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 蘇生した小次郎に武蔵の弟子たちがとどめ? 
「世紀の決闘」に渦巻く“陰謀説”
2014.8.24 07:00 産經新聞 

 慶長17(1612)年4月、本州と九州を隔てた関門海峡に浮かぶ無人島、巌流島で宮本武蔵と戦った小倉藩剣術師範の佐々木小次郎だが、小次郎の名前は実名ではなく、対戦当時は70歳を超えていたというとんでもない説まで飛び出すなど、実態はベールに包まれたまま。
 出身地も福井や山口、福岡などいろいろだ。こんな幽霊のような小次郎だけに、武蔵との真っ向勝負も本当だったのか。藩から疎まれ、武蔵とは別の人物に殺されたという話も残る。そんな中で見えてきた対決の実像とは−。
 ■ 錦帯橋でつばめ返し
 武者修行中の武者らしく地味な身なりの武蔵に対して、きらびやかな衣装とともに常に華麗なイメージがつきまとう小次郎だが、ひげをたくわえた武蔵以上にこわもての江戸時代の錦絵も残る。
 細川家の筆頭家老の兵法師範が江戸中期に著した武蔵の伝記によると、小次郎は越前の浄教寺村(現・福井市浄教寺)と書かれていて、地元に流れ落ちる一乗滝で秘剣「つばめ返し」を編み出したとか。
 また、同じ福井の高善寺(現・福井県越前市)の宇多源氏、佐々木一族の出身とも伝わる。歴代、佐々木氏の流れをくむ寺の住職のうち17代目住職の6男、小太夫が武士になったという記述が史料や系図に残されており、これこそが小次郎ともいわれている。
 小次郎はここで越前・朝倉家に仕えた中条流の富田勢源の門弟になったともされているが、中条流は60センチほどの短剣を使う流派のはずで、小次郎がつばめ返しに使う剣は物干しざおと称された1メートルほどの長剣。
 小次郎はよほどのへそ曲がりだったのか、それとも中条流の体質がよほど合わなかったのか、それとも中条流と無関係だったのか−ということになる。
 このほか周防の岩国(現・山口県岩国市)出身とする吉川英治の小説では、錦帯橋で柳の枝が燕を打つのを見て、つばめ返しを会得したとされるが、錦帯橋の完成が決闘から約60年後の1673(延宝元)年というから、錦帯橋と小次郎はつながらない。
■ 幅を利かす小次郎
 小次郎は、細川氏が豊前・小倉に入る以前から副田(現・福岡県添田町)を中心に拠点を置いていた佐々木一族の出身という説もある。
 天正13(1587)年に豊臣秀吉率いる九州征伐軍が攻めてきた際、岩石(がんじゃく)城に立てこもって牙をむいた佐々木氏が、当時は徳川の時代に変わっていたとはいえ、新領主の細川氏にそう簡単に従うとは思えない。
 そこで、藩主の細川忠興は佐々木一族を取り込むため、秘剣「つばめ返し」を編みだし、天才の名をほしいままにしていた小次郎を藩の剣術師範に迎えたとも考えられる。
 副田は当時、霊峰・英彦山を中心にした修験道のメッカとしても知られ、山伏から兵法を習った小次郎は自分の流派名を岩石城にちなみ、「岩流」にしたとも伝えられている。
 そんな小次郎に藩の中では剣術で右に出る者はなく、小次郎人気もうなぎのぼり。門人の数もどんどん増える一方で、無視できないまでの勢力へのしあがっていった。
 だが、これを苦々しく見ている人もいた。
 筆頭家老の長岡佐渡ら古くから細川家に仕える古参の重臣たちだ。藩内での小次郎の発言力が増してくると、これが、いずれは内紛に発展しかねないことを恐れていたのだ。
そこで小次郎の対抗馬として目をつけたのが、廃れたとはいえ、かつては足利将軍家の剣法師範を務めた吉岡一門を京都・一乗寺下り松で破った宮本武蔵だった。
■ 小次郎は撲殺?
 ここから重臣らの暗躍が始まる。ともに勝負の世界に生きてきた武蔵と小次郎だけに、2人のプライドを揺さぶったりなだめたりして決闘の世界へ導くのは、老練なこの人たちにとってはたやすいこと。
 60回戦って負けたことがない宮本武蔵vs秘剣「つばめ返し」を操る佐々木小次郎。互いに評判は十分に知っていただろうから、武蔵にとって小次郎はいずれはやりたい相手だったはず。その機会が向こうから舞い込んできたのだ。
 小次郎としても、不敗の剣豪・武蔵の挑戦を勝って退ければ、藩の剣術師範として自分の名がいっそう高まることになる。
 そんなことで決まった巌流島での決闘。藩の検分役のほか、武蔵と小次郎以外は誰一人も島に連れてこないことを条件に迎えた4月13日。約束通り1人で待っていた小次郎の前にやってで来た武蔵。
 島の波打ち際で戦った2人の勝負は、武蔵の勝ちで決まったのは従来のままだが、死んだはずの小次郎がこのあと蘇生(そせい)したという話もある。
 起き上がった瞬間、陣幕の裏に隠れていた数人の男に小次郎はボコボコに殴られて、あえない最期を遂げたというのだ。これを武蔵の弟子の犯行とする史料もある。
 このとき、小次郎の弟子の追跡から武蔵をかくまった小倉藩家老で門司城代の沼田延元が残した「沼田家記」に事の一切が書かれているという。検証を含めて詳しい話は次回に。
(つづく)


異説だらけ、誰が「小次郎」を殺したのか…示唆に富む「武蔵」の沈黙、陰謀渦巻く巌流島  
2014.8.31 07:00  産經新聞

慶長17(1612)年4月13日、巌流島での宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘は武蔵が小次郎を一撃で倒して決着したはずだった。ところが、決闘の主催者・小倉藩の家老、沼田家が残した史料によると、武蔵が倒した小次郎を、隠れていた武蔵の弟子が打ち殺したという記述も残る。孤高な剣豪のはずの武蔵が多くの弟子を抱え、こんな卑劣な手口を使ったのだろうか。
■ 身を隠す武蔵
 問題の史料とは、巌流島の決闘のときに細川藩家老だった沼田延元(のぶもと)が残した記録を子孫がまとめた「沼田家記」。この中にわずかながら決闘についての記述がみられる。これによると、武蔵も小次郎と同様に小倉藩で剣術の師範を務めていることになっている。
 いつも武蔵の二刀流と小次郎の岩流のどちらが強いのかを弟子同士が言い争うため、弟子を1人も連れていかないことを条件に巌流島で2人に試合をさせることになった。
 当日、小次郎は約束通り1人で試合に臨み、武蔵は弟子を陣幕の裏に隠していたという。試合では武蔵が小次郎を一撃で倒したが、しばらくすると死んだと思われた小次郎が息を吹き返したため、武蔵の弟子が寄ってたかって小次郎を打ち殺してしまう。
 この知らせを小倉で聞いた小次郎の弟子たちは、かたき討ちのために島へ向かうが、これを恐れた武蔵は下関の赤間関(あかまがせき)に戻らず、九州の門司へ逃げる。そして門司城代を兼任していた延元に助けを求めたという。
 延元は小次郎の弟子から武蔵を守ったうえで、乗馬の家臣に鉄砲隊の護衛を付け、武蔵の父・無二斎のいる豊後(現在の大分県)まで送ったとしている。
無二斎は、信長・秀吉時代の天正年間に福岡で亡くなったとの説もあるが、巌流島の翌年の慶長18年、京都に滞在中の豊後・日出(ひじ)藩主の木下延俊に召し抱えられたという記述も残る。
 ということは、決闘は慶長17年ではなく、翌18年という可能性も出てくる。ちなみに、「沼田家記」には決闘の日時は書かれていない。 
■ いまいましい記憶
 では、なぜ小次郎をこうまでして殺さなくてはならなかったのか。小次郎を打ち殺した集団が武蔵の弟子なら話は簡単である。
 だが、前回この欄で紹介したように、小次郎は細川家が豊前に入る以前から勢力を持つ佐々木一族の出身のため藩の重臣から疎まれていたとか、当時ご禁制のキリシタンだったという話まで出ている。
 島根県境近く、現在の山口県阿武町にある小次郎の妻の墓が実は小次郎本人の墓で、傍らに隠れキリシタンが使う六角形の塚が建てられていたのだという。
 こうなると殺害した集団は武蔵の弟子ではなく、小倉藩の剣術師範がキリシタンだという事実を隠したいため、藩の筆頭家老、長岡佐渡らが手配した刺客という話だってありうる。
 武蔵が勝っても小次郎が生きていた場合にはとどめをさし、たとえ武蔵が負けたとしても、そのあとは大勢でよってたかって小次郎を殺す。もしかすると、事情を知る武蔵も狙われていたかもしれない。
 やはり、陰謀渦巻く巌流島。晩年、細川藩に客分として招かれた武蔵が著した「五輪書」には吉岡道場との戦いのことは書かれていても、巌流島の記述はいっさいない。
 つまり、武蔵にとっても巌流島の決闘のことはいまいましい記憶だったということになる。
■ 唯一の真実
 武蔵の養子、宮本伊織が父の菩提(ぼだい)を弔うために承応3(1654)年、小倉に建てた石碑には、3尺(約90センチ)の白刃を手にした岩流を二刀流の武蔵が電光より素早い一撃で倒したことが刻まれている。
 しかし、ここにも、陣幕の裏に潜んでいた門人の存在については触れられていない。
 一方、「沼田家記」に紹介された内容は、延元が単に見たり聞いたりしたことだけを紹介しているようにもみえ、一見すると、伊織が石碑に刻んだ碑文より記述に偏りがないような印象はある。
 だが、延元も細川家の重臣である。延元は武蔵との間にそれなりの信頼関係があっただろうが、藩の評判を落とすようなことは日記の類としても書けなかったのだろう。
 また、延元は決闘の期日や場所は知ってはいただろうが、どこまで直接的に決闘に関わっていたのかは不明である。
 「沼田家記」を見る限り延元は決闘の現場にいなかったようだが、そのかわりに武蔵自身や藩の関係者らから決闘の詳細な話は聞いていただろう。そんな中で折り合いをつけた話が、武蔵の弟子による犯行説ということにならないだろうか?
 さらに小次郎側から話が聞けていないのが、内容の平等性を考えると痛い。なんせ「死人に口なし」なのだから。
 ただし小次郎が巌流島で死んだのは間違いなく、このあとに小次郎の冥福(めいふく)を祈り、舟島が「巌流島」と呼ばれるようになったことだけが、謎の多い決闘の中で唯一の真実なのかもしれない。
(おわり)

承久の乱(上)


 日本史の地殻変動「幕府×朝廷」、緊迫マグマ沸騰させた〝暗殺〟〝愛人〟
2014.5.18 07:00  産經新聞

鎌倉時代、荘園からの税収をめぐり、朝廷側の「領主」と幕府側の「地頭(じとう)」の対立が全国に広がる中、幕府第3代将軍、源実朝(さねとも)が鶴岡八幡宮で殺害される事件が発生する。

 朝廷と協調政策をとっていた実朝だけに、これを機に両者間の亀裂はさらに広がっていった。そんなとき、後鳥羽上皇の愛人が持つ荘園で、地頭とのトラブルがもちあがる。地頭を辞めさせたい愛人。その要求を上皇は安請け合いする。しかし、これがいけなかった。国内を二分する大争乱に発展しようとは。
■将軍の死
 大争乱の起きる2年半前の建保7(1219)年1月27日のこと。この日は、雪が60センチほど積もる寒い日だった。
 鎌倉幕府第3代将軍の源実朝が武家として初めて右大臣に昇進したことを祝うため、後鳥羽上皇から贈られた装束を身につけ鶴岡八幡宮に参拝に向かった。
 参拝を滞りなくすませたころには日もすっかり暮れていた。両脇に雪が積もった石段の真ん中を、かがり火を頼りに下りる実朝の表情は晴れがましかった。
 ところが石段を半分以上進んだところで、奧の暗闇から頭巾をかぶった1人の男が飛び出すと、いきなり実朝に斬りつけてきた。
 男を見るやいなや、兄の第2代将軍、源頼家の息子の公曉(くぎょう)だとわかり、びっくりする実朝は口から名を言う間もなく、一太刀を浴びせられる。
 このときは右手に持っていた笏(しゃく)でとっさにかわしたが、頭上から切りかかってきた次の太刀は避けきれずに、噴水のように血しぶきをあげて倒れた実朝の首は一瞬にしてなくなっていた。上皇から贈られた装束も血まみれ状態だった。
公暁の父、頼家は独断的な政治を行うあまり、御家人に将軍の地位を追放されたあげく、北条氏に殺害される。その後、出家した公暁は近江・園城寺で修行の後、健保5(1217)年に鶴岡八幡宮別当に就任するが、一向に髪を落とす様子もなく、謀反を疑う者も多かったという。
■地頭の台頭
 当時、後白河法皇の持仏堂の名からとった「長講堂(ちょうこうどう)領」や、鳥羽上皇ゆかりの安楽寿院(あんらくじゅいん)領などを中心とした「八条院領」など莫大な荘園を抱える朝廷はそこからの税を主な財源としていた。
 だが、荘園に朝廷が任じた領主以外に、鎌倉幕府が警察権や徴税・行政権を持った地頭を置くようになると、両者間で利権をめぐってのトラブルが各地で発生するようになった。
 地頭からすれば、もとは自分らが開墾した土地であり、平家との戦いに勝った末に、幕府から所有を認められた領地という意識も強かった。一方、朝廷は横領としかみえなかったことだろう。
 そこに起きた実朝の暗殺劇。上皇ら朝廷との協調路線をとっていた実朝という“緩衝材”がなくなったことで、両者はいつ衝突してもおかくしない状態にさらされることになった。
 そんなとき、後鳥羽上皇は、寵愛する亀菊から「長江荘と倉橋荘(現在の大阪・豊中市あたり)にいる地頭を辞めさせて欲しい」と泣きつかれる。
 亀菊は、後鳥羽上皇が現在の水無瀬神宮(大阪府島本町)あたりに営んでいた離宮に遊興のとき呼んだ白拍子なのだが、お気に入りになったところでこのふたつの荘園を与えていた。
その亀菊によると、地頭が税収を横取りしているという。確かに地頭の台頭でほかの荘園でも税収が減少していたほか、荘園の寄進も少なくなった。
 そこで愛妾の願いを受けた上皇は、あることを引き換えに地頭の解任を幕府に要求し、朝廷領から地頭を追い払うための突破口にすることを思いつく。
■予期に反して
 実は亀菊の一件の少し前に、幕府の初代将軍・源頼朝の妻、北条政子と、政子を補佐する第2代執権、北条義時から、後鳥羽上皇の皇子の雅成(まさなり)親王を次期将軍に迎えたいとする申し出があったのだ。
 この背景には、暗殺された実朝に継ぐべき実子がなく、頼朝以来の直系が途絶えたため、皇族から迎えたいという政子の願望があったとされている。
 ここで上皇は鎌倉に使いを送り、長江荘と倉橋荘の地頭を撤廃するなら、雅成親王の将軍就任を認めるとした条件を提示する。
 当然、国内一の権力者と自負する上皇は「はい」という返事しかないだろうとたかをくくっていた。ところが、義時から来た返事は「いいえ」だった。しかも1千騎の兵をひき連れた義時の弟の時房(ときふさ)から恫喝(どうかつ)を受ける始末。
 幕府も平家との戦いで恩賞として御家人に渡した土地である。地頭を解任すれば幕府の権威は失墜することになるので、踏みとどまるのに必死だったのだ。
 だが、武家以上に武芸に優れていたという上皇も一歩もひかないため、鎌倉幕府も公家の摂関家・九条家から頼朝の同母妹の筋にあたる頼経(よりつね)を将軍に迎えるしかなくなった。
こんな両者相譲らない状況に国内の緊張感もマックスに。幕府軍と上皇軍という二大勢力の衝突も時間の問題となった。
(つづく)


承久の乱(中)


 歴史に残る北条政子「名演説」の“見事”…「正義」の在り処を示し、幕府軍を一枚岩にさせた「論理」展開のツボは 
2014.5.25 07:00  産經新聞

 愛人に与えた領地に鎌倉幕府が派遣した地頭(じとう)を解任させようと、幕府ナンバー2の執権(しっけん)、北条義時とやり合った末、恫喝(どうかつ)まで受けた後鳥羽上皇のプライドは傷つけられ、承久3(1221)年5月、義時追討の命令「院宣(いんぜん)」を全国に発信する。士気があがる朝廷に対し、朝敵となった幕府に動揺が広がった。だが、ここで立ち上がったのが「尼将軍」こと、源頼朝夫人・北条政子。彼女の一世一代の名演説が東国武士の士気を蘇らせた。
■軍事おたく
 鎌倉幕府の初代征夷大将軍、頼朝に「日本一の大天狗(てんぐ)」と言わせるほど政界で影響力を持った後白河法皇が建久3(1192)年に亡くなり、朝廷の実権を握った後鳥羽上皇(当時は天皇)は詩歌管弦だけでなく乗馬や弓矢など武芸に優れていた。
 このため、平安時代中期に醍醐、村上両天皇がみずから世を治めた「延喜・天暦の治」を理想としていたものの、その方向は政策面より、むしろ軍事面に向けられていた。
 特に、これまで上皇直轄の親衛隊だった「北面(ほくめん)の武士」に加えて、「西面(さいめん)の武士」を新設することで兵の数を増やしたうえ、厳しい訓練を課すことで質も高めていった。
 西面の武士も北面の武士と同様に西日本の優秀な武士で構成され、鎌倉幕府に対抗するために設けられたとされているが、上皇の武芸好きが高じたとの説もある。
 そして、当初のターゲットになったのが僧兵を抱える寺院だった。
建暦3(1213)年、当時、犬猿の仲だった清水寺を焼き払おうと延暦寺の僧兵が百人以上、東山・長楽寺に集まったところで西面の武士と衝突。双方に多数の死傷者を出すほどの激戦が展開されている。
 鎌倉幕府にとっても、命知らずの上皇の親衛隊と正面衝突すれば無視できないほどの被害が想定され、驚異の存在となった。
■上皇挙兵
 2年前、義時から受けた侮辱を上皇は忘れていなかった。
 承久3年5月14日、上皇が京・伏見の城南寺(現在の城南宮周辺)で流鏑馬(やぶさめ)を催すことを口実に全国から兵を呼び寄せると、14カ国から集まった約1700人を前に義時討伐の意志を明らかにする。
 1700人のうち、藤原秀康ら大半が北面、西面の武士だが、鎌倉幕府創設に貢献した大江広元の子、親広(ちかひろ)が成り行きで上皇側についたほか、幕府の有力御家人、三浦義村の弟、胤義(たねよし)もいた。
 三浦胤義の妻は幕府2代将軍、源頼家の元愛人。源実朝が暗殺されると、頼家との間に生んだ子も北条氏に殺されたため、胤義も北条氏に恨みを抱いていたとか。
 翌日、上皇は今の京都市下京区寺町通高辻付近にあった幕府方の京都守護、伊賀光季(みつすえ)の宿所の強襲を命じる。上皇軍が約800人に対して光季側はわずか約30人しかなく、奮戦むなしく全滅してしまう。
 上皇には幕府に勝つだけの目算があった。実朝の死で幕府にリーダーがいなくなった今、三浦vs北条のように御家人がぶつかり合った末、幕府は崩壊するだろう。
 さらにもうひとつ、院宣の存在である。
最初の軍議のとき、胤義が「朝敵になった以上、幕府に味方する者は千人もいまい」と豪語するだけの力がまだ朝廷に残っていた時代である。上皇が義時追討の院宣を出すと、すぐに1万〜3万の兵が集まったという。
■涙の演説
 19日、親幕派の公家、西園寺公経(きんつね)や上皇軍に討たれた光季の書状から幕府は上皇の挙兵を知る。さらに鎌倉にいた三浦義村から「恩賞は思いのままに」などと書かれた上皇の密書の存在も知る。
 上皇の院宣のほか、密書は全国の有力御家人に送られたことが想像できたことから、幕府に大きな衝撃を与えた。このとき朝敵として官軍と戦うことを恐れた鎌倉の御家人の間に動揺が広がった。
 そんなとき、北条義時の呼びかけで御家人たちは北条屋敷に集まる。その数は庭の隅々まで達し、立錐(りっすい)の余地もないほどだった。そこに、すっと立ち上がったのが尼僧姿の北条政子だった。
 一瞬にして静まった群衆に向かい、政子は「最後の言葉」として涙ながらに次のような演説をしたとされている。
 《朝敵を滅ぼして幕府を創設して以来、地位と生活水準を上げた頼朝の恩は山より高く、海より深い。そんな恩を忘れた逆臣が上皇をだまし、われわれを討とうとしています。ここに秀康、胤義を討ち、恩顧に報いるべきです》
 御家人は、この演説に奮い立った。ターゲットを上皇ではなく、上皇をたぶらかした藤原秀康、三浦胤義に向けたことで彼らの正義も成り立った。
 ここに、全員の心が「逆臣を討つべし」で固まったのだ。
(つづく)

承久の乱(下)


 “朝廷コンプレックス”はねのけ、武士が完全天下…上皇は責任転嫁で延命図るも最後は島流し
2014.6.1 07:00  産經新聞

 京都で後鳥羽上皇の官軍が兵を挙げたことに戸惑いを隠せなかった“朝敵”幕府軍も、「源頼朝公の恩に報いよ」と涙ながらに説く尼将軍、北条政子の言葉に目が覚め、集まった兵は19万騎に達した。しかも、先手必勝とばかりにとった幕府軍の電撃作戦の前に、上皇軍はひとたまりもなかった。裏切りと混乱にあえいだ末に大敗北を喫し、上皇にも悲劇の結末が待っていた。
■幕府軍、出動
 政子の演説で鎌倉がひとつになった夜、北条義時邸で軍議を開いた。
 薄暗いロウソクの明かりの下で作戦を練るのは義時のほか、義時の長男・泰時、義時の弟・時房、頼朝以来の重臣の大江広元と三善康信に加え、有力御家人の三浦義村と安達景盛ら。
 最初は「東海道・箱根の守りを固めて…」など消極意見に終始するが、しびれを切らした広元が「やられる前にやりなさい!!」と京都への進軍を切り出す。
 一瞬、驚きの表情を見せた泰時が「こちらから上皇さまの軍に仕掛けるのですか」と切り返す。だが、義時と康信、さらには政子が広元の意見に同調したことで作戦が決まると、ここからの動きは早かった。
3日後の承久3(1221)年5月22日、泰時と時房が17騎で鎌倉から東海道を西へ進みながら兵を糾合していくと、またたく間に10万騎に膨れあがった。
 続いて甲斐国の守護、武田信光を大将とする5万騎が東山道から、泰時の弟・朝時(ともとき)を大将とする4万騎が北陸道から一路、京都を目指した。
 それでも心がすっきりしない泰時は出発した翌日の23日、いったん鎌倉に戻ると、父・義時に疑問をぶつける。
 「上皇さまが兵を率いて攻めてきたらどうすればよいのでしょう」
 すると義時は「潔く兜(かぶと)を脱ぎ、弓の弦を切って降参しなさい。ただし兵だけならば力の限り戦うべき」と答えたという。
■浮足立つ上皇軍
 幕府軍が京都へ近づきつつあることを上皇が知ったのは6月1日の高陽院(かやのいん)でのこと。鎌倉の三浦義村宛てに義時追討の密書を持たせて派遣させたはずの従者が義時の返書を手に帰ってきたのだ。
上皇がこのとき、幕府軍の兵力をどこま把握していたかはわからないが、三手に分かれて半端ではない数が迫っていたことは従者の話から認識した。
 あわよくば、義村に討たれた義時の首を期待していただけに、上皇は慌てて美濃と尾張の境を流れる尾張川に1万7500騎の兵を派遣する。
 ところが、兵力を分散させたことから、大井戸や墨俣で幕府の数万騎に数千の兵を正面からぶつけてしまう愚行を犯し、6月5日に始まった戦いは1日で上皇軍は大敗する。
 尾張で敗れたことを知った京都では、公家から民衆までが右往左往して逃げ惑うのみ。
 上皇は武装して宇治川と近江・瀬田川を防衛ラインに守りを固めたうえで比叡山に避難しようとした。だが、上皇の親衛隊「西面の武士」らがこれまで比叡山の僧兵と散々やり合ってきただけに、簡単に追い返され、上皇はしぶしぶ高陽院に戻る。
 13日、幕府軍が宇治川へ着いた。これまで大した損害もないまま京に着いた泰時の軍勢が見たものは川の西岸沿いにズラリ並んだ楯の列。その向こうに官軍を意味する「錦の御旗」が翻っていた。
■裏切りの果てに
 このとき、泰時は鎌倉を発つ前、父・義時と交わした会話を思い出していたに違いない。でも、ここまで来た以上は戦うしかなかった。
 宇治橋は上皇軍によりはずされていたため、普段でも流れが激しい川が豪雨のためさらに渡るのが難しく、攻めあぐねていた幕府軍目がけ雨のごとく矢を射かけきた。
 上皇軍は瀬田とあわせて3万騎。しかも背水の陣だけに必死の抵抗だった。
 それでも14日、数に勝る幕府軍は雨中、渡河作戦に踏み切る。多数の溺死者を出しながら、御家人・佐々木信綱と泰時の長男・時氏らが川を渡りきると敵陣を一気に突破。ここで上皇軍は総崩れとなった。
 上皇軍の指揮官、藤原秀康、三浦胤義らは再戦のため御所へ撤退し、上皇の判断を仰ごうとしたが、ここで門を閉ざされて上皇に追い返される。
 しかも、上皇は院宣の中身を「義時追討」から「秀康、胤義逮捕」へとすり替えてしまう。上皇の変心に絶望した秀康らは東寺で抵抗を続けたが、胤義は太秦で自害し、秀康も河内で切られて、乱は終結する。
 幕府は乱後、上皇側が持っていた膨大な荘園を没収するとともに、朝廷監視のため、これまでの京都守護に代わり、より強力な六波羅探題を設置する。
 また、家臣に責任をなすりつけ逃げ切るつもりだった上皇は隠岐に流され、18年後の延応元(1239)年2月、都へ帰ることを夢見ながら亡くなる。哀れな最期だったという。
(おわり)


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