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首と手が瞬時に飛び、血しぶき噴き上げる遺体…魔術に入れあげ、家臣に切られた細川政元の壮絶な最期
2013.11.3 07:00 産經新聞 国内を戦乱に巻き込んだ応仁の乱の終結から30年経た永正4(1507)年6月23日、室町幕府のナンバー2、細川政元が自宅の湯殿で家臣に殺害された。 将軍の権威が失墜する中、権謀術数を駆使して将軍の首をすげ替えて実権を握った政元だったが、実はこの事件、政元が意外なものに熱中するあまりに起きたたとする見方もある。その意外なものというのが天狗(てんぐ)顔負けの魔術だった。 ■消えた総大将 政元暗殺の2カ月前、幕府創設以来、重職を担ってきた一色(いっしき)氏の家督相続にからむ争いを機に領地を奪おうと政元軍が一色氏の当主、義有(よしあり)の籠城する丹後・今熊野城で交戦中のときのこと。政元の陣営から大声が響き渡った。 「殿が『奥州へ修行の旅に出る』と言ったまま陣を出てゆかれた。これからどうすればよいのか…」 魔術に魅せられるあまりに「ご禁制」の女人は近づけず、修行を生活に取り入れる政元のこのような行動は、以前にもみられた“癖”だった。 8代将軍、足利義政の時代に力を伸ばした義直(よしなお)が亡くなり、分家出身の義有が後を継いで起きた一色氏の権力争い。この機に乗じて隣国・若狭の守護、武田氏が義有を攻めると、政元も養子の澄之、澄元を派遣する。 ついには政元まで出陣して、戦いは一進一退ながらも優勢に進めていただけに陣営のショックは相当なもの。総大将の失踪で戦線も維持できず、2人の養子もオロオロするばかり。そして当の政元も数人の供を連れて山伏姿で丹後、若狭あたりを右往左往するありさまだった。 その後、馬で追いかけてきた重臣、薬師寺長忠らの説得によって陣に戻ることを渋々承知した政元だったが、このときあたりから家臣の間に政元に対する明確な殺意が芽生えていく。 ■得意技は「飯綱(いづな)の法」 戦国時代の合戦記「足利季世記(きせいき)」によると、政元について「40歳ごろまで女人禁制にし、魔法飯綱の法愛宕(あたご)の法を行い」などと紹介されている。 「飯綱の法」や「愛宕の法」は超能力者になるための方法。天狗(てんぐ)にあこがれた政元は予言だけでなく、妖獣・管キツネを使って人に悪霊を憑依させて病気にする呪術(じゅじゅつ)的な力を持つこの行法にご執心だった。 本人はかつて、陰謀を駆使して政敵の畠山政長を重用する第10代将軍・足利義稙(よしたね)から第11代の義澄にすげ替えたが、この際、政長を自害に追い込んだのは、飯綱の法のおかげだと思っている節がある。 これで自信を持った政元は今まで以上に魔術にのめり込む。しかし、この能力を身につけるには3年の山ごもりと女っ気を絶つことが必要で、問題山積の幕府の実質的な最高権力者の彼に山ごもりの余裕があるはずもない。 政元はずっと戦い続けてきた。特に明応8(1499)年、前将軍に味方する比叡山延暦寺の大規模な焼き打ちは織田信長以上とされる。大和や紀伊などに侵攻して勢力も広げてきた。 そこに一色氏との戦い。長い戦いの日々に嫌気を差してきたのか。加えて魔術への憧れ。そんな気持ちが現実から逃避し、足を修験道の聖地、奥州へと向かわせることになったのかもしれない。 ■天狗、降臨せず 戦いの最中に失踪した政元だったが、戦場に戻ってきた政元は精力的に采配を振るった。そんなとき、都に戻れとの後柏原天皇の勅旨(ちょくし)が送られてきた。5月31日が3代将軍、義満の命日で、それとかかわりがあるのだろうか。 5月29日に帰京する。 そして6月23日。京の細川屋敷。この日は食を絶ち身を清める日。夕方、行水を行うべく白衣姿で湯殿へ向かい、気持ちを落ち着けて行に入ろうとした。 すると、「バーン」と戸板が蹴り破られ、刀を持った覆面姿の男が数人、政元の前に立ちはだかる。 「何者じゃ」。政元は声をあげる。政元の妖しいまでの気迫に気後れした侵入者だったが、1人が「化け物、死ねっ」と刃を振りおろす。すると、政元の行衣がみるみる間に血に染まった。 身を崩した政元だが、抵抗をやめない。そこで別の男が襲うと、政元は手と首が瞬時に切り落とされ、噴水のようにあがる血しぶきで床一面、真っ赤な血に染まった。 犯人は政元の養子、細川澄之の補佐役・香西元長とその手下・竹田孫七、それに薬師寺長忠とされる。もう1人の養子・澄元に肩入れし、天狗ばりの魔術に熱中する政元への反感が背景にあったようだ。 政元の墓は細川家の菩提(ぼだい)寺、龍安寺(京都市右京区)にある。 (つづく) |

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