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「無礼な!」一瞬で平家の9人を切り捨てた義経 「打倒清盛」胸に秘め京を脱出
2013.8.4 07:00 産經新聞
承安4(1174)年3月、平家打倒を胸に秘め鞍馬山を脱出した遮那王(しゃなおう)は平清盛が思いのままに権勢をふるう京を出て、奥州へ向かうことになった。出迎えるのは国内第2の都市、平泉で栄華を極める藤原氏の第3代当主、秀衡(ひでひら)。東海道を東へと歩を進める遮那王は京の七口のひとつ、粟田口(あわたぐち)を何事もなく出て、脱出は成功したかにみえたのだが…。
■まだ見ぬ地へ
奥州といえば、遮那王の高祖父にあたる源義家が支配した土地。朝廷に反逆した安倍一族を滅ぼしたのが縁で深い絆でつながれた源氏と藤原氏だったが、100年後もその関係は続いていた。
当時、国内有数の金の産地で、藤原一族は戦乱に明け暮れる京都を尻目に、金をもとにして平和で豊かな国を築いていった。
だが、源氏の御曹司(おんぞうし)を迎え入れることで源氏とさらに強い絆を築き、平家以上に強い国をつくりたいという秀衡の意図も見え隠れする。
そこで、奥州産の金を売りさばくため、奥州と京都を往復していた金売吉次(かねうりきちじ)に遮那王の脱出の手伝いを命じる。金売吉次は「平治物語」に登場するが、確認できる正式な資料もなく、全く謎の人物とされる。
そんな中、鞍馬山を下りた遮那王は吉次の屋敷に入ると、屋敷内の鎮守社に奥州までの道中の安全を祈願する。この鎮守社が、現在の首途(かどで)八幡宮(上京区智恵光院通今出川上ル)にあたる。
■9人を瞬殺
遮那王と吉次は三条大橋を渡り、東海道を東へと向かうと、山に突き当たる手前からしばらくなだらかな坂道が続く。現在の京都市街地と山科をつなぐ日ノ岡峠の京都側の「蹴上(けあげ)」という地である。
桜並木で有名な琵琶湖疏水のインクライン周辺といった方が、わかりやすいかもしれない。
近くの日向大神宮で参拝を済ませた遮那王は、前方から馬に乗って猛スピードで近づいてくる数人の武士とすれ違う。
平家の武士、美濃国の関原与一ら9人(あるいは10人)である。
「見破られたのか?」と道の脇で顔を伏せてかわそうとしたが、どうやらそうでもなさそうな雰囲気。内心ホッとする。
でも、それも束の間。悪いことに馬が蹴り上げてはねた泥水が服にかかってしまった。だが、謝ることなく過ぎ去ろうとした関原たち。
ついカッとなった遮那王は「無礼なやつ!!」と叫ぶなり、一瞬のうちに9人を切り捨てたのだ。また、関原だけ耳鼻をそいで逃したという話も残るが、いずれにせよ「旅の吉兆」と喜んだ2人だった。
■遮那王改め、源義経
蹴上の地名は、義経の服に水がかかったときの馬の「蹴り上げ」から来ているといわれ、今も現場近くには切られた9人を弔ったとされる石仏など、ゆかりの史跡・遺物が数多く残る。
斜面状になった蹴上インクラインを上り切った所、日向大神宮の途中に「義経大日如来」と呼ばれる高さ約90センチの石仏が1体。蹴上から東に進んだ日ノ岡や御陵(みささぎ)にもゆかりの石仏などがある。
「平治物語」には、遮那王が都を出た日の夜、近江国の鏡の宿(しゅく)(現在の滋賀県竜王町)で、自から髻(まげ)を結うと烏帽子(えぼし)をかぶって元服し、名を源義経と改めたという。
慣れ親しんだ京を離れて平泉を目指し、東へ東へと進む義経が再び京へ戻ってくるのは、これから約10年を待たなければならない。
このとき英雄として凱旋するが、平清盛も平家も姿はなく、今度は兄、頼朝への謀反で再び都を追われることになる。(おわり)
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