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承久の乱(中)


 歴史に残る北条政子「名演説」の“見事”…「正義」の在り処を示し、幕府軍を一枚岩にさせた「論理」展開のツボは 
2014.5.25 07:00  産經新聞

 愛人に与えた領地に鎌倉幕府が派遣した地頭(じとう)を解任させようと、幕府ナンバー2の執権(しっけん)、北条義時とやり合った末、恫喝(どうかつ)まで受けた後鳥羽上皇のプライドは傷つけられ、承久3(1221)年5月、義時追討の命令「院宣(いんぜん)」を全国に発信する。士気があがる朝廷に対し、朝敵となった幕府に動揺が広がった。だが、ここで立ち上がったのが「尼将軍」こと、源頼朝夫人・北条政子。彼女の一世一代の名演説が東国武士の士気を蘇らせた。
■軍事おたく
 鎌倉幕府の初代征夷大将軍、頼朝に「日本一の大天狗(てんぐ)」と言わせるほど政界で影響力を持った後白河法皇が建久3(1192)年に亡くなり、朝廷の実権を握った後鳥羽上皇(当時は天皇)は詩歌管弦だけでなく乗馬や弓矢など武芸に優れていた。
 このため、平安時代中期に醍醐、村上両天皇がみずから世を治めた「延喜・天暦の治」を理想としていたものの、その方向は政策面より、むしろ軍事面に向けられていた。
 特に、これまで上皇直轄の親衛隊だった「北面(ほくめん)の武士」に加えて、「西面(さいめん)の武士」を新設することで兵の数を増やしたうえ、厳しい訓練を課すことで質も高めていった。
 西面の武士も北面の武士と同様に西日本の優秀な武士で構成され、鎌倉幕府に対抗するために設けられたとされているが、上皇の武芸好きが高じたとの説もある。
 そして、当初のターゲットになったのが僧兵を抱える寺院だった。
建暦3(1213)年、当時、犬猿の仲だった清水寺を焼き払おうと延暦寺の僧兵が百人以上、東山・長楽寺に集まったところで西面の武士と衝突。双方に多数の死傷者を出すほどの激戦が展開されている。
 鎌倉幕府にとっても、命知らずの上皇の親衛隊と正面衝突すれば無視できないほどの被害が想定され、驚異の存在となった。
■上皇挙兵
 2年前、義時から受けた侮辱を上皇は忘れていなかった。
 承久3年5月14日、上皇が京・伏見の城南寺(現在の城南宮周辺)で流鏑馬(やぶさめ)を催すことを口実に全国から兵を呼び寄せると、14カ国から集まった約1700人を前に義時討伐の意志を明らかにする。
 1700人のうち、藤原秀康ら大半が北面、西面の武士だが、鎌倉幕府創設に貢献した大江広元の子、親広(ちかひろ)が成り行きで上皇側についたほか、幕府の有力御家人、三浦義村の弟、胤義(たねよし)もいた。
 三浦胤義の妻は幕府2代将軍、源頼家の元愛人。源実朝が暗殺されると、頼家との間に生んだ子も北条氏に殺されたため、胤義も北条氏に恨みを抱いていたとか。
 翌日、上皇は今の京都市下京区寺町通高辻付近にあった幕府方の京都守護、伊賀光季(みつすえ)の宿所の強襲を命じる。上皇軍が約800人に対して光季側はわずか約30人しかなく、奮戦むなしく全滅してしまう。
 上皇には幕府に勝つだけの目算があった。実朝の死で幕府にリーダーがいなくなった今、三浦vs北条のように御家人がぶつかり合った末、幕府は崩壊するだろう。
 さらにもうひとつ、院宣の存在である。
最初の軍議のとき、胤義が「朝敵になった以上、幕府に味方する者は千人もいまい」と豪語するだけの力がまだ朝廷に残っていた時代である。上皇が義時追討の院宣を出すと、すぐに1万〜3万の兵が集まったという。
■涙の演説
 19日、親幕派の公家、西園寺公経(きんつね)や上皇軍に討たれた光季の書状から幕府は上皇の挙兵を知る。さらに鎌倉にいた三浦義村から「恩賞は思いのままに」などと書かれた上皇の密書の存在も知る。
 上皇の院宣のほか、密書は全国の有力御家人に送られたことが想像できたことから、幕府に大きな衝撃を与えた。このとき朝敵として官軍と戦うことを恐れた鎌倉の御家人の間に動揺が広がった。
 そんなとき、北条義時の呼びかけで御家人たちは北条屋敷に集まる。その数は庭の隅々まで達し、立錐(りっすい)の余地もないほどだった。そこに、すっと立ち上がったのが尼僧姿の北条政子だった。
 一瞬にして静まった群衆に向かい、政子は「最後の言葉」として涙ながらに次のような演説をしたとされている。
 《朝敵を滅ぼして幕府を創設して以来、地位と生活水準を上げた頼朝の恩は山より高く、海より深い。そんな恩を忘れた逆臣が上皇をだまし、われわれを討とうとしています。ここに秀康、胤義を討ち、恩顧に報いるべきです》
 御家人は、この演説に奮い立った。ターゲットを上皇ではなく、上皇をたぶらかした藤原秀康、三浦胤義に向けたことで彼らの正義も成り立った。
 ここに、全員の心が「逆臣を討つべし」で固まったのだ。
(つづく)

承久の乱(下)


 “朝廷コンプレックス”はねのけ、武士が完全天下…上皇は責任転嫁で延命図るも最後は島流し
2014.6.1 07:00  産經新聞

 京都で後鳥羽上皇の官軍が兵を挙げたことに戸惑いを隠せなかった“朝敵”幕府軍も、「源頼朝公の恩に報いよ」と涙ながらに説く尼将軍、北条政子の言葉に目が覚め、集まった兵は19万騎に達した。しかも、先手必勝とばかりにとった幕府軍の電撃作戦の前に、上皇軍はひとたまりもなかった。裏切りと混乱にあえいだ末に大敗北を喫し、上皇にも悲劇の結末が待っていた。
■幕府軍、出動
 政子の演説で鎌倉がひとつになった夜、北条義時邸で軍議を開いた。
 薄暗いロウソクの明かりの下で作戦を練るのは義時のほか、義時の長男・泰時、義時の弟・時房、頼朝以来の重臣の大江広元と三善康信に加え、有力御家人の三浦義村と安達景盛ら。
 最初は「東海道・箱根の守りを固めて…」など消極意見に終始するが、しびれを切らした広元が「やられる前にやりなさい!!」と京都への進軍を切り出す。
 一瞬、驚きの表情を見せた泰時が「こちらから上皇さまの軍に仕掛けるのですか」と切り返す。だが、義時と康信、さらには政子が広元の意見に同調したことで作戦が決まると、ここからの動きは早かった。
3日後の承久3(1221)年5月22日、泰時と時房が17騎で鎌倉から東海道を西へ進みながら兵を糾合していくと、またたく間に10万騎に膨れあがった。
 続いて甲斐国の守護、武田信光を大将とする5万騎が東山道から、泰時の弟・朝時(ともとき)を大将とする4万騎が北陸道から一路、京都を目指した。
 それでも心がすっきりしない泰時は出発した翌日の23日、いったん鎌倉に戻ると、父・義時に疑問をぶつける。
 「上皇さまが兵を率いて攻めてきたらどうすればよいのでしょう」
 すると義時は「潔く兜(かぶと)を脱ぎ、弓の弦を切って降参しなさい。ただし兵だけならば力の限り戦うべき」と答えたという。
■浮足立つ上皇軍
 幕府軍が京都へ近づきつつあることを上皇が知ったのは6月1日の高陽院(かやのいん)でのこと。鎌倉の三浦義村宛てに義時追討の密書を持たせて派遣させたはずの従者が義時の返書を手に帰ってきたのだ。
上皇がこのとき、幕府軍の兵力をどこま把握していたかはわからないが、三手に分かれて半端ではない数が迫っていたことは従者の話から認識した。
 あわよくば、義村に討たれた義時の首を期待していただけに、上皇は慌てて美濃と尾張の境を流れる尾張川に1万7500騎の兵を派遣する。
 ところが、兵力を分散させたことから、大井戸や墨俣で幕府の数万騎に数千の兵を正面からぶつけてしまう愚行を犯し、6月5日に始まった戦いは1日で上皇軍は大敗する。
 尾張で敗れたことを知った京都では、公家から民衆までが右往左往して逃げ惑うのみ。
 上皇は武装して宇治川と近江・瀬田川を防衛ラインに守りを固めたうえで比叡山に避難しようとした。だが、上皇の親衛隊「西面の武士」らがこれまで比叡山の僧兵と散々やり合ってきただけに、簡単に追い返され、上皇はしぶしぶ高陽院に戻る。
 13日、幕府軍が宇治川へ着いた。これまで大した損害もないまま京に着いた泰時の軍勢が見たものは川の西岸沿いにズラリ並んだ楯の列。その向こうに官軍を意味する「錦の御旗」が翻っていた。
■裏切りの果てに
 このとき、泰時は鎌倉を発つ前、父・義時と交わした会話を思い出していたに違いない。でも、ここまで来た以上は戦うしかなかった。
 宇治橋は上皇軍によりはずされていたため、普段でも流れが激しい川が豪雨のためさらに渡るのが難しく、攻めあぐねていた幕府軍目がけ雨のごとく矢を射かけきた。
 上皇軍は瀬田とあわせて3万騎。しかも背水の陣だけに必死の抵抗だった。
 それでも14日、数に勝る幕府軍は雨中、渡河作戦に踏み切る。多数の溺死者を出しながら、御家人・佐々木信綱と泰時の長男・時氏らが川を渡りきると敵陣を一気に突破。ここで上皇軍は総崩れとなった。
 上皇軍の指揮官、藤原秀康、三浦胤義らは再戦のため御所へ撤退し、上皇の判断を仰ごうとしたが、ここで門を閉ざされて上皇に追い返される。
 しかも、上皇は院宣の中身を「義時追討」から「秀康、胤義逮捕」へとすり替えてしまう。上皇の変心に絶望した秀康らは東寺で抵抗を続けたが、胤義は太秦で自害し、秀康も河内で切られて、乱は終結する。
 幕府は乱後、上皇側が持っていた膨大な荘園を没収するとともに、朝廷監視のため、これまでの京都守護に代わり、より強力な六波羅探題を設置する。
 また、家臣に責任をなすりつけ逃げ切るつもりだった上皇は隠岐に流され、18年後の延応元(1239)年2月、都へ帰ることを夢見ながら亡くなる。哀れな最期だったという。
(おわり)


 白昼メッタ刺し、斬首…攘夷派の「憎悪」誘発した“開国攘夷派・象山”の「とんでもない計画」

2014.3.23 07:00  産經新聞

ペリー率いる米艦隊が浦賀に来航して以来、世論が開国か、外国を打ち払う攘夷(じょうい)かで揺れていた元治元(1864)年7月11日、京都・木屋町で開国派の兵学者、佐久間象山が白昼、数人の男に刺されて死亡する事件が起きた。開国派が攘夷派に狙われたという当時としてはお決まりの構図のようにも思えるが、その中には象山のとんでもない計画への阻止行動という意味合いも強く含まれていた。その計画とは−。
■西洋かぶれ
 暑い夏の日だった。
 象山はこの日の朝、宮家創設間もない山階宮(やましなのみや)に自ら策定した開港の勅許案を説明するために木屋町御池の宿所を出ると、京都御所の南西角にある閑院宮(かんいんのみや)邸を訪ねる。
 そのあと、いったん南に向かって、知り合いの本覚寺(富小路五条)に立ち寄り、それから宿所へ戻るため寺町通を北上してしていた。
 象山は開国派とはいってもただ外国に追従するだけではなく、外国の先進技術を学びながら国力をあげたのち、列強の仲間入りを果たすといった、他の開国論者とはひと味違う、いわば開国攘夷論者だった。
 とはいえ、当時の江戸幕府第14代将軍、徳川家茂(いえもち)の要請で3月に江戸から上洛したとき、洋装で様式の鞍(くら)を付けた白馬にまたがる象山の姿は、攘夷論者にとっては西洋かぶれの腑抜(ふぬ)けに見えたのだろう。
 この前年、攘夷派の公家や長州藩士らが京都から一掃されると、報復として開国論者が攘夷派に狙われて命を落とす事件が多発する状況下、朝廷や幕府要人らに開国を説く象山が攘夷派の刺客に狙われる確率はかなり高かった。
その確率といったら、長州・吉田松蔭のかつての師でもあった象山に、攘夷派ながら一目を置いていた長州の桂小五郎も、知人を通じて警戒を促したといわれるほどに切迫した状況だった。
■待ち構える刺客
 本来ならば、いくら警戒してもし足りるということはないのだが、象山本人は周囲の心配をよそに馬引きら数人のみで街中を移動するなど、いっこうに意に介していない様子。
 それどころか、背丈が当時としては大柄の170センチはあったとされる象山が黒の裃(かみしも)と白い小袖(こそで)という粋ないで立ちで、白馬にまたがった姿は相当に目立っていたはずで、「襲えるものなら襲ってみろ」と、攘夷派を挑発しているようにもうかがえる。
 だが、この過剰な自信が命取りとなった。この日、象山の行く先々に刺客の罠が何重にも巡らされていたのだ。悠々と寺町通を進む象山が最初に刺客の存在に気がついたのは、四条通に差し掛かった所だったともいわれている。
 だが、刺客が象山を最初に襲ったのは、三条通と木屋町通が交差する三条大橋の西詰、つまり三条小橋に近いところだった。いきなり刀を抜いた2人の男が象山の前に現れる。
 危険を察知した象山は目と鼻の先まで迫った宿舎に逃げ込もうとしたのか、馬を走らせて木屋町通を北上しようとした。だが、ここで馬が切られる。
 それでも何とか馬を走らせた象山だったが、馬が宿舎前を通り過ぎて御池通に出たところで、さきほどとは別の2人の刺客の待ち伏せに遭い、挟み撃ちにされてしまう。
■血まみれの小袖
 「お前ら、何者だ!!」と象山は剣を抜いて応戦したが、ここで馬が力尽き、すごい土煙とともに象山も転落する。
 そこに襲いかかった刺客は、熊本藩士の河上彦斎(げんさい)と平戸脱藩浪士の松浦虎太郎(とらたろう)の2人。松浦が最初のひと太刀を浴びせ、居合い抜きの名人の河上がとどめを刺したとも。
 象山の小袖は血で真っ赤に染まり、翌朝、三条河原に首がさらされたというからには発見時は遺体に首がなかったのだろう。メッタ刺し状態だったといい、かなり恨みに思われていたに違いない。
 それもそのはず。ちょうどひと月前、攘夷派が三条・池田屋で新選組の襲撃に遭い多数が死傷する事件をきっかけに、長州藩を中心にした攘夷派が幕府との対決姿勢を強める中、象山は天皇の御座所を幕府の警護の行き届いた彦根に移す計画を進めていたのだ。
 これでは京都に戻るきっかけを失う攘夷派は7月10日、計画の真偽を象山に問うたところ、象山はあっさりと認めたという。その翌日の象山暗殺。
 10日後、三条大橋に攘夷派の犯行声明ともとれる斬奸状(ざんかんじょう)が立った。これには次のような内容が書かれていた。
 元来、西洋学を唱えて開港を主張。会津、彦根二藩と天皇を彦根に移そうとしている。これは人道を踏み外した行為で、とうてい受け入れることのできない国賊的行為につき、三条木屋町で天誅(てんちゅう)を加えた。
 元治元年7月21日 皇国忠義士
(つづく)

 キリスト教の「日本征服」恐れた秀吉の妄想横暴…疑心暗鬼から教徒の逮捕・磔刑命ずる
2014.4.27 07:00  産經新聞

 文禄5(1596)年9月28日、イスパニア(スペイン)の大型船「サン=フェリペ号」が土佐沖に漂着する事件が起きた。遭難者は救出したが、積み荷の所有権をめぐってトラブルが発生する。これがもとで疑心暗鬼の時の権力者、豊臣秀吉は、ついにスペインによる日本侵略説まで出し、京都のキリシタン教徒の逮捕と磔刑(たっけい)を命じる。ここに、全世界を驚がくさせた弾圧事件が始まる。
■積み荷はうちのもの
 サン=フェリペ号はガレオン船と呼ばれる当時最大級の帆船。船形がこれまでよりスマートで喫水も浅いため、高速で荷を多く積める利点があったが、安定性に劣るため、転覆事故を起こしやすいといった欠点もあった。
 文禄5年7月、多くの高価な荷を積んでフィリピン・マニラを出航したサン=フェリペ号は一路、メキシコを目指して太平洋を横断していた。ところが、東シナ海で台風に遭遇する。
 安定感のない船だけに揺れも大きい。すぐに舵(かじ)が壊れて操船ができなくなったため、メーンマストを切り取って何とか難を逃れようとするも、多くの乗組員は傷つき、船体の損傷も激しい。
 ただ、ただ激しい風とうねりに身を任せるしかなかった。そんな中で、ようやく漂着したのが日本の土佐沖だった。
 突然の“南蛮船”の漂着を受けて、土佐の大名・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は乗組員を土佐・浦戸に収容すると、事の一切を秀吉に報告。秀吉が派遣した奉行の増田長盛(ましたながもり)は乗組員の全員処刑の可能性と積み荷の没収を伝えるのだった。
当時の国内外の海事法では積み荷の扱いは船側にあるにもかかわらず、秀吉側は何を誤解したのか、「漂着した積み荷の所有権はその土地に移るのが昔からの日本での習わし」などと主張してしまったのだ。
 ここに互いの意見が真っ二つに割れてしまった。
■緩やかなはずが…
 織田信長はキリスト教布教を奨励したことから各地に南蛮寺と呼ばれる教会が建てられた。だが、一向一揆のような宗教による大規模な反乱を警戒した秀吉は天正15(1587)年、キリスト教の布教禁止などを命じる。
 ただ、このとき禁じたのは布教活動だけで信仰までは禁じていなかった。貿易による利益を優先したためだが、漂着事件以来、秀吉はスペイン、さらにはキリスト教による日本征服を恐れるようになっていく。
 一説には、積み荷を没収された腹いせに、乗組員の一人が「スペインは日本征服のために宣教師を送り込んだのだ」などとする内容の暴言を吐いたためともいわれている。
 このとき、乗組員の前でひとつの秀吉の書状が読まれている。
 その中には、都にいる複数のポルトガル人らの証言として、「スペイン人は海賊」「世界各国を武力征服したように日本も征服するため測量に来た」などと書かれていたという。
 だが、この疑心暗鬼ともとれる秀吉の書状の内容をよく見れば、秀吉の根拠となっている証言者は日本と最初に貿易を始めたポルトガル人である。
 船が種子島に漂着して以来、50年間ずっと日本と交易してきたのはポルトガルである。その意味からすれば、遅れて出てきたとはいえ、スペインは商売がたきであり、面白くない存在であるはず。
秀吉はそんなポルトガルの口車に乗ってしまった…ともみられなくもないが、漂着事件直後の文禄5年12月、再び禁教令を公布する。
■伸びる弾圧の手
 天正の禁教令で南蛮寺などすべての布教施設が壊された京都で、文禄2(1593)年にフィリピン総督の使節として来日したフランシスコ会の宣教師、ペトロ・バプチスタは、秀吉から今の四条堀川周辺に広大な土地を与えられると、教会や病院、学校などを建てた。
 病院には当時、手の施しようもなかった病気の患者や、貧しい人たちを収容して治療を行ったとして、その精神に共感して活動に参加する日本人も数多くいたという。
 ところが、サン=フェリペ号事件後に出された禁教令で様相が一変する。
 秀吉は、京都にいるキリスト教の一派、フランシスコ会の宣教師や信者、関係者全員を逮捕するとともに磔(はりつけ)の刑にすることを奉行の石田三成に命じる。
 日本の文化や伝統を尊重しつつ、大名ら上層部から浸透させたイエズス会に対し、自分たちのスタイルにこだわり、貧しい階層に入っていったフランシスコ会の活動が、秀吉には挑発的に見えたというのだ。
 だが、ここでも先発・イエズス会に対する後発・フランシスコ会の構図が見えていただけに、またしても秀吉は乗せられたのだろうか。
 バプチスタらに逮捕のときが迫ってきた。
(つづく)



 刃物で1人ずつ、左の耳たぶが切り落とされていった…キリスト教憎しの秀吉、磔刑前の教徒24人への仕打ちは民衆への“見せしめ”
2014.5.4 07:00  産經新聞

文禄5(1596)年10月、台風で土佐沖に座礁したサン=フェリペ号の事件をスペインの日本征服の第一歩と邪推した豊臣秀吉はキリシタンへの不信感を募らせると、石田三成に命じてフランシスコ会の関係者を次々と逮捕する。その数は24人にのぼり、あとは全員、死を待つばかりとなっていた。だが、それでも許せない秀吉は、さらにむごい仕打ちを用意していたのだった。
■地震や嵐も
 この年の9月、京・伏見付近で大地震が発生し、秀吉の居城・伏見城の天守が倒壊したのに続いて、サン=フェリペ号が遭遇した台風は近畿にも大被害をもたらした。
 それだけに、サン=フェリペ号事件は、秀吉の主治医・施薬院全宗(せやくいんぜんそう)ら反キリスト教派の格好の攻撃材料になったともされる。
 全宗といえば、信長の比叡山焼き打ち後に延暦寺を復興させた一人として知られるが、このとき健康を害していた秀吉にとって主治医の言葉は染み渡るように響いたことだろう。
 秀吉が再び禁教令を出すと、キリシタン全員の逮捕と処刑を京都奉行の石田三成に命じた。ただちに逮捕予定者のリストを作る。イエズス会に入会している小西行長ら秀吉配下の有力大名もいる中、名簿の筆頭は摂津・高槻や播磨・船上(ふなげ)の城主を務めた高山右近だった。
 右近は秀吉のバテレン追放令に反し、教えを捨てなかったため任を解かれ、政治アドバイザー的な身分で加賀の前田利家のもとにいた。
 だが、キリシタンにとって信仰で命を失うことは殉教であり、聖人となる機会ととらえていた時代。名簿の話を聞いた右近は喜んで利家に別れを告げたとされる。細川忠興夫人・ガラシャも晴れ着を作って、そのときを待ちわびていたという。
このため、のちの影響を考えのだろうか。三成は対象をキリシタン全員とすることに反対する。
■次々と捕らえられ
 そこで最初の標的となったのは、宣教師のペドロ・バプチスタらフランシスコ会の関係者だった。
 フィリピン総督の日本最初の使節として文禄2(1593)年に来日し、謁見した秀吉から京都・四条堀川近くに広大な土地を与えられると、禁教令下にもかかわらず修道院や教会、病院などを建てる。
 病院は京都初の西洋式施設で、多くの貧民やハンセン病患者を収容するなど布教・奉仕活動を積極的に進めたことから、周辺は200人以上の信者でふくれあがり、ひとつの町を形成するほどだったという。
 これが秀吉には反抗的にみえたのだろう。サン=フェリペ号事件後の文禄5年11月、再び禁教令を出すと、12月8日に秀吉は逮捕命令を出した。
 深夜、秀吉の命を受けた三成は翌9日、手勢を連れて京都のフランシスコ会修道院に向かい、尾張のレオン烏丸(48)▽尾張のパウロ鈴木(49)▽伊勢のトマス小崎(14)−ら5人の日本人を逮捕した。
 10日には、大坂にも追及の手が伸び、摂津のパウロ三木(33)▽五島のヨハネ五島(19)▽備前のディエゴ喜斎(64)−らが捕まる。(年齢はいずれも死亡時)
 結局、翌年の1月までに京都で17人、大坂で7人が逮捕されて、京都・小川通沿いにある牢屋敷に相次いで投獄される。
 ペドロ・パウチスタとマルチノ・デ・ラ・アセンシオンの両神父をはじめ、ほとんどがフランシスコ会所属の修道士およびその信徒だが、パウロ三木ら3人のイエズス会信者も含まれていた。
■度重なる受難
 捕らえられた24人はこれから起きる運命、つまり磔(はりつけ)による刑死を受け入れる覚悟はできていた。そして年が開けてまもない1月3日、牢から少し北の堀川に架かる「一条戻り橋」に連れて行かれる。
 この日は、前夜の雪模様から一転して晴天で、朝食をとったあと後ろ手に縛られて、雪の残る道を歩いて橋に向かった。
 一条戻り橋といえば、死者がこの橋上で生き返ったとか、死刑囚が真っ正直に生まれ変わるよう引き回しの際にはここを通ったなどといった、平安の昔から生と死にかかわってきた歴史がある。
 そのような所で「今度は何事か」と集まった多くの民衆を前に、見せしめとしていきなり左の耳たぶを切り落とされたのだ。秀吉は両耳を落とすように指示をしたが、ここでも三成のとりなしで片耳になったとか。
 刃物で一人ずつ切り落とされ、そのたびに血を流しながら顔をゆがませる。待つ身としては恐怖もあろうが、宣教師を中心に不安を取り除くような言葉をかけ合い、粛々と進んでいった。
 切られた耳はその場に捨てられたが、イエズス会の3人分は大坂奉行所の役人ながら同会信者の野田源助が拾いあげ、同会宣教師のオルガンティノに手渡したという。
 オルガンティノは涙ながらに、「これは日本イエズス会の初穂(はつほ)、私たちの労働の実り、新しい教会の花です。これを主、イエス・キリストにささげます」などと祈ったといわれている。
 24人の受難は、さらに続く。
(つづく)



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