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なぜ一向一揆は信長にケンカを売ったのか

織田信長と「一向一揆」の抗争(その2)

2018.8.29(水) 花園 祐

■戦国大名化する本願寺派

 加賀(現石川県)の本願寺派宗徒は1488年の加賀一向一揆(長享の乱)で、当時、守護大名であった富樫政親を自害に追い込み、地元の国人(その領内の住民たち)勢力による半独立自治体制を打ち立てました。

一般的には、この加賀一向一揆を機に本願寺派が加賀を支配して「百姓の持ちたる国」が成立したと考えられています。

 しかし、日本中世史が専門の東洋大学文学部教授、神田千里氏の研究によると、加賀一向一揆自体は本願寺派の指導層が扇動して引き起こしたものではなく、むしろ富樫氏の支配や弾圧に反発した「本願寺宗徒」の国人らが反乱して起こったものであり、本願寺派がすぐに加賀一国の支配を確立したとは言えなかったようです。

 では、本願寺派はどの段階で加賀の支配を確立したのか。それを理解するには、本願寺派と足利幕府の関係を見ていく必要があります。

 本願寺中興の祖と呼ばれる8代目法主の蓮如(1415〜1499年)は、その縁組政策により幕閣側近との人脈を築いたことで、本願寺派勢力の拡大に成功しました。
 
続く9代目法主の実如(1458〜1525年)もこの路線を踏襲し、特に応仁の乱の東軍大将を務めた細川勝元(1430〜1473年)の子で「半将軍」と呼ばれるほど権勢をほしいままにした細川政元(1466〜1507年)との関係を深めます。

 本願寺とその宗徒は、政元の要求を呑む形で政元の政敵を妨害したり攻撃したりする行動をとっていきます。

 とりわけ象徴的なのは、河内(現大阪府)の武将、畠山義英に対する攻撃(1506年)です。
 
政元は、畠山義英を攻撃する討伐軍に本願寺宗徒を動員させようとしました。実如は政元の要請を受けて、河内の一向宗徒に召集をかけました。

ところが地元の利害関係が絡んだことで、河内の宗徒並びに本願寺指導者は拒否します。そこで実如は代わりに加賀の宗徒に動員をかけ、1000人の宗徒を討伐軍に送り込みました。

 筆者は、本願寺派が加賀の支配権を確立したのは、加賀の兵員を動員したこのタイミングだったと考えています。

これは同時に、一向一揆衆、つまり本願寺派が戦国大名化したとも言うことができます。

実際にこれ以降、本願寺派と、加賀と国境を接する越中の畠山家、越前の朝倉家、越後の長尾家との軍事抗争が活発化していきます。

とくに長尾家相手に至っては、上杉謙信の祖父に当たる長尾能景を敗死に至らしめるなど北陸地方で猛威を振るい、他の戦国大名との間で領土争いにしのぎを削ることになります。

■信長との抗争の始まり

 時代は下って戦国時代後半、織田信長(1534〜1582年)は室町幕府15代将軍・足利義昭(1537〜1597年)を奉じて京都への上洛を果たします(1568年)。

 このときすでに本願寺は京都・山科から大坂・石山(=石山本願寺)へと本山を移していました(1533年)。

 本願寺派は、当初は信長からの軍事資金提供命令にも素直に従うなど、従順な姿勢を示していました。

しかし1570年、突如として牙を剥き、織田軍への攻撃を開始します。10年にわたる「石山合戦」の幕開けです。
  
本願寺派の挙兵は信長にとっても想定外の事態だったらしく、慌てて朝廷に働きかけ、開戦からわずか1カ月で和睦に持ち込んでいます。

 この時の本願寺派の挙兵は、信長の上洛以前に京都を支配し、本願寺との結びつきも強かった三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)への支援が目的だったとされます。

ここで重要なのは、先にケンカを売ったのは本願寺だったという点です。

■信長包囲網に加わるも、再び和睦

 最初の挙兵が和睦ですぐに決着した後、本願寺派は信長に茶器を贈るなど表面上は穏やかな関係を維持しました。

しかし1573年、将軍の足利義昭に檄(げき)を飛ばされた浅井、朝倉、上杉、武田、毛利からなる織田信長包囲網が形成されると、本願寺派もこれに参加し、織田家と再び戦火を交えます。

 すでに挙兵していた伊勢(現在の三重)での「伊勢・長島一向一揆」、越前(現在の福井)での「越前一向一揆」とともに、この挙兵は信長を大いに苦しめました。

しかし各個撃破戦略をとった信長により、石山本願寺以外の一揆は殲滅され、特に伊勢・長島一向一揆では一揆参加者が根切り(皆殺し)にされるなど、苛烈な処置が取られています。

■なぜ信長と戦ったのか

 さて、越前一向一揆で注目すべきは、元々、本願寺派とは敵対していた浄土真宗の別派である高田派が信長の軍に加勢している点です。

一向一揆と信長の抗争は、「仏教勢力を敵視していた信長の仏教弾圧政策に対する一向宗徒の抵抗」というように、宗教戦争の構図で見られることが多いようです。

しかし現実には、浄土真宗内でも信長に協力する勢力がいたのです。

 また本願寺派側も、信長の弾圧への反発というより、京都を巡る政争、並びに室町幕府という旧支配体制の支援を理由として挙兵しています。

信長を仏敵とみなしていることは確かですが、信長との抗争の本来の目的は信仰上の対立というよりも、パトロンであった室町幕府との関係が強く影響していたということです。

 実際に二度目の挙兵でも、信長が足利義昭を京都から追放して室町幕府を廃止すると、本願寺側は信長に和議を申し出て、信長有利の条件で再び和睦しています。

戦況が不利だったこともさることながら、足利幕府滅亡によって大義名分が喪失したからこそ和議を申し出たと考えられます。

■義昭の呼びかけに応じて三度目の挙兵

 二度目の和睦の翌年に当たる1576年、本願寺派は、中国地方の毛利家に身を寄せた足利義昭の呼びかけに応じ、信長に対して三度目となる挙兵を行います。

この三度目の挙兵では毛利家と同盟を結び、石山本願寺を中心に戦闘を展開しました。かの有名な鉄鋼船が登場する「木津川口の戦い」もこの戦役に含まれます。

 この時の挙兵の理由も、信長への憎悪がなかったとまでは言いませんが、前将軍である足利義昭の呼びかけに応じたものだった点は見逃せません。

前述した通り、本願寺は室町幕府との親密性を糧に勢力を拡大してきた歴史があります。信長との対立は、室町幕府支持の延長線上にあったと言っていいでしょう。

 しかしこの三度目の挙兵でも、ほぼ天下を手中にしつつあった信長の前に戦況は挽回できず、1580年には朝廷が仲介する形で、本願寺派が石山を退去することなどを条件に和睦が結ばれます。

この時の和睦は信長側からの提案とされますが、実態としては本願寺からの申し出によるものだったようです。

 信長もかつての伊勢・長島一向一揆の時とは異なり、本願寺一派の皆殺しは行わず、一部条件でこそ違約したものの、本願寺一派を赦免しています。

このような和睦に至ったのも、もはや天下の趨勢が室町幕府から信長政権に移ることがほぼ確実となったことを本願寺派側が認識したのかもしれません。

ある意味、本願寺派は中央政権の動きに非常に敏感な勢力であったと言えるでしょう。

 こうして途中で何度か中断こそあったものの、10年もの長きにわたる石山合戦は終わりました。

最終回となる次回は、その後の本願寺派の動向と、東西分裂へと至った過程について取り上げます。

(参考文献)『一向一揆と石山合戦』神田千里著、2007年、吉川弘文館発行 



極貧寺の蓮如、圧倒的「子だくさん力」でカリスマに

織田信長と「一向一揆」の抗争(その1)

2018.8.22(水) 花園 祐

 戦国時代の主役は誰かと聞かれれば、おそらく多くの人が織田信長の名前を挙げることでしょう。

そして、その信長を最も苦しめた存在は何かとなると、歴史に比較的詳しい人ならば、武田信玄や上杉謙信といった有名どころの武将を押し退けて「一向一揆」の名を挙げるのではないでしょうか。
(つづく)



 信長と一向一揆の抗争は10年以上も続き、信長は弟を含む多くの重臣を失いながらも、決定的な勝利で屈服させることはできませんでした。

その決着も、信長に有利な条件とはいえ、和睦という形でついています。

 事実上、天下を取りつつあった信長を最も苦しめたのが一向一揆です。

ところが、多くの講談や解説にその名が登場するものの、一向一揆自体を主題とした解説や評論はその歴史的影響力に比べ少ないと言っていいでしょう。

 そこで今回から3回にわたって、戦国時代における一向一揆の実像について解説していきたいと思います。

初回となる今回は、戦国時代初期に浄土真宗本願寺派勢力を一気に拡大させた、中興の祖とも言うべき「蓮如」の活動を追っていきます。

■一向一揆とはそもそも何か?

 まず、一向一揆とはそもそも何なのかをはっきりさせておきましょう。

 大分類としては、一向一揆は「土一揆」に含まれます。

土一揆とは、農民層を中心とした被支配階層集団が支配階層に対し、年貢権限や借金を帳消しにする「徳政令」などを武力蜂起を含む手段で要求する活動を指します。

 ただ、一向一揆が他の土一揆と大きく異なる点は、土一揆を起こす被支配階層が「一向宗」の僧侶に率いられていたという点です。

一向宗とは、親鸞を開祖とする浄土真宗の一派である「本願寺派」のことを指しています。

 ここで強調しておきたいのは、一向宗とは浄土真宗全体を指すのではなく、浄土真宗の本願寺派のみを指している点です。

後述しますが、同じ浄土真宗の中でも宗派間で対立があり、実際に信長の一向一揆討伐軍には浄土真宗の別の宗派も援軍として加わっていました。

あくまでも一向一揆は、当時の「浄土真宗本願寺派」による軍事勢力とその行動を呼び表す言葉なのです。

 以上を踏まえた上で、戦国時代初期に本願寺派の勢力を躍進させた蓮如について追っていきましよう。 

■蓮如が本願寺派を急拡大させられた理由

 本願寺派第8代法主の蓮如は、1415年に京都に生まれました。

本願寺派の法主は代々、開祖である親鸞の血を引く子孫が継ぐこととなっているのですが、当時の本願寺は京都・青蓮院の末寺に過ぎず、本寺も荒れ放題で参拝者も呆れて帰ってしまうほどのありさまでした。

 そのような困難な時期に法主となった蓮如ですが、彼が法主に就任するや信徒数が急増し、本願寺派は勢力を急速に拡大していきます。

 この急拡大の背景に何があったのかというと、蓮如自身のカリスマ性もさることながら、ビッグダディも驚くほどに蓮如が子沢山だったという点が大きいでしょう。
 
蓮如はその生涯においてなんと男子13人、女子14人の合計27人もの子供をもうけています。

夫人も「腹の空く間もなく」と評されるほど出産を繰り返すため、早逝することが多く、最終的には5人の女性を娶(めと)っています。この圧倒的な一族の人数が本願寺躍進の礎となります。

 蓮如は、子供が男子の場合は主に他の寺院へ養子として送り、成人した暁にはその寺院を本願寺系列の末寺として組み込んでいきました。

一方、女子の場合は主に幕閣関係者と縁組し、これにより室町幕府内で本願寺支援者を急拡大させ、幕府の権威を得つつその支援を生かして勢力拡大に努めました。

■延暦寺の弾圧を受け加賀へ

 こうして衰退していた本願寺を一挙に拡大させることに成功させた蓮如でしたが、急な勢力拡大を疎ましく思ったのが比叡山延暦寺でした。

 本願寺の勢力拡大ぶりに危機感を持った延暦寺は1465年、蓮如と本願寺一派を「仏敵」と認定し、僧兵を繰り出して現在の京都市東山区付近にあった大谷本願寺を破却するなど弾圧を加え、蓮如らは近江へ一時避難する羽目となりました。

 その後、延暦寺と本願寺は和睦を行い、和睦の条件として蓮如は法主の座を降りることになります。

法主を引き継いだのは、まだ幼少であった五男の実如です(長男の順如は、幕府内に多くの人脈を持っていたことを警戒され、後を継げませんでした)。

 ただ、蓮如はこの引退を機に、新たな布教地を目指して京都から加賀(現石川県)へと遷(うつ)り、この地で信徒を拡大させることとなります。  

この延暦寺による弾圧がなければ蓮如は加賀には向かわず、加賀がその後「百姓の持ちたる国」と呼ばれることはなかったかもしれません。

■守護大名を自害させた「加賀一向一揆」

 加賀でも順調に信徒を拡大させていた蓮如たちでしたが、加賀の守護大名である富樫家のお家騒動に巻き込まれることとなります。

 富樫家のお家騒動には、1467年に発生した「応仁の乱」が大きく影響していました。

京都の東軍を支持する兄の富樫政親と、西軍を支持する弟の富樫幸千代の間で、加賀の支配を巡って1474年に抗争が勃発したのです。

その際、政親は本願寺に支援を求めます、蓮如は、対立していた浄土真宗高田派が幸千代側についていたことから、支援の要請を快諾します。

本願寺の支援もあり、政親は幸千代を敗死せしめ、加賀の実権を握ります。

 しかし、その14年後の1488年、今度は自らが本願寺に追い詰められることとなります。

 加賀の支配を確立させた政親でしたが、次第に本願寺一派の強大な力を恐れるようになり、弾圧を加え始めます。

また、政親の支配手法に対し、加賀の国人(その領内の住民たち)勢力も反発し、本願寺門徒と国人が結びついて一向一揆を起こします。

政親は高尾城に追い詰められ、自害することとなりました(加賀一向一揆「長享の乱」)。

 国人らは、政親の後継として政親の大叔父に当たる富樫泰高を傀儡の守護に立てます。

しかし京都の幕府は、自らが任命した守護を国人らが自害に追い込んだことに激怒し、既に加賀を離れていた蓮如を呼びつけ、加賀の信徒を破門するように迫りました。
 
しかし蓮如は、「既に加賀の地を離れており、本願寺が一揆を扇動したわけではない」と弁明し、また幕閣の細川政元の弁護もあって、加賀の信徒に「御叱り状」を出すことで落着させています。

 東洋大学文学部教授、神田千里氏の研究によると、浄土真宗高田派との抗争を兼ねていた1474年の富樫家のお家騒動の際とは違い、長享の乱では蓮如が積極的に一揆を扇動した痕跡はないようです。

とはいえ、加賀の支配権を握る国人指導者への本願寺の影響力が高かったことは間違いありません。
 
加賀一向一揆は、守護に反乱を起こした国人勢力が本願寺宗徒であったと見るのが実態に近いようです。

その後の幕府との関わりの中で、本願寺は次第に加賀の支配権を確立させていきます。

 次回は、本願寺派勢力が実質的に戦国大名となり、信長と抗争を繰り広げていく様子を見ていきます。


豊後街道を行く 第1回   

松尾 卓次 著 (弦書房)

はじめに 

 このところ街道歩きにハマつている。つまり道を楽しむ〈道楽〉をしている。

 今まで「烏原街道」と、その延長の「長崎街道」と歩いた。他にそれらに結ばれる「平戸街道」や「三池街道」、「筑前街道」などを部分的に歩いてみた。

 今度は「豊後街道」の番だと意気込んでいたが、やっと出発点にしてたのは平成15(2003)年の春であった。

 豊後街道は、熊本城から大分・鶴崎湊まで、九州を横断する往還である。その距離31里、124KMとなる。

 この道は、加藤清正が開いたという。そ札で清正公道といわれて、他街道にない特色がある。道幅何十メートルもの大道や掘り込み道。十数キロも続く杉並木道。

一里ごとに槙の大木を植えて何里木と名づけたりと、
400年たつ今もその一部が残っている。

 この道は九州横断の最短コースであったから、肥後藩主は参勤で通り、多くの旅人が往来した。

 幕末のあわただしい中に吉田松陰が三泊四目で駆け抜けたし、勝海舟が坂本龍馬たちを率いて、土地の様了を観察しながら、兵庫から長崎へ駆けつけた。そんな平和な道であったが、西南戦争時には戦さ道となって、政府軍と西郷軍は各地で砲火を交えている。

〈豊後街道は歴史の道である〉

 三一里 、全行程を歩いて見て、いろんな発見があった。急坂には何万、何十万という石を敷き詰めた石畳が残る。村の長は農民を率いて水路を引き農地を開発した。名も知らぬ石工が架けた堅固な石橋、道中安全を祈願した石仏などなど、先人の偉業が脈脈と伝えられていることが分かった。

〈豊後街道は歴史を追体験できる道である〉

 峠を登り切ったら、眼前に雄大な阿蘇の山々が見える。疲れも吹き飛んで気分も爽快となった。何だか自分も阿蘇の山と同じように大きくなった感じがする。石畳が延々と続く。

 一歩一歩踏みしめて歩くと足も軽やかで、流れる汗も気持ち良い。あちこちに歌碑や句碑が立っている。訪れた歌人や俳人はこのすばらしい光景を認めている。声を出してその歌を詠んでみると、その歌人になったような気がする。

● 里木(里数木)

 街道沿いにはよく一里塚が築かれていた。これは旅の目安として、旅人の休憩所として木陰を提供していた。豊後街道でもそうで、榎を植えて、一里木、二里木、…何里木と称していた。

 この里木(里数木)の仕組みは、加藤清正の業績だという。清正の肥後初入国時に、この街道を通り、その制度を決めたそうだ。

 その入国は慶長六年(1601年)であるから、幕府の東海道など幹線整備より早い。いずれにせよ、肥後藩主の参勤の道として、江戸時代初期よりよく整えられていた。

 熊本城内の一角、新町一丁目礼の辻に里程元標があって、ここから豊後街道が始まる。黒髪五丁目に一里木、上立田に二里木、JR三里木駅前に三里木と続く。

 この二里木は唯一残る榎である。親木に寄生した二世木が10mの高さに成長して、昔の面影を伝えている。これ以外の里木は失われてしまったが、地名として残り、熊本県側にはその記念碑が建てられている。

 しかし大分県側には、その仕組みが伝わっていない。国境の産山村大利の一里山(十六里木)が最後で、竹田市神馬に一里山が残るのみ。

 なぜ豊後の地には里木がないのか、里木(里数木)をたどり歩きながら、その謎解きにトライするのもおもしろいだろう。
 
〇里程元標(熊本市新町一丁目)豊後街道など諸街道の出発点。

〇一里木跡(熊本市黒髪五丁目)鉄柵に囲まれた石碑がある。そこには阿部小豆の句が刻まれて

〇二里木跡(熊本市龍田町上立田)親木を土台に二世木が残る。

〇三里木跡(菊陽町津久礼)ここにある駅名も三里水駅。

〇四里木跡(菊陽町南方)菊陽の杉並本の北端に残る。

〇五里木跡(大津町上大津)大津宿のはずれにある。

〇六里木跡(大津町新小屋)近くに清正公道公園があり、地区の記念碑とともに立つ。

〇七里木跡(大津町峠)峠茶屋跡の山道のなかに残る。

〇八里木跡(阿蘇市殿塚)阿蘇谷を歩いていたら杉山のなかに発見。

〇九里木跡(阿蘇市一里山)一里山の地名とともに残る。

〇十里木跡(阿蘇市内牧)内牧宿の西端、商店の一角に残る

〇十一里木跡(阿蘇市小野田)広い阿蘇の水田地帯のなかにある。阿蘇五岳が美しい。

〇十二里木跡(阿蘇市宮地)広い阿蘇水田地帯にあり。

〇十三里木跡(阿蘇市坂架上町)坂梨宿の東端に残る。その位置が移勤している。

〇十四里木跡(阿蘇市波野四里塚)四里塚と名前が変わって残る。

〇十五里木跡(阿蘇市笹倉)笹倉の石畳道にあった。

〇十六里木跡(産山村大利)一里山という丘があったが削られた。豊後と肥後の岡境に近い。

1.熊本城から大津まで(16Km)

● 里程元標跡

 この数年、街道歩きを楽しんできたが、今度は 「豊後街道」である。と何年も思い、準備していたが、平成15年(2003年)春、実現にこぎつけた。やっと出発地に立つことができた。

 出発点は熊本城の一角、札の辻。熊本のすべての道がここを起点に周辺へ延びているところ。北へ豊前街道、南へ薩摩街道、そして東へ日向街道とこの豊後街道である。

 「熊本より鶴崎道 熊本(五里)大津(五里)内之牧(八里一六町)久住(七里二〇町)野津原(五里)鶴崎」

 「熊本札の辻より鶴崎へ三十一里」

 文化十二年(1815年)、この地を訪れている高木善助は「薩陽往返記事』に書いている、また同特に、

「熊本より隣国城下ヘ道規」

 「筑後柳川十六里 、久留米二十四里、三池十二里、肥前佐賀二十里、平戸四十五里、島原十二里、但川尻より船路十里、薩州鹿児島五十一里、豊後府内二十九里、岡二十一里、臼杵三十三里、小倉四十二里、延岡三十二里 、飫肥五十八里、筑前福岡三十里、秋月二十七里、球磨人吉二十五里、日田二十三里、肥前長崎川尻より大回り四十七里、熊本より長崎まで三十四里」とある。

 今この地には、「里程元標」が立っていて、「ここ新一丁目(現・新町一丁目)御門前に藩の種々の政令を掲示する札の辻という広場があった。

 また、ここを起点に里程元標を決め、豊後街道などの里数が測られた。その時に一里、二里、と進むごとに街道の両側に榎を植え、「これを里数木と称していた」などと書かれている。ここが東海道でいうならば日本橋の元標にあたるところと分かる。

 豊後街道はここから始まる。さあ元気を出して出発だ。

 隣接して小公園がある。清爽園と名付けられていた。早速、立ち寄る。西南戦争時の熊本鎮台将兵の戦没者を祭るために、明治十一年(1878年)ここに記念碑を建てた。

 その後、歩兵第十一旅団長・乃木希典の呼びかけで、更に整備されて、昭和になって「清爽園」と命名された。なるほど、熊本城は西南戦争時の大激戦地であったから、今もこうしてその記念碑が残るのか。

● 熊本城内

  街道は城内を通る。それで熊本城内へと入る。街道が城内を通るのは非常に珍しい。長崎街道は佐賀城を大きく北へ迂回し、小倉城下でも西へ回り路を造っていた。それなのに加藤清正はなぜ城内を通過させたのか。

江戸時代中期に熊本に来遊した、古河古松軒は書いている。

 「旅人の通行、北より来る者は東の門よリ入りで西の門に出、南より来る者は西の門より入りて東の門に出る。その問、数問にて城門幾門も通ることにて、左右、高石垣にて箱の中を行くが如し。前後は櫓門にて、その門を閉じる時は遺憾道憾とも成し難き所なり。

 土人の物語に、薩州侯御往来の節、この所にて前後左右を見給い、大名の通るべき所にあらず、かかる地を往来とせしは心無きことと御怒りの色見るべしという。

 定めて虚説のこととは察しながら、いかにも貴人の通行すべき城内にあらず。鳥を捕らえ駕籠へ入るる様の所なり」(西遊雑記)さすが築城の名人、加藤清正である。隔離するだけでなく、積極的に堅固さを見せつけようとしたのだ。

 これほど見事な事事デモンストレーションはあるまい。いうまでもなく築城は加藤清正。清正公の実戦経験から築かれており、着工は関ヶ原の合戦の翌年、慶長六年といわれ、同十二(1607)年に完成した。

 「清止公様、通らせていただきます」


 法華坂を通り、「箱の中」を進んでいる。高い石垣に囲まれた道は何度も曲がる。島津公が槍を立てて通行したら、櫓の狭間一斉に開いたそうで、それ以来、島津侯は槍を伏せて通行していたそうだ。

その様子が分かる分かる。本当に、駕籠の中の鳥だ。吉田松陰も書ている。「熊府の城郭の巨大、実に驚くに堪えたり。人以て九州第一と称す。蓋し過称に非ず」(西遊雑記))

● 百聞石垣

 二の丸跡へ進み三の丸跡へと進む。古い建物があるぞとのぞく細川刑部邸だ。刑部は、細川初代藩主忠利の弟で、11代まで、代々武家屋敷として使用さしてきたもの。それ札を移築して公開している。

 本来の街道は、新堀橋を北に見て京町台地へ進む。しかし刑部邸を見て、百?石垣ヘ出た。

 高さ五間、長さ百十一間もの石垣が続く、すごい光景これを見たかったから回り道をしたのだ。清正公が築いた名城たる所以がここに残る。これまた名城の証である。

 熊水城は天下の名城といわれる、その城構えは大きく、坪ヰ川と井芹川を内郭に、白川を外郭にて、東西一.六丁、一.二丁と二〇〇町もの広人な城域である。

その中に武者返しを付けた石垣の天守を中心に四十九の櫓と十八の櫓門、二十九の城門を備えた名城である。

特に豪壮堅固な石垣に特色があり、その石は城西、松尾山から採出したもの。往時の偉容がここかしこと残る。ここ百?石垣もその一つだ。

 西南戦争で焼失した天守閣を始め、櫓や長塀の復元が続いている。さらに往時の姿を取り戻そうと、市民・県民に呼びかけた大募金運動も始まった「

● 京町・坪井

 新堀の地は、御城と京町台地を繋ぐ地峡部にある。城の搦め手あたる重要なところであるから、ここに僧門を築き、番所を置いた。この地峡部に堀割して陸橋を架けて新堀橋といった。

その上が監物櫓である。米田監物預りの地で、二の丸御門もあった。

この一帯は城へと続く台地であり、その南北末端に目を付けて加藤清止は築城した。

こ台地に高い石垣を築いて城とし、台地の東の坪井川、西の坪芹川を内堀として、強固な城を造り上げたし西南戦時に西郷車の攻撃にも籠城した鎮台兵はよく耐えしのいだ。

 こうして歩いてみると、清正公様の築城ぶりがよく分かる。

 城を出て京町を歩く。ほどなくして右折。真っ直ぐ行くと豊前街道で、久留米、小倉へと通じる。熊本拘置所の塀沿いに坂を下る。観音坂を一気に下る。

中腹に尼寺・観音寺があったが、五○年ほど前の大水害で廃寺となり、その名前だけが残っている。坪井町通りを歩いていたら、壷渓先生の胸像に出会った。

 「この入、誰ですか」と、Hさんが言う。

 壷渓とは、水庭徳治先生の雅号で、ここを流れる坪井川にちなんだ名前である 先生はここに塾を開いて壷渓塾と称した。日本で二番目に古い予備校だそうで、昭和五(1930)年に創立した。

 「単に人学に通るためではなく、高い知性と美しい人問像の育成を目指す」ことを、教育理念とした。 

● 小泉八雲旧宅

また横丁で意外な発見。坪井二丁目の小泉八雲旧宅とゆかりの東岸寺弥陀六地蔵堂だ。歩いていると、周りが良く見えるから面白いものに出会う。

 この寺は、八〇〇年前平家一門の平宗清が開いた。出家して弥陀六となり、諸国行脚の途中に熊本に来て、この地で弥陀六地蔵尊を作り、一字を建立したことに始まる。

 八雲は明治二十三(1890)年来日、日本に帰化して第五高等学校教授として熊本に赴任した。この弥陀六地蔵堂前に二年開幕らして、地蔵様と周りの人たちの暮らしを興味深く見つめている。

 著書『東の国より』には、その特の様子が述べられている。七月二十五日この地蔵さん祭にりがあって、この温顔慈相の仏様が好きで、奉加金を寄進したこと。

それで、門前に3フィートばどもあるトンボの作り物が飾られて、そ札を八歳の。子どもが独りで作ったことを聞き、驚いている。八雲が坪井の温かい人たちと交わるなかで、熊本の良さを堪能している。

長男の一雄さんがここで生まれたこともあって、生涯忘れ得ぬ土地となっているようである。

 熊本電鉄の線路をわたる。旧道三号線へ出た。九州を縦に貫く大動脈である。元は熊本城内を通り、先ほど歩いた京町へ出ていたが、車時代を迎え、交通量が増えて城の束側を迂回することとなった。

なるほど車が多い、しばらく信号待ちする。ここは浄行寺交差点で、正面へ旧国道五七号線(現県道三三七号線)が延びる。戦後、旧豊後街道が国道となったものだ。

 右へ行くと藤崎宮だ。あの馬追い祭りで有名な神社である。多くの勢子に囃したてられて飾り馬が躍る。熊本県人の血を沸がせる秋祭りだ。

 街道に面して赤い鳥居が立っている、見ると立田口大神宮とある。ここには明治初年まで成就院もあったが廃寺となり、神社だけが残る。

 京町から坪井町までは古くからの職人町であったから、その名をつけた町が多かった。しかし今では歴史を伝える旧町名もなくなってしまった。

● 一夜塘

 御薬園跡とは標示枚がある。旧肥後藩の薬園が開かれていたが、今では人家が建て込んでいて、町名だけにその名が残る。子飼橋のたもとに一夜塘があるので立ち寄る。こんもりとした小さな丘になっていて、すぐ裏は白川だ。

つまり白川がこのあたりで人きく曲がり、よく氾濫していたので、その防御のために塘(堤防・井手)を築いた。

 寛政八(1796)年辰の大水の時、斉茲藩主が一夜の内に築かせたので一夜塘というそうだ。今でもそれが約七十メートルほど街道に面して残り小公園になっている。

 子飼橋というと、昭和二十八年(1953)年の熊本大水害の時にこの辺りが決壊して全市水浸しになったことを思い出す。

熊本入学前を進む。とたんに道幅が広がった。約十五メートルもあって、旧豊後街道そのままの道である。

明治二十七(1894)年、前身の第五高等学校が開校した時以来、道幅は変わっていないから、清正公様の道造りの壮大さが分かる。五高・熊本大学の赤レンガ校舎を横目に見て進む。

五校が開校して一世紀以上、その果たした役割は大きい。

 と思って歩いていたら、道帽がぐっと狭まり八メートル。旧街道上に人家が並んでいる。明治以来、民有地へ払い下げられたのだな。車時代の現在よりも幅広い街道を造ったのだからなんとその構想の雄大さよ。

● 桜山神社

 桜山神社がある。少し坂を令っていったら、桜の本の下に石碑がずらりと並んでいて、その奥に誠忠  の碑が立っている。

その間には、今散ったばかりの桜花が一面敷き詰められている。一三○年前に昇華した神風連の人たちの気持ちを今なお表しているようである。その花びらの上を歩くには気が引けるから、遠くから手を合わせる。いい時期に行き合わせて良かったなあ。

 よく肥後もっこすといわれる。つまり頑固だということか。この神風連の乱もその一つだろう。明治九(1876)年、太田黒伴雄たち旧熊本藩士百数十人は敬神党(神風連)へ結集していた。

新政府の急速な欧化政策に不満を抱き、直接行動を起こす。到底勝ち目のないことを知りながら、熊本鎮台を襲い、種田政明司令官や安岡良亮県令らを殺害して兵舎を焼き討ちした。

しかし間もなく鎮台兵に鎮圧されて太田黒たち一二四人は、戦死したり自刃し果てた。秋月の乱や萩の乱と共に、明治新政府の開明策に不満士族が起こした反乱の一つである。この神風連資料館が境内にある。入館して改めてこの反乱が何だったのかを思い知らされた。

● 宮部鼎蔵

 境内には宮部鼎蔵の歌碑も立っている。

 「いざ子ども馬に鞍おけ九重の御はしの桜散らぬそのまに」

 これは京都へ出発する時、まだ幼い子どもたちに勤王の決意を伝えた歌といわれる。

 その後、鼎蔵は尊王運動の理論派と呼ばれて活躍するが、文久三(1863)年、新選組に襲われて自害した。

 これがあまりにも有名な寺田屋騒動で、この事件で明治維新は数年遅れたといわれている。享年四五歳であった。宮部鼎蔵の名は早くから知られていて、吉田松陰は、嘉永三(1850)年と六年の二度ほど訪ねている。

 最初は平戸、長崎遊学の帰路で、その名声を聞いて熊本へ立ち寄っている。

 二度目はその三年後のことで、ペリー艦隊に次いでプチャーチン艦隊が長崎へ来航した時のことであった。

 この時、松陰は江戸から急行して長崎へ向かう。東海道、瀬戸内海路そして豊後街道を三泊四日で駆け抜けた。島原へ渡海して長崎へ急いだ。

 熊本では七泊もして、宮部鼎蔵や横井小楠たち延べ四三人もの人物と会っている。それで長崎到着は10月27日となり、その時にはすでにロシア艦隊は出港した後たった。

 なぜ熊本で長逗留したのか。大きなおおきな謎だ。ある人は外国へ密航を考えていたという。事実この半年後、下田で密航を企てて失敗しているからである。

鼎蔵や小楠たちと連日、何を話し合っていたのだろうか。ずっと気になっている。この街道の中には吉田松陰が宿泊したところ(小無田など)があるので、そこでも調べてみたい。

● 一里木跡

 街道沿いにはよく一里塚が造られていた。それは旅の目印として、旅人の休みの場、木陰として役立っていた。豊後街道でもそうで、榎を植えて、一里木、二里本、何里木と称していた。

 この仕組みはいつ出来たかはっきりしないが、加藤清正の肥後入国、慶長六(1601)年以後という。しかし幕府が東海道など幹道を整備し始めたのが慶長九年で、慶安二(1649)年には街道制度が確立されているから、それなら細川時代初期となる。

どうも熊本では「清正公様のおかげ」とよくいわれるが、いずれにしろ、江戸時代初期には街道両側に榎を植えさせ「何里木」とさせたようである。

 その一里木が黒髪バス停にある。今ではその木も枯れて、「一里木跡」の石碑だけが残る。熊本城内の「里程元標」からここまで一里、つまり約四キロである。豊後街道にはこの里数木跡が残されているから、それを一つずつたどるのがひとつの楽しみである。

一里の距離は普通、歩くと1時間(昔の半時)で、一日に七〜八里歩くのが昔の旅人の行程であった。
それで里数水や一里塚は、歩行のよい目安となっていた。

 その昔、ここで見送りの人とお別れしていたところ。ここから江戸まで三〇〇里の長旅であったから、名残も尽きなかったろう。
 
● 杉並木

「このあたりが杉並木の西端」と、ずっと以前に発刊された『熊本県歴史の道報告書−豊後街道』に書いてあったが、見出せない。一里木と同様に枯れてしまったのか、周りはすっかり住宅地となっている。

 小蹟橋端に来た。ここから白川を右手に見ながら歩く。立田山が追っているので、川も狭まって流れている。すぐ左手の崖上が立田城跡。崖面には横穴墳があったそうだが道路拡張工事などで破壊されてしまったようだ。

 JR竜田口駅を過ぎる。豊肥線だ。熊本から阿蘇を貫き、大分まで達する九州横断鉄道である。ほぼ豊後街道に沿って敷設されている。しばらく平行して歩く。

 国道三号線バイパスの高架を潜る。熊本の郊外地として聞かれた住宅地を通る。

 待ち望んでいた杉並木を発見! といっても、杉の大木がまばらに立っているだけである。このあたりが現在の西端部であろう。

この数十年の内に随分と杉並木も失われてしまった。ずっと昔、修学旅行で阿蘇山へ行った時には、杉並本の中をずっとバスで通っていたようだったが。道幅がまた広くなって来た。三宮社がある。

ここは昔のままだ。大きな楠や杉がうっそうと茂っている。阿蘇三ノ宮の末社である。龍田小学校前に出た。昔を彷彿させる杉並木が続く。

● 二里木
 
 二里歩いた。二里木がある。ここには榎が残っていた。といっても、二世木が親木を台木に寄生し、10メートルの高さに成長している。

親は枯れても子を残すか。他の里数木は枯れたり伐採されたりで、その名前だけしか残っていないが、この木は唯一残る里数水である。うれしいね。

 「大津街道の里数木」と説明板があって、熊本・札の辻から阿蘇外輪山の七里木までの案内が書かれていて良く分かる。

 このあたりは道幅が広い。古記録には「馬踏五間、幅九間」とあるが、そうなのか。つまり全幅一8メートルもあって、中央一0メートルが通路となっていた。

それを今では、西半分しか県・市道に使っていない。東側は広場となり、駐車場に利用されている。

 道幅に注意して歩いてきたが、清正公道の本体が現れたぞと、うれしくなった。

 加藤清正は慶長六(1601)年入国し、矢継ぎ早に大土木工事へ取りかかる。熊本城築城、有明海干拓と用水路の開発、そして豊後街道の整備だ。

世に言う清正公の国造りだ。今でいうならば社会インフラの確立だ。そんな面からも「清正公様」と、熊本では尊敬を集めている。

 近くに道標があるはずだがと注意して歩いていたら、あった。

 白川沿いに瀬田へ向かう県道の分岐点に高さ一.二メートル、幅三〇cmの石柱が立っている。見過ごすところだった。なんと道路改修工事の立看板の支柱となっている。注意して見なければ分からないはずだ。

 「右 あそ大分  左 大津内ノ牧」と刻まれ、裏面には、「阿蘇郡甲斐有雄」とも彫られている道しるべである。

 ここは阿蘇へ向かう道との分岐点になるから、高森町の甲斐氏が個人で立てたもの。氏は一九〇〇もの道しるべを自力で立てたが、この地点は一六二八番と刻まれていて、明治二十年代(1887〜96)のものか。

 道標の重要性は今も昔も変わらない。特に歩いて旅していたその昔は、今日のカーナビ以上に重要であった。その大切さを知っていた甲斐氏は自力でこんなにも数多くの道しるべを立ててくださったのだ。

感謝!感謝!・ それにしても、もっと先人の贈り物を大切にしなければ。

 この地で初めて熊本城を目にしたと、勝海舟は感嘆して、文久四(1864)年二月十九日の日記に書いている。

 「熊城を路二里程より望む。天守孤立、築制他城の比にあらず」この時、勝海舟は下関砲撃事件以後、悪化した外国との関係修復のために長崎へ向かっていた頃たった。

坂本龍馬たち海軍操練所の若者を引き連れて長崎へ急いでいたので、龍馬もここで名城を初めて目にしたのである。

 ここから熊本城が見えたとは今では想像もつかない。都市化の波がかつての農村地帯へも広がり、いい住宅地、商工業地帯になっているので、すっかり眺望が遮られてしまった。

平原の中にすっくと天守閣が聳え立つその偉容を、ぜひ見てみたいものだ。

● 武蔵塚

 すぐ、武蔵塚に出た。このあたりはすっかり住宅地に開発されていて、地下の武蔵もゆっくりと休んで居れないだろう。墓前の旧豊後街道は自動車の洪水で、近くを九州自動車道が通り、JR特急電車が博多へと走る。

屋敷門を思わせる本の大門を潜ると、そこは別世界。大小二刀を持つ宮本武蔵像が、カッとにらむ。

NHKテレビで「武蔵」が放映されたので、ブームを呼び、今日も訪れる人が多い。

 武蔵はかなり伝説化されている。生まれも諸説があって、まして生涯六〇回も勝負して一度も敗れなかったこと、佐々木小次郎との対決などがそうである。

多分に、吉川英治の小説『宮本武蔵』が元となり、定説化しているきらいがある。江戸時代に、ここ豊後街道を旅しか人で武蔵塚にふれたものはいない。

伊能忠敬もこの道を測量して豊後へ回ったが、もちろん記述がない。

 晩年の武蔵は、肥後藩主細川忠利の客分として招かれ、軍事顧問として仕えた。そして死亡するまで熊本に留まり、『五輪の書』を著す。

 正保二(1645)年に六二歳で死去したが、遺言で「細川公の参勤を見守るために、甲冑を帯び六具に身を固め、立身の姿でこの地に葬られた」と伝えられている。今そこには「新免武蔵居士石碑」が立っている。

 忘れられた武蔵であったが、剣豪ブームで息を吹き返したようである。武蔵うどんまで生まれている。

 昼になったので食堂で、その「武蔵うどん」を食べた。何と、餅入りうどんだった。同行のHさんは「小次郎うどん」、Yさんは「お通うどん」とみんなは競って食べる。「うまい! 腹一杯になった」

● 三里木跡

 街道は随分広くなった。道の左手半分にJR豊肥線が走り、その外側には町道もある。残り半分に旧国道五七号線と昔からの杉並木が通る。

 これがすべて旧豊後街道の道路敷である。その道幅六〇〜八〇メートルはあろう。それが延々数キロ、阿蘇を目指して真っ直ぐに延びる。見事な道だ。清正公の道造り、国造りが良くあらわれている。

 天明三(1783)年、ここを通った古河古松軒は書いている。

 「熊本より大津まで五里、この道は平地にして街道の広き三〇間ばかり。左右に土手あり、並木みなみな大樹にて、杉、もみ、その他雑樹も多し。

 言い伝える。清正朝臣奉行してこの道つくりけるという。その時より道も狭くせず、並木も切らずしてその侭の形なり。日本第一といはん、ひろひろとせし街道なり。

 大守の参勤交代この道筋より豊後の鶴崎への往来あり」

 また、慶応三(1867)年に来熊した桃節山も書いている。熊本より大津迄始終平地にして、少しづつつまあがりの様に見えたり。清正公の聞かれし由。路幅五、六間位にて、左右に大なる杉を植え並べたり」

 明治になって県道へと生まれ変わり、さらに国道となる。また大正元(1912)年、宮地軽便鉄道線が出来て、旧街道内に鉄道線路を敷設し、三年後に大津まで開通させた。それが今も続く豊肥線だ。

 鉄道と国道、それに杉並本道と、消正公の遺産は今も立派に生きている。

 その偉業を踏みしめて歩く。大本の杉並木も残って、木陰をつくり出し、歩くものには何よりのプレゼント。昔の人もそうだったのだなと、街道を楽しみながら歩いていたら、JR三里木駅に着いた。

 モダンな駅舎に建て替わっている。それもその筈、周辺はいい住宅街となっている。かつてはひなびた駅と、一面黒っぽい火山灰の畑が広がるところだったが、変われば変わるもんだと、つぶやきながら歩いていると、頼山陽碑を見つけた。

頼山陽碑

大道平々砥不如
熊城東去総青蕪
老杉爽路無他樹
欠処時々見阿蘇

 大きな道ガ平らに磨いているようで、熊本城を東に去ると総て青い地である。老杉が路を挟んでいて他に樹が無く、その間から時々阿蘇山が見えると、解釈するか。

 文政元(1818)年、長崎からの帰路、竹田行きの途中に詠んだ詩である。さすが当代第一の詩人だ。天草へ渡海したとき、西海の海を詠んだ雲耶山耶呉耶越耶/水天髣髴青一髪/万里泊天草洋・・・の名詩と、双璧を成すといってよい。

 この道を伊能忠敬一行は測量して通った。文化七(1810)年のことである。

 「十二月十四日城下出立、飽田郡立田口より初、坪井村、下立田口村(枝字留毛、枝陣内)、上立田口村枝弓削、字杉山、字大久保(二里四町三七間三尺)、合志郡上津久札村字上原(人家二軒)、同字下原、上津久札村字新町(人家九〇軒)、柳木村、入道村枝南方、桜馬場、塔ノ迫村(人家八軒)、町村(枝若竹)、大津村(内)、大津町止宿前迄測(二里十五町五間)」

「伊能忠敬測量日記」にもそう書かれている。勿論その距離数は正確であり、できた地図を見ても、この辺り街道は定規で線を引いたように直線なっている。今でもその跡をたどることができる。いや、いや私はその跡をたどって鶴崎まで行っているのだ。また歩く楽しみが増えたぞ。

● 日本の道百選

 旧建設省(現・国土交通省)「目本の道百選」の石碑がある。なるほどそれに選ばれただけの価値がある。豊後街道歩きのお勧めの場の一つである。

 また勝海舟の日記より引用して書く。「大津宿より熊城までは小低の路、左右大杉の並樹、この中大樹十四、五丁の並樹あり」。海舟と、そのお供をしていた坂本龍馬も見た杉並木がまだ残っている。

この下を長崎へと急いだのだな。「おい龍馬、どうだこの杉並木は。清正公の偉業は」

 しかし龍馬はその記録を残していないので、何にも答えてくれない。

 原水駅手前の新町を通る。ここでは人家を避けて、鉄道が街道と離れたところを通っている。ずっと街道内に国道と鉄道が平走していたのに、このあたりだけ変わっているのはなぜだ。

 それは寛永十六(1639)年にさかのぼる。細川忠利藩主がここに農民を移住させて新しく村造りを始めた。それで街道筋に人家が建ち、新町と呼んだ。伊能測量日記の中にも、「上津久札村字新町(人家九〇軒)」とある。

 大正初年(1912年頃)の鉄道敷設時にはその集落を避けて通したので離れたというわけだ。

 その駅を通り過ぎたところに四里木跡がある。後、一里足らずで大津宿だ。大津は肥後藩主参勤時の最初の宿泊地であった。                              

(街道歩第一回はここまで)次回につづく


2018/03/06  


豊後街道を行く 第2回

2、大津から内牧まで〔大津〜的石16Km、的石〜内牧〜宮地16Km〕

● 大津宿

 肥後藩主の参勤交代時にはここ大津宿で一泊していた。二泊目は内牧宿で、三泊目は久住宿、四泊目は野津原宿で、五泊目が鶴崎御茶屋で、そして御座船乗船となっていた。つまり豊後街道三一里を四泊五日の旅であった。

出発と到着時は一日に五里と少なめの旅程だったが、その間は七、八里とスピードアップ。私のとても歩けない速さであった。

しかし急ぐ旅人はもっとすごい。長崎へ急行した吉田松陰は三泊四目で歩き通している。坂梨から熊本まで十三里を一日で踏破しているから、何と私の三日分を一日ですませている。

 まあ、急ぐ旅でもないし、あちこちをぶらり見物の旅だから、のんびりと行こう。とりあえず、今日の目的地は的石御茶屋跡までとしよう。その距離四里、途中には阿蘇外輪山越えの二重峠もあるし、楽しみだ。

 出発したら、雨が降り出す。傘をさしての街道歩きとなった。まあ、長い道中にはこんなこともあろう。

雨中の歩行も乙なものである。幸い小雨で良かった。

● 大津堀川

 豊肥線をまたいで街道は鉄道と別れて大津へ入る。したがって道幅も狭まり、大津町内へと進む。ここで旧国道とも別れ町裏へ進む。とうとうと音を立てて清水が流れる川筋へと出た。堀川、上井手である。

 いうまでもなく、農業用水として開削されたものである。阿蘇白川の水を瀬田で取り入れ、延々六里(24Km)、熊本の坪井川まで運んだ。その結果、阿蘇西山麓の水田、一三〇〇町歩を潤した。加藤清正時代に始まり、細川藩主に引き継がれて完成した。

「この辺阿蘇川を引いて用水としたる水あり。……建石あり、清正公水利の為に湊屋重助に命じて、阿蘇川を分けて引かしめ、石の柱六本立てられる由を仮名書きにて刻みつけたり」(『西遊日記』)阿蘇山参拝のためにここを通った桃節山は、この水利に注目して旅日記に書いている。

節山は松江藩校教授で、幕末肥後藩へ招かれた人物である。その記録は当時の世相を知る良い史料となっている。

 この堀川築遺時の排士で築かれたのが塘町。ここは街道に而していたから、旅龍や多くの店軒を並べていた。また名物の銅塘糖(落雁)屋もあった。大津宿の中心となっていたのである。

 また節山の道中記を見る。

 「(十一月朔)大津へ着、伊勢屋庄太郎方に宿す。この家も郷士の由、伊勢屋は仮名なるべし。大津は大分大宿なり、家数は千軒辻もあるよし」

 川向こうの寺への参道には石橋が架けられている。見事な眼鏡橋である。こんな橋が今でも四橋残っている。古くは安永年間(1772〜1781)から文化文政期(1804〜1830)に造られたもので、もう200年以上も利用されているのだ。

 そのひとつを渡って大願寺へ行く。見事な山門を潜る。そこには西南戦争時の弾痕の跡が残っているというが雨中で良く分からなかった。上の円通庵には、芭蕉塚がある。芭蕉百回忌に建立されたもの

 「鳶のいる花の賤やとよあかさむ」

御高札場跡、大津手永会所跡、御茶屋跡、木戸口跡など旧大津宿の中枢部を通る。道幅は5〜6m当時そのままだ。

● 御茶屋跡

 高札場は諸法度や御触書などを掲示した場所。年一回の踏絵が行われたところでもある。この隣に地蔵尊が祭られているが、天明に飢饉で死亡した子どもの霊を弔い、この地蔵堂を建てたという。天明の大飢饉は全国に被害を及ぼしたが、ここも悲劇に襲われたのか。

 手永会所とは、手永、つまり大津周辺五二町村を統治する役所で、明治期の郡役所にあたる所である。その役所が日吉神社鳥居南側にあって、広さ三〇〇〇坪。屋敷内には評定所、学問所、演武所などがあった。

伊能忠敬は文化九(1812)年12月14日ここに宿泊、翌日また測量のために豊後街道を進んだ。

御茶屋とは藩主の宿泊所で、つまり御本陣。敷地一八〇〇坪に主屋一七四坪、別棟七五坪、部屋数二九もあって、威容を誇っていた。

肥後藩の公的な旅館であるから、参勤のたびに肥後藩主が宿泊している。勝海舟、坂本龍馬たち一行は御公儀の用向きであったから、藩の公的宿所で昼食をとったのである。

 日吉神社社司日記(元治元・1864年2月20日)に「公儀役人衆通行、当所昼にて熊本の様参られ候、(中略)総人数五十人の由、重き取扱に御座候。御茶屋会所御客屋に入り候」とある。

 この地に海舟や龍馬は立った。そして賓客としておもてなしを受けたのだな。どんなご馳走であったろうか。

 大津は、その昔戦国時代に合志氏の一族、大津十郎義廉が東嶽(今の日吉神社)に舞鶴城を築いた時から始まる。街道の要地として、大津という地名が伝わる。

それが江戸時代、参勤交代の宿場町となり、さらに堀川による新田開発が進んで肥後三大御蔵のひとつの地となった。このように大津は、阿蘇入口にある政治、経済の中心地として栄えていた。

 簀戸口は宿場の臨時関所である。藩主の参勤など通行の前後に、道の左に竹製の二開扉を立てて、通行者を監視していた。宿場町の出入口に置かれ、藩士が目を光らす。

 町外れに五里木跡がある。草むらの中に、それを示す石碑だけがぽつんと立っている。熊本から20K地点だ。このあたりから広い畑の中を街道は進む。その中にホンダ技研の大きな工場が建っている。周りには団地や住宅地も聞かれて、大津の町が更に発展している。

● 清正公道

 街道は阿蘇へ向かって真っ直ぐ進む。旧国道五七号線と別れて、通る車も少なくなったようだ。

 明治になって、豊後街道がすたれていく。なにしろ阿蘇外輪山を乗り越えなければならなかったので、車時代には向かない。明治十七(1884)年、この二重峠道に替わり、下の道である大津・立野・阿蘇県道が開通した。

これが現在の国道五七号線で、九州横断の幹線となる。しかし今では、豊後街道は県道として整備され、ミルクーロードと称している。国道のバイパスとしてヽまた農業道路となって活用されている。

 外輪山へ向かってだんだん登り坂となる。大津の町が標高100mで、峠鞍部が645mだから、10Kmかけて550mの峠越えとなる。

 高尾野を通る。旧街道が良く残されて、堀切り道となっている。桃節山の道中記に、その記事がある。

「(二重)坂の下より半里計り下りて堀が谷という所あり。ここより自然につまさがりにて先は平地なり。この所より熊本迄の間、左右に大杉を植え並べ、大いなるは四周十二尺より三周余りあり。道は切り下げたるものにて。左右堤高き所に至っては一丈余りあり。

切り下げし道に水さがり悪きを計りしものと見え、道の中高くヽ左右に溝を掘りたり。皆、清正公の時出来し由なり」全くその通りの道がしばらく続く。 

 今、その道の中には芝を植えて公園化して、上から眺められるようになっている。この堀切り道は、いざ戦という時には、下を通る敵兵を上から一斉に撃ちかけることも出来るようにと造られた。清正公の戦略によるものか。

工業団地前に清正公道公園がある。広い街道の半分を利用して、ロードパークとしている。もちろん半分は自動車用の道、ミルクーロードである。

 手にしている二万五千分の一地形図にも、この辺りに「清正公道」との地名がある。加藤清正が初めて肥後に入国した時、この道を通った。それ以来、参勤の道として杉の大樹を植えるなどして整備した。それで清正公様の造った道と呼ぶ様になったようだ。

 清正公道とはどこを指すのか。いろんな解釈があってよくわからない。豊後街道全体をいったり熊本と二重峠間を指したり、地図のようにこの辺一帯、つまり大津・堀ガ谷間としたり、まちまちである。

● 六里木跡

 新小屋という所に六里木跡があった。このあたりの土地の記念碑に合わせてその由来を刻んでいる。それを眺めていたら、老婦人がこられて、六里本のある場所へ案内していただく。

 Iさん宅の庭の一角にその木は残っていた。タブの大本で、回りにある樫などの本々より抜きんでて高々と聳え立っていた。数百年もの問、街道の移り変わりを見てきた大本である。

 ロードパークが終わる所に記念碑があった。説明板があって、「人馬水呑場」とある。

 文化八(1811)年に惣庄屋斉藤形右衛門が、東1Km先から水道を引き、堀が谷と高尾野に水舟(水槽)を置いて旅人と馬の水呑場を作ったと書かれている。さらに水道は大津まで八?延長されて、今でも新小屋や高尾野地区ではその恩恵を受けているそうだ。

 では、惣庄屋さんに感謝して水をご馳走させてもらおう。「うまい!もう一杯」。

 堀ガ谷で自動車道と別れて山道へと入る。いよいよ阿蘇西外輪山越えである。その人口に瓦葺き屋根の案内板があり、それを頼りに進む。かなり坂道となった。しとしとと雨が降る。雨中の坂道はつらい。同行の皆も話すこともなく、ひたすら歩く。

 小一時間歩いたろうか、再び自動車道へと出た。ここは「峠」と地図にも記載されているところ。かつて峠茶屋があったが、今では無人の家が一軒あるだけ。その前を自動車がビユンビユン走り去る。阿蘇・九重間の観光ルートになっているから車も多い。その脇を身を潜めて歩く。


昔は山道には追いはぎが出て、身の危険があったが、現在では自動車ほど恐いものはない。道端を小さくなって歩く。

● 二重峠

 七里木跡があった。林の中に木柱だけが立っている。またそこから山道となり、ほっとする。車の洪水から解放されて、薄ぐらい木立の中をのんびりと歩く。と、視界が明るくなった。幸い雨もあがった。また自動車道となったが、周りは一面草原である。阿蘇外輪山頂に出た。

 「おーっ、ここは大陸だ」 Hさんはうなる。

 三六〇度、草原が広がる。一面、緑のじゅうたんを敷いたようだ。
二重峠の頂上だ。海と出しかない島原に住む者にとっては、ここは大陸だ。九州にこんな大草原があったとは、と改めて阿蘇の雄大さに目を奪われる。

 西の外輪山の地点に目をつけて、街道を開いたわけが良く分かる。ここから北へ小国道が通り、肥後北部へも往来できる。小国地方の農民は、この道を利用して大津まで年貢米を運んでいた。東へ進めば阿蘇谷で、今も昔も阿蘇の交差点である。それで古代からこの道は存在していたようだ。

 二重の名の起こりは、阿蘇国造りに由来する。健磐龍命(たけいわたつのみこと)が阿蘇原の水溜まりを排水するために、ここを蹴り破ろうとしたが失敗したそうだ。良く調べると、山が二重にあったそうで、それでこう呼ぶようになったとか。

 実際に歩いてみると、この峠の頂上とさらに進んだ所にも高まりがあって、二つの峠があるから、そういったのだろう。

 頂上には大駐車場があって、大きな案内板が立っていて、車のお休み処だ。大きな石碑があって、二重峠西南之役戦跡と刻まれている。こんな山頂でも戦いがあったのか。

 明治十(1877)年、薩摩軍四〇〇余人はここと坂の下(阿蘇谷)黒川口に砲台を築いて豊後街道筋を防衛した。三月十三曰、警視隊五〇〇は地元士族有志の応援を得て一斉に攻撃した。

しかし官軍は三四人の死者を出して敗退する。内牧、坂梨を経て大分県側へと敗走した。再度、官軍は七〇〇に増強して四月二十日総攻撃する。今度は薩軍を大津方面へ追い払うことに成功する。これがここでの戦闘の様子だ。

 広いこの草原上で両軍が戦ったとは、これまた大陸的。その喚声が聞こえてくるようだ。豊後街道は人と物と文化を運ぶ道であったが、戦争の道でもあったんだな。歩いていると、その戦跡があちこちに散らばっている。

● 二重の石畳

 阿蘇高原を歩く。雨は明けるが、どんよりした雲のために、阿蘇五岳が見えないのが実に残念である。草原の中に、旧街道が細い道となって残されてはいるか、牧草地に変わり、鉄線で囲まれているので通行不能。

仕方なしに自動車道を歩くと、参勤交代の道(石畳道)の看板が目につく。立ち寄ったら、駐車場も造られていて車のお休み処になっている。街道が、この端から整備されて阿蘇谷まで石畳の道となって続いている。

 標高差225mを1600mかけて一気に外輪山を下るので、坂道には石を敷き詰めて、歩行の便を図った。

50センチ四方くらいの石を幅二間(約4m)に並べ、隙間には芝を植えている。そ壮が延々と。1.6Kも続く。だから石の数は何万個になろうか。

 昔の苦労が偲ばれる。その苦労を噛みしめながら、一歩一歩下る。雨明かりでやっと阿保谷が見え出したが、せっかくの景色も今一つ。もう一度天気の良い目に歩きたい道のりである。この石畳の道も街道歩きのお勧めの場所だ。

 明治の初年、新しく県道を通した時に、この道は見捨てられてしまった。長い間通る人もなく放置されていたが、それがこうして整備されて歴史の道として復活したのである。ありがたいことだ。

● 峠越え

 苦労して峠越えをした人の記録を紹介しよう。

海舟は「二重の峠あり、甚だ高く、峠の道十八、九町、最難所、路、山の脚、殆ど頂上をめぐる」と述べている。阿蘇谷側より登ったのできつかったろう。なにせ200mを一気に登らねばならない。この時、海舟四二歳で同行の龍馬は三〇歳であった。

桃節山は「坂上に登りて阿蘇郡を見渡し候えば四方に山を以てに屏風を立てる如く包み回し、一郡全くくぼみて如何にも古昔は湖水にてもあるべき平をその地勢よく見るなり・・・坂の下より七合計り登りて峠なり」と記している。

 勝海舟や桃節山が見たままの風景を、本当に今も目にすることが出来るのである。阿蘇の自然は時空を超えて大きく存在する。

 何度も繰り返して書くが、豊後街道は肥後藩主の大切な参勤の道で、肥後藩内のメインストリートであった。

それで大事に道は保持されていた。特に阿蘇外輪山越えは、その急坂でおまけに土質がもろい火山灰地であったから、その管理が大変だった。その道普請には農民があたったことはいうまでもない。

 その苦労を物語る遺物がある。「岩坂村つくり」と刻まれた1m余りの石が斜面に横たわっている。説明板があって、道普請に駆り出された農民が夫役の合間に自分たちの村名を刻みつけたものであろう、と書いてある。

岩坂村は大津町の川向こうの村だから、ここから三里もあり、そんな遠い所からも夫役に駆り出されていたのである。まだこの周りにはいくつもの石が転がっている。

さらに下った所に、牛王の水という清水が湧き出ている所がある。阿蘇外輪山上には水が無いので、この水は旅人にとっては命の水であったろう。ここで休憩してのどを潤して峠を越えていったろう。それで、霊地として乙護法を祭り道中の安全を祈ったようである。

 乙護法とは仏法守護の神で、童子の姿で行者に仕えて霊地を守る。それで護法童子ともいわれる。ここでも旅人は手を合せ、一休みして元気をつけて峠越えしていたことだろう。

 今も二体の石仏があって、それには「坂下の和七」や「熊本紺屋町の大坂屋」などと刻まれている。はるか遠い熊本の商人が商用で往来した時、地蔵尊をつくり寄進したのだろう。旅の苦労を物語っている。

● 坂下駕籠据場

 採石場への取りつけ道を横切ってさらに下る。今まで草原地帯だったのが森林へと変わり、坂下りが終わったようだ。

 石畳も変わっている。石畳に水切がある。左手山手からの雨水を右下へ流す排水溝で、石畳を保護する工夫である。道の敷石を低くして、石畳に斜めの溝を刻み、水を早く流そうとするものだ。これまた肥後藩の高い土木技術を教えてくれる。

 さらに下ると、桧の大本があって、「阿蘇町天然記念物・参勤交代の桧」という木柱が立っている。この大木はここに数百年立っていて、ずっと参勤を見届けて来たのだ。歴史の証人である。その話を聞けるものなら是非聞いてみたいものだ。

幅が1m足らずの石橋がある。四、五個の石板を並べて橋としている。川幅が狭いところではこれで十分。これまた街道を守る工夫がなされている。

やっと下り切ったようだ。林の中に、坂下御茶屋跡があり、駕籠据場が復元されている。

藩主を運んだ駕籠舁き人夫もここで交代した。大津手永組から梨坂手永組へ引き継ぐ。

「ご苦労であった」と道中奉行の声が聞こえるようだ。峠越えの皆さんご苦労さん。

● 阿蘇谷を歩く

 「阿蘇」という名は、後で訪れる阿蘇神社に関わる。行幸の天皇が、人家一つないこの広い原野に立って、「この国に人はいるのか」と尋ねた。土地の神、阿蘇都彦と阿蘇都媛か「我ら二人がいます。何ぞ人がいないことがありましょう」と答えた。この「何ぞ」が「阿蘇」というようになったそうだ。

その広い広い阿蘇谷盆地を行く。田植えも終わり一面青々とした稲で覆われている。この風景は何百年も変わらない、阿蘇の、日本の原風景だ。しかし外輪山を見ると、茶色く岩石がむき出しになっている所がある。

二重の石畳の石を取り出した所は、今では大がかりな採石場になっていて、山肌を剥ぎ取っているのだ。

阿蘇は広い。江戸時代でも旅人が驚嘆している。「阿蘇郡にて今、二万八千石の地といへども東西凡十里、広大なりといえども、山野ばかりにて、土人の物語には開田せば阿蘇郡に十余万石も出来るべき平地あり」(『西遊雑記』)

このように古河古松軒は二二〇年前に書いている。土地の人が予言した通り、現在は開発が進み、八万人が暮らしている。米だけでなく畜産など、熊本の大農業地域になっている。

 街道は阿蘇谷北部をほぼ半周して、再び東外輪山を越して阿蘇を去る。その開ずっと阿蘇五岳を眺めながらの歩きだ。その美景に、参勤の駕籠も遅れがちだったそうだ。

 殿塚に八里木跡がある。大きな杉の下にその標示板が立っている。これらの里木は今も歩きの良い目安となる。今日の目的地、阿蘇神社まであと四里か。

 めぐすり石がある。蔦に覆われている大石は年中水がかれることがないという、何とも不思議な石である。いつの頃からか限病の人が詣でるようになって、この水で目を浸して薬にしていたとか。では私も、この水いただきます。

 近くの人家に殉難碑が立っていて、花と水が供えられている。ここの人、山内抑八が西南戦争時に死亡したので、供養しているものである。豊後街道は平和な旅人の道であったが、時代によっては戦さ道にもなっている。合掌。

● 的石御茶屋跡

 的石には御茶屋が残っている。藩主が昼食をとっていた、その家・屋敷が残っている。屋根が葺き替えられているだけで、間取りはそのまま、一段と高くなった殿様御成の間もあるそうだ。阿蘇の山々から湧き出る水をうまい具合に使った池と庭園は、それはそれは見事なものだ。

 この泉水で、二月二十日勝海舟たちも一休みした。

 「的石村あり。ここに領主小休の亭あり、素質、底に山泉一面流る。 北に北山あり、南に阿蘇あり。阿蘇の脚、甚だ広く田野あり」
代々小糸家が勤め、今も十三代ご当主が守っていらっしゃる。

昔の面影を残す御茶屋はもうここだけしか残っていない。貴重な文化財で証人でもある。大切にしたい。

ここに立っていると、その辺りからお殿様が出てきそう。江戸の昔に引き戻された気分になり、ちょっと贅沢な気分になれる。しばしぼんやりとたたずむ。

 御茶屋の水源をたどると、神社にたどり着いた。隼鷹(はやたか)天満宮である。清水がこんこんと湧き出ている。阿蘇の外輪山からの伏流水で、阿蘇に降った雨水が長年かけて湧き出たものである、阿蘇谷にはこのような名水が多く見られる。

 隼と鷹を名に持つこの神社の由来は、藩主の参勤に関わる。

 細川綱利三代藩主が参勤の途中、海上で天候が悪化した。御座船が波に呑まれそうになった時、一羽の自鷹が飛んで来て帆柱に止った。
すると嵐もおさまり、無事航海も終わり上陸できた。綱利藩主はその夜、霊鷹は的石天満宮の化身であるとの夢を見、その霊験あらたかなることを感じて、社殿建立を命じた。歴代藩主ゆかりの神社で、藩主奉納の絵馬や神殿の額などが見られる。

 巨本に囲まれた境内は静かである。歌碑かある。「隼鷹の宮居の神はやぶ中の石のかけにておはしけるかも」

 阿蘇が生んだ歌人、宗不旱の作。昭和十四年にこの地を訪れて詠んだもの。各地に彼の歌碑があちこちあり、「阿蘇の歌人」として、土地の人たちに大切にされている。

 大きな槙の木がある。樹周3.1m、樹高約35m、樹齢約三〇〇年といわれる巨木である。神社建立の綱利藩主お手植えの木といわれている。

● 的石

 的石の名の起こりとなった大石がある。それで地名も「石の前」である。街道左手へ石段を上がった所にその大石は鎮座していた。前に広場があって、山腹に大石が現れていてしめ縄が巻いてある。
 阿蘇伝説の一つがこの石にまつわる話である。

 阿蘇を開いた神・健磐龍命は阿蘇往生岳に登っては、そこからこの外輪山中腹にあるこの石めがけて弓を射る稽古をしていた。お供の鬼八法師はその度ごとに矢を拾っては往生仏へ帰り、何度となく往復していた。

鬼八は足が速かったが、九九回も繰り替えして走ったら疲れ果てて、一〇〇本目の矢を足でけり返した。するとミコトは怒った。鬼八は逃げる。ミコトは五ヶ瀬川まで追いつめて、鬼八の首をはねてしまった。この時に的となったのがこの大石である。それで「的石」というようになったそうだ、この後の話もまだあるが後にしよう。

● 産神社

 外輪山麓を歩いているが、ずっと湧氷点が続く。それを利用する集落が発達している。その一つが産小屋で、水の湧き出す所に神が祭られている。トヨタマヒメを祭る産神社で、昔から産婦の乳もらいの神といわれた。周囲4mの大杉が木陰をつくっている。ひと休みだ。

 参道の橋が新しくなっている。以前は10mの眼鏡橋があったようだが、今ではコンクリート橋に生まれ変わり、その石材が野積みされたまま残っている。復元はできないのか。

 冷水を飲んで汗を拭いていると、境内のゲートボール場が賑やかだ。地区の大会とみえて、多くの人が集まっている。呼ばれて行くと、昼食中のチームがあって、ソーメンやマンジュウ、焼酎をご馳走になり、だべる。

肥後のおばあちゃんたちは元気が良い。しかし、焼酎のお接待には参った。

まだ道中は長いので、酔っては歩けないから、心を鬼にしてお別れする。

 このように歩いていると、祭りに出会ったり、集まりに呼ばれたりとその土地の人たちとの出会いと交歓が楽しい。

● 九里木

 両肥(肥前・肥後)交歓会で口にした球磨焼酎がきき出した。少しポッポしながら歩いていると、九里木跡に着いた。小高い丘が残り、一里山という塚だ。地図上にも一里山とあり、このように呼ぶのはここが内牧から一里の所にあるからだ。なるほど、逆ルートの熊本行きならそういうのかと変に納得。

 豊後街道には一里ごとに里程本があるので、それをたどっていく楽しみがある。

その間一里、つまり4kを一時間という目安で歩くというペースメーカーの役割もある。しかしそのペースもダウンして、一時間以上かかると、そろそろ本日の歩行も終了だと足が教えてくれる。清正公さんはいい道造りをしてくださった。

● 五高道場跡

 この一帯は黒川流域で、見事な水田地帯である。しかし昔は「無田」とい大湿地地帯であった。ここを旅した桃節山は、書いている。
 「内牧より少し行きて右の方に路傍に千町無田というあり。無田は肥後辺にて田に成らざる沼の如き所をいうなり。

この所にくぐ茅生し、茅の中にまむし蛇多くいる。鶴はそのまむしを食してここに巣くう由、今三羽見ゆ」

 街道はその湿地を避けて山手へ通している。その旧道が一里山の先に復元されている。土道で、石畳もある。杉の植林の中を通る。車も通らない道だから、静かで、歩きやすい。

 亀石がぽつんと置かれている。なるほど亀の形をしていて、ちゃんと頭と甲羅がある。ちょうど腰を下ろして休むにはいい場所だ。

 次に観音さんがいらっしゃる。大石に波模様を彫り込んだ石塔が立っている。地蔵祠もあり、たくさんの供え物がある。長く忘れられていた道だから、良く昔のものが残っている。うれしいね。

 五高道場跡と大きな石碑が立っている。つまり現在の熊本大学研修所がこの道下にある。一万坪の広さに1000坪の学生合宿場が、昭和十五(1940)年に開かれた。学生自治会が発案して、地元から土地を無償で提供してもらい、学生と卒業生の奉仕作業で造り上げた施設である。

もちろん今も使われていて、ずっと学生の身体と心の修養に役立ってきた所だ。瀟洒な三〇〇坪の山小屋風建物があったそうだが、今はもう残念ながらない。

(第二回大津〜内牧までは以上) 次回に続く


後街道を行く 第3回

後街道を行く 第3回


3.内牧から笹倉まで

●  内牧宿

 旧道から再び県道に出た。しばらく歩いたら大きなタブの水が目につく。近づいたら菅原天満宮だ。鳥居の横に大きくそびえていた。もうここは内牧宿。御殿様の二泊目の地。街道は右に左にと直角に曲がる。

「内巻(牧)は豊後街道の宿なり。宿の西外に熊本より十里という木あり。これより一里ごとに皆札たてり」と、桃節山が書いている。それが十字路に十里木跡として標示されている。

何年か前までは槙の木があったそうだが枯れてしまい、店の駐車場に変わっている。ここ内牧宿は熊本から十里、豊後街道全行程の三分の一地点となる。

内牧は天文年間(1532〜1555)に、辺春丹波守が内牧城を築いて一帯を支配した頃から始まる。天正年間(1573〜1592)、島津氏が侵入して、ここを始め阿蘇郡内の城がことごとく落ちる。

しかし慶長六(1601)年、加藤右馬允可重(うまのじょうよししげ)が内牧城主として入り、七万五〇〇〇石を賜った。

その後元和元(1615)年の一国一城制によってその城は壊され、加藤氏は熊本へ移り、清正・忠正二代にわたって家老として忠誠を尽くす。

加藤氏没落後細川氏が入国して、城跡に手永会所や御茶屋など諸役所を置いて、阿蘇一帯の統治の中心地とした。今でもその跡として、阿蘇市支所に会所跡、図書館・スポーツ公園に御茶屋跡として伝わる。

御茶屋跡は今でも町のはずれのちょっとした丘となっていて、城の一部、石垣や堀が残っている。それを示す記念碑があるが、碑文の部分が壊されていて読み取れない。誰がいたずらしたのか。これでは由緒ある城跡、御茶屋跡も泣いていよう。

「会所門前横道より南側十間家造禁制」との石柱もあり、町屋を遠避けて造られていたことが分かる。

●  内牧宿の勝海舟

 この御殿には勝海舟たちも宿泊した。そして熊本藩政に感服している。「(二月十九日)内の牧に宿す。この地もまた山中、山泉自由なり。惣て鶴崎よりこの地まで、土地厚瘠、熊領は大材甚だ多し。

我、この地を過ぎて、領主の田野に意を用いしこと、格別なるに歎服す。また人民、熊本領にして素朴、他国の比にあらず」 勝海舟のことは前にも書いたが、さらに続ける。

文久・元治のこの頃(1861〜1865)、攘夷運動が盛り上がっていた。長州藩は、馬関海峡を通る外国船を砲撃して意気を上げていた。

その長州藩を攻撃しようと欧米列強は画策する。それがやがて四力国の下関砲撃となる。この動きを知った幕府は、勝海舟を長崎へ派遣させて外国公使などと交渉にあたらせる。

その命を受けた海舟は、坂本龍馬たち海軍操練所の若者を率いて長崎へ急行した。神戸から航海して佐賀関へ着岸し陸行して、鶴崎から豊後街道を歩き、この内牧に宿泊した。なお、帰路もこの逆コースをたどる。

その時熊本で、坂本龍馬を横井小楠宅に訪ねさせ、小楠の甥(横井大平と左平太)を預かる。彼らはその後、アメリカへ留学して、その一人横井大平は熊本洋学校を立ち上げ、教育に大きな役割を果たした。そのことも付記しておこう。

海舟はこの長崎行きを日記にしたため、今も『勝海舟日記』で読むことが出来る勝海舟は幕臣ではあるがその視野は広く、将来を良く見据えていた人物であったと思う。龍馬を引率したわけが理解できる。

伊能忠敬たちも宿泊した。文化八(1811)年十二月十五日ヽ大津から測量して、五里十九町四十一間三尺と打ち出し、客殿に止宿した。翌日、いつものように出立して小池野村まで測り、坂梨本陣に泊る、また翌年六月二十五日もここに泊って、宮原へ進んだ。

 内牧宿はたびたび大火に見舞われた。中でも文政年間(1818〜1830)には二度も町が全焼した。それで町内に空き地を設けて、火除けの碑を建てている。

下町の火除け碑、猿田彦大神前とヽ新町のそれが今も残っている。それぞれに角口九間とか六間、つまり約12m〜17mで火除け空き地を造るように刻みこんでいる。

町内を歩いていると、荒神さんがあったり、古い造り酒屋があったりと、古い歴史をしのばせる。また、温泉旅館や共同浴場が目につくがヽ江戸時代はそうではなかった。御殿様は温泉でゆっくりしていないようだ。湯山に泉源はあったが、町まで導入出来ず、温泉町となったのは明治以降のことなのである。

 節山は、「内巻にも出湯あり。宿町より少し相離れたる所にあり」と述べているが、入湯したろうか。

●  山頭火句碑

 温泉町と名が売れ出しだのは明治以降で、それから温泉町として栄えていく。多くの文人墨客がやってきた。その中の一人が種田山頭火だ。昭和初年の漂泊の俳人だ。

山頭火句碑に会いに内牧をさらく(歩く)。会う人ごとに尋ねるが、「わからない」の返事ばかり。山頭火もここでは忘れられた存在か。やっと民宿のご主人と出会い、親切に連れて行ってもらう。町はずれのひなびた温泉宿があって、庭先にその碑はあった。

 コスモス寒く阿蘇は暮れずある空  井泉水
 すすきのひかりさえぎるものなし  山頭火


昭和四(1929)年十一月、萩原井泉水門下生八人が阿蘇吟行に出た時、この「ともした(塘下)旅館」へ泊った。

山頭火の句碑は各地にある。街道歩きをしていると、必ずといっていいようにその句と出会う。

  こんなにうまい水がある (島原街道)
  湯壷から桜ふくらんだ (長崎街道・嬉野宿)
  人生即遍路 (四国八十八霊場)


山頭火は現在の旅好きの人にとっては憧れの人である。旅人の気持ちを良く表わしているからだろう。また山頭火とは出会うこともあろうから、今日はこのくらいにしておく。

内牧温泉にはこのように多くの歌人が立ち寄ったので、たくさんの歌碑がある。地元の宗不旱、宮柊二、吉井勇、与謝野鉄寛と晶子の比翼歌碑など。歌碑巡りも楽しそう。

やたらと町内の街道は折れ曲がる。これは清正公の御本陣防衛策なのか。町外れに大きな神社の鳥居が見える。

加藤神社で、内牧を開いた加藤右馬允(うまのじょうよししげ)を祭っている。この山手に高さ三五mの大杉があって、御神木としている。

この脇の道を登ると、大観望へ出る。阿蘇展望第一の地だ。その名は徳富蘇峰が命名した。やはりここ熊本の人だ。

●  霜神社

 街道は黒川沿いに進む。大きな遊水地もあって、黒川流域の整備が進んでいる。平石橋を渡る。千石とは、米の千石も出来る所だということにちなむようだ。

犬塚太次兵衛義元が、正徳二(1712)年、小池、今町、小里、小野田開田のために小里用水を引いた。
その時、黒川を横断させるのに苦労した場所がここ千石である。その完成でこの辺り一帯が豊かな水田地帯となった。それでその名がついた。一面、青々とした稲穂の中を進む。今年も豊作だろう。

正面に阿蘇五岳が広がり、仏様が寝ているお姿にそっくりだ。顔が根子岳、胸が高岳、お腹からわずかに煙を出していらっしゃる。へそで茶を沸かす? その頭の部分に向かって街道を進む。

その広い水田の中を進むと、十一里木跡がある。圃場整備のために動かしたのか、標示石柱は無粋なコックリートブロックの上にのっかっている。

役犬原という珍しい地名の所を通る・阿蘇家の神事、下野の狩に使用した猟犬を飼育したことにちなむ゜この集落の端に、霜神社がある。阿蘇の火祭りで有名な神社である。

ここには、的石で紹介した、健磐龍命と鬼八にまつわる話がある。健磐龍命から追われた鬼八は捕らえられてヽ首をはねられた。その時、「この恨みはきっとはらす。阿蘇に霜を降らせてやる」といい、亡くなったという。

そのために阿蘇では霜の害が続いて、農民は大困り。それを聞いた健磐龍命は、火を焚かせてその害を防いだそうだ。それが火祭りの始めという。

毎年八月から十月まで乙女がこもりて火を焚き続け、十月十八日には火渡りの神事が執り行われる。国の無形民俗文化財にも指定されている。

●  塩塚の道標

 直進すると阿蘇神社、街道は右へ曲がって宮地へと進む。その交差点に道標と石仏が立っている。 高さ2mくらいの石柱には、正面に「阿蘇神社(自是東八丁坂梨迄一里余)」と左面に゛明治九年七月七日栗林権蔵再建」と刻まれていることが読める。

並んで、不動明王像、馬頭観音像ヽ聖観音像ヽ自執石などが立っている。

街道は阿蘇神社を避けて通る。東岳川沿いに進む・農道となって道幅が狭まった所に十二里木跡がある。その先は草道となって、川を渡る。もちろん橋はなく、川底にコンクリート道があるだけ。

 この辺りは火山灰地で軟弱な地盤であるから、雨ごとに洪水となって川を洗゜たのだろう。それで石畳の敷かれた徒歩渡りであったようだ。

 国道五七号線に出た。すぐ宮地の駅である。

●  あそBOY(ボーイ)

 宮地駅に着いたら、思いがけずにSLあそボーイ号がいた。春から夏にかけての土日、祭日に運行しているとのこと。願ってもないことだ。これに乗って帰ることにする。

私たちの世代は、みんな蒸気機関車にあこがれていた。特に同行のMさんはおおはしゃぎである。昔の鉄道少年で、それを今でも引きずり、大の鉄道旅行好き。早速、機関車談義が始まる。

ホームに出て、記念の写真撮影。そしてSL58654号を舐めるように見つめる。黒煙とその匂い、排蒸気の音など懐かしいね。運転士さんと話し込む。四〇代と、意外に若かった。JRでは、蒸気機関車の歴史と伝統をちゃんと継承しているのだな。

「ボーッ」腹の底まで響く汽笛を一声、ガッタンゴットッと動き出す。後方の展望車へ行き外を眺める。線路沿いにはたくさんの人が集まり、手を振っている。今でも蒸気機関車の人気は高い。

この機関車はハチロクの愛称で人気の高いSLだ。大正十一(1922)年誕生と、車体に刻まれている。九州各地を走りまわり、走行距離334万Kであった。

昭和五十(1975)年に廃車になって人吉で展示されていたが、再び復元されてこの阿蘇を走るようになった。

牽引する客車もウェスタン風で、名づけて「あそボーイ」という。運行は昭和六十三(1988)年の夏からで、熊本・宮地間を往復している。やはり阿蘇には蒸気機関車が似合う。阿蘇山の麓を、煙を吐きながら走る「あそボーイ」は一幅の絵になる。

 「ガッタンゴットン、ボオーツ」

あそボーイ号はゆっくりと進む。立野駅に近づいた。ここは阿蘇外輪山の切れ目で、ここの急坂を乗り越すために、線路は三段のスウィッチバックとなる。

阿蘇谷へ鉄道が開通したのは大正七(1918)年のことである。大正になって生まれた宮地軽便鉄道は、大正三(1914)年六月大津駅まで開通し、いよいよ阿蘇の外輪山越えの工事にかかる。

二年後の十一月には立野駅まで通じ、さらに阿蘇谷へ鉄道敷設するために、高度技術を採用した。それが三段式のスウィッチバック方式で1000分の33.3の急勾配を越え大正七(1918)年十一月、宮地駅まで開通出来た。やっと阿蘇谷を汽車は走ることが出来たのだ。

さらに大分県側ヘレールは延びた。阿蘇東外輪山を越すために、長い室坂・坂下両トンネルを掘るなど難工事が続き、やっと昭和三(1928)年十二月に宮地駅・玉来(竹田市)駅間が開通し豊肥線148Kが全通して熊本県と大分県が結ばれた。

車窓の景色を眺めたり、阿蘇の鉄道の歴史などを考えてうとうとしていたら、いつの間にか熊本駅に着た。あそボーイ号ともお別れである。


残念なことに、もう、あそボーイ号はいない。平成十七(2005)年八月二十八日引退した。この一七年間に約五二万人を運んで、人気も高かったが、なにせ、その誕生は大正十一(1922)年で、交換する 部品もなくなり、手造りしなければならないそうだ。

また蒸気機関車の運行にはかなりの経費がかかるからである。今後は「ディーゼルあそBOY」として阿蘇の麓を走るそうだ。また人気も高まろう。

バスで熊本港まで行き、フェリーに乗り換えて島原に着いたら、もう暗くなっていた。
 
●  阿蘇神社

 街道から離れているが、阿蘇神社を訪れる。なにせ阿蘇の神であり、肥後の総鎮守の神であるから、道中安全祈願のためだ。御祭神は健磐龍命で、他十二神を祭る。

この神はいわずと知れた阿蘇国造りの神で、神武天皇の孫神であるそうな。大昔、阿蘇谷は満々と水を貯えた湖水であった。健磐龍命はこの大湖の水を切り落として、美田を開いた。このように農耕の道と国造りに尽くしたという伝説が語り継がれている。

中世以後、阿蘇氏は肥後の大半を領有して大きな勢力を振るう。それで一一世紀以降、肥後一宮と仰がれて肥後の総鎮守神となった。現大宮司は九一代目という。

このように長い歴史がある大社だから見事な社殿と二層の楼門を持つ。どこにもない構えである。

境内に入る。神々しい中に拝殿し、御神恩を頂く。みやげに不老長寿の水といわれる「神の泉」をペットボトルに詰めて出発だ。

昔から多くの旅人が参拝に訪れているが、桃節山の『西遊日記』を読んでみる。

「(宮地に至る)町屋あり、家数百軒余ある由。呉服類を始め、諸品皆相応に備わる。阿蘇大明神の宮あり、参拝す。阿蘇大明神は神武天皇の御孫タテイワタツノ命。

上古、阿蘇山の麓は一円の湖水なりしを、阿蘇大明神ここに来たまい地理を見て、スガル(数鹿流)村より水を切り落とし(スガルの滝則これなり)、水の落したる湖水の痕を開墾して田地としたまい、ついに六万石の田となる。今の阿蘇郡これなり」

●  坂梨宿

 国道を約二K歩いたら、右手へ分かれ道があって、それが豊後街道である。すぐ坂梨宿の入口となる。国道改修時に別に道を通したので、坂梨の町が残った。今でも宿場の町並みやその面影を残している。

町の入口に大きな恵比須石像がある。もちろん材質は阿蘇凝灰岩である。HISTRY・ROAD「豊後街道歴史の道」と、案内板がある。ここも見所いっぱいの町である。

坂梨手永会所跡がある。しかし今では古井戸だけで、隣に坂梨小学校発祥の地との石碑も立っている。天神橋を渡る。肥後の名工が架けた眼鏡橋である。

「弘化四年丁未春吉辰 棟梁八代郡種山手永 石工卯助」親柱にそう刻まれている。あの緑川に架かる長さ37.5mもの大型石橋の霊台橋を造った人だ。

肥後には種山の名工と呼ばれた岩永三五郎たち石工がいて、各地で眼鏡橋を架けていた。その甥に卯助、宇一、丈八兄弟かおり、彼らの技術は古今絶無といわれ、肥後の名工の名をさらに高めていた。

この天神橋を築くために三年をかけたという。約一〇〇個の石を積み上げ、見事なアーチを描いている。以来一五〇年間、多くの人々や車が通り、特に近代になってトラックやバスが通過してもびくともしない。

肥後は石橋職人を多く生んだ所で、彼らの労作が街道各地に残ってい。

●  坂梨宿と伊能忠敬

 町筋から少し離れた南手に坂梨御茶屋跡がある。大きな建物が残るが、住む人もいないようだ。広大なその屋敷の残る姿は痛々しい。

坂梨御茶屋は藩主の宿泊地ではなくなったが、本陣として使われていた。伊能忠敬が測量時に宿舎としてたびたび使用している。

 「十二月十六日、内牧宿出立、黒川沿い、小里村、小池村、小倉村(字黒流、字今町)、竹原村(枝役犬原)、宮地村(字塩塚)、

これより阿蘇神社華表前まで測(細川国印四石鎮座は別記)二里六町三間、同所社人にて中食、阿蘇神社前より初め、坂梨村字古閑、字馬場、滝室坂、

小池野村まで測(坂梨止宿まで二十八町五十二間、合一里二十町二間二尺)、本陣客殿、別宿」

「十二月十七日、(同所逗留、小雨この日大いに寒し)、小池野村より初め、字戸の上、字笹倉(小池野、大利)、村界まで測(一里二十六町四十五間)、帰宿、この夜大曇にて雪あり」

「十二月十八日、(雪後大寒午前より小晴)坂梨村出立」極寒の中を伊能測量隊は豊後街道沿いに測るが、この宿で二泊している。その後測量を続けて久住に泊る。翌年にもやってきて宿泊して、内牧へ去る。

「(文化九年)六月二十四日、上色見村字前野原出立、肥の尾峠(根子岳間阿蘇岳裾)、坂梨村(野坂家中食)、坂梨町(二里五町二間一尺八寸)、止宿坂梨客殿」阿蘇谷東端にある坂梨が、昔から阿蘇地方交通の中心地であることが良く分かる。

またこの地には吉田松陰も宿泊した。

「(二月)十八日、坂梨に泊る」

 しかし、これだけしか書いていない。どの旅寵であったか、もう今では調べようがない。

町内をきょろきょろしながら歩く。というのも、当時の屋号を書いた灯龍風の看板が掛けてあるからだ。大黒屋はどこだ。ここは西南戦争時に薩摩軍の本陣が置かれた所という。

三月に二重峠で敗走した官軍は、大分県側から兵力を増強して坂梨を襲う。明治十(1877)年四月十三日、薩軍を蹴散らし、阿蘇谷へ入る。
 
●  子安観音

 街道の両側を清水が流れる。これまた阿蘇の伏流水だ。その名水を利用した豆腐屋さんがある。おいしそうな豆腐が泳いでいるが、まだ中食には早いと、水だけ頂いて立ち去る。小さな水車が回っている。

側には水車小屋地図があって、盛んだった頃の様子をまとめている。

木喰上人作の子安観音像を拝む。町の大富豪、虎屋の奥方が依頼して刻ませた等身大の観音様だ。

虎屋はそれを天神社境内に堂を建て、子安観音として祭った。すると霊験あらたか、子どもの救い神となった。

それで近郊からの参拝者も多く、今でも子どもの病や母乳不足の解消にと、甘酒を竹筒に入れてお参りする人も多いそうだ。

町中に十字路がある。その道を右へ行くと高森方面へと通じる。

つまり野尻・日向道で、根子岳山麓を越える現在の国道二六五号線。まっすぐ行くと豊後街道。本当に坂梨は交通の要地だ。

町も終わる所が桝形になっていて、坂梨番所が置かれた所である。そこには馬頭観音像や秋葉山大権現板碑などがある。また一里山といって、十三里本もあったようだ。その記念石柱はこの五○○m先、国道端へ移されていた。

余りの坂梨宿歩きが終わった。いい所である。これまたお勧めの道である。国道に出てしばらく歩くと、限前に外輪山の壁が広がる。滝室坂が待ち構えている。

「大坂に坂なし、坂梨に坂あり」

坂梨の地が標高543m坂の上が786mだから、その差250mを3k歩いて越さなければならない。二重峠と比べてどうだろうか。覚悟して登る。

「土人(土地の人)の方言に、大坂に坂なし、坂なし(梨)に坂ありとて、豊後より坂なしに入るは片坂にて険阻の下り一里半」と、古河古松軒は書いている。また高山彦九郎は、寛政四(1792)年、竹田から熊本へ行く時ここを通り、この急坂のことを書いている。

「岩坂を下る事半里計りにして坂梨町なり」

だんだんと高度を高めていく。この道は明治以来も旧県道として残ったから、この所は歩きやすい。道の一部は石畳で固められている。街道の真正面の一段高いところに、祠があった。登ってみたら護法神社である。

護法というが、乙護法のことで、仏法守護の神様のこと。これまた二重峠にあった「ごうさま」のことだ。祠内には木彫りの護法様を祭り、周りには千手観音石像もいらっしゃって、道中の安全を見守ってくださる。

さらに坂道を進む。川沿いに廃道が続く。頭上に岩が迫る。実はこの辺りで道を間違えたのだ。進んだ所が河原で、岩石がごろごろ。なんと前方の壁面に線路が見える。

JR豊肥線の一部で、このために道は行き止まり、歩いてきた道は旧県道であったが、平成二(1990)年の大水害で線路ともども崩壊したものである。仕方がないと、護法社近くまで引き返して休憩。一息ついてそこに立つ説明板を読む。

●  滝室坂

 道を間違えたら、引き戻ることが街道歩きの鉄則だ。そして一休みして考えてみること。

旧道の入口を探していたら、草刈り機の音がする。その人を探して尋ねこの人たちは、この年の夏休みに熊本の子どもたちが豊後街道を歩くために、道普請をしているところという。

熊本では毎年夏休みに、小中学生に地域の文化と歴史を学んでもらおうと、「参勤交代・九州横断徒歩の旅」を催している。 

もう20年以上も続いているそうで、街道沿いの皆さんはこんなふうにサポートしているのだ。ありかたい、地獄に仏とばかりに街道のことを色々聞く。

ここら一帯がこの前の水害ですっかり荒れ果てたから、雑草を払ったりと道を整備しているとのことだ。
ありかたいことだ。

小川を越え、雑草雑木の中を進む。先ほど読んだ説明板を思い出す。

ここには石橋があった。川幅2m深さ2mほどの谷が切り込んでいたからで、そこに長さ2.5m、幅30cmの細長い板石を五、六枚並べて石橋を架けていた。橋の基礎部は石垣で固めていた。

それが明治以降廃道になって、たびたびの水害に遭い、次第に壊されていった。とうとう平成二(1990)年七月の大水害で、跡形もなく破壊されてしまった。阿蘇の地質は火山灰のためにもろいから、雨水でよく流されていた。

手を入れなくてはこのようになってしまうのだ。歴史ある道だから、ぜひ二重峠道のように整備・復元していただきたいものだ。

完全に廃道となり、小川となってしまった旧街道を今度は沢登りだ。急ごしらえのハシゴが架かっている所もある。これは先はどの人たちが作られたものか。感謝して使わせてもらう。

難行苦行、大きく息をはきながら歩く。悪い時には悪いことが続くものだ。カメラを落としてしまった。

それでこの辺りの写真が、一枚も撮れていなかった。その後、写真撮影のために坂梨宿から滝室峠まで歩いたが、廃道を歩くことは止めた。あの難路を一人では行けないと、弱音がでたからだ。

どのくらい苦闘したろうか、頭上から自動車の音が聞こえる。国道五七号線は間近い。しかしそれからもひと苦労。そこへの出口が分からない。

国道からの排水溝沿いに行ったら、やっと出ることができた。滝室坂の強行突破である。古人がいったように、今でも一番の難所である。

●  砲台跡

 阿蘇外輪山上に出た。数軒の店があるだけで見晴台などない。街道が車時代のために大きく変わり、阿蘇の雄大な景色も見られない。

二重の峠ではその美景に疲れも吹き飛んだがと、みんな不満。初めてこの地で阿蘇を眺望した勝海舟は書いている。

「山上より阿蘇岳を見る。この岳に並び立ちたつ高峰あり。猫が岳という。人跡至らず。山の頂上、大石、剣の如く成るもの直立す。

妙義山に比すれば、更に一層の奇峰なり」海舟や龍馬が目にしたと同じ美景を探すが、その地は地区の共同牧草地になっていて立ち入れない。残念。

砲台跡と木碑が立っている。明治十(1877)年、西南戦争の時に砲台が築かれたところ。なるほど阿蘇谷が一望でき、街道筋も見通しだから守衛にはもってこいの場所であっただろう。

今では地区の共有土地となって、牧草や熊笹で覆われている。土地の人三人がここで戦死したと標示板に書かれているが、どんな戦闘であっただろうか。合掌して進む。

●  カヲの墓

 広い阿蘇平原に出たら、平らな道が東へと延びる。少し下り坂となって街道は進む。坂の上というと小集落がある。もうここは波野村(現・阿蘇市波野地区)だ。

波野とは、阿蘇国造りの神・健磐龍命の鼻息で、野原のススキが波のように美しく揺れ動いたからそう呼ばれたそうだ。事実、旅人の記録にも、「阿蘇辺十里四方茅野原と申事之由」(桃節山『西遊日記』)とある。

杉林の中に「カヲの墓」と書いた木の板が立てかけてある。「カヲというジョウモンがいて」と、土地に言い伝えられた人で、藩主がここで休憩した時、お茶を献上した美女だそうだ。その墓なら立ち寄って、お参りしなくてはなるまいと、みんなの意見が一致。

   集落の裏手、杉がうっそうと茂っている地区の共同墓地の中にその墓はあった。正面に観音像を彫り込み、左右背面に「釈尼妙信不退転位 俗名カヲ」「文政十三年寅二月二四日」と、刻まれている立派な墓だ。170年もたつのに、さすがよく祭られている。合掌。

●  四里塚

 道は平道で歩きやすいが暑い。国道をギラギラと太陽が照りつけ、その中を歩かなければならない。難所越えでエネルギーを使いすぎたのか、遅れる人が出始める。Sさんのあごが上かっている。

左手に枯れ川や農道があるが、それが旧道である。 周りは一面野菜畑で、広い火山灰地の畑にキャベツの苗を植え付け中である。

「あれっ、機械植えばい」と、同行のSさんは驚く。
広々とした畑に大型トラクターが次々と苗を植え付けて行く。田植機は見たことがあるが、野菜の植え付けも機械でできるのかと、島原では見られぬ機械化農業だ。阿蘇の農業は、これまた大陸風で、大規模である。

四里塚集落に十四里木跡があるはずだが、何にもない。見慣れた里数木碑がない。バス停名にその名がついているだけだった。

十四里木なのになぜ四里塚なのか。ここが久住から四里にあたるからそうつけられた。この地が久住から移住した人によって開発されたからである。

「道の駅・波野」という大きな施設がある。現在のお休み処だ。波野の村は神楽の里で売り出し、ここにも神楽小屋が建っている。

九月七日に神楽の定期公演開催と、大きな看板が立っている。ぜひ見たいと思っていたら、その願いが通じて、春の観光シーズンに訪ねたら特別公演があっていて、お目にかかることができた。

そうはいっても神楽は夜に見るものだ。雰囲気が全然違う。しかしこれは贅沢というもの。

   村直営のそば屋、農協の野菜直売所、手造り食品の店などで賑わっている。お土産として買いたい物があるが、荷物になるからと、一番おいしそうな山菜飯とヨモギまんじゅうを腹につめ込んで再出発。

●  笹倉

 道の駅からすぐ笹倉に着く。かつては御茶屋もあった所だが、今ではひっそりとした集落だ。その名残が各家の屋号に留まっている。

   細川重賢時代(1747〜85年)に藩財政改革のためにこの御茶屋は廃止された。それまでは藩主の参勤もこの地泊まりであったようだ。またこの宿場町に打撃を与えたのが、西南戦争だ。

   東京府警視隊は三月一日、大分県に着き、豊後街道を進み熊本を目指した。しかし二重峠で押し止められる。大利、産山、笹倉に布陣して兵を立て直して、四月には滝室坂で薩軍を破り、阿蘇谷へ入る。

 二重峠を突破して熊本へと進軍した。この時期、町は焼き払われた。

「知事さんの塔」があると聞き訪ねる。それは町外れの高台に立っている。

   明治の御一新で熊本県が生まれたが、旧藩主はそのまま藩知事となる。ただ名が変わっただけであるが、細川氏は違う。明治三(1870)年、熊本藩知事細川護久の手で藩政改革が行われた。

「村々小前共へ」との書き出しで始まる、知事直筆の減税令の書き付けを彫り込んでいる。あげ米(上納米とは別の年貢)、口米(検査で抜き取る米)、会所並村出来銭(村役人の給与経費)の三つを免除する布告が書かれている。

   旧藩時代の重い負担に苦しんでいた農民を救済するために、重い年貢と夫役から農民を解放しようとの試みである。本年貢の三分の一をカットするという。

   これに感激した農民、特に阿蘇地方の農民は碑を立てて知事を称え、子々孫々まで伝えることにした。それで他国でも、肥後の大減税を目標にと、百姓一揆を勇気づけたといわれた。

   この時期、藩庁は進歩的な実学党が勢力を持っていた。熊本の前途を考えて、農民救済を考えたのである。


   高さ90cmの板碑には細川家の九曜紋を彫り、布告文をそのまま刻んでいる。このような碑が今でも九ケ所あるそうだ。

   滝室坂越えで時間と体力を意外にも消耗したので、ここで本日はおしまい。帰りのバス時間までラジオ体操などして疲れた体をほぐす。                        

(豊後街道を行く第3回はここまで)つづく

・・次回はいよいよ大分県へ・・




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