松田直樹選手が死去
サッカーの元日本代表で日本フットボールリーグ(JFL)松本山雅のDF松田直樹選手(34)が4日、長野県松本市内の病院で死亡した。松本山雅の大月弘士社長が明らかにした。
松田選手は2日に松本市内で行われたチームの練習中に倒れ、心肺停止の状態で松本市内の病院に搬送された。人工心肺装置で血液の循環を維持させてきたが、意識はなく厳しい状況が続いていた。
松田選手は群馬県桐生市出身で、前橋育英高卒業後の1995年にJ1横浜Mに入団した。昨季まで主力として16年間プレーし、385試合に出場して3度のリーグ優勝に貢献。今季から松本山雅FCに移籍していた。
日本代表としても国際Aマッチ40試合に出場し、2002年のワールドカップ(W杯)日韓大会では全4試合にフル出場し、初の決勝トーナメント進出の原動力となった。
2011.8.4 13:42
産經新聞
松田直樹選手の遺志を継ぎ、「不屈の闘志」見せて
ほんの1カ月半前、この「蹴球ノート」で「起こしてはならない」と書いた悲劇が現実に起こってしまった。日本フットボールリーグ(JFL)松本山雅の元日本代表DF、松田直樹選手の突然死のことである。多くの関係者やサポーターが34歳での若すぎる死を悼んだ。
2003年コンフェデレーションズカップ準決勝で実際にピッチ上に倒れる場面を目撃したカメルーン代表MFマルクビビアン・フォエ選手は28歳だった。松田選手の悲報を伝えるテレビニュースをながめながら、そのときのカメルーン報道陣やサポーターの悲痛な表情がフラッシュバックしてきた。
当時のことを振り返ると、開催国フランスとの対戦となった決勝戦は中止にすべきとの声が挙がっていた。大切な仲間を失ったカメルーン代表の選手はとても戦えるような精神状態ではなかったように思う。それでも、3日後に行われた決勝戦で健闘。延長戦の末に0−1で敗れたが、チームのニックネームである「不屈のライオン」の名に恥じない戦いぶりを披露した。
松本山雅も7日にホームでJFLのリーグ戦を控える。チームの中心選手を失う悲劇の中、既に練習も再開しているという。クラブは5日、公式ホームページを通じて「志半ばで倒れてしまった松田選手の遺志を継ぎ、シーズン最終戦まで全力でJ2昇格を目指して闘う」とのコメントを発表した。
現在JFLで9位につける松本山雅だが、悲願のJ参入を果たすには、4位以内を確保しなければならない。「何としてもJリーグに上げたい」と口ぐせのように話していたという松田選手の遺志を受け継ぐ選手たちには、彼のプレースタイルでもある「不屈の闘志」を見せてほしい。
蹴球ノート
2011.8.6 14:02
産經新聞
節電の夏、悲劇は起こさないで 海外で選手の突然死続出
それは、とても暑い6月だった。エアコン設備のない滞在先のホテルは寝苦しく、冷たいミネラルウオーターを求めて夜の街をさまよった。2003年にコンフェデレーションズカップ取材のために訪れていた酷暑のリヨンで、悲劇は起こった。
1998年ワールドカップ(W杯)フランス大会の会場でもあるジェルラン競技場で行われたコンフェデ杯準決勝のカメルーン−コロンビア戦。後半途中にカメルーン代表MFのマーク・ヴィヴィアン・フォエが突然、ピッチの中央付近で倒れ、そのまま亡くなった。死因は後になって心臓発作と発表された。
騒然となった現場で、当初は目の前で起きた事態の真相が分からず、悲しみに打ちひしがれていたカメルーン人記者に「フォエはどうなったんだ?」と尋ね、「何を言っているんだ! 死んだんだぞ」と怒鳴られた記憶がある。
サッカー選手が突然死するケースは、その後も発生している。2004年1月にベンフィカ(ポルトガル)に所属していたハンガリー代表FWのミクローシュ・フェヘル、07年8月にはセビリア(スペイン)で活躍していたスペイン代表DFのアントニオ・プエルタが突然死。
昨年のW杯南アフリカ大会決勝で、スペイン代表MFイニエスタが決勝ゴールを決めた直後にユニホームをめくって「僕たちはいつも一緒にいる」とのメッセージを披露した、エスパニョール(スペイン)DFのダニ・ハルケは、09年8月に遠征先のイタリアのホテルで急逝心筋梗塞(こうそく)により亡くなった。
日本は今年、節電の夏を迎える。サッカー界もこぞって、協力姿勢を打ち出している。ただ、選手の健康面にはくれぐれも気を配ってほしい。悲劇は起こしてはならない。
蹴球ノート
2011.6.18 10:17
産經新聞
カズ「厄介な選手だった」…松田直樹選手死去
スポーツ取材の醍醐味(だいごみ)は、時にとてつもない才能に出合えることにある。
1995年、Jリーグ。横浜マリノスに高校から入団したばかりのルーキーDFが定位置を奪い、当時のヴェルディ川崎と対戦した。対面には、イタリア帰りのカズこと三浦知良。90分間、ルーキーは、日本のエースに仕事らしい仕事をさせなかった。
強く速く賢いディフェンダー。こんな天才がいるのだな、と思わせた。松田直樹だった。
19歳で参加した96年アトランタ五輪ではブラジルの怪物ロナウドを押さえ込み、「マイアミの奇跡」の立役者となった。
ベスト8に進んだシドニー五輪にも連続出場し、米国にPK戦で敗れた。五輪やW杯になると、自社や通信社の写真が、それこそ山のように送られてくる。
当時、ゲーム写真の分厚い束を時系列に並べてみたことがある。そこには、テレビでは見られない、さまざまな選手の表情があった。
PKを外してとぼとぼと戻る中田英寿を抱きかかえるように迎え、頭をポンとたたいてなぐさめる松田の姿があった。
試合中の接触プレーでユニホームを血に染めたGKの楢崎正剛は、PK戦に敗れると力尽きたようにゴール前に倒れ込んだ。彼を助け起こし、肩を貸したのも、松田だった。
日本が初めて決勝トーナメントに進んだ2002年日韓W杯では、トルシエ監督が持ち込んだ「フラット3」の一翼を担った。高い位置でDF3人が横一線に並ぶ戦術だが、実は大会中のロシア戦前にカウンターのリスクを考え、松田の進言で監督に無断でラインを下げることを決めた。造反がもたらしたベスト16だった。
選手間で慕われた半面、直情径行の言動は常に波風を立てた。日本代表ではトルシエ、ジーコ両監督と起用をめぐって衝突し、無断でチームを離脱した。トルシエには許されたが、ジーコは許さなかった。これ以降、松田が代表に戻ることはなかった。
彼が愛した横浜マリノスでも首脳陣との軋轢(あつれき)はあった。最後は大きすぎる存在を持てあましての解雇と映った。力はあっても扱いにくいベテランのリストラ。
それでもランクを2つ下げたJFLでの再起に力を尽くしていただけに、34歳での突然死は惜しすぎる。
松田が眠る病院に正装で駆けつけたカズは「僕にとっては厄介な選手だった」と話した。FWがDFに贈る、最大の賛辞だったように思う。(編集委員 別府育郎)
from Editor
2011.8.7 09:00
産經新聞
マイアミの奇跡、W杯16強… 松田選手略歴
2011.8.4 13:48
松田 直樹(まつだ・なおき)1977(昭和52)年3月14日、群馬県桐生市生まれ、34歳。群馬・前橋育英高から95年に横浜M入団。
同年のリーグ優勝、2003年、04年のリーグ連覇など中心選手として多くのタイトル獲得に貢献した。アトランタ五輪ではブラジルを破った「マイアミの奇跡」の一員となり、シドニー五輪は8強進出。
A代表では02年日韓W杯で全4試合に先発フル出場し、日本初の16強進出を果たした。今季からJFL松本山雅に移籍。JFL今季15試合1得点。J1通算385試合17得点。代表通算40試合1得点。
1メートル83、78キロ。
「天国で幸せに…」 選手、サポーターが黙とう 横浜M、山雅が献花台
2011.8.5 12:57
サッカー元日本代表の松田直樹さんの死去から一夜明けた5日、松田さんが昨季まで所属していたJ1横浜Mの練習拠点「マリノスタウン」(横浜市西区)では、練習前に選手らがグラウンドで輪になり、スタンドのサポーターと一緒に黙とうをささげた。
スタンド下には献花台が設けられ、別れを惜しむサポーターが次々と訪問。横浜市保土ケ谷区のフリーター、岩間祐美子さん(27)は「亡くなったなんて信じられない。天国で幸せに過ごせるよう、祈りました」と涙目で話した。
保土ケ谷区の会社員、仲村彰洋さん(58)は「若すぎる死でとにかく残念で悔しい。みんなを引っ張っていくプレーが好きだった」と下を向いた。
松田さんが所属していた松本山雅の長野県松本市にあるホームスタジアムにも献花台が設置され、サポーターらが冥福を祈った。
腐れ縁ヒデ悲痛「オレはもうマツに伝えた」
2011.8.5 10:33
02年日韓W杯16強など、松田さんと数々の栄光を歩んできた元日本代表の同僚、中田英寿氏(34)は、「オレはもうマツには伝えたから…。わざわざ他の人に言うことじゃない」とし、4日、公の場でのコメントはしなかった。関東西部に滞在中、関係者を通じて訃報を知った。(サンケイスポーツ)
U−16日本代表が発足した当時から、ともに歩んできた。そこからA代表に残ったのは、2人だけだ。
中田氏は「腐れ縁」と表現し、松田さんは「ヒデを殴れるのはオレだけ」と語っていた。中田氏が主催した今年1月の慈善試合(宮崎)でも共演。中田氏の言葉は、2人の特別な関係を表していた。
遺体と対面、中村俊「今すぐサッカーしそう」 カズ「マツの分まで」
2011.8.4 22:34
長年一緒にプレーしてきたJ1横浜の中村俊輔選手や所属する松本山雅の同僚らが4日午後、長野県松本市の病院で松田さんの遺体と対面した。
訃報を聞き病院に駆け付けた中村選手によると、松田さんは松本山雅のユニホームとスパイクを身に着け、笑顔で「今すぐにでもサッカーをしそうだった」という。
ワールドカップ(W杯)南アフリカ大会でスタメンから外れた際「おまえのいない試合はつまらない」と気にかけてくれた松田さん。中村選手は「気持ちを切り替えてというけど、切り替えられるわけがない…」と沈痛な表情だった。
J2横浜FCの三浦知良選手も病院に駆け付け、松田さんが「カズさんが(サッカー)辞めるまで辞めません」と言っていたエピソードを紹介。「どこまでやれるか分からないけど、マツの分までがんばってやりたい」と静かに語った。
「伝説的なDF」 FIFA会長が弔意
2011.8.4 21:39
国際サッカー連盟(FIFA)は4日、ブラッター会長が日本協会の小倉純二会長宛てに元日本代表の松田直樹さんの死去を悼む手紙を送ったことを公式サイトで明らかにした。
ブラッター会長は「松田選手は日本代表の伝説的なDFだった。FIFAと世界のサッカーファミリーを代表して、お悔やみを申し上げたい」と記した。FIFAは同サイトで松田さんの日本代表での経歴などを紹介し「日本で非常に愛された選手だった」と惜しんだ。(共同)
産經新聞