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石川五右衛門(上)

豊臣時代の“庶民のヒーロー”、
秀吉イライラ指名手配…伏見城侵入に「秀吉暗殺説」、正体は「忍」説も 

2013.6.30 07:00  産経新聞

 世は太閤、豊臣秀吉の治世に天下を揺るがす大盗賊がいた。その名は石川五右衛門。
 朝鮮出兵などに兵をとられ、警護が手薄になっていた京の町に、大人数の手下とともに大名行列を装っては数々の大仕事をやってのける荒業で、鼠小僧と並び名をとどろかせる。その伝説の“アンチヒーロー”の誕生から三条河原で処刑されるまでの生涯を追ってみた。
■太閤の城に忍び込む
 文禄3(1594)年8月23日夜、石川五右衛門は太閤、豊臣秀吉の居城、京都・伏見城の潜入に難なく成功する。狙うお宝は秀吉の寝所に置かれている「千鳥」と呼ばれる円筒形の青磁の香炉だ。
 香炉の中央にある高台が縁より高く、このため、縁の3本の足が浮き上がる姿が千鳥の立つときの姿に見立てられ、この名がついたとも。また、蓋のつまみが千鳥の形をしているためともいわれている。
 澄んだブルーの色合いの美しさもあり、秀吉の茶頭(さどう)を務める千利休の師、武野紹鴎(たけのじょうおう)が所持したこともある天下の名品だった。
 ところが、五右衛門がこの香炉に手を掛けようとした瞬間、香炉が鳴いたというのだ。これで目をさました秀吉。すぐさま五右衛門は周囲の警護に取り押さえられてしまう。
 五右衛門が伏見城に忍び込んだ動機については当時の関白、豊臣秀次の家臣、木村常陸介(ひたちのすけ)に秀吉暗殺を依頼されたとの説もある。
 文禄2年、秀頼が誕生すると、当初は後継者とされた秀次が秀吉に疎まれるようになる。そこで「消される前に消せ」と五右衛門を暗殺者に指名したというのだ。
■警護手薄な京都
 五右衛門が逮捕された前年の4月、朝鮮半島で明と李氏朝鮮の連合軍と戦った文禄の役の停戦が成立しているが、まだ余韻も残るご時世。文禄元年に始まった文禄の役は約19万もの兵を動員したため、その間は京都の警護も手薄になりがちだった。
 そんな隙間をついたのが五右衛門だった。
 五右衛門の出生地については、伊賀や河内、あるいは丹後、遠江などの諸説があり、伊賀忍者の百地(ももち)三太夫の弟子だったとも。現在の三重県伊賀市には五右衛門の墓とされる供養塔も存在する。
 忍者に流れをくんでいたとすれば、忍び入るのはいと簡単。京都・東山の方広寺近くや伏見に屋敷を構えては、大勢のあぶれ者を子分にして盗みを働いていたという。
 白昼堂々と派手な衣装で立派な駕籠に乗り、約百人の子分に武士の衣装を着せて大名行列を装っては周囲の目を欺きながら、大名屋敷や豪商の屋敷などに押し入り、犯行を重ねていたという。
 五右衛門を「素破(すっぱ)」だったという説もある。忍者の一種で「乱破(らっぱ)」とも。戦国時代、武士がスパイとして育てた盗賊のこと。報道の特ダネの意味で使われる「スッパ抜き」の語源にもなっている。
■五右衛門vs戦国の鬼平
 朝鮮出兵の失敗などで世評の芳しくなかった秀吉に対し、権力者を脅かす “庶民のヒーロー” として、五右衛門の評判は上がるばかり。
 これでは面白くない秀吉は当時、京都の警察権を握っていた京都奉行の前田玄以(げんい)に五右衛門一味の逮捕を命じる。
 前田玄以は美濃の武士の家に生まれ、後に出家して尾張の寺の僧侶となる。しかし、人望の高さを織田信長に買われてスカウトされると、信忠に仕えた。
 思慮深く私欲もない。しかも正義感の強さは人一倍というから、庶民に人気があるとはいえ、悪行を重ねる五右衛門の対抗者としては最適任。まさに“戦国時代の鬼平”といえる。
 そんな中、指名手配犯の五右衛門が勝手に網に掛かってきたのだ。こうなれば、芋づる式に出てくる家族や一味の名前。逮捕者数は妻子のほか子分二十数人にも及んだという。
 そして、その翌日、三条河原で釜ゆでの刑を受けることになる。処刑の様子については次回で詳しく。
(つづく)

石川五右衛門(中)

釜ゆでの刑、五右衛門がわが子・五郎市とともにとった行動は…異説、珍説、最期まで権力に反抗した

2013.7.7 07:00  産經新聞

 文禄3(1594)年8月、天下一の香炉「千鳥」を盗み出そうと、豊臣秀吉の居城、伏見城に忍び込んだ石川五右衛門だったが、香炉に手をかけた途端、警護に見つかり、あっさり逮捕される。
釜煎りの刑と決まった五右衛門。ともに捕えられた一族郎党と処刑されようとする中、彼が刑場の三条河原でとった行動とは−。
■刑場の風景
 五右衛門の終えんの地となったのは、現在の鴨川に架かる三条大橋周辺。今でこそ、きっちりとした堤防とともに美しい景観を保っているが、当時は現在の河原町通ぐらいまで石がゴロゴロしていた。
 川の流れも一定していないため、大雨でも降れば手が付けられないほどの暴れ川に変わり、周辺の家々を次々とのみ込んでいった。
 平安時代、権力を一手に握っていた白河上皇でさえも、自分の意のままにならない物のたとえとして、鴨川の水をあげていたほどだった。
 橋も今のような丈夫な構造ではなかったが、天正18(1590)年、秀吉が増田(ました)長盛に命じて石柱の橋に改修され、ほぼ今のような景観の原形ができあがっている。
 ということで、五右衛門が処刑された当時は、まだ石がゴロゴロしていた河原に真新しい大きな橋が架かっていたシーンが想像される。 
■辞世の句
 さて、刑場に着いた五右衛門だが、いっこうに動揺したような表情は見られず平然としたまま。三条大橋の下には大きな鉄釜が用意されていた。
 中に張られた湯が、釜を隠すほどに釜の下からあふれ出した火により、地獄絵図のごとくグツグツと音を立てながら煮えたぎっていた。
 橋の上や河川敷などの周囲には、大盗賊の最期を見ようと群がっていた多くの民衆の前で声高々に罪状が読まれた後、「この中に入るのだ」と役人に指さされる五右衛門。
 そこで、「カッ、カッ、カッ」と笑った五右衛門は得意満面の様子で辞世の句を詠み出した。
 石川や〜っ
 突然、「千両役者!」と周囲から拍手と歓声が起きた。五右衛門はさらに続ける。
 浜の真砂は尽きくるとも〜
 ここで少し間を置き、さらに
 世に盗人の種は尽きまじ〜っ
 拍手喝采の嵐。笑みを浮かべて満足そうに見渡す五右衛門は突然、傍らにいたわが子、五郎市を抱きかかると、一気に釜の中に飛び込んだ。
■釜煎りの刑
 グツグツの煮えたぎる熱湯の中、両手を頭上に挙げてわが子を守ろうと、必死に絶える五右衛門。生命力が強いというのか、両手でしっかりとわが子を支える五右衛門に業を煮やした役人は、熱湯の中に油を注ぐことを指示する。
 それに従い続々と油が注ぎ込まれると、「ドン」という音と黒い煙がワッとわくと同時に、ついに油が引火。さすがの五右衛門もこれには耐えきれず、すでに息絶えていた五郎市とともにズルズルと釜の中に姿が消えていった。
実は、この処刑についてはいろんな説がある。
▽わが子を長時間苦しめるのはしのびがたいと、いきなり熱湯につけた
▽釜の底があまりにも熱く、わが子を下敷きにした
▽熱さに耐えられず、泣き叫びながら沈んでいった ----- など。
 いずれにせよ、壮絶な場面には間違いない。とはいえ注がれた油は今でも天ぷらに使えそうな植物油とみられ、当時としては最高級品。高額な税金の拠出に周囲の人もあきれ顔だったとか。
 最後の最後まで権力者から金をしぼり取る。まさに伝説の大泥棒、五右衛門らしい最期だった。
(つづく)

石川五右衛門(下)

秀吉以上の人気誇った「天下の大泥棒」反権力貫き、民衆の心つかんだ名セリフ「絶景かな」

2013.7.14 07:00  産經新聞

 釜煎りの刑から約180年経た江戸時代、歌舞伎で天下の大泥棒、石川五右衛門は蘇る。「絶景かな、絶景かな」の台詞(せりふ)で知られる「楼門(さんもん)五三桐」はあまりにも有名だ。
そして敵(かたき)として狙うのは、ここでも豊臣秀吉ならぬ“真柴久吉”。権力者と反権力者。この2人はライバル関係として今も語り継がれている。
■死後、蘇る五右衛門
 ところは京都・南禅寺の山(三)門の二層目。捕り手に囲まれながらも、ゆったりと煙管をふかし、桜咲く春の景色を楽しむ派手な褞袍(どてら)姿の石川五右衛門があった。ここであの有名な台詞が飛び出す。
「 絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ 」
 そこに飛んできた1羽の鷹がくわえた書状から、五右衛門の実父は明国の高官で、養父・武智光秀を滅ぼした真柴久吉に討たれたことを知る。
 怒りに震える五右衛門。そこに突然、階下に現れた巡礼姿の久吉は五右衛門の辞世の句を詠み、五右衛門を驚かせる。
 五右衛門は久吉めがけて手裏剣を投げるも、手に持つ柄杓(ひしゃく)で受け止めた久吉は「巡礼にご報謝」と言って上の五右衛門を、そして五右衛門は下の久吉をにらみ返し、再会を約束する。
■すべて嘘とは
 「楼門五三桐」(当初は金門五三桐)の初上演は安永7(1778)年4月。だが、南禅寺三門は応仁元(1467年)年の応仁の乱で焼失し、再建されたのは寛永5(1628)年。
 ということは、五右衛門の存命当時、この門はなかったことになる。南禅寺での五右衛門と秀吉の対面は架空のものということになるが、初上演当時の世情を考えると、全てが嘘ともいえない。
 ときの老中の田沼意次(おきつぐ)は幕府の膨大な赤字解消にとった政策が、経済構造を米中心から貨幣中心への転換。さらに新しい殖産興業の奨励を図るなどして財政を立て直す。
 だが、その反動で未熟な資本主義へと移行する。この結果、一部の権力者と商人のみが肥え太り、貧富の差が広がっていく。そこに不満が募る国民の不満解消に求められたのが五右衛門だった。
 それは、秀吉が命じた朝鮮出兵で人も物も戦いにとられ、国全体が疲弊していく中、権力者や金持ちを中心に盗みを繰り返し、民衆の人気者となった存命当時の姿とどこかダブる。
■永遠のライバル
 五右衛門と秀吉が直接に顔を合わせたかどうかは別にして、天下の大泥棒と絶対権力者との一騎打ちという対決の構図は異例といっていい。
 しかし、「火のないところに煙は立たぬ」といわれるように、2人が世間がワクワクするようなライバル関係にあり、お互いに意識していたと思う。
これをもとに後世になって、伝説のごとく再現させたのが「楼門五三桐」。
 楼門上で大見えを切る五右衛門と大泥棒を捕らえようと下で待ち構える秀吉。2人には犯罪者と権力者の対決ということを忘れさせる、スカッとした侠気(おとこぎ)を感じさせる粋なかっこよさある。
×  ×  ×
 五右衛門の存在自体、あるいは釜煎りの刑などについて、当時の貴族の日記や日本に滞在した外国の商人や宣教師が残した記録などには紹介されていて、事実だったことが確認されている。
 五右衛門の墓は京都・東山の大雲院(通常非公開)に建つ鉾形の「祇園閣」のそばにある。
 「融仙院良岳寿感禅定門」という戒名を持つ。戒名は信仰に厚かった人、寺や社会に貢献した人に与えられることから、盗賊とはいえ“貢献有り”ということになるのだろうか。果たして、どの分野で?
(おわり)

宮本武蔵(上)

宿敵・吉岡清十郎を木刀で一撃…定説は真実か 
ドラマでおなじみ歴史的決闘を“検証”

2013.6.9 07:00  産經新聞

 剣の修業のため諸国を巡る一介の武芸者、宮本武蔵が室町時代に将軍家の兵法指南役を務めた吉岡道場に挑む。

第1ラウンドで武蔵に門弟が打ち負かされた吉岡道場は「これでは名門の意地が立たない」とついに当主の清十郎が立った。決闘の場は京の北の果て、蓮台野。いよいよ因縁の対決の第2ラウンドのゴングが鳴った。

葬送の地で
 ふたりの決闘の地、蓮台野は、東には船岡山、南には北野天満宮、西には金閣寺があり、その間に挟まれるように広がる。昔から清水寺周辺の鳥辺野(とりべの)、嵯峨野の奥の化野(あだしの)と並ぶ葬送の地として知られている。

 現在、蓮台野を通る南北道「千本通」の名前は蓮台野に並んでいた卒塔婆(そとば)の数から来ているともいわれている。その千本通沿いに建つ上品(じょうぼん)蓮台寺の墓地にはたくさんの墓石とともに卒塔婆が並ぶ。

 その近くの引接(いんじょう)寺(=千本ゑんま堂)の本堂に描かれた地獄絵図は、武蔵と同じ時代に狩野光信によって描かれたとされている。

 弱冠21歳の武蔵が対決の相手に選んだ吉岡道場。清十郎が不在だったという道場で門弟をコテンパンに倒した後、武蔵は清十郎に挑戦状を送り、五条大橋に決闘の高札を立てる。それを受けた清十郎。

 それ以来、2人は「生か死があるのみ」と思っていたかもしれない。まさに蓮台野は決闘の地にふさわしい。

■一撃で決する
 慶長9(1604)年の春とされる決闘の日、早朝から蓮台野にひとり立ち武蔵を待つ清十郎。多くの門弟が遠くで見守っていたに違いない。だが、約束の時刻になっても武蔵は姿を見せない。
 時はジリジリと過ぎていくばかりで、清十郎は気があせる一方だった。
 「遅い」。長時間、異常なまでの緊張感に耐え続けた清十郎の我慢も限界に来ていたちょうどそのとき、武蔵が何処からともなく目の前に現れたのだ。
 あまりの突然。虚をつかれたかたちの清十郎だったが、気を取り直して、「刻限に遅れるとは。武蔵、臆したか!!」と刀を振り上げた。
 だが武蔵の手の方が一瞬早かった。手に握りしめた木刀が清十郎を一撃で倒した。腕の骨が砕け、もんどりうつ清十郎。
 周囲に門弟の気配を感じた武蔵は勝利の余韻に浸る間もなく、すぐにその場から立ち去った。
■この勝負、真偽は…
 武蔵の養子、伊織が書いた「小倉碑文」には蓮台野の決闘のことが描かれている。そこには、木刀で清十郎を破るが、一撃という約束のため、そのまま立ち去るという、小説やドラマでよく見る内容になっている。
 ところが吉岡側の記録を見ると、吉岡家は武蔵と対戦はしているものの清十郎の名はなく、場所も蓮台野と違い京都所司代の前。しかも武蔵が吉岡に眉間(みけん)を打たれて出血している。
 でもこの勝負は引き分けという意見が出たため、吉岡側が再戦を申し出るも武蔵は断る。その代わりに別の人物との対戦を望んだ武蔵だが、その日は現れず不戦敗になった−などとなっている。                
 ×  ×  ×
 どちらも身内の手柄話のようなものになっているので、どちらもどちらということだろう。だが、武蔵が晩年に著したとされる「五輪書」の「数度の勝負をけつすといえども、勝利を得ざる事なし」という記述は信じたい。
 この書自体の真偽にも諸説あるが、信じなければこれほどに知れ渡った剣豪の人格をも否定するような気がしてしまうから。
(つづく)

宮本武蔵(中)

1人で吉岡一門と対峙した20歳剣豪の孤独 
心癒やした本阿弥光悦と吉野太夫
2013.6.16 07:00  産経新聞

 京の北の果ての蓮台野で京都随一の兵法家、吉岡家の当主、清十郎を木刀の一撃で倒した宮本武蔵は吉岡の門弟に目もくれず走り去る。

このように殺伐とした剣の道しか知らない武蔵だが、この直後に第一級の文化人から心温まるもてなしを受けることになる。そこに牙をむく吉岡一門。わずかに風雅の心を芽生えさせる剣豪の、その先に待っていたものは−。

■文化人との出会い

 必死に走る武蔵は、決闘の場からどれだけ離れただろう。明るく開けた野原に出たところで、野草摘みをする老尼と出会う。

 老尼に優しく接しようとするのだが、さきほどまで吉岡との死闘をかいくぐってきた武蔵である。すぐに異様な殺気を感じた老尼はふるえながら武蔵を遠ざけようとする。

 そこに現れたのが老尼の子で、当代きっての文化人の本阿弥光悦だった。

 本阿弥家といえば、室町時代、将軍の刀剣の鑑定人として知られる名家で、光悦はあらゆる工芸、書画に通じていた一流の文化人だった。

 光悦のもてなしに心和ませる武蔵は、この世に穏やかな世界があることに気づく。

■本当のような−

 決闘の直後の光悦と武蔵の出会いはテレビドラマや映画で見るシーンだが、2人の出会いを記した文書は何ひとつ残っていない。とはいえ、すべてが創作ともいえない。

 20代前半の武蔵に対し光悦は40代後半。公卿で歌人の烏丸光広は2人共通の知り合いであり、出会ってもおかしくない組み合わせである。

 しかも当時、光悦の住まいがあった今の今出川交差点付近と、2人が決闘した蓮台野とはそんなに離れていない。

2人の決闘のことは承知していただろう光悦の前に突然、武蔵が現れたことで、今がどういう状況なのかということは十分に理解できていたと思われる。

 武蔵の殺気を見逃す光悦ではない。武蔵の心を和らげ、吉岡の目を欺こうとする光悦は六条三筋町の花街へ誘う。

 六条三筋町は幕末に新選組らが通った島原遊郭の前身。武蔵は一度はためらうも光悦の心遣いを知り、意に従って門をくぐる。そしてここで吉野太夫と知り合う。

■伝七郎との戦い

 武蔵は吉岡道場との一乗寺下り松の最終決戦前に清十郎の弟、伝七郎と戦ったとされている。「三十三間堂の決闘」である。

 小説や映画では、遊郭を夜にひとり抜け出て、三十三間堂で伝七郎を瞬時に木刀で撲殺した後、何事もなく再び遊郭に戻る。

 先ほどとは気配の違う武蔵を見て、伝七郎との戦いを見抜いた吉野太夫は愛用の琵琶を自らの手で壊すことで、暴力のむなしさを武蔵に説こうとする。

 このあたりも創作の域を出ない。武蔵の養子、伊織の記録には洛外で戦ったと記されているのみで、三十三間堂の名前は見えないからだ。

 作家、福住道祐が著した「吉岡伝」では、清十郎と引き分けて伝七郎が再戦相手に指名されるも、武蔵が姿をみせなかったため不戦勝ちしたとされる。

 ただ、負けっ放しの武蔵では、吉岡側もむきになって戦うことはないはず。やはり強い武蔵あっての一連の戦いだろう。

×  ×  ×

 2人の後継ぎを失った吉岡道場は「天下一の剣法が武蔵に敗北した汚名は、是が非でも武蔵を倒して返上する」と、総力で武蔵と最終決戦に臨むことを決意する。

 吉岡道場から武蔵のもとに果し状が届く。吉岡が指定した決戦の場は洛東の外れ、一乗寺下り松。そして果し状の最後には、「時刻厳守」と書かれていたという。

(つづく)


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