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崩れる龍馬のイメージ…国際法タテに1万両要求した〝銭ゲバ〟ぶり、紀州藩の無知につけこむ
2013.8.25 07:00 産經新聞

 瀬戸内海の六島沖で紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突して、「いろは丸」と大量の積み荷を失った坂本龍馬は、紀州藩から多額の損害賠償金をせしめることを考え、すぐに交渉することを提案する。それにあたり持ち出してきたのが、当時の日本ではあまり知られていなかった「万国公法」だった。実は事故で本当はミスを犯していた龍馬の“事故隠し”のための大ばくちだった。
■交渉の申し入れ
 慶応3(1867)年4月24日、明光丸の甲板上で海中に消えていくいろは丸を静かに見送った龍馬はすぐに、明光丸船長の高柳楠之助に今後のことについて申し入れる。
 「今回のような海難事故は例のないこと。万国公法にのっとり、この後の交渉を進めたい」と事故の交渉事は現場近くで行うのが国際ルールと、備後(広島県福山市)の鞆(とも)を指定する。
 だが、藩命を受けて長崎へ航行中だった明光丸は鞆へ立ち寄ることは避けたかったのだが、国際ルールをふりかざしながら一戦も辞さない覚悟で食い下がる龍馬に根負けしたのだ。
 龍馬には「紀州藩は万国公法のことを詳しくは知らないだろう」という目算があった。万国公法はアメリカの法学者が著した国際法の教科書で、日本国内に入ってきたのはつい最近のこと。
 龍馬は神戸海軍時代の師匠だった勝海舟らを通じて学び、日本語への翻訳を計画するほどに内容を熟知していた。このため、万国公法をたてに取り紀州藩を交渉に引っ張り出せば、自分の土俵で相撲をとれるということになる。
■国際ルールをたてに
 今回の事故で、いろは丸側に国際ルール上、重大なミスがあった。西から東へ向かういろは丸と、東から西へと向かう明光丸。この2隻が衝突しそうになった場合、お互いに面舵(おもかじ)、つまり右折して回避することになっている。だが、いろは丸は左折し、右折の明光丸に衝突している。
 国際ルールに明るい龍馬は知っていただろう。ところが船も積み荷も沈み、これでは商売にもならないため、この交渉いかんでミスを帳消しにでき、多額の損害賠償をものにできるという計算もあったと思う。
 上陸した龍馬らは、いろは丸の会計官、小曾根英四郎が以前から懇意にしていた廻船問屋、桝屋清右衛門の自宅を宿所にした。
 奇襲も予想されたため隠れ部屋を使った。1階奥の天井板を上げると奥に階段が数段。それをのぼると小さな踊り場があり、左手の階段を3段降りてようやく8畳の広さの部屋にたどり着く。ちょっとした迷路である。
 一方、紀州藩が宿としたのは円福寺。談判所となったのは町役人の魚屋萬蔵宅と朝鮮通信使の迎賓館に使われた対潮楼。そして慶応3年4月24日の午後1時、交渉のゴングは鳴った。
■交渉決裂
 「万国公法に基づき非は明光丸にある」と主張する龍馬と、すべて藩命に従うとする高柳。この時点で国際ルールを知らないことがわかると、翌25日、龍馬は急場の難を救うため1万両を要求した。
動揺を隠せない高柳は明光丸に搭乗している勘定奉行の茂田一次郎と相談した結果、「金一封(千両)を出す」と返答した。
 だが強気の龍馬は「なんじゃき、そいは!」と紀州藩の申し出を突っぱねる。
 焦る高柳は「1万両を立て替えるから、返済期限を決めよ」とさらに提案するも、龍馬は「1万両は賠償金の一部。それを返済期限を明示せよとは何事か」と反発した。
 26日も交渉は平行線をたどり、27日午後2時40分に交渉が決裂すると、明光丸は長崎に向けて出港、龍馬は停泊中の長州藩船に乗り込み、後を追った。船中では大坂にいる隊員の菅野覚兵衛、高松太郎に事の顛末(てんまつ)を知らせる手紙を書いている。
 鞆に龍馬が滞在したのはわずか4日間。現在、鞆港から桝屋、魚屋萬蔵宅、対潮楼など、龍馬が駆け抜けた場所はそれぞれ5分以内でたどることができる。
(つづく)
龍馬暗殺真相〝異説〟=身内の裏切り?「賠償金7万両」支払い直前に急襲、その金は…
2013.9.1 07:00 産經新聞

 沈没したいろは丸を巡る交渉の舞台は備後・鞆(とも)から長崎に移った。国際ルールをたてに交渉を始めた坂本龍馬らだが、今度は何とイギリス海軍の提督まで引っ張り出してきた。さらに紀州藩を悪者仕立てにし、まるで子供が大人に挑むような図式を作り、世論を味方につけることも忘れない。大藩相手に暴れに暴れまくった龍馬だが、その果てに行き着いたところは−。
■世論を背に
 慶応3年5月15日に交渉は再開した。海援隊の長岡謙吉によると、初日は土佐藩から龍馬、小谷耕蔵、腰越次郎、岩崎弥太郎ら8人。紀州藩からは高柳楠之助、岡本覚十郎、成瀬国助、福田熊楠ら9人(11人の説もある)が出席したという。
 龍馬側は当時、ミニエー銃400丁含む銃火器3万5630両、金塊など4万7896両198文を積み込んでいたとし、これに相当する損害賠償を要求。
 さらに、航海日誌や談判記録をもとに万国公法にのっとり判断すべき−とし、イギリス人商館主と親しい岩崎弥太郎を使い、イギリス領事や海難審判に詳しいイギリス海軍提督を引っ張り出し、裁定を仰ぐことを要求した。
 蒸気船同士の事故も国内初の出来事だが、互いに航海日誌を持ち出しての談判も初。まさに初ものづくしの中、紀州藩は「幕府(長崎奉行所)の公裁を仰ぐべき」と反論するのみだった。
 この間、龍馬は自作の俗謡を花街に流す。
 船を沈めたその償いは 金をとらずに国をとる
 海援隊といえども脱藩浪人の集まり。紀州徳川55万5千石を相手に「国をとる」気概は町人や諸藩の士から喝采を浴びた。
■黄金のライン
 紀州藩は龍馬ら海援隊との交渉を避けると、藩の勘定奉行、茂田一次郎が、今回の交渉で龍馬側の背後にいた土佐藩参政、後藤象二郎と交渉にあたる。参政とは内閣総理大臣のような存在で、藩政の実権をにぎっていた。
 だが、そのころ貿易の重要性を認識し、龍馬と急接近中だった後藤が簡単に紀州の申し出に乗るはずもなく、交渉は決裂した。しかし、「一戦も覚悟」とする茂田の激怒ぶりには後藤も驚いたらしい。紀州藩にイギリスへの留学経験を持つ薩摩藩士、五代才助(友厚)を紹介する。
 五代は龍馬とも親しく、薩摩、土佐両藩ともに政治的な結びつきを強めていたときだけに、見事な連携だった。これにより、沈没事故発生から約1カ月後の5月29日、賠償金約8万3千両(その後7万両に減額和解)を支払うことで決着する。
 紀州藩は龍馬−後藤・岩崎−五代ラインにいやがおうにも乗せられたようにみえるが、時代が薩長に傾きかけていたときだけに、余計な波風を立てさせたくはなかったという計算があったともいわれている。
■身内の裏切りか?
 すべてが丸く収まったようにも見える今回の交渉だが、平成18年に鞆の沖の海底に眠るいろは丸を潜水調査した際、古伊万里焼の茶碗(ちゃわん)の破片などが大量に発見されたが、龍馬らが主張した銃火器は見つからなかった。
 つまりミニエー銃は、龍馬お得意の“ハッタリ”だった可能性が強い。金塊も見つかっていない。
 問題の賠償金は慶応3年11月7日に完済され、いったん土佐藩が預かった後に龍馬に支払われるはずだった。しかし、その8日後の11月15日、龍馬は京都・近江屋で何者かに襲われて命を落としている。
 後藤はこのあと政治家・実業家として成功し、岩崎は三菱財閥の礎を築く。また、五代は大阪商工会議所の初代会頭に就任するなど関西経済界のドンとして君臨した。
 3人がこの時に得た大金を元手に起業したとしたら…。龍馬暗殺の首謀者は幕府の京都見廻組とされているが、この後藤らの犯行説も暗い影を落とす。龍馬は身内に裏切られたのか?。
×  ×  ×
 福山・鞆港の常夜灯の隣に「いろは丸展示館」がある。江戸期の土蔵を利用して平成元(1989)年7月に開館した展示室では潜水調査結果などを紹介している。
 沈没状況を再現したジオラマや海援隊の宿所となった桝屋の隠れ部屋も再現されている。その部屋の中央にどっしりと構える等身大の龍馬のろう人形が、どこかもの悲しく見える。
(おわり)

坂本龍馬暗殺(上)

真犯人は? 幕末史上最大の謎…幕府、新選組、薩摩、長州の名も

2013.2.24 07:00 産經新聞

慶応3(1867)年11月15日午後9時ごろ、シーンと静まりかえった河原町の醤油(しょうゆ)屋、近江屋からバタバタという音とともに「こなくそ!!」という叫び声が響き渡った。騒ぎは一瞬で収まったが、2階の8畳間にはひとりの土佐脱藩浪士が血を流して倒れていた。坂本龍馬だ。

 龍馬は頭など34カ所に傷を受けてすでに死亡していた。ペリー来航以降、鎖国体制が崩れて諸外国の圧力が強まる中、弱体化した幕府に代わる新体制づくりに奔走した龍馬は、33歳という短い一生を終えた。

 事件はこんな形で進んでいった。

 襲われた近江屋2階は屋根裏で、天井は低い。夕刻から盟友・中岡慎太郎の訪問を受けた龍馬は風邪気味のため軍鶏(しゃも)鍋を食べようと近くの本屋の峰吉に肉を買いに走らせた。

 その直後、十津川郷士を名乗る2人の男が「龍馬に会いたい」と、元力士の使用人、山田藤吉に申し出てきた。龍馬に取り次いだ後に2人を先導して階段を登っていた矢先、藤吉が後ろから斬られる。

 藤吉の崩れる大きな物音に、龍馬は「ほたえな(ふざけるな)」と声をあげると、いきなり部屋の襖が開き、2人男に斬りつけられたのだ。

 額を斬られた龍馬。今度は刀のある床へ向いて背中を斬られる。傷は浅く何とか刀までたどり着くが、刀を握る龍馬の頭上から刀が振りかかってきた。

 鞘(さや)で払おうとするも不幸に鞘が天井に当たり、除けきれずに頭に深傷を負う。これが致命傷になる。中岡も隣の屋根に逃げたが28カ所に傷を負い、2日後に亡くなる。
 軍鶏肉を手に近江屋に戻ってきた峰吉の知らせで、龍馬の仲間が大勢駆けつけたが、犯人の姿はすでになかった。

 誰が龍馬を“やった”のか。これだけ有名な事件にもかかわらず犯人は分かっておらず、諸説が飛び交い、幕末史上最大のミステリーといわれる。

 最も有力視されているのは幕府の京都見廻組与領(くみがしら)の佐々木只三郎(旗本)とその部下。このほか新選組の原田左之助、薩摩藩の中村半次郎らの名前があがり、少数派ながら長州藩、土佐藩説もある。

 近江屋は四条河原町から北へ徒歩数分。龍馬のいた母屋は現在の河原町通の上に建っていたことから、当時の道路は現在の通りの東側歩道と同位置、同幅(約4メートル)。この結果、河原町蛸薬師交差点近くに建つ事件の石碑周辺がまさに殺害現場にあたる。

 石碑と現場がここまでピタリとくるケースは、結構珍しい。

(つづく)

坂本龍馬暗殺(中)

油断した龍馬、「洛中」に潜まなかった「一生の不覚」
2013.3.3 07:00  産經新聞

京都では幕末の当時、天皇が君臨する洛中では捕物や殺生はやらないというのが、暗黙の了解にあった。このため、奉行所の役人たちは洛中で犯人の後をずっとつけて、洛外に出たところで逮捕、あるいは切り倒していたというのだ。

 幕末の兵法学者、佐久間象山が殺害された高瀬川周辺や新選組を一躍有名にした池田屋はまさに洛外だった。当時、東の京極が寺町通だったため、寺町通の東側に建っていた近江屋は洛外にあたる。

 龍馬も殺害される前年の慶応2(1866)年、伏見・寺田屋で奉行所の役人に襲撃されて重傷を負った苦い経験から、襲撃に対する心構えは十分できていたはず。

 龍馬が身を潜める近江屋は土佐藩御用達の商人で、河原町通をはさんだ向かいには土佐藩邸があった。さらには母屋の隣の土蔵で寝起きをし、いざというときには、隣の誓願寺に逃げ込むはしごを用意していたというほどの警戒ぶりだった。

 現在、河原町蛸薬師の交差点を東に入ったビルの一角に建つ岬神社は土佐藩邸内にあったことから、「土佐稲荷」の名前で知られている。ここから殺害現場の石碑までは数分とかからない。

 だが、龍馬はこの日、風邪気味のためか、母屋2階の8畳間で火鉢にあたりながら中岡慎太郎と話し込んでいた。とはいえこの8畳間も2階西端にあたり、刺客が階段を上がったとしても別の部屋もあり、簡単に攻撃を受けない位置にはあった。
龍馬が無血による政権交代を願って奔走した「大政奉還(幕府が朝廷に政権を返上)」が実現した直後ということもあり、何らかの気のゆるみがあったのかもしれない。

 犯人については、関係者の証言から京都見廻組与頭(くみがしら)の佐々木只三郎(たださぶろう)▽犯人が叫んだ「こなくそ」の方言から薩摩藩士▽現場に残った刀の鞘から新選組・原田佐之助▽武力による倒幕を訴えた長州藩−など。

 黒幕には、無血による政権交代を好まない英・スコットランドの武器商、トーマス・グラバーらの名前があがるなど諸説あるが、いずれも確証なく、謎に包まれたままだ。
(つづく)

坂本龍馬暗殺(下)

背景に「武器密輸利権」? 実はワルだった龍馬、黒幕に「桂小五郎」「グラバー」の名 
2013.3.10 07:00 産經新聞

「日本を今一度せんたくいたし申候(もうしそうろう)」。坂本龍馬が京都・近江屋で殺害される4年少し前の文久3(1863)年6月、姉・乙女に宛てた書状の中にこういった一文が書かれていた。

 攘夷(じょうい)に燃える長州藩の攻撃で傷ついた外国の軍艦を修理する幕府の弱腰を嘆いた龍馬が朝廷の下で幕府官僚を討ち、再び美しい日本を取り戻そうという決意を述べたものだった。

 師と仰ぐ勝海舟と立ち上げた神戸海軍操練所の廃止後、龍馬は長崎で商社を設立すると、英・グラバー商会を介して大量の銃弾を密輸。これをもとに犬猿の仲だった薩摩、長州両藩を結びつけた。

 そして両藩の強力な兵力を背景に幕府に政権を朝廷に返上させる大政奉還を迫る。幕府からすれば、武器密輸の主犯に屈したことになるから、相当に恨んだことだろう思われる。

 また、大政奉還直前の10月に龍馬が入京した際に噂が噂を呼び、数百人の海援隊を引き連れて−とデマが飛ぶ。これでは京都の治安が守れないと、京都守護職の松平容保(かたもり)も危機感を抱いただろう。

 だが当時、幕府で重役を担った勝や松平春嶽(しゅんがく)と深いつながりをもつ龍馬を簡単には襲えない。浪士集団の新選組が手出しできなかったのは、そのためだったともされている。

 一方、旗本の子弟が集まる京都見廻組は襲うだけの格はあった。メンバーの自供もあり、容疑者として有力視されてはいる。だが、自分が主犯か見張りかで二転三転するなど内容に信頼性に欠けるため、真犯人とまではいたっていない。

 では誰が龍馬を。いなくなって最も利するのは、無血倒幕を考えていた龍馬に対して武力倒幕を考えていた桂小五郎を中心とする長州藩だろう。

 売り込んだ武器が使われなければ掛け金が回収できないトーマス・グラバーが両藩を裏で扇動したとの説もある。現に大戦争に発展しなかったため後年、グラバー商会は倒産する。

 さらに大政奉還の手柄を独り占めにしたい土佐・後藤象二郎の説も。

 事件後、龍馬と中岡慎太郎は霊明神社の墓地(現在の京都霊山護国神社)に埋葬される。東山の高台にある墓からは京都市街地が一望でき、150年経た今も人々の営みを静かに見守っている。

(終わり)

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