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人物探訪:坂本龍馬、海洋立国の夢
アメリカに漂流して、彼の地で航海術などを学び、日本に戻ってき たジョン万次郎に、坂本龍馬が初めて会ったのは嘉永5(1852)年の末頃であったと言われている。友人に勧められて、万次郎の話を聞きに行ったのである。龍馬18歳の時であった。
万次郎が滞在したヌーベッポー(ニューベッドフォード)という町には何百隻もの巨大な捕鯨船が浮かんでいて、その港の砲台には大砲が20門ほど置かれている。 大きなものは口径8寸(24センチ)もある。お城の石垣程度のものなら、弾丸一発で打ち砕いてしまう。蔵にはその砲弾を何千発とも知れないほど収めているという。 軍艦はそんな大砲で撃たれてもなかなか砕けない。1隻に500人ほど乗る船は珍しくなく、戦のときには1,500人も乗り込むそうである。 龍馬はさらに航海の術について尋ねた。万次郎は、アメリカで一等航海士という偉い船頭の資格をとっており、地図とオクタント(六分儀)と磁石さえあれば、陸の影も見えない大洋に船を乗り出しても迷わないという。 龍馬は夢の中の出来事を聞いているような気がした。胸が躍ってならなかった。 ■黒船来る 翌嘉永6(1853)年、龍馬は剣術修行のために江戸に出た。江戸に着いてまもない6月4日の朝、アメリカの黒船が浦賀沖に現れたという知らせが届いた。万次郎の語ったアメリカの軍艦を直接目にすることになったのである。 旗艦サスケハナ号は長さ約78メートル、幅14メートル、数十門の大砲を備えていて、日本人には巨大な浮城のように見える。そんな黒船が4隻も現れた。 龍馬は土佐藩の品川屋敷のある大森海岸の防備に駆り出され、土手を築き、垣を結んだ。やがて幕府がペリーから受け取ったアメリカ国書の内容は、龍馬たちの耳にも伝わってきた。 蒸気船ならカリフォルニアから、パシフィック・オセアン(パシフィック・オーシャン、太平洋)を渡って18日間で日本に達することができる。カリフォルニアは毎年金6,000万ドルを産し、日本の様々な産物と交易を行えば互いの利益になる。 また、日本沿岸で捕鯨を行うアメリカ船舶が、日本で石炭、水、食料を補給できるようにしたい。そのために通商交易条約を結びたいというのだ。 日本がそれに応じなければ戦争を仕掛ける、という姿勢で、黒船は品川沖で空砲を鳴らし、沿岸に詰めかけた数万の諸藩兵を驚かせた。 アメリカは近頃メキシコと戦争をして、カリフォルニアを含む領地のおおかたをとってしまったが、その理由はメキシコがアメリカの蒸気船に領地の海辺に近寄るのを咎めたためであるという。 「外国と通商することがなぜいけないのか」 龍馬が江戸で師事していたオランダ砲術の権威・佐久間象山は、こう主張していた。 今戦えば我らに勝ち目はない。ひとたび敗れたときは皇国は滅亡、我らは異族の奴隷となるのだ。 江戸の沖に常に5、6隻の黒船がいて、大坂からの千石船を捕らえ、米などの消費物資の海上輸送を遮断すれば、江戸は10日ももたない。廻船の輸送量を牛馬によって陸路で運ぶことは不可能である。 と言う。確かにそのとおりであると龍馬は思った。今はアメリカの要求を入れて通商を行い、それを通じて国力を養って、国防力を充実させるのが、日本の生きのびる道である。 一方、ジョン万次郎は幕府の老中たちに意見を聞かれて、アメリカが日本を攻め取ることはないと答えていた。カリフォルニアのように莫大な金が算出する国であれば戦を仕掛けることもあるが、日本はそれほどの物産はなく、また遠い。 軍艦を何十隻も派遣して攻めるよりも、仲良くして石炭などを分けて貰うのが得である、とアメリカは考えるはずだという。 龍馬はこれもまたその通りだと思った。龍馬が幼い頃によく遊びに行っていた遠縁の廻船問屋は江戸に米や鰹節などを運ぶ千石の大廻し船を何隻も運用して、大きな利益を上げていた。 外国と通商することがなぜいけないのか、と龍馬は考えた。 ■「自由な大海に漕ぎ出したい」 およそ1年ほども江戸に滞在して、龍馬が高知に帰ったのは、安政元(1854)年6月下旬のことであった。翌年正月に龍馬は河田小龍を訪れた。河田はジョン万次郎を自宅に寝泊まりさせて、聞き書きを行っていた人物である。 河田は「このような非常のときに1つの商業を興してはどうじゃ」と龍馬に薦めた。そして万次郎から聞いた話をもとに、こう語った。 アメリカじゃあ商業の元手をこしらえるのに、株仲間のような者を大勢集め自在に大金を融通しゆうがじゃ。お前(ま)んらぁがそこのところを工夫して、株仲間を何とかしてこしらえて1隻の蒸気船を買うてみい。 同志を募り、日本中を往来する旅人やら諸藩の蔵米、産物を運んだら、蒸気船運航に使う石炭、油の費用や同志の給金を払うことができるろうが。 そうやって操船の稽古をすりゃ、しだいに航海の術も身につくというもんぜよ。盗人を捕まえて縄をなうというような有り様で始めても、1日でも早う蒸気船の運用を始めざったら、いつまでたっても外国に追いつけんがじゃ。 小龍の言葉に龍馬は刺激されたが、高度な蒸気船を動かせる秀才は数が少ない、と言うと、小龍はこう応じた。 日頃俸禄を仰山もらいゆう上士にゃ志というものがありゃせん。志を持ちゆう者は、ひと働きするにも元手のない下士、百姓、町民ら下等人民の秀才ぜよ。そがな下等人民の秀才は俺の弟子にも多少はいゆう。働かせりゃ工夫するぜよ。 大洋を自由に航海する蒸気船は、また身分制度からも自由な世界であった。龍馬は自由な大海に漕ぎ出したいと思った。 ■「蒸気船の扱いを覚えたいがです」 文久2(1862)年3月、龍馬は脱藩した。城下で剣術道場を開く資格は得ていたが、もはや高知に留まる気はなかった。 江戸に出て、ジョン万次郎の紹介状を持って勝麟太郎を訪れ、弟子入りを頼んだ。勝は長崎海軍伝習所で教監を務め、また幕府の使節を乗せた咸臨丸を操って、太平洋横断を果たした人物である。 「俺の弟子になって何をしたいのかね」と聞かれて、龍馬は「蒸気船の扱いを覚えたいがです」と答えた。さらに「尊王と攘夷についてどう考えているのかね」と聞かれて、 「攘夷はとても無理ですろう」 「そうか。それなら無理を言わず異人の言うがままに商いをするのかね」 「そこが知りたいがです。攘夷をやらにゃあ異人がのさばりますろう。けんど今の日本じゃとても勝てん。そうなると、異人と同じ土俵で相撲がとれるほどの力を持つまで待たにゃあいかんですろう」 麟太郎は笑いながら「土佐にいながら天下の形勢をよく知っているじゃないか」と言って、弟子入りを許した。 ■海軍建設 勝は龍馬を護衛役として側に置きながら、いろいろ話して聞かせた。 攘夷の戦いを日本の側から起こせば、イギリス、フランスは対馬、壱岐、佐渡を占領する。アメリカは伊豆七島、ロシアは蝦夷を占領するだろう。淡路島も乗っ取られかねない。そうなれば航海の道はすべて閉ざされ、全国は籠城の有り様になる。 危機に迫られると一揆が方々で起こる。その苦しみに耐えかね、外国につく者が現れると日本は外国の属国になるだろう。 そのような事態を未然に防ぐために、勝は西洋諸国と対抗できるほどの陸海軍を作るという意見書を幕府に提出していた。日本全国を6つの海域に分けて、それぞれに艦隊を置くという案である。 その経費を捻出させるためには、各大名に海外貿易を許し、それを財源に10万石あたり蒸気軍艦1隻などと費用を出させる。この案に従えば、軍艦300隻の海軍を建設することも可能であった。 しかし、軍艦は金で揃えることができても、それを動かす人材が問題である。勝と龍馬は神戸に海軍塾を作る準備を進めた。先頃まで将軍側近であった大久保忠寛(ただひろ)越中守も、それを励ましてくれた。 貴公らが麟太郎と相計って神戸に海軍塾を開く支度をしておるそうだが、それが肝心だ。海軍を大いに発展させるため幕府は、アメリカ、オランダに軍艦を注文している。 だが、その操船を自在にいたす航海乗り組みの学生を取り立てねばならんのだ。幕府の先の読めない腑抜け役人どもができることではない。貴公らが操船を自在にできるよう一日も早く学び取らねばならぬのだ。 文久3(1863)年4月、将軍家茂は神戸に海軍操錬所を建設し、その入用金として年3,000両を下すことを決めた。また勝の門人たちを引き連れて、私塾として海軍塾を開くことを許した。龍馬はその設立と運営に奔走した。 ■亀山社中 元治元(1864)年6月19日、長州勢と幕府方が京都蛤(はまぐり)御門にて衝突した。この際に操錬所生徒である因幡藩士数十名が長州方に味方したとして、勝は江戸表に呼び戻された。 勝は薩摩の西郷吉之助(隆盛)に、龍馬以下6人の土佐藩脱藩者の庇護を頼んだ。西郷は、龍馬の人を引きつける性格と時代を切り開いていく才覚を認め、密貿易をさせつつ、いずれ長州藩に薩長連合を勧める使者として働いて貰おうと考えた。 元治2(1865)年、龍馬らは長崎の町はずれの亀山という山麓の地に宿舎を与えられ、薩摩藩から毎月給金を貰うようになった。彼らの結社は「亀山社中」と呼ばれ、ここを根拠地として密貿易にあたることになった。 5月、龍馬は下関に潜入し、西郷の使者として、長州の指導者・桂小五郎と会った。長州は幕府軍15万の大軍を迎え撃たねばならないという窮地に陥っていた。 しかし、薩摩は蛤御門の変で幕府方についていたので、「いまさら薩摩の芋と手を結べるか。そんなことを抜かす奴は首を斬れ」という声が上がるほどだった。 ■薩長同盟を実現した交易 龍馬は桂にこう持ちかけた。 長州の四境に幕軍が間なしに参りますきに、外国から薩摩の名義で蒸気船、鉄砲を買い入れ、尊藩に持ち込むというのはいかがですろう。 桂は思わず、龍馬の顔を見直した。幕府の大軍を迎え撃たねばならない長州にとって、これはよだれの出るような好餌である。龍馬は亀山社中の同志を使って、最新式の小銃7,500丁と蒸気船1隻を調達し、約束通り、長州に収めてみせた。 一方、薩摩は長州征伐には参加せず、京都に大兵力を集めて、幕府を牽制することとした。西郷はそのための兵糧を長州から借りてくれるよう、龍馬に依頼した。「さしあたって500俵もあればえいですろう」と龍馬は承知して、すぐに山口に行き、桂から快諾を得た。 こうした実利的な助け合いを通じて、薩摩と長州は旧怨を解き、同盟関係を築いていった。その掛け橋となったのが、龍馬の働きだった。 ■実現した海洋立国の夢 兵糧貸与の話がまとまった後、龍馬は下関で貿易を営む大商人・伊藤助太夫の家に泊まり込んで、杯を交わした。助太夫は、長州と幕府の戦いが終われば、蝦夷の海産物などを買い入れる交易をしたいと言った。北前船は1隻作るのに千両かかるが、蝦夷へ3度も行けば元手がとれるという。 龍馬は感心した。「まっことのう。蒸気船を使うたらなお儲かるろうねや」 龍馬は今は亀山社中の同志と共に、薩長の必要とする武器などの購入を行っているが、戦が収まれば長崎、下関を根拠地に蝦夷や上海、さらには広東からルソンに行き来して貿易をしたいと考えていた。 蒸気船を使えば、パシフィック・オセアン(太平洋)を渡ってアメリカとの交易もできる。それによって国を富まし、日本を異国から守れるだけの海軍も持つことができよう。龍馬の夢は広がっていった。 龍馬はその夢を実現するひまもなく、慶応3(1867)年11月、京都にて何者かに暗殺されてしまった。しかし、海外貿易の夢を抱いていたのは龍馬だけではなかった。「海外貿易の志士」森村市左衛門などはその好例である。 さらに神戸の海軍操錬所を淵源の1つとする日本海軍はやがて日清・日露戦争を通じて国家の独立を維持し、英米と並ぶ世界3大海軍の1つとして数えられるまでになった。 龍馬の描いた海洋立国の夢は幕末から明治にかけての日本人全体が共有していたもので、多くの人々の努力によって実現されたと言える。 MAG2 NEWS 2016.06.15 |
歴史
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京都の駅前にはなぜ2つの「本願寺」があるのか?
織田信長と「一向一揆」の抗争(その3)
2018.9.5(水) 花園 祐
前回(その2)は、一向一揆を組織した浄土真宗本願寺派がどのように戦国大名化し、織田信長との石山合戦(1570〜1580年)にまで至ったのかを紹介しました。
一般的に石山合戦は「宗教戦争」として語られがちですが、実態としては、本願寺派が室町幕府と親密な関係にあったため信長と対立し、抗争が引き起こされたという見方を示しました。
最終回となる今回は、石山合戦以降の本願寺の動向を追いつつ、現在の京都市内にある東本願寺、西本願寺をそれぞれ頂点とする東西本願寺体制がどのように設立したのかを紹介しましょう。
■和睦後も石山本願寺に立て籠り
織田信長と抗争を繰り広げていた時代の本願寺は、現在の大阪市にあった石山本願寺を本拠地として立て籠り、長期にわたり信長を苦しめ続けました。
最終的には朝廷を仲介として信長との和睦に応じ、時の法主であった顕如(けんにょ)は和睦の条件通り石山本願寺を退去しようとします。
しかし、これに異を唱えたのが顕如の長男である教如(きょうにょ)でした。教如は信長が和睦条件を守らない恐れがあるとして反対し、彼に付き従う強硬派の面々とともに石山本願寺に立て籠り続けました。
この時の教如の行動は彼の独断専行と見る向きが多いようですが、信長が和睦の約束を破り、退去した本願寺勢力に攻撃を加える可能性を考慮し、あらかじめ顕如と示し合わせた上で保険をかける意味での抵抗だったとする見方もあります。
もし信長が約束を違えれば再び籠って戦い、約束を守るようであれば先に退去した一派が宗門を受け継ぐという、いわば関ヶ原において真田家が取った両面作戦だったという説です。
実際に教如ら強硬派は威勢よく立て籠もったものの、信長がきちんと和睦条件を果たすことを確認できたからか、半年後には退去に応じています。
退去後、教如は父の顕如から義絶(肉親の縁を切ること)されてしまいますが、その近くに仕え、父の布教活動を支え続けています。
■後継者争いで穏健派と強硬派が対立
その後、「本能寺の変」(1582年)で信長が倒れ、豊臣秀吉が天下を握ります。
本願寺一派(法主は顕如)は、現在の西本願寺がある土地(京都市下京区)を秀吉から寄進され、この地を新たな本拠として落ち着きます。
ただ京都へ移って間もなく、信長をある意味最も苦しめた男と言ってもいい顕如が逝去します。その後継者として一旦は長男の教如が就きます。
しかし教如の継承に異を唱える声が本願寺内部から上がってきました。
声を挙げたのは三男の准如(じゅんにょ)と、教如と准如の実母であり顕如正室であった如春尼(にょしゅんに)、そして和睦後にすぐ石山本願寺から退去することを選んだ穏健派たちでした。
(ちなみに妻帯が認められる浄土真宗本願寺派において、法主正室の権力は強く、同時代の様々な外交文書にもその名が現れるなどその影響力は非常に大きかったようです。)
穏健派は、「顕如の元々の意向は、准如に継承させるつもりだった」と秀吉に訴えかけました。
この訴えを聞いた秀吉の裁断もあって、教如はすぐに法主の座を准如に譲り、一介の僧侶となって本願寺内に残りました。
しかし法主の座を降りたとはいえ、教如の周りには彼とともに石山本願寺退去に抵抗した強硬派が集まっていました(前述したように、教如は和睦後も強硬派とともに石山本願寺に立て籠もりました)。
そのため、本願寺内部では強硬派からなる教如派と、穏健派からなる准如派とで二派に分裂し、各方面で対立するようになりました。
■徳川幕府の寄進によって東西分裂
そのような火種を内部に抱えていたところ、徳川幕府が誕生したことで本願寺に転機が訪れます。
「関ヶ原の戦い」から2年後の1602年、徳川幕府は隠遁した教如に対して京都市下京区烏丸七条の地を寄進します。
これを機に、教如とそれに付き従う強硬派は寄進された土地へと移り、ここに現在の「東本願寺」と呼ばれる寺社を建立します。
こうして同じ京都市内、それもお互いすぐ近くに、東と西の2つの本願寺が存在する東西本願寺体制が成立するに至ります。
徳川幕府がなぜ教如に土地を寄進したのかという背景については、かねてから家康に接近していた教如のロビー活動が実ったとか、准如が「関ヶ原の合戦」の折に西軍側についたことを徳川家が良しとしなかった、などという意見がいろいろ挙げられています。
筆者としては、半分裂状態の本願寺をこの際完全に分裂させ、その勢力を削ぐという狙いがあったという説を支持しています。
家康自身も三河一向一揆に苦しめられたという経験があり、本願寺勢力の恐ろしさをよく知っていたという事実が、この説を支持する大きな理由です。
■2つの宗派のその後
現在の日本において信者数で最多の宗派は浄土真宗であり、その中でも本願寺派は最大の勢力を誇ります。
東西に分裂したとはいえ、双方ともに宗教法人として実質的に最大規模であり、日本の社会や文化面への影響力も非常に大きいと言えるでしょう。
現在、東本願寺を頂点とする宗派は「真宗大谷派」、西本願寺を頂点とする宗派は「浄土真宗本願寺派」という宗教法人名で活動を続けています。
なお、京都市内にある仏教系の大学としてそれぞれ著名な大谷大学は東本願寺、龍谷大学は西本願寺の学寮をそれぞれ前身としており、系統が分かれたことの影響は現代においても各方面でもみられます。
本連載の(その1)でも述べたように、浄土真宗本願寺派は時の中央政権との結びつきによって勢力を拡大してきたという歴史があります。
ある意味、中央政権に近い立場であったがゆえに、織田、豊臣、徳川政権のそれぞれの思惑によって分裂に至ったとも考えられます。
筆者は一時期京都市内に住んでおり、京都の玄関口である京都駅近くに佇む東西両本願寺を訪れるにつけ、京都に帰ってきたことを実感します。
皆さんも以上のような歴史を経て現在の京都に2つの本願寺が存在することを知った上で訪れると、また違った感慨とともに参拝することができるのではないでしょうか。(おわり)
(参考文献)『一向一揆と石山合戦』神田千里著、2007年、吉川弘文館発行
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なぜ一向一揆は信長にケンカを売ったのか
織田信長と「一向一揆」の抗争(その2)
2018.8.29(水) 花園 祐
■戦国大名化する本願寺派
加賀(現石川県)の本願寺派宗徒は1488年の加賀一向一揆(長享の乱)で、当時、守護大名であった富樫政親を自害に追い込み、地元の国人(その領内の住民たち)勢力による半独立自治体制を打ち立てました。
一般的には、この加賀一向一揆を機に本願寺派が加賀を支配して「百姓の持ちたる国」が成立したと考えられています。
しかし、日本中世史が専門の東洋大学文学部教授、神田千里氏の研究によると、加賀一向一揆自体は本願寺派の指導層が扇動して引き起こしたものではなく、むしろ富樫氏の支配や弾圧に反発した「本願寺宗徒」の国人らが反乱して起こったものであり、本願寺派がすぐに加賀一国の支配を確立したとは言えなかったようです。
では、本願寺派はどの段階で加賀の支配を確立したのか。それを理解するには、本願寺派と足利幕府の関係を見ていく必要があります。
本願寺中興の祖と呼ばれる8代目法主の蓮如(1415〜1499年)は、その縁組政策により幕閣側近との人脈を築いたことで、本願寺派勢力の拡大に成功しました。
続く9代目法主の実如(1458〜1525年)もこの路線を踏襲し、特に応仁の乱の東軍大将を務めた細川勝元(1430〜1473年)の子で「半将軍」と呼ばれるほど権勢をほしいままにした細川政元(1466〜1507年)との関係を深めます。
本願寺とその宗徒は、政元の要求を呑む形で政元の政敵を妨害したり攻撃したりする行動をとっていきます。
とりわけ象徴的なのは、河内(現大阪府)の武将、畠山義英に対する攻撃(1506年)です。
政元は、畠山義英を攻撃する討伐軍に本願寺宗徒を動員させようとしました。実如は政元の要請を受けて、河内の一向宗徒に召集をかけました。
ところが地元の利害関係が絡んだことで、河内の宗徒並びに本願寺指導者は拒否します。そこで実如は代わりに加賀の宗徒に動員をかけ、1000人の宗徒を討伐軍に送り込みました。
筆者は、本願寺派が加賀の支配権を確立したのは、加賀の兵員を動員したこのタイミングだったと考えています。
これは同時に、一向一揆衆、つまり本願寺派が戦国大名化したとも言うことができます。
実際にこれ以降、本願寺派と、加賀と国境を接する越中の畠山家、越前の朝倉家、越後の長尾家との軍事抗争が活発化していきます。
とくに長尾家相手に至っては、上杉謙信の祖父に当たる長尾能景を敗死に至らしめるなど北陸地方で猛威を振るい、他の戦国大名との間で領土争いにしのぎを削ることになります。
■信長との抗争の始まり
時代は下って戦国時代後半、織田信長(1534〜1582年)は室町幕府15代将軍・足利義昭(1537〜1597年)を奉じて京都への上洛を果たします(1568年)。
このときすでに本願寺は京都・山科から大坂・石山(=石山本願寺)へと本山を移していました(1533年)。
本願寺派は、当初は信長からの軍事資金提供命令にも素直に従うなど、従順な姿勢を示していました。
しかし1570年、突如として牙を剥き、織田軍への攻撃を開始します。10年にわたる「石山合戦」の幕開けです。
本願寺派の挙兵は信長にとっても想定外の事態だったらしく、慌てて朝廷に働きかけ、開戦からわずか1カ月で和睦に持ち込んでいます。
この時の本願寺派の挙兵は、信長の上洛以前に京都を支配し、本願寺との結びつきも強かった三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)への支援が目的だったとされます。
ここで重要なのは、先にケンカを売ったのは本願寺だったという点です。
■信長包囲網に加わるも、再び和睦
最初の挙兵が和睦ですぐに決着した後、本願寺派は信長に茶器を贈るなど表面上は穏やかな関係を維持しました。
しかし1573年、将軍の足利義昭に檄(げき)を飛ばされた浅井、朝倉、上杉、武田、毛利からなる織田信長包囲網が形成されると、本願寺派もこれに参加し、織田家と再び戦火を交えます。
すでに挙兵していた伊勢(現在の三重)での「伊勢・長島一向一揆」、越前(現在の福井)での「越前一向一揆」とともに、この挙兵は信長を大いに苦しめました。
しかし各個撃破戦略をとった信長により、石山本願寺以外の一揆は殲滅され、特に伊勢・長島一向一揆では一揆参加者が根切り(皆殺し)にされるなど、苛烈な処置が取られています。
■なぜ信長と戦ったのか
さて、越前一向一揆で注目すべきは、元々、本願寺派とは敵対していた浄土真宗の別派である高田派が信長の軍に加勢している点です。
一向一揆と信長の抗争は、「仏教勢力を敵視していた信長の仏教弾圧政策に対する一向宗徒の抵抗」というように、宗教戦争の構図で見られることが多いようです。
しかし現実には、浄土真宗内でも信長に協力する勢力がいたのです。
また本願寺派側も、信長の弾圧への反発というより、京都を巡る政争、並びに室町幕府という旧支配体制の支援を理由として挙兵しています。
信長を仏敵とみなしていることは確かですが、信長との抗争の本来の目的は信仰上の対立というよりも、パトロンであった室町幕府との関係が強く影響していたということです。
実際に二度目の挙兵でも、信長が足利義昭を京都から追放して室町幕府を廃止すると、本願寺側は信長に和議を申し出て、信長有利の条件で再び和睦しています。
戦況が不利だったこともさることながら、足利幕府滅亡によって大義名分が喪失したからこそ和議を申し出たと考えられます。
■義昭の呼びかけに応じて三度目の挙兵
二度目の和睦の翌年に当たる1576年、本願寺派は、中国地方の毛利家に身を寄せた足利義昭の呼びかけに応じ、信長に対して三度目となる挙兵を行います。
この三度目の挙兵では毛利家と同盟を結び、石山本願寺を中心に戦闘を展開しました。かの有名な鉄鋼船が登場する「木津川口の戦い」もこの戦役に含まれます。
この時の挙兵の理由も、信長への憎悪がなかったとまでは言いませんが、前将軍である足利義昭の呼びかけに応じたものだった点は見逃せません。
前述した通り、本願寺は室町幕府との親密性を糧に勢力を拡大してきた歴史があります。信長との対立は、室町幕府支持の延長線上にあったと言っていいでしょう。
しかしこの三度目の挙兵でも、ほぼ天下を手中にしつつあった信長の前に戦況は挽回できず、1580年には朝廷が仲介する形で、本願寺派が石山を退去することなどを条件に和睦が結ばれます。
この時の和睦は信長側からの提案とされますが、実態としては本願寺からの申し出によるものだったようです。
信長もかつての伊勢・長島一向一揆の時とは異なり、本願寺一派の皆殺しは行わず、一部条件でこそ違約したものの、本願寺一派を赦免しています。
このような和睦に至ったのも、もはや天下の趨勢が室町幕府から信長政権に移ることがほぼ確実となったことを本願寺派側が認識したのかもしれません。
ある意味、本願寺派は中央政権の動きに非常に敏感な勢力であったと言えるでしょう。
こうして途中で何度か中断こそあったものの、10年もの長きにわたる石山合戦は終わりました。
最終回となる次回は、その後の本願寺派の動向と、東西分裂へと至った過程について取り上げます。
(参考文献)『一向一揆と石山合戦』神田千里著、2007年、吉川弘文館発行
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極貧寺の蓮如、圧倒的「子だくさん力」でカリスマに
織田信長と「一向一揆」の抗争(その1)
2018.8.22(水) 花園 祐
戦国時代の主役は誰かと聞かれれば、おそらく多くの人が織田信長の名前を挙げることでしょう。
そして、その信長を最も苦しめた存在は何かとなると、歴史に比較的詳しい人ならば、武田信玄や上杉謙信といった有名どころの武将を押し退けて「一向一揆」の名を挙げるのではないでしょうか。
(つづく) 信長と一向一揆の抗争は10年以上も続き、信長は弟を含む多くの重臣を失いながらも、決定的な勝利で屈服させることはできませんでした。
その決着も、信長に有利な条件とはいえ、和睦という形でついています。
事実上、天下を取りつつあった信長を最も苦しめたのが一向一揆です。
ところが、多くの講談や解説にその名が登場するものの、一向一揆自体を主題とした解説や評論はその歴史的影響力に比べ少ないと言っていいでしょう。
そこで今回から3回にわたって、戦国時代における一向一揆の実像について解説していきたいと思います。
初回となる今回は、戦国時代初期に浄土真宗本願寺派勢力を一気に拡大させた、中興の祖とも言うべき「蓮如」の活動を追っていきます。
■一向一揆とはそもそも何か?
まず、一向一揆とはそもそも何なのかをはっきりさせておきましょう。
大分類としては、一向一揆は「土一揆」に含まれます。
土一揆とは、農民層を中心とした被支配階層集団が支配階層に対し、年貢権限や借金を帳消しにする「徳政令」などを武力蜂起を含む手段で要求する活動を指します。
ただ、一向一揆が他の土一揆と大きく異なる点は、土一揆を起こす被支配階層が「一向宗」の僧侶に率いられていたという点です。
一向宗とは、親鸞を開祖とする浄土真宗の一派である「本願寺派」のことを指しています。
ここで強調しておきたいのは、一向宗とは浄土真宗全体を指すのではなく、浄土真宗の本願寺派のみを指している点です。
後述しますが、同じ浄土真宗の中でも宗派間で対立があり、実際に信長の一向一揆討伐軍には浄土真宗の別の宗派も援軍として加わっていました。
あくまでも一向一揆は、当時の「浄土真宗本願寺派」による軍事勢力とその行動を呼び表す言葉なのです。
以上を踏まえた上で、戦国時代初期に本願寺派の勢力を躍進させた蓮如について追っていきましよう。
■蓮如が本願寺派を急拡大させられた理由
本願寺派第8代法主の蓮如は、1415年に京都に生まれました。
本願寺派の法主は代々、開祖である親鸞の血を引く子孫が継ぐこととなっているのですが、当時の本願寺は京都・青蓮院の末寺に過ぎず、本寺も荒れ放題で参拝者も呆れて帰ってしまうほどのありさまでした。
そのような困難な時期に法主となった蓮如ですが、彼が法主に就任するや信徒数が急増し、本願寺派は勢力を急速に拡大していきます。
この急拡大の背景に何があったのかというと、蓮如自身のカリスマ性もさることながら、ビッグダディも驚くほどに蓮如が子沢山だったという点が大きいでしょう。
蓮如はその生涯においてなんと男子13人、女子14人の合計27人もの子供をもうけています。
夫人も「腹の空く間もなく」と評されるほど出産を繰り返すため、早逝することが多く、最終的には5人の女性を娶(めと)っています。この圧倒的な一族の人数が本願寺躍進の礎となります。
蓮如は、子供が男子の場合は主に他の寺院へ養子として送り、成人した暁にはその寺院を本願寺系列の末寺として組み込んでいきました。
一方、女子の場合は主に幕閣関係者と縁組し、これにより室町幕府内で本願寺支援者を急拡大させ、幕府の権威を得つつその支援を生かして勢力拡大に努めました。
■延暦寺の弾圧を受け加賀へ
こうして衰退していた本願寺を一挙に拡大させることに成功させた蓮如でしたが、急な勢力拡大を疎ましく思ったのが比叡山延暦寺でした。
本願寺の勢力拡大ぶりに危機感を持った延暦寺は1465年、蓮如と本願寺一派を「仏敵」と認定し、僧兵を繰り出して現在の京都市東山区付近にあった大谷本願寺を破却するなど弾圧を加え、蓮如らは近江へ一時避難する羽目となりました。
その後、延暦寺と本願寺は和睦を行い、和睦の条件として蓮如は法主の座を降りることになります。
法主を引き継いだのは、まだ幼少であった五男の実如です(長男の順如は、幕府内に多くの人脈を持っていたことを警戒され、後を継げませんでした)。
ただ、蓮如はこの引退を機に、新たな布教地を目指して京都から加賀(現石川県)へと遷(うつ)り、この地で信徒を拡大させることとなります。
この延暦寺による弾圧がなければ蓮如は加賀には向かわず、加賀がその後「百姓の持ちたる国」と呼ばれることはなかったかもしれません。
■守護大名を自害させた「加賀一向一揆」
加賀でも順調に信徒を拡大させていた蓮如たちでしたが、加賀の守護大名である富樫家のお家騒動に巻き込まれることとなります。
富樫家のお家騒動には、1467年に発生した「応仁の乱」が大きく影響していました。
京都の東軍を支持する兄の富樫政親と、西軍を支持する弟の富樫幸千代の間で、加賀の支配を巡って1474年に抗争が勃発したのです。
その際、政親は本願寺に支援を求めます、蓮如は、対立していた浄土真宗高田派が幸千代側についていたことから、支援の要請を快諾します。
本願寺の支援もあり、政親は幸千代を敗死せしめ、加賀の実権を握ります。
しかし、その14年後の1488年、今度は自らが本願寺に追い詰められることとなります。
加賀の支配を確立させた政親でしたが、次第に本願寺一派の強大な力を恐れるようになり、弾圧を加え始めます。
また、政親の支配手法に対し、加賀の国人(その領内の住民たち)勢力も反発し、本願寺門徒と国人が結びついて一向一揆を起こします。
政親は高尾城に追い詰められ、自害することとなりました(加賀一向一揆「長享の乱」)。
国人らは、政親の後継として政親の大叔父に当たる富樫泰高を傀儡の守護に立てます。
しかし京都の幕府は、自らが任命した守護を国人らが自害に追い込んだことに激怒し、既に加賀を離れていた蓮如を呼びつけ、加賀の信徒を破門するように迫りました。
しかし蓮如は、「既に加賀の地を離れており、本願寺が一揆を扇動したわけではない」と弁明し、また幕閣の細川政元の弁護もあって、加賀の信徒に「御叱り状」を出すことで落着させています。
東洋大学文学部教授、神田千里氏の研究によると、浄土真宗高田派との抗争を兼ねていた1474年の富樫家のお家騒動の際とは違い、長享の乱では蓮如が積極的に一揆を扇動した痕跡はないようです。
とはいえ、加賀の支配権を握る国人指導者への本願寺の影響力が高かったことは間違いありません。
加賀一向一揆は、守護に反乱を起こした国人勢力が本願寺宗徒であったと見るのが実態に近いようです。
その後の幕府との関わりの中で、本願寺は次第に加賀の支配権を確立させていきます。
次回は、本願寺派勢力が実質的に戦国大名となり、信長と抗争を繰り広げていく様子を見ていきます。
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豊後街道を行く 第1回
松尾 卓次 著 (弦書房) はじめに このところ街道歩きにハマつている。つまり道を楽しむ〈道楽〉をしている。 今まで「烏原街道」と、その延長の「長崎街道」と歩いた。他にそれらに結ばれる「平戸街道」や「三池街道」、「筑前街道」などを部分的に歩いてみた。 今度は「豊後街道」の番だと意気込んでいたが、やっと出発点にしてたのは平成15(2003)年の春であった。 豊後街道は、熊本城から大分・鶴崎湊まで、九州を横断する往還である。その距離31里、124KMとなる。 この道は、加藤清正が開いたという。そ札で清正公道といわれて、他街道にない特色がある。道幅何十メートルもの大道や掘り込み道。十数キロも続く杉並木道。 一里ごとに槙の大木を植えて何里木と名づけたりと、 400年たつ今もその一部が残っている。 この道は九州横断の最短コースであったから、肥後藩主は参勤で通り、多くの旅人が往来した。 幕末のあわただしい中に吉田松陰が三泊四目で駆け抜けたし、勝海舟が坂本龍馬たちを率いて、土地の様了を観察しながら、兵庫から長崎へ駆けつけた。そんな平和な道であったが、西南戦争時には戦さ道となって、政府軍と西郷軍は各地で砲火を交えている。 〈豊後街道は歴史の道である〉 三一里 、全行程を歩いて見て、いろんな発見があった。急坂には何万、何十万という石を敷き詰めた石畳が残る。村の長は農民を率いて水路を引き農地を開発した。名も知らぬ石工が架けた堅固な石橋、道中安全を祈願した石仏などなど、先人の偉業が脈脈と伝えられていることが分かった。 〈豊後街道は歴史を追体験できる道である〉 峠を登り切ったら、眼前に雄大な阿蘇の山々が見える。疲れも吹き飛んで気分も爽快となった。何だか自分も阿蘇の山と同じように大きくなった感じがする。石畳が延々と続く。 一歩一歩踏みしめて歩くと足も軽やかで、流れる汗も気持ち良い。あちこちに歌碑や句碑が立っている。訪れた歌人や俳人はこのすばらしい光景を認めている。声を出してその歌を詠んでみると、その歌人になったような気がする。 ● 里木(里数木) 街道沿いにはよく一里塚が築かれていた。これは旅の目安として、旅人の休憩所として木陰を提供していた。豊後街道でもそうで、榎を植えて、一里木、二里木、…何里木と称していた。 この里木(里数木)の仕組みは、加藤清正の業績だという。清正の肥後初入国時に、この街道を通り、その制度を決めたそうだ。 その入国は慶長六年(1601年)であるから、幕府の東海道など幹線整備より早い。いずれにせよ、肥後藩主の参勤の道として、江戸時代初期よりよく整えられていた。 熊本城内の一角、新町一丁目礼の辻に里程元標があって、ここから豊後街道が始まる。黒髪五丁目に一里木、上立田に二里木、JR三里木駅前に三里木と続く。 この二里木は唯一残る榎である。親木に寄生した二世木が10mの高さに成長して、昔の面影を伝えている。これ以外の里木は失われてしまったが、地名として残り、熊本県側にはその記念碑が建てられている。 しかし大分県側には、その仕組みが伝わっていない。国境の産山村大利の一里山(十六里木)が最後で、竹田市神馬に一里山が残るのみ。 なぜ豊後の地には里木がないのか、里木(里数木)をたどり歩きながら、その謎解きにトライするのもおもしろいだろう。 〇里程元標(熊本市新町一丁目)豊後街道など諸街道の出発点。 〇一里木跡(熊本市黒髪五丁目)鉄柵に囲まれた石碑がある。そこには阿部小豆の句が刻まれて 〇二里木跡(熊本市龍田町上立田)親木を土台に二世木が残る。 〇三里木跡(菊陽町津久礼)ここにある駅名も三里水駅。 〇四里木跡(菊陽町南方)菊陽の杉並本の北端に残る。 〇五里木跡(大津町上大津)大津宿のはずれにある。 〇六里木跡(大津町新小屋)近くに清正公道公園があり、地区の記念碑とともに立つ。 〇七里木跡(大津町峠)峠茶屋跡の山道のなかに残る。 〇八里木跡(阿蘇市殿塚)阿蘇谷を歩いていたら杉山のなかに発見。 〇九里木跡(阿蘇市一里山)一里山の地名とともに残る。 〇十里木跡(阿蘇市内牧)内牧宿の西端、商店の一角に残る 〇十一里木跡(阿蘇市小野田)広い阿蘇の水田地帯のなかにある。阿蘇五岳が美しい。 〇十二里木跡(阿蘇市宮地)広い阿蘇水田地帯にあり。 〇十三里木跡(阿蘇市坂架上町)坂梨宿の東端に残る。その位置が移勤している。 〇十四里木跡(阿蘇市波野四里塚)四里塚と名前が変わって残る。 〇十五里木跡(阿蘇市笹倉)笹倉の石畳道にあった。 〇十六里木跡(産山村大利)一里山という丘があったが削られた。豊後と肥後の岡境に近い。 1.熊本城から大津まで(16Km) ● 里程元標跡 この数年、街道歩きを楽しんできたが、今度は 「豊後街道」である。と何年も思い、準備していたが、平成15年(2003年)春、実現にこぎつけた。やっと出発地に立つことができた。 出発点は熊本城の一角、札の辻。熊本のすべての道がここを起点に周辺へ延びているところ。北へ豊前街道、南へ薩摩街道、そして東へ日向街道とこの豊後街道である。 「熊本より鶴崎道 熊本(五里)大津(五里)内之牧(八里一六町)久住(七里二〇町)野津原(五里)鶴崎」 「熊本札の辻より鶴崎へ三十一里」 文化十二年(1815年)、この地を訪れている高木善助は「薩陽往返記事』に書いている、また同特に、 「熊本より隣国城下ヘ道規」 「筑後柳川十六里 、久留米二十四里、三池十二里、肥前佐賀二十里、平戸四十五里、島原十二里、但川尻より船路十里、薩州鹿児島五十一里、豊後府内二十九里、岡二十一里、臼杵三十三里、小倉四十二里、延岡三十二里 、飫肥五十八里、筑前福岡三十里、秋月二十七里、球磨人吉二十五里、日田二十三里、肥前長崎川尻より大回り四十七里、熊本より長崎まで三十四里」とある。 今この地には、「里程元標」が立っていて、「ここ新一丁目(現・新町一丁目)御門前に藩の種々の政令を掲示する札の辻という広場があった。 また、ここを起点に里程元標を決め、豊後街道などの里数が測られた。その時に一里、二里、と進むごとに街道の両側に榎を植え、「これを里数木と称していた」などと書かれている。ここが東海道でいうならば日本橋の元標にあたるところと分かる。 豊後街道はここから始まる。さあ元気を出して出発だ。 隣接して小公園がある。清爽園と名付けられていた。早速、立ち寄る。西南戦争時の熊本鎮台将兵の戦没者を祭るために、明治十一年(1878年)ここに記念碑を建てた。 その後、歩兵第十一旅団長・乃木希典の呼びかけで、更に整備されて、昭和になって「清爽園」と命名された。なるほど、熊本城は西南戦争時の大激戦地であったから、今もこうしてその記念碑が残るのか。 ● 熊本城内 街道は城内を通る。それで熊本城内へと入る。街道が城内を通るのは非常に珍しい。長崎街道は佐賀城を大きく北へ迂回し、小倉城下でも西へ回り路を造っていた。それなのに加藤清正はなぜ城内を通過させたのか。 江戸時代中期に熊本に来遊した、古河古松軒は書いている。 「旅人の通行、北より来る者は東の門よリ入りで西の門に出、南より来る者は西の門より入りて東の門に出る。その問、数問にて城門幾門も通ることにて、左右、高石垣にて箱の中を行くが如し。前後は櫓門にて、その門を閉じる時は遺憾道憾とも成し難き所なり。 土人の物語に、薩州侯御往来の節、この所にて前後左右を見給い、大名の通るべき所にあらず、かかる地を往来とせしは心無きことと御怒りの色見るべしという。 定めて虚説のこととは察しながら、いかにも貴人の通行すべき城内にあらず。鳥を捕らえ駕籠へ入るる様の所なり」(西遊雑記)さすが築城の名人、加藤清正である。隔離するだけでなく、積極的に堅固さを見せつけようとしたのだ。 これほど見事な事事デモンストレーションはあるまい。いうまでもなく築城は加藤清正。清正公の実戦経験から築かれており、着工は関ヶ原の合戦の翌年、慶長六年といわれ、同十二(1607)年に完成した。 「清止公様、通らせていただきます」 法華坂を通り、「箱の中」を進んでいる。高い石垣に囲まれた道は何度も曲がる。島津公が槍を立てて通行したら、櫓の狭間一斉に開いたそうで、それ以来、島津侯は槍を伏せて通行していたそうだ。 その様子が分かる分かる。本当に、駕籠の中の鳥だ。吉田松陰も書ている。「熊府の城郭の巨大、実に驚くに堪えたり。人以て九州第一と称す。蓋し過称に非ず」(西遊雑記)) ● 百聞石垣 二の丸跡へ進み三の丸跡へと進む。古い建物があるぞとのぞく細川刑部邸だ。刑部は、細川初代藩主忠利の弟で、11代まで、代々武家屋敷として使用さしてきたもの。それ札を移築して公開している。 本来の街道は、新堀橋を北に見て京町台地へ進む。しかし刑部邸を見て、百?石垣ヘ出た。 高さ五間、長さ百十一間もの石垣が続く、すごい光景これを見たかったから回り道をしたのだ。清正公が築いた名城たる所以がここに残る。これまた名城の証である。 熊水城は天下の名城といわれる、その城構えは大きく、坪ヰ川と井芹川を内郭に、白川を外郭にて、東西一.六丁、一.二丁と二〇〇町もの広人な城域である。 その中に武者返しを付けた石垣の天守を中心に四十九の櫓と十八の櫓門、二十九の城門を備えた名城である。 特に豪壮堅固な石垣に特色があり、その石は城西、松尾山から採出したもの。往時の偉容がここかしこと残る。ここ百?石垣もその一つだ。 西南戦争で焼失した天守閣を始め、櫓や長塀の復元が続いている。さらに往時の姿を取り戻そうと、市民・県民に呼びかけた大募金運動も始まった「 ● 京町・坪井 新堀の地は、御城と京町台地を繋ぐ地峡部にある。城の搦め手あたる重要なところであるから、ここに僧門を築き、番所を置いた。この地峡部に堀割して陸橋を架けて新堀橋といった。 その上が監物櫓である。米田監物預りの地で、二の丸御門もあった。 この一帯は城へと続く台地であり、その南北末端に目を付けて加藤清止は築城した。 こ台地に高い石垣を築いて城とし、台地の東の坪井川、西の坪芹川を内堀として、強固な城を造り上げたし西南戦時に西郷車の攻撃にも籠城した鎮台兵はよく耐えしのいだ。 こうして歩いてみると、清正公様の築城ぶりがよく分かる。 城を出て京町を歩く。ほどなくして右折。真っ直ぐ行くと豊前街道で、久留米、小倉へと通じる。熊本拘置所の塀沿いに坂を下る。観音坂を一気に下る。 中腹に尼寺・観音寺があったが、五○年ほど前の大水害で廃寺となり、その名前だけが残っている。坪井町通りを歩いていたら、壷渓先生の胸像に出会った。 「この入、誰ですか」と、Hさんが言う。 壷渓とは、水庭徳治先生の雅号で、ここを流れる坪井川にちなんだ名前である 先生はここに塾を開いて壷渓塾と称した。日本で二番目に古い予備校だそうで、昭和五(1930)年に創立した。 「単に人学に通るためではなく、高い知性と美しい人問像の育成を目指す」ことを、教育理念とした。 ● 小泉八雲旧宅 また横丁で意外な発見。坪井二丁目の小泉八雲旧宅とゆかりの東岸寺弥陀六地蔵堂だ。歩いていると、周りが良く見えるから面白いものに出会う。 この寺は、八〇〇年前平家一門の平宗清が開いた。出家して弥陀六となり、諸国行脚の途中に熊本に来て、この地で弥陀六地蔵尊を作り、一字を建立したことに始まる。 八雲は明治二十三(1890)年来日、日本に帰化して第五高等学校教授として熊本に赴任した。この弥陀六地蔵堂前に二年開幕らして、地蔵様と周りの人たちの暮らしを興味深く見つめている。 著書『東の国より』には、その特の様子が述べられている。七月二十五日この地蔵さん祭にりがあって、この温顔慈相の仏様が好きで、奉加金を寄進したこと。 それで、門前に3フィートばどもあるトンボの作り物が飾られて、そ札を八歳の。子どもが独りで作ったことを聞き、驚いている。八雲が坪井の温かい人たちと交わるなかで、熊本の良さを堪能している。 長男の一雄さんがここで生まれたこともあって、生涯忘れ得ぬ土地となっているようである。 熊本電鉄の線路をわたる。旧道三号線へ出た。九州を縦に貫く大動脈である。元は熊本城内を通り、先ほど歩いた京町へ出ていたが、車時代を迎え、交通量が増えて城の束側を迂回することとなった。 なるほど車が多い、しばらく信号待ちする。ここは浄行寺交差点で、正面へ旧国道五七号線(現県道三三七号線)が延びる。戦後、旧豊後街道が国道となったものだ。 右へ行くと藤崎宮だ。あの馬追い祭りで有名な神社である。多くの勢子に囃したてられて飾り馬が躍る。熊本県人の血を沸がせる秋祭りだ。 街道に面して赤い鳥居が立っている、見ると立田口大神宮とある。ここには明治初年まで成就院もあったが廃寺となり、神社だけが残る。 京町から坪井町までは古くからの職人町であったから、その名をつけた町が多かった。しかし今では歴史を伝える旧町名もなくなってしまった。 ● 一夜塘 御薬園跡とは標示枚がある。旧肥後藩の薬園が開かれていたが、今では人家が建て込んでいて、町名だけにその名が残る。子飼橋のたもとに一夜塘があるので立ち寄る。こんもりとした小さな丘になっていて、すぐ裏は白川だ。 つまり白川がこのあたりで人きく曲がり、よく氾濫していたので、その防御のために塘(堤防・井手)を築いた。 寛政八(1796)年辰の大水の時、斉茲藩主が一夜の内に築かせたので一夜塘というそうだ。今でもそれが約七十メートルほど街道に面して残り小公園になっている。 子飼橋というと、昭和二十八年(1953)年の熊本大水害の時にこの辺りが決壊して全市水浸しになったことを思い出す。 熊本入学前を進む。とたんに道幅が広がった。約十五メートルもあって、旧豊後街道そのままの道である。 明治二十七(1894)年、前身の第五高等学校が開校した時以来、道幅は変わっていないから、清正公様の道造りの壮大さが分かる。五高・熊本大学の赤レンガ校舎を横目に見て進む。 五校が開校して一世紀以上、その果たした役割は大きい。 と思って歩いていたら、道帽がぐっと狭まり八メートル。旧街道上に人家が並んでいる。明治以来、民有地へ払い下げられたのだな。車時代の現在よりも幅広い街道を造ったのだからなんとその構想の雄大さよ。 ● 桜山神社 桜山神社がある。少し坂を令っていったら、桜の本の下に石碑がずらりと並んでいて、その奥に誠忠 の碑が立っている。 その間には、今散ったばかりの桜花が一面敷き詰められている。一三○年前に昇華した神風連の人たちの気持ちを今なお表しているようである。その花びらの上を歩くには気が引けるから、遠くから手を合わせる。いい時期に行き合わせて良かったなあ。 よく肥後もっこすといわれる。つまり頑固だということか。この神風連の乱もその一つだろう。明治九(1876)年、太田黒伴雄たち旧熊本藩士百数十人は敬神党(神風連)へ結集していた。 新政府の急速な欧化政策に不満を抱き、直接行動を起こす。到底勝ち目のないことを知りながら、熊本鎮台を襲い、種田政明司令官や安岡良亮県令らを殺害して兵舎を焼き討ちした。 しかし間もなく鎮台兵に鎮圧されて太田黒たち一二四人は、戦死したり自刃し果てた。秋月の乱や萩の乱と共に、明治新政府の開明策に不満士族が起こした反乱の一つである。この神風連資料館が境内にある。入館して改めてこの反乱が何だったのかを思い知らされた。 ● 宮部鼎蔵 境内には宮部鼎蔵の歌碑も立っている。 「いざ子ども馬に鞍おけ九重の御はしの桜散らぬそのまに」 これは京都へ出発する時、まだ幼い子どもたちに勤王の決意を伝えた歌といわれる。 その後、鼎蔵は尊王運動の理論派と呼ばれて活躍するが、文久三(1863)年、新選組に襲われて自害した。 これがあまりにも有名な寺田屋騒動で、この事件で明治維新は数年遅れたといわれている。享年四五歳であった。宮部鼎蔵の名は早くから知られていて、吉田松陰は、嘉永三(1850)年と六年の二度ほど訪ねている。 最初は平戸、長崎遊学の帰路で、その名声を聞いて熊本へ立ち寄っている。 二度目はその三年後のことで、ペリー艦隊に次いでプチャーチン艦隊が長崎へ来航した時のことであった。 この時、松陰は江戸から急行して長崎へ向かう。東海道、瀬戸内海路そして豊後街道を三泊四日で駆け抜けた。島原へ渡海して長崎へ急いだ。 熊本では七泊もして、宮部鼎蔵や横井小楠たち延べ四三人もの人物と会っている。それで長崎到着は10月27日となり、その時にはすでにロシア艦隊は出港した後たった。 なぜ熊本で長逗留したのか。大きなおおきな謎だ。ある人は外国へ密航を考えていたという。事実この半年後、下田で密航を企てて失敗しているからである。 鼎蔵や小楠たちと連日、何を話し合っていたのだろうか。ずっと気になっている。この街道の中には吉田松陰が宿泊したところ(小無田など)があるので、そこでも調べてみたい。 ● 一里木跡 街道沿いにはよく一里塚が造られていた。それは旅の目印として、旅人の休みの場、木陰として役立っていた。豊後街道でもそうで、榎を植えて、一里木、二里本、何里木と称していた。 この仕組みはいつ出来たかはっきりしないが、加藤清正の肥後入国、慶長六(1601)年以後という。しかし幕府が東海道など幹道を整備し始めたのが慶長九年で、慶安二(1649)年には街道制度が確立されているから、それなら細川時代初期となる。 どうも熊本では「清正公様のおかげ」とよくいわれるが、いずれにしろ、江戸時代初期には街道両側に榎を植えさせ「何里木」とさせたようである。 その一里木が黒髪バス停にある。今ではその木も枯れて、「一里木跡」の石碑だけが残る。熊本城内の「里程元標」からここまで一里、つまり約四キロである。豊後街道にはこの里数木跡が残されているから、それを一つずつたどるのがひとつの楽しみである。 一里の距離は普通、歩くと1時間(昔の半時)で、一日に七〜八里歩くのが昔の旅人の行程であった。 それで里数水や一里塚は、歩行のよい目安となっていた。 その昔、ここで見送りの人とお別れしていたところ。ここから江戸まで三〇〇里の長旅であったから、名残も尽きなかったろう。 ● 杉並木 「このあたりが杉並木の西端」と、ずっと以前に発刊された『熊本県歴史の道報告書−豊後街道』に書いてあったが、見出せない。一里木と同様に枯れてしまったのか、周りはすっかり住宅地となっている。 小蹟橋端に来た。ここから白川を右手に見ながら歩く。立田山が追っているので、川も狭まって流れている。すぐ左手の崖上が立田城跡。崖面には横穴墳があったそうだが道路拡張工事などで破壊されてしまったようだ。 JR竜田口駅を過ぎる。豊肥線だ。熊本から阿蘇を貫き、大分まで達する九州横断鉄道である。ほぼ豊後街道に沿って敷設されている。しばらく平行して歩く。 国道三号線バイパスの高架を潜る。熊本の郊外地として聞かれた住宅地を通る。 待ち望んでいた杉並木を発見! といっても、杉の大木がまばらに立っているだけである。このあたりが現在の西端部であろう。 この数十年の内に随分と杉並木も失われてしまった。ずっと昔、修学旅行で阿蘇山へ行った時には、杉並本の中をずっとバスで通っていたようだったが。道幅がまた広くなって来た。三宮社がある。 ここは昔のままだ。大きな楠や杉がうっそうと茂っている。阿蘇三ノ宮の末社である。龍田小学校前に出た。昔を彷彿させる杉並木が続く。 ● 二里木 二里歩いた。二里木がある。ここには榎が残っていた。といっても、二世木が親木を台木に寄生し、10メートルの高さに成長している。 親は枯れても子を残すか。他の里数木は枯れたり伐採されたりで、その名前だけしか残っていないが、この木は唯一残る里数水である。うれしいね。 「大津街道の里数木」と説明板があって、熊本・札の辻から阿蘇外輪山の七里木までの案内が書かれていて良く分かる。 このあたりは道幅が広い。古記録には「馬踏五間、幅九間」とあるが、そうなのか。つまり全幅一8メートルもあって、中央一0メートルが通路となっていた。 それを今では、西半分しか県・市道に使っていない。東側は広場となり、駐車場に利用されている。 道幅に注意して歩いてきたが、清正公道の本体が現れたぞと、うれしくなった。 加藤清正は慶長六(1601)年入国し、矢継ぎ早に大土木工事へ取りかかる。熊本城築城、有明海干拓と用水路の開発、そして豊後街道の整備だ。 世に言う清正公の国造りだ。今でいうならば社会インフラの確立だ。そんな面からも「清正公様」と、熊本では尊敬を集めている。 近くに道標があるはずだがと注意して歩いていたら、あった。 白川沿いに瀬田へ向かう県道の分岐点に高さ一.二メートル、幅三〇cmの石柱が立っている。見過ごすところだった。なんと道路改修工事の立看板の支柱となっている。注意して見なければ分からないはずだ。 「右 あそ大分 左 大津内ノ牧」と刻まれ、裏面には、「阿蘇郡甲斐有雄」とも彫られている道しるべである。 ここは阿蘇へ向かう道との分岐点になるから、高森町の甲斐氏が個人で立てたもの。氏は一九〇〇もの道しるべを自力で立てたが、この地点は一六二八番と刻まれていて、明治二十年代(1887〜96)のものか。 道標の重要性は今も昔も変わらない。特に歩いて旅していたその昔は、今日のカーナビ以上に重要であった。その大切さを知っていた甲斐氏は自力でこんなにも数多くの道しるべを立ててくださったのだ。 感謝!感謝!・ それにしても、もっと先人の贈り物を大切にしなければ。 この地で初めて熊本城を目にしたと、勝海舟は感嘆して、文久四(1864)年二月十九日の日記に書いている。 「熊城を路二里程より望む。天守孤立、築制他城の比にあらず」この時、勝海舟は下関砲撃事件以後、悪化した外国との関係修復のために長崎へ向かっていた頃たった。 坂本龍馬たち海軍操練所の若者を引き連れて長崎へ急いでいたので、龍馬もここで名城を初めて目にしたのである。 ここから熊本城が見えたとは今では想像もつかない。都市化の波がかつての農村地帯へも広がり、いい住宅地、商工業地帯になっているので、すっかり眺望が遮られてしまった。 平原の中にすっくと天守閣が聳え立つその偉容を、ぜひ見てみたいものだ。 ● 武蔵塚 すぐ、武蔵塚に出た。このあたりはすっかり住宅地に開発されていて、地下の武蔵もゆっくりと休んで居れないだろう。墓前の旧豊後街道は自動車の洪水で、近くを九州自動車道が通り、JR特急電車が博多へと走る。 屋敷門を思わせる本の大門を潜ると、そこは別世界。大小二刀を持つ宮本武蔵像が、カッとにらむ。 NHKテレビで「武蔵」が放映されたので、ブームを呼び、今日も訪れる人が多い。 武蔵はかなり伝説化されている。生まれも諸説があって、まして生涯六〇回も勝負して一度も敗れなかったこと、佐々木小次郎との対決などがそうである。 多分に、吉川英治の小説『宮本武蔵』が元となり、定説化しているきらいがある。江戸時代に、ここ豊後街道を旅しか人で武蔵塚にふれたものはいない。 伊能忠敬もこの道を測量して豊後へ回ったが、もちろん記述がない。 晩年の武蔵は、肥後藩主細川忠利の客分として招かれ、軍事顧問として仕えた。そして死亡するまで熊本に留まり、『五輪の書』を著す。 正保二(1645)年に六二歳で死去したが、遺言で「細川公の参勤を見守るために、甲冑を帯び六具に身を固め、立身の姿でこの地に葬られた」と伝えられている。今そこには「新免武蔵居士石碑」が立っている。 忘れられた武蔵であったが、剣豪ブームで息を吹き返したようである。武蔵うどんまで生まれている。 昼になったので食堂で、その「武蔵うどん」を食べた。何と、餅入りうどんだった。同行のHさんは「小次郎うどん」、Yさんは「お通うどん」とみんなは競って食べる。「うまい! 腹一杯になった」 ● 三里木跡 街道は随分広くなった。道の左手半分にJR豊肥線が走り、その外側には町道もある。残り半分に旧国道五七号線と昔からの杉並木が通る。 これがすべて旧豊後街道の道路敷である。その道幅六〇〜八〇メートルはあろう。それが延々数キロ、阿蘇を目指して真っ直ぐに延びる。見事な道だ。清正公の道造り、国造りが良くあらわれている。 天明三(1783)年、ここを通った古河古松軒は書いている。 「熊本より大津まで五里、この道は平地にして街道の広き三〇間ばかり。左右に土手あり、並木みなみな大樹にて、杉、もみ、その他雑樹も多し。 言い伝える。清正朝臣奉行してこの道つくりけるという。その時より道も狭くせず、並木も切らずしてその侭の形なり。日本第一といはん、ひろひろとせし街道なり。 大守の参勤交代この道筋より豊後の鶴崎への往来あり」 また、慶応三(1867)年に来熊した桃節山も書いている。熊本より大津迄始終平地にして、少しづつつまあがりの様に見えたり。清正公の聞かれし由。路幅五、六間位にて、左右に大なる杉を植え並べたり」 明治になって県道へと生まれ変わり、さらに国道となる。また大正元(1912)年、宮地軽便鉄道線が出来て、旧街道内に鉄道線路を敷設し、三年後に大津まで開通させた。それが今も続く豊肥線だ。 鉄道と国道、それに杉並本道と、消正公の遺産は今も立派に生きている。 その偉業を踏みしめて歩く。大本の杉並木も残って、木陰をつくり出し、歩くものには何よりのプレゼント。昔の人もそうだったのだなと、街道を楽しみながら歩いていたら、JR三里木駅に着いた。 モダンな駅舎に建て替わっている。それもその筈、周辺はいい住宅街となっている。かつてはひなびた駅と、一面黒っぽい火山灰の畑が広がるところだったが、変われば変わるもんだと、つぶやきながら歩いていると、頼山陽碑を見つけた。 頼山陽碑
大道平々砥不如 熊城東去総青蕪 老杉爽路無他樹 欠処時々見阿蘇 大きな道ガ平らに磨いているようで、熊本城を東に去ると総て青い地である。老杉が路を挟んでいて他に樹が無く、その間から時々阿蘇山が見えると、解釈するか。 文政元(1818)年、長崎からの帰路、竹田行きの途中に詠んだ詩である。さすが当代第一の詩人だ。天草へ渡海したとき、西海の海を詠んだ雲耶山耶呉耶越耶/水天髣髴青一髪/万里泊天草洋・・・の名詩と、双璧を成すといってよい。 この道を伊能忠敬一行は測量して通った。文化七(1810)年のことである。 「十二月十四日城下出立、飽田郡立田口より初、坪井村、下立田口村(枝字留毛、枝陣内)、上立田口村枝弓削、字杉山、字大久保(二里四町三七間三尺)、合志郡上津久札村字上原(人家二軒)、同字下原、上津久札村字新町(人家九〇軒)、柳木村、入道村枝南方、桜馬場、塔ノ迫村(人家八軒)、町村(枝若竹)、大津村(内)、大津町止宿前迄測(二里十五町五間)」 「伊能忠敬測量日記」にもそう書かれている。勿論その距離数は正確であり、できた地図を見ても、この辺り街道は定規で線を引いたように直線なっている。今でもその跡をたどることができる。いや、いや私はその跡をたどって鶴崎まで行っているのだ。また歩く楽しみが増えたぞ。 ● 日本の道百選 旧建設省(現・国土交通省)「目本の道百選」の石碑がある。なるほどそれに選ばれただけの価値がある。豊後街道歩きのお勧めの場の一つである。 また勝海舟の日記より引用して書く。「大津宿より熊城までは小低の路、左右大杉の並樹、この中大樹十四、五丁の並樹あり」。海舟と、そのお供をしていた坂本龍馬も見た杉並木がまだ残っている。 この下を長崎へと急いだのだな。「おい龍馬、どうだこの杉並木は。清正公の偉業は」 しかし龍馬はその記録を残していないので、何にも答えてくれない。 原水駅手前の新町を通る。ここでは人家を避けて、鉄道が街道と離れたところを通っている。ずっと街道内に国道と鉄道が平走していたのに、このあたりだけ変わっているのはなぜだ。 それは寛永十六(1639)年にさかのぼる。細川忠利藩主がここに農民を移住させて新しく村造りを始めた。それで街道筋に人家が建ち、新町と呼んだ。伊能測量日記の中にも、「上津久札村字新町(人家九〇軒)」とある。 大正初年(1912年頃)の鉄道敷設時にはその集落を避けて通したので離れたというわけだ。 その駅を通り過ぎたところに四里木跡がある。後、一里足らずで大津宿だ。大津は肥後藩主参勤時の最初の宿泊地であった。 (街道歩第一回はここまで)次回につづく 2018/03/06 |

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