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豊後街道を行く 第4回
4.笹倉から久住まで ● ヘキ谷 笹倉で街道は再び国道五七号線と別れ、静かな杉林の中を通る。その分岐点に「参勤交代道跡」の標示板が立っている。石畳が一部復元している。 やや道は下りとなって、木陰の中を足にやさしい道が続く。杉並本がある。それほど大木ではないので、後世植えた木なのか。また道は凹地になっていて、昔の様子を伝えている。 十五里木跡を通る。ここは小高い丘になっていて、そこに標示板がある。街道中、唯一残る里程塚だそうで、底面約3m、高さ28m弱の円墳のようになっている。 さらに進むと、茶沸かし場跡がある。駕龍を下ろして一休みした場所であろう。杉林が切れて明るくなった。片俣川橋に出た。ヘキ谷橋である。 ヘキとは壁、境界のことである。ここは川底の深い谷で仕切られている。ここが波野村と産山村の境で、その昔、この辺一帯はうっそうとした木で囲まれて、昼なお暗い場所であった。道に迷うものもいて、魔のヘキ谷といわれた。 通ってきた茶沸かし場付近で、巡礼の女性が参勤の供侍に手討ちにされたそうで、それからというものは、夜毎に巡礼女の泣き声が谷から伝わってくるようになり、夜になると通りがパッタリ途絶えてしまったそうだ。 そこで通りかかった播州の俳人碧松は、その供養と旅人の安全を願って自作の句と弟子たちの句を刻んで道標を建立した。これがヘキ谷の道標である。 高さ1.3mの碑には、「前 熊本・鶴崎道」とあり、側面左右に「ひだり ならきの・なんこう」、「明治元戌辰十二月建 播州龍埜 准南堂碧松」と刻んである。ここは、波野村の本村・楢木野と阿蘇南郷・高森方面の分岐点でもある。 ● 産山村 さらに進み、高原野との分岐点付近に、産山村の里程標がある。里数木が江戸の昔のものに対して、これは近代のものだ。 「役場より8670メートル、標高680メートル」と読める。村の里程標は初めてみた。山里の行政のために村はこのような努力をしているのだ。 道は産山村に入っている。産山とは、阿蘇国造りの神、健磐龍命の孫神・惟人命(これひとのみこと)か生まれた所ということからつけられた。景行天皇の九州遠征時に服従しなかった土蜘蛛(土豪)の住居といわれる洞穴、討伐された地として名が残る「血田」などの話も伝わりヽ神話の時代から続く村であるそうな。 ● 水恩碑 水の苫労話は各地にある。付の開発と発他のために、先人は用水路を切り開いてきた。大津の堀川や阿蘇谷黒川水系にその姿を見てきた。この阿蘇原野でもその事業が行われた。 山道にさしかかる地に、水恩碑が立っている。台石にその由来が書かれている。まさしく「水の恩」だ。 この先、大利川上流から8kの用水路を掘って、この下方の阿蘇外輪山の広い原野に水を引いた。おかげで原大利、原片俣の10ヘクタールが切り開かれた。明治二十四(1981)年のことである。その先人に感謝して建てられた碑である。 道は杉林の中へ進む。この辺りを「戸無し原」と地図にある。そうだろう。広い原野が広がり、人が住んでいる家もなかったのだろう。それでこう命名されたのだ。 ● 大利の石畳 道は下りとなって、大利川へ向かう。この坂道に石畳が残っている。大利の石畳だ。この坂は弁天坂と呼ばれている。石畳は青く苔むしている。人が通らない証拠である。 つづら折りの道をぐんぐん下る。この坂も厳しいぞ。案内板があるので読む。 文化十四(1817)年から四年かけて、久住手永の惣庄屋久住善兵衛を中心に農民たちが公役で造ったものである。それがこうして二〇〇年近く伝えられている。 途中に、日本一の鞍掛櫟があると案内板は知らせる。 樹齢六〇〇年余り、樹高一五回ある。しかし、通りの奥の方にあって高い崖を登るなど、難行が予想されるから素通りだ。 谷の向こう側に、九重の山並みが見える。まもなく豊後の国だ。元気を出して歩こう。 大黒石という大石が転がっている。また御休所跡もある。屋敷跡石垣が残る。人家に近づいた。 北向という集落へ来た。道に向かって殉難碑が立っている。昭和二十九(1954)年建立と、まだ新しい。 これは水害犠牲者と道路工事犠牲者を弔って建てたもの。この大利川の谷間では、ひとたび大雨が降ると、阿蘇原野を鉄砲水が走るので人々の苦労も多かったろう。 ● 国境(くにさかい) 道幅は一間半(約3m)ほどと、昔のままである。街道筋に高く間知石(けんちいし:角錐台の石)を四、五段積み上げた屋敷がある。 土地の素封家、安達家だ。その石垣沿いに、高さ50センチほどの道標が立っている。建立は大正十三(1924)年と新しいが、この時代もまだまだ豊後街道を行き交う人が多かったので造られたもの。 正面に「右 笹倉阿蘇、左 白丹久住」と刻み、「右 原大利、片俣」と側面にある。 集落のはずれに大利バス停がある。産交バスがこの地まで日に二本、運行されている。そういえば、この豊後街道は県道に指定されている。 一里山の標示がある。ここが十六里木跡だが、熊本を随分離れているから、土地の人は里数を数えるより、手っ取り早く一里山(塚)といったのだろう。 大利橋を渡り、玉来川沿いに100mほどいった所からまた登り坂となる。山の中へ坂道が続く。急坂だが石畳が敷かれ、それが保存されている。永瀬(産山)の石畳という。それで歩きやすく、ゆったりと石畳の感覚を足でも味わいながら500mばど歩いたら、坂が終わる。平坦な杉林の中に出た。ここが肥後と豊後の国境だ。しかしその標示もなく、ちょっと寂しい。 「やっと豊後の国に入ったのに、歓迎板のひとつでも出してくれ〜。」と同行のHさんがつぶやく。 その昔は、境の松が植えられていたそうだが、今はもうない。一休みして、よく周りを見渡すと、道を挟んで「鳥獣保護区・熊本県」「休猟区・大分県」と看板が向き合って立っている。旧豊後街道が県境となっているのだ。やっとこれで納得する。 森林地帯を出て、草道を進む。暑い草原道をどんどん進む。 ● 豊後の国入り 今、豊後の国、大分県を歩いている。熊本県側にはよく案内板があって、その地の説明がなされていたが、大分県側にはそれがない。 地図を頼りにひたすら歩く。伊能忠敬もこのようにひたすら測量を続けてこの道を歩いたことだろう。文化八(1811)年、大寒の雪の中であった。 「十二月十八日(雪後大寒、午前より小晴)、坂梨村出立(小池野、大利)村界より初め(字中山)、産山村、豊後国直入郡岡領添津留村字三本松(人家あり)迄測(一里二十一町三十四間二尺)(この所にて中食)、 添津留村字三本松より初め、字米賀、熊本領白丹村字米賀、字福川、(同領)久住村(字一里山)、竹田(岡)街道追分迄測(一里十三町二問)、枝阿蔵師、止宿前迄測(九町六間、合一里二十二町八問)、久住村着、本陣客屋、別宿」 はるか下に玉来川を見ながら、その台地上を歩く。大きな養鶏場を通り過ぎたら三本松である。上述の伊能一行が昼食をとった所だが、人家が数軒あるだけで何もない。掘り切り街道が町道改修のためにプッツリと切られ、草ぼうぼうの空き地として残っている。 豊後街道の名残である。戦後、自動車が通れるように道を改修した時に変わってしまった。歩き専用の道はこんな運命をたどるのか。熊本藩主が通り、多くの旅人が往来した道も草むらのなかにわずかにその面影を残すだけである。 ここには駕龍置き石があると聞いていたが、尋ねる人もなく通過。 ● 肥後領 大分県へ入っだが、明治までここらは肥後領であった。慶長六(1602)年、加藤清正は徳川家康から関ヶ原合戦の恩賞として、小西行長の旧領地をあてがわれて肥後一国の大名となった。 その時、天草郡の領有を断って豊後三郡(海部、大分、直入)内の二万石を頂戴し、豊後国に参勤の道筋を確保した。それが米賀、白丹、久住の地である。今そこを通っている。 米賀に出た。足手荒神社がぽつんと立っている。手を合せて、何の神様なのかとふと思う。立派な県道が街道を横切る。その交差する所に手造りの案内板があり、助かる。トタン板にペンキ書きだから、消えかかっている。目指す久住への道が分かり、ありかたい。 石柱もあって、指道標と刻み、「右 白丹・久住、左 大利・笹倉」。側面には「右 稲葉・産山、左 宮城・竹田」と読める。県道改修時に、土地の人が作ってくださったのだ。 その道標に導かれて歩いていたら、川を渡る。稲葉川だ。下を見ると、川全体が滝となってとうとうと音を立てて流れている。それを跨いで長さ20.5mと大きな眼鏡橋が架かる。大正十三(1924)年架橋の米賀の石橋だ。 町道を別に通したから、この道には車も通らずきちんと保たれている。四本の親柱も欄干も残っていて、うれしい。 白丹を通る。ここは志賀氏の城下町であった。中世、大友氏の一族であった志賀氏が居城・南山城を築いていた。それで町の出入り口に桝形が残り、その名残を止める。後で久住の宿場町を築造した時にここの町屋を移転させたという。 こういう歴史を持つ。それで、「小路史跡一覧表」が町角の民家の璧に掲げられている。 白丹城跡、古戦場が二つ、志賀氏の墓やキリシタン墓碑などと小さい町なのに歴史が一杯つまっている。 街道を外れた杉林の中に、「知事さんの塔」(明治三〈1870〉年の藩政改革の記念碑。熊本藩知事細川護久の手で「村久小前共へ」と減税令を刻んでいる)がある。笹倉でお目にかかったものと同じようで、ここは確かに肥後領、細川様の御領分だったのだ。 ● 神馬・一里山 へとへとになりながら神馬を通る。通ってきた道端には店はもちろん自動販売朧さえ一つもなかったので、お茶一杯飲めなかったからだ。阿蘇東側は、思った以上に過疎化が進んでいるようだ。 街道は谷間へ進む。神馬谷へ向かう。石橋を渡る。神馬の眼鏡橋である。古記録に「水深三尺、広さ五間、橋長六間、幅二間、石造」とある。これまた歴史がある。 今では地区の人たちの生活道路で、車が通ってもいいように、橋上部をコンクリートで補強してある。旧欄干の高さまで橋が埋もれているが、立派にその役割を果たしている。 勝海舟が坂本龍馬たちを引き連れて長崎へ急いだとき、この先の久住に宿泊して、眼鏡橋のことを書いている。 「小流甚だ多く、架する橋は皆石橋、円形に畳み、橋杭なし」 これらの眼鏡橋を見て、谷深い川に橋を架ける農民の営みとそれを支える高い技術に驚いている。天保年間(1836〜43)年に、久住手永の石橋は十一架もあったそうだ。 さらに続けて、「導泉、意を用いて左右数所。林木これが為に繁茂し、稲、粟、皆実るべし。その巧妙、尽力の至る処殊に感ずべく、英主にあらざれば、この挙興しがたかるべし」とも書く。地方の様子をつぶさに見て、その地の政治を賞賛しているのだ。 同行の龍馬はどう見だろうか。この長崎行きを契機に、龍馬は日本の国の大改革へと目を開かせられたようで、師の海舟は、旅の途中途中に感じたことを述べ、教育していったのだな。 欄干に腰掛けて一休み。日を閉じていると、二人が話し合っている光景が見える。 急坂の中に集落がある。一里山だ。入り口に地蔵尊があるが、石龕(せきがん)だけ。お地蔵様はどこへ行かれた。登り切ったところに水田が広がり、一里山石灯龍がある。 街道端に、五、六段の石を積み上げ、その上に石灯龍を据え付けている。一里塚はあちこちにあるが、これは石灯龍を備え付けている。 夜間は火を灯して道中の安全を図っていたのかな。大利で十六里木跡を見て以来、久しぶりに見る一里(塚)だ。それならこれは十八里木跡か。ここから九重連山の眺めがすばらしい。 やっと久住に到着。山を越え谷を渡りと、いやはや疲れた。しかし参勤のお殿様は、内牧からここ久住までが一日のコースであった。つまり七里の旅程で、それを私は二日半かけている。昔の人は偉い。改めて脱帽だ。 (豊後街道を行く 第4回はここまで)つづく |

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