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3 奄美大島潜居から島津久光の上京まで
3 - 1 土中の死骨そして奄美大島へ 冬の冷たい鹿児島錦江湾の海に身を投じた西郷と月照でしたが、月照は絶命し、西郷だけは奇跡的に蘇生しました。 一人だけ生き残った西郷は、苦しみに苦しみぬきました。 共に身投げした相手が死に自分だけが生き恥をさらしているのです。武士として、そして一人の人間として、これほどの恥辱はなかったことでしょう。 西郷はこの自殺未遂から一ヶ月後に書いた手紙の中で次のように書いています。 「私事土中の死骨にて、忍ぶべからざる儀を忍び罷り在り候。(私は今や土中の死骨で、忍ぶべからざる恥を忍んでいる身の上です)」 西郷の苦しみや悩みはいかばかりであったでしょうか……。察するに余るほどの苦しさであったに違いありません。 そんな状態の西郷に対し、藩政府は奄美大島行きを命じました。 これは遠島(流罪)という処分ではありません。よく西郷は二度の島流しにあったと書かれている本がありますが、この一回目の奄美大島行きには、年六石の扶持が付いていますので島流しという処分ではありません。 西郷が奄美大島行きを命じられたのは、安政の大獄によって西郷にも幕府から捕縛命令が出ていたため、幕府の目から逃れさせるための処置でした。西郷は先君であった斉彬の無二の寵臣であったので、この運びになったのでしょう。 胸に大きな傷を負った失意の西郷は、翌安政6(1859)年1月、奄美大島へと旅立ちました。 3 - 2 奄美での生活 奄美大島での西郷の生活には数多くの逸話が残されています。 最も有名なものを一つ紹介しましょう。 当時の奄美大島と言えば、貴重な砂糖の生産地であり、島民には最も厳しく、そして過酷な取り立てが行われていました。 例えば、当時島の農家には各戸それぞれの砂糖の負担生産額が割り当てられており、いかに不作の年であっても、そのノルマが達成出来ない時には、厳しい処罰が待っていました。 今ではとても信じられない話ですが、幼い子供が隠れてサトウキビを少しでもかじったのが役人に見つかると、厳しく処罰されたくらいなのです。 このように自分の畑で作ったサトウキビなのに、一口さえもその生産農家の人々に入ることがありませんでした。 西郷が奄美大島にやって来たこの年、サトウキビが不作であったため、ノルマを達成出来なかった農民達が十数人出ました。島役人達はその事が自らの手落ちになることを恐れ、その農民達に厳しい拷問を加えました。 常日頃から、西郷はそんな農民達の窮状に心を痛め、役人達の非情なやり方に憤っていたのでしょう。西郷は農民達が拘束されていることを聞きつけ、ある日、在番役人の相良角兵衛(さがらかくべえ)に面会を求め、農民達を解放するように頼みました。 しかし、普段から島民に対し威張り切って傲慢になっていた相良は、西郷の意見を完全に無視しました。 そんな相良の態度に怒った西郷は、 「おはんが方針を改めんのなら、おいにも考えがごわす。直接藩主公に対し建言書を書き、おはんの日頃の態度も併せて上申するつもりごわすから覚悟しておられよ」 と言い放ち、席を立ちました。 いつの時代でも役人は上役に自らの不始末を報告されるのを嫌い、これにより出世が遅れることを恐れるものです。驚いた相良は大いに後悔し、態度を豹変して、西郷に対し平謝り、農民を解放することを約束しました。 こんなことがあったことや、西郷は元来優しい性格で、病人や老人に対して、自分の扶持米などを分け与えていたことなどから、西郷は次第に島民に慕われるようになりました。 そしてついには、西郷の住居があった龍郷(たつごう)一の名家である龍家の一族の娘・愛加那(あいかな)と結婚したのです。 西郷はここで三年もの間、片時の幸せな新婚生活を過ごすことになったのですが、時代はまた西郷を必要としていたのです。 3 - 3 公武合体運動と島津久光の上京計画 西郷が奄美大島に身を隠している間、時代は大きく変わろうとしていました。 恐慌的な暴圧政治を行なっていた井伊大老は、万延元(1860)年3月3日、江戸城桜田門外で水戸藩士を中心とした集団に襲われ、殺害されるという事件が起こりました。 いわゆる「桜田門外の変」です。 この事件により、幕府は急激に力を失うことになり、井伊大老の失政を反省した幕府は、今後幕府のみで国政を運営していくのは無理があると考え、朝廷と幕府が力を合わせて国政を運営しようとする「公武合体運動(こうぶがったいうんどう)」に力を入れるようになったのです。 しかしながら、朝廷側が幕府に外国との条約の破棄を求めるなど、幕府の公武合体運動は当初から困難を極めました。 その時、一つの藩と一人の人物が、混沌とする日本の国政に乗り出してきたのです。 それは長州藩と長州藩士・長井雅楽(ながいうた)という人物です。 長州藩は長井の提唱した「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」というものを藩論とし、国政に乗り出してきました。 長井は「航海遠略策」の中で、現在の日本の国難を乗り切るためには、国論の統一が必要であることを述べ、そのためには朝廷と幕府とが力を合わせて一つになっていくことが重要であることを論じました。 そしてまた、朝廷が頻りに幕府に対して要求する諸外国との条約破棄は、そう簡単に出来るものではない。鎖国というのは、朝廷が言うように日本古来のものではないため、今は外国に対して開国・通商し、日本自体が力を付けることによって日本の国威を上げていくことが、すなわち外国の侮りを受けないことにつながるということを主張したのです。 このように長井の「航海遠略策」は、非常に理にかなった堂々とした論策であったため、公武合体運動に行き詰まっていた幕府にとっては渡りに船の政策であり、長井の論ずるところは非常に現実的な政策であったので、朝廷にも大変受けが良かったのです。 以上のようなことから、航海遠略策は、京都において一大旋風を巻き起こしました。 長州藩と言えば、薩摩藩と共に明治維新を成し遂げた原動力となった藩ですが、長州藩が日本の国政に積極的に乗り出してきたのは、この航海遠略策が初めてのことです。 一方、西郷のいない薩摩藩ですが、斉彬の死後、新しく藩主に就任したのが斉彬の異母弟の久光の子・忠義であったことは前述しましたが、その忠義の後見人であった斉彬の父・斉興が亡くなると、忠義は実父・久光を藩主と同等の待遇を受けることが出来る「上通り(かみどおり)」という身分にしました。 お由羅騒動と呼ばれるお家騒動で、斉興が斉彬ではなく、側室・由羅の方の子である久光を藩主にしたいと考えていたことは、お由羅騒動の際に述べました。結局は兄の斉彬が藩主に就任したのですが、弟の久光はと言うと、臣籍(家臣の身分)に下っていたのです。 久光の子の忠義という人物は、非常に親思いの優しい性格を持つ人物であったので、実父を家臣の待遇のままにしておくのは、子として孝道にそむくと考え、久光を藩主と同等の待遇を受けることが出来る身分としたのです。 久光という人物は、頑固で保守的な性質でありましたが、人物の押しも堂々としており、国学を中心に学問の造詣も深い人物でした。その久光が、長州藩が朝廷や幕府間で、その勢いが大いに振るうのを見て、自らも公武合体を実現させるために国政に乗り出そうと考えました。 久光は斉彬が考案し、結局は成し遂げることが出来なかった、あの率兵上京計画を実現させようと考えたのです。 3 - 4 西郷の召還と久光上京 久光の重臣としての地位を確立しつつあった誠忠組の同志であり、西郷の盟友であった大久保一蔵は、この率兵上京計画を実現するにあたり、先君・斉彬の寵臣として働いた西郷を奄美大島から召還させることを久光に願い出ました。 そして、文久2(1862)年2月11日、西郷は約三年ぶりに本土・鹿児島に戻ることとなったのです。 しかし、奄美大島から帰還した西郷は、大久保の期待を裏切り、久光の率兵上京計画に猛烈に反対しました。西郷は、斉彬が計画した当時と現在の政治状況が余りにも違うこと、兵を率いて上京する準備が整っていないこと、今軍勢を率いて京に入れば予期せぬ事態が起らないとも限らないこと、斉彬に比べて久光が人物的にも数段劣ることなどを理由に、久光に対し、面と向かって堂々と反対意見を述べたのです。 久光としては、そんな西郷の態度を快く思うはずがありません。颯爽と国政に乗り出そうとしていたのを、たかが一藩士にあからさまに反対されたのですから。この瞬間から、久光と西郷の長く深い確執が始まったと言えるかもしれません。 西郷の召還をはかった大久保は、予想外の西郷の態度に戸惑いましたが、根気よく西郷を口説き落とし、久光の上京計画への協力を求めました。 そんな目的に向って邁進して止まない大久保の態度に、西郷は、 「おはんがそこまで考えておるのなら、気張って(頑張って)やりもんそ」 と、大久保に協力することを了承し、久光の行列が出発する約一ヶ月前に、「肥後の形勢を視察し、下関にて行列の到着を待て」という命令を久光から受け、同志の村田新八(むらたしんぱち)と共に薩摩を先発しました。 西郷が下関に入ると、西郷の予期した憂いは的中していました。久光や藩の重臣達が考えている以上に、情勢は激しく揺れ動こうとしていたのです。 久光が実行しようとしている率兵上京計画を薩摩がいよいよ倒幕に踏み切ったと勘違いした脱藩藩士や浪士、薩摩藩内の急進派藩士らが、ぞくぞくと京・大坂に集結し、不穏な動きを見せようとしていたのです。 久光は元来保守的な人間で、大きな改革は望まない人物です。ましてや、久光の頭の中には幕府を倒すなどという考えは毛頭ありません。久光の素志は、公武合体政策なのです。 緊迫する状況を聞いた西郷は、このまま久光の行列が京・大坂に入れば、思いがけない事件が起こるかもしれず、何とか未然にそれを食い止めなければならないと考え、久光から下された下関で待てとの命令を無視し、その足で急遽大坂へと向かったのです。 大坂に到着した西郷は、騒ぎ立てる浪士達に対し、軽挙な行動を起こさぬように戒め、自分の命令の元に従うことを約束させ、騒ぎの鎮静化に尽力していたのですが、下関に着いた久光は、命令を無視し勝手に行動した西郷に激怒しました。そしてその後、兵庫に入った久光は、つに西郷の捕縛命令を下すのです。 久光が西郷の捕縛命令を下したことを知った大久保は、西郷を急遽兵庫の須磨の浜辺に呼び出し、西郷に向かってこう言いました。 「久光公のお怒りは尋常ではごわはん。もしかすると、吉之助さあに切腹を命じるやもしれもはん。こげな事態になったのには、おいにも大きな責任がごわす。吉之助さあだけを死なすわけにはいきもはん。おいも一緒に死にもす。吉之助さあ、おいと一緒に刺し違えて死にもんそ」 大久保の目は本気です。大きな決意に満ちています。 しかし、西郷は首を大きく横に振り、こう言いました。 「今、おいとおはんの二人が死んだら、薩摩藩の今後はどげんなりもすか。天下のことはどげんなりもすか。死ぬ時は、いつでも死ねもんそ。男が黙って歯を食いしばり、恥を忍んで気張らんといかんのは、こん今でごわすぞ」 西郷の言葉に、大久保はようやく改心し、西郷を自分の宿舎に連れて行き、久光に対して西郷が謹慎していることを伝えました。 このように、西郷はどんな困難な場面に遭遇したとしても、決して自ら命を絶つようなことはしませんでした。それは若き日に、月照と共に投身自殺をはかったにもかかわらず、自分一人だけ死ぬことが出来なかった経験からくる、西郷の天命への自覚によるものです。詳しくは、本サイト内の「敬天愛人について」をお読み下さい。 (つづく) ------ 以上 ------ |

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