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3  奄美大島潜居から島津久光の上京まで

3 - 1  土中の死骨そして奄美大島へ

 冬の冷たい鹿児島錦江湾の海に身を投じた西郷と月照でしたが、月照は絶命し、西郷だけは奇跡的に蘇生しました。

 一人だけ生き残った西郷は、苦しみに苦しみぬきました。

 共に身投げした相手が死に自分だけが生き恥をさらしているのです。武士として、そして一人の人間として、これほどの恥辱はなかったことでしょう。

 西郷はこの自殺未遂から一ヶ月後に書いた手紙の中で次のように書いています。

「私事土中の死骨にて、忍ぶべからざる儀を忍び罷り在り候。(私は今や土中の死骨で、忍ぶべからざる恥を忍んでいる身の上です)」

 西郷の苦しみや悩みはいかばかりであったでしょうか……。察するに余るほどの苦しさであったに違いありません。

 そんな状態の西郷に対し、藩政府は奄美大島行きを命じました。

 これは遠島(流罪)という処分ではありません。よく西郷は二度の島流しにあったと書かれている本がありますが、この一回目の奄美大島行きには、年六石の扶持が付いていますので島流しという処分ではありません。

西郷が奄美大島行きを命じられたのは、安政の大獄によって西郷にも幕府から捕縛命令が出ていたため、幕府の目から逃れさせるための処置でした。西郷は先君であった斉彬の無二の寵臣であったので、この運びになったのでしょう。

 胸に大きな傷を負った失意の西郷は、翌安政6(1859)年1月、奄美大島へと旅立ちました。

3 - 2  奄美での生活

 奄美大島での西郷の生活には数多くの逸話が残されています。

 最も有名なものを一つ紹介しましょう。

 当時の奄美大島と言えば、貴重な砂糖の生産地であり、島民には最も厳しく、そして過酷な取り立てが行われていました。

 例えば、当時島の農家には各戸それぞれの砂糖の負担生産額が割り当てられており、いかに不作の年であっても、そのノルマが達成出来ない時には、厳しい処罰が待っていました。

 今ではとても信じられない話ですが、幼い子供が隠れてサトウキビを少しでもかじったのが役人に見つかると、厳しく処罰されたくらいなのです。

 このように自分の畑で作ったサトウキビなのに、一口さえもその生産農家の人々に入ることがありませんでした。

 西郷が奄美大島にやって来たこの年、サトウキビが不作であったため、ノルマを達成出来なかった農民達が十数人出ました。島役人達はその事が自らの手落ちになることを恐れ、その農民達に厳しい拷問を加えました。

 常日頃から、西郷はそんな農民達の窮状に心を痛め、役人達の非情なやり方に憤っていたのでしょう。西郷は農民達が拘束されていることを聞きつけ、ある日、在番役人の相良角兵衛(さがらかくべえ)に面会を求め、農民達を解放するように頼みました。

 しかし、普段から島民に対し威張り切って傲慢になっていた相良は、西郷の意見を完全に無視しました。

 そんな相良の態度に怒った西郷は、

「おはんが方針を改めんのなら、おいにも考えがごわす。直接藩主公に対し建言書を書き、おはんの日頃の態度も併せて上申するつもりごわすから覚悟しておられよ」

 と言い放ち、席を立ちました。

 いつの時代でも役人は上役に自らの不始末を報告されるのを嫌い、これにより出世が遅れることを恐れるものです。驚いた相良は大いに後悔し、態度を豹変して、西郷に対し平謝り、農民を解放することを約束しました。

 こんなことがあったことや、西郷は元来優しい性格で、病人や老人に対して、自分の扶持米などを分け与えていたことなどから、西郷は次第に島民に慕われるようになりました。

 そしてついには、西郷の住居があった龍郷(たつごう)一の名家である龍家の一族の娘・愛加那(あいかな)と結婚したのです。

 西郷はここで三年もの間、片時の幸せな新婚生活を過ごすことになったのですが、時代はまた西郷を必要としていたのです。

3 - 3  公武合体運動と島津久光の上京計画

 西郷が奄美大島に身を隠している間、時代は大きく変わろうとしていました。

 恐慌的な暴圧政治を行なっていた井伊大老は、万延元(1860)年3月3日、江戸城桜田門外で水戸藩士を中心とした集団に襲われ、殺害されるという事件が起こりました。

 いわゆる「桜田門外の変」です。

 この事件により、幕府は急激に力を失うことになり、井伊大老の失政を反省した幕府は、今後幕府のみで国政を運営していくのは無理があると考え、朝廷と幕府が力を合わせて国政を運営しようとする「公武合体運動(こうぶがったいうんどう)」に力を入れるようになったのです。

 しかしながら、朝廷側が幕府に外国との条約の破棄を求めるなど、幕府の公武合体運動は当初から困難を極めました。

 その時、一つの藩と一人の人物が、混沌とする日本の国政に乗り出してきたのです。

 それは長州藩と長州藩士・長井雅楽(ながいうた)という人物です。
 長州藩は長井の提唱した「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」というものを藩論とし、国政に乗り出してきました。

 長井は「航海遠略策」の中で、現在の日本の国難を乗り切るためには、国論の統一が必要であることを述べ、そのためには朝廷と幕府とが力を合わせて一つになっていくことが重要であることを論じました。

そしてまた、朝廷が頻りに幕府に対して要求する諸外国との条約破棄は、そう簡単に出来るものではない。鎖国というのは、朝廷が言うように日本古来のものではないため、今は外国に対して開国・通商し、日本自体が力を付けることによって日本の国威を上げていくことが、すなわち外国の侮りを受けないことにつながるということを主張したのです。

 このように長井の「航海遠略策」は、非常に理にかなった堂々とした論策であったため、公武合体運動に行き詰まっていた幕府にとっては渡りに船の政策であり、長井の論ずるところは非常に現実的な政策であったので、朝廷にも大変受けが良かったのです。

 以上のようなことから、航海遠略策は、京都において一大旋風を巻き起こしました。

 長州藩と言えば、薩摩藩と共に明治維新を成し遂げた原動力となった藩ですが、長州藩が日本の国政に積極的に乗り出してきたのは、この航海遠略策が初めてのことです。

 一方、西郷のいない薩摩藩ですが、斉彬の死後、新しく藩主に就任したのが斉彬の異母弟の久光の子・忠義であったことは前述しましたが、その忠義の後見人であった斉彬の父・斉興が亡くなると、忠義は実父・久光を藩主と同等の待遇を受けることが出来る「上通り(かみどおり)」という身分にしました。

 お由羅騒動と呼ばれるお家騒動で、斉興が斉彬ではなく、側室・由羅の方の子である久光を藩主にしたいと考えていたことは、お由羅騒動の際に述べました。結局は兄の斉彬が藩主に就任したのですが、弟の久光はと言うと、臣籍(家臣の身分)に下っていたのです。

 久光の子の忠義という人物は、非常に親思いの優しい性格を持つ人物であったので、実父を家臣の待遇のままにしておくのは、子として孝道にそむくと考え、久光を藩主と同等の待遇を受けることが出来る身分としたのです。

 久光という人物は、頑固で保守的な性質でありましたが、人物の押しも堂々としており、国学を中心に学問の造詣も深い人物でした。その久光が、長州藩が朝廷や幕府間で、その勢いが大いに振るうのを見て、自らも公武合体を実現させるために国政に乗り出そうと考えました。

 久光は斉彬が考案し、結局は成し遂げることが出来なかった、あの率兵上京計画を実現させようと考えたのです。

3 - 4  西郷の召還と久光上京

 久光の重臣としての地位を確立しつつあった誠忠組の同志であり、西郷の盟友であった大久保一蔵は、この率兵上京計画を実現するにあたり、先君・斉彬の寵臣として働いた西郷を奄美大島から召還させることを久光に願い出ました。

 そして、文久2(1862)年2月11日、西郷は約三年ぶりに本土・鹿児島に戻ることとなったのです。

 しかし、奄美大島から帰還した西郷は、大久保の期待を裏切り、久光の率兵上京計画に猛烈に反対しました。西郷は、斉彬が計画した当時と現在の政治状況が余りにも違うこと、兵を率いて上京する準備が整っていないこと、今軍勢を率いて京に入れば予期せぬ事態が起らないとも限らないこと、斉彬に比べて久光が人物的にも数段劣ることなどを理由に、久光に対し、面と向かって堂々と反対意見を述べたのです。

 久光としては、そんな西郷の態度を快く思うはずがありません。颯爽と国政に乗り出そうとしていたのを、たかが一藩士にあからさまに反対されたのですから。この瞬間から、久光と西郷の長く深い確執が始まったと言えるかもしれません。

 西郷の召還をはかった大久保は、予想外の西郷の態度に戸惑いましたが、根気よく西郷を口説き落とし、久光の上京計画への協力を求めました。

 そんな目的に向って邁進して止まない大久保の態度に、西郷は、

「おはんがそこまで考えておるのなら、気張って(頑張って)やりもんそ」

 と、大久保に協力することを了承し、久光の行列が出発する約一ヶ月前に、「肥後の形勢を視察し、下関にて行列の到着を待て」という命令を久光から受け、同志の村田新八(むらたしんぱち)と共に薩摩を先発しました。

 西郷が下関に入ると、西郷の予期した憂いは的中していました。久光や藩の重臣達が考えている以上に、情勢は激しく揺れ動こうとしていたのです。

 久光が実行しようとしている率兵上京計画を薩摩がいよいよ倒幕に踏み切ったと勘違いした脱藩藩士や浪士、薩摩藩内の急進派藩士らが、ぞくぞくと京・大坂に集結し、不穏な動きを見せようとしていたのです。

 久光は元来保守的な人間で、大きな改革は望まない人物です。ましてや、久光の頭の中には幕府を倒すなどという考えは毛頭ありません。久光の素志は、公武合体政策なのです。

 緊迫する状況を聞いた西郷は、このまま久光の行列が京・大坂に入れば、思いがけない事件が起こるかもしれず、何とか未然にそれを食い止めなければならないと考え、久光から下された下関で待てとの命令を無視し、その足で急遽大坂へと向かったのです。

 大坂に到着した西郷は、騒ぎ立てる浪士達に対し、軽挙な行動を起こさぬように戒め、自分の命令の元に従うことを約束させ、騒ぎの鎮静化に尽力していたのですが、下関に着いた久光は、命令を無視し勝手に行動した西郷に激怒しました。そしてその後、兵庫に入った久光は、つに西郷の捕縛命令を下すのです。

 久光が西郷の捕縛命令を下したことを知った大久保は、西郷を急遽兵庫の須磨の浜辺に呼び出し、西郷に向かってこう言いました。

「久光公のお怒りは尋常ではごわはん。もしかすると、吉之助さあに切腹を命じるやもしれもはん。こげな事態になったのには、おいにも大きな責任がごわす。吉之助さあだけを死なすわけにはいきもはん。おいも一緒に死にもす。吉之助さあ、おいと一緒に刺し違えて死にもんそ」

 大久保の目は本気です。大きな決意に満ちています。

 しかし、西郷は首を大きく横に振り、こう言いました。

「今、おいとおはんの二人が死んだら、薩摩藩の今後はどげんなりもすか。天下のことはどげんなりもすか。死ぬ時は、いつでも死ねもんそ。男が黙って歯を食いしばり、恥を忍んで気張らんといかんのは、こん今でごわすぞ」

 西郷の言葉に、大久保はようやく改心し、西郷を自分の宿舎に連れて行き、久光に対して西郷が謹慎していることを伝えました。

 このように、西郷はどんな困難な場面に遭遇したとしても、決して自ら命を絶つようなことはしませんでした。それは若き日に、月照と共に投身自殺をはかったにもかかわらず、自分一人だけ死ぬことが出来なかった経験からくる、西郷の天命への自覚によるものです。詳しくは、本サイト内の「敬天愛人について」をお読み下さい。
(つづく)


------ 以上 ------









2 将軍継嗣問題から西郷の入水まで

2 - 1 諸外国の圧迫と将軍継嗣問題

 安政元(1854)年3月3日、幕府はアメリカとの間に「日米和親条約」を締結しました。

 前年、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが浦賀に来航し、武力を背景とした強圧的な脅迫とも言うべき開国要求を行ないました。江戸幕府第3代将軍・徳川家光の時代以来、鎖国を国是としてきた幕府にとって、ペリーの来航は幕府内や諸大名間に衝撃を走らせました。また、ペリーに続いて、ロシアのプチャーチンが長崎に来航し、幕府に対し開港通商を要求したのです。

 これら諸外国の外圧に対し、幕府は確固とした方針や方策を持っておらず、その場しのぎの対応を行なっていたため、諸外国の侮りを受ける結果となりました。

 また、当時の第13代将軍・徳川家定(とくがわいえさだ)は、心身共に虚弱な人物で、この国難に対しリーダーシップを発揮して、到底立ち向かえる人物ではありませんでした。

 そのため、幕府は半ば強制的に、アメリカ、ロシア、イギリス、オランダといった諸外国との間に和親条約を調印させられる結果となったのです。

 薩摩藩主・島津斉彬は、このような幕府の弱腰外交に対し、国防の充実がまず第一の急務であることを建言し、またこの国難に対し、諸大名や幕閣の意見をまとめられる真のリーダーが必要であると考えました。

 その結果、斉彬が白羽の矢を立てたのが、水戸徳川家出身で当時一橋家の当主であった一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ。後の徳川慶喜)でした。

 一橋慶喜は、当時諸大名の間でも、聡明でかつ英明と噂されていた人物であり、斉彬はその慶喜に将軍・家定の跡を継がせ、将軍にすることにより、日本を一つにまとめ上げ、この大きな国難に対処しようと考えたのです。

 斉彬は、日頃から親しく付き合っていた老中の阿部正弘や土佐藩主・山内豊信(やまのうちとよしげ。後の容堂)、福井藩主・松平慶永(まつだいらよしなが。後の春嶽)、宇和島藩主・伊達宗城(だてむねなり)といった人々と力を合せ、一橋慶喜を次期将軍にするべく運動を始めました。

 当時、斉彬の無二の寵臣として働いていた西郷は、この「将軍継嗣問題」にも斉彬の使いとして、また、朝廷方面の運動者として大いに働いたのです。

2 -2 井伊大老の登場と斉彬の死

 第13代将軍・徳川家定の跡目相続を巡る問題、いわゆる「将軍継嗣問題」は、当初斉彬が加担していた一橋慶喜を擁立する一橋派が優位に形勢を進めていたのですが、それに反して、徳川御三家の一つの紀州藩主で、当時まだ10代半ばであった徳川慶福(とくがわよしとみ)を将軍に推そうとする動きが出てきたのです。

 その運動の中心人物は、紀州藩の付家老・水野忠央(みずのただなか)でした。

 水野がなぜこのような動きに出たのかについては、古来色々と説があるのですが、それは一先ず置き、水野は「血筋から言うと、次期将軍には一橋様よりも紀州様の方が適任である」という血統論を元にした将軍継承論を展開していきました。

 また、一橋慶喜の父である前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)は、大奥の女性達に対して非常に評判の悪い人物であったので、大奥方面からも慶福を擁立しようとする動きが活発化してきたのです。

 これに勢いを得た水野忠央は、最後の秘策を登場させました。

 当時、彦根藩主であった井伊直弼(いいなおすけ)を大老に就任させるように画策したのです。

 井伊直弼は、彦根藩第11代藩主・井伊直中(いいなおなか)の第14男として生まれたため、幼い頃より非常に悪い待遇の元に育ち、他の大名への養子のあてもなく、藩から捨扶持をもらいながら質素に生活していました。

 彼はそんな自分のみじめな境遇を恨むかのように、自ら邸宅を「埋木舎(うもれぎのや)」と名付け、一生涯世に出られない自分の運命を嘆いていたのです。

 しかし、そんな井伊に幸運が巡ってきました。藩主に就いた兄を始めとする兄弟が次々と亡くなるという不思議な運命の巡り合わせで、直弼は奇跡的に彦根藩主の座に就くことが出来たのです。

 そして、水野忠央は当時井伊の腹心であった長野主膳(ながのしゅぜん)と共謀し、安政5(1858)年4月、井伊を大老に就任させることに成功したのです。

 大老に就任した井伊直弼は、強大な権力を手中に収め、まず当面の問題であった将軍継嗣問題を強引に慶福を擁立する紀州派有利に展開させ、次期将軍を慶福にすることを内定させました。

 また、井伊は朝廷の勅許を得ず、アメリカとの間に「日米修好通商条約」を無断調印することも決定したのです。

 このような井伊の強引で横暴な政治手法に対抗するべく、当時薩摩で状況を見守っていた斉彬は、思い切った秘策を計画しました。

 斉彬自身が薩摩から兵を率いて京都に入り、朝廷より幕政改革の勅許を受け、強大な兵力を背景に井伊大老を中心とする幕府に対し改革を迫る。一種のクーデター計画です。

 斉彬は井伊の強権政治を目の当たりにし、最早尋常の手段では幕府を改革出来ない、日本の国難を救うには、この率兵上京計画という手段しかないと考え、この計画を立案しました。また、西郷は斉彬の命を受け、その前準備のために京都に先発し、朝廷方面の下工作を手がけました。

 しかし、西郷がその下準備に忙しく追われている中、薩摩では衝撃的な出来事が起こりました。

 斉彬が城下の天保山で兵を調練中、俄かに発熱して病状が悪化し、その8日後の安政5(1858)年7月16日、突然急逝したのです。

2 - 3 安政の大獄と西郷の入水

 西郷にとって、師であり、恩人であり、そして神のような存在でもあった斉彬の突然の死は、西郷に大きなショックを与えました。

「斉彬公亡き今、もう生きてはいけない……」

 西郷は国許に帰り、斉彬の墓前で切腹することを覚悟したのです。

 しかし、西郷は、京都清水寺成就院の住職であった僧・月照(げっしょう)に殉死することを諌められました。月照は、将軍継嗣問題や斉彬の上京計画において、薩摩藩と朝廷との橋渡し役を務め、西郷とも既知の間柄でした。
 月照は西郷に対し、こう言いました。

「西郷はん、このまま斉彬公の後を追って死んだとして、天上の斉彬公が「吉之助よくやった」とお褒めになると思われますか。いや、必ず斉彬公は烈火の如くお怒りになるでありましょう。吉之助、なぜわしの志を継いで働こうとはしなかったのだ、と」

 そんな月照の諌めに西郷は涙を流して謝り、「おい(自分)が間違っていもした……」と殉死することをあきらめ、斉彬の遺志を継ぐことを決意したのです。

 しかし、当時の政治状況は益々悪化する一方でした。

 井伊大老は自分の方針に反対する大名や公家の多くを謹慎処分にし、その他幕府に批判的な意見を持つ一般の志士達を一斉に捕縛し始めたのです。

 これが世に言う「安政の大獄(あんせいのたいごく)」と呼ばれるものです。

 この安政の大獄を始めとする井伊大老の恐怖政治の始まりにより、薩摩藩と朝廷との橋渡し役を務めていた月照も、その身が危険となりました。

 西郷は月照を薩摩藩内に匿うことを計画し、急遽先行して薩摩に帰国したのですが、斉彬が急死したことにより、藩政府の方針は一変していたのです。

 斉彬の死後、藩主の座に就いたのは、斉彬の異母弟・島津久光(しまづひさみつ)の子の忠義(ただよし)でしたが、忠義はまだ当時19歳と若かったので、藩政後見人として藩内の権力を握っていたのは、斉彬の父であり、前々藩主の斉興だったのです。

 斉興は子の斉彬の政策をまるで忌み嫌うかのように、旧の体制に戻すことに専念しました。西郷が帰国した時には、斉彬が興した近代工業全て縮小に追い込まれ、薩摩藩内は静まり返ったようになっていたのです。

 それでも西郷は帰国するや否や、藩政府の要人に対し、月照の保護を熱心に求めました。

 しかしながら、藩政府の態度は非常に冷たいものでした。まるで、嫌なものに触れるかのように、西郷の意見に一切耳を傾けません。西郷はその後も月照が薩摩藩のためにどれだけの努力をしてきたのかを説明し、執拗に月照の庇護を求め続けましたが、藩政府の態度は変わることがありませんでした。

 西郷がそのような努力をし続ける中、月照は筑前浪人の勤皇志士・平野国臣(ひらのくにおみ)に付き添われ、困難な道中を乗り越えて薩摩にやって来ました。

 しかし、藩政府は無情にも西郷に対し、月照を国外に追放するように命じたのです。

 安政の大獄が既に始まり、月照を匿うことによって幕府に睨まれることを恐れた薩摩藩政府の方針でした。

「斉彬公さえ生きておれば……」

 西郷は歯噛みする思いで、この命令を聞いたことでしょう。

 しかし、薩摩藩士として、藩の命令に背くわけにはいきません。かと言って、月照を幕府の捕り方がいる藩外に追放することも、愛情深く、そして義理がたい西郷にとっては、当然の如く出来ませんでした。

 西郷は、もう自分の力ではどうすることも出来なくなったのです。

 このような事態に絶望した西郷と月照は、二人で相談し、相伴って寒中の海に身を投じました。

 安政5(1858)年11月16日、西郷吉之助30歳のことでした。
(つづく)


------ 以上 ------



--西郷 隆盛---

1 誕生から斉彬との出会いまで

1 - 1 誕生そして郡方勤務へ

 文政10(1827)年12月7日、西郷隆盛は、鹿児島城下の下加冶屋町山之口馬場(したかじやまちやまのぐちばば)で生まれました。

 幼名は小吉(こきち)、長じて隆永、隆盛と名乗り、通称は吉之助(きちのすけ)で通しました。南洲(なんしゅう)はその雅号です。

 西郷家の家格は「御小姓与(おこしょうぐみ)」で、士分では下から二番目の身分である下級藩士でした。

 少年時代の西郷については資料が少なく、はっきりとした事は分からないのですが、稚児(ちご)の時(薩摩では少年のことを言います)、けんかで右ひじを負傷し、完全に右ひじを曲げることが出来ないようになったため、この時より武術をあきらめ、学問に精を出すようになったと言われています。

 このように、幼少の頃、武芸ではなく、学問に励んだことが、西郷にとって後年大いに役立っていくのです。

 16才の時、西郷は藩の郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)に任命されます。

 薩摩藩では、武士の家庭の子弟がある程度の年齢に達すると、家計の助けとなるように小さな役目に付ける慣習がありました。これは武士人口が多い薩摩藩ならではの慣習です。

 例えば、書の巧みな者は役所の書役(事務)、武術の長けた者は藩校・演武館の助教(教員)といったように、個人の能力や資質に応じて様々な役目に就かせたのです。

 西郷は右ひじのケガのため、武芸をあきらめ学問に精を出していたので、書がかなり巧みだったのでしょう、郡方書役助、つまり農政をつかさどる役所の事務官の補助、といった役目に任命されたのです。

 藩の郡方は年貢(税)の徴収等も行なっていたので、藩内のあらゆる場所に出張しなければならない非常に体力のいる役目です。西郷の生まれついての雄大な体格も、郡方に任命された一つの理由だったのかもしれません。

 西郷が郡方に任命された時の郡奉行は、迫田太次右衛門利済(さこたたじうえもんとしなり)という人物でした。迫田は城下でも有名な気骨ある武士で、西郷はこの迫田に非常に大きな影響を受けています。

 ある時、迫田は重税に苦しむ農民の窮状を憤り、役所の門に、

「虫よ 虫よ いつふし草の根を断つな 断たばおのれも 共に枯れなん」

 と書いて、郡奉行を辞職しました。

 虫とは役人を意味し、いつふし草とは重税に苦しむ農民のことを指しています。

 つまり、「役人が農民に過剰な税を課すことは、自らを破滅に導くことに繋がる」という事を暗に風刺し、迫田は郡奉行を辞職したのです。

 この句には「国の根本をなすものは農民である」という、迫田の信念が表れているような気がします。

 西郷はこの迫田から農政に関する考え方を一から学んだのです。また、迫田から学んだ農政に関する知識や経験が、後に西郷が藩主・島津斉彬に見出される要因となるのです。

1 - 2 お由羅騒動

 西郷が郡方に勤務して5年後の嘉永2(1849)年、薩摩藩に大きなお家騒動が起こります。

 俗に言う「お由羅騒動(おゆらそうどう)」と呼ばれているものです。
 島津家27代当主で薩摩藩主の島津斉興(しまづなりおき)は、正室であった周子(かねこ)が産んだ世子である斉彬(なりあきら)ではなく、側室・由羅(ゆら)の方が産んだ子の久光(ひさみつ)を藩主にしたいと考えていました。(付記:世子とは、藩主の跡継ぎになる子供のことを言います)

 斉彬は進取気鋭の性格で、当時の日本を取り巻く諸外国の事情にも通じ、世間からは「三百諸侯中の世子の中でも随一」と言われるほど噂高い人物でしたが、藩主の斉興はそんな斉彬のことを嫌い、自らの家督をいつまでも譲ろうとはしなかったのです。

 当時、斉興は58歳になっており、斉彬は既に40歳になっていました。これは当時の社会状況から考えても異常なことです。

 世子が20歳代にもなれば、父である藩主は自ら隠居して、子に家督を譲るのが通例であったのですが、斉興は自らが50歳代を過ぎ、子の斉彬が40歳になろうとも、隠居しようとはしませんでした。

 なぜ、斉興がこれほど斉彬のことを嫌ったのかには大きな原因があるのですが、ここで詳しく書くことは控えます。

(付記:この二人の関係については、薩摩的幕末雑話 第三話「父と子−島津斉興と斉彬−」または第二十二話「島津斉興の密書−斉興と斉彬と久光の関係−」をご覧下さい)

 斉興がいつまで経っても斉彬に家督を譲ろうとしない、この異常な状態に対し、薩摩藩内にも不満を持っていた集団がありました。

 斉彬を慕う高崎五郎右衛門(たかさきごろううえもん)と近藤隆左衛門(こんどうりゅうざえもん)を中心とした一派です。彼らは斉興のやり方に反発し、「斉興隠居・斉彬擁立」へと動き、暗に活動を始めました。

 そのような高崎らの反体制への動きを知った藩主・斉興は、烈火のごとく激怒し、高崎、近藤の両名に切腹を命じ、その他この運動に関わった者達に対し、切腹や遠島、謹慎といった重い処分を下したのです。

 これがいわゆる「お由羅騒動」とか「嘉永朋党事件(かえいほうとうじけん)」、「近藤崩れ」、「高崎崩れ」と呼ばれている薩摩藩のお家騒動です。

 西郷の父である吉兵衛が御用人を勤めていた関係で、西郷家と非常に縁の深かった赤山靱負(あかやまゆきえ)も、この「お由羅騒動」に連座し、切腹してこの世を去りました。

 青年の頃から赤山の影響を受けて育った西郷は、赤山の見事な切腹の様子を父から聞くと、涙を流しながら赤山の志を継ぐことを決意したのです。
 このお由羅騒動は、若き日の西郷に大きな影響を与えました。

1 - 3 斉彬襲封と西郷の江戸出府

 お由羅騒動により、斉彬派と呼ばれる一派は、急激にその勢力を落としたのですが、斉彬自身は藩主になることを決して諦めませんでした。

 自らが得た知識や経験を藩政に生かし、大幅な改革を推進したい、そして、諸外国の圧迫が迫る日本のために、自らの手腕を藩政に生かしたい。

 このような大きな目的と希望を持っていた斉彬は、藩主に成るべく一計を講じたのです。

 まず、斉彬は日頃親しくしていた老中・阿部正弘(あべまさひろ)の協力を得て、薩摩藩の密貿易(琉球(現在の沖縄)を通じて、薩摩藩は幕府から許された額以上の貿易を外国との間で行なっていました)を幕閣の問題にあげて、斉興とその腹心であり、財政責任者でもあった調所笑左衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)を追い詰めようとしたのです。

 自らの藩の秘密を漏らし問題にすることは、斉彬にとって苦肉の策であり、諸刃の剣を使うようなものでしたが、斉彬としては何とかして藩主になるためには、こうするより手立てがなかったのです。

 そして、この斉彬の秘策は的中しました。
 斉興の腹心であった調所は、藩内の貿易に関する責任は一切自分にあるという理由で服毒自殺して果て、藩主の斉興もまた、この密貿易問題と先年のお由羅騒動などの不祥事を幕閣から突きつけられ、その後隠居せざるを得なくなったのです。

 こうしてようやく嘉永4(1851)年2月2日、斉彬は島津家28代当主の薩摩藩主に就任しました。

 また、斉彬は藩主に就任するやいなや、この激動の時代を生き抜くため、薩摩藩を近代藩にするべく、徹底的に新しい改革を始めました。
 斉彬が行なった改革は、非常に多岐にわたります。

 蒸気船の製造、汽車の研究、製鉄のための溶鉱炉の設置、大砲製造のための反射炉の設置、小銃の製造、ガラスの製造(薩摩切子(さつまきりこ)として今日でも有名です)、ガス灯の設置、紡績事業、洋式製塩術の研究、写真術の研究、電信機の設置、農作物の品種改良

 一々挙げていけば切りがないほどの、当時の技術水準から考えれば、信じられないほどの改革を斉彬は藩内に推進していきました。

 現代においても、斉彬が江戸時代随一の名君であり、英明君主であったと言われる所以は、斉彬が興した近代事業をもってしても分かることでしょう。

 また、斉彬は新しい人材登用や育成にも力を注ぎ、藩内に「藩政において、自分が気付かないことがあれば、どんどん意見書を出すように」という布告を出したのです。

 斉彬が藩主に就任した頃、西郷は同じ加冶屋町郷中の吉井仁左衛門(よしいじんざえもん。後の幸輔、友実)や上之園郷中の伊地知竜右衛門(いぢちりゅうえもん。後の正治)、高麗町郷中の有村俊斎(ありむらしゅんさい。後の海江田信義)、そして、高麗町から加冶屋町郷中に移住してきた、後年西郷の無二の盟友となる大久保正助(おおくぼしょうすけ。後の一蔵、利通)らと共に、朱子学の「近思録」を研究するグループを作っていました。(付記:郷中とは、ごじゅうと読み、町内の区画のことを言います)

 この若き二才(にせ。薩摩では青年という意味)達が集まった集団は、後に「誠忠組(せいちゅうぐみ)」と呼ばれるようになり、西郷は加冶屋町郷中の二才頭(にせがしら。町内の若手リーダーのことを言います)を務めていた関係から、非常に人望があり、その誠忠組のリーダー的存在となっていきます。 
 また、斉彬の布告を見た西郷は、せっせと建白書を書き、藩庁に提出しました。

 西郷が提出した建白書は、現在は残っておらず、その内容は定かではありませんが、藩の農政に関するものであったと伝えられています。

 西郷の建白書は、いかに農民が重税に苦しみ、困難な生活を強いられているかというようなことを切々と訴えたものであったことでしょう。これは以前、郡奉行の迫田から学んだ「国の根本は、農民である」という西郷の愛農思想に準拠したものだと言えます。

 また、西郷は農政に関すること以外でも、先年のお由羅騒動で処罰された正義の武士達が、未だ遠島や謹慎の処分を解かれていないことに不満を持ち、そのことも意見書に書き度々提出したと伝えられています。

 このような西郷の建白書や意見書は、後に藩主・斉彬の目に留まり、斉彬は西郷の存在を知るようになったのです。

 そして、安政元(1854)年、西郷は郡方書役助から「中御小姓・定御供・江戸詰(ちゅうおこしょう・じょうおとも・えどづめ)」を命ぜられました。
 西郷終生の師であり、神とも崇めた斉彬との出会いは、この時から始まったのです。

1 - 4 江戸勤務

 斉彬の参勤交代に付き従い、薩摩から江戸薩摩藩邸に勤務することとなった西郷は、斉彬より「庭方役(にわかたやく)」を拝命しました。

 庭方役と言えば、何だか植木職人のようなイメージを受ける方も多いとは思いますが、実際はそのような役目ではありません。

 当時、身分の低い藩士が、藩主や家老といった身分の高い人物に拝謁する際には、随分と面倒な手続きが必要でした。身分に関して厳しい封建制とはこういうものなのですが、西郷の書いた建白書を何度も読み、西郷のことを頼もしい若者と感じていた藩主・斉彬は、西郷を薩摩藩を背負って立つ人物としての将来性を見込み、面倒な手続きを取らずに自由に庭先などで会うことの出来る庭方役に任命したのです。

(付記:西郷が庭方役に任命されたことを幕府の「隠密」のような職に就いたと記している書籍がありますが、それは大きな誤解です)

 庭方役に任命された西郷は、そこで初めて斉彬に拝謁しました。

 自分にこれだけの配慮をしてくれた斉彬に、西郷は涙が出んばかりに感激したことでしょう。「この人のためなら喜んで命を捧げよう」とも、西郷は考えたことでしょう。

 この日から西郷は、斉彬より日本の現在の政治情勢や諸外国の状況と事情、そして日本の政治的課題等を詳しく教育されました。斉彬自身も西郷と接する度、「この若者は、必ずものになる」と確信し、愛情を持って西郷を一人前の人物になるよう教育したのです。

 そんな二人の関係を示すものとして、薩摩地方には「斉彬公が西郷どんを呼んでお話をなさる時は、たばこ盆をおたたきになる音が違った」という伝承が残されています。

 斉彬の薫陶を受けた西郷は、当時天下に名を馳せていた水戸藩の藤田東湖(ふじたとうこ)や戸田蓬軒(とだほうけん)、越前福井藩の橋本左内(はしもとさない)といった名高い人物と交流を持つこととなり、次第に西郷の名も諸藩士の間で知られるようになっていきました。

 このようにして、西郷は斉彬によって天下のことを知り、世に出さしめられたのです。(つづく)


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グッチー情報について

Gucci info

グッチー情報について


有志の皆様、お元気でご活躍されていることと思います。小生、会社を退職して1年9ヶ月になろうとしています。有志の皆様と一緒に仕事をした熊本時代の2年6ヶ月は、公私にわたって心身ともに充実しました。未だ、皆様との苦楽が忘られません。

 この度、皆様と多いに情報交換をしたいと考え、この12月から『 Gucci info(グッチー情報)』を立ち上げました。名前の由来は、有志の皆様には説明するまでもなく、当時一緒に仕事をした『 ま〜そのう が、口癖でした 』若手のホープ『 M 君 』です。順次、Gucci info へのアクセス方法、情報交換する有志の皆様には、メールでご連絡致します。

 CATEGORY (画面の左側)の近況通信をクリックしていただき、ここで、お互いに書き込んで、情報交換をしましょう。また、CATEGORY のほかの項目(Music〜その他)は、小生がこれまでにクリッピングした、古い記事から最近の記事までを色々と掲載しています。これからも、内容は、充実できればいいな〜と思っています。

 有志の皆様も有益とか面白い等、情報なり記事が、多々あるかと思います。本欄に書き込んだり、メールで小生あてに情報提供(テキストタイプでお願いします。)して下さい。直ちに、本欄でご紹介致します。

 立ち上げの最後にあたり、この Gucci info は、公開していますので、誰でもアクセスして見ることができますことを、念のため申し添えます。

 平成16年12月 dxb83macng

2004年11月29日 02時07分35秒 近況通信




首と手が瞬時に飛び、血しぶき噴き上げる遺体…魔術に入れあげ、家臣に切られた細川政元の壮絶な最期

 2013.11.3 07:00 産經新聞

 国内を戦乱に巻き込んだ応仁の乱の終結から30年経た永正4(1507)年6月23日、室町幕府のナンバー2、細川政元が自宅の湯殿で家臣に殺害された。

将軍の権威が失墜する中、権謀術数を駆使して将軍の首をすげ替えて実権を握った政元だったが、実はこの事件、政元が意外なものに熱中するあまりに起きたたとする見方もある。その意外なものというのが天狗(てんぐ)顔負けの魔術だった。

■消えた総大将

 政元暗殺の2カ月前、幕府創設以来、重職を担ってきた一色(いっしき)氏の家督相続にからむ争いを機に領地を奪おうと政元軍が一色氏の当主、義有(よしあり)の籠城する丹後・今熊野城で交戦中のときのこと。政元の陣営から大声が響き渡った。

 「殿が『奥州へ修行の旅に出る』と言ったまま陣を出てゆかれた。これからどうすればよいのか…」

 魔術に魅せられるあまりに「ご禁制」の女人は近づけず、修行を生活に取り入れる政元のこのような行動は、以前にもみられた“癖”だった。

 8代将軍、足利義政の時代に力を伸ばした義直(よしなお)が亡くなり、分家出身の義有が後を継いで起きた一色氏の権力争い。この機に乗じて隣国・若狭の守護、武田氏が義有を攻めると、政元も養子の澄之、澄元を派遣する。

 ついには政元まで出陣して、戦いは一進一退ながらも優勢に進めていただけに陣営のショックは相当なもの。総大将の失踪で戦線も維持できず、2人の養子もオロオロするばかり。そして当の政元も数人の供を連れて山伏姿で丹後、若狭あたりを右往左往するありさまだった。

 その後、馬で追いかけてきた重臣、薬師寺長忠らの説得によって陣に戻ることを渋々承知した政元だったが、このときあたりから家臣の間に政元に対する明確な殺意が芽生えていく。

■得意技は「飯綱(いづな)の法」

 戦国時代の合戦記「足利季世記(きせいき)」によると、政元について「40歳ごろまで女人禁制にし、魔法飯綱の法愛宕(あたご)の法を行い」などと紹介されている。

 「飯綱の法」や「愛宕の法」は超能力者になるための方法。天狗(てんぐ)にあこがれた政元は予言だけでなく、妖獣・管キツネを使って人に悪霊を憑依させて病気にする呪術(じゅじゅつ)的な力を持つこの行法にご執心だった。

 本人はかつて、陰謀を駆使して政敵の畠山政長を重用する第10代将軍・足利義稙(よしたね)から第11代の義澄にすげ替えたが、この際、政長を自害に追い込んだのは、飯綱の法のおかげだと思っている節がある。

 これで自信を持った政元は今まで以上に魔術にのめり込む。しかし、この能力を身につけるには3年の山ごもりと女っ気を絶つことが必要で、問題山積の幕府の実質的な最高権力者の彼に山ごもりの余裕があるはずもない。

 政元はずっと戦い続けてきた。特に明応8(1499)年、前将軍に味方する比叡山延暦寺の大規模な焼き打ちは織田信長以上とされる。大和や紀伊などに侵攻して勢力も広げてきた。

 そこに一色氏との戦い。長い戦いの日々に嫌気を差してきたのか。加えて魔術への憧れ。そんな気持ちが現実から逃避し、足を修験道の聖地、奥州へと向かわせることになったのかもしれない。

■天狗、降臨せず

 戦いの最中に失踪した政元だったが、戦場に戻ってきた政元は精力的に采配を振るった。そんなとき、都に戻れとの後柏原天皇の勅旨(ちょくし)が送られてきた。5月31日が3代将軍、義満の命日で、それとかかわりがあるのだろうか。
5月29日に帰京する。

 そして6月23日。京の細川屋敷。この日は食を絶ち身を清める日。夕方、行水を行うべく白衣姿で湯殿へ向かい、気持ちを落ち着けて行に入ろうとした。

 すると、「バーン」と戸板が蹴り破られ、刀を持った覆面姿の男が数人、政元の前に立ちはだかる。

 「何者じゃ」。政元は声をあげる。政元の妖しいまでの気迫に気後れした侵入者だったが、1人が「化け物、死ねっ」と刃を振りおろす。すると、政元の行衣がみるみる間に血に染まった。

 身を崩した政元だが、抵抗をやめない。そこで別の男が襲うと、政元は手と首が瞬時に切り落とされ、噴水のようにあがる血しぶきで床一面、真っ赤な血に染まった。

 犯人は政元の養子、細川澄之の補佐役・香西元長とその手下・竹田孫七、それに薬師寺長忠とされる。もう1人の養子・澄元に肩入れし、天狗ばりの魔術に熱中する政元への反感が背景にあったようだ。

 政元の墓は細川家の菩提(ぼだい)寺、龍安寺(京都市右京区)にある。

(つづく)



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