約七十メートルほど街道に面して残り小公園になっている。

 子飼橋というと、昭和二十八年(1953)年の熊本大水害の時にこの辺りが決壊して全市水浸しになったことを思い出す。

熊本入学前を進む。とたんに道幅が広がった。約十五メートルもあって、旧豊後街道そのままの道である。

明治二十七(1894)年、前身の第五高等学校が開校した時以来、道幅は変わっていないから、清正公様の道造りの壮大さが分かる。五高・熊本大学の赤レンガ校舎を横目に見て進む。

五校が開校して一世紀以上、その果たした役割は大きい。

 と思って歩いていたら、道帽がぐっと狭まり八メートル。旧街道上に人家が並んでいる。明治以来、民有地へ払い下げられたのだな。車時代の現在よりも幅広い街道を造ったのだからなんとその構想の雄大さよ。

● 桜山神社

 桜山神社がある。少し坂を令っていったら、桜の本の下に石碑がずらりと並んでいて、その奥に誠忠  の碑が立っている。

その間には、今散ったばかりの桜花が一面敷き詰められている。一三○年前に昇華した神風連の人たちの気持ちを今なお表しているようである。その花びらの上を歩くには気が引けるから、遠くから手を合わせる。いい時期に行き合わせて良かったなあ。

 よく肥後もっこすといわれる。つまり頑固だということか。この神風連の乱もその一つだろう。明治九(1876)年、太田黒伴雄たち旧熊本藩士百数十人は敬神党(神風連)へ結集していた。

新政府の急速な欧化政策に不満を抱き、直接行動を起こす。到底勝ち目のないことを知りながら、熊本鎮台を襲い、種田政明司令官や安岡良亮県令らを殺害して兵舎を焼き討ちした。

しかし間もなく鎮台兵に鎮圧されて太田黒たち一二四人は、戦死したり自刃し果てた。秋月の乱や萩の乱と共に、明治新政府の開明策に不満士族が起こした反乱の一つである。この神風連資料館が境内にある。入館して改めてこの反乱が何だったのかを思い知らされた。

● 宮部鼎蔵

 境内には宮部鼎蔵の歌碑も立っている。

 「いざ子ども馬に鞍おけ九重の御はしの桜散らぬそのまに」

 これは京都へ出発する時、まだ幼い子どもたちに勤王の決意を伝えた歌といわれる。

 その後、鼎蔵は尊王運動の理論派と呼ばれて活躍するが、文久三(1863)年、新選組に襲われて自害した。

 これがあまりにも有名な寺田屋騒動で、この事件で明治維新は数年遅れたといわれている。享年四五歳であった。宮部鼎蔵の名は早くから知られていて、吉田松陰は、嘉永三(1850)年と六年の二度ほど訪ねている。

 最初は平戸、長崎遊学の帰路で、その名声を聞いて熊本へ立ち寄っている。

 二度目はその三年後のことで、ペリー艦隊に次いでプチャーチン艦隊が長崎へ来航した時のことであった。

 この時、松陰は江戸から急行して長崎へ向かう。東海道、瀬戸内海路そして豊後街道を三泊四日で駆け抜けた。島原へ渡海して長崎へ急いだ。

 熊本では七泊もして、宮部鼎蔵や横井小楠たち延べ四三人もの人物と会っている。それで長崎到着は10月27日となり、その時にはすでにロシア艦隊は出港した後たった。

 なぜ熊本で長逗留したのか。大きなおおきな謎だ。ある人は外国へ密航を考えていたという。事実この半年後、下田で密航を企てて失敗しているからである。

鼎蔵や小楠たちと連日、何を話し合っていたのだろうか。ずっと気になっている。この街道の中には吉田松陰が宿泊したところ(小無田など)があるので、そこでも調べてみたい。

● 一里木跡

 街道沿いにはよく一里塚が造られていた。それは旅の目印として、旅人の休みの場、木陰として役立っていた。豊後街道でもそうで、榎を植えて、一里木、二里本、何里木と称していた。

 この仕組みはいつ出来たかはっきりしないが、加藤清正の肥後入国、慶長六(1601)年以後という。しかし幕府が東海道など幹道を整備し始めたのが慶長九年で、慶安二(1649)年には街道制度が確立されているから、それなら細川時代初期となる。

どうも熊本では「清正公様のおかげ」とよくいわれるが、いずれにしろ、江戸時代初期には街道両側に榎を植えさせ「何里木」とさせたようである。

 その一里木が黒髪バス停にある。今ではその木も枯れて、「一里木跡」の石碑だけが残る。熊本城内の「里程元標」からここまで一里、つまり約四キロである。豊後街道にはこの里数木跡が残されているから、それを一つずつたどるのがひとつの楽しみである。

一里の距離は普通、歩くと1時間(昔の半時)で、一日に七〜八里歩くのが昔の旅人の行程であった。
それで里数水や一里塚は、歩行のよい目安となっていた。

 その昔、ここで見送りの人とお別れしていたところ。ここから江戸まで三〇〇里の長旅であったから、名残も尽きなかったろう。
 
● 杉並木

「このあたりが杉並木の西端」と、ずっと以前に発刊された『熊本県歴史の道報告書−豊後街道』に書いてあったが、見出せない。一里木と同様に枯れてしまったのか、周りはすっかり住宅地となっている。

 小蹟橋端に来た。ここから白川を右手に見ながら歩く。立田山が追っているので、川も狭まって流れている。すぐ左手の崖上が立田城跡。崖面には横穴墳があったそうだが道路拡張工事などで破壊されてしまったようだ。

 JR竜田口駅を過ぎる。豊肥線だ。熊本から阿蘇を貫き、大分まで達する九州横断鉄道である。ほぼ豊後街道に沿って敷設されている。しばらく平行して歩く。

 国道三号線バイパスの高架を潜る。熊本の郊外地として聞かれた住宅地を通る。

 待ち望んでいた杉並木を発見! といっても、杉の大木がまばらに立っているだけである。このあたりが現在の西端部であろう。

この数十年の内に随分と杉並木も失われてしまった。ずっと昔、修学旅行で阿蘇山へ行った時には、杉並本の中をずっとバスで通っていたようだったが。道幅がまた広くなって来た。三宮社がある。

ここは昔のままだ。大きな楠や杉がうっそうと茂っている。阿蘇三ノ宮の末社である。龍田小学校前に出た。昔を彷彿させる杉並木が続く。

● 二里木
 
 二里歩いた。二里木がある。ここには榎が残っていた。といっても、二世木が親木を台木に寄生し、10メートルの高さに成長している。

親は枯れても子を残すか。他の里数木は枯れたり伐採されたりで、その名前だけしか残っていないが、この木は唯一残る里数水である。うれしいね。

 「大津街道の里数木」と説明板があって、熊本・札の辻から阿蘇外輪山の七里木までの案内が書かれていて良く分かる。

 このあたりは道幅が広い。古記録には「馬踏五間、幅九間」とあるが、そうなのか。つまり全幅一8メートルもあって、中央一0メートルが通路となっていた。

それを今では、西半分しか県・市道に使っていない。東側は広場となり、駐車場に利用されている。

 道幅に注意して歩いてきたが、清正公道の本体が現れたぞと、うれしくなった。

 加藤清正は慶長六(1601)年入国し、矢継ぎ早に大土木工事へ取りかかる。熊本城築城、有明海干拓と用水路の開発、そして豊後街道の整備だ。

世に言う清正公の国造りだ。今でいうならば社会インフラの確立だ。そんな面からも「清正公様」と、熊本では尊敬を集めている。

 近くに道標があるはずだがと注意して歩いていたら、あった。

 白川沿いに瀬田へ向かう県道の分岐点に高さ一.二メートル、幅三〇cmの石柱が立っている。見過ごすところだった。なんと道路改修工事の立看板の支柱となっている。注意して見なければ分からないはずだ。

 「右 あそ大分  左 大津内ノ牧」と刻まれ、裏面には、「阿蘇郡甲斐有雄」とも彫られている道しるべである。

 ここは阿蘇へ向かう道との分岐点になるから、高森町の甲斐氏が個人で立てたもの。氏は一九〇〇もの道しるべを自力で立てたが、この地点は一六二八番と刻まれていて、明治二十年代(1887〜96)のものか。

 道標の重要性は今も昔も変わらない。特に歩いて旅していたその昔は、今日のカーナビ以上に重要であった。その大切さを知っていた甲斐氏は自力でこんなにも数多くの道しるべを立ててくださったのだ。

感謝!感謝!・ それにしても、もっと先人の贈り物を大切にしなければ。

 この地で初めて熊本城を目にしたと、勝海舟は感嘆して、文久四(1864)年二月十九日の日記に書いている。

 「熊城を路二里程より望む。天守孤立、築制他城の比にあらず」この時、勝海舟は下関砲撃事件以後、悪化した外国との関係修復のために長崎へ向かっていた頃たった。

坂本龍馬たち海軍操練所の若者を引き連れて長崎へ急いでいたので、龍馬もここで名城を初めて目にしたのである。

 ここから熊本城が見えたとは今では想像もつかない。都市化の波がかつての農村地帯へも広がり、いい住宅地、商工業地帯になっているので、すっかり眺望が遮られてしまった。

平原の中にすっくと天守閣が聳え立つその偉容を、ぜひ見てみたいものだ。

● 武蔵塚

 すぐ、武蔵塚に出た。このあたりはすっかり住宅地に開発されていて、地下の武蔵もゆっくりと休んで居れないだろう。墓前の旧豊後街道は自動車の洪水で、近くを九州自動車道が通り、JR特急電車が博多へと走る。

屋敷門を思わせる本の大門を潜ると、そこは別世界。大小二刀を持つ宮本武蔵像が、カッとにらむ。

NHKテレビで「武蔵」が放映されたので、ブームを呼び、今日も訪れる人が多い。

 武蔵はかなり伝説化されている。生まれも諸説があって、まして生涯六〇回も勝負して一度も敗れなかったこと、佐々木小次郎との対決などがそうである。

多分に、吉川英治の小説『宮本武蔵』が元となり、定説化しているきらいがある。江戸時代に、ここ豊後街道を旅しか人で武蔵塚にふれたものはいない。

伊能忠敬もこの道を測量して豊後へ回ったが、もちろん記述がない。

 晩年の武蔵は、肥後藩主細川忠利の客分として招かれ、軍事顧問として仕えた。そして死亡するまで熊本に留まり、『五輪の書』を著す。

 正保二(1645)年に六二歳で死去したが、遺言で「細川公の参勤を見守るために、甲冑を帯び六具に身を固め、立身の姿でこの地に葬られた」と伝えられている。今そこには「新免武蔵居士石碑」が立っている。

 忘れられた武蔵であったが、剣豪ブームで息を吹き返したようである。武蔵うどんまで生まれている。

 昼になったので食堂で、その「武蔵うどん」を食べた。何と、餅入りうどんだった。同行のHさんは「小次郎うどん」、Yさんは「お通うどん」とみんなは競って食べる。「うまい! 腹一杯になった」

● 三里木跡

 街道は随分広くなった。道の左手半分にJR豊肥線が走り、その外側には町道もある。残り半分に旧国道五七号線と昔からの杉並木が通る。

 これがすべて旧豊後街道の道路敷である。その道幅六〇〜八〇メートルはあろう。それが延々数キロ、阿蘇を目指して真っ直ぐに延びる。見事な道だ。清正公の道造り、国造りが良くあらわれている。

 天明三(1783)年、ここを通った古河古松軒は書いている。

 「熊本より大津まで五里、この道は平地にして街道の広き三〇間ばかり。左右に土手あり、並木みなみな大樹にて、杉、もみ、その他雑樹も多し。

 言い伝える。清正朝臣奉行してこの道つくりけるという。その時より道も狭くせず、並木も切らずしてその侭の形なり。日本第一といはん、ひろひろとせし街道なり。

 大守の参勤交代この道筋より豊後の鶴崎への往来あり」

 また、慶応三(1867)年に来熊した桃節山も書いている。熊本より大津迄始終平地にして、少しづつつまあがりの様に見えたり。清正公の聞かれし由。路幅五、六間位にて、左右に大なる杉を植え並べたり」

 明治になって県道へと生まれ変わり、さらに国道となる。また大正元(1912)年、宮地軽便鉄道線が出来て、旧街道内に鉄道線路を敷設し、三年後に大津まで開通させた。それが今も続く豊肥線だ。

 鉄道と国道、それに杉並本道と、消正公の遺産は今も立派に生きている。

 その偉業を踏みしめて歩く。大本の杉並木も残って、木陰をつくり出し、歩くものには何よりのプレゼント。昔の人もそうだったのだなと、街道を楽しみながら歩いていたら、JR三里木駅に着いた。

 モダンな駅舎に建て替わっている。それもその筈、周辺はいい住宅街となっている。かつてはひなびた駅と、一面黒っぽい火山灰の畑が広がるところだったが、変われば変わるもんだと、つぶやきながら歩いていると、頼山陽碑を見つけた。

頼山陽碑

大道平々砥不如
熊城東去総青蕪
老杉爽路無他樹
欠処時々見阿蘇

 大きな道ガ平らに磨いているようで、熊本城を東に去ると総て青い地である。老杉が路を挟んでいて他に樹が無く、その間から時々阿蘇山が見えると、解釈するか。

 文政元(1818)年、長崎からの帰路、竹田行きの途中に詠んだ詩である。さすが当代第一の詩人だ。天草へ渡海したとき、西海の海を詠んだ雲耶山耶呉耶越耶/水天髣髴青一髪/万里泊天草洋・・・の名詩と、双璧を成すといってよい。

 この道を伊能忠敬一行は測量して通った。文化七(1810)年のことである。

 「十二月十四日城下出立、飽田郡立田口より初、坪井村、下立田口村(枝字留毛、枝陣内)、上立田口村枝弓削、字杉山、字大久保(二里四町三七間三尺)、合志郡上津久札村字上原(人家二軒)、同字下原、上津久札村字新町(人家九〇軒)、柳木村、入道村枝南方、桜馬場、塔ノ迫村(人家八軒)、町村(枝若竹)、大津村(内)、大津町止宿前迄測(二里十五町五間)」

「伊能忠敬測量日記」にもそう書かれている。勿論その距離数は正確であり、できた地図を見ても、この辺り街道は定規で線を引いたように直線なっている。今でもその跡をたどることができる。いや、いや私はその跡をたどって鶴崎まで行っているのだ。また歩く楽しみが増えたぞ。

● 日本の道百選

 旧建設省(現・国土交通省)「目本の道百選」の石碑がある。なるほどそれに選ばれただけの価値がある。豊後街道歩きのお勧めの場の一つである。

 また勝海舟の日記より引用して書く。「大津宿より熊城までは小低の路、左右大杉の並樹、この中大樹十四、五丁の並樹あり」。海舟と、そのお供をしていた坂本龍馬も見た杉並木がまだ残っている。

この下を長崎へと急いだのだな。「おい龍馬、どうだこの杉並木は。清正公の偉業は」

 しかし龍馬はその記録を残していないので、何にも答えてくれない。

 原水駅手前の新町を通る。ここでは人家を避けて、鉄道が街道と離れたところを通っている。ずっと街道内に国道と鉄道が平走していたのに、このあたりだけ変わっているのはなぜだ。

 それは寛永十六(1639)年にさかのぼる。細川忠利藩主がここに農民を移住させて新しく村造りを始めた。それで街道筋に人家が建ち、新町と呼んだ。伊能測量日記の中にも、「上津久札村字新町(人家九〇軒)」とある。

 大正初年(1912年頃)の鉄道敷設時にはその集落を避けて通したので離れたというわけだ。

 その駅を通り過ぎたところに四里木跡がある。後、一里足らずで大津宿だ。大津は肥後藩主参勤時の最初の宿泊地であった。                              

(街道歩第一回はここまで)次回につづく


2018/03/06  



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