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歴史に残る北条政子「名演説」の“見事”…「正義」の在り処を示し、幕府軍を一枚岩にさせた「論理」展開のツボは
2014.5.25 07:00 産經新聞
愛人に与えた領地に鎌倉幕府が派遣した地頭(じとう)を解任させようと、幕府ナンバー2の執権(しっけん)、北条義時とやり合った末、恫喝(どうかつ)まで受けた後鳥羽上皇のプライドは傷つけられ、承久3(1221)年5月、義時追討の命令「院宣(いんぜん)」を全国に発信する。士気があがる朝廷に対し、朝敵となった幕府に動揺が広がった。だが、ここで立ち上がったのが「尼将軍」こと、源頼朝夫人・北条政子。彼女の一世一代の名演説が東国武士の士気を蘇らせた。
■軍事おたく
鎌倉幕府の初代征夷大将軍、頼朝に「日本一の大天狗(てんぐ)」と言わせるほど政界で影響力を持った後白河法皇が建久3(1192)年に亡くなり、朝廷の実権を握った後鳥羽上皇(当時は天皇)は詩歌管弦だけでなく乗馬や弓矢など武芸に優れていた。
このため、平安時代中期に醍醐、村上両天皇がみずから世を治めた「延喜・天暦の治」を理想としていたものの、その方向は政策面より、むしろ軍事面に向けられていた。
特に、これまで上皇直轄の親衛隊だった「北面(ほくめん)の武士」に加えて、「西面(さいめん)の武士」を新設することで兵の数を増やしたうえ、厳しい訓練を課すことで質も高めていった。
西面の武士も北面の武士と同様に西日本の優秀な武士で構成され、鎌倉幕府に対抗するために設けられたとされているが、上皇の武芸好きが高じたとの説もある。
そして、当初のターゲットになったのが僧兵を抱える寺院だった。
建暦3(1213)年、当時、犬猿の仲だった清水寺を焼き払おうと延暦寺の僧兵が百人以上、東山・長楽寺に集まったところで西面の武士と衝突。双方に多数の死傷者を出すほどの激戦が展開されている。
鎌倉幕府にとっても、命知らずの上皇の親衛隊と正面衝突すれば無視できないほどの被害が想定され、驚異の存在となった。
■上皇挙兵
2年前、義時から受けた侮辱を上皇は忘れていなかった。
承久3年5月14日、上皇が京・伏見の城南寺(現在の城南宮周辺)で流鏑馬(やぶさめ)を催すことを口実に全国から兵を呼び寄せると、14カ国から集まった約1700人を前に義時討伐の意志を明らかにする。
1700人のうち、藤原秀康ら大半が北面、西面の武士だが、鎌倉幕府創設に貢献した大江広元の子、親広(ちかひろ)が成り行きで上皇側についたほか、幕府の有力御家人、三浦義村の弟、胤義(たねよし)もいた。
三浦胤義の妻は幕府2代将軍、源頼家の元愛人。源実朝が暗殺されると、頼家との間に生んだ子も北条氏に殺されたため、胤義も北条氏に恨みを抱いていたとか。
翌日、上皇は今の京都市下京区寺町通高辻付近にあった幕府方の京都守護、伊賀光季(みつすえ)の宿所の強襲を命じる。上皇軍が約800人に対して光季側はわずか約30人しかなく、奮戦むなしく全滅してしまう。
上皇には幕府に勝つだけの目算があった。実朝の死で幕府にリーダーがいなくなった今、三浦vs北条のように御家人がぶつかり合った末、幕府は崩壊するだろう。
さらにもうひとつ、院宣の存在である。
最初の軍議のとき、胤義が「朝敵になった以上、幕府に味方する者は千人もいまい」と豪語するだけの力がまだ朝廷に残っていた時代である。上皇が義時追討の院宣を出すと、すぐに1万〜3万の兵が集まったという。
■涙の演説
19日、親幕派の公家、西園寺公経(きんつね)や上皇軍に討たれた光季の書状から幕府は上皇の挙兵を知る。さらに鎌倉にいた三浦義村から「恩賞は思いのままに」などと書かれた上皇の密書の存在も知る。
上皇の院宣のほか、密書は全国の有力御家人に送られたことが想像できたことから、幕府に大きな衝撃を与えた。このとき朝敵として官軍と戦うことを恐れた鎌倉の御家人の間に動揺が広がった。
そんなとき、北条義時の呼びかけで御家人たちは北条屋敷に集まる。その数は庭の隅々まで達し、立錐(りっすい)の余地もないほどだった。そこに、すっと立ち上がったのが尼僧姿の北条政子だった。
一瞬にして静まった群衆に向かい、政子は「最後の言葉」として涙ながらに次のような演説をしたとされている。
《朝敵を滅ぼして幕府を創設して以来、地位と生活水準を上げた頼朝の恩は山より高く、海より深い。そんな恩を忘れた逆臣が上皇をだまし、われわれを討とうとしています。ここに秀康、胤義を討ち、恩顧に報いるべきです》
御家人は、この演説に奮い立った。ターゲットを上皇ではなく、上皇をたぶらかした藤原秀康、三浦胤義に向けたことで彼らの正義も成り立った。
ここに、全員の心が「逆臣を討つべし」で固まったのだ。
(つづく)
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