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源義経 (下)

 

「無礼な!」一瞬で平家の9人を切り捨てた義経 「打倒清盛」胸に秘め京を脱出

2013.8.4 07:00 産經新聞

 承安4(1174)年3月、平家打倒を胸に秘め鞍馬山を脱出した遮那王(しゃなおう)は平清盛が思いのままに権勢をふるう京を出て、奥州へ向かうことになった。出迎えるのは国内第2の都市、平泉で栄華を極める藤原氏の第3代当主、秀衡(ひでひら)。東海道を東へと歩を進める遮那王は京の七口のひとつ、粟田口(あわたぐち)を何事もなく出て、脱出は成功したかにみえたのだが…。

■まだ見ぬ地へ

 奥州といえば、遮那王の高祖父にあたる源義家が支配した土地。朝廷に反逆した安倍一族を滅ぼしたのが縁で深い絆でつながれた源氏と藤原氏だったが、100年後もその関係は続いていた。

 当時、国内有数の金の産地で、藤原一族は戦乱に明け暮れる京都を尻目に、金をもとにして平和で豊かな国を築いていった。

 だが、源氏の御曹司(おんぞうし)を迎え入れることで源氏とさらに強い絆を築き、平家以上に強い国をつくりたいという秀衡の意図も見え隠れする。

 そこで、奥州産の金を売りさばくため、奥州と京都を往復していた金売吉次(かねうりきちじ)に遮那王の脱出の手伝いを命じる。金売吉次は「平治物語」に登場するが、確認できる正式な資料もなく、全く謎の人物とされる。

 そんな中、鞍馬山を下りた遮那王は吉次の屋敷に入ると、屋敷内の鎮守社に奥州までの道中の安全を祈願する。この鎮守社が、現在の首途(かどで)八幡宮(上京区智恵光院通今出川上ル)にあたる。

■9人を瞬殺

 遮那王と吉次は三条大橋を渡り、東海道を東へと向かうと、山に突き当たる手前からしばらくなだらかな坂道が続く。現在の京都市街地と山科をつなぐ日ノ岡峠の京都側の「蹴上(けあげ)」という地である。

 桜並木で有名な琵琶湖疏水のインクライン周辺といった方が、わかりやすいかもしれない。

 近くの日向大神宮で参拝を済ませた遮那王は、前方から馬に乗って猛スピードで近づいてくる数人の武士とすれ違う。

 平家の武士、美濃国の関原与一ら9人(あるいは10人)である。

 「見破られたのか?」と道の脇で顔を伏せてかわそうとしたが、どうやらそうでもなさそうな雰囲気。内心ホッとする。

 でも、それも束の間。悪いことに馬が蹴り上げてはねた泥水が服にかかってしまった。だが、謝ることなく過ぎ去ろうとした関原たち。

 ついカッとなった遮那王は「無礼なやつ!!」と叫ぶなり、一瞬のうちに9人を切り捨てたのだ。また、関原だけ耳鼻をそいで逃したという話も残るが、いずれにせよ「旅の吉兆」と喜んだ2人だった。

■遮那王改め、源義経

 蹴上の地名は、義経の服に水がかかったときの馬の「蹴り上げ」から来ているといわれ、今も現場近くには切られた9人を弔ったとされる石仏など、ゆかりの史跡・遺物が数多く残る。

 斜面状になった蹴上インクラインを上り切った所、日向大神宮の途中に「義経大日如来」と呼ばれる高さ約90センチの石仏が1体。蹴上から東に進んだ日ノ岡や御陵(みささぎ)にもゆかりの石仏などがある。
「平治物語」には、遮那王が都を出た日の夜、近江国の鏡の宿(しゅく)(現在の滋賀県竜王町)で、自から髻(まげ)を結うと烏帽子(えぼし)をかぶって元服し、名を源義経と改めたという。

 慣れ親しんだ京を離れて平泉を目指し、東へ東へと進む義経が再び京へ戻ってくるのは、これから約10年を待たなければならない。

 このとき英雄として凱旋するが、平清盛も平家も姿はなく、今度は兄、頼朝への謀反で再び都を追われることになる。(おわり)



 武蔵は70歳の小次郎と対戦したのか?…史料から見る「決闘・名場面」疑念の数々
2014.8.17 07:00  産經新聞 

 「臆したか!!」と鞘(さや)を投げ捨てる小次郎。「はや散るを急ぐか」と武蔵。慶長17(1612)年4月、関門海峡に浮かぶ巌流島で諸国武者修行中の宮本武蔵が小倉藩剣術師範の佐々木小次郎に挑んだ、よく知られる決闘の一場面だ。

 戦いは長さ1メートルという小次郎の剣をかわして、舟の櫂(かい)を削り作った木刀を小次郎の頭に振り落とした武蔵の勝利とされてきた。だが、実在しながら謎の部分が多い武蔵と小次郎だけに、この決闘にも数々の伝説が生まれている。いったいどこまでが本当なのか。まずは一般に知られている話から。
■  またしても
 巌流島の決闘は諸国をめぐって武者修行中で、8年前には京都で天下の兵法家・吉岡一門を破るなど向かうところ敵無しの武蔵が、豊前・小倉藩主の細川忠興に剣術師範として仕える天才剣士・小次郎に挑むという構図になっている。
 武蔵の父・新免無二(しんめんむに)と交流のある細川家の家老、長岡佐渡を通じて武蔵が試合を申し込んだといい、誰も2人の対決に差し挟むことがないよう、海に囲まれた巌流島が選ばれた。
現在の山口県下関市と福岡県北九州市に挟まれ、潮流の早い関門海峡の中、巌流島は下関・彦島江の浦から東250メートルに浮かぶ。正式には「舟島」と呼ばれる広さ1万7千平方メートルの無人島で、ほぼ平らな地形になっている。
 武蔵と小次郎が対決したのは慶長17年4月13日とも。島には陣幕が張られ、小次郎ほか検分役として長岡佐渡ら数人の小倉藩士がいた。だが、試合時刻の午前7時が過ぎても下関側から舟に乗って来るはずの武蔵の姿がいっこうに見えない。
 吉岡道場の当主・清十郎と京都・蓮台野で戦ったときも遅刻したことは知っているはずなのに、これが勝負を目前にしている者の心境なのだろう。どうしてもいらだちをおさえ切れない小次郎の姿があった。
 すでに小次郎も清十郎と同様に武蔵の術中にはまっていたのだ。
■  木刀の理由(わけ)
 長岡佐渡も武蔵のいる下関・赤間が関の回船問屋の屋敷に様子見の使者を送ってはいるが、試合開始時刻のころに武蔵は朝食をとっていたらしく、巌流島に姿を現したのは午前9時ごろとされる。
清十郎との戦いでは1時間余りの遅れだったのに対して、今回の小次郎との一戦ではなんと2時間も遅れたことになる。
 到着するなり、ゆっくり舟から裸足でおりた武蔵が手に持っていたのは木刀だった。回船問屋の屋敷を出る前に古い櫂を譲り受け、島に着くまでの間、小刀で使えるまでの細さに削っていたのだ。
 武蔵を見ると武蔵の近くまで走り寄る小次郎。ようやく対戦相手がきたということもあろうが、小次郎も優れた兵法者。波打ち際で足を海水につけたままで動きの鈍い武蔵と有利に戦いたかったのだ。
 「臆したか武蔵!!」と刀を抜き、鞘を投げ捨てた小次郎。「勝つつもりならばなぜ鞘を捨てる。はや散るを急ぐか」と不敵な笑みを見せる武蔵。2人は距離を保ちつつ海岸線沿いに走り出した。
 そこに突然、武蔵目がけて小次郎の剣が横一文字に切り裂く。ここで小次郎は武蔵が少し後ろにさがって剣を避けるところを見て剣を切り返えそうとしたが、パッと武蔵の姿が視界から消えると、小次郎の頭に衝撃が走った。ここで勝負は決まった。
武蔵の木刀の長さは140センチ近くあったとされている。刀の平均の長さが70センチ前後といわれた当時、「物干しざお」といわれた約1メートルの小次郎の剣よりもさらに長い。小次郎は勝負の焦りの中で、木刀の長さまでは見抜いていなかったとみられる。
■  異説? 武蔵vs老人
 ドラマや小説などで見る宮本武蔵と佐々木小次郎の姿は、このような、いずれも壮健な若き剣豪といったイメージが強い。だが資料によってはそんなイメージも吹っ飛ぶことになる。
 特に小次郎については甚だしい。ほとんどの資料に佐々木姓はなく、岩流とか小次郎とか。あるいは上田宗入という謎の名前も出てくる。
 また、決闘当時の年齢だが、武蔵は19歳〜29歳とされる一方、細川家筆頭家老の兵法師範が著した通り小次郎が冨田勢源の弟子というならば、勢源が大永3(1523)年の生まれとされるため、武蔵は50歳代から70歳代の小次郎と対決したことになる
もうひとつの説、勢源門下の鐘捲自斎(かねまきじさい)の弟子ということならば、武蔵より少々年上の中年の域におさまるが、いずれにせよ「小次郎=美青年剣士」のイメージは崩れる。
 このほか、巌流島の戦いには、小倉藩に召し抱えられた2人の剣術師範の優劣を巡り、二刀流の武蔵か、それとも岩流兵法の小次郎かで、両者の弟子が起こしたいざこざがもとで行われたという説がある。
 こうなると、決闘当時は武者修行中だったと思われていた武蔵が細川の家臣だったということになる。まあいえば、身内の派閥争いのような…。あまりにさえない話ではある。
(つづく)


 蘇生した小次郎に武蔵の弟子たちがとどめ? 
「世紀の決闘」に渦巻く“陰謀説”
2014.8.24 07:00 産經新聞 

 慶長17(1612)年4月、本州と九州を隔てた関門海峡に浮かぶ無人島、巌流島で宮本武蔵と戦った小倉藩剣術師範の佐々木小次郎だが、小次郎の名前は実名ではなく、対戦当時は70歳を超えていたというとんでもない説まで飛び出すなど、実態はベールに包まれたまま。
 出身地も福井や山口、福岡などいろいろだ。こんな幽霊のような小次郎だけに、武蔵との真っ向勝負も本当だったのか。藩から疎まれ、武蔵とは別の人物に殺されたという話も残る。そんな中で見えてきた対決の実像とは−。
 ■ 錦帯橋でつばめ返し
 武者修行中の武者らしく地味な身なりの武蔵に対して、きらびやかな衣装とともに常に華麗なイメージがつきまとう小次郎だが、ひげをたくわえた武蔵以上にこわもての江戸時代の錦絵も残る。
 細川家の筆頭家老の兵法師範が江戸中期に著した武蔵の伝記によると、小次郎は越前の浄教寺村(現・福井市浄教寺)と書かれていて、地元に流れ落ちる一乗滝で秘剣「つばめ返し」を編み出したとか。
 また、同じ福井の高善寺(現・福井県越前市)の宇多源氏、佐々木一族の出身とも伝わる。歴代、佐々木氏の流れをくむ寺の住職のうち17代目住職の6男、小太夫が武士になったという記述が史料や系図に残されており、これこそが小次郎ともいわれている。
 小次郎はここで越前・朝倉家に仕えた中条流の富田勢源の門弟になったともされているが、中条流は60センチほどの短剣を使う流派のはずで、小次郎がつばめ返しに使う剣は物干しざおと称された1メートルほどの長剣。
 小次郎はよほどのへそ曲がりだったのか、それとも中条流の体質がよほど合わなかったのか、それとも中条流と無関係だったのか−ということになる。
 このほか周防の岩国(現・山口県岩国市)出身とする吉川英治の小説では、錦帯橋で柳の枝が燕を打つのを見て、つばめ返しを会得したとされるが、錦帯橋の完成が決闘から約60年後の1673(延宝元)年というから、錦帯橋と小次郎はつながらない。
■ 幅を利かす小次郎
 小次郎は、細川氏が豊前・小倉に入る以前から副田(現・福岡県添田町)を中心に拠点を置いていた佐々木一族の出身という説もある。
 天正13(1587)年に豊臣秀吉率いる九州征伐軍が攻めてきた際、岩石(がんじゃく)城に立てこもって牙をむいた佐々木氏が、当時は徳川の時代に変わっていたとはいえ、新領主の細川氏にそう簡単に従うとは思えない。
 そこで、藩主の細川忠興は佐々木一族を取り込むため、秘剣「つばめ返し」を編みだし、天才の名をほしいままにしていた小次郎を藩の剣術師範に迎えたとも考えられる。
 副田は当時、霊峰・英彦山を中心にした修験道のメッカとしても知られ、山伏から兵法を習った小次郎は自分の流派名を岩石城にちなみ、「岩流」にしたとも伝えられている。
 そんな小次郎に藩の中では剣術で右に出る者はなく、小次郎人気もうなぎのぼり。門人の数もどんどん増える一方で、無視できないまでの勢力へのしあがっていった。
 だが、これを苦々しく見ている人もいた。
 筆頭家老の長岡佐渡ら古くから細川家に仕える古参の重臣たちだ。藩内での小次郎の発言力が増してくると、これが、いずれは内紛に発展しかねないことを恐れていたのだ。
そこで小次郎の対抗馬として目をつけたのが、廃れたとはいえ、かつては足利将軍家の剣法師範を務めた吉岡一門を京都・一乗寺下り松で破った宮本武蔵だった。
■ 小次郎は撲殺?
 ここから重臣らの暗躍が始まる。ともに勝負の世界に生きてきた武蔵と小次郎だけに、2人のプライドを揺さぶったりなだめたりして決闘の世界へ導くのは、老練なこの人たちにとってはたやすいこと。
 60回戦って負けたことがない宮本武蔵vs秘剣「つばめ返し」を操る佐々木小次郎。互いに評判は十分に知っていただろうから、武蔵にとって小次郎はいずれはやりたい相手だったはず。その機会が向こうから舞い込んできたのだ。
 小次郎としても、不敗の剣豪・武蔵の挑戦を勝って退ければ、藩の剣術師範として自分の名がいっそう高まることになる。
 そんなことで決まった巌流島での決闘。藩の検分役のほか、武蔵と小次郎以外は誰一人も島に連れてこないことを条件に迎えた4月13日。約束通り1人で待っていた小次郎の前にやってで来た武蔵。
 島の波打ち際で戦った2人の勝負は、武蔵の勝ちで決まったのは従来のままだが、死んだはずの小次郎がこのあと蘇生(そせい)したという話もある。
 起き上がった瞬間、陣幕の裏に隠れていた数人の男に小次郎はボコボコに殴られて、あえない最期を遂げたというのだ。これを武蔵の弟子の犯行とする史料もある。
 このとき、小次郎の弟子の追跡から武蔵をかくまった小倉藩家老で門司城代の沼田延元が残した「沼田家記」に事の一切が書かれているという。検証を含めて詳しい話は次回に。
(つづく)


異説だらけ、誰が「小次郎」を殺したのか…示唆に富む「武蔵」の沈黙、陰謀渦巻く巌流島  
2014.8.31 07:00  産經新聞

慶長17(1612)年4月13日、巌流島での宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘は武蔵が小次郎を一撃で倒して決着したはずだった。ところが、決闘の主催者・小倉藩の家老、沼田家が残した史料によると、武蔵が倒した小次郎を、隠れていた武蔵の弟子が打ち殺したという記述も残る。孤高な剣豪のはずの武蔵が多くの弟子を抱え、こんな卑劣な手口を使ったのだろうか。
■ 身を隠す武蔵
 問題の史料とは、巌流島の決闘のときに細川藩家老だった沼田延元(のぶもと)が残した記録を子孫がまとめた「沼田家記」。この中にわずかながら決闘についての記述がみられる。これによると、武蔵も小次郎と同様に小倉藩で剣術の師範を務めていることになっている。
 いつも武蔵の二刀流と小次郎の岩流のどちらが強いのかを弟子同士が言い争うため、弟子を1人も連れていかないことを条件に巌流島で2人に試合をさせることになった。
 当日、小次郎は約束通り1人で試合に臨み、武蔵は弟子を陣幕の裏に隠していたという。試合では武蔵が小次郎を一撃で倒したが、しばらくすると死んだと思われた小次郎が息を吹き返したため、武蔵の弟子が寄ってたかって小次郎を打ち殺してしまう。
 この知らせを小倉で聞いた小次郎の弟子たちは、かたき討ちのために島へ向かうが、これを恐れた武蔵は下関の赤間関(あかまがせき)に戻らず、九州の門司へ逃げる。そして門司城代を兼任していた延元に助けを求めたという。
 延元は小次郎の弟子から武蔵を守ったうえで、乗馬の家臣に鉄砲隊の護衛を付け、武蔵の父・無二斎のいる豊後(現在の大分県)まで送ったとしている。
無二斎は、信長・秀吉時代の天正年間に福岡で亡くなったとの説もあるが、巌流島の翌年の慶長18年、京都に滞在中の豊後・日出(ひじ)藩主の木下延俊に召し抱えられたという記述も残る。
 ということは、決闘は慶長17年ではなく、翌18年という可能性も出てくる。ちなみに、「沼田家記」には決闘の日時は書かれていない。 
■ いまいましい記憶
 では、なぜ小次郎をこうまでして殺さなくてはならなかったのか。小次郎を打ち殺した集団が武蔵の弟子なら話は簡単である。
 だが、前回この欄で紹介したように、小次郎は細川家が豊前に入る以前から勢力を持つ佐々木一族の出身のため藩の重臣から疎まれていたとか、当時ご禁制のキリシタンだったという話まで出ている。
 島根県境近く、現在の山口県阿武町にある小次郎の妻の墓が実は小次郎本人の墓で、傍らに隠れキリシタンが使う六角形の塚が建てられていたのだという。
 こうなると殺害した集団は武蔵の弟子ではなく、小倉藩の剣術師範がキリシタンだという事実を隠したいため、藩の筆頭家老、長岡佐渡らが手配した刺客という話だってありうる。
 武蔵が勝っても小次郎が生きていた場合にはとどめをさし、たとえ武蔵が負けたとしても、そのあとは大勢でよってたかって小次郎を殺す。もしかすると、事情を知る武蔵も狙われていたかもしれない。
 やはり、陰謀渦巻く巌流島。晩年、細川藩に客分として招かれた武蔵が著した「五輪書」には吉岡道場との戦いのことは書かれていても、巌流島の記述はいっさいない。
 つまり、武蔵にとっても巌流島の決闘のことはいまいましい記憶だったということになる。
■ 唯一の真実
 武蔵の養子、宮本伊織が父の菩提(ぼだい)を弔うために承応3(1654)年、小倉に建てた石碑には、3尺(約90センチ)の白刃を手にした岩流を二刀流の武蔵が電光より素早い一撃で倒したことが刻まれている。
 しかし、ここにも、陣幕の裏に潜んでいた門人の存在については触れられていない。
 一方、「沼田家記」に紹介された内容は、延元が単に見たり聞いたりしたことだけを紹介しているようにもみえ、一見すると、伊織が石碑に刻んだ碑文より記述に偏りがないような印象はある。
 だが、延元も細川家の重臣である。延元は武蔵との間にそれなりの信頼関係があっただろうが、藩の評判を落とすようなことは日記の類としても書けなかったのだろう。
 また、延元は決闘の期日や場所は知ってはいただろうが、どこまで直接的に決闘に関わっていたのかは不明である。
 「沼田家記」を見る限り延元は決闘の現場にいなかったようだが、そのかわりに武蔵自身や藩の関係者らから決闘の詳細な話は聞いていただろう。そんな中で折り合いをつけた話が、武蔵の弟子による犯行説ということにならないだろうか?
 さらに小次郎側から話が聞けていないのが、内容の平等性を考えると痛い。なんせ「死人に口なし」なのだから。
 ただし小次郎が巌流島で死んだのは間違いなく、このあとに小次郎の冥福(めいふく)を祈り、舟島が「巌流島」と呼ばれるようになったことだけが、謎の多い決闘の中で唯一の真実なのかもしれない。
(おわり)

承久の乱(上)


 日本史の地殻変動「幕府×朝廷」、緊迫マグマ沸騰させた〝暗殺〟〝愛人〟
2014.5.18 07:00  産經新聞

鎌倉時代、荘園からの税収をめぐり、朝廷側の「領主」と幕府側の「地頭(じとう)」の対立が全国に広がる中、幕府第3代将軍、源実朝(さねとも)が鶴岡八幡宮で殺害される事件が発生する。

 朝廷と協調政策をとっていた実朝だけに、これを機に両者間の亀裂はさらに広がっていった。そんなとき、後鳥羽上皇の愛人が持つ荘園で、地頭とのトラブルがもちあがる。地頭を辞めさせたい愛人。その要求を上皇は安請け合いする。しかし、これがいけなかった。国内を二分する大争乱に発展しようとは。
■将軍の死
 大争乱の起きる2年半前の建保7(1219)年1月27日のこと。この日は、雪が60センチほど積もる寒い日だった。
 鎌倉幕府第3代将軍の源実朝が武家として初めて右大臣に昇進したことを祝うため、後鳥羽上皇から贈られた装束を身につけ鶴岡八幡宮に参拝に向かった。
 参拝を滞りなくすませたころには日もすっかり暮れていた。両脇に雪が積もった石段の真ん中を、かがり火を頼りに下りる実朝の表情は晴れがましかった。
 ところが石段を半分以上進んだところで、奧の暗闇から頭巾をかぶった1人の男が飛び出すと、いきなり実朝に斬りつけてきた。
 男を見るやいなや、兄の第2代将軍、源頼家の息子の公曉(くぎょう)だとわかり、びっくりする実朝は口から名を言う間もなく、一太刀を浴びせられる。
 このときは右手に持っていた笏(しゃく)でとっさにかわしたが、頭上から切りかかってきた次の太刀は避けきれずに、噴水のように血しぶきをあげて倒れた実朝の首は一瞬にしてなくなっていた。上皇から贈られた装束も血まみれ状態だった。
公暁の父、頼家は独断的な政治を行うあまり、御家人に将軍の地位を追放されたあげく、北条氏に殺害される。その後、出家した公暁は近江・園城寺で修行の後、健保5(1217)年に鶴岡八幡宮別当に就任するが、一向に髪を落とす様子もなく、謀反を疑う者も多かったという。
■地頭の台頭
 当時、後白河法皇の持仏堂の名からとった「長講堂(ちょうこうどう)領」や、鳥羽上皇ゆかりの安楽寿院(あんらくじゅいん)領などを中心とした「八条院領」など莫大な荘園を抱える朝廷はそこからの税を主な財源としていた。
 だが、荘園に朝廷が任じた領主以外に、鎌倉幕府が警察権や徴税・行政権を持った地頭を置くようになると、両者間で利権をめぐってのトラブルが各地で発生するようになった。
 地頭からすれば、もとは自分らが開墾した土地であり、平家との戦いに勝った末に、幕府から所有を認められた領地という意識も強かった。一方、朝廷は横領としかみえなかったことだろう。
 そこに起きた実朝の暗殺劇。上皇ら朝廷との協調路線をとっていた実朝という“緩衝材”がなくなったことで、両者はいつ衝突してもおかくしない状態にさらされることになった。
 そんなとき、後鳥羽上皇は、寵愛する亀菊から「長江荘と倉橋荘(現在の大阪・豊中市あたり)にいる地頭を辞めさせて欲しい」と泣きつかれる。
 亀菊は、後鳥羽上皇が現在の水無瀬神宮(大阪府島本町)あたりに営んでいた離宮に遊興のとき呼んだ白拍子なのだが、お気に入りになったところでこのふたつの荘園を与えていた。
その亀菊によると、地頭が税収を横取りしているという。確かに地頭の台頭でほかの荘園でも税収が減少していたほか、荘園の寄進も少なくなった。
 そこで愛妾の願いを受けた上皇は、あることを引き換えに地頭の解任を幕府に要求し、朝廷領から地頭を追い払うための突破口にすることを思いつく。
■予期に反して
 実は亀菊の一件の少し前に、幕府の初代将軍・源頼朝の妻、北条政子と、政子を補佐する第2代執権、北条義時から、後鳥羽上皇の皇子の雅成(まさなり)親王を次期将軍に迎えたいとする申し出があったのだ。
 この背景には、暗殺された実朝に継ぐべき実子がなく、頼朝以来の直系が途絶えたため、皇族から迎えたいという政子の願望があったとされている。
 ここで上皇は鎌倉に使いを送り、長江荘と倉橋荘の地頭を撤廃するなら、雅成親王の将軍就任を認めるとした条件を提示する。
 当然、国内一の権力者と自負する上皇は「はい」という返事しかないだろうとたかをくくっていた。ところが、義時から来た返事は「いいえ」だった。しかも1千騎の兵をひき連れた義時の弟の時房(ときふさ)から恫喝(どうかつ)を受ける始末。
 幕府も平家との戦いで恩賞として御家人に渡した土地である。地頭を解任すれば幕府の権威は失墜することになるので、踏みとどまるのに必死だったのだ。
 だが、武家以上に武芸に優れていたという上皇も一歩もひかないため、鎌倉幕府も公家の摂関家・九条家から頼朝の同母妹の筋にあたる頼経(よりつね)を将軍に迎えるしかなくなった。
こんな両者相譲らない状況に国内の緊張感もマックスに。幕府軍と上皇軍という二大勢力の衝突も時間の問題となった。
(つづく)



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