歴史

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索
首と手が瞬時に飛び、血しぶき噴き上げる遺体…魔術に入れあげ、家臣に切られた細川政元の壮絶な最期

 2013.11.3 07:00 産經新聞

 国内を戦乱に巻き込んだ応仁の乱の終結から30年経た永正4(1507)年6月23日、室町幕府のナンバー2、細川政元が自宅の湯殿で家臣に殺害された。

将軍の権威が失墜する中、権謀術数を駆使して将軍の首をすげ替えて実権を握った政元だったが、実はこの事件、政元が意外なものに熱中するあまりに起きたたとする見方もある。その意外なものというのが天狗(てんぐ)顔負けの魔術だった。

■消えた総大将

 政元暗殺の2カ月前、幕府創設以来、重職を担ってきた一色(いっしき)氏の家督相続にからむ争いを機に領地を奪おうと政元軍が一色氏の当主、義有(よしあり)の籠城する丹後・今熊野城で交戦中のときのこと。政元の陣営から大声が響き渡った。

 「殿が『奥州へ修行の旅に出る』と言ったまま陣を出てゆかれた。これからどうすればよいのか…」

 魔術に魅せられるあまりに「ご禁制」の女人は近づけず、修行を生活に取り入れる政元のこのような行動は、以前にもみられた“癖”だった。

 8代将軍、足利義政の時代に力を伸ばした義直(よしなお)が亡くなり、分家出身の義有が後を継いで起きた一色氏の権力争い。この機に乗じて隣国・若狭の守護、武田氏が義有を攻めると、政元も養子の澄之、澄元を派遣する。

 ついには政元まで出陣して、戦いは一進一退ながらも優勢に進めていただけに陣営のショックは相当なもの。総大将の失踪で戦線も維持できず、2人の養子もオロオロするばかり。そして当の政元も数人の供を連れて山伏姿で丹後、若狭あたりを右往左往するありさまだった。

 その後、馬で追いかけてきた重臣、薬師寺長忠らの説得によって陣に戻ることを渋々承知した政元だったが、このときあたりから家臣の間に政元に対する明確な殺意が芽生えていく。

■得意技は「飯綱(いづな)の法」

 戦国時代の合戦記「足利季世記(きせいき)」によると、政元について「40歳ごろまで女人禁制にし、魔法飯綱の法愛宕(あたご)の法を行い」などと紹介されている。

 「飯綱の法」や「愛宕の法」は超能力者になるための方法。天狗(てんぐ)にあこがれた政元は予言だけでなく、妖獣・管キツネを使って人に悪霊を憑依させて病気にする呪術(じゅじゅつ)的な力を持つこの行法にご執心だった。

 本人はかつて、陰謀を駆使して政敵の畠山政長を重用する第10代将軍・足利義稙(よしたね)から第11代の義澄にすげ替えたが、この際、政長を自害に追い込んだのは、飯綱の法のおかげだと思っている節がある。

 これで自信を持った政元は今まで以上に魔術にのめり込む。しかし、この能力を身につけるには3年の山ごもりと女っ気を絶つことが必要で、問題山積の幕府の実質的な最高権力者の彼に山ごもりの余裕があるはずもない。

 政元はずっと戦い続けてきた。特に明応8(1499)年、前将軍に味方する比叡山延暦寺の大規模な焼き打ちは織田信長以上とされる。大和や紀伊などに侵攻して勢力も広げてきた。

 そこに一色氏との戦い。長い戦いの日々に嫌気を差してきたのか。加えて魔術への憧れ。そんな気持ちが現実から逃避し、足を修験道の聖地、奥州へと向かわせることになったのかもしれない。

■天狗、降臨せず

 戦いの最中に失踪した政元だったが、戦場に戻ってきた政元は精力的に采配を振るった。そんなとき、都に戻れとの後柏原天皇の勅旨(ちょくし)が送られてきた。5月31日が3代将軍、義満の命日で、それとかかわりがあるのだろうか。
5月29日に帰京する。

 そして6月23日。京の細川屋敷。この日は食を絶ち身を清める日。夕方、行水を行うべく白衣姿で湯殿へ向かい、気持ちを落ち着けて行に入ろうとした。

 すると、「バーン」と戸板が蹴り破られ、刀を持った覆面姿の男が数人、政元の前に立ちはだかる。

 「何者じゃ」。政元は声をあげる。政元の妖しいまでの気迫に気後れした侵入者だったが、1人が「化け物、死ねっ」と刃を振りおろす。すると、政元の行衣がみるみる間に血に染まった。

 身を崩した政元だが、抵抗をやめない。そこで別の男が襲うと、政元は手と首が瞬時に切り落とされ、噴水のようにあがる血しぶきで床一面、真っ赤な血に染まった。

 犯人は政元の養子、細川澄之の補佐役・香西元長とその手下・竹田孫七、それに薬師寺長忠とされる。もう1人の養子・澄元に肩入れし、天狗ばりの魔術に熱中する政元への反感が背景にあったようだ。

 政元の墓は細川家の菩提(ぼだい)寺、龍安寺(京都市右京区)にある。

(つづく)


山伏・天狗・魔術で権力つかんだ室町幕府 ” 細川マジカル大名 ” の天才的謀略センス

 2013.11.10 07:00 産經新聞

 魔術に熱中する余りに家臣から見放され、ついには湯殿で行(ぎょう)に入る直前、首を切られて殺された室町幕府管領、細川政元。子供のときから父・勝元も認める知略を駆使して将軍以上の権力を持ち、「半将軍(はんしょうぐん)」と恐れられた存在だった。そんな彼がどのように魔術に魅せられ、権力をつかんでいったのか。誕生から姿を追ってみた。

■興仙(こうせん)と政元

 まだ明るさの残る夕刻とはいえ、闇夜の迫る中での湯殿は相当に暗い。だが、政元が着用していた白衣はかすかな光でも反射するため、どこにいるかは相手にはわかりやすかった。それに加えて丸腰。

 一方、犯人の香西元長らは覆面をした黒ずくめの衣装。行に集中しようとしているときに暗がりで不意を突かれては、武術でも相当の腕前を持つ政元とはいえ、反撃が難しかったことは想像できる。

 政元の武術の師匠は、天狗(てんぐ)並みの能力を持っていたとされる山伏の司箭院(しせんいん)興仙。本名は安芸国の武将、宍戸家俊で、空を自由自在に飛んだという伝説も残る。

 明応3(1494)年9月24日、興仙の噂を聞いた人物が正体を確かめようと東福寺の僧と鞍馬(くらま)にいる興仙を訪ねたところ、先に政元がいたというから、それ以前から関係があったようだ。

 また政元は京都の修験道の中心寺院・聖護院の道興(どうこう)らともつながりをもっていた。山伏に密偵として諸国の情報収集をさせていたらしく、単なる“好きもの”だけでは終わらない、策士の一面ものぞかせている。

■応仁の乱と政元

 なぜ、政元は魔術にのめり込んでいったのか?

 政元は応仁の乱勃発の前年、文正元(1466)年の生まれ。つまり生まれながらにして乱世しか知らないのである。

 将軍家や、それに続く斯波(しば)、畠山の管領家らの起こす家督相続争いが全国に波及した応仁の乱。

 政元の父・勝元は東軍の将として、今の上京区の堀川通近くを南北に流れる小川を隔てて、対面するように屋敷のあった山名宗全を将とする西軍と10年間も血みどろの戦いを続けた。

 8歳から家督を継ぎ、子供のときから焼け落ちた家々や死体の山を見てきた政元にとって戦いに勝ち抜くことこそがすべて。そのためには優れた予見能力と並外れた武力、知略を持つ必要に駆られたのだろう。

 この時代の武士は出陣の時期などを占いなどで決めていたケースが多く、運勢など超自然的現象に頼っていたのは政元に限ったことではない。

 ただ天狗に憧れ、天狗になることを夢見た政元が自分自身に課した行は厳格だった。「法力が衰える」と、女人を近づけなかったのは毘沙門天(びしゃもんてん)を強く信仰した上杉謙信も同じ。

 政元が女人を遠ざけたもうひとつの理由として重臣の薬師寺元一と男色関係にあったとする公家の日記も残るが、武田信玄に高坂弾正(こうさかだんじょう)、織田信長には森蘭丸と強い武将のそばには必ずといっていいほど、美青年を置いている。

 つまり、女っ気のない戦場では男色があってもおかしくなく、政元が根っからの女嫌いだったかどうかについては、実際はわからない。

■半将軍、政元

 政元が20歳代のころ、管領家の畠山氏に政長という50歳前後の勇猛な武将とライバル関係にあった。

 その政長が畠山氏の後継者争いで、応仁の乱の直接の原因となった上御霊(ごりょう)神社(京都市上京区)での義就(よしなり)との戦いの因縁が、25年ときを経て再び勃発する。

 明応2(1493)年2月15日、義就亡き後、息子の義豊と決着をつけようと自分の手中にあった第10代将軍・義稙(よしたね)と河内へ出陣した。

 ここで政元はクーデターを起こす。2人が戦いに没頭する隙に幕府の影の支配者で、8代将軍・義政の正室、日野富子と共謀して天龍寺の僧、清晃(せいこう)(足利義澄(よしずみ))を次期将軍に擁立したのだ。

 清晃は将軍に関東の治安を任されていた堀越公方、足利政知の子。9代将軍の義尚(よしひさ)の死後、政元が後継者に推すも、政長の推す義稙に敗れた経緯がある。

 それだけに政元の執念の深さも相当なもの。義稙を追放して、義澄を将軍の座に据えると自分は管領に収まる。その結果、孤立無援となった政長は自害へと追い込まれた。

 畠山政長が消え、3年後に日野富子も亡くなる。第11代将軍・足利義澄も自分の意のままとなった今、政元の前を行く者がいなくなった。

 政元の知略が冴え、あまりにもうまく進んだクーデター。世間の皆々は実質の最高権力者となった政元を「半将軍」と呼んだ。だが政元は少なくとも自分の力で得た勝利とは思っていなかった。

 天狗の行法のおかげだと思っていたのだ。

(つづく)


山伏・天狗・魔術で権力つかんだ室町幕府 ” 細川マジカル大名 ” の天才的謀略センス

 2013.11.10 07:00 産經新聞

 魔術に熱中する余りに家臣から見放され、ついには湯殿で行(ぎょう)に入る直前、首を切られて殺された室町幕府管領、細川政元。子供のときから父・勝元も認める知略を駆使して将軍以上の権力を持ち、「半将軍(はんしょうぐん)」と恐れられた存在だった。そんな彼がどのように魔術に魅せられ、権力をつかんでいったのか。誕生から姿を追ってみた。

■興仙(こうせん)と政元

 まだ明るさの残る夕刻とはいえ、闇夜の迫る中での湯殿は相当に暗い。だが、政元が着用していた白衣はかすかな光でも反射するため、どこにいるかは相手にはわかりやすかった。それに加えて丸腰。

 一方、犯人の香西元長らは覆面をした黒ずくめの衣装。行に集中しようとしているときに暗がりで不意を突かれては、武術でも相当の腕前を持つ政元とはいえ、反撃が難しかったことは想像できる。

 政元の武術の師匠は、天狗(てんぐ)並みの能力を持っていたとされる山伏の司箭院(しせんいん)興仙。本名は安芸国の武将、宍戸家俊で、空を自由自在に飛んだという伝説も残る。

 明応3(1494)年9月24日、興仙の噂を聞いた人物が正体を確かめようと東福寺の僧と鞍馬(くらま)にいる興仙を訪ねたところ、先に政元がいたというから、それ以前から関係があったようだ。

 また政元は京都の修験道の中心寺院・聖護院の道興(どうこう)らともつながりをもっていた。山伏に密偵として諸国の情報収集をさせていたらしく、単なる“好きもの”だけでは終わらない、策士の一面ものぞかせている。

■応仁の乱と政元

 なぜ、政元は魔術にのめり込んでいったのか?

 政元は応仁の乱勃発の前年、文正元(1466)年の生まれ。つまり生まれながらにして乱世しか知らないのである。

 将軍家や、それに続く斯波(しば)、畠山の管領家らの起こす家督相続争いが全国に波及した応仁の乱。

 政元の父・勝元は東軍の将として、今の上京区の堀川通近くを南北に流れる小川を隔てて、対面するように屋敷のあった山名宗全を将とする西軍と10年間も血みどろの戦いを続けた。

 8歳から家督を継ぎ、子供のときから焼け落ちた家々や死体の山を見てきた政元にとって戦いに勝ち抜くことこそがすべて。そのためには優れた予見能力と並外れた武力、知略を持つ必要に駆られたのだろう。

 この時代の武士は出陣の時期などを占いなどで決めていたケースが多く、運勢など超自然的現象に頼っていたのは政元に限ったことではない。

 ただ天狗に憧れ、天狗になることを夢見た政元が自分自身に課した行は厳格だった。「法力が衰える」と、女人を近づけなかったのは毘沙門天(びしゃもんてん)を強く信仰した上杉謙信も同じ。

 政元が女人を遠ざけたもうひとつの理由として重臣の薬師寺元一と男色関係にあったとする公家の日記も残るが、武田信玄に高坂弾正(こうさかだんじょう)、織田信長には森蘭丸と強い武将のそばには必ずといっていいほど、美青年を置いている。

 つまり、女っ気のない戦場では男色があってもおかしくなく、政元が根っからの女嫌いだったかどうかについては、実際はわからない。

■半将軍、政元

 政元が20歳代のころ、管領家の畠山氏に政長という50歳前後の勇猛な武将とライバル関係にあった。

 その政長が畠山氏の後継者争いで、応仁の乱の直接の原因となった上御霊(ごりょう)神社(京都市上京区)での義就(よしなり)との戦いの因縁が、25年ときを経て再び勃発する。

 明応2(1493)年2月15日、義就亡き後、息子の義豊と決着をつけようと自分の手中にあった第10代将軍・義稙(よしたね)と河内へ出陣した。

 ここで政元はクーデターを起こす。2人が戦いに没頭する隙に幕府の影の支配者で、8代将軍・義政の正室、日野富子と共謀して天龍寺の僧、清晃(せいこう)(足利義澄(よしずみ))を次期将軍に擁立したのだ。

 清晃は将軍に関東の治安を任されていた堀越公方、足利政知の子。9代将軍の義尚(よしひさ)の死後、政元が後継者に推すも、政長の推す義稙に敗れた経緯がある。

 それだけに政元の執念の深さも相当なもの。義稙を追放して、義澄を将軍の座に据えると自分は管領に収まる。その結果、孤立無援となった政長は自害へと追い込まれた。

 畠山政長が消え、3年後に日野富子も亡くなる。第11代将軍・足利義澄も自分の意のままとなった今、政元の前を行く者がいなくなった。

 政元の知略が冴え、あまりにもうまく進んだクーデター。世間の皆々は実質の最高権力者となった政元を「半将軍」と呼んだ。だが政元は少なくとも自分の力で得た勝利とは思っていなかった。

 天狗の行法のおかげだと思っていたのだ。

(つづく)


山伏・天狗・魔術で権力つかんだ室町幕府 ” 細川マジカル大名 ” の天才的謀略センス

 2013.11.10 07:00 産經新聞

 魔術に熱中する余りに家臣から見放され、ついには湯殿で行(ぎょう)に入る直前、首を切られて殺された室町幕府管領、細川政元。子供のときから父・勝元も認める知略を駆使して将軍以上の権力を持ち、「半将軍(はんしょうぐん)」と恐れられた存在だった。そんな彼がどのように魔術に魅せられ、権力をつかんでいったのか。誕生から姿を追ってみた。

■興仙(こうせん)と政元

 まだ明るさの残る夕刻とはいえ、闇夜の迫る中での湯殿は相当に暗い。だが、政元が着用していた白衣はかすかな光でも反射するため、どこにいるかは相手にはわかりやすかった。それに加えて丸腰。

 一方、犯人の香西元長らは覆面をした黒ずくめの衣装。行に集中しようとしているときに暗がりで不意を突かれては、武術でも相当の腕前を持つ政元とはいえ、反撃が難しかったことは想像できる。

 政元の武術の師匠は、天狗(てんぐ)並みの能力を持っていたとされる山伏の司箭院(しせんいん)興仙。本名は安芸国の武将、宍戸家俊で、空を自由自在に飛んだという伝説も残る。

 明応3(1494)年9月24日、興仙の噂を聞いた人物が正体を確かめようと東福寺の僧と鞍馬(くらま)にいる興仙を訪ねたところ、先に政元がいたというから、それ以前から関係があったようだ。

 また政元は京都の修験道の中心寺院・聖護院の道興(どうこう)らともつながりをもっていた。山伏に密偵として諸国の情報収集をさせていたらしく、単なる“好きもの”だけでは終わらない、策士の一面ものぞかせている。

■応仁の乱と政元

 なぜ、政元は魔術にのめり込んでいったのか?

 政元は応仁の乱勃発の前年、文正元(1466)年の生まれ。つまり生まれながらにして乱世しか知らないのである。

 将軍家や、それに続く斯波(しば)、畠山の管領家らの起こす家督相続争いが全国に波及した応仁の乱。

 政元の父・勝元は東軍の将として、今の上京区の堀川通近くを南北に流れる小川を隔てて、対面するように屋敷のあった山名宗全を将とする西軍と10年間も血みどろの戦いを続けた。

 8歳から家督を継ぎ、子供のときから焼け落ちた家々や死体の山を見てきた政元にとって戦いに勝ち抜くことこそがすべて。そのためには優れた予見能力と並外れた武力、知略を持つ必要に駆られたのだろう。

 この時代の武士は出陣の時期などを占いなどで決めていたケースが多く、運勢など超自然的現象に頼っていたのは政元に限ったことではない。

 ただ天狗に憧れ、天狗になることを夢見た政元が自分自身に課した行は厳格だった。「法力が衰える」と、女人を近づけなかったのは毘沙門天(びしゃもんてん)を強く信仰した上杉謙信も同じ。

 政元が女人を遠ざけたもうひとつの理由として重臣の薬師寺元一と男色関係にあったとする公家の日記も残るが、武田信玄に高坂弾正(こうさかだんじょう)、織田信長には森蘭丸と強い武将のそばには必ずといっていいほど、美青年を置いている。

 つまり、女っ気のない戦場では男色があってもおかしくなく、政元が根っからの女嫌いだったかどうかについては、実際はわからない。

■半将軍、政元

 政元が20歳代のころ、管領家の畠山氏に政長という50歳前後の勇猛な武将とライバル関係にあった。

 その政長が畠山氏の後継者争いで、応仁の乱の直接の原因となった上御霊(ごりょう)神社(京都市上京区)での義就(よしなり)との戦いの因縁が、25年ときを経て再び勃発する。

 明応2(1493)年2月15日、義就亡き後、息子の義豊と決着をつけようと自分の手中にあった第10代将軍・義稙(よしたね)と河内へ出陣した。

 ここで政元はクーデターを起こす。2人が戦いに没頭する隙に幕府の影の支配者で、8代将軍・義政の正室、日野富子と共謀して天龍寺の僧、清晃(せいこう)(足利義澄(よしずみ))を次期将軍に擁立したのだ。

 清晃は将軍に関東の治安を任されていた堀越公方、足利政知の子。9代将軍の義尚(よしひさ)の死後、政元が後継者に推すも、政長の推す義稙に敗れた経緯がある。

 それだけに政元の執念の深さも相当なもの。義稙を追放して、義澄を将軍の座に据えると自分は管領に収まる。その結果、孤立無援となった政長は自害へと追い込まれた。

 畠山政長が消え、3年後に日野富子も亡くなる。第11代将軍・足利義澄も自分の意のままとなった今、政元の前を行く者がいなくなった。

 政元の知略が冴え、あまりにもうまく進んだクーデター。世間の皆々は実質の最高権力者となった政元を「半将軍」と呼んだ。だが政元は少なくとも自分の力で得た勝利とは思っていなかった。

 天狗の行法のおかげだと思っていたのだ。

(つづく)


信長上回る「非道ぶり」発揮 「下克上・戦乱の世」告げた
細川政元の死

 2013.11.17 07:00 産經新聞

 天狗(てんぐ)の法を修行しながら家臣の謀反を予見できず風呂場で殺害された“魔法半将軍”、細川政元。修験道におぼれたとはいえ、幼少時から父・勝元も認めた知略を駆使して幕府を牛耳ってきた政元が突然に消えた影響は大きく、細川管領家(京兆(けいちょう)家)、さらには足利将軍家で家督争いが再燃。このいざこざが全国に波及し、再び長い戦国へ世と突入していく。

■連戦連勝

 室町幕府第11代将軍、足利義澄(よしずみ)の管領に就任して以降の政元の戦いぶりは周到で、その上、すさまじいものだった。

 政元の追っ手から逃れて北陸で勢力を拡大した前将軍・義稙(よしたね)が明応8(1499)年、加賀国守護・富樫氏ら北陸勢とともに近江まで攻めのぼってきたときのこと。

 7月、義稙が延暦寺を味方につけたのを知ると、政元は比叡山に兵を送って焼き打ちにし、根本中堂や常行堂、法華堂など山上の堂を焼き尽くすといった非道ぶりをみせる。

 この70年後、織田信長の比叡山焼き打ちのときは山上に堂も少なく殺風景だったといわれるほど、政元軍の行為は徹底していた。

 さらに9月には義稙に呼応し、かつて政元の術中に陥って切腹した畠山政長の子、尚順(ひさより)が河内で挙兵。同じ畠山家ながら応仁の乱で分裂して以来、政元と同盟関係にあった畠山義豊の守備ラインを突破する勢いをみせた。

 だが、政元は尚順をあっさり破る。すると逆に尚順が逃げた大和へと攻め込んで、地元の武将をことごとく撃破する。
一方、友好関係にあった本願寺の第9世・実如にも呼びかけ、一向一揆(いっこういっき)による北陸の義稙派大名への攻撃も演出している。

■内部分裂

 連戦連勝で細川管領家の勢力は大幅に拡大するなど戦(いくさ)上手ぶりを発揮した政元だったが、いざ自分の家督相続問題に関しては禍根を残したまま。

 「女人を近づけると法力が薄れる」などと言って独身を通していた政元は文亀2
(1502)年、摂関家の九条家から澄之(すみゆき)を養子に迎えた。

 これで問題は一件落着するはずだったが、「武家の名門・細川の後継ぎが公家出身では…」とでも思ったのか。翌年には、分家の阿波細川氏から澄元(すみもと)を養子とし、澄之の相続権を奪ってしまう。

 さらには軍事面で政元から信頼を勝ち得た澄元の補佐役・三好之長(ゆきなが)が京兆家内で実権を握る。これでは澄之派の家臣と、長年、政元に仕えてきた重臣らは収まらない。

 分家の野州細川家から養子として迎えた高国もまじえて細川京兆家は三つどもえの抗争を展開。この果てに待っていたのが、政元の暗殺だった。

 2人の事件の主犯格のうち薬師寺長忠は政元に仕える重臣だが、政元と三好の急接近に焦りを覚え、澄之の補佐役、香西元長は澄之の家督相続の可能性のないことを悲観しての犯行とみられている。

■戦国の世へ

 応仁の乱後、権威が大きく揺らぎ始めた幕府も、政元が勝つことで何とか秩序は保たれてきた。だが政元の暗殺を機に再び混乱の世へと動き出す。

 政元を殺害した薬師寺長忠や香西らは、ライバル関係にあった澄元を攻めて京から追い出すと、京兆家は澄之が継ぐ。

 だが、高国と同盟を結んだ澄元は再び京を攻撃すると、澄之は8月1日に自殺し、細川本家は澄元の手に入る。これで勢いを増した三好之長だが、横暴を極めた政治に不満を持つ家臣は高国のもとへ集まる。

 そして高国が前将軍・足利義稙を擁して澄元との戦いに勝つと、永正5(1508)年、義稙を将軍に復帰させ、高国が京兆家を継ぐ。

 政元の死から1年。この間、京兆家の家督は、澄之−澄元−高国とめまぐるしく交代した。その後も高国と澄元の争いは京都の如意ヶ岳や船岡山などを舞台に続く。

 特に永正8(1511)年8月23日の船岡山合戦では、2万の兵を率いた高国勢が澄元らの陣取る船岡山に夜襲を掛けると、澄元は総崩れ。高国の挙げた首は3800といわれるほどに壮絶を極めた。

 夜な夜なこの時の霊が今でも戦場を徘徊(はいかい)するといった話も聞く。

            ×  ×  ×

 政元の死後、細川京兆家は争乱の末に当主がコロコロ替わるが、京兆家の手のひら上で転がされた将軍もコロコロと代替わり。まさに下克上、戦国の世。

 そのさきがけとなったのが、政元が強引に義稙から義澄へ将軍職を入れ替えた明応2(1493)年のクーデターだとする説が強い。

(おわり)



 武蔵は70歳の小次郎と対戦したのか?…史料から見る「決闘・名場面」疑念の数々
2014.8.17 07:00  産經新聞 

 「臆したか!!」と鞘(さや)を投げ捨てる小次郎。「はや散るを急ぐか」と武蔵。慶長17(1612)年4月、関門海峡に浮かぶ巌流島で諸国武者修行中の宮本武蔵が小倉藩剣術師範の佐々木小次郎に挑んだ、よく知られる決闘の一場面だ。

 戦いは長さ1メートルという小次郎の剣をかわして、舟の櫂(かい)を削り作った木刀を小次郎の頭に振り落とした武蔵の勝利とされてきた。だが、実在しながら謎の部分が多い武蔵と小次郎だけに、この決闘にも数々の伝説が生まれている。いったいどこまでが本当なのか。まずは一般に知られている話から。
■  またしても
 巌流島の決闘は諸国をめぐって武者修行中で、8年前には京都で天下の兵法家・吉岡一門を破るなど向かうところ敵無しの武蔵が、豊前・小倉藩主の細川忠興に剣術師範として仕える天才剣士・小次郎に挑むという構図になっている。
 武蔵の父・新免無二(しんめんむに)と交流のある細川家の家老、長岡佐渡を通じて武蔵が試合を申し込んだといい、誰も2人の対決に差し挟むことがないよう、海に囲まれた巌流島が選ばれた。
現在の山口県下関市と福岡県北九州市に挟まれ、潮流の早い関門海峡の中、巌流島は下関・彦島江の浦から東250メートルに浮かぶ。正式には「舟島」と呼ばれる広さ1万7千平方メートルの無人島で、ほぼ平らな地形になっている。
 武蔵と小次郎が対決したのは慶長17年4月13日とも。島には陣幕が張られ、小次郎ほか検分役として長岡佐渡ら数人の小倉藩士がいた。だが、試合時刻の午前7時が過ぎても下関側から舟に乗って来るはずの武蔵の姿がいっこうに見えない。
 吉岡道場の当主・清十郎と京都・蓮台野で戦ったときも遅刻したことは知っているはずなのに、これが勝負を目前にしている者の心境なのだろう。どうしてもいらだちをおさえ切れない小次郎の姿があった。
 すでに小次郎も清十郎と同様に武蔵の術中にはまっていたのだ。
■  木刀の理由(わけ)
 長岡佐渡も武蔵のいる下関・赤間が関の回船問屋の屋敷に様子見の使者を送ってはいるが、試合開始時刻のころに武蔵は朝食をとっていたらしく、巌流島に姿を現したのは午前9時ごろとされる。
清十郎との戦いでは1時間余りの遅れだったのに対して、今回の小次郎との一戦ではなんと2時間も遅れたことになる。
 到着するなり、ゆっくり舟から裸足でおりた武蔵が手に持っていたのは木刀だった。回船問屋の屋敷を出る前に古い櫂を譲り受け、島に着くまでの間、小刀で使えるまでの細さに削っていたのだ。
 武蔵を見ると武蔵の近くまで走り寄る小次郎。ようやく対戦相手がきたということもあろうが、小次郎も優れた兵法者。波打ち際で足を海水につけたままで動きの鈍い武蔵と有利に戦いたかったのだ。
 「臆したか武蔵!!」と刀を抜き、鞘を投げ捨てた小次郎。「勝つつもりならばなぜ鞘を捨てる。はや散るを急ぐか」と不敵な笑みを見せる武蔵。2人は距離を保ちつつ海岸線沿いに走り出した。
 そこに突然、武蔵目がけて小次郎の剣が横一文字に切り裂く。ここで小次郎は武蔵が少し後ろにさがって剣を避けるところを見て剣を切り返えそうとしたが、パッと武蔵の姿が視界から消えると、小次郎の頭に衝撃が走った。ここで勝負は決まった。
武蔵の木刀の長さは140センチ近くあったとされている。刀の平均の長さが70センチ前後といわれた当時、「物干しざお」といわれた約1メートルの小次郎の剣よりもさらに長い。小次郎は勝負の焦りの中で、木刀の長さまでは見抜いていなかったとみられる。
■  異説? 武蔵vs老人
 ドラマや小説などで見る宮本武蔵と佐々木小次郎の姿は、このような、いずれも壮健な若き剣豪といったイメージが強い。だが資料によってはそんなイメージも吹っ飛ぶことになる。
 特に小次郎については甚だしい。ほとんどの資料に佐々木姓はなく、岩流とか小次郎とか。あるいは上田宗入という謎の名前も出てくる。
 また、決闘当時の年齢だが、武蔵は19歳〜29歳とされる一方、細川家筆頭家老の兵法師範が著した通り小次郎が冨田勢源の弟子というならば、勢源が大永3(1523)年の生まれとされるため、武蔵は50歳代から70歳代の小次郎と対決したことになる
もうひとつの説、勢源門下の鐘捲自斎(かねまきじさい)の弟子ということならば、武蔵より少々年上の中年の域におさまるが、いずれにせよ「小次郎=美青年剣士」のイメージは崩れる。
 このほか、巌流島の戦いには、小倉藩に召し抱えられた2人の剣術師範の優劣を巡り、二刀流の武蔵か、それとも岩流兵法の小次郎かで、両者の弟子が起こしたいざこざがもとで行われたという説がある。
 こうなると、決闘当時は武者修行中だったと思われていた武蔵が細川の家臣だったということになる。まあいえば、身内の派閥争いのような…。あまりにさえない話ではある。
(つづく)


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事