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京都の駅前にはなぜ2つの「本願寺」があるのか?
織田信長と「一向一揆」の抗争(その3)
2018.9.5(水) 花園 祐
前回(その2)は、一向一揆を組織した浄土真宗本願寺派がどのように戦国大名化し、織田信長との石山合戦(1570〜1580年)にまで至ったのかを紹介しました。
一般的に石山合戦は「宗教戦争」として語られがちですが、実態としては、本願寺派が室町幕府と親密な関係にあったため信長と対立し、抗争が引き起こされたという見方を示しました。
最終回となる今回は、石山合戦以降の本願寺の動向を追いつつ、現在の京都市内にある東本願寺、西本願寺をそれぞれ頂点とする東西本願寺体制がどのように設立したのかを紹介しましょう。
■和睦後も石山本願寺に立て籠り
織田信長と抗争を繰り広げていた時代の本願寺は、現在の大阪市にあった石山本願寺を本拠地として立て籠り、長期にわたり信長を苦しめ続けました。
最終的には朝廷を仲介として信長との和睦に応じ、時の法主であった顕如(けんにょ)は和睦の条件通り石山本願寺を退去しようとします。
しかし、これに異を唱えたのが顕如の長男である教如(きょうにょ)でした。教如は信長が和睦条件を守らない恐れがあるとして反対し、彼に付き従う強硬派の面々とともに石山本願寺に立て籠り続けました。
この時の教如の行動は彼の独断専行と見る向きが多いようですが、信長が和睦の約束を破り、退去した本願寺勢力に攻撃を加える可能性を考慮し、あらかじめ顕如と示し合わせた上で保険をかける意味での抵抗だったとする見方もあります。
もし信長が約束を違えれば再び籠って戦い、約束を守るようであれば先に退去した一派が宗門を受け継ぐという、いわば関ヶ原において真田家が取った両面作戦だったという説です。
実際に教如ら強硬派は威勢よく立て籠もったものの、信長がきちんと和睦条件を果たすことを確認できたからか、半年後には退去に応じています。
退去後、教如は父の顕如から義絶(肉親の縁を切ること)されてしまいますが、その近くに仕え、父の布教活動を支え続けています。
■後継者争いで穏健派と強硬派が対立
その後、「本能寺の変」(1582年)で信長が倒れ、豊臣秀吉が天下を握ります。
本願寺一派(法主は顕如)は、現在の西本願寺がある土地(京都市下京区)を秀吉から寄進され、この地を新たな本拠として落ち着きます。
ただ京都へ移って間もなく、信長をある意味最も苦しめた男と言ってもいい顕如が逝去します。その後継者として一旦は長男の教如が就きます。
しかし教如の継承に異を唱える声が本願寺内部から上がってきました。
声を挙げたのは三男の准如(じゅんにょ)と、教如と准如の実母であり顕如正室であった如春尼(にょしゅんに)、そして和睦後にすぐ石山本願寺から退去することを選んだ穏健派たちでした。
(ちなみに妻帯が認められる浄土真宗本願寺派において、法主正室の権力は強く、同時代の様々な外交文書にもその名が現れるなどその影響力は非常に大きかったようです。)
穏健派は、「顕如の元々の意向は、准如に継承させるつもりだった」と秀吉に訴えかけました。
この訴えを聞いた秀吉の裁断もあって、教如はすぐに法主の座を准如に譲り、一介の僧侶となって本願寺内に残りました。
しかし法主の座を降りたとはいえ、教如の周りには彼とともに石山本願寺退去に抵抗した強硬派が集まっていました(前述したように、教如は和睦後も強硬派とともに石山本願寺に立て籠もりました)。
そのため、本願寺内部では強硬派からなる教如派と、穏健派からなる准如派とで二派に分裂し、各方面で対立するようになりました。
■徳川幕府の寄進によって東西分裂
そのような火種を内部に抱えていたところ、徳川幕府が誕生したことで本願寺に転機が訪れます。
「関ヶ原の戦い」から2年後の1602年、徳川幕府は隠遁した教如に対して京都市下京区烏丸七条の地を寄進します。
これを機に、教如とそれに付き従う強硬派は寄進された土地へと移り、ここに現在の「東本願寺」と呼ばれる寺社を建立します。
こうして同じ京都市内、それもお互いすぐ近くに、東と西の2つの本願寺が存在する東西本願寺体制が成立するに至ります。
徳川幕府がなぜ教如に土地を寄進したのかという背景については、かねてから家康に接近していた教如のロビー活動が実ったとか、准如が「関ヶ原の合戦」の折に西軍側についたことを徳川家が良しとしなかった、などという意見がいろいろ挙げられています。
筆者としては、半分裂状態の本願寺をこの際完全に分裂させ、その勢力を削ぐという狙いがあったという説を支持しています。
家康自身も三河一向一揆に苦しめられたという経験があり、本願寺勢力の恐ろしさをよく知っていたという事実が、この説を支持する大きな理由です。
■2つの宗派のその後
現在の日本において信者数で最多の宗派は浄土真宗であり、その中でも本願寺派は最大の勢力を誇ります。
東西に分裂したとはいえ、双方ともに宗教法人として実質的に最大規模であり、日本の社会や文化面への影響力も非常に大きいと言えるでしょう。
現在、東本願寺を頂点とする宗派は「真宗大谷派」、西本願寺を頂点とする宗派は「浄土真宗本願寺派」という宗教法人名で活動を続けています。
なお、京都市内にある仏教系の大学としてそれぞれ著名な大谷大学は東本願寺、龍谷大学は西本願寺の学寮をそれぞれ前身としており、系統が分かれたことの影響は現代においても各方面でもみられます。
本連載の(その1)でも述べたように、浄土真宗本願寺派は時の中央政権との結びつきによって勢力を拡大してきたという歴史があります。
ある意味、中央政権に近い立場であったがゆえに、織田、豊臣、徳川政権のそれぞれの思惑によって分裂に至ったとも考えられます。
筆者は一時期京都市内に住んでおり、京都の玄関口である京都駅近くに佇む東西両本願寺を訪れるにつけ、京都に帰ってきたことを実感します。
皆さんも以上のような歴史を経て現在の京都に2つの本願寺が存在することを知った上で訪れると、また違った感慨とともに参拝することができるのではないでしょうか。(おわり)
(参考文献)『一向一揆と石山合戦』神田千里著、2007年、吉川弘文館発行
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