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敬愛する同業の先輩に。。。

 敬愛する同業の先輩に、石井英夫さんがいる。産経新聞の名物コラム『産経抄』を35年間にわたって書き続けた方である。数年前に会社を退き、いまは「家事手伝い」という肩書を印刷した不思議な名刺を携えて、雑誌などに健筆をふるっておられる

◆いつだったか、初任地の札幌で過ごした新人記者当時の昔ばなしをうかがった。雪の夜、地元紙の先輩記者に連れられて、石井青年が屋台でコップ酒を酌み交わしたときの思い出である

◆「石井君、新聞記事っていうのは炭ガラみたいなものだ」。先輩記者は、そう言ったという

◆炭ガラとは石炭の燃えカスである。「ストーブの炭ガラと同じように、新聞は次の日になれば捨てられてしまうけれど、一昼夜、人々の心を暖めたんだ。暖めた、そういう記事を書いたと思えば満足じゃないか。炭ガラ冥利に尽きるじゃないか」と

◆「新聞週間」を迎えて、各紙で震災報道の検証が始まっている。おもちゃのように小さなストーブにすぎない小欄だが、被災者を暖めることのできた日がたとえ一昼夜でも、はたしてあったかどうかノ。わがメ炭ガラモたちに問うてみる。

編集手帳
(2011年10月15日01時31分  読売新聞)



ロータリーよ永遠に

ロータリーよ永遠に

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                                   RX−8の特別仕様車「RX−8 SPIRIT R」

 マツダの「魂」であるロータリーエンジン(RE)搭載車が姿を消すことになった。唯一の「RX−8」の生産が来年6月に終了し、後継車の発売予定もないという。

  各国で厳格化される環境規制に対応するのにコストがかかりすぎるため、というのがその理由らしい。1991年にル・マン24時間レースを制したRE搭載車「マツダ787B」が今年、フランスや日本各地でデモ走行を行ったが、いま思えばそれは「お別れの旅」だったのかもしれない。

 REは世界でマツダだけがつくる唯一無二のエンジンである。ベンツなど各社が開発に挑んだが果たせなかった難物だ。

 マツダのホームページに「ロータリーエンジン開発物語」がつづられている。その中で印象に残っている場面がある。
「寝ても覚めてもロータリーエンジンのことを考えてほしい。

 赤穂浪士の苦労を思い起こして耐えてほしい」。当時の研究部長だった山本健一氏(のちに社長)はRE研究部が発足した初日に、研究に携わる部員47人を赤穂浪士47人の武士になぞらえてこうあいさつしたという。

 それから苦節6年、67年5月にREを初搭載した「コスモスポーツ」の量産化に成功したのだ。

 REはその後、レースでも伝説を作る。71年12月に行われた第6回富士ツーリスト・トロフィーレース。マツダからはRE搭載車のカペラとサバンナが参戦し、サバンナが一騎打ちの末、日産スカイラインGT−Rの50連勝を阻止した。

 20年後の91年にはル・マンを日本車として初制覇し
REの優位性を世界で証明したのである。
 
 だが、REには燃費が悪いという“弱点”があった。70年代のオイルショックでは悪者扱いされ、米国では「ガスガズラー(ガソリンがぶ飲み車)」の汚名を着せられたという。

 RE搭載車の販売累計は200万台を数えるまでになったが、エコの波に押されて、2010年のRX−8の世界販売は約2900台にとどまった。輝かしい実績を持つREも時代の流れには逆らえなかったのだ。

 「RX−8」生産終了発表の記者会見で山内孝社長は
「ロータリーエンジンが愛されていることを強く実感している。今後も研究開発を継続する」と話した。

 排ガスが出ない「水素エンジン」などで捲土(けんど)重来を期すという。夢のエンジンを新生ロータリーで見せてほしい。「ものづくりニッポン」の底力を持つマツダならきっとできる。(副編集長 黒沢通)

2011.10.16 08:15 
[from Editor]
産經新聞



アラブの春とSNS

アラブの春とSNS

 北アフリカのチュニジアで始まった民主化運動はあっというまに周辺諸国に広がり、次々とアラブ世界の独裁政権が倒されていった。「アラブの春」である

▲今年のノーベル平和賞はその関係者が受賞するのではないか、という下馬評も聞く。インターネットを活用して運動を指導した人物の名前などが取りざたされている。アラブの春ではネットを利用したさまざまなサービス、ツイッターやフェイスブックなどが威力を発揮した

▲一種の電子掲示板ないしミニブログである。ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)という。独裁者にとっては迷惑至極な代物だろう。印刷物と違い、パソコンや携帯電話でどこからでも意見を発信できるし瞬時に広がる。秘密警察も取り締まりが難しい

▲そうしたネットサービスのトップを走る米国のグーグル。その日本法人社長を務めた村上憲郎さんによれば、日本の「50歳以上のおじさんたち」はSNSのような新しいサービスに後ろ向きだ。それどころか足を引っ張る人も少なくない。これでは日本は競争力を失ってしまうという(東洋経済オンライン)。自戒しよう

▲ネットには匿名で中傷ばかりしている陰湿な世界もなくはない。だが、人と人の絆を強め、企業運営に取り入れれば生産性を格段に引き上げることも可能だ。さらにはアラブの春のような世界史的出来事にも貢献できる可能性がある

▲オバマ米大統領も熱中していたツイッターで試みに「紅葉狩り」を検索してみた。さまざまな方の体験と情報が美しい写真付きであふれている。これを参考に京都に行ってみようかな。それとも東北か。

余録  毎日新聞 
2011年10月2日 0時05分



元寇記念碑が作れぬ現代日本人

 ♪四百余州(しひゃくよしゅう)をこぞる 十万余騎(よき)の敵

 唱歌「元寇(げんこう)」が福岡の宴席で、斯(か)くも頻繁に、斯くも誇らしげに歌われるとは意外だった。宴席から3日後、日本領海に中国船が侵入した。

 主権侵害されてなお、徹底抗議・報復もしない「商人国家」の醜悪な横顔に接し、「元寇」をこぞって唱和した明治人の危機感と、それを支える愛国・団結心といった、国家が当然保有しているはずの「国防への情念」ともいうべき底力を、平成に見ることがいかに難しいか改めて感じた。

 「元寇」誕生は、湯地丈雄(ゆち・たけお)を抜きに語れない。湯地は、福岡警察署長だった明治19年に長崎事件の報に接する。

 《清国海軍々艦の鎮遠・定遠など4隻が新興小国・日本を睥睨(へいげい)しながら長崎に入港。上陸後、狼藉(ろうぜき)を繰り返す水兵と警官が、双方抜刀し150人強の死傷者を出す》

 清国は謝罪せず、負傷者の入院費は日本の全額負担と、外交交渉は国辱的結果に終わる。

 何しろ、ドイツ製の鎮遠・定遠は厚さ30センチ以上の鋼板で鎧(よろ)われ「不沈戦艦」「東洋一の堅艦」といわれた。それに比し、日清戦争前の大日本帝國(こく)海軍は貧弱だった。

 政府も国民も、清国の武威を恐れた。建設中の東海道や山陽本線は、艦砲射撃を憂(うれ)う軍の意向で海岸を避け、内陸ルートに変更されたほどだ。

 それでも、基本的には敢然・毅然(きぜん)とした姿勢を貫かんと欲した。象徴が湯地で、外国人の無礼千万な蛮行(ばんこう)と、背後に控える朝鮮半島をめぐる日清衝突に備えるには、日本人の主権意識覚醒と精神的支柱確立が急務と考えた。

 そこで、蒙古襲来に怯(ひる)むことなく応戦した鎌倉武士の気概を顕彰する元寇記念碑の建設を発起したのである。

 湯地は、建設資金寄付を呼びかけるも集まらず、活動に専念すべく23年に署長を辞し、時に野宿をしながら全国遊説。聴衆は六百数十カ所・126万人に達した。

 ようやく37年「敵國降伏」を筥崎宮(福岡市)などに祈願された亀山上皇の銅像が完成し、今も市内に建つ。湯地を側面支援すべく、国民的愛唱歌となる「元寇」を作詞・作曲したのが陸軍々楽隊長・永井建子(けんし)であった。

 寇船(あだふね)を 覆(かへ)しし風は武士(もののふ)の

 猛(たけ)き心のうちよりぞ吹く

 湯地の歌に、外敵に対し、国民の精神(心)が最も肝要だとの真理を見る。だのに「元寇」の歌詞にもある「傲慢(ごうまん)無礼」の中国による跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)に、現代日本人は日中友好記念碑を作る錯誤すら犯している。(九州総局長 野口裕之)

[from Editor]
2011.10.4 07:17 
産經新聞


松田直樹選手が死去 


松田直樹選手が死去 

 サッカーの元日本代表で日本フットボールリーグ(JFL)松本山雅のDF松田直樹選手(34)が4日、長野県松本市内の病院で死亡した。松本山雅の大月弘士社長が明らかにした。

 松田選手は2日に松本市内で行われたチームの練習中に倒れ、心肺停止の状態で松本市内の病院に搬送された。人工心肺装置で血液の循環を維持させてきたが、意識はなく厳しい状況が続いていた。

 松田選手は群馬県桐生市出身で、前橋育英高卒業後の1995年にJ1横浜Mに入団した。昨季まで主力として16年間プレーし、385試合に出場して3度のリーグ優勝に貢献。今季から松本山雅FCに移籍していた。

 日本代表としても国際Aマッチ40試合に出場し、2002年のワールドカップ(W杯)日韓大会では全4試合にフル出場し、初の決勝トーナメント進出の原動力となった。

2011.8.4 13:42
産經新聞

松田直樹選手の遺志を継ぎ、「不屈の闘志」見せて
 ほんの1カ月半前、この「蹴球ノート」で「起こしてはならない」と書いた悲劇が現実に起こってしまった。日本フットボールリーグ(JFL)松本山雅の元日本代表DF、松田直樹選手の突然死のことである。多くの関係者やサポーターが34歳での若すぎる死を悼んだ。

 2003年コンフェデレーションズカップ準決勝で実際にピッチ上に倒れる場面を目撃したカメルーン代表MFマルクビビアン・フォエ選手は28歳だった。松田選手の悲報を伝えるテレビニュースをながめながら、そのときのカメルーン報道陣やサポーターの悲痛な表情がフラッシュバックしてきた。

 当時のことを振り返ると、開催国フランスとの対戦となった決勝戦は中止にすべきとの声が挙がっていた。大切な仲間を失ったカメルーン代表の選手はとても戦えるような精神状態ではなかったように思う。それでも、3日後に行われた決勝戦で健闘。延長戦の末に0−1で敗れたが、チームのニックネームである「不屈のライオン」の名に恥じない戦いぶりを披露した。

 松本山雅も7日にホームでJFLのリーグ戦を控える。チームの中心選手を失う悲劇の中、既に練習も再開しているという。クラブは5日、公式ホームページを通じて「志半ばで倒れてしまった松田選手の遺志を継ぎ、シーズン最終戦まで全力でJ2昇格を目指して闘う」とのコメントを発表した。

 現在JFLで9位につける松本山雅だが、悲願のJ参入を果たすには、4位以内を確保しなければならない。「何としてもJリーグに上げたい」と口ぐせのように話していたという松田選手の遺志を受け継ぐ選手たちには、彼のプレースタイルでもある「不屈の闘志」を見せてほしい。
蹴球ノート
2011.8.6 14:02
産經新聞

節電の夏、悲劇は起こさないで 海外で選手の突然死続出

 それは、とても暑い6月だった。エアコン設備のない滞在先のホテルは寝苦しく、冷たいミネラルウオーターを求めて夜の街をさまよった。2003年にコンフェデレーションズカップ取材のために訪れていた酷暑のリヨンで、悲劇は起こった。

 1998年ワールドカップ(W杯)フランス大会の会場でもあるジェルラン競技場で行われたコンフェデ杯準決勝のカメルーン−コロンビア戦。後半途中にカメルーン代表MFのマーク・ヴィヴィアン・フォエが突然、ピッチの中央付近で倒れ、そのまま亡くなった。死因は後になって心臓発作と発表された。

 騒然となった現場で、当初は目の前で起きた事態の真相が分からず、悲しみに打ちひしがれていたカメルーン人記者に「フォエはどうなったんだ?」と尋ね、「何を言っているんだ! 死んだんだぞ」と怒鳴られた記憶がある。

 サッカー選手が突然死するケースは、その後も発生している。2004年1月にベンフィカ(ポルトガル)に所属していたハンガリー代表FWのミクローシュ・フェヘル、07年8月にはセビリア(スペイン)で活躍していたスペイン代表DFのアントニオ・プエルタが突然死。

 昨年のW杯南アフリカ大会決勝で、スペイン代表MFイニエスタが決勝ゴールを決めた直後にユニホームをめくって「僕たちはいつも一緒にいる」とのメッセージを披露した、エスパニョール(スペイン)DFのダニ・ハルケは、09年8月に遠征先のイタリアのホテルで急逝心筋梗塞(こうそく)により亡くなった。

 日本は今年、節電の夏を迎える。サッカー界もこぞって、協力姿勢を打ち出している。ただ、選手の健康面にはくれぐれも気を配ってほしい。悲劇は起こしてはならない。

蹴球ノート
2011.6.18 10:17 
産經新聞

カズ「厄介な選手だった」…松田直樹選手死去
 スポーツ取材の醍醐味(だいごみ)は、時にとてつもない才能に出合えることにある。

 1995年、Jリーグ。横浜マリノスに高校から入団したばかりのルーキーDFが定位置を奪い、当時のヴェルディ川崎と対戦した。対面には、イタリア帰りのカズこと三浦知良。90分間、ルーキーは、日本のエースに仕事らしい仕事をさせなかった。

 強く速く賢いディフェンダー。こんな天才がいるのだな、と思わせた。松田直樹だった。

 19歳で参加した96年アトランタ五輪ではブラジルの怪物ロナウドを押さえ込み、「マイアミの奇跡」の立役者となった。

 ベスト8に進んだシドニー五輪にも連続出場し、米国にPK戦で敗れた。五輪やW杯になると、自社や通信社の写真が、それこそ山のように送られてくる。

 当時、ゲーム写真の分厚い束を時系列に並べてみたことがある。そこには、テレビでは見られない、さまざまな選手の表情があった。

 PKを外してとぼとぼと戻る中田英寿を抱きかかえるように迎え、頭をポンとたたいてなぐさめる松田の姿があった。

 試合中の接触プレーでユニホームを血に染めたGKの楢崎正剛は、PK戦に敗れると力尽きたようにゴール前に倒れ込んだ。彼を助け起こし、肩を貸したのも、松田だった。

 日本が初めて決勝トーナメントに進んだ2002年日韓W杯では、トルシエ監督が持ち込んだ「フラット3」の一翼を担った。高い位置でDF3人が横一線に並ぶ戦術だが、実は大会中のロシア戦前にカウンターのリスクを考え、松田の進言で監督に無断でラインを下げることを決めた。造反がもたらしたベスト16だった。

 選手間で慕われた半面、直情径行の言動は常に波風を立てた。日本代表ではトルシエ、ジーコ両監督と起用をめぐって衝突し、無断でチームを離脱した。トルシエには許されたが、ジーコは許さなかった。これ以降、松田が代表に戻ることはなかった。

 彼が愛した横浜マリノスでも首脳陣との軋轢(あつれき)はあった。最後は大きすぎる存在を持てあましての解雇と映った。力はあっても扱いにくいベテランのリストラ。

 それでもランクを2つ下げたJFLでの再起に力を尽くしていただけに、34歳での突然死は惜しすぎる。

 松田が眠る病院に正装で駆けつけたカズは「僕にとっては厄介な選手だった」と話した。FWがDFに贈る、最大の賛辞だったように思う。(編集委員 別府育郎)

from Editor
2011.8.7 09:00
産經新聞

マイアミの奇跡、W杯16強… 松田選手略歴
2011.8.4 13:48

 松田 直樹(まつだ・なおき)1977(昭和52)年3月14日、群馬県桐生市生まれ、34歳。群馬・前橋育英高から95年に横浜M入団。
  同年のリーグ優勝、2003年、04年のリーグ連覇など中心選手として多くのタイトル獲得に貢献した。アトランタ五輪ではブラジルを破った「マイアミの奇跡」の一員となり、シドニー五輪は8強進出。

  A代表では02年日韓W杯で全4試合に先発フル出場し、日本初の16強進出を果たした。今季からJFL松本山雅に移籍。JFL今季15試合1得点。J1通算385試合17得点。代表通算40試合1得点。
1メートル83、78キロ。

「天国で幸せに…」 選手、サポーターが黙とう 横浜M、山雅が献花台

2011.8.5 12:57

 サッカー元日本代表の松田直樹さんの死去から一夜明けた5日、松田さんが昨季まで所属していたJ1横浜Mの練習拠点「マリノスタウン」(横浜市西区)では、練習前に選手らがグラウンドで輪になり、スタンドのサポーターと一緒に黙とうをささげた。

 スタンド下には献花台が設けられ、別れを惜しむサポーターが次々と訪問。横浜市保土ケ谷区のフリーター、岩間祐美子さん(27)は「亡くなったなんて信じられない。天国で幸せに過ごせるよう、祈りました」と涙目で話した。

 保土ケ谷区の会社員、仲村彰洋さん(58)は「若すぎる死でとにかく残念で悔しい。みんなを引っ張っていくプレーが好きだった」と下を向いた。
 松田さんが所属していた松本山雅の長野県松本市にあるホームスタジアムにも献花台が設置され、サポーターらが冥福を祈った。

腐れ縁ヒデ悲痛「オレはもうマツに伝えた」

2011.8.5 10:33

 02年日韓W杯16強など、松田さんと数々の栄光を歩んできた元日本代表の同僚、中田英寿氏(34)は、「オレはもうマツには伝えたから…。わざわざ他の人に言うことじゃない」とし、4日、公の場でのコメントはしなかった。関東西部に滞在中、関係者を通じて訃報を知った。(サンケイスポーツ

 U−16日本代表が発足した当時から、ともに歩んできた。そこからA代表に残ったのは、2人だけだ。

 中田氏は「腐れ縁」と表現し、松田さんは「ヒデを殴れるのはオレだけ」と語っていた。中田氏が主催した今年1月の慈善試合(宮崎)でも共演。中田氏の言葉は、2人の特別な関係を表していた。

遺体と対面、中村俊「今すぐサッカーしそう」 カズ「マツの分まで」

2011.8.4 22:34

 長年一緒にプレーしてきたJ1横浜の中村俊輔選手や所属する松本山雅の同僚らが4日午後、長野県松本市の病院で松田さんの遺体と対面した。

 訃報を聞き病院に駆け付けた中村選手によると、松田さんは松本山雅のユニホームとスパイクを身に着け、笑顔で「今すぐにでもサッカーをしそうだった」という。

 ワールドカップ(W杯)南アフリカ大会でスタメンから外れた際「おまえのいない試合はつまらない」と気にかけてくれた松田さん。中村選手は「気持ちを切り替えてというけど、切り替えられるわけがない…」と沈痛な表情だった。

 J2横浜FCの三浦知良選手も病院に駆け付け、松田さんが「カズさんが(サッカー)辞めるまで辞めません」と言っていたエピソードを紹介。「どこまでやれるか分からないけど、マツの分までがんばってやりたい」と静かに語った。

「伝説的なDF」 FIFA会長が弔意

2011.8.4 21:39

 国際サッカー連盟(FIFA)は4日、ブラッター会長が日本協会の小倉純二会長宛てに元日本代表の松田直樹さんの死去を悼む手紙を送ったことを公式サイトで明らかにした。

 ブラッター会長は「松田選手は日本代表の伝説的なDFだった。FIFAと世界のサッカーファミリーを代表して、お悔やみを申し上げたい」と記した。FIFAは同サイトで松田さんの日本代表での経歴などを紹介し「日本で非常に愛された選手だった」と惜しんだ。(共同)

産經新聞


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