全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索
-- 西郷隆盛 --

8  戊辰戦争から西郷の帰国まで

8 - 1  彰義隊討伐

 西郷と勝の会談により江戸城の無血開城は達成されたのですが、それに不満を持つ旧幕臣を中心として結成された彰義隊は、江戸の各地において、新政府軍と衝突を起こしました。

 西郷はその事態を憂慮し、勝や山岡を通じて、彰義隊に軽挙な行動は慎むようにとの諭告や説得を続けたのですが、彰義隊の人々は一向耳を傾けようとはしませんでした。

 西郷はそんな状況下でも、諦めずに平和的解決を目指し日夜努力をしていたのですが、そんな西郷のやり方を非難する人々が出てきたのです。

「西郷は勝に騙されている」

「西郷のやり方は生ぬるい」

 といった具合にです。

 その結果、京から軍務局判事として江戸に派遣された長州藩の大村益次郎(おおむらますじろう)が中心となり、とうとう彰義隊の討伐が決定されたのです。

 明治元(1868)年5月15日、午前七時頃、上野に結集した彰義隊約三千人に対して新政府軍の総攻撃が開始されました。

 総攻撃を全面的に指揮したのは大村益次郎です。西郷はこの上野攻撃に際して、最も激戦区となった黒門口攻撃を一薩摩隊の隊長として指揮を取りました。

 戦いは大村の作戦が見事にあたり、午後五時過ぎには彰義隊は完全に鎮圧されたのです。

8 - 2  庄内開城

 彰義隊が討伐されたことにより、西郷は後事を大村に任せ京に向かいました。目的は兵力の増援を藩主に願い出るためです。

 彰義隊が討伐されたとはいえ、奥州各地においては、新政府に反抗の意を示している会津藩を始めとする奥羽諸藩の勢いが盛んになっていました。

新政府軍は常に兵力不足に悩んでいたため、西郷としては何とかして増援部隊が欲しいと考えたのです。

 新政府軍は所詮諸藩の寄せ集めにすぎません。いつ何時、戦況が変われば、新政府軍を裏切る藩が無いとも限りません。結局は頼りになる藩と言えば、薩摩、長州の両藩しかなかったのです。

 西郷は京に帰着すると、藩主・島津忠義と共に鹿児島へ帰国し、その後藩兵を率いて、明治元(1868)年8月10日、新潟の柏崎港に到着しました。

 この前月、越後長岡藩を中心とした兵が、長岡藩の家老・河井継之助(かわいつぐのすけ)の巧妙な指揮により、果敢に戦い、新政府軍を悩ましていたのです。

 西郷の実弟である西郷吉二郎(きちじろう)も、この長岡戦線で重傷を負い、死亡しました。

 しかし、西郷が柏崎に到着した頃には、新政府軍が既に長岡を占領した後でした。

 その後、西郷は、米沢、会津を経て、出羽・庄内藩の城下・鶴岡に到着しました。

 庄内藩といえば、鳥羽・伏見の戦いのきっかけともなった江戸薩摩藩邸焼き討ちを行った主力藩であり、江戸無血開城後も今の秋田地方において、執拗果敢に新政府軍に戦いを挑んでいました。

庄内藩兵は強く、そして勇敢でもあったので、戦局は一進一退となり、新政府軍はややもすれば押し返されるような状態でした。

 しかしながら、いかに庄内藩が頑張ろうとも、周りの奥羽諸藩が次々と新政府軍に降伏してしまい、庄内藩は一藩孤立したのです。

 当時の庄内藩主・酒井忠篤(さかいただずみ)は、重臣と協議した結果、新政府軍に対し降伏恭順することに決定しました。苦渋の選択でしたが、庄内藩としてはもはや援軍を望めない以上、こうするより手立てはなかったのです。

 庄内藩の人々は、降伏した際、新政府軍から過酷な降伏条件を突き付けられることを覚悟していました。今までの経緯から考えると、薩摩藩や長州藩の恨みを多く買っていると考えられたからです。

 庄内藩の降伏の申し出を受け取ったのは、新政府軍の庄内方面司令官の薩摩藩士・黒田了介(くろだりょうすけ。後の清隆)でした。
 その黒田は、意外や意外、そんな庄内藩に対し、非常に寛大な降伏処置を取ったのです。

 実はこれら黒田の寛大な処置は、全て西郷が黒田に対し指示していたことでした。黒田は西郷を尊敬し、西郷の一番弟子を自任していたような人物でしたので、西郷の指示に従い行動したのです。

 そんな黒田と西郷の寛大な態度に感激した藩主・酒井忠篤以下、庄内藩の人々は、西郷を慕うこと一方ならず、その後藩主自ら鹿児島の西郷の元へ教えを請いに出向くなど、この庄内処置をきっかけに、庄内藩士と西郷の交流はその後も長く続いていくことになるのです。

8 - 3  西郷の帰国

 庄内藩の処置を済ませ、その後一度帰国した西郷は、榎本武揚(えのもとたけあき)ら旧幕臣を中心とした集団が立てこもる、北海道函館の五稜郭へと援軍に向かいます。

 しかし、西郷が到着した頃には戦いは既に終わっており、「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」といわれる新政府軍対旧幕府軍との一連の戦いは、この五稜郭の戦いをもって全て幕を閉じることになったのです。
 その後、横浜に帰った西郷は、新政府への出仕を辞退し、明治元(1868)年6月、鹿児島へ向けて帰国しました。

 明治維新最大の功臣と言われた西郷の帰国は、内外を問わず波紋を広げました。

 西郷を扱った伝記や本のなかにも、この西郷の帰国を境に、西郷評価を分けているものが少なくありません。

 「西郷は自分が政治家に向かないと分かっていたので、故郷に帰り隠遁しようと考えたのだ」と書いている本もあり、ひどいものともなると、「西郷が明治を境にバカになった」というようなことまで書いてあるものもあるほどです。

 しかし、これらの批判や見方は、西郷を上辺だけしか見ていない浅薄な論であると言えましょう。

 確かに、西郷には隠遁志向がありますが、この西郷の帰国をそれだけのものとして片付けてはいけないと思います。

私が思うに、この西郷の帰国には、非常に重大な意味が隠されていると感じています。西郷の帰国については、いずれ別の機会にサイト内で取り上げたいと思っています。 (つづく)




ーーーーー 以上 ーーーーー






--- 西郷隆盛 ---

7  王政復古から江戸無血開城まで

7 - 1  王政復古と小御所会議

 「大政奉還」により、日本の政権は幕府から朝廷へと返還されたとは言え、江戸幕府開府以来、政権を幕府に委任してきた朝廷は、既に有名無実のものとなっていました。

そのため、朝廷は突然慶喜から政権を返上され、その対応に困りました。天皇や公家には、実際に政治を運営する能力や事務処理能力などあるはずもなかったのです。慶喜は既にこのことも予期しており、それが大政奉還に踏み切ったもう一つの理由でもありました。

「朝廷に政治を運営する能力は無いのだから、幕府が政権を返還したとしても、結局朝廷はその処置に困り、また幕府に政権を委任してくるだろう」

 これが慶喜の見通しであり、狙いでもあったのです。

 そして、その慶喜の策略は的中しました。

 朝廷内部では、取りあえず政権をもう一度幕府に委任してはどうかという論も出てきたのです。

 西郷はそんな公家らの動揺を押さえると共に、大久保と協力して朝廷を中心とした新政府を樹立するべく努力しました。

 慶応3(1867)年12月9日、西郷が薩摩藩兵を指揮して宮門を固める中、王政復古の大号令が煥発されました。その内容は、幕府や摂政、関白といったものが廃止され、総裁・議定・参与の三職を設置し、国政を運営するというものでした。

 これが幕府に変わる新しい政府の発足でした。

 しかし、この王政復古は実は形だけのものであり、依然として慶喜は、幕府の強大な軍事力と領地を所有していました。

 西郷としては、何とかして幕府の権力を奪わなくては、新しい政権の樹立にはつながらないと考えていました。

 王政復古の大号令が煥発された同夜、御所内の小御所において、当時まだ15歳であった明治天皇が親臨のもと、諸藩の藩主や公家達が集まり、御前会議が開かれることになりました。

 世に言う「小御所会議(こごしょかいぎ)」です。

 小御所会議において、岩倉具視ら反幕府公卿らは、慶喜に対し、
「辞官・納地(じかん・のうち。官職を辞職し、領地を返納する)」を求めることを決定しようとしたのですが、前土佐藩主・山内容堂がそれに反対し、越前福井藩主・松平春嶽も、その容堂の主張に賛成しました。

また、その容堂と春嶽の主張に対し、岩倉具視が再度反論するなど、小御所での会議は紛糾したのです。

 小御所会議の真っ最中、西郷は会議のことは大久保に任せて、自らは薩摩藩兵を率いて御所周辺の警衛と兵隊の指揮にあたっていました。

 小御所会議での議論がもつれ、いったん休憩が設けられると、会議に出席していた薩摩藩の重臣・岩下佐次右衛門(いわしたさじえもん。後の方平)は、西郷を呼び出し、会議が紛糾していることを告げ、助言を求めました。

岩倉もまたその席に来て、西郷の意見を求めると、西郷は「そいは、短刀一本で用は足りもす」と言いました。

「相手を刺すほどの覚悟を持ってすれば、事は自然と開ける」という意味を込めて、西郷は会議に臨む心構えを岩倉に説いたのです。

 西郷の言葉に勇気付けられた岩倉は、山内容堂と刺し違っても
「慶喜の辞官・納地を成し遂げる」と周囲の者に言い放ちました。

その岩倉の決心をまわりまわって聞いた土佐藩の重臣・後藤象次郎は驚き、主君である山内容堂に対し、土佐藩がここまで幕府に肩を持つ義理はないことを進言し、これ以上岩倉らに反対することは、土佐藩にとっても良策ではないことを説きました。

 山内容堂は後藤の進言に歯噛みしながらも翻意し、再開された会議において、沈黙を守ったのです。

 これにより、慶喜の辞官・納地が決定されることになりました。

7 - 2  鳥羽・伏見の戦い

 小御所会議の開催中、徳川慶喜は軍勢を従えて、御所近くの二条城に滞在していました。そこへ松平春嶽から小御所会議の結果がもたらされたのですが、それを聞いた慶喜は「このまま軍勢を京に留めておくことは非常に危険である」と考え、いったん大坂城に退くことに決めました。

辞官・納地を知った幕府兵が激昂し、薩長勢と衝突すれば、朝敵の汚名をかぶせられるかもしれないと慶喜は考えたからです。

 ただ、このような慶喜の冷静な判断とは裏腹に、江戸では庄内藩を中心とした幕府兵が、江戸薩摩藩邸を焼き討ちにするという大きな事件が起こったのです。

 慶喜自身が薩長との争いを避けようと苦慮していたのに対し、その意を汲み取れない下の者達が勝手な行動を起こしたことは、慶喜にとって痛恨の一事となりました。

 江戸で薩摩藩邸の焼き討ちがあったことを耳にした大坂城内の幕府兵は、士気大いに上がり、薩摩討つべしとの論に火が付き、慶喜はその兵の勢いを押さえることが出来なくなったのです。

 ただ、慶喜自身にも薩摩憎しの感情は、当然の如くありました。慶喜は兵の士気が大いに上がるのを見て、これならば薩長軍に勝てるかもしれない……、と色気を持ったのも事実です。

何せ兵力という点においては、薩長軍が約三千に対し、幕府軍は約一万五千以上の兵力があったのです。慶喜がやる気になったのも無理はありません。

 明治元(1868)年1月3日、幕府軍は「討薩の表(とうさつのひょう)」を掲げて、鳥羽、伏見の二街道を通り、大坂から京へ向けて進撃を開始しました。

 迎える薩長側は、主に薩摩藩兵を鳥羽街道に、長州藩兵を伏見街道に配置し、西郷自身は京の入口にあたる東寺に本営を置き、戦況を見守りました。

 そこへ一発の砲声が鳥羽方面に響き渡りました。

 鳥羽街道で幕府側と押し問答を続けていた薩摩側が砲撃を開始したのです。

 これをきっかけにして伏見方面でも戦闘が始まり、「鳥羽・伏見の戦い(とばふしみのたたかい)」の幕が切って落とされました。

 当初、戦いは薩長連合軍側有利で進みましたが、数を頼りにする幕府軍もじりじりと押し返し、一進一退の攻防を繰り広げました。

 しかし、翌1月4日、薩長軍側に高々と「錦の御旗(にしきのみはた)」が翻り、戦局は一変し、薩長軍側の有利に展開したのです。朝廷公認の軍であることの証である「錦の御旗」を見た幕府軍は、戦意を喪失して総退却を余儀なくされたのです。

 劣勢となった幕府軍の諸隊長らは、前将軍・徳川慶喜の直々の出陣を求めました。まだ大坂城には無傷の約一万の軍勢がおり、幕府軍の将兵達が、慶喜の出陣により士気を高め、もう一度薩長軍に戦いを挑もうと考えたのも無理はありません。

 しかし、朝敵の汚名を受けた感じた慶喜には、この段階でもはや戦意はありませんでした。

慶喜は兵士らに対し「明日出陣する」と宣言しておきながら、老中・板倉勝静(いたくらかつきよ)、元京都守護職の松平容保ら数人と共に、夜中密かに大坂城を脱出し、幕府の所有する軍艦で江戸に向けて出発したのです。

翌朝、主のいなくなった幕府軍は大混乱に陥りました。そのため、各自ばらばらに江戸へ向けて退却することを余儀なくされたのです。

 慶喜の江戸退却により、幕府軍は完全に瓦解し、薩長中心の新政府軍の完全勝利となりました。

 最後に一つだけ付け加えますが、「鳥羽・伏見の戦い」が生じる大きなきっかけともなった「幕府による江戸薩摩藩邸焼き討ち事件」については、西郷の謀略であったと言われることが多いかと思います。

 当時、薩長は幕府との開戦のきっかけを求めており、当時江戸にいた浪士達に対し、幕府を挑発するように指示していたのが西郷だったと言われますが、それは事実と反しています。

西郷は最後まで江戸での暴発が起きることを心配し、同志の吉井幸輔を通じて、当時江戸藩邸で浪士達の取りまとめ役をしていた益満休之助に対し、「軽挙な行動は慎むように」と指示した書簡が現存しています。

 前述したとおり、慶応3(1868)年暮れの段階では、京における勢力は、薩長軍が約三千に対し、幕府軍は約一万五千以上の兵力があったのです。

兵数から見れば、全く薩長には勝ち目がないような状態でしたので、西郷や大久保は、現時点で幕府と事を起こすのは時期が悪いと考え、また長期戦をも覚悟していたのです。

そんな薩摩藩首脳部が、江戸の浪士達に暴動を企てるように裏で指示していたことはあり得ない話なのです。

 鳥羽・伏見の戦いが薩長による大勝利に終わったという結果論から、薩長は開戦のきっかけを求めており、浪士達を影で先導したという導き方は、実は誤ったものであることを知って頂ければと思っています。

7 - 3  江戸無血開城

 鳥羽・伏見の戦いで勝利を収めた新政府軍は、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)を「東征大総督(とうせいだいそうとく)」に任命し、東海、東山、北陸の三道に分かれて江戸を目指し進軍することを決定しました。

 西郷は「東征大総督府下参謀」に任命され、東海道を下り、江戸を目指すことになったのです。

 一方、大坂から江戸に逃れた徳川慶喜は、後事を幕臣の勝海舟に託し、自らは上野寛永寺の塔頭大慈院に入り、蟄居謹慎の生活に入りました。

 東海道を進撃する新政府軍の軍勢が現在の静岡県の駿府に入ると、幕臣の山岡鉄太郎(やまおかてつたろう。後の鉄舟)が西郷に面会を求めてきました。

山岡は勝の手紙を携えており、手紙の内容は「嘆願書」と言うよりも、どちらかというと、脅しに近いような内容が書かれていました。いかにも知略有り余る勝らしいやり方です。手紙の要約はこうです。

「現在、主人(慶喜)は恭順しているけれども、いつその主人の意を分からない不貞の者が、新政府軍に対し反逆を企てるか分からない状況にある。また、この無頼の徒が反乱するか、恭順の道を守るかは、貴殿ら参謀の処置にかかっている。

もし、正しい処置(徳川慶喜に対する)を行えば、何の暴動も起こらず、日本にとって大幸であるが、もし間違った処置をすれば、おのずから日本は滅亡の道を歩むだろう」

 おそらく、面識があり、人物と認めていた西郷が参謀だったからこそ、勝はこのような手紙を書き送ったに違いありません。

 西郷は勝の手紙を読むと、すぐさま大総督府に向かい、総督や参謀達と共に慶喜恭順降伏の条件を相談し、その条件を箇条書きにした書付けを山岡に手渡しました。

 山岡はそれら条件を一つずつゆっくりと読み終わると、西郷に対し、一つだけお請け出来ない条件があると言いました。徳川慶喜を備前藩に預けるという条件です。山岡は言いました。

「西郷殿におかれては、仮に私に立場を変えて考えてみて下さい。島津候が現在の慶喜の立場になられたら、西郷殿はこのような条件を受けられるでしょうか。どうぞ切にお考え下さい」

 山岡は、若い頃から禅や剣道で、強靭な精神力を鍛え、人物の押しも西郷に負けず劣らず堂々としています。

 西郷は、その山岡の立派な態度に感心し、

「分かいもした。慶喜公のことについては、おいが責任を持って引き受けいたしもんそ」

 と言いました。

 山岡もその言葉に感動し、泣いて西郷に感謝したのです。

 山岡はその足で江戸へと戻り、勝に西郷との会談の内容、そして降伏の条件等を報告しました。

 その一方、東征大総督府は、江戸総攻撃を3月15日と決定し、続々と新政府軍は江戸に入ってきました。

 明治元(1868)年3月11日、西郷は江戸の池上本門寺に入り、3月13日、高輪の薩摩屋敷において、西郷は勝と約3年6ヶ月ぶりの再会を果たしました。

 この日、西郷と勝の間では、江戸開城に関する重要な交渉事は何もありませんでした。ただ、明日もう一度、芝の田町の薩摩屋敷で会うことを約束して別れたのです。

 そして迎えた翌14日、勝は西郷が山岡に提示した条件についての嘆願書を携えて、西郷の元を訪れました。

 勝はその14日の会談のことを後年次のように語っています。

「いよいよ談判になると、西郷は、おれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。

「いろいろむつかしい議論もありましょうが、私一身にかけてお引き受けします。」西郷のこの一言で江戸百万の生霊(人間)も、その生命と財産を保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。

このとき、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判のときにも、終始坐を正して手を膝の上にのせ、少しも戦勝者の威光でもって敗軍の将を軽蔑するというような風が見えなかったことだ」
(勝海舟『氷川清話』より抜粋)

 勝の回顧談からは、西郷がどんな人物に対しても、礼を重んじ、丁寧に接することを心がけた人であったことがうかがえると思います。

 西郷は勝の嘆願書を読み、勝と恭順の条件について話した後、隣室に控えていた薩摩藩士・村田新八(むらたしんぱち)、中村半次郎(なかむらはんじろう。後の桐野利秋)を呼び、明日の江戸総攻撃の中止を伝えました。

 この両雄の会談が江戸百万の市民を救うことになったのです。
(つづく)




ーーーーー 以上 ーーーーー







--- 西郷隆盛 ---

6  薩長同盟から大政奉還まで

6 - 1  薩長同盟

 長州藩が恭順の意を示したとはいえ、幕府にとって西郷や徳川慶勝が下した処分は、余りにも軽いものと感じられました。これは幕府の驕りにもよるものですが、そんな幕府はまたもや諸藩に対し、長州再征の準備を進めるよう命じたのです。

 長州が恭順の意を示しているにもかかわらず、さらに再征を行なおうとする幕府の方針に対し、西郷は大きな憤りを感じ、「長州再征は幕府と長州の私闘であるため、出兵は拒否する」という方針で藩論をまとめました。

 このような幕府の傲慢なやり方に不満を持っていた土佐藩士・土方楠左衛門(ひじかたくすざえもん。後の久元)と同藩士・中岡慎太郎(なかおかしんたろう)の二人は、これを機に仲違いしている薩摩と長州の手を握らせようと考えました。

 土方と中岡は、同じ土佐藩士の坂本龍馬(さかもとりょうま)にも協力を求め、三人は薩長同盟に向けて動き出したのです。

 中岡は長州藩のリーダー的存在であった桂小五郎(かつらこごろ
う。後の木戸孝允)に対し、薩長融和に向けての説得を開始しました。

 また、土方は薩摩憎しで凝り固まっている長州藩諸隊の幹部の説得を始め、坂本はと言うと、西郷を始めとする薩摩藩の重臣らに対し、薩長同盟の必要性を説いたのです。

 長州にとっても、幕府の再征が目前に迫った現在の状況を考えると、薩摩との同盟は「渡りに船」だったのですが、これまでの経緯を考えると、薩摩へのわだかまりがどうしても拭えません。

八月十八日の政変や蛤御門の変での経験が、長州藩をして薩摩藩との同盟について、二の足を踏ませたのです。

 また、西郷自身はと言うと、薩長同盟の必要性は以前から感じていたのですが、国許の薩摩にいる島津久光は、以前から長州に対して悪感情を持ち続けていたため、西郷の独断では同盟に踏み切ることが困難であったのです。

 このように薩長同盟の道は当初から困難を極めました。

 しかし、坂本龍馬は一計を考えました。

 坂本は自らが設立した「亀山社中(かめやましゃちゅう)」が、薩摩と長州との間に入り、薩摩藩名義で外国から買った武器を長州藩に売ることを考えました。

 当時、諸外国の貿易商は、長州藩に武器を売ることを幕府から禁止されていたため、長州藩は幕府との戦いに備えて武備を整えるために、小銃や大砲といった兵器を外国から買い揃えることが出来ませんでした。

そのため、坂本が仲介役として間に入り、薩摩名義で買った武器を長州に渡すことで、長州藩のわだかまりを払拭しようと考えたのです。

 坂本、土方、中岡の不断の努力がようやく実を結び、京都において、長州藩の代表・桂小五郎と西郷を中心とした薩摩藩首脳部との会見が催されることになりました。

 しかし、長年いがみ合ってきた両藩の確執はそう簡単には消えず、双方とも自重して、なかなか同盟締結の話を切り出そうとはしませんでした。

 そんな中、同盟締結を見届けるべく、坂本龍馬が遅れて京に入って来たのです。

 坂本はお互いがけん制し合うことで、同盟がまだ締結されていないことに驚き、憤りました。

 坂本は西郷に対して言いました。

「西郷さん、桂はあっしにこう言いよりました。長州藩が滅亡すれども、薩摩がその後を継いでくれれば本望であると。桂もこれだけ日本のことを考えとるがぜよ。

西郷さん、ここはお互いの面子を捨て、薩摩から長州に同盟を申し込んでくれんか。これは長州藩のために頼むがじゃない。今後の日本の将来を考えてのことぜよ」

 西郷は坂本の言葉に心を動かされ、ようやく薩摩藩から長州藩に対し、同盟を申し込んだのです。

 こうして、慶応2(1866)年1月20日、坂本龍馬立会いの元で、
「薩長同盟」が締結されたのです。

6 - 2  第二次長州征伐

 薩摩藩と長州藩が密かに同盟を結んでいることなど露知らない幕府は、長州藩を徹底的に討伐するべく、長州再征の命令を諸藩に下しました。

 それを聞いた西郷は、幕府の失墜を痛感し、自ら筆を取って長州再征に反対する拒絶書を幕府に対し提出しました。薩摩の出兵拒否に驚いた幕府でしたが、ここまで来ては後には引けないとばかりに、長州藩に強引に攻め込んだのです。

 しかし、幕府軍はことごとく長州藩に叩きのめされ、各方面で連戦連敗を喫しました。

 幕府軍の敗戦の原因は、坂本龍馬の斡旋で手に入れた外国からの新式の兵器を長州藩が効果的に使ったことにもよりますが、一番の大きな原因は、薩摩藩や芸州藩などの有力諸藩が征長軍に参戦しなかったことにより、幕府軍の士気が一向に上がらなかったことが考えられます。

 このように幕府軍が各地で連敗し続けていた時、江戸から大坂城に入り、戦況を見守っていた第14代将軍・徳川家茂が突然病死しました。

 幕府は将軍の死により、ようやく長州征伐の休戦命令を出すに至ったのです。

6 - 3  大政奉還と討幕の密勅

 将軍・家茂の死後、将軍職に就いたのは一橋慶喜(後の徳川慶喜)でした。

 西郷は若き日、斉彬の命で一橋慶喜を将軍継嗣にするよう働いていたことは前述しましたが、その慶喜が今度は西郷の敵となり、その後立ちはだかっていくことになるのです。

 慶応3(1867)年5月、西郷は、薩摩、越前福井、土佐、宇和島という、当時力を持っていた雄藩と呼ばれる四藩に対し、国政のイニシアチブを握らせるべく、合議によって政治を運営する「雄藩連合会議」を京都において開催することに成功しました。

 当時の西郷は、この雄藩連合に全てを賭けて尽力していたのですが、四つの藩のそれぞれの思惑や利害関係の不一致、将軍・慶喜の巧みな政略などのため、会議は不成功に終わってしまうのです。

 この雄藩会議の失敗により、西郷は日本の変革を成し遂げるには、幕府を倒し、新しい政体を築くしかない、という考えに達したのです。

 雄藩連合会議(四侯会議)の失敗後、西郷や大久保は、倒幕への準備を着々と進めていたのですが、その運動とは反対に、土佐の坂本龍馬は、天下の政権を幕府から朝廷に返還させるという、「大政奉還(たいせいほうかん)」を推進しようと計画し、土佐の後藤象二郎(ごとうしょうじろう)と共に運動を始めました。

 西郷は後藤から大政奉還への同意を求められたのですが、「主旨は大いに理解し賛成するが、現在の日本の状況においては、建白書などで事態を打開することは困難である」と述べ、土佐藩の動きとは別に倒幕へ向けての用意を独自で進めることにしたのです。

 慶応3(1867)年9月18日、薩摩藩は長州藩と倒幕のための出兵盟約を結びました。

 また、大久保一蔵は、朝廷より「討幕の密勅」を降下してもらうべく、公家の岩倉具視(いわくらともみ)と共に執拗な運動を続けました。

 そしてその結果、10月14日、薩摩藩と長州藩に対して、待望の「討幕の密勅」が降下されたのです。

 しかしながら、その動きを事前に察知していた将軍・徳川慶喜は、幕府が自ら進んで朝廷に政権を奉還すれば、薩長の討幕の大義名分を無くすことが出来ると考え、土佐藩の建白を受け入れ、大政奉還に踏み切ったのです。

 この慶喜の思い切った行動は、朝廷や薩摩、長州藩に大きな衝撃を与えました。(つづく)




ーーーーー 以上 ーーーーー







--- 西郷隆盛 --- 

5  西郷赦免から第一次長州征伐まで

5 - 1  西郷赦免

 薩摩藩は会津藩と手を結んで「八月十八日の政変」を起こすことにより、京都における藩の勢力回復を目論んだのですが、実際それは逆効果にすぎませんでした。

会津藩と結んだことによる効果は意外に少なく、逆に勤皇藩と思われていた薩摩藩が幕府側の会津藩と同盟したことにより、その評判を落とす結果となったのです。

 また、会津藩と同盟して以後の薩摩藩は、「参預会議(制度)」という、有力な諸大名が朝議や幕議に参加するための新たな政治制度を提唱し、それを軸にしての政治運営を模索しますが、当時将軍後見職であった一橋慶喜の策謀により、制度自体が形骸化してしまう結果となり、当時の薩摩藩首脳部は、それを打開する新たな方策が見えないような状況でした。

 そのような政治的に行き詰まった薩摩藩内に、「この危機を救えるのは西郷吉之助しかいない」という運動が起こり始めました。

 最初、先頭に立って西郷赦免の運動を起こしたのは、寺田屋騒動の生き残りである柴山竜五郎(しばやまりゅうごろう)、三島源兵衛(みしまげんべえ。後の通庸)、福山清蔵(ふくやませいぞう)といった西郷と縁の深い人々でした。

三人は協議した結果、大久保や家老の小松帯刀(こまつたてわき)といった久光の重臣達に対し、西郷の赦免を久光に願い出るよう頼むことにしました。

 しかし、彼ら重臣の誰もが久光の西郷嫌いをよく知っていたので、三人の依頼になかなか首を縦に振りません。そんな事を進言すれば自分達の立場が危なくなる、重臣達はそんな風に考えたのかもしれません。

 そこで三人は、久光の特にお気に入りの家臣である高崎左太郎(たかさきさたろう)と高崎五六(たかさきごろく)の二人に対し、久光に西郷赦免を願い出てもらうように頼んだのです。

 高崎両名は、三人の熱意に心を動かされ、死を決して久光に西郷赦免を申し出ました。

「西郷赦免の儀、お聞き届けなくば、この場で割腹つかまつる所存でございもす」

 そんな願い出を聞いた久光は、苦々しい表情を浮かべながら、こう言いました。

「左右みな賢なりと言うか……。しからば即ち愚昧の久光ひとりこれをさえぎるのは公論ではあるまい。太守公(藩主・忠義)に伺いを立てよ。太守公において、良いと言われるのなら、わしに異存はない」

 久光はそう言うと、くわえていた銀のキセルをギュッと歯で力強く噛み締めました。その銀のキセルには、久光の歯型が残っていたと伝えられています。この伝承をもってしても、久光がどんなに西郷の赦免を嫌がっていたのかが良く分かります。

 ただ、久光としても薩摩藩の今後を考えると、西郷のように人望や手腕において右に出るものがいない者をこのまま南島に朽ち果てさせて置くということが情勢上出来なかったのでしょう。久光は渋々ながらも西郷の赦免を了承したのです。

 こうして沖永良部島にいた西郷に、赦免の使者が到着しました。

 元冶元(1864)年2月21日のことです。

5 - 2  西郷の着京と蛤御門の変

 元冶元(1864)年2月28日、西郷は約一年八ヶ月ぶりに鹿児島の地に帰り着きました。

 そして、西郷は席の暖まる暇もなく京へ呼び出され、久光より「軍賦役兼諸藩応接係」を任命されました。軍賦役とは軍事司令官のようなものです。この時から西郷の縦横無尽な活躍が始まるのです。

 西郷が京に入って最初に手掛けたことは、前年の「八月十八日の政変」で同盟した会津藩と手を切ることでした。

確固とした方策を持たずに、ただ長州藩を追い落とすためだけに会津と手を結んだことへのしわ寄せが、薩摩藩の現状を悪化させていると考え、会津藩と一定の距離を保つために、薩会同盟に関係した人々を薩摩に帰国させ、京での薩摩藩の信頼回復に全力をあげました。
 
 一方「八月十八日の政変」で京から追い落とされた長州藩ですが、この年に起こった「池田屋事件」(長州や土佐藩士などの尊攘派の志士約三十名が、会津藩預かりの新選組の襲撃を受け、七名が死亡し、残りが捕縛された事件)に激昂した長州藩内の急進派と呼ばれる人々は、京での勢力回復を目指し、福原越後(ふくはらえちご)ら三人の家老を将として、京都に向けて大軍を進発してきたのです。

 長州藩兵は、伏見、嵯峨、山崎といった京周辺に陣を構え、いつでも攻撃できる準備を始めました。

 この事態を憂慮した京都守護職の松平容保は、万一の場合に備え、薩摩藩に出兵を要求したのですが、西郷は「池田屋事件は、会津と長州との間の私闘である」と出兵を拒否し、薩摩藩は御所の周辺を重点的に守るという方針を立てたのです。

 元冶元(1864)年7月18日夜、ついに痺れを切らした長州藩兵が動き出し、御所の蛤御門(はまぐりごもん)を中心に攻めかかりました。
 前年からの恨みを晴らすかの如く、長州藩の勢いは誠に凄まじく、会津兵を蹴散らし、長州勢は御所に迫る勢いを見せました。

 この状況を知った西郷は、自ら藩兵を率いて蛤御門に駆け付け、長州勢と激しい戦いを繰り広げました。西郷自身も軽傷ながら被弾するなど、この蛤御門周辺の戦いは大変な激戦となったのですが、西郷は藩兵を上手く使いこなし、見事に長州勢を退けたのです。

 これが世に言う「蛤御門の変」とか「禁門の変」と言われているものです。

 この戦いで、薩摩藩兵の強さが際立ったため、西郷吉之助の名も
一躍京において有名となりました。


5 - 3  勝海舟との出会い

 元冶元(1864)年9月11日、越前福井藩の堤正誼(つつみまさよし)と青山貞(あおやまさだ)の二人が、突然西郷を訪ねてきました。二人は西郷に対し、「今大坂に幕臣の勝海舟(かつかいしゅう)という人物がいるのだが、勝は幕臣中一廉の人物であるので、是非面会なさった方がよい」と進言してきたのです。

 西郷はその話を聞き、早速勝に面会を申し込みました。勝はその申し出を快く受け入れ、ここに薩摩と幕府の英雄が顔を合せたのです。

 勝はその席上、ざっくばらんに幕府の内情や、現在の国内情勢や諸問題について、西郷と語りあいました。

 西郷はその時の勝との対面を、大久保宛の手紙の中に次のように書いています。

「勝氏と初めて面会したのですが、実に驚くような人物でした。最初はやっつけるつもりで会ったのですが、実際会ってみると、ほんとうに頭が下がる思いになりました。勝氏にはどれだけの知略があるのか、私にはまったく分からないほどです」

 西郷がいかに勝の人物を認めたのかが、この手紙の記述でよく分かると思います。

 そして、このことが後年江戸無血開城の大立者となった勝と西郷の最初の出会いとなったのです。

5 - 4  第一次長州征伐と五卿動座

 蛤御門の変で長州藩を撃退し自信を深めた幕府は、その勢いに乗じて、これを機に長州藩を討伐しようと考えました。

 元冶元(1864)年7月23日には、幕府は早くも長州藩追討の勅命を朝廷から受けることに成功し、在京の二十一藩に対し、長州への出兵命令を下しました。西郷も薩摩藩の代表として、征長軍の参謀に任命され、長州に向かうことになったのです。

 征長軍の総督は、尾張藩主・徳川慶勝(とくがわよしかつ)でし
た。慶勝は、征長についての見込みや意見を西郷に求めると、西郷は長州征伐のような国内の内戦が無意味であることを述べ、武力を使わずに、長州藩の支藩であった岩国藩主・吉川監物(きっかわけんもつ)に本藩を説得させ、恭順させるのが一番の良策であるということを進言しました。

 西郷の頭の中には、幕府が考えるように、長州藩を潰すという了見はさらさら無かったのです。

 徳川慶勝は西郷の意見を聞きいれ、西郷に征長に関わる一切の工作を委任しました。

 慶勝の委任を受けた西郷は、急遽岩国へと向かい、岩国藩主・吉川監物と会談し、無意味な抵抗は愚策であることを論じ、

①先の蛤御門の変の首謀者である三人の家老や四人の参謀の処罰を徹底し恭順の意を示すこと

②八月十八日の政変で長州に落ち延びた五卿(七卿のうち一人は既に病死し、一人は行方不明になっていた)を他藩に移すこと

 といった条件を守るならば、征長軍を解兵させるように働くと約束したのです。

 吉川は西郷の進言を快く受け入れ、本藩の長州藩に西郷が提示した条件を遂行するように働きかけました。

 結果、長州藩は蛤御門の変の首謀者である三家老を切腹させ、四参謀の斬罪を行い、恭順の態度を示したのです。

 しかし、五卿の移転に関してだけは事態が紛糾しました。

 長州藩が匿っていた三条実美以下の五卿は、長州藩にとって勤皇藩として働いてきた象徴であり、証でもあったからです。

 五卿を他に引き渡すという征長軍の条件に、長州藩士らは激昂しました。

 特に、前年高杉晋作(たかすぎしんさく)によって結成された奇兵隊を中心とした諸隊と呼ばれる十数の部隊は、強行に五卿の移転に反対しました。

 武力を使うことなく、長州処分を行うことが出来ると考えていた西郷にとって、この諸隊の行動は、平和的解決をふいにしかねない、危ういものであると判断しました。

五卿の移転を拒否することは、すなわち幕府に反抗の意を表明する形になり、武力での討伐を推し進める幕府に対し、出兵の名目を与えかねないとも考えられたからです。

 そこで西郷は思い切った行動に出ました。

 自らが下関の諸隊の本部へと乗り込み、五卿の移転に関して、諸隊の幹部らと直談判しようとしたのです。

 当時の長州藩士達の間には、八月十八日の政変や蛤御門の変での恨みが骨髄にまでしみわたっており、薩摩・会津を憎むものが多く、下駄の裏側に「薩賊会奸(さつぞくかいかん)」と書いて歩く者がいたほどです。

 また、過激な長州藩士らは、「関門海峡は薩摩にとって三途の川
だ。渡れるものなら渡ってみろ、薩摩藩士と判ったら、討ち伏せてくれよう」とまで放言し、長州という場所は薩摩人にとってまさに死地に等しい場所だったのです。

 特に諸藩の幹部連中には過激な論を吐く者が多かったので、その諸隊本部に行くということは、まさに死にに行くようなものであったとも言えましょう。

 しかし、西郷はその死地に自らが入ることにより、事態の改善につとめようとしたのです。この西郷の行動は、まさに「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」という故事を実践するようなものでした。

 諸隊の幹部連中は、薩摩藩を代表し、征長軍の参謀であった西郷が突然訪問してきたことに驚いたことでしょう。

 西郷は諸隊の幹部らに対し、現在の日本の置かれた状況を考えてみれば、内戦を起こしている場合ではないことを説き、また五卿の身の安全を保障し、五卿移転による早急な征長軍の解兵が薩長双方にも有意義であることを述べました。

 この西郷の熱心な説得により、諸隊の幹部らは五卿を移転させることをようやく承知したのです。そして、五卿動座が決定されたことにより、征長軍総督・徳川慶勝は、征討諸軍に解兵を命じました。

 第一次長州征伐の平和的な解決は、西郷の死を賭した働きによるものだったと言えましょう。

 話は少しそれますが、後々にも関係のあることですので、一つ付け加えます。

 この五卿動座の方法を見ても分かるように、紛糾した事態を解決の方向へと導く西郷のやり方は、自らを死地においてこそ、解決が生まれるという独特のものであることが分かるのではないかと思います。

 これは西郷の生涯を通じての手法であり、手口であり、考え方であり、クセであるとも言って良いでしょう。

 いわゆる「征韓論」と言われるもの自体も、この手口に準拠しているものと感じます。

 後にまた書きますが、「征韓論」という武力で朝鮮を攻めようなどという暴論を西郷が唱えたことは一度もありません。

逆に、朝鮮を武力で攻めることに反対し、平和的な解決を望んで、そう主張していたのです。

 いわゆる「征韓論争」において、西郷自身には朝鮮を武力で攻めようなどという了見はさらさらありませんでした。ただ、西郷は日朝間のこじれた関係を正常に戻すべく、全権大使として、朝鮮に渡り、事態の収拾にあたろうとしたに過ぎないのです。

「死地に入ってこそ、道が開ける」

 この西郷独特の手法を世間は誤解し、「征韓論」などという虚像を作り出す結果となってしまったのです。(つづく)




ーーーーー以上 ーーーーー







4  寺田屋騒動から八月十八日の政変まで

4 - 1  寺田屋騒動

 西郷が捕縛され、久光の命令で国許薩摩に送還されると、久光の行列はいよいよ威風堂々と京の都に入りました。

 西郷という統制者を失った京・大坂に集まった浪士や有馬新七(ありましんしち)を中心とする薩摩藩の急進派藩士らは、この久光の入京を機に、倒幕の先鋒として兵を挙げることを計画し、京都伏見の船宿「寺田屋」に集結し始めました。

 久光は元来保守的な性格で統制主義者です。このような自分の計画をぶち壊すような浪人達や藩士らの行動を不快に思いました。折角堂々と国政に乗り出してきたにもかかわらず、一部の過激な者達の行動によって自分の計画の邪魔をさせられたくもありませんでした。

 また、当時の朝廷自体も、このような過激な浪士達が不穏な動きを見せていたことを憂慮していたため、朝廷は久光に対し、彼ら過激浪士らの鎮撫を命令したのです。

 浪士鎮撫の朝旨を受けた久光は、文久2(1862)年4月23日、倒幕のための挙兵を計画し、薩摩藩士らが集結した寺田屋に、大山格之助(おおやまかくのすけ。後の綱良)や奈良原喜八郎(ならはらきはちろう。後の繁)といった、いずれも武術に優れた藩士を九名選び、寺田屋に派遣しました。

 久光はその九名の藩士に対し、

「寺田屋の連中が、もし自分の命令に従わない時は、臨機の処置を取れ」

 と厳命したのです。
 臨機の処置とは、命令に刃向った場合、上意討ちにしても構わないということです。

 当時、寺田屋に集結していた有馬新七、柴山愛次郎(しばやまあいじろう)、橋口壮助(はしぐちそうすけ)といった薩摩藩士らと久光の派遣した鎮撫士とは、同じ誠忠組の同志でもあったのです。

 寺田屋に着いた大山達は、有馬達に対し、軽挙な行動は慎むようにとの久光の命令を告げました。

 しかし、有馬は、

「事ここに至ってはもはや中止は出来もはん」

 と、久光の命令を拒否したのです。

 それを聞いた大山ら鎮撫士は、「君命ごわす!」と叫び、有馬らに斬りかかりました。

 ここに同志相討つ寺田屋の惨劇が起こったのです。

 大山ら鎮撫士は、いずれも剣術に長けた藩士ばかりでしたので、寺田屋にいた人々は次々と斬り倒されていき、まるで生き地獄のような光景となりました。

 特に、有馬新七の最後は壮絶を極めています。

 有馬は鎮撫士の道島五郎兵衛(みちじまごろうびょうえ)を斬りあいに及んだ後、道島を壁へと押し付け、その上に自分が覆いかぶさり、同志であった橋口吉之丞(はしぐちきちのじょう)に対し、

「おい(自分)ごと突け〜! おいごと刺せ!!!」

 と、絶叫しました。

 有馬の絶叫を聞いた橋口は、「チェスト〜!!!」と気合いをかけ、有馬と道島を同時に刀で突き抜いたのです。

 何と、壮絶なことでしょうか……。想像するだけでも悲惨極まりない光景です。

 結果、寺田屋に集結していた浪士達は、有馬以下六名が死亡、二名が重傷を負い、鎮撫士側は、有馬と共に突き刺された道島のみが死亡しました。

 また、寺田屋に集結していたその他二十数人の薩摩藩士達は、大山らに熱心に説得され、倒幕のための挙兵を諦め、薩摩藩邸に出頭することになりました。
 そして、久光の取ったこの迅速な鎮圧行動に、朝廷は久光に対し、絶大なる信頼感を持ったのです。
 
このように同じ薩摩藩内の若者達が斬りあった寺田屋騒動で、久光は朝廷の信頼を得ることになったのは、余りにも悲惨かつ皮肉過ぎる出来事であったと言えましょう。

4 - 2  沖永良部島遠島

 久光の逆鱗に触れ、薩摩へと送還された西郷は、その後藩から徳之島への遠島を申し付けられました。

 これが西郷にとって初めての罪としての遠島となります。

 そしてその後、西郷は沖永良部島への遠島替えを命令されることになるのですが、沖永良部島での西郷の遠島生活は、峻烈を極めました。

 西郷は、昼夜囲いのある牢屋の中に閉じ込められ、常に番人二人に見張られる生活を強いられました。

 沖永良部島と言えば、本土よりも沖縄に近く、高温多湿で非常に雨量も多い島です。吹きざらし、雨ざらしに等しい獄舎での生活は、まさに西郷に死ねよと言わんばかりの処罰であったことがうかがわれます。久光はそれほど西郷のことを憎んでいたのです。

 西郷は、その獄舎の中で三度の食事以外は水や食料もろくに口に含まず、常に端坐し続け、読書や瞑想を続けていたと伝えられています。

 このような過酷な生活を続けていた西郷は、日増しに痩せ細り、体力も限界へと近づいていったのです。

4 - 3  生麦事件と天誅の嵐

 沖永良部島で西郷が過酷な苦難を続ける中、島津久光は朝廷より念願の幕政改革の勅許を得ることに成功し、勅使である公家の大原重徳(おおはらしげとみ)を護衛して、文久2(1862)年6月7日、威風堂々と江戸に入りました。

 勅使の大原は、当時の第14代将軍・徳川家茂に対し、幕政改革の朝旨を伝えました。久光としては初志を貫徹し、さぞや満足のことであったでしょう。

 文久2(1862)年8月21日、目的を果たした久光の行列が江戸から引き上げる際、東海道生麦村(現在の横浜市郊外)において、当時の日本を揺るがす大きな事件が起こりました。

 久光の行列の中を四人のイギリス人が馬で乗り入れ、行列を横切ろうとしたため、薩摩藩士・奈良原幸五郎(ならはらゆきごろう。前名喜八郎)は、「無礼者!」と一喝するや、腰の刀を引き抜き、イギリス人一行に斬りかかり、その内の日本に観光に来ていたチャールス・レイックス・リチャードソンが死亡したのです。

 これが世に言う「生麦事件(なまむぎじけん)」です。

 この生麦事件が、後年の薩英戦争へとつながっていくのですが、それはまた後で述べることとします。

 このように大きな事件を起こしながらも、久光は文久2(1862)年閏8月7日、京に戻ってきました。

 久光としては、幕府に対する幕政改革の要求に成功し、朝廷の覚えも目出度く、その首尾は上々であったのですが、京における久光の評判は余り良いものではありませんでした。天皇を含む上流公家達の間では久光の評判は高いものでしたが、下級公家や一般のいわゆる志士や浪士、他藩の下級藩士らには、評判が良くなかったのです。

 それには大きな理由があります。

 長州藩の長井雅楽という人物が「航海遠略策」という論策を持って国政に乗り出したことは前述しましたが、この論策は久光が上京したことにより、評判がガタ落ちとなりました。

これは長井の策が「幕主朝従」といった形での幕府主導型の公武合体策であったことと(実際はそうでもないのですが)、久光が上京を機に、因循な公武合体策ではなく倒幕に踏み切るものと、一般の志士らには期待されていたからです。

 久光が上洛した際、倒幕が成ると考えた人々は多くいたのですが、久光が京に入ってまずしたこととは、寺田屋での倒幕派の鎮圧という、一般には理解しがたい行動でした。その後の久光の動きを見ても、長井の行動と特段の変わりを見せなかったため、久光の評判は上がるどころか、逆にどんどん下がっていったのです。

 また、長井雅楽はその後どうなったのかと言うと、長井は藩のために努力したにも係わらず、航海遠略策のために切腹を命じられるという不合理なことまで起こりました。長州藩内の松下村塾メンバーを中心とする下級藩士らが、長井の排撃運動を目論み、久光の上京により評判の落ちた航海遠略策の責任を追及し、彼を切腹にまで追い込んだのです。

 最後には、長州藩政府は、航海遠略策は長井が勝手に主唱したものであって、藩は一切無関係であったとまで極論しました。

 長井という人物は、余りにも悲劇的な人だと感じられてなりません。

 長州藩は長井の航海遠略策を引っ込めた後、藩論を急展開させ、最も過激な尊王攘夷論を藩論と定めました。

 尊皇攘夷とは、読んで字の如く「王(天皇)を尊び、夷狄(いてき。外国)を攘う(はらう。撃退する)」という過激なものです。

 長州藩の急進派藩士達は、下級公家を中心に過激な尊皇攘夷論を吹聴し、これが大きな勢いを持ち始めました。このような大きな情勢の変化により、久光の主唱する公武合体論は、京において、またもや古い産物となりました。

わざわざ薩摩から京に出てきて、公武合体論を展開した久光としては、そんな長州藩の動きに対し、歯噛みする悔しい思いだったに違いありません。
 しかしながら、久光としてはこのまま京に留まり、もう一度この政治情勢を変えることが出来ませんでした。

 生麦事件の報復と称し、イギリス艦隊が薩摩を砲撃するという噂が流れたためです。

 久光としては、イギリスの報復行動に対する準備を整えるため、帰国せざるを得なくなり、久光が薩摩に向けて帰国した後、京の町にはテロリズムの嵐が吹き起こりました。

 安政の大獄に幕府の手先として働いた者や、開国論を唱える者、はたまた攘夷実行に邪魔になる者全てが暗殺という手段により殺されていったのです。

 まさにこの時期は幕末という時代の中でも、最も凄惨で暗黒の時期であったと言えるでしょう。

4 - 4  薩英戦争と八月十八日の政変

 文久3(1863)年7月2日、横浜から海路鹿児島の錦江湾に集結したイギリス艦隊七隻と薩摩藩との間で激しい砲撃戦が繰り広げられました。

 世に言う「薩英戦争(さつえいせんそう)」です。

 イギリス側は前年に起こった生麦事件の犯人の引き渡しと賠償金の請求を薩摩藩に要求したのですが、薩摩側はこれを拒否したため、戦端が開かれました。

 アームストロング砲を備えたイギリスの最新軍艦に対し、薩摩藩は旧武装ながらも勇猛果敢に戦いました。結果、薩摩側の戦死者が五名であるのに対し、イギリス側の戦死者は十三名にものぼり、イギリス側は旗艦・ユーリアラス号のジョスリング艦長までも戦死するという損害を受けました。

 しかしながら、イギリス艦隊の砲火により、城下町をことごとく焼かれた薩摩藩も、こ薩英戦争で外国の強大な力を思い知り、藩論を大きく展開することになりました。イギリスから軍艦や武器の購入を行ない、また留学生を派遣し、紡績機械を輸入するなど、薩摩藩は親イギリス政策を取り、両者の間柄は急激に親しいものとなっていったのです。

 薩摩藩がイギリスと激しい砲撃戦を経験した時期、遠い京の地では、長州藩の勢いは益々盛んとなっていました。

 長州藩の藩論が航海遠略策から最も過激な尊王攘夷論に変化したことは前述しましたが、長州藩の急進派と呼ばれる藩士らは、盛んに公家達に尊王攘夷論を吹聴し、京における長州藩の台頭は著しいものがありました。

 また、勢いを得た長州急進派の藩士らは、文久3(1863)年3月に加茂神社、4月には男山八幡宮に攘夷祈願のために天皇を行幸させるなど、自らの思うがまま朝廷を操るような状況が続いていたのです。

 このような長州藩の暴走を当時苦々しく見つめていた二つの藩がありました。

 一つは、当時京都守護職の要職にあった松平容保(まつだいらかたもり)を藩主とする会津藩です。

 会津藩主・松平容保は、前年文久2(1862)年閏8月、幕府より「京都守護職」を拝命し、12月に藩兵約千人を引き連れて京の都に入りました。

 しかし、その頃の京都は天誅と称したテロリズムの嵐が吹き荒れており、その様子を間近で見た松平容保は大いに憤りもしたでしょうが、テロを続ける長州や土佐の過激派集団の背後には、これまた過激論を息巻く急進派公家がいたため、容保としてもなかなか容易には手が付けられない状況であったのです。

 京都守護職として赴任しながらも、長州藩の横暴を食い止めることが出来ないことに、容保としては歯噛みするような思いで毎日を過ごしていました。

 そしてもう一つの藩は薩摩藩です。

 前述しましたが、島津久光は国政のイニシアチブを握るべく、遠い薩摩からわざわざ兵を率いて京都に入り、江戸にも下向して幕府に対して幕政改革を迫ることに成功していたのですが、京に帰ってみると、長州藩の尊皇攘夷論の勢いが盛んになっていました。

 この原因については以前簡単に述べましたが、ともかく久光としては、折角の努力が長州藩のために水泡に帰したわけですから、久光の中に長州藩憎しという感情が芽生えたのは当然のことだったと言えるでしょう。

 結果、会津藩と薩摩藩はお互いの利害関係が一致し、お互いに接近し合い、手を握るという前代未聞の出来事が起こったのです。

 文久3(1863)年8月18日未明、薩摩・会津の兵が俄かに動き出し、武装して御所の門を固めました。

 公武合体論者であった公家の中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう)は急遽御所に参内し、天皇から急進派公卿の三条実美ら七名の国事掛免職の勅許を得ました。

 それと同時に長州藩は、受け持っていた御所の堺町御門の守衛を免じられ、三条実美ら七人の公卿と長州藩士らは、京から勢力を一掃され、落ちざるを得なくなったのです。

 この会津と薩摩の長州藩追い落としクーデターを「八月十八日の政変」といいます。(つづく)



ーーーーー 以上 ーーーーー






よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事