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豊後街道を行く 第4回

4.笹倉から久住まで

● ヘキ谷

 笹倉で街道は再び国道五七号線と別れ、静かな杉林の中を通る。その分岐点に「参勤交代道跡」の標示板が立っている。石畳が一部復元している。

 やや道は下りとなって、木陰の中を足にやさしい道が続く。杉並本がある。それほど大木ではないので、後世植えた木なのか。また道は凹地になっていて、昔の様子を伝えている。

 十五里木跡を通る。ここは小高い丘になっていて、そこに標示板がある。街道中、唯一残る里程塚だそうで、底面約3m、高さ28m弱の円墳のようになっている。

 さらに進むと、茶沸かし場跡がある。駕龍を下ろして一休みした場所であろう。杉林が切れて明るくなった。片俣川橋に出た。ヘキ谷橋である。

 ヘキとは壁、境界のことである。ここは川底の深い谷で仕切られている。ここが波野村と産山村の境で、その昔、この辺一帯はうっそうとした木で囲まれて、昼なお暗い場所であった。道に迷うものもいて、魔のヘキ谷といわれた。

 通ってきた茶沸かし場付近で、巡礼の女性が参勤の供侍に手討ちにされたそうで、それからというものは、夜毎に巡礼女の泣き声が谷から伝わってくるようになり、夜になると通りがパッタリ途絶えてしまったそうだ。

 そこで通りかかった播州の俳人碧松は、その供養と旅人の安全を願って自作の句と弟子たちの句を刻んで道標を建立した。これがヘキ谷の道標である。

 高さ1.3mの碑には、「前 熊本・鶴崎道」とあり、側面左右に「ひだり ならきの・なんこう」、「明治元戌辰十二月建 播州龍埜 准南堂碧松」と刻んである。ここは、波野村の本村・楢木野と阿蘇南郷・高森方面の分岐点でもある。

● 産山村

 さらに進み、高原野との分岐点付近に、産山村の里程標がある。里数木が江戸の昔のものに対して、これは近代のものだ。

 「役場より8670メートル、標高680メートル」と読める。村の里程標は初めてみた。山里の行政のために村はこのような努力をしているのだ。

 道は産山村に入っている。産山とは、阿蘇国造りの神、健磐龍命の孫神・惟人命(これひとのみこと)か生まれた所ということからつけられた。景行天皇の九州遠征時に服従しなかった土蜘蛛(土豪)の住居といわれる洞穴、討伐された地として名が残る「血田」などの話も伝わりヽ神話の時代から続く村であるそうな。

● 水恩碑

 水の苫労話は各地にある。付の開発と発他のために、先人は用水路を切り開いてきた。大津の堀川や阿蘇谷黒川水系にその姿を見てきた。この阿蘇原野でもその事業が行われた。

 山道にさしかかる地に、水恩碑が立っている。台石にその由来が書かれている。まさしく「水の恩」だ。

 この先、大利川上流から8kの用水路を掘って、この下方の阿蘇外輪山の広い原野に水を引いた。おかげで原大利、原片俣の10ヘクタールが切り開かれた。明治二十四(1981)年のことである。その先人に感謝して建てられた碑である。

 道は杉林の中へ進む。この辺りを「戸無し原」と地図にある。そうだろう。広い原野が広がり、人が住んでいる家もなかったのだろう。それでこう命名されたのだ。

● 大利の石畳

道は下りとなって、大利川へ向かう。この坂道に石畳が残っている。大利の石畳だ。この坂は弁天坂と呼ばれている。石畳は青く苔むしている。人が通らない証拠である。

 つづら折りの道をぐんぐん下る。この坂も厳しいぞ。案内板があるので読む。

 文化十四(1817)年から四年かけて、久住手永の惣庄屋久住善兵衛を中心に農民たちが公役で造ったものである。それがこうして二〇〇年近く伝えられている。

 途中に、日本一の鞍掛櫟があると案内板は知らせる。 樹齢六〇〇年余り、樹高一五回ある。しかし、通りの奥の方にあって高い崖を登るなど、難行が予想されるから素通りだ。

 谷の向こう側に、九重の山並みが見える。まもなく豊後の国だ。元気を出して歩こう。

 大黒石という大石が転がっている。また御休所跡もある。屋敷跡石垣が残る。人家に近づいた。

 北向という集落へ来た。道に向かって殉難碑が立っている。昭和二十九(1954)年建立と、まだ新しい。

 これは水害犠牲者と道路工事犠牲者を弔って建てたもの。この大利川の谷間では、ひとたび大雨が降ると、阿蘇原野を鉄砲水が走るので人々の苦労も多かったろう。

● 国境(くにさかい)

 道幅は一間半(約3m)ほどと、昔のままである。街道筋に高く間知石(けんちいし:角錐台の石)を四、五段積み上げた屋敷がある。 
 土地の素封家、安達家だ。その石垣沿いに、高さ50センチほどの道標が立っている。建立は大正十三(1924)年と新しいが、この時代もまだまだ豊後街道を行き交う人が多かったので造られたもの。
 正面に「右 笹倉阿蘇、左 白丹久住」と刻み、「右 原大利、片俣」と側面にある。

 集落のはずれに大利バス停がある。産交バスがこの地まで日に二本、運行されている。そういえば、この豊後街道は県道に指定されている。

一里山の標示がある。ここが十六里木跡だが、熊本を随分離れているから、土地の人は里数を数えるより、手っ取り早く一里山(塚)といったのだろう。

 大利橋を渡り、玉来川沿いに100mほどいった所からまた登り坂となる。山の中へ坂道が続く。急坂だが石畳が敷かれ、それが保存されている。永瀬(産山)の石畳という。それで歩きやすく、ゆったりと石畳の感覚を足でも味わいながら500mばど歩いたら、坂が終わる。平坦な杉林の中に出た。ここが肥後と豊後の国境だ。しかしその標示もなく、ちょっと寂しい。

 「やっと豊後の国に入ったのに、歓迎板のひとつでも出してくれ〜。」と同行のHさんがつぶやく。

 その昔は、境の松が植えられていたそうだが、今はもうない。一休みして、よく周りを見渡すと、道を挟んで「鳥獣保護区・熊本県」「休猟区・大分県」と看板が向き合って立っている。旧豊後街道が県境となっているのだ。やっとこれで納得する。

 森林地帯を出て、草道を進む。暑い草原道をどんどん進む。

● 豊後の国入り

 今、豊後の国、大分県を歩いている。熊本県側にはよく案内板があって、その地の説明がなされていたが、大分県側にはそれがない。
 地図を頼りにひたすら歩く。伊能忠敬もこのようにひたすら測量を続けてこの道を歩いたことだろう。文化八(1811)年、大寒の雪の中であった。

「十二月十八日(雪後大寒、午前より小晴)、坂梨村出立(小池野、大利)村界より初め(字中山)、産山村、豊後国直入郡岡領添津留村字三本松(人家あり)迄測(一里二十一町三十四間二尺)(この所にて中食)、

添津留村字三本松より初め、字米賀、熊本領白丹村字米賀、字福川、(同領)久住村(字一里山)、竹田(岡)街道追分迄測(一里十三町二問)、枝阿蔵師、止宿前迄測(九町六間、合一里二十二町八問)、久住村着、本陣客屋、別宿」

 はるか下に玉来川を見ながら、その台地上を歩く。大きな養鶏場を通り過ぎたら三本松である。上述の伊能一行が昼食をとった所だが、人家が数軒あるだけで何もない。掘り切り街道が町道改修のためにプッツリと切られ、草ぼうぼうの空き地として残っている。

 豊後街道の名残である。戦後、自動車が通れるように道を改修した時に変わってしまった。歩き専用の道はこんな運命をたどるのか。熊本藩主が通り、多くの旅人が往来した道も草むらのなかにわずかにその面影を残すだけである。

 ここには駕龍置き石があると聞いていたが、尋ねる人もなく通過。

● 肥後領

 大分県へ入っだが、明治までここらは肥後領であった。慶長六(1602)年、加藤清正は徳川家康から関ヶ原合戦の恩賞として、小西行長の旧領地をあてがわれて肥後一国の大名となった。

その時、天草郡の領有を断って豊後三郡(海部、大分、直入)内の二万石を頂戴し、豊後国に参勤の道筋を確保した。それが米賀、白丹、久住の地である。今そこを通っている。

 米賀に出た。足手荒神社がぽつんと立っている。手を合せて、何の神様なのかとふと思う。立派な県道が街道を横切る。その交差する所に手造りの案内板があり、助かる。トタン板にペンキ書きだから、消えかかっている。目指す久住への道が分かり、ありかたい。

 石柱もあって、指道標と刻み、「右 白丹・久住、左 大利・笹倉」。側面には「右 稲葉・産山、左 宮城・竹田」と読める。県道改修時に、土地の人が作ってくださったのだ。

 その道標に導かれて歩いていたら、川を渡る。稲葉川だ。下を見ると、川全体が滝となってとうとうと音を立てて流れている。それを跨いで長さ20.5mと大きな眼鏡橋が架かる。大正十三(1924)年架橋の米賀の石橋だ。

 町道を別に通したから、この道には車も通らずきちんと保たれている。四本の親柱も欄干も残っていて、うれしい。

 白丹を通る。ここは志賀氏の城下町であった。中世、大友氏の一族であった志賀氏が居城・南山城を築いていた。それで町の出入り口に桝形が残り、その名残を止める。後で久住の宿場町を築造した時にここの町屋を移転させたという。

 こういう歴史を持つ。それで、「小路史跡一覧表」が町角の民家の璧に掲げられている。

 白丹城跡、古戦場が二つ、志賀氏の墓やキリシタン墓碑などと小さい町なのに歴史が一杯つまっている。

 街道を外れた杉林の中に、「知事さんの塔」(明治三〈1870〉年の藩政改革の記念碑。熊本藩知事細川護久の手で「村久小前共へ」と減税令を刻んでいる)がある。笹倉でお目にかかったものと同じようで、ここは確かに肥後領、細川様の御領分だったのだ。

● 神馬・一里山

 へとへとになりながら神馬を通る。通ってきた道端には店はもちろん自動販売朧さえ一つもなかったので、お茶一杯飲めなかったからだ。阿蘇東側は、思った以上に過疎化が進んでいるようだ。

 街道は谷間へ進む。神馬谷へ向かう。石橋を渡る。神馬の眼鏡橋である。古記録に「水深三尺、広さ五間、橋長六間、幅二間、石造」とある。これまた歴史がある。

 今では地区の人たちの生活道路で、車が通ってもいいように、橋上部をコンクリートで補強してある。旧欄干の高さまで橋が埋もれているが、立派にその役割を果たしている。

 勝海舟が坂本龍馬たちを引き連れて長崎へ急いだとき、この先の久住に宿泊して、眼鏡橋のことを書いている。

 「小流甚だ多く、架する橋は皆石橋、円形に畳み、橋杭なし」
 これらの眼鏡橋を見て、谷深い川に橋を架ける農民の営みとそれを支える高い技術に驚いている。天保年間(1836〜43)年に、久住手永の石橋は十一架もあったそうだ。

 さらに続けて、「導泉、意を用いて左右数所。林木これが為に繁茂し、稲、粟、皆実るべし。その巧妙、尽力の至る処殊に感ずべく、英主にあらざれば、この挙興しがたかるべし」とも書く。地方の様子をつぶさに見て、その地の政治を賞賛しているのだ。

 同行の龍馬はどう見だろうか。この長崎行きを契機に、龍馬は日本の国の大改革へと目を開かせられたようで、師の海舟は、旅の途中途中に感じたことを述べ、教育していったのだな。 欄干に腰掛けて一休み。日を閉じていると、二人が話し合っている光景が見える。

 急坂の中に集落がある。一里山だ。入り口に地蔵尊があるが、石龕(せきがん)だけ。お地蔵様はどこへ行かれた。登り切ったところに水田が広がり、一里山石灯龍がある。

 街道端に、五、六段の石を積み上げ、その上に石灯龍を据え付けている。一里塚はあちこちにあるが、これは石灯龍を備え付けている。
夜間は火を灯して道中の安全を図っていたのかな。大利で十六里木跡を見て以来、久しぶりに見る一里(塚)だ。それならこれは十八里木跡か。ここから九重連山の眺めがすばらしい。

 やっと久住に到着。山を越え谷を渡りと、いやはや疲れた。しかし参勤のお殿様は、内牧からここ久住までが一日のコースであった。つまり七里の旅程で、それを私は二日半かけている。昔の人は偉い。改めて脱帽だ。

(豊後街道を行く 第4回はここまで)つづく


豊後街道を行く 第5回

5.久住から野津原まで

●  久住宿

 久住宿は交通の要所にある。北へ延びる小国街道、南へ竹田街道、そして東西へ豊後街道が横切る。この地に目をつけたのが加藤清正で、肥後を拝領した時に、ここ久住と野津原、鶴崎など豊後国内の地を手に入れ、御茶屋を置いた。

町内には本町、横町、堀木町、向町、新町などの町筋があって、本町構口から新町構口まで七町三七間あった。竃数八二軒と記録にある.『豊後国風土記』にも「救簟の郷」(きゅうたんのさと)と記述されているように、古くからの要地であった。

 豊後街道と竹田街道はわずかに合致していて、その中ほど本町の西側に久住会所があった。今ではその跡に標示が立っているだけ。この辺りは今も桜馬場といって町一番の繁華街である。旅館であっだろうか古い大きな二階造り建物も残る。

 会所とは、この辺り一帯を統治する役場のこと。久住が地域の中心だったことを示す。ここに久住手永が置かれ、久住、白丹、産山、波野などの村々を管理していた。その頭が惣庄屋で、幕末には郡奉行を兼ねていたそうだ。

 本町の角、北側に御茶屋があって、その跡は役場(市支所)と文化会館になっている。今では石碑だけが残っている。ここは町の背後、高台にあって、久住の山並みが一望できる良い場所である。

下の方を小国街道が通る。北方へその道をたどると、久住の山々を縫って小国や日田へと通ずる。その道には当時そのままの松並木と、復元街道があるそうだが、通りから外れている。帰路、車中からでも眺めるか。

 ここに藩主は参勤時に宿泊した。藩主の寝所を初め、多くの建物が石垣の上の高台に造られていた。城を思わせるようなお屋敷であったろう。

 ここに勝海舟、坂本龍馬たちも宿泊している。

「(文久四年十一月十八日)久住に宿す。細川候の旅亭。惣体葺屋(建物すべて茅葺きの家)。素朴、花美の風なく、庭中に泉を引き、末、田野に流る」

 そのすばらしい様子を簡潔に述べている。

 ここの前、三叉路を東に進むと、これが豊後街道。横町と向町との境となる田町川を渡る。そこにも眼鏡橋があった。コンクリートで補強されてはいるか昔の橋だ。

「水深一尺五寸、広さ一間、橋長六間、幅二間、石造」であった。近くに造り酒屋もあって、逗子造りのなまこ壁の大きな建物と、宿場の面影をよく残している。

●  境川

 正法寺下から左手に旧道は通る。これが豊後街道で、歩いていたら町民クラッドへ出た。ここは縄文時代後期のコウゴー松遺跡で、九州の縄文後期を象徴する磨消(すんけし)縄文土器が出土した。その横に街道が残っている

はずだが、発掘調査とその後の運動公園化のために破壊されたようだ。
 大回りしてその出口へ進み、石橋を渡る。七里川橋で、久住川に幅二間三尺(4.7m)、長さ五間(9.6m)で架かる。

掘り込み路でまさしく清正公道である。町道と出会う。左に進むと納池公園で、直進すると境川だ。

 ほどなく進んで境川橋を渡る。旧道にこれまた眼鏡橋があって、草むらに覆われている。阿蘇外輪山の麓は、川が深く土地を刻みこんでいる。それで堅固な石橋を架けている。もう何本の石橋を見てきたろうか。

境川とは、この川を境に肥後藩と豊後岡藩の国境であったことに由来する。ここまでが熊本領、この向こうは岡領である、。
やっと豊後の地を踏んだことになる。何度も書いているがヽ加藤清正の御威光がここまで及んでいたわけだ。

この草に覆われた小さな橋はその様子を長い間見てきたことであろう。

●  納池

 境川を1.5kごほどさかのばった所に、大分県指定名勝「納池公園」がある。

 この公園は、明治六(1873)年太政官布告によって、東京浅草、上野、京都嵐山、などとともに地域公園となった由緒ある地である。また江戸初期には、加藤清正の遊園地でもあったそうだ。もっと古くは、白丹城主志賀氏が遊んだ地でもあるとか。

 公園には九重連山からの伏流水の湧水池となっていて、南北250m、東西50mの細長い公園をかたちづくっている。

その三分の一は池である。周囲は杉や樫、タブなどの巨木で覆われていて、壮麗な地である。その水源に納池神社が祭られている。御神木は高さ20m余りの巨木である。

 静かな池は朝もやにけむる。その中に一人のカメラマンがいて、この光景をカメラにおさめようと粘っている。私もまねてシヤッターを切った。

●  老野神社

 また街道に戻って、今日の目標である今市宿を目指す。街道が消えている。県道の向こう側にその道があるはずだが、その入口が分からない。

山の斜面になっていて掘り込みのそれらしい地があるが、草と雑木に覆われている。仕方がないと、大回りだ。

 また湧水地があって、老野神社湧水だ。神社の裏手には老野水神を祭っている。この地は岡藩の土地だから、それで神社の屋根には中川家キリシタン紋がついている。こんこんと水が湧き出ている。
当地の名水なのだ。自動車で水汲みに来ている人もいる。一杯飲んで街道に戻ろう。

 中川氏は七万四〇〇石。出は播州三木で、秀成が文禄三(1594)年に入封して、岡城普請を始める。

以来、明治まで岡城を中心に一帯を統治する。この岡城の元は緒方氏が築いた臥牛城から始まる。志賀氏が入城して改修、岡城と称して代々居住していた。

天正十四(1586)年の島津氏猛攻には城を死守して、豊臣秀吉から感状をもらっている。しかし主君の大友義統の失脚で城を去る。

●  古屋敷・四つ口・追分

 道端に石仏があり、珍しいことに石龕の中に鎮座している。用いている石は阿蘇凝灰岩だ。この石は加工しやすいから、土地の人たちが手造りして祭ったものか。

 街道は500〜600mの台地上を走る。古阿蘇山の広大な裾が、長年の雨風に刻まれて残った所なのだ。そこに街道が開かれたのである。またそれを自動車時代に合うようにと拡張し、直線化してアスファルトで固めてしまった。申し訳程度にロードパーク「肥後街道」が造られて、車族のお休み所となっている。仕方がない、それでも見て進むか。

大分県側では豊後街道を肥後街道と呼んでいる。

 古屋敷を通る。ここは肥後藩主の休憩場所だと伝えられている。茶屋場は畑地に変わり何にもなし。殿様の井戸と呼ばれる泉があったが良く分からない。

この泉の上に一里木という松の古木があったそうだがもうない。地蔵尊が祭られているだけ。それも道路改修時に移動してこの地に祭られている。わずかに旧街道の名残が杉山や雑木林の中に見られる。

 道は次に四つ口を通る。その昔、ここらは人家も何にもないところだったので盗賊が往来を妨げていたそうだ。

肥後藩士も往来に不便を感じることもあったから、岡藩主は領内での問題発生を恐れて、慶安三(1650)年に栢木の村などから農家を移住させて店を開かせた。文化年間(1804〜18)には在中盗賊目付も置かれるほどになったという。

 四つ口。なるほど、街道と長湯温泉・竹田と交差する地だからそう名付けられたものか。後で述べるが、種田山頭火はここを通って長湯温泉へ行乞した。

 次は追分。ここは竹田の城下への分かれ道。歩いていても、案内板はないし、説明・解説板が一枚もない。
この地はどんな所と、訪ね歩く楽しみがない。地図が頼りで、読み解く他になし。

●  神堤

 一里ごとに置かれていた里程木もない。豊後側では造られなかったのか。一里山がそうなのか。神馬にはその石灯籠があったが、十六里木跡(大利一里山)が最後であった。すでにこの辺りは二十里跡ぐらいだろう。

 人家の多い集落を通る。神堤だ。ここは岡藩の御荼屋があった所という。今でも「丸一」などと屋号を持つ家もあるそうだ。しかし、今では町は変わった。その面影もなく、大分・久住間を走る自動車の通過点に過ぎない。

 神堤は岡藩主中川氏の休憩所であり、宿場町の役割を持っていた、町の長さ十八町三六間(約2k)、道幅三間(5.7m)の両側には水路もあった。寺下には大きな井戸もあって旅人ののどを潤していたそうだ。

町中央部南側に庄屋屋敷、向かい側の山麓に常証寺、その山奥にキリシタン墓碑がある。しかし県道改修によってその町の良さが失われてしまったようだ。

●  豊後のキリシタン墓碑

 尋ねたその常証寺のご住職に案内されてキリシタン墓を見に行く。草刈り作業を中断して案内していただく。
よかった、とても一人では行けないところだ。ありがたい。

 地区の共同墓地と近くに杉林の中に三〇基あまりが苔むして眠っていた。長さ50cmほどの屋根型状で、上部に十字の跡が見られる。
正面には漢字で碑文が彫られている。島原地方のキリシタン墓はかまぼこ型が多いのに、それとは趣が違う。よくぞ数多く残ったものだ。
 豊後国も大友氏の時代からキリシタン文化が栄えた。家臣の一人朽網氏が領有する長湯地方は一帯にはキリシタンも多く、その痕跡が残る。

この北側芹川流域にはINRI*とローマ字入りT字型の墓が残っている、禁教時代には、万治三(1660)年から天和二(1682)年にかけて「豊後露顕」といわれるキリシタン召し捕りで、五〇〇人が処刑されたが、神堤の信者はこの山奥にひっそりと信仰し、祭った。
 ご住職のおかげで、いい勉強をさせてもらった。面白味の少ない街道を、陽に照らされて歩いたので疲れた。久住から13kの神堤で足を止める。長湯温泉へ回って帰ろう。

*INRl=Iesous Nasarenus Rcx Iudaeorun (ナザレのイエス、ユダヤの王)を意味する語で、 磔刑(はりつけけい)にされたイエス像の十字架に刻まれた言葉。そこからイエスを表わす言葉となる。

●  再び、山頭火

長湯(湯ノ原)は古くからの温泉場。町営温泉場の小公園に山頭火の句碑が立っている。

「壁をへだてて湯の中の男女さざめきあふ  山頭火」

山頭火は昭和五(1930)年十一月八日、竹田からこの温泉場に着いた。その時に詠んだ句なのだ。

「いちにちわれとわが足音を聴きつつ歩む」

山頭火は放浪の中で句集と日記を残している。この湯ノ原の様子も『行乞記』(昭和五年)に詳しい。

「雑木林と水声と霧の合奏楽の中を歩き湯ノ原に着いた。ここは片田舎だが、さすが温泉場だけのよいところもある。殊に浴場はきたないけど、開放的で大衆的なのがよい。着いて一浴、床屋から戻ってまた一浴、寝しなにも起きがけにも、またまた入浴のつもりだ!」と、ここが随分と気に入り、温泉に入り浸りだ。

日記はまだ続く。「とにかく私は入浴する時はいつも日本に生まれた幸福を考へずにはいられない。入浴ほど、健全で安価な享楽はあまりあるまい」

 温泉の効用と、その楽しみを説いている。全く同感だ。本当に温泉はいい。身も心も湯の中に溶け込んでいく快感はなにものにも代え難い。山頭火もそんなに温泉好きだったのか。温泉好きの私にはたまらない大先輩だ。

 その夜は芹川の瀬音を聞き、それを子守唄として眠り、湯と酒とそれが私をぐっすり寝させてくれたと、いっている。

そして翌朝七時出発して、湯の平温泉を目指す。こうして阿蘇行乞が終わり、一句残している。この時、山頭火四八歳。

 「阿蘇がなつかしりんどうの花」

 湯ノ原は名の通り、「湯の湧き出る所」で、古くから知られていた。岡藩主の御湯屋が置かれていたし、藩主や家臣らがたびたび湯浴びに訪れている。今でもその名残があり、御前湯がある。

 帰りの車を待つ間、川岸で休んでいると、川中に露天風呂が見える。子連れの若いおとうさんが入湯している。

もちろん側にはおかあさんが見守っている。親子ともどもはしゃぎまわっている。私も入りたいが、帰りの時間が心配で、手足だけ温泉に浸かり、湯をペットボトルに入れて立ち去る。                  
●  吉田松陰

 街道歩きは、神堤から再スタート。何せ島原から車を使い、フェリーで熊本へ渡り、阿蘇、久住を走らせて、

ここまで来るのに時間がかかり、出発は午前十時となる。だんだん歩く時間よりも車で移動の時間が長くなる。

 前回に続き、面白昧のない道を歩く。途中に地域の様子を知らせる案内板などが一つもないから、ひたすら歩くだけ。案内板があると、そこへ立ち寄って、ゆっくりと見学できるのだが、そんなところがよくわからないのである。

 大分市に入り、野津原町馬の背という小集落を通る。なるほど、馬の背のように、北側は芹川と南側は七瀬川に挟まれた地にあるからか。

 小無田を通る。何もない小さな集落だが、何とここは吉田松陰が宿泊した地である。その跡を探すがわからない。

石仏があって集落の古さを示す。集落のはずれに、水汲み場があり、宿場としての痕跡をとどめている。大きな家を見つけたので、声をかけるが返事がない。残念ながら調べようがないと、出発。由緒あるところなのに、よく整備された県道が通るだけ。

ここがどこなのかも知らない車族がビュンビュン通る。

 松陰先生のことは研究が進んでいるが、この地を長崎へ急いだことをどれだけの人が知っていようか。

 嘉永六(1853)年、アメリカ艦隊に続いてロシア艦隊が長崎へ入港したと聞いた松陰は、この道を急いだ。

十月十七日に鶴崎に上陸して宿泊。次はここ小無田に泊り、坂梨に泊まり、翌々日にもう熊本に到着している。つまり豊後街道を三泊四目で突き切っている。江戸を出てひと月で熊本に着いた。

そして熊本では、横井小楠(よこいしょうなん)や宮部鼎蔵(みやべていぞう)たちと連日論議する。いずれも当時一流の思想家で、国の行く末に危機感を持っていた人物だ。

 なかでも小楠とは三度も会っている。これは後のことになるが、小楠は甥の大平と左平太をアメリカ留学へ送り出すときに詩を与えた。

    明尭舜孔千之道
  尽西洋器械之術
  何止富国
  何止強兵
  布大義於四海而巳


 (尭、舜や孔子の説く理想社会や人としての道を明らかにし、西洋の学問や技術を究めよ。それは国を富ませ、軍事力を強めるだけでなく、大義を日本にもたらして世界に広めるためである)

 重商主義的な富岡強兵論に基づく改革派で、実学党を結成して藩政改革を推進したり、幕府に建議したりと、問明的な学者であった。

 それにしても、なぜ長崎へ急行したのか。アメリカに次いでロシアも来航したその外国勢力を直接目にしたかっただけか。その外国へ行ってみたい願望のためだったのか。

 黒船ショックを頭に、はやる気を押さえながら松陰はこの地で一夜を過ごしている。その旅寵はどこなのか。分からぬままに、残念ながら立ち去らねばならない。

●  丸山八幡宮

 暑い中、今市はまだかいなと、つぶやきながら歩いていたら、茶屋場という地に着いた。茶屋があった所なのか。

このあたりは高原だが道は低い所を通る。掘り割り式の清正公道特有の造りである。両側の土手は3〜4mの高さで続く。
しかしこの地は岡領なのになぜだろうか。
 
 石合原を通過。ここは縄文時代の生活の場であった所。発掘調査が終わり、歴史資料館に展示されているようだが、素通りして先へ急ぐ。

 今市宿に着いた。その人口にあたる所に丸山八幡宮がある。元禄十三(1700)年に建立された。立ち寄ってみたら、すごい。
高さ8mあまりの大楼門が聳え立つ。それが見事な木彫りで飾られているのだ。

 上地の豪商松田庄右衛門尉長次(しょうえもんおじょうながつぐ)が享保五(1720)年に寄進して建立されたもの。

 破風の飾り彫刻や壁面の二十四孝の人物像と酒造り作業図などが透かし彫りされて、それはそれは見事という他に言いようがない。松田家の子孫繁栄と父母の長寿を祈願して、この楼門を寄進したのであろう。
 この丸山八幡宮は加藤清正が創建したという。久住宿と野津原宿の中間地点であるこの地に菅原道真を祭り、加護をお祈りしたそうだ。
 大杉に覆われた境内は神々しく、昔の旅人がした通り道中安全を祈願して参道を下る。

●  今市宿

 今市宿は岡藩の宿場として中川氏が文禄三(1594)年、岡城に入った時に設けられた。町は上町と下町からなり、ひと筋続きの宿場町である。

 今も続く石畳を歩く。道幅8.5mの中央部に2.1m幅に平石が敷き詰められている。それが町全体、660mにわたって残っているこれはすばらしい。

今では両側約3mをアスファルト舗装して車も通れるようになっているが、よくぞこれだけのものを残したものだ。

上町の上構から下町の下構まで五町六間(約590m)に切石を敷き詰めたものがそのまま残る。

 町の中ほどに、桝形があって道を二度直角に曲げている。これを信玄曲がりという。どこにもある宿場町の特徴だが、ここでは、その部分に逃げ道を造り、火除けヤブ(竹林)を植えている。

案内板を見ると、道筋に四○もの店や旅籠があって、その中央部に代官屋敷と御客屋があった。岡藩主は、この町の屋敷年貢を免除し、庄屋以下由緒ある家には脇差御免などの特権を与えて保護していた。肥後藩主も参勤時にはここで休憩していた。その時、岡藩主は役人を派遣してソバの接待をしていたそうだ。

 昭和五十三(1978)年に県道バイパスが出来たので、車時代になってもここは残された。五年後にはこの石畳道もリニューアルされて、伝えられた。あちこちの旧街道が時代と共に破壊されていくのに、これほど大規模に伝えられている所はない。
 町を出た。正面に大きな看板がある。

 「岡藩今市宿場跡」「豊後府内へ六里、鶴崎へ八里」

 また、県道側壁に参勤行列図が描かれている。この絵のように御殿様は通過したのだな。しばらく目を閉じて、その様子を想像する。

 さあ、鶴崎まであと八里だぞと出かけたら、バリバリと騒音が響く。進むにつれてさらに大きくなる。何と、この穏やかな山村に自動車のサーキット場が出来ている。今日は日曜日で、多くの車族が集まり、スピードを競っている。さしずめ昔なら、馬くらべか。

●  堪水(たまりみず)

 ほどなく堪水集落を通る。集落裏手ヘー間道が残る。これが旧街道だ。県道栢木・野津原線が集落を避けて東側を通ったので古い道筋が残った。かつて石畳もあったそうだがもうない。しかし用水路が道端に残り、とうとうと清水が流れている。
側には海舟も眺め驚嘆した「三渠の碑」がある。

 「野津原宿より出ずれば山路、往時この宿の村長三輔なる者、山中より水源を引き、三渠を引く。これより古田二十余町、新田三余町を得たりと。その事業を記して碑あり」

 三畳ほどもあろうか大石が立っている。これは驚きだ。各地で記念碑や頌徳碑を多く見てきたが、これはどのものはない。水を大事にする村人の感謝の気持ちがいっぱいつまった碑である。

 谷村手永惣庄屋工藤三助とその孫弁助は、元禄六(1693)年から、ここの西方はるか下を流れる芹川の上流、鑰小野から井手を開削した(鑰小野井路)。また大龍井路(たいりゅういろ)、提子井路(ひさごいろ)の二本を引く。

宝永四(1707)年完成し、その受水面積一〇〇〇町という大灌漑事業を成し遂げた。嘉永六(1853)年、この用水路の測量と工事にあたった工藤三助を称えて、大きな頌徳碑が立てられたのである。

 堪水から県道を離れて田の口へ山道が通る。水路が道上を横切る。目動車が通れる道を作るために切込み、空に架けたもの。これも三渠の一つか。街道は山をぐるりと回ってハゼ山へ向かう。つまり七瀬川の急斜面に道が通せず、このように大回りしたもの。

さらに道はヘアピンカーブを描いて一気に七瀬川流域へと出る。

 このあたりの古い地図を見ると、かなり道が複雑。それが県道敷設・改修時に相当壊されて直線化したが、その面影が返の側に杉山となって残っているところもある。

 土取集落を過ぎる。ここには旧街道が一部残り、人家をかすめるように通る。しばらくのんびりと歩ける道だ。

 道端にお地蔵様がボツリと立っている。瀬戸のほれ地蔵という。石の粉をかけると、恋の願いが叶うと、説明板にある。それでお地蔵様も削られて、お顔もはっきりとしない。

身を粉にして恋の成就に尽くしていらっしゃるのか。お痛々しい。キティちゃんがお供えしてある。子どももお参りしたのかな。もう今更と思うが、手を合せて通る。

●  矢貫の石橋

 矢ノ原から竹ノ内には旧道が残る。二山一谷を通る浜所だったので見放されて、国・県道から外れたのである。おかけで歩く人にとってはよかった。街道歩きで、こんな畑道や山道になるとほっとする。
車に煩わされることなく、畑道をのんびりと歩く。二つ目の坂へ差しかかるところの小川に石橋が残っていた。一枚石を用いた橋で、矢貫の石橋という。

 川幅はそれはどないが、長さ二びあまりの石材を何本か渡し、橋脚にも大きな角石を用いてがっしりと積み上げている。それで今まで残ったのだ。すごい。これまた感動だ。

 また山へさしかかる。畑の中を折れ曲かって登る。往時をしのぶ石畳が残っている。伊塚の石畳である。と、歩いていたら道一面が雑草に覆われている。つまり廃道となってしまった。

麓の人に尋ねたら、もう通れないとのこと。登り切ったところにお地蔵さんも祭られ、集落がひと眺めできたそうだが、残念ながら、引き返さねばならない。

昔はこのような難所には通行の便利さを考えてこのように石畳道が造られていた。それが今ではほとんどが忘れられたり、破壊されてしまった。

 国道へ出て歩いていると野津原中央公民館前に出た。ここへ先はどの山道が通じていたそうだ。それらしい跡も見られない。道はすぐ七瀬川と出会い、渡ったところが野津原宿だ。

(街道歩き第5回はここまで)、つづく

豊後街道を行く 第6回(最終回)

6.野津原から鶴崎まで

●  野津原宿

 街道はずっと下り坂。標高一〇〇m台になった。久住が五〇〇mぐらいだったから、かなり下ってきたことになる。道は古阿蘇舌状台地の末端を通り、七瀬川と出会う。阿蘇の外輪山から東流してきた川である。
 この川に市ノ瀬橋がある。その昔は徒歩渡りで、大水の時だけ舟渡しであった。

ここから野津原宿が始まる。ここは七瀬川が蛇行した河岸段丘上に開かれた町である。国道から離れて左折したら、そこに旧街道が残り、宿場の面影がある。ここは肥後藩領であって、藩主の参勤時の宿泊地であった。

 加藤清正が肥後一国五二万石を徳川家康から拝領したとき、小西行長の旧領である天草地方を断って、その代替地としてこの野津原など豊後街道筋に二万石の土地を得た。そしてこの先、鶴崎を瀬戸内海に向けた海の玄関として中央との交通路として確保できた。こうして、野津原は参勤最後の宿となったのである。

能本から二六里の地である。

 野津原宿は、三方を川で囲まれて南は山であるから、防御の面からいっても第一級の地である。

清正公は、今通ってきた矢ノ原を最初は宿場にと考えていたそうだ。

町が開かれた慶長の時(1600年前後)は、まだ関ヶ原の合戦が終わったばかりであったから、戦さというものを強く意識した結果であろう。そういえば、ここは城下町の趣もある。

 この時本陣(御茶屋)前に民家を集めて、それが古町となる。さらに町を広げて西側に寺町、枡形の外の新町が形成された。古町一七軒、寺町一七軒、新町三三軒と、七〇軒近くの町屋が通りを挟み並んでいた。

通りの両脇には幅三尺(1m)の水路が設けられ、御茶屋前など三ヵ所には火除ヤブ床があった。

 町の中央部に御茶屋、それを挟んで町の出人口に簀戸、東端に法護寺、その間に多くの町屋などが配置されていたが、その跡はあまり残っていない。藩政崩壊後百数十年にもなるので、無理がらぬことか。

●  法護寺

 まず御茶屋跡へ行く。町の北はずれの一段と高くなったところにある。広い屋敷跡は今、野津原中央小学校になっていた。

そこへ通じる道の奥に野津原神社が ある。境内には、その歴史を物語る巨木が何本も残っている。この神社は別名加藤神社ともいい、清正公も祭る。今でも清正公信仰が強いようだ。よく見ると、 注連縄が干支の未を編み込んで作られている。

なるほど、平成十五年は未年だから、その干支を編み込んだのだろう。この地だけの風習だろうか。

 さらに進むと、法護寺がある。寺は高い石垣の上に建てられ、表口五間(9.5m)、奥行き十五間(28.5m)もある。二層の山門を持ち、城を思わせる。御堂脇には清正公殿があって、いわずと知れた加藤清正ゆかりの寺である。

 清正公は日蓮宗に深く帰依していたので、宿泊地にこのような寺を建て、仏護におすがりしたものか。まさしく、ここは肥後の国である。

町内には、厨子(つし)(中二階)造りの白璧の家、石垣の壁と、往時の繁栄を伝えている。福城寺の鐘楼の天井には、龍の見事な絵が描かれている。龍と鐘はどんな結びつきがあるのか。一度聞いてみたいこの鐘の音である。

●  七瀬川渡し

 町外れに恵良の集落があり、そこから河畔へ下りとなる。七瀬川が音を立てて流れている。かなりの大きさで、ここを渡渉、つまり歩いて川を渡る。再び新開からも渡らなければならなかったから、その不便さ 解消するために陸路が問かれた。

 明治維新後、その道は払い下げられて水田となった。それで往還田という幅2〜3mの細長い田が残った。今ではそこに町道を通したので、その部分を青色に舗装していて、街道であったことをはっきり示している。その道をたどると七瀬川渡し場となる。

 恵良からまた七瀬川を渡ったら新開(新貝)。伊能忠敬はこの川を渡り「七瀬川幅二十一間」と記している。こんな大きな川渡りは危険が伴う。雨期は水量が増すし、また他所の人は川筋が見極められないから、水に呑み込まれるものも多かったろう。

七瀬川の供養塔が岡鶴側の山付きに立っている。

 弘化二二(1845)年建立の石塔が二基あって、「南無妙法蓮華経」と刻まれた高さ2mのものと「奉納妙教一字一石里為道中安全」と刻まれたものである。

発願者や世話人などの名が見られ、道中の安全や五穀豊穣などを合わせて祈願しているのだ。移転された今も、川と新開地を見守っている。

●  変わる街道筋

 廻栖野(めぐすの)、胡麻鶴橋(ごまつるはし)、木上峠(きのうえとうげ)稙田(わさだ)と通る。地名が珍しい。いずれもいわれのある地だろうが、残念ながら案内板がないのでょく分からない。

胡麻鶴橋を渡る。四回も七瀬川を渡っていた。本当に大変なことであっだろう。稙田は古い歴史を持つ。中世の荘園が栄えたところである。

 「稙田荘三二五町、領家大納言二位局」と古記録にある。その属する名(地域)に光吉など今も伝わる地名が残る。なにせ、七瀬の豊かな水に恵まれて問かれた地であるからだ。

 豊後街道は七瀬川沿いに進む。その川は次第に大きくなり、周りに平地を広げている。昔は水田であっだろうが、今では住宅地になっている。もうとっくに大分市内に入っている。

 その地にこのごろ続々と大型店が進出している。あちこちに道が広がり、駐車場が増えた。旧街道も消えかかり、細い道が僅かに残る。

駐車場脇に新しく手を 入れた観音堂がある。一石六地蔵やいくつもの石仏が新しくコンクリート台の上に鎮座している。多くの旅人を見守ってきた地蔵様も、今では車の見張り役なの かとぼやきたくもなる。

 七瀬川が大分川と合流するところに来た。ここは岡藩領八万(八幡)田。対岸の光吉まで板橋があって、「川幅二十間」と伊能は測っている。しかし今ではその先は行き止まり。豊後街道はどこへ行った。目の前に高速道路の大きな橋脚は見えるが渡ることはできない。

●  島原領預地

 対岸に渡る道を探していたら、臼杵藩莚(むしろ)会所跡碑を見つけた。藩政改革のために七草藺を農民に作らせ、藩の専売事業としていた。文化四(1807)年、ここに会所を置いて集荷し、大坂へ送り出していたとある。

 七草藺は元々熱帯性の植物であったが、寛文年間(1661〜73)薩摩より伝来、豊後一帯に広まった。正徳四(1714)年には一四八万枚、銀高一七二 九貫余の大坂入津高(大坂の七島莚問屋入荷量)を記録、幕末には二〇〇万枚を逞かに超えていただろう。

豊後を代表する産物になり、豊後表とか青筵(むし ろ)と呼ばれ、実入りのよい農家の副業であった。

 光吉に出た。高速道路のインターチェンジがある。ここらは島原藩の預地で石高四〇六石余。寛政十一(1799)年から慶応二(1866)年まで統治していた。このあたりは臼杵、延岡、府内、幕府領など「御領、他領所々打混す」という状態であった。

 川向は府内(大分)藩で、松平氏二万二〇〇〇石の土地。一六世紀末、福原直春が築いた府内城は、何度か城主が替わるが、万治元(1658)年以降、大給 松平氏が治める。島原松平氏の遠戚に当たる筋だ。

幕末まで続き、最後の松平近説藩主は、幕府の若年寄にもなった人である。

 府内城下を遠慮して、豊後街道は大回りしながら大分川沿いに進む。河岸段丘の集落を避けて街道は通っている。曲の集落には石仏がある。豊後の国には、臼杵の石仏など各地にあるが、古くから仏教文化が広まっていた証である。

●  大分川土手

 この土手の上を勝海舟たちは歩いたのだな。

 「八幡川あり、大抵一里半ばかり川堤に沿うて路あり。海道広く、田畑厚肥、挑菜花盛。関東の三月頃の季節なり」

 一行が通ったのは文久四(1864)年二月十七日で、陽光の中を気持ち良く歩いたであろう。ゆったりと流れる川と周りに広がる一面の麦畑と菜の花畑。同行の坂本龍馬はチョウを追って河原を走り回り・・・と、のどかな光景が目に浮かぶ。

 この河岸道は河川改修工事で一部消えてしまった。土地の人は「ひごどんみち」といっていたそうで、まさしく肥後(豊後)街道の一部であった。周りには大 型店や浄水処理場、自動車学校や工業団地が立ち並びずい分と変わった。幸いにも河川敷が一部整備されており、そこには土手道も残されて、のんびり歩ける所 もある

●  豊肥本線

日豊本線、豊肥本線のガードを潜り、川沿いの道が終わる。久しぶりに豊肥本線と出会う。この路線の全通は昭和五(1930)年のことである。

難所の阿蘇外輪山越えを解決した結果である。熊本側と大分側から線路を延ばし、この年に宮地・玉来問が結ばれ、その名も豊肥本線とつけられた。

 豊肥本線とは宮地駅で別れて以来のことで、懐かしい。この間は豊後街道沿いに鉄道が敷けない難所であったから、別のコースをたどってここへ出た。

牧で国道一九七号線を横断して萩原の商店街を進む。再び同道を歩く。高松、寺崎、仲西と進む。乙津川岸に出る。一帯はビル街となっていて街道筋もはっきりしない。

 ここで乙津の川渡しとなる。かつては、現在の乙津橋際に渡舟場(波戸)があって、川の流れに乗って対岸へ渡り、日豊本線鉄橋の下あたりに着いていたそうだ。

この渡しは川幅約五〇問(96m)、舟守四人、馬渡舟も一隻用意されていた。渡った地はもちろん肥後領で、御領木があったと古地図に残る。


そして鶴崎村となって、西構口に簀戸(さくど)があって鶴崎の町となる。町は御茶屋がある本町を中心に、西町、出町などがあって、豊後街道もここで終わりとなる。

●  鶴崎御茶屋跡

 鶴崎御茶屋跡を見つける。やっと着いたか。三一里、一二五Kをよく歩いたものだ。

 一休みして、鶴崎の昔を求めて歩き回る。 まず御茶屋跡からだ。

 広い! 今、学校が二つあって、鶴崎小学校と鶴崎高等学校になっている。今まで大津、内牧、久住、野津原と四つの御茶屋跡を訪れたが、さすがここは別格だ。

 120m四方の広さで、御殿と郡会所、郡代官詰所、茶屋番詰所、蔵、武器庫など多くの役所があった。万延元(1860)年には成美館という学校も建てられた。

 かつてここには鶴崎城があったところで、大友宗麟の家臣、吉岡宗歓が領有して城を構えていた。天正十四、五(1586〜87)年の島津軍侵入のときには、妙林尼が城を堅守して、敵を乙津川に襲撃、これを壊滅させたそうである。それで妙林の女将と後世まで称えられている。

 その城を加藤清正が、慶長六(1601)年に御茶屋として整備し、肥後藩の玄関口として重要視された。それが細川氏時代にも引き継がれ、明治四(1871)年まで御茶屋として二七〇年間続いた。鶴崎の町には本町、西町、出町などがあり、本町は名の通り町の中心部。

御茶屋を中心とするところ。出町は西端部で、今の鶴崎駅南側付近という。特に戦後の工業化で町も一変。もうその面影もない。

●  法心寺

 道向こうに法心寺という大きな寺がある。加藤清正によって慶長六年(1601)に開山した。

清正公は熱心な法華宗の信者であったから、領内外にいくつもの寺を建立している。熊本に本妙寺、ここ法心寺、長崎の本蓮寺、熊本の法華寺(廃寺)、長崎の本経寺と、この五寺で、妙・法・蓮・華・経と日蓮宗の称号となる。

 加藤清正は慶長十六(1612)年六月二十四目熊本で死亡、子の忠弘が後継するが寛永九(1632)年に取り潰しとなる。その後を細川氏が次ぐが、清正公の遺志をそっくり引き継ぎ、この寺も細川家の準菩提寺として手厚く保護した。

 山門をくぐる。広い境内には、本堂の前に大きな目蓮聖人像が立つ。この像は戦闘必勝の霊験あらたかといわれ、太平洋戦争中には大いに賑わったそうだ。横 の大銀杏は清正公お手植えのものという。

清正公の朝鮮出兵時の逸話と共に今でも伝えられている。左手に清正公本殿があり、これまた野津原の法護寺
と同じである。

 毎年七月二十三日は二十三日夜祭りが行われる。境内に1000本の蝋燭が灯されて、供養を執り行う。清正公様信仰は、この地でも続いている。

●  毛利空桑先生

 寺の隣に毛利空桑先生旧宅と塾跡がある。空桑先生は、寛政九(1797)年に生まれた。やがて塾を開き、尊王攘夷思想を広め、若者の指導に当たる。その名は広く知れ渡り、吉田松陰も訪れている。その著『長崎紀行』に述べている。

 「十月十六日、夜、毛利を訪ねる」

 嘉永六(1853)年、長崎へ急行するとき、鶴崎港に上陸したらすぐ先生を訪ねた。先生五三歳、松陰二四歳のときである。夜半、何を語りあったろうか。

 今旧宅は記念館となって残り、詩碑が立っている。

「天有月草地有梅/醇梅吟月尽詩才/吾家富貴無人識/笑殺市朝徒積財」

天に月が華やかに、地に梅があり、かぐわしい梅と月を眺めて詩作に励む。

吾が家には人が知らない豊かさがある。金もうけに走る人たちを笑いとばそう、と解釈するか。今の世の中にも通用する詩だ。

●  波奈之丸

 細川のお殿様の参勤交代帰着の絵があると問き、剣八幡宮まで見に行く。拝殿に畳一枚ほどの奉納絵馬が掲げられているご 残念なことにお宮は施錠されているから、窓越しにしか見られないが、御座船入港のようすがわかる。

 細川公は五四万石で、さすが見事な参勤行列である。多くの船が見える。御座船の名は波奈之丸という。「波も之を奈せん」と読む。つまり、「波も乗り越えるぞ」という意味があり、細川水軍の意気込みが見られる。

 御座船は通常、鶴崎堀川に係留していて、参勤時に瀬戸内海を往復していた。船内には上の間と下の聞かあって、藩主は上の間に寝起きした。

正面に床の聞か あり、柱や梁は朱塗りで、大和絵を描いた襖に囲まれていた。黒漆塗りの格天井には四季の化や果実が描かれていた。熊本城博物館にはその復元模型がある。

さすが肥後五四万石の御座船だ。御殿をそっくり移したようで、細川様の御威光が伺われる。

 従う船は七八隻。中には航海の無事を祝って、歌い踊っている船もある「御代長く、民も豊かに治まれば〜、エイヤー 松の下行く若水を〜、汲めよ千代ふるこの水を〜、御代はめでたの〜」(インターネット「鶴崎の歴史探訪」)また、境内には細川公入部の絵巻物など宝物が保管されているそうだ。 石灯籠には細川家の九曜紋入であるここには清正公の顔がない。

●  堀川公園

 堀川の仙着き場はすっかり埋め立てられていて、支所のところという。今では新堀川公国に記念碑がある。

 本川(大野川)の水を引いて、船着場を造った。これも清正公の力。鶴崎の湊は瀬戸内への出入口になるので、多くの船の寄港地となった。それで、鶴崎には船問屋が一〇軒余、酒造場も一〇軒を数え、多くの店が軒を並べていた。

 鶴崎橋のたもとに作事所跡の碑がある。船の修理場所たった所だ。旧地名に、船頭町、御加子町などの名が見える。これまた船関係の人の住んでいた所。
 この湊を出て船は、佐賀関、佐田岬、長浜(またぱ国東、姫島、祝島、室津)、備後鞆、下津井、牛窓、赤穂、曽根、高砂、明石、兵庫、大坂と海上一二八里 を進み、さらに東海道を陸路で一三二里、お江戸へ入る。

いつの日にか私も行ってみたい参勤コースである、もちろん細川藩主の参勤ルートには豊前街道経由の 経路(熊本から北上して南関〈国境〉、松崎〈久留米〉を経て小倉へ出るルート)もあった。

●  岡藩御座船図

 野坂神社にも立ち寄る。ここには岡藩船団の図があるからだ。

 この辺り、乙津川河口・三佐は元和九(1623)年、岡藩の参勤湊として開かれた。この図は岡藩主十代中川久貴が航海安全を祈願して、文化十(1813)年に寄進したもの。寄港する岡藩船団の模様が見事に描かれている。

 肥後藩にしろ、この岡藩にしろ、参勤は大仕事であった。特に海上交通は、いつ海難に遭うかわからない。通ってきた的石・隼鷹天満宮の話(前述)のように命がけの御参勤であった。それでこのように船の絵馬を寄進し、道中の無事を祈願したのである。

 この絵馬は痛みがひどかったので大分市で修復して、ガラス張りの小屋に保存・展示している。宮司さんの特別の計らいで、中に入らせてもらって、説明つきで見させていただき、ありかたかった。

 これで、長年の夢、「豊後街道を行く」が終わった。今はホッとしているが、感激もジワーツと湧き上がることだろう。

■  おわりに

 豊後街道を八日かけて歩き終えた。月に一度の街道歩きであったが、毎回楽しい時が過ごせて有意義たった。

その距離三一里(124k)である。すっかり旅人になりさって、ふらっとあちこち立ち寄って、楽しみながら三一里を歩き通すことが出来た。

 豊後街道を行く旅は、毎回新しい発見と驚さの連続であった。里程木が熊本県側には残っていて、何里歩いたと、歩く楽しみを与えてくれた。その里程木が、 一里木から十六里木までその跡が残っている。

これは加藤清正が植えさせたものだという。清正公は肥後五四万石を拝領したときに、天草二万石を断ってこの街 道沿いの土地を手に入れた。 

    それが久住であり野津原、鶴崎の地である。それで豊後国なのに肥後の国扱いであった。しかし単程木は違う。

大分県側には久住の神馬一里山石灯龍塚しかない。 清正公の御威光も豊後国には及ばなかったのか。

 もともと豊後側には里程木がなかったのかもしれない。他街道と同じように一里塚が築かれていたのだろう。

 豊後街道は肥後藩主の参勤交代のコースであった。藩主は他国に泊まらずに旅ができた。

 清正公のねらいはそこにあったのかもしれない。それで街道筋には御茶屋がいくつも残っている。

 阿蘇市的石御茶屋跡は細川の御殿様がしばし休憩したところ。 建物こそ建て替かったが、庭園と泉水はそのまま残っている。眺めていると豊かな気分になり、江戸の世界にタイムスリップしたようである。
 大分市の今市宿跡には、当時そのままの石畳道が660mも残されている。地域の人たちはそれを守り続けてきた。目分たちの町を愛し、町と人の歴史を大事にする姿勢が良く伝わる。

 文久四・元治元(1864)年、豊後街道を往復した勝海舟はその様子を日記に残している。幕末のあわただしい中を、海舟は坂本龍馬たちを率いて長崎へ向かった時である。

 「我、この地を過ぎて、領主の田野に意を用いしこと、格別なるに歓服す。また人民、熊本領にして素朴、他の比にあらず」

 海舟が見て、龍馬に語ったであろう風景があちこちに残る。龍馬はこの長崎行きで開限し、閉塞社会の打破を目指したといわれる。海舟四二歳、龍馬三〇歳のときであった。

 桃節山は二重の峠に、慶応三(1867)年に立った。

「坂上に登りて阿蘇郡を見渡し眺えば四方に山を以てい屏風を立てる如く包み回し・・・」

 今でもその地点に同じように立つことができる、そして阿蘇の山々を眺めていると、江戸の旅人になったようで、気分も雄大となる。

 豊後街道を歩いて熊本・大分の文化に触れ、歴史を思考することが出来て、また身も心も癒されて本当に良かった。

 この本をまとめているときに、熊本の小中学生一六〇人が豊後街道(野津原〜熊本)を踏破したというニュースを聞いた。猛暑の中を五泊六日で歩き通し、八月二十日熊本城へ全員無事にゴールしたのである。

 子どもたちは歩いて歴史と文化を学び、何よりも100k余りを歩き通すという、逞しい身体と心を身につけたのである。すばらしいぞ、肥後っ子!

 豊後街道が子どもたちの成長に生かされている、それは地元の自然と歴史を人切にする人たちの、長年の収り組みの成果である。

ぜひ、みなさんも豊後街道に足を運んで下さい。

2006年春
松尾卓次

〈著者略歴〉
松尾卓次(まつお・たくじ)
昭和十年(一九三五)年、島原市に生まれる。
中学校社会科教師として島原市などで勤務。島原市立第二中学校をへて現在、島原城資料館解説員。
平成十三(二〇〇二年、島原半島文化賞を受賞。

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2018/04/10




--- 西郷隆盛 ---

10  岩倉洋行団の出発から西郷内閣まで

 大久保、木戸らの外遊と西郷の留守内閣

 明治4(1871)年11月12日、公家出身の岩倉具視を特命全権大使とし、副使に木戸孝允、大久保利通が任命され、以下同行の留学生を合わせて百名を超える大洋行団が横浜を出港しました。

 岩倉洋行団の目的は、江戸幕府が締結した修好通商条約の条約改正の下準備とヨーロッパ、アメリカなどの文明諸国の視察です。

 しかし、日本はまだ廃藩置県が行われてから、わずか四ヵ月しか経っておらず、いつ騒動が起こるかもしれない状況での洋行団の出発は、時期尚早だという意見も多くありました。

 こんな困難な状況を一手に任されたのが、留守を守ることとなった西郷です。

 国政に関しては課題が山積みの中、無責任に洋行した新政府の首脳達の後始末を引き受けた西郷もお人好しだったと見る意見もありますが、西郷自身も順調に政府を運営していくだけの自信があったからこそ、その留守を引き受けたものと思われます。

 また、木戸や大久保らがいない内に、西郷は斬新な改革を進めようと考えていたかもしれません。鬼の居ぬ間に何とか……という感じだったのかもしれません。

 岩倉洋行団が出発すると、西郷を中心とした留守内閣は、次々と新しい制度を創設したり、改革案を打ち出していきました。

 その中でも特筆したものは、次のようなものがあげられます。

①警視庁の発端となる東京府邏卒の採用、
②各県に司法省所属の府県裁判所の設置、
③田畑永代売買解禁、
④東京女学校、東京師範学校の設立、
⑤学制の発布、
⑥人身売買禁止令の発布、
⑦散髪廃刀の自由、切り捨て・仇討ちの禁止、
⑧キリスト教解禁、
⑨国立銀行条例の制定、
⑩太陽暦の採用、
⑪徴兵令の布告、
⑫華士族と平民の結婚許可、
⑬地租改正の布告

 こういった斬新な改革を西郷留守内閣は次々と打ち出していったのです。

 これら全ての改革が西郷の発案によるものでないことは言うまでもありませんが、西郷が政府の首班(首相)として成し遂げた改革であることは、まぎれもない事実です。
 
よく西郷には政治家としての能力はなく、明治政府においては、ただの飾り物に過ぎなかったと論じている本が多数出版されています。

 しかし、ただの飾り物でしかない西郷を中心として、このような思い切った改革が次々と出来るでしょうか?

 また、西郷が政府の首班として在職していた間は、明治政府の悩みであった農民一揆や反政府運動というものは、ほとんど起こることがありませんでした。これは世の中の民衆が西郷の政治に満足していた結果であると言えるのではないでしょうか。

 明治新政府がやらなければならなかった諸改革のほとんどが、この西郷留守内閣の下で行われたのです。

 このことをもってしても、西郷の政治手腕を高く評価するべきではないでしょうか。(つづく)




ーーーーー 以上 ーーーーー









--- 西郷隆盛 ---

9  西郷の上京から廃藩置県まで

9 - 1  明治新政府の苦悩

 西郷が鹿児島に帰国した後、明治新政府には次々と困難な問題が生じてきました。

 明治2(1869)年6月、明治維新に功績のあった者に対し、「賞典禄(しょうてんろく)」や「位階」といった形で論功行賞が行われたのですが、それらの恩賞は薩摩藩と長州藩出身の人物に厚く、他藩の者が軽く扱われた形となりました。

 倒幕を成し遂げた原動力となったのは長州と薩摩藩でしたので、その結果は当然であったとも言えますが、他藩出身者にはどうも納得出来ません。そのため、薩摩や長州藩出身者に対して、各方面からの非難が起こりました。

 また、長州と薩摩藩の間でも、新政府のポストについての派閥争いが起こり、双方が反目しあうという事態も生じてきたのです。

 このように混乱した状態になると、当然新政府内の風紀も乱れてきます。

 新政府の役人らは、昔の苦労を忘れ、豪華な邸宅に住み、大人数の使用人を雇い、美妾を蓄えるなど、まるで旧大名を真似たような驕奢な生活をするものが増えました。

 そして、権力をかさに着て、民に対し横暴な振る舞いをする者も多く出たのです。

 こんな乱れた新政府に、民衆は大いに失望しました。

「新しい世の中になったと言うが、これでは江戸幕府の時代の方がよっぽどましだ」

 このような声があちらこちらから聞こえてくるような状態となり、全国各地では重税に苦しむ農民らが蜂起し、それが飛び火して一揆が続発しました。

 また、腐敗した政府を憤る者達が政府転覆を企てるなど、反政府行動を取る人物も現れてきたのです。

 当時の新政府の中心人物は、公家の三条実美、岩倉具視、長州藩出身の木戸孝允、そして薩摩藩出身の大久保利通の四人でした。彼らは続発する農民一揆や民の不満等を押さえるため、日夜努力を続けていたのですが、なかなか上手い対策が打てません。

彼らも新政府がこのままではいけないことは十分に分かっていました。このままでは苦労して樹立した新政府が瓦解する恐れがある……。

そんな危機感を持っていた四人は、鹿児島の西郷を東京に呼び戻し、彼の力や徳望をもってして、一大改革をやろうと決心したのです。

 このような混迷した事態を打開するためには、人々から仰ぎ慕われる人望を持ち、かつ勇気と決断力を併せ持った英雄的人物が必要になってきます。

 残念ながら、大久保や木戸には、知謀や知略といったものは十分に持ち合わせていたでしょうが、人々から信頼され、なおかつ勇気を持って改革を成し遂げる力は、当時の彼らには不足していたと言っても過言ではありません。彼らが西郷を鹿児島から呼び戻そうとしたことにそれが表れています。

 西郷は、最もたくましい勇断力と人々から慕われる絶対的な人望を併せ持った人物でした。新政府の危機を乗り越えるには、どうしても西郷の力が必要だったのです。

 西郷の盟友である大久保は、西郷の弟でヨーロッパ視察から帰ってきたばかりの西郷信吾(さいごうしんご。後の従道)に、兄の隆盛を東京に呼び戻してくれるよう説得を頼みました。

 大久保から依頼を受けた信吾は、明治3(1870)年10月、一路鹿児島へと向かったのです。

9 - 2  西郷の上京と廃藩置県工作

 明治2(1869)年6月以来、国元鹿児島に引きこもっていた西郷は、突然の弟・信吾の訪問に驚きましたが、ヨーロッパから帰ってきたばかりの信吾に積もる話もたくさんあったことでしょう、喜んで迎え入れました。

 しかし、弟の信吾から聞かされる新政府の腐敗した実態に、西郷は怒りと憤りを感じました。また、新政府がこんな風に堕落してしまったことに、維新を迎えることなく非業の内に倒れていった数多くの同志達に対し面目が立たないと大いに涙を流したことでしょう。

 弟・信吾から大久保の上京要請の話を聞いた西郷は、いよいよ上京する決意を固めます。鹿児島に引きこもっていたとは言え、西郷の頭の中には常に中央の政府のことがありました。

東京から鹿児島に帰郷した人々を通じて、少ないながらも新政府の情報が西郷の耳に入っていたのです。これらの情報を聞いていた西郷は、堕落し切っている政府をいつか改革しなければならないと常日頃から考えていました。

 明治3(1870)年12月、勅使・岩倉具視と大久保が鹿児島に来訪しました。西郷を正式に東京に呼び戻すためです。

 鹿児島に帰った大久保は、西郷と共に新政府の一大改革案について話し合いました。

 それは、「廃藩置県(はいはんちけん)」のことについてです。

 明治の世になってからは、日本の政治形態を「郡県制度」にするか、それとも「封建制度」のままにするかの大きな議論が起こっていました。

(つまり、「藩」というものを廃止して「県」を置くか、そのまま身分制を引き継いで藩を存続させ封建制にするかの議論)

 明治2(1869)年6月には、新政府が諸大名から土地と人民を朝廷に返還させる「版籍奉還(はんせきほうかん)」を実施していましたが、これは形式だけのことであり、実際には藩はそのままの形で残っており、藩主も「知藩事(ちはんじ)」という名前に変えられただけで、領内の運営は全てこれまで通り藩が行っていたのです。

 しかし、廃藩置県というものは、実質的に諸大名から土地(つまり領土)や人民を新政府が取り上げることとなります。

西郷も大久保も、この廃藩置県を明治維新の総仕上げという風に考えており、これを成し遂げないことには、真の革命が成立しないとも考えていました。

 ただ、この廃藩置県には大きな危険が伴っていました。

 廃藩置県というものは、いわば大名という地位と特権を無くし、各藩の経済的基盤を奪い去ることに繋がります。迂闊に廃藩置県の情報が他に漏れれば、各地の諸大名が蜂起し、日本中にまた内乱が勃発してしまうかもしれません。

そのため、西郷と大久保としては、慎重に事を運んでいかなければなりませんでした。

 西郷と大久保は相談の結果、薩摩、長州、土佐といった三大藩の力を利用して廃藩置県を行うことに決定し、西郷と大久保は岩倉と別行動を取って一路山口へと向かい、当時山口に帰郷していた木戸孝允と面会しました。

木戸との話し合いでも、当然廃藩置県のことについて話が出たことでしょう。

 そして、その後三人は揃って高知に出向きました。薩長土三藩の力無くしては、廃藩置県は断行出来ないと考えたからです。

三人は高知で板垣退助(いたがきたいすけ)と会い、薩摩、長州、土佐を代表とする四人は揃って上京することになったのです。

9 - 3  廃藩置県

 西郷ら一行が東京に着いたのは、明治4(1871)2月のことでした。

 新政府に復帰した西郷は、廃藩置県に向けて着々と準備を始めました。

 西郷を中心とした新政府は、まず薩摩、長州、土佐の三藩に「御親兵(ごしんぺい。政府直属の兵)」を差し出すよう命じました。廃藩置県断行の際に予想される各地の反乱に備えるためです。

西郷も一時鹿児島に帰国し、常備隊四大隊と砲兵四隊(約五千人)を率いて東京に戻ってきました。

 また、西郷らは御親兵以外にも、日本の東西に鎮台(軍の機関)を置くことを決定しました。もし、廃藩置県に反対する諸大名が武力行動に出た際、迅速に鎮圧できるようにするためです。

 このようにして、西郷は軍事面での強化を行なうと共に、6月になると木戸と共に参議に就任し、実質的な新政府の首班となりました。その後、制度取調会の議長となって、内政面での改革にも取りかかりました。

 明治4(1871)年7月9日、木戸邸において、西郷ら新政府の首脳メンバーが集まり、廃藩置県についての秘密会議が催されました。

 しかし、会議は紛糾しました。この後に及んで時期尚早であるとか、廃藩を発表すればどんな騒ぎになるか分からないなどという慎重論が起こり、木戸や大久保の間で大激論となったのです。

 その激論を黙ってじっと聞いていた西郷は、ついに口を開きました。

「貴殿らの間で廃藩実施についての事務的な手順がついているのなら、その後のことは、おいが引き受けもす。もし、暴動など起これば、おいが全て鎮圧しもす。貴殿らはご懸念なくやって下され」

 重いそして力強い西郷の一言でした。

 木戸と大久保は、その西郷の一言で議論を止め、西郷の大きな決断力で、廃藩置県が最終的に決定されることになったのです。

 明治4(1871)年7月14日、「廃藩置県」が発布されました。

 民衆はこの大きな改革に驚きました。また、各地の諸大名にとっては、この廃藩置県に怒り心頭だったことでしょう。地位と財産を一遍の詔勅によって奪い去られたわけですから、当然のことだと思います。

 例えば、当時薩摩にいた島津久光は、廃藩置県を聞いて烈火の如く怒りました。

 以前にも簡単に述べましたが、久光は保守的な性格で、日本の政治形態は今までとおり封建制が望ましいと考えていたのです。

それが自藩士の西郷や大久保らによって、廃藩が行われたと知るや、怒り心頭に達して、鹿児島の磯の別邸(現在の鹿児島市の磯庭園)からいく艘もの船を出し、終夜花火を打ち上げさせ、その鬱憤を晴らしたという逸話が残っています。

 しかしながら、西郷らが作り上げた御親兵や東西の鎮台が反乱に備えて各地ににらみをきかせています。久光や諸大名としては、廃藩置県に反抗するわけにはいきません。

 このように廃藩置県という一大改革は、ごくごく平和的に達成されたのです。

 日本に滞在していた外国の公使らは、廃藩置県が平和的に行われたことに驚愕しました。権利というものに敏感なヨーロッパなどにおいて、このような改革を行なえば必ず戦争になり、平和的な解決は想像できなかったからです。

 廃藩置県という維新革命の総仕上げに、西郷がいかに努力したのかを分かって頂けたのではないかと思います。そして、西郷の徳望と勇断力をもってして、この廃藩置県という一大革命が成し遂げられたと言えましょう。(つづく)





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