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大砲で商家を破壊、遊郭で刃傷沙汰 稀代のワル芹沢の無法ぶりに近藤は…
2013.4.14 04:00 産經新聞
 
 文久3(1863)年8月12日夜、シーンと静まりかえった京都・堀川一条周辺に「ドーン」という一発の砲声がとどろいた。「何事か!!」とあわてて外に出た住民が葭屋町(よしやまち)通一条下ルの生糸商、大和屋前で大砲と複数の侍の集団を目撃する。
 新選組筆頭局長、芹沢鴨とその一派である。芹沢は覆面をして向かいの家の屋根に座り込み、見下ろす形で配下に命じていたという。参加した隊士は36人とも。
 この端緒は数日前、尊王攘夷(尊攘)派の中でも特に過激で知られる天誅(てんちゅう)組が仏光寺高倉の油商、八幡屋を襲い金を奪ったうえ、主人の首をさらすという事件にあった。
 八幡屋は開国以来、交易で相当にもうけていたらしく、このとき犯人は同様に巨額の利を得ていた大和屋も同罪とする札を置いていったことから、大和屋は京都守護職の会津藩に警備を依頼した。
 ところが、大和屋は天誅組にも多額の献金をしたらしく、それを聞きつけた芹沢グループが大和屋に「1万両を寄こせ」と乗り込んだのだが、断られる。
 これでは収まらない芹沢。当時、大砲を持ち出すにはまず局長同士の話し合いの上で会津藩の許可が必要だったのだが、芹沢は無断で持ち出し、大和屋に向けて発砲した。
 当時の大砲の弾は赤くなるまで熱した鉄の球だったため、大きな音の割には一発で破壊するだけの威力はなかった。だが何発も射撃し続けたことで、店は火の海と化す。
 過激な尊攘派を抑えるのに資金は必要だが、芹沢一派の強引な資金集めの手口には会津藩も手を焼いた。しかも京都・島原や大坂で酒を飲んでは刀を振り回すなど乱暴な所業に世間からも非難ごうごうだった。
ここで、隊内でも価値観の相違から仲間割れ寸前だった近藤勇ら旧試衛館グループと会津藩の利害は一致した。
 芹沢の行為が新選組の局中法度にある「勝手に金策いたすべからず」に触れるとして、芹沢グループの排除の前段階として、まず芹沢グループナンバー2、新見錦(にしき)に目をつける。
 新見は芹沢と同様、神道無念流の使い手で、文久3年3月の新選組結成当初の編成では芹沢、近藤と並んで局長となったが、5月に会津藩士を三条木屋町で殺害した罪で局長から副長に降格されている。
 大和屋事件にはいなかったが、日ごろから任務より遊び重視で、隊費と称して民家から金銭をねだるといった行動は芹沢が手を焼いたほどともいわれ、暗殺の3日前の9月13日、近藤と土方歳三、沖田総司らは祇園で遊ぶ新見の前で罪状を挙げて切腹を強要している。
 芹沢も新見の切腹は知らされていなかった。荒れたことだろう。そんな中、9月16日、土方らとともに飲んで酔っ払った末に寝込んだ芹沢は暗殺される。芹沢グループのうち平山五郎は芹沢とともに殺され、平間重助は難を逃れるも、そのまま行方不明に。
 そして芹沢グループで唯一、隊に幹部として残っていた野口健司もその年の12月27日、突然に切腹を言い渡される。原因は不明。
 これで、近藤グループにとっての目の上のこぶはすべていなくなった。(おわり)

新選組分裂(上)

博識のイケメン参謀・伊東甲子太郎 近藤、土方との「路線対立」が鮮明に
2013.4.21 07:00 産經新聞

 芹沢派を一掃後、一人の大物が新選組・壬生屯所の門をくぐる。常陸(ひたち)国(今の茨城県)出身の伊東甲子太郎(かしたろう)。博識で温厚な伊東はこれまで新選組になかったタイプで、局長・近藤勇の期待も厚かった。ところが伊東は「思想が異なる」と隊を離脱し、組織分裂という最大の危機を迎える。これに対し、近藤は伊東の暗殺とともに伊東グループの壊滅を謀るのだった。

■大物の入隊

 元治元(1864)年11月、数人の仲間とともに壬生の屯所に現れた伊東は背がスラリとしたスマートな美男子だった。

 水戸で勉学に励んだだけあって、近藤らと同様に攘夷(じょうい)の志を持ち、しかも高い教養を持っていた。さらに伊東と北辰(ほくしん)一刀流の同門だったという新選組幹部、藤堂平助も認めるほどの使い手。

 この時期、新選組は組織拡張を目指して近藤ら幹部が隊士のスカウトに全国を走り回り、その折に藤堂の仲介などもあって入隊することになった。

 荒くれ者集団のイメージを変える絶好の人物だったのだろう。近藤は「新選組参謀」という破格の待遇で迎え入れた。

■考えが違う

 全国でスカウトしたかいがあって、新選組は慶応元(1865)年夏には130人を超える大所帯となっていた。こうなると壬生の屯所も手狭になってきたため新しい屯所を西本願寺に求め、北集会所と太鼓楼を使うことになった。

理路整然として、さわやかな伊東の話しぶりは相変わらず人気の的で、近藤や副長の土方歳三もうらやむ人望の高さだった。

 そんな中、しだいに近藤らと伊東との考えの違いが大きくなってくる。同じ攘夷で結ばれてはいたが、幕府を主体とする近藤と朝廷を主体とした伊東。

 伊東の勤王思想は筋金入りで、公家中心にした新政府の設立を提唱するほどだった。

分裂の危機

 近藤と伊東との確執が決定的になると、伊東は慶応3(1867)年3月、新選組を離脱し、「禁裏御陵衛士」を結成。東山の月真院に屯所を置いた。倒幕に傾く薩摩の偵察と前年、突然に亡くなった孝明天皇の陵墓警備が任務という。

 伊東の同調者の中には当初から伊東グループだった鈴木三樹三郎や篠原泰之進のほか、近藤とは試衛館時代からの仲間だった藤堂平助や、近藤が伊東グループの内情を調べるために潜り込ませた斉藤一(はじめ)ら12人の名前があった。

 博識でリーダーとしての資質を兼ね備えた伊東の離脱で、「もっと離脱者が出てしまえば」と、近藤と土方は新選組分裂の危機感を抱く。そんな時、斉藤から「屯所を放火して局長を殺害し、隊を乗っ取る計画がある」という知らせが入る。

 「殺(や)らなければ、殺られる」。近藤と土方はついに伊東の殺害を決断する。(つづく)

新選組分裂(下)

飲ませて闇討ち…美化された新選組の “本性” 
芹沢と同様に消された伊東

2013.4.28 07:00 産經新聞

 同じ攘夷(じょうい)思想を持ちながら「天皇を敬いつつも」という近藤勇に対し、「天皇の旗の下で」という伊東甲子太郎(かしたろう)の一派が思想が異なると分裂した新選組だが、ついに近藤が伊東一派の粛清を決意した。

■奸賊(かんぞく)ばら!!

 慶応3(1867)年11月18日、「先生と国事などについてお話をしたい」と近藤が七条堀川近くの妾(めかけ)宅に伊東を呼び出した。近藤を得意の弁舌で説き伏せる自信のあった伊東は「これはチャンス」とばかりに乗ってしまう。

 散々に弁舌をふるい、酒も相当に飲み、上機嫌で帰途に就いた伊東は木津屋橋通(東西道)から油小路通(南北道)に差し掛かろうとした夜道、待ち伏せていた新選組の大石鍬次郎(くわじろう)らに不意を突かれる。

 板塀の隙間からやりでのどを突かれた伊東は数十メートル逃げながら、「奸賊(凶賊)ばら」と叫び、本光寺前で息絶える。
油小路の戦い

 伊東の遺体は新選組によって七条油小路交差点近くに放置され、今度は遺体を引き取りに来る伊東が創設した禁裏御陵衛士を待ち伏せした。

 たぶん「わな」ということは承知しながら鈴木三樹三郎や篠原泰之進、藤堂平助ら御陵衛士の7人は決戦覚悟で現場に現れる。そこを約50人の新選組隊士が取り囲む。

 新選組創設以来の生え抜きの藤堂ら3人が討ち死にする。藤堂は、近藤の意向で逃げられるように道をあけていたが、事情を知らない隊士から額から鼻にかけて切られる。即死だったという。

 伊東らの遺体は同志を呼び出すために2日間野ざらしされた後、壬生の光縁寺に埋葬され、翌年、鈴木らが泉涌寺塔頭(たっちゅう)の戒光寺に改葬している。
伊東はうぬぼれ屋?

 伊東は新選組にはこれまでになかったタイプとして人気があった。「参謀」という地位は組織上ナンバーワンではないが、知力や話術を駆使して非公式なリーダーとしての素養は十分にあった。

 そんな伊東が組織を割るという。結成以来、大組織に育て上げた近藤や土方歳三にとっては、伊東グループの分裂は新選組を二分にする可能性を秘めた、結成以来の危機だったに違いない。

 だから事が大きくなる前に伊東一派を消す。自分の才能を過信する“うぬぼれ屋”と見た近藤らは、“巧言”を使って伊東をおびき出す。

 そして酒をさんざん飲ませた上で暗がりを襲うという芹沢を暗殺したとき同様の手口で出て、あっさりと殺害してしまう。ただし油小路の戦いで篠原ら多くのメンバーを逃がしたのは失敗だった。

 篠原らは薩摩藩邸に囲われ、1カ月後に伏見街道で近藤を銃で狙撃する。近藤は肩に重傷を負い、治療のため大坂に下り、後に起こった鳥羽伏見の戦いで指揮を執ることはなかった。(おわり)

新選組番外編

「鉄の規律」に潰された新選組、全死亡者「45人のうち39人が内部抗争・切腹」から浮かぶ “組織論”

2013.5.12 07:00 産經新聞

 「一、局を脱するを許さず」「一、勝手に金策いたすべからず」−。言わずと知れた新選組の「局中法度書」の一節である。5箇条からなり違反者は切腹という厳しいもので、これで命を落とした隊士も相当いたという。

法度を後世の創作とする説もあるが、規律のない組織も常識的には考えられない。そこで法度の真偽も含め、新選組と規律の関係を検証してみたい。

■禁令がモデルか?

 子母澤寛の小説「新選組始末記」によると、局中法度は5箇条からなり、新選組の結成直後の文久3(1863)年に定められたとされている。

 ただそういった正式の記録はなく、新選組の生き残り幹部、永倉新八がのちに語った回想録の中で、「禁令(または法令)」なるものがあったということがわかっている。

 その内容は局中法度5箇条のうち、「私の闘争を許さず」を除いたもので構成されていたという。この結果、子母澤が新選組の小説を書くにあたり禁令を母体にして「法度」を創作した可能性はある。

 だが、「私の闘争…」の項目をのちになぜ加える必要があったのか。武道でいう他流試合は認めない、つまり、新選組が一枚岩の組織だったことを際立たせたかったのだろうか。

■では禁令はいつ?

 文久3年3月、新選組の前身、壬生浪士組は試衛館の近藤勇派と水戸藩の芹沢鴨派の2グループの24人で発足した。

 両グループに接点はなかったが、それぞれのグループ内のメンバーは旧知の間柄で結束も固く、規律を文章化する必要性もなかっただろう。
このころ、禁令の内容にも似た規律が暗黙の了解の部分で存在していたことは推測される。だが隊士がふくれあがると、そうはいかない。暗黙の了解では物事は進まなくなる。

 確かに、元治元(1864)年6月の池田屋事件の直前、隊士の脱走が問題になっている。そして池田屋事件直後、全国をスカウト行脚した結果、200人を超す大所帯に。

 こうなるとひとつの軍隊だ。むしろここらで池田屋事件前の相次ぐ脱走を教訓に明文化した規律がなければ組織は成り立たなくなってきただろう。

■山南敬助の切腹

 元治2(1864)年2月、試衛館以来の同志で新選組総長の山南敬助が「江戸に行く」と手紙を残して隊を脱走する。

 かなり強い勤王派だった山南が脱走した理由については、同じ勤王派の伊東甲子太郎の入隊で居場がなくなった▽長州藩と近く、勤王色の強い西本願寺に屯所を移したことが山南に耐えられなかった▽近藤と副長の土方歳三らとの対立−などがあげられている。

 山南は近藤に追跡を命じられた沖田総司に大津宿で捕まり、隊の脱走を禁じたことを定めた法令違反の罪で2月23日、壬生・前川邸で切腹している。

 新選組が結成して以来、鳥羽・伏見の戦い以前の5年間で出した死亡者は45人で、うち戦いで死亡したのは6人のみ。ほとんどが内部抗争の果ての切り合いか法令違反で切腹した者たちである。

■晩年は足かせ

 新選組の禁令は“鉄の規律”といわれながら、生死の裁量は近藤や土方らに任せられていたという、あいまいなものだった。だが新選組が、えたいの知れない浪士集団から正式の軍隊へ変わったとき、隊の進むべき指針を示すものとして規律は十分に役立った。

 組織を運用させるためには目標達成機能と組織維持機能のバランスをってこそ成り立つ。新選組の場合は近藤や土方の指導力があって初めて機能するが、数百人もの“闘う集団”を維持していくためには規律は必要だし、近藤や土方を絶対視させるためにも強硬な裁量も仕方なかった。

■新選組の壊滅

 組織も成熟してくれば自然と隊士にも裁量や自由の欲求も出てくる。こうなると近藤らの裁量は隊士にとって窮屈なものとなり、邪魔以外の何ものでもなくなる。これまで切腹一辺倒だった裁量も状況に応じて変化しなければ、組織は自然と崩れる。

 慶応4(1868)年1月の鳥羽・伏見の戦い前後に大量の脱走者が出る。

 江戸幕府が政治を朝廷に返還したことで、一気に新選組が不利になった今、情勢を見極めて飛び出したのだろう。だが、この戦いの前、近藤が敵の銃弾に負傷して戦場にいなかったのが響いたと思う。

 数々の隊士を禁令違反の下で死に追いやった強硬派の土方にどれだけのカリスマ性と指導者としての気構えがあったことか。

 隊は以降落ちのび、明治2(1869)年5月、北海道・函館での土方の戦死で新選組は事実上、壊滅する。

 

蛤御門の変(上)

壮絶内戦、京を血で染めた「長州VS会津・薩摩」泥沼の戦いの〝実相〟

2013.11.24 07:00 産経新聞

 江戸時代末の元治元(1864)年7月19日、京都御所の近くから「パン、パン、パン」と銃声が響き渡った。「蛤御門(はまぐりごもん)の変」の火ぶたが切られた瞬間だった。御所を守る幕府ら公武合体派の相手は長州藩を中心とする攘夷派。

結果的に攘夷派が鎮圧されるが、天皇の住まい周辺を兵士の血で汚す凄惨(せいさん)な戦いとなった。以後、両軍は泥沼の戦いへと突入するが、実はこの因縁の対決、1年前のある政治事件から始まっていた。

■この門、入るべからず

 アメリカのペリー来航以来、次々と押し寄せた諸外国と開国条約を結んだことから、国内世論が開国派と武力で外国人を追い払う攘夷派に二分されていた。

 孝明天皇も幕府に攘夷を約束させるなど熱心な攘夷主義者だったが、攘夷を決行しない幕府に業を煮やして過激な行動を起こす長州藩の傲慢な行動も苦々しく思っていた。

 そんな中、文久3(1863)年8月18日、京都御所の9カ所の出入口がいつにも増してものものしい雰囲気に包まれた。

 さらに、御所の南にある堺町御門にはいつもの長州藩士の姿はなく、薩摩藩士が固めていたのだ。

 午前4時、御所に呼び出された各藩関係者を前に、三条実美ら過激な攘夷を主張する公卿(くぎょう)の参内(さんだい)禁止▽長州藩の堺町御門の警備解任▽攘夷祈願の大和行幸(ぎょうこう)の延期−を決定する。

異変に気づいた長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞(くさかげんずい)、それに三条ら失脚した公卿らは堺町御門横で長州藩と親しい摂関家の鷹司(たかつかさ)家に集まった。

 その数は千人を超えた。対する幕府は会津藩を中心に約2千人。桂や久坂らは戦いを覚悟に準備を整えたが、長州・毛利氏一門の吉川経幹(きっかわつねまさ)に「長州藩を朝敵にしたいのか」と説得され、渋々断念させられる。

 そして翌19日、東山・妙法院に移動した三条ら7人の公卿らをともない都を後にし、故郷・長州に向かった。これが一般に言われる「七卿の都落ち」である。

■幕末の京が殺戮の舞台に

 8月18日の政変が起きた文久3年は、世論が二分していたとはいえ、まだゆるやかな空気が流れていた京都を、一瞬にして殺戮(さつりく)の舞台へと変えてしまう年となった。

 攘夷を実行しない幕府に対し、5月、下関で外国の艦船を砲撃した長州藩の発言力は日増しに強まり、朝廷で主導権を握る三条ら急進派の公卿とも結びつく。

 この年、長州藩が支援する過激派浪士が開国派要人を「天誅(てんちゅう)」と叫んで殺害する事件が多発する。京都守護職・松平容保(かたもり)のもとで新選組が結成されたのもこのころだ。

 ところが5月20日夜、今度は三条と並ぶ過激な攘夷派公卿、姉小路公知(あねがこうじきんとも)が御所・猿が辻で切り殺される事件が発生。京都守護職と町奉行所は、現場にあった刀から容疑者として薩摩藩の田中新兵衛を逮捕する。

これまで外国に強い立場をとりつつ会津藩と過激派を取り締まり功をあげてきた薩摩藩は、この一件で朝廷から排除された。

 このため8月18日の政変は、長州藩を煙たがる天皇の心情を知る薩摩藩が朝廷内での復権をかけ、会津藩や公武合体派の中川宮朝彦親王、近衛忠煕(ただひろ)らとともに過激派を排除するために起こした行動だともいえる。

 このとき、薩摩、会津両藩は「攘夷祈願の大和行幸は長州藩ら過激な攘夷派の主導で仕組まれたもの。決して帝の本意ではない」などと主張している。

■潜伏、そして池田屋

 政変の翌日の8月19日に京都を去った長州藩と過激攘夷派だったが、全てが去ったわけではなかった。朝廷に許しを請うため、京都に潜伏して活動する藩士も何人かいた。桂小五郎もその1人だった。

 桂は兵庫まで同行したあと、一行から抜けだして長州の入洛禁止令が出ている京都へ侵入。新選組ら警備の目が厳しいため、新堀松輔(にいほりまつすけ)と名を変えて、なじみの商家に潜伏することになった。

 朝廷に何度も復権を求める長州側に対し、首を横に振るばかりだったという。

 一方、勝った公武合体派で占められた京都では、朝廷と将軍後見職の徳川慶喜や有力藩の代表者が、長州処分のほか、各国と結んだ通商条約の破棄と貿易を許した港の閉鎖などについて話し合った。

 特に港の閉鎖問題となると天皇の強い攘夷への思いもあったが、もともと開国論者の集まりのため、結論は出ずじまい。この“弱腰”ぶりに、各地の攘夷論者から出てきたのが長州待望論だった。

 この世論を背に、長州藩内でも武力で上洛して復権を果たそうとする声が上がる。だが、「時期尚早」とする一派と、乱闘寸前まで対立する。

 そんなとき、「京都・三条の池田屋に集まった長州藩士ら攘夷派の志士が新選組に多数切り殺された」という知らせが入ってくる。

 「蛤御門の変」の1カ月少し前の元治元(1864)年6月のことだった。

(つづく)


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