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山伏・天狗・魔術で権力つかんだ室町幕府 ” 細川マジカル大名 ” の天才的謀略センス

 2013.11.10 07:00 産經新聞

 魔術に熱中する余りに家臣から見放され、ついには湯殿で行(ぎょう)に入る直前、首を切られて殺された室町幕府管領、細川政元。子供のときから父・勝元も認める知略を駆使して将軍以上の権力を持ち、「半将軍(はんしょうぐん)」と恐れられた存在だった。そんな彼がどのように魔術に魅せられ、権力をつかんでいったのか。誕生から姿を追ってみた。

■興仙(こうせん)と政元

 まだ明るさの残る夕刻とはいえ、闇夜の迫る中での湯殿は相当に暗い。だが、政元が着用していた白衣はかすかな光でも反射するため、どこにいるかは相手にはわかりやすかった。それに加えて丸腰。

 一方、犯人の香西元長らは覆面をした黒ずくめの衣装。行に集中しようとしているときに暗がりで不意を突かれては、武術でも相当の腕前を持つ政元とはいえ、反撃が難しかったことは想像できる。

 政元の武術の師匠は、天狗(てんぐ)並みの能力を持っていたとされる山伏の司箭院(しせんいん)興仙。本名は安芸国の武将、宍戸家俊で、空を自由自在に飛んだという伝説も残る。

 明応3(1494)年9月24日、興仙の噂を聞いた人物が正体を確かめようと東福寺の僧と鞍馬(くらま)にいる興仙を訪ねたところ、先に政元がいたというから、それ以前から関係があったようだ。

 また政元は京都の修験道の中心寺院・聖護院の道興(どうこう)らともつながりをもっていた。山伏に密偵として諸国の情報収集をさせていたらしく、単なる“好きもの”だけでは終わらない、策士の一面ものぞかせている。

■応仁の乱と政元

 なぜ、政元は魔術にのめり込んでいったのか?

 政元は応仁の乱勃発の前年、文正元(1466)年の生まれ。つまり生まれながらにして乱世しか知らないのである。

 将軍家や、それに続く斯波(しば)、畠山の管領家らの起こす家督相続争いが全国に波及した応仁の乱。

 政元の父・勝元は東軍の将として、今の上京区の堀川通近くを南北に流れる小川を隔てて、対面するように屋敷のあった山名宗全を将とする西軍と10年間も血みどろの戦いを続けた。

 8歳から家督を継ぎ、子供のときから焼け落ちた家々や死体の山を見てきた政元にとって戦いに勝ち抜くことこそがすべて。そのためには優れた予見能力と並外れた武力、知略を持つ必要に駆られたのだろう。

 この時代の武士は出陣の時期などを占いなどで決めていたケースが多く、運勢など超自然的現象に頼っていたのは政元に限ったことではない。

 ただ天狗に憧れ、天狗になることを夢見た政元が自分自身に課した行は厳格だった。「法力が衰える」と、女人を近づけなかったのは毘沙門天(びしゃもんてん)を強く信仰した上杉謙信も同じ。

 政元が女人を遠ざけたもうひとつの理由として重臣の薬師寺元一と男色関係にあったとする公家の日記も残るが、武田信玄に高坂弾正(こうさかだんじょう)、織田信長には森蘭丸と強い武将のそばには必ずといっていいほど、美青年を置いている。

 つまり、女っ気のない戦場では男色があってもおかしくなく、政元が根っからの女嫌いだったかどうかについては、実際はわからない。

■半将軍、政元

 政元が20歳代のころ、管領家の畠山氏に政長という50歳前後の勇猛な武将とライバル関係にあった。

 その政長が畠山氏の後継者争いで、応仁の乱の直接の原因となった上御霊(ごりょう)神社(京都市上京区)での義就(よしなり)との戦いの因縁が、25年ときを経て再び勃発する。

 明応2(1493)年2月15日、義就亡き後、息子の義豊と決着をつけようと自分の手中にあった第10代将軍・義稙(よしたね)と河内へ出陣した。

 ここで政元はクーデターを起こす。2人が戦いに没頭する隙に幕府の影の支配者で、8代将軍・義政の正室、日野富子と共謀して天龍寺の僧、清晃(せいこう)(足利義澄(よしずみ))を次期将軍に擁立したのだ。

 清晃は将軍に関東の治安を任されていた堀越公方、足利政知の子。9代将軍の義尚(よしひさ)の死後、政元が後継者に推すも、政長の推す義稙に敗れた経緯がある。

 それだけに政元の執念の深さも相当なもの。義稙を追放して、義澄を将軍の座に据えると自分は管領に収まる。その結果、孤立無援となった政長は自害へと追い込まれた。

 畠山政長が消え、3年後に日野富子も亡くなる。第11代将軍・足利義澄も自分の意のままとなった今、政元の前を行く者がいなくなった。

 政元の知略が冴え、あまりにもうまく進んだクーデター。世間の皆々は実質の最高権力者となった政元を「半将軍」と呼んだ。だが政元は少なくとも自分の力で得た勝利とは思っていなかった。

 天狗の行法のおかげだと思っていたのだ。

(つづく)


山伏・天狗・魔術で権力つかんだ室町幕府 ” 細川マジカル大名 ” の天才的謀略センス

 2013.11.10 07:00 産經新聞

 魔術に熱中する余りに家臣から見放され、ついには湯殿で行(ぎょう)に入る直前、首を切られて殺された室町幕府管領、細川政元。子供のときから父・勝元も認める知略を駆使して将軍以上の権力を持ち、「半将軍(はんしょうぐん)」と恐れられた存在だった。そんな彼がどのように魔術に魅せられ、権力をつかんでいったのか。誕生から姿を追ってみた。

■興仙(こうせん)と政元

 まだ明るさの残る夕刻とはいえ、闇夜の迫る中での湯殿は相当に暗い。だが、政元が着用していた白衣はかすかな光でも反射するため、どこにいるかは相手にはわかりやすかった。それに加えて丸腰。

 一方、犯人の香西元長らは覆面をした黒ずくめの衣装。行に集中しようとしているときに暗がりで不意を突かれては、武術でも相当の腕前を持つ政元とはいえ、反撃が難しかったことは想像できる。

 政元の武術の師匠は、天狗(てんぐ)並みの能力を持っていたとされる山伏の司箭院(しせんいん)興仙。本名は安芸国の武将、宍戸家俊で、空を自由自在に飛んだという伝説も残る。

 明応3(1494)年9月24日、興仙の噂を聞いた人物が正体を確かめようと東福寺の僧と鞍馬(くらま)にいる興仙を訪ねたところ、先に政元がいたというから、それ以前から関係があったようだ。

 また政元は京都の修験道の中心寺院・聖護院の道興(どうこう)らともつながりをもっていた。山伏に密偵として諸国の情報収集をさせていたらしく、単なる“好きもの”だけでは終わらない、策士の一面ものぞかせている。

■応仁の乱と政元

 なぜ、政元は魔術にのめり込んでいったのか?

 政元は応仁の乱勃発の前年、文正元(1466)年の生まれ。つまり生まれながらにして乱世しか知らないのである。

 将軍家や、それに続く斯波(しば)、畠山の管領家らの起こす家督相続争いが全国に波及した応仁の乱。

 政元の父・勝元は東軍の将として、今の上京区の堀川通近くを南北に流れる小川を隔てて、対面するように屋敷のあった山名宗全を将とする西軍と10年間も血みどろの戦いを続けた。

 8歳から家督を継ぎ、子供のときから焼け落ちた家々や死体の山を見てきた政元にとって戦いに勝ち抜くことこそがすべて。そのためには優れた予見能力と並外れた武力、知略を持つ必要に駆られたのだろう。

 この時代の武士は出陣の時期などを占いなどで決めていたケースが多く、運勢など超自然的現象に頼っていたのは政元に限ったことではない。

 ただ天狗に憧れ、天狗になることを夢見た政元が自分自身に課した行は厳格だった。「法力が衰える」と、女人を近づけなかったのは毘沙門天(びしゃもんてん)を強く信仰した上杉謙信も同じ。

 政元が女人を遠ざけたもうひとつの理由として重臣の薬師寺元一と男色関係にあったとする公家の日記も残るが、武田信玄に高坂弾正(こうさかだんじょう)、織田信長には森蘭丸と強い武将のそばには必ずといっていいほど、美青年を置いている。

 つまり、女っ気のない戦場では男色があってもおかしくなく、政元が根っからの女嫌いだったかどうかについては、実際はわからない。

■半将軍、政元

 政元が20歳代のころ、管領家の畠山氏に政長という50歳前後の勇猛な武将とライバル関係にあった。

 その政長が畠山氏の後継者争いで、応仁の乱の直接の原因となった上御霊(ごりょう)神社(京都市上京区)での義就(よしなり)との戦いの因縁が、25年ときを経て再び勃発する。

 明応2(1493)年2月15日、義就亡き後、息子の義豊と決着をつけようと自分の手中にあった第10代将軍・義稙(よしたね)と河内へ出陣した。

 ここで政元はクーデターを起こす。2人が戦いに没頭する隙に幕府の影の支配者で、8代将軍・義政の正室、日野富子と共謀して天龍寺の僧、清晃(せいこう)(足利義澄(よしずみ))を次期将軍に擁立したのだ。

 清晃は将軍に関東の治安を任されていた堀越公方、足利政知の子。9代将軍の義尚(よしひさ)の死後、政元が後継者に推すも、政長の推す義稙に敗れた経緯がある。

 それだけに政元の執念の深さも相当なもの。義稙を追放して、義澄を将軍の座に据えると自分は管領に収まる。その結果、孤立無援となった政長は自害へと追い込まれた。

 畠山政長が消え、3年後に日野富子も亡くなる。第11代将軍・足利義澄も自分の意のままとなった今、政元の前を行く者がいなくなった。

 政元の知略が冴え、あまりにもうまく進んだクーデター。世間の皆々は実質の最高権力者となった政元を「半将軍」と呼んだ。だが政元は少なくとも自分の力で得た勝利とは思っていなかった。

 天狗の行法のおかげだと思っていたのだ。

(つづく)


山伏・天狗・魔術で権力つかんだ室町幕府 ” 細川マジカル大名 ” の天才的謀略センス

 2013.11.10 07:00 産經新聞

 魔術に熱中する余りに家臣から見放され、ついには湯殿で行(ぎょう)に入る直前、首を切られて殺された室町幕府管領、細川政元。子供のときから父・勝元も認める知略を駆使して将軍以上の権力を持ち、「半将軍(はんしょうぐん)」と恐れられた存在だった。そんな彼がどのように魔術に魅せられ、権力をつかんでいったのか。誕生から姿を追ってみた。

■興仙(こうせん)と政元

 まだ明るさの残る夕刻とはいえ、闇夜の迫る中での湯殿は相当に暗い。だが、政元が着用していた白衣はかすかな光でも反射するため、どこにいるかは相手にはわかりやすかった。それに加えて丸腰。

 一方、犯人の香西元長らは覆面をした黒ずくめの衣装。行に集中しようとしているときに暗がりで不意を突かれては、武術でも相当の腕前を持つ政元とはいえ、反撃が難しかったことは想像できる。

 政元の武術の師匠は、天狗(てんぐ)並みの能力を持っていたとされる山伏の司箭院(しせんいん)興仙。本名は安芸国の武将、宍戸家俊で、空を自由自在に飛んだという伝説も残る。

 明応3(1494)年9月24日、興仙の噂を聞いた人物が正体を確かめようと東福寺の僧と鞍馬(くらま)にいる興仙を訪ねたところ、先に政元がいたというから、それ以前から関係があったようだ。

 また政元は京都の修験道の中心寺院・聖護院の道興(どうこう)らともつながりをもっていた。山伏に密偵として諸国の情報収集をさせていたらしく、単なる“好きもの”だけでは終わらない、策士の一面ものぞかせている。

■応仁の乱と政元

 なぜ、政元は魔術にのめり込んでいったのか?

 政元は応仁の乱勃発の前年、文正元(1466)年の生まれ。つまり生まれながらにして乱世しか知らないのである。

 将軍家や、それに続く斯波(しば)、畠山の管領家らの起こす家督相続争いが全国に波及した応仁の乱。

 政元の父・勝元は東軍の将として、今の上京区の堀川通近くを南北に流れる小川を隔てて、対面するように屋敷のあった山名宗全を将とする西軍と10年間も血みどろの戦いを続けた。

 8歳から家督を継ぎ、子供のときから焼け落ちた家々や死体の山を見てきた政元にとって戦いに勝ち抜くことこそがすべて。そのためには優れた予見能力と並外れた武力、知略を持つ必要に駆られたのだろう。

 この時代の武士は出陣の時期などを占いなどで決めていたケースが多く、運勢など超自然的現象に頼っていたのは政元に限ったことではない。

 ただ天狗に憧れ、天狗になることを夢見た政元が自分自身に課した行は厳格だった。「法力が衰える」と、女人を近づけなかったのは毘沙門天(びしゃもんてん)を強く信仰した上杉謙信も同じ。

 政元が女人を遠ざけたもうひとつの理由として重臣の薬師寺元一と男色関係にあったとする公家の日記も残るが、武田信玄に高坂弾正(こうさかだんじょう)、織田信長には森蘭丸と強い武将のそばには必ずといっていいほど、美青年を置いている。

 つまり、女っ気のない戦場では男色があってもおかしくなく、政元が根っからの女嫌いだったかどうかについては、実際はわからない。

■半将軍、政元

 政元が20歳代のころ、管領家の畠山氏に政長という50歳前後の勇猛な武将とライバル関係にあった。

 その政長が畠山氏の後継者争いで、応仁の乱の直接の原因となった上御霊(ごりょう)神社(京都市上京区)での義就(よしなり)との戦いの因縁が、25年ときを経て再び勃発する。

 明応2(1493)年2月15日、義就亡き後、息子の義豊と決着をつけようと自分の手中にあった第10代将軍・義稙(よしたね)と河内へ出陣した。

 ここで政元はクーデターを起こす。2人が戦いに没頭する隙に幕府の影の支配者で、8代将軍・義政の正室、日野富子と共謀して天龍寺の僧、清晃(せいこう)(足利義澄(よしずみ))を次期将軍に擁立したのだ。

 清晃は将軍に関東の治安を任されていた堀越公方、足利政知の子。9代将軍の義尚(よしひさ)の死後、政元が後継者に推すも、政長の推す義稙に敗れた経緯がある。

 それだけに政元の執念の深さも相当なもの。義稙を追放して、義澄を将軍の座に据えると自分は管領に収まる。その結果、孤立無援となった政長は自害へと追い込まれた。

 畠山政長が消え、3年後に日野富子も亡くなる。第11代将軍・足利義澄も自分の意のままとなった今、政元の前を行く者がいなくなった。

 政元の知略が冴え、あまりにもうまく進んだクーデター。世間の皆々は実質の最高権力者となった政元を「半将軍」と呼んだ。だが政元は少なくとも自分の力で得た勝利とは思っていなかった。

 天狗の行法のおかげだと思っていたのだ。

(つづく)


信長上回る「非道ぶり」発揮 「下克上・戦乱の世」告げた
細川政元の死

 2013.11.17 07:00 産經新聞

 天狗(てんぐ)の法を修行しながら家臣の謀反を予見できず風呂場で殺害された“魔法半将軍”、細川政元。修験道におぼれたとはいえ、幼少時から父・勝元も認めた知略を駆使して幕府を牛耳ってきた政元が突然に消えた影響は大きく、細川管領家(京兆(けいちょう)家)、さらには足利将軍家で家督争いが再燃。このいざこざが全国に波及し、再び長い戦国へ世と突入していく。

■連戦連勝

 室町幕府第11代将軍、足利義澄(よしずみ)の管領に就任して以降の政元の戦いぶりは周到で、その上、すさまじいものだった。

 政元の追っ手から逃れて北陸で勢力を拡大した前将軍・義稙(よしたね)が明応8(1499)年、加賀国守護・富樫氏ら北陸勢とともに近江まで攻めのぼってきたときのこと。

 7月、義稙が延暦寺を味方につけたのを知ると、政元は比叡山に兵を送って焼き打ちにし、根本中堂や常行堂、法華堂など山上の堂を焼き尽くすといった非道ぶりをみせる。

 この70年後、織田信長の比叡山焼き打ちのときは山上に堂も少なく殺風景だったといわれるほど、政元軍の行為は徹底していた。

 さらに9月には義稙に呼応し、かつて政元の術中に陥って切腹した畠山政長の子、尚順(ひさより)が河内で挙兵。同じ畠山家ながら応仁の乱で分裂して以来、政元と同盟関係にあった畠山義豊の守備ラインを突破する勢いをみせた。

 だが、政元は尚順をあっさり破る。すると逆に尚順が逃げた大和へと攻め込んで、地元の武将をことごとく撃破する。
一方、友好関係にあった本願寺の第9世・実如にも呼びかけ、一向一揆(いっこういっき)による北陸の義稙派大名への攻撃も演出している。

■内部分裂

 連戦連勝で細川管領家の勢力は大幅に拡大するなど戦(いくさ)上手ぶりを発揮した政元だったが、いざ自分の家督相続問題に関しては禍根を残したまま。

 「女人を近づけると法力が薄れる」などと言って独身を通していた政元は文亀2
(1502)年、摂関家の九条家から澄之(すみゆき)を養子に迎えた。

 これで問題は一件落着するはずだったが、「武家の名門・細川の後継ぎが公家出身では…」とでも思ったのか。翌年には、分家の阿波細川氏から澄元(すみもと)を養子とし、澄之の相続権を奪ってしまう。

 さらには軍事面で政元から信頼を勝ち得た澄元の補佐役・三好之長(ゆきなが)が京兆家内で実権を握る。これでは澄之派の家臣と、長年、政元に仕えてきた重臣らは収まらない。

 分家の野州細川家から養子として迎えた高国もまじえて細川京兆家は三つどもえの抗争を展開。この果てに待っていたのが、政元の暗殺だった。

 2人の事件の主犯格のうち薬師寺長忠は政元に仕える重臣だが、政元と三好の急接近に焦りを覚え、澄之の補佐役、香西元長は澄之の家督相続の可能性のないことを悲観しての犯行とみられている。

■戦国の世へ

 応仁の乱後、権威が大きく揺らぎ始めた幕府も、政元が勝つことで何とか秩序は保たれてきた。だが政元の暗殺を機に再び混乱の世へと動き出す。

 政元を殺害した薬師寺長忠や香西らは、ライバル関係にあった澄元を攻めて京から追い出すと、京兆家は澄之が継ぐ。

 だが、高国と同盟を結んだ澄元は再び京を攻撃すると、澄之は8月1日に自殺し、細川本家は澄元の手に入る。これで勢いを増した三好之長だが、横暴を極めた政治に不満を持つ家臣は高国のもとへ集まる。

 そして高国が前将軍・足利義稙を擁して澄元との戦いに勝つと、永正5(1508)年、義稙を将軍に復帰させ、高国が京兆家を継ぐ。

 政元の死から1年。この間、京兆家の家督は、澄之−澄元−高国とめまぐるしく交代した。その後も高国と澄元の争いは京都の如意ヶ岳や船岡山などを舞台に続く。

 特に永正8(1511)年8月23日の船岡山合戦では、2万の兵を率いた高国勢が澄元らの陣取る船岡山に夜襲を掛けると、澄元は総崩れ。高国の挙げた首は3800といわれるほどに壮絶を極めた。

 夜な夜なこの時の霊が今でも戦場を徘徊(はいかい)するといった話も聞く。

            ×  ×  ×

 政元の死後、細川京兆家は争乱の末に当主がコロコロ替わるが、京兆家の手のひら上で転がされた将軍もコロコロと代替わり。まさに下克上、戦国の世。

 そのさきがけとなったのが、政元が強引に義稙から義澄へ将軍職を入れ替えた明応2(1493)年のクーデターだとする説が強い。

(おわり)


源義経(上)

VS弁慶、ヒラリ、ヒラリ…五条の橋「対決」の真相は

2013.7.21 07:00 産經新聞

 あの有名な源平合戦最大のヒーロー、源義経は少年時代、父の義朝を破った平清盛に命じられ、京の北の果ての鞍馬で勉学に励む。当初は援助を惜しまない清盛を慕ったが、父と自分の素性を知ると一転、武術に励む一方で町で情報の収集と平家打倒を念じた日々を過ごすことになる。そんなある夜、1人の大男と出会う。

■2人の出会い

 今から約850年前、京都・鴨川に架かる五条の橋を静かな月夜にまぎれて笛を吹きつつ渡る義経の前に突然、大柄な僧が現れる。そして「わしと戦え。負けたら、わしのなぎなたはくれてやる」と言い放つと、閃光(せんこう)のような鋭い刃(やいば)が襲いかかってきた。

 川の流れの音だけが響く橋の上で、「えいっ!!」と殺気に満ちた声と同時に振りかざしてきたひと振りを少年はヒラリとかわす。さらにもうひと振り。これも難なく返してしまう。

 これこそ当時、遮那王(しゃなおう)と名乗っていた義経と武蔵坊弁慶の出会いの場。義経は11歳ともいわれている。

 弁慶は日頃から暴力が絶えず、比叡山を追い出された後は、播磨(今の兵庫県)圓教寺に身を寄せたが、ここでも暴力は収まらず、寺を焼いてしまう。

 全く手の付けられない弁慶はこれまでの自分の性を呪いつつ、京都で道行く人から太刀を奪うことで心が救われるのならと千本の願をかけ、あと1本というところで義経に出会う。

■義経、ヒラリ

 弁慶の持つなぎなたは「岩融(いわとおし)」という業(わざ)物。刃の部分の長さだけでも通常の約1・5倍の1メートル以上はあったという。それを振るのだから相当の怪力ということになる。

 そんな弁慶の渾身(こんしん)のひと振りを、橋の欄干の間を飛んでかわす少年の鮮やかな身のこなしに少々焦りを見せ始める。手に握るなぎなたの振りもつい力任せに。だが、義経には相変わらずヒラリ、ヒラリとかわされては扇で頭をたたかれる始末。

 力尽き、ついに降参した弁慶は土下座する。上には上がいることを知ると、これまで有頂天だった心を戒め、義経の家来になることを請うのだった。以来、弁慶は義経とは最後まで生死をともにすることになる。これがよく知られた義経と弁慶の物語だ。

 ところが、弁慶の素性がよくわからない。熊野地方(今の和歌山県)の出身で後に比叡山で修業したとされているが、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡(あづまかがみ)」にその名が出てくるのみで、実態は不明という。

 後の記録には、義経と比叡山の僧兵の間に何らかの親密な関係があったらしいことは明らかになっているのだが…。

■さまざまな説

 五条の橋での義経と弁慶との勝負は、橋上ではなく堀川小路から清水寺までとする話もあり、清水寺には弁慶の鉄下駄(げた)や足形石といったゆかりの品々がある。

 また、今の五条大橋が架かる道は平安京でいう六条坊門小路にあたり、義経と弁慶が出会った当時の五条の橋は、その約300メートル北に架かる現在の松原橋にあたるという。

松原橋の架かる松原通は今も昔も清水寺につながる参道だ。このため、通りの延長にある鴨川に橋を架けのは「寺の使命」と、清水寺の僧が勧進してまわったことから、五条の橋のことを「勧進橋(かんじんばし)」ともいわれていた。

 その松原橋から西約1キロに通る西洞院(にしのとういん)松原の交差点近くに建つ五条天神社(下京区)こそが、2人の出会いの場所とする説が「義経記」にはある。

 神社前を通る南北道、西洞院通にはかつて川が流れ、橋が架かっていたのだという。それを顕彰するフラッグが神社北隣の商店街にズラリと掛けられている。

 実在した人物とはいえども神がかりな話も多く、すでに伝説化している義経。やはり出会いのエピソードも、伝説の域を出ていないようだ。(つづく)


源義経(中)

「禁断の真実」を知った義経は復讐の血をたぎらせた

2013.7.28 07:00 産經新聞 p

 京都・五条の橋で弁慶と対決した源義経。豪快でスピーディーに繰り出す長刀を何度もかわし、弁慶の根負けを誘う方法で見事な勝利を収める。義経はこの時点で11歳とはいえ、すでに相当の武術を身に付けていたことになる。となると短期間にどこで、どのような経緯で、どういった方法で習得していったのか。幼少時代からたどると、とんでもない人?の影が…。

■牛若誕生

 現在、京都市北区の大徳寺の北側周辺に紫竹(しちく)という場所がある。その中に牛若という町名が今も残る。ここにかつて義経の父、義朝の別荘があり、義経は平治元(1159)年に生まれたとされる。母は近衛天皇の中宮、藤原呈子に仕えた常盤御前(ときわごぜん)。

 常盤御前は、呈子の世話をする雑仕女(ぞうしめ)の募集に集まった千人の美女の中からただ1人採用された美女中の美女。そして、そこに出入りしていた義朝に見そめられる。

 義朝との間に3人の子をもうけ、末っ子の義経は丁丑(ひのとうし)年、丑(うし)の日、丑の刻に生まれたことから「牛若」と名づけられた。

 だが、まもなくして起きた平治の乱で義朝は平清盛との争いに敗れ、東国に逃げる途中、家来に殺害される。

 常盤御前は3人の子と大和国(現在の奈良県)の吉野へ身を隠そうとしたが、母が捕らえられたことを知ると清盛に助命嘆願するため、京都・六波羅へと引き返したのだった。
清盛の前で必死に助命を願う常盤御前。その美しさにひかれた清盛は自分の妾(めかけ)になることを条件に助けたと「平家物語」などには書かれているが、真相は今も不明のままだ。

■鞍馬へ

 ただし、ライバル関係にあった源氏の御曹司の存在は、強大な権勢を誇った清盛にとっても怖かったに違いない。ただ、殺害して根絶やしにするだけの胆力もなかった。

 これより先に捕らえた義朝の嫡男、頼朝も命を助けて平家の監視の下で東国に軟禁した。今回も、捕らえた常盤御前の母はいわば人質で、清盛の本当の目的は義朝の3人の息子を目の届く所で管理したかったのだろう。

 牛若の2人の兄は出家させたうえで、牛若についてはそれなりに成長した後に出家させることを命じている。

 このため、しばらくは牛若と暮らした常盤御前だったが、清盛の命に従って牛若を鞍馬寺に預ける。このとき牛若は7歳とも11歳ともされる。

 鞍馬といえば都の北の果て。遮那王(しゃなおう)と名乗ることになった牛若は俗世間のことはしばし忘れ、父・義朝の祈祷(きとう)の師、東光坊の阿闍梨蓮忍(あじゃりれんにん)のもとで勉学に励んでいたが、訪ねてきた1人の男から衝撃的な事実を聞くことになる。

 これまで誰に聞いても話してくれなかった自分の出自のこと、つまり源氏の棟梁(とうりょう)の子だということを知る。

■鞍馬脱出

 遮那王の秘密を明かしたのは、金売吉次(かねうりきちじ)と名乗る商人。吉次と遮那王とのつながりは後日に述べることにして、吉次自体は平家物語などの歴史書に登場する。だが、奥州産の金を京都で売りさばくことを生業としていた以外は不明という謎の多き人物である。

 父、義朝が平治の乱で清盛に敗れて、逃亡中に非業の死を遂げたことを初めて知った遮那王。清盛は命の恩人だったはず。父の面影を清盛に追っていたこともあった。

 だが、事実を知ってしまった以上、遮那王にとって清盛は父の仇(かたき)。源氏の血が復讐心をふつふつとたぎらせていく。

 昼は学問をしていた遮那王も夜になると東光坊を抜け出し、木の根道を通っては奥の院・僧正ガ谷あたりで天狗(てんぐ)相手に兵法修業。陰陽師(おんみょうじ)、鬼一法眼(きいちほうげん)の家に伝わる秘伝の兵法書を法眼の娘を通じて盗ませ、学んだという伝説も残る。

 そんな折、五条の橋で出会ったのが弁慶である。

 毎夜、武芸修業を積んでいることを知った蓮忍は勉学に専念させようとするが、日増しに復讐心が抑えきれなくなった遮那王は金売吉次の手引きで鞍馬を脱出する決意をする。承安4(1174)年、15歳の春のことだった。(つづく)



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