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 耳そいだまま市中引き回し、長崎の刑場まで
850キロ歩かせて磔刑…秀吉の“非人間性”ここに極まる
2014.5.11 07:00 産經新聞

 豊臣秀吉の厳しいバテレン追放令の下、逮捕された24人のキリシタンは慶長2(1597)年1月、京都・一条戻り橋で全員、左耳を切り落とされると、血に染まった傷口を覆う間もなく、市中を引き回された。そこで秀吉から下った処刑の命。しかも、850キロ先の長崎の刑場まで歩くという過酷ものだった。それから1カ月にわたるキリシタンたちの死への長い旅路は始まった。
■処刑命令
 1月3日、一条戻り橋で左耳を切り落とされた24人は牛のひく荷車で引き回されるため、奉行所の役人の監視の中、3人一組となって乗り込む。
 当時、長引く戦乱のため崩壊寸前だった京都で人の集まる町といえば、現在の今出川通周辺の「上京」と四条通周辺の「下京」で、両町を結ぶ道は室町通しかないという、殺風景なありさまだった。
 そんな中、8台の荷台は列をなして一条通をギシギシと不気味な音を立てながら東へ向かい、室町通から南下するなどしてひと通り回った。
ポルトガルのカトリック宣教師、ルイス・フロイスの報告書によると、時刻は午後10時を過ぎ、周囲は真っ暗にもかかわらず、珍しい外国人を含む引き回しということで、沿道は多くの人だかりで、屋根の上から見ている人の姿もあったという。
 翌日、大坂と堺でも同様に引き回されるため小川牢屋敷を出発し、東寺口から京都を出た一行。ここで刑の対象から外れた信者に血まみれの十字架を手渡して別れを惜しむフランシスコ会の宣教師、ペトロ・バプチスタの姿もあった。
 京都、大坂だけでなく堺が選ばれたのは、当時、南蛮貿易で栄え、多くの外国人やキリシタンが集まっていたためとされている。
 そして1月8日、24人は処刑命令を受ける。場所は長崎・西坂の刑場。多くののキリシタンの見せしめのため、「歩いて行け」というものだった。
■一通の手紙
 堺での引き回しの後に大坂に戻ったのは9日。その翌日に長崎に向けて大坂を出発すると山陽道を通って13日に播磨に入り、14日には明石、15日には姫路へ進んでいる。
途中の西宮では、カトリック宣教師のオルガンチノから24人の道中の世話をまかされた京都のペトロ助四郎とフランシスコ吉ら2人が続けざまに受刑者の列に加えられるよう願い出る。
 吉は京都のフランシスコ修道院近くに住み、事件後も磔刑(たっけい)を志願していたらしいが、加わることができなかったので、川沿いの茶店で休息する一行の中に飛び込むと、バプチスタの足に泣いてすがりつき、列に加わったという話も残る。
 ここで26人となった受刑者は19日に現在の岡山市から三原へと進み、22日に広島市に入っている。三原では14歳のトマス小崎が城の牢内で、伊勢で暮らす母親に信仰を捨てないよう求めた手紙を書いている。
 この手紙は母に渡ることはなく、同じく捕らえられて処刑された父親・ミゲルの襟元から血の付いたかたちで見つかり、その訳本がローマに保管されている。
 28日、下関に着いた26人は船で九州・小倉に渡ると唐津、武雄、嬉野(うれしの)を通り、長崎・彼杵(そのぎ)に到着したのが2月4日午後。目的地の西坂は目の前に広がる大村湾の対岸にあった。
■賛美歌が途切れ
 舟で対岸に着いたのが午後11時のため、舟で一夜を過ごし、刑場に着いたのは5日午前9時半ごろ。この時、混乱を避けるために外出禁止令が出されていたにもかかわらず、4千人以上もの信者がまわりを取り囲んでいた。
 ルイス・フロイスの記述などによると、刑場には他の罪人の十字架も数本立っていた。すでに26人の十字架を立てるための穴も用意され、穴の前には十字架が1本ずつ置かれていた。
 到着するなり刑は執行された。縄は刑場内で解かれるが、今度は横たわる十字架上に鉄枷(かせ)で手足を、縄で首と胴を固定したあと十字架の下部を落とすように穴の中入れて一斉に立てられると、周囲からは悲鳴にも似た叫び声が起こった。
 3、4歩間隔で整然と一列に並んだ十字架の両端には4人の執行人が槍(やり)を持って立っていた。2人一組で左右から刺す。槍の先が心臓を貫くため、ほとんどがひと突きで息絶えるが、すぐに死ねない場合は絶命するまで何度も刺す。
 鞘(さや)が取り払われると周囲の信者はざわつき、受刑者の間からは「イエズス、マリア」の声が響いた。パウロ三木は説教者にふさわしく、絶命するまで周囲の人たちにキリスト教を信仰するよう大声で説いた。
 最初に執行されたのはメキシコ人修道士のフェリペ(24)。十字架のサイズが合わなかったため首の縄が締まり、窒息死寸前だったための処置だった。
 以後、ひとり、またひとりと駆け足状態で刺されていくたびに周囲から悲鳴が起こる一方、刑場内での神をたたえる声は少なくなっていった。そして、賛美歌を歌うバプチスタの声が途切れたところで刑は終わった。午前11時ごろといわれている。
(おわり)



 光秀は「信長」「秀吉」同時討伐を狙っていた…電撃戦術をほつれさせた「長宗我部」の弱気
2014.7.13 07:00  産經新聞

天正10(1582)年6月2日、織田信長が家臣の明智光秀に討たれた本能寺の変の直前、四国最大の大名、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が光秀の重臣に送った1枚の手紙が最近見つかり、話題になった。直前に迫った信長の四国派兵を恐れた元親が信長に従うとした内容で、信長軍の出撃日と本能寺の変の日が重なるだけに、関連資料として、より注目される結果となった。一戦も辞さない覚悟とみられた元親の気弱ともとれる意外な内容だが、ここから光秀がどのように刺激され、本能寺へ結びついていったのか。大胆に仮説を立ててみた。
■信長の指示に従い…
 信長と元親の関係は当初は良好で、光秀を交渉の窓口に、四国で元親が占領した分はすべて所領にしてもよい−などとする信長の約束をとり付けている。
 ところが、元親と争う阿波の三好氏が信長に接近して以降、信長と元親の関係はしだいに悪化。ほぼ四国全土を手中に収めていた元親に、信長は土佐と阿波の南半分以外をすべて返還するよう命じる。
 当初の約束をほごにされた元親は信長の命令を拒否し、天正9年には交渉も決裂すると、反織田勢力の毛利氏と同盟を結び、この時点で信長との戦いは必至の状態となった。
 そして信長が天正10年5月上旬に四国攻めを決定。三男・信孝を総大将に摂津と和泉に数万人を集結させる一方、先陣の三好康長が阿波北部の城を攻撃。長宗我部勢はほとんど抵抗することなく、阿波南部に退却している。
 手紙はこういった状況の中、元親が、かつて信長との交渉窓口だった光秀の筆頭家老で、婚姻などを通じて親類関係にあった斎藤利三宛てに5月21日付で送っている。
 これによると、阿波の一宮、夷山、畑山の諸城からは撤退するが、海部、大西両城は土佐の出入口にあたるので、このまま領地としたい。信長が甲斐の武田征伐から帰ってきたら、従いたい−などといった内容になっている。
■光秀の意図
 手紙の日付から10日後の6月2日に本能寺の変は起き、ついに信長は光秀に倒される。この日は、信孝が四国に向けて出撃する日でもあり、これは単なる偶然だろうか。
 長宗我部、明智両氏は親族なのだから、信長の四国征伐を阻止する目的で、密約があったという予測も成り立つ。
 しかも、信長配下の有力武将は他の戦いに明け暮れて、京都には誰もいないといった好材料がそろっていた。
 信心深い光秀と比叡山を焼き打ちにするような信長とは水と油。光秀が敬う朝廷を信長は軽視し、自分の領地の近江、丹波までも召し上げようとする信長を光秀はどうしても許せなかったのでは。
 そこで信長の殺害を決意するのだが、光秀が自分に味方する勢力などを考えるにあたって、まず思い浮かんだのが、室町幕府第15代将軍の足利義昭だったのではなかろうか。
 光秀がかつて仕えていた義昭は信長に京都を追放されて毛利領の備後・鞆(とも)に身を寄せていたとはいえ、このときはまだ征夷大将軍の地位のままである。
 この義昭を担ぎ出し、良好な関係を築いてきた朝廷からの支持を得て幕府を再興すれば、かつての足利氏家臣、細川藤孝や義昭の面倒をみてきた毛利氏の援助も期待できる。
 さらに相当に切羽詰まった心情が伝わってくる元親の手紙を見た光秀は「信長を倒すことを条件に味方になってくれるだろう」と確信したに違いない。
 このため、元親の手紙を受け取るとすぐに、光秀は「四国出撃の日の6月2日に信長を討つので、手を貸してほしい」といった内容の手紙を元親に送った可能性もある。
 それどころか、時間も押し迫っていたので、正確に作戦を伝えるため、直接に家臣を四国へ赴かせたかもしれない。
■ターゲットは秀吉?
 ここで考えられる元親の役割はやはり、毛利攻めで備中高松城にいた羽柴秀吉の背後を突くことだったと推測する。
 長宗我部軍は、「一領具足(いちりょうぐそく)」といわれる、ふだんは領地で田畑を耕している武装農民を主体としていただけに結束力が高かったのに対し、信長軍の兵は雇い兵が多かった。
 雇い兵はすぐに数がそろえられる半面、集団としての結びつきが希薄で、四国攻めの兵は信長の死で混乱したというから、元親からすれば、備中にいた3万の秀吉軍をターゲットにすればよいということになる。
 しかも、秀吉軍とにらみ合うのは、長宗我部と同盟関係にある約4万の毛利軍である。
 本能寺の直前まで信長の威光の下で元親と戦っていた三好軍が信長の死で動揺している隙に、長宗我部の家臣、池頼和(いけよりかず)率いる水軍の力を借りて秀吉の背後をつけば、勝利の可能性も高くなる。
 ただし元親に問題になることがひとつあった。農民が兵の主力となっていた元親軍にとって、5月から6月初旬は田植えの時期にあたることだった。
 「強力な信長の兵に対して、どれだけの兵がそろうのだろう?」。あの気弱ともとれる光秀への書状の裏には、こういった背景も隠されていたのではないだろうか。
 このあたりから、光秀の思惑のほつれが始まったようにも思う。
(つづく)


 光秀の〝誤算〟背後に「黒田官兵衛」の存在…秀吉「中国大返し」は官兵衛のアンテナと予測があってこそか
2014.7.20 07:00  産經新聞

領地の割譲を求める織田信長との一戦も辞さない四国最大の戦国大名、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が本能寺の変の直前、明智光秀の重臣に宛てた1枚の手紙から光秀の謀反の真相を大胆に読むシリーズの第2回は、羽柴秀吉の「中国大返し」を中心に話を展開する。天正10(1582)年6月2日に本能寺で信長を討った光秀だが、その後の思ってもみない誤算の連続に自らの読みの浅さを痛感することになる。そして、その背景に見え隠れする秀吉の軍師、黒田官兵衛の存在も見逃せない。
■早急な作戦
 本能寺襲撃は電撃作戦と呼ぶにふさわしい素早い動きだった。秀吉の援軍として備中高松城に向かうはずの光秀軍は居城・亀山城(現在の京都府亀岡市)から西へ向かわず、京へと兵を進める。
 さらに夜中、京内でも本能寺までの閉ざされた門を次々と開けさせることができたのは、光秀軍が信長親衛隊としての性格を持っていたためのことだろう。
 こうなると、百人足らずの手勢しかいない信長に対して1万3千人の光秀。結果は火を見るより明らかで、ここまでは光秀の計算通りだった。
 だが、光秀が謀反を思い立ったのはそれほど前のことではない。
 光秀の中で信長殺害が具体的になってきたのは、信長の家臣が戦いに出払って早々に帰れないうえ、上洛のための信長の手勢が少なことを知ってからのことだろう。
 また、元親討伐のため信長の三男、信孝と丹羽長秀が四国に出発する日が本能寺の変と同じ6月2日ということも、かかわっていると思う。
 四国統一の寸前、信長に所領の半分の割譲を迫られて一度は刃向かった元親だが、信長の四国討伐の命を知り、信長の指示に従うとする手紙を光秀の重臣・斎藤利三に出したのが5月21日。
こんな元親の弱気な手紙を見た光秀が、信長を討つかわりに味方につくことを求めた結果がこの日だとも考えられる。
■大返しの真意
 こういう状況下、光秀と元親の密約らしい気配を薄々だが察知していた人物もいたのではなかろうか。秀吉の軍師、黒田官兵衛である。
 当時は信長の最大の敵とみられていた甲斐の武田氏も滅び、全国が信長の勢力下に入ろうとしていたとはいえ、まだ有力武将が各地に点在していた時代。
 軍師は先々の作戦を立てる上で各地の情勢を知る必要もあり、自分のスパイを要所に放っていたことは予想できる。特に長宗我部と毛利は織田の当面の敵とみていただろうから、官兵衛も情報収集に余念がなかったことだろう。
 そんなときに起きた本能寺の変。毛利との戦いのため、備中にいた秀吉が本能寺の変を知ったのは3日夜ともいわれている。
 このとき、官兵衛の頭の中にはまず秀吉が、信長を討った光秀を倒し、後継者争いの主導権を握ってもらうことと、あわせて光秀と親しい元親の存在もあったと思う。
 もとは「水攻め」という長期戦に臨んでいた高松城での戦いだったが、信長亡き今、このまま戦いが長引けば、海を越えた元親に背後を奇襲され、毛利との挟み撃ちに会う危険性も考えていたのでは。
 そこで信長の死が毛利側に漏れないよう道路を封鎖すると、その夜、毛利の外交僧・安国寺恵瓊(えけい)を呼び出し、すぐに和睦の交渉に入ったのはそのためだと思われる。
 信長軍と全面衝突して家を滅ぼしたくない毛利軍との交渉は意外に早くまとまり、秀吉軍が戦場を離脱したのは4日午後とも6日午後ともいわれている。
■相次ぐ誤算
 謀(はかりごと)は密にといわれるように光秀は一部の親しい関係者にしか打ち明けず、しかも事前の準備もなくて見切り発車したのが、本能寺の変だった。
 とはいえ、各戦場に散る信長の有力家臣が早急に帰ってくることはないみていた光秀は、多少はある時間的余裕の中で態勢を整えるつもりではなかったのだろうか。
 備後・鞆にいる室町幕府第15代将軍、足利義昭を京都に呼び戻し、朝廷を味方につける。しかも、娘のガラシャを嫁がせている丹後の細川氏や大和郡山の筒井氏ら、光秀と親しい有力大名の加勢も期待していたことだろう。
 ところが秀吉の動きが早すぎた。しかも、備中高松城で和睦したとはいえ、信長の死を知ったことで秀吉を追いかけ、攻撃するだろうとみた毛利軍の姿もなかった。
 実は毛利軍の参謀格、小早川隆景は、秀吉に天下人としての器量を見いだす一方で、足利義昭では再び天下は乱れるとみていたらしく、京都へ戻りたい義昭の要請を一蹴している。
 また武装農民を主体とした長宗我部軍は、田植えのピーク期は過ぎていたものの、まだ農繁期であるこの時期に兵の大量動員はなかなかできず、傭兵の多い三好勢との戦いで四苦八苦していたのかもしれない。
 さらに再三、出動を要請していた丹波の細川藤孝からも断られている。信長の死を機に剃髪(ていはつ)したことなどを理由にしていたが、このまま光秀と組んでも、敗れる可能性が高いとみていたようである。
 ここに、光秀の準備不足と見通しの甘さが露呈した格好となった。
(つづく)


光秀を孤立無援にした「信長」の人望…信賞必罰・強権の裏で民衆・家臣に心砕いていた
2014.7.27 07:00  産經新聞

天正10(1582)年6月2日、京都・本能寺で織田信長を討った明智光秀だったが、その後、あてにしていた有力武将の援軍もなく、天王山のふもとで毛利軍と和解後、あっという間に引き返してきた羽柴秀吉と戦う。一見やることなすことが強権的で、“戦国時代のパワハラ王”ともいえる信長だっただけに反対派も相当多かったはず。それなのに、なぜ光秀は無視されてしまったのか。やはり光秀に人望がなかったのか。それとも…。
■支持率が高い信長
 実力を第一とし、はっきりした信賞必罰をとる信長は、力がある家臣は足軽でも引き揚げるが、失敗するとたまに暴力に訴えることもあった。このため、家臣との確執も絶えず、松永久秀や荒木村重ら数多くの裏切りにあっている。
 それでも力で押さえ込むと一族をも皆殺しにしてしまうなど、恐怖を背景に従える心理的効果は絶大だった。一方、占領したばかりの地でむやみな課税を禁止する命を出して悪い印象を払拭するなど、民衆の支持率には相当に気を配っていたという。
 また仏教や朝廷など旧態依然とした勢力を徹底的に嫌い、新しいものを好んだことから、自分あるいは家臣が治める城下町にいた特権を持つ商工業者組合を解散させ、新興業者に自由な商売を奨励する新しい経済政策をとったことで人気を決定的にした。
 この結果、家臣からは神や仏以上に畏れられ、民衆からはこれまでの閉塞感漂う政治、経済を一掃した革新政治家のイメージを植え付けるのに成功。“信長内閣”の支持率は相当に高かったともいわれている。
こうなると信長を討った光秀は動機はどうあれ、家臣から神仏以上にあがめられていた人を殺害した謀反人で、国民にすれば良き宰相を追い落とした極悪人である。
 光秀に加担した場合も、また謀反人、極悪人となることが十分に予想されたことから、加勢を見合わせたという雰囲気が強いようにも思える。 
■元親は…
 信長の四国侵攻直前、光秀の重臣に信長への恭順の意を示した書状を送っていた長宗我部元親も、どこまで光秀を助けるつもりだったのか。
 元親は「一両具足」と呼ばれる、平時は農作業をしながら、いざというときには作業を途中で放って駆けつける軍事制度を確立している。武士だけでは数が足りず、純粋な農民は動員に時間がかかるという、戦国大名が抱える問題を一気に解決した制度といえる。
 だが、信長や秀吉が確立したとされる、世の中の“あふれ者”を金銭で雇って兵に仕立てる常備軍制度は組織力で一領具足に劣るものの、動員速度ははるかに速い。
 このため、豊富な財力を武器に敵より圧倒的な兵力を用意すれば組織力も高まり、実力次第では、アルバイトから社員、幹部などといった出世も夢ではないだけに、必至で働くことになる。
 本能寺より1カ月前の5月に信長は四国侵攻を決めたとき、このまますぐに攻められては、いくら一領具足の動員力が優れているとはいえ、間に合わないとでも思ったのではないだろうか。
 信長との戦も辞さなかった元親が突然に信長への恭順を表した書状を光秀方へ送ったのも、時間稼ぎ的な意味合いもあったとも考えられる。
その証拠に、本能寺の4カ月後の10月に行われた讃岐・十河(そごう)城攻略戦で元親は3万6千の兵を動員している。しかも、翌年の賤ヶ岳の戦いで秀吉と争う柴田勝家と手を結んでいるところをみると、元親の気力も兵力もいっこうに衰えていない。
 四国攻めのため、四国の対岸の摂津と和泉にいた織田信孝軍は本能寺の変で撤退し、信長の力を背に元親と戦っていた三好勢も逃げる。これで助かった元親は「もう光秀の役割は終わった」と冷徹な目で見ていたのかもしれない。
■孤独の死
 本能寺の変の翌日の夜に信長の死を知った秀吉は備中高松城を介してにらみ合っていた毛利軍と講和を結ぶと6日に出発し、姫路城に到着したのが7日で、9日朝まで休養のために滞在したという。
 秀吉が京都へ引き返していることを光秀が知ったのは8日。近江をほぼ平定して、安土城で朝廷の勅使らと祝賀会を催した後、居城・坂本城に戻ったときともいわれている。
 あまりの秀吉軍の動きの早さに慌てた光秀は準備もそこそこに、とりあえずありったけの兵で天王山のふもとに戦場を設定して待つことにした。
 ここは桂川、宇治川、木津川が合流して淀川へと連なる狭隘(きょうあい)の地。秀吉軍の4万に対して1万6千の明智軍。数の上ではすでに勝負にならないため、光秀は狭い場所で各個撃破する目算だった。
12日、現地に到着した秀吉軍は小泉川(現・円明寺川)を境に光秀とにらみ合うが、やはり多勢に無勢だった。13日、淀川から側面をつかれた光秀軍は総崩れとなる。
 光秀は戦場近くの勝竜寺城まで退却して態勢を整えようとしたが、城が手狭ですべて収容できないことから、ほとんどの兵は逃げてしまう。
 この散々な結果に、光秀は城の北門からひそかに脱出すると、数人の家臣ともに近江・坂本を目指すも、途中の京・小栗栖の竹やぶで土民に竹やりに刺され命を落とす。
 裏切り、裏切られてが当たり前の戦国の世にふさわしい光秀の死だった。
(おわり)

本能寺の変(1)

「魚が腐っているぞ!」信長の叱責で従順な光秀がキレた? 謎を呼ぶ謀反の真相
2013.5.2 08:00 産經新聞

 天下統一を目前にした織田信長が天正10(1582)年、最も信頼を寄せていた家臣の一人、明智光秀に京都・本能寺で討たれる。従順なはずの光秀がなぜ謀反を起こしたのか。
今も多くの謎に包まれ、歴史最大のミステリーになっている。今回はその謎を解きほぐしつつ、5回にわたって事件の真相に迫る。
■事件現場の風景
 信長が討たれた本能寺は今、京都市役所前の河原町御池近くに伽藍(がらん)を見る。だが、当時の本能寺は今の場所から西約1キロの堀川通の近くにあった。
 現在の市立堀川高校の裏手に近い住宅地の中。北端は六角通、南端は蛸薬師(たこやくし)通。東端は西洞院(にしのとういん)通、西端は油小路と、現在とほぼ同じ広さはあったようだ。
 寺といえ当時は石垣が施された幅の広い堀や土居と要塞化され、防御に優れていた。
 が、事件当日は多勢に無勢。光秀の攻撃を受けて信長が寺に火を放つと寺は丸焼けに。その後、豊臣秀吉に整地され、事件から9年後の天正19年、寺は現在地に移っている。
旧寺域からは平成19年から翌年にかけて実施された発掘調査で、石垣や焼け土とともに「能」の異体字の銘を持つ瓦などが大量に出土したのは記憶に新しい。
■現場周辺の風景
 応仁の乱以来、長く続いた戦乱のため、京都は当時の首都とはいえ町は相当に荒れ果てていた。
 相国寺を周辺にした上京と四条通を中心にした下京にわずかに町並みが形成され、かつて都の中心だった二条通周辺は田園地帯と化していた。その上京と下京を結んでいた道路は室町通1本だけというお寒い風景だった。
 そんな中、それぞれに場所や時代も異なるが、室町幕府や信長らは二条通周辺に城郭・御所を築く。この伝統を引き継いだ徳川家康ら江戸幕府が築いたのが、今に残る二条城だ。
 事件時、信長の長男、信忠が宿舎とした妙覚寺は信長の本能寺とは北東約1キロの二条衣棚(ころもたな)にあった。襲撃を知り、信忠は寺を出て光秀を討とうとするが、本能寺が落ちたのを知ると二条御新造で自害する。
■事件前の風景
 事件の約2週間前の5月15日、信長の居城・安土城で、最大のライバルとみられた武田氏を天目山で滅亡させた祝勝会を開いたときのこと。
 徳川家康の接待役に選ばれた明智光秀は料理の魚が腐っていると信長に叱責されると、役目を解任されて備中(今の岡山)で毛利軍と奮戦中の秀吉軍の援軍を命じられる。
 そのうえ領地の丹波と近江を召し上げられた揚げ句に、毛利領の石見と出雲を「自分で取ってこい」と言われる始末。
 この話をそのまま受け取れば、非情な命である。いくら従順な光秀でも怒るのも当然だろう。
 越前・朝倉家や足利将軍家とのつながりが深い光秀が信長の家臣になるころ、信長に命じられた比叡山焼き打ちは信心深い光秀にとっては辛い出来事だったに違いない。
(つづく)


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