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 白昼メッタ刺し、斬首…攘夷派の「憎悪」誘発した“開国攘夷派・象山”の「とんでもない計画」

2014.3.23 07:00  産經新聞

ペリー率いる米艦隊が浦賀に来航して以来、世論が開国か、外国を打ち払う攘夷(じょうい)かで揺れていた元治元(1864)年7月11日、京都・木屋町で開国派の兵学者、佐久間象山が白昼、数人の男に刺されて死亡する事件が起きた。開国派が攘夷派に狙われたという当時としてはお決まりの構図のようにも思えるが、その中には象山のとんでもない計画への阻止行動という意味合いも強く含まれていた。その計画とは−。
■西洋かぶれ
 暑い夏の日だった。
 象山はこの日の朝、宮家創設間もない山階宮(やましなのみや)に自ら策定した開港の勅許案を説明するために木屋町御池の宿所を出ると、京都御所の南西角にある閑院宮(かんいんのみや)邸を訪ねる。
 そのあと、いったん南に向かって、知り合いの本覚寺(富小路五条)に立ち寄り、それから宿所へ戻るため寺町通を北上してしていた。
 象山は開国派とはいってもただ外国に追従するだけではなく、外国の先進技術を学びながら国力をあげたのち、列強の仲間入りを果たすといった、他の開国論者とはひと味違う、いわば開国攘夷論者だった。
 とはいえ、当時の江戸幕府第14代将軍、徳川家茂(いえもち)の要請で3月に江戸から上洛したとき、洋装で様式の鞍(くら)を付けた白馬にまたがる象山の姿は、攘夷論者にとっては西洋かぶれの腑抜(ふぬ)けに見えたのだろう。
 この前年、攘夷派の公家や長州藩士らが京都から一掃されると、報復として開国論者が攘夷派に狙われて命を落とす事件が多発する状況下、朝廷や幕府要人らに開国を説く象山が攘夷派の刺客に狙われる確率はかなり高かった。
その確率といったら、長州・吉田松蔭のかつての師でもあった象山に、攘夷派ながら一目を置いていた長州の桂小五郎も、知人を通じて警戒を促したといわれるほどに切迫した状況だった。
■待ち構える刺客
 本来ならば、いくら警戒してもし足りるということはないのだが、象山本人は周囲の心配をよそに馬引きら数人のみで街中を移動するなど、いっこうに意に介していない様子。
 それどころか、背丈が当時としては大柄の170センチはあったとされる象山が黒の裃(かみしも)と白い小袖(こそで)という粋ないで立ちで、白馬にまたがった姿は相当に目立っていたはずで、「襲えるものなら襲ってみろ」と、攘夷派を挑発しているようにもうかがえる。
 だが、この過剰な自信が命取りとなった。この日、象山の行く先々に刺客の罠が何重にも巡らされていたのだ。悠々と寺町通を進む象山が最初に刺客の存在に気がついたのは、四条通に差し掛かった所だったともいわれている。
 だが、刺客が象山を最初に襲ったのは、三条通と木屋町通が交差する三条大橋の西詰、つまり三条小橋に近いところだった。いきなり刀を抜いた2人の男が象山の前に現れる。
 危険を察知した象山は目と鼻の先まで迫った宿舎に逃げ込もうとしたのか、馬を走らせて木屋町通を北上しようとした。だが、ここで馬が切られる。
 それでも何とか馬を走らせた象山だったが、馬が宿舎前を通り過ぎて御池通に出たところで、さきほどとは別の2人の刺客の待ち伏せに遭い、挟み撃ちにされてしまう。
■血まみれの小袖
 「お前ら、何者だ!!」と象山は剣を抜いて応戦したが、ここで馬が力尽き、すごい土煙とともに象山も転落する。
 そこに襲いかかった刺客は、熊本藩士の河上彦斎(げんさい)と平戸脱藩浪士の松浦虎太郎(とらたろう)の2人。松浦が最初のひと太刀を浴びせ、居合い抜きの名人の河上がとどめを刺したとも。
 象山の小袖は血で真っ赤に染まり、翌朝、三条河原に首がさらされたというからには発見時は遺体に首がなかったのだろう。メッタ刺し状態だったといい、かなり恨みに思われていたに違いない。
 それもそのはず。ちょうどひと月前、攘夷派が三条・池田屋で新選組の襲撃に遭い多数が死傷する事件をきっかけに、長州藩を中心にした攘夷派が幕府との対決姿勢を強める中、象山は天皇の御座所を幕府の警護の行き届いた彦根に移す計画を進めていたのだ。
 これでは京都に戻るきっかけを失う攘夷派は7月10日、計画の真偽を象山に問うたところ、象山はあっさりと認めたという。その翌日の象山暗殺。
 10日後、三条大橋に攘夷派の犯行声明ともとれる斬奸状(ざんかんじょう)が立った。これには次のような内容が書かれていた。
 元来、西洋学を唱えて開港を主張。会津、彦根二藩と天皇を彦根に移そうとしている。これは人道を踏み外した行為で、とうてい受け入れることのできない国賊的行為につき、三条木屋町で天誅(てんちゅう)を加えた。
 元治元年7月21日 皇国忠義士
(つづく)

 キリスト教の「日本征服」恐れた秀吉の妄想横暴…疑心暗鬼から教徒の逮捕・磔刑命ずる
2014.4.27 07:00  産經新聞

 文禄5(1596)年9月28日、イスパニア(スペイン)の大型船「サン=フェリペ号」が土佐沖に漂着する事件が起きた。遭難者は救出したが、積み荷の所有権をめぐってトラブルが発生する。これがもとで疑心暗鬼の時の権力者、豊臣秀吉は、ついにスペインによる日本侵略説まで出し、京都のキリシタン教徒の逮捕と磔刑(たっけい)を命じる。ここに、全世界を驚がくさせた弾圧事件が始まる。
■積み荷はうちのもの
 サン=フェリペ号はガレオン船と呼ばれる当時最大級の帆船。船形がこれまでよりスマートで喫水も浅いため、高速で荷を多く積める利点があったが、安定性に劣るため、転覆事故を起こしやすいといった欠点もあった。
 文禄5年7月、多くの高価な荷を積んでフィリピン・マニラを出航したサン=フェリペ号は一路、メキシコを目指して太平洋を横断していた。ところが、東シナ海で台風に遭遇する。
 安定感のない船だけに揺れも大きい。すぐに舵(かじ)が壊れて操船ができなくなったため、メーンマストを切り取って何とか難を逃れようとするも、多くの乗組員は傷つき、船体の損傷も激しい。
 ただ、ただ激しい風とうねりに身を任せるしかなかった。そんな中で、ようやく漂着したのが日本の土佐沖だった。
 突然の“南蛮船”の漂着を受けて、土佐の大名・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は乗組員を土佐・浦戸に収容すると、事の一切を秀吉に報告。秀吉が派遣した奉行の増田長盛(ましたながもり)は乗組員の全員処刑の可能性と積み荷の没収を伝えるのだった。
当時の国内外の海事法では積み荷の扱いは船側にあるにもかかわらず、秀吉側は何を誤解したのか、「漂着した積み荷の所有権はその土地に移るのが昔からの日本での習わし」などと主張してしまったのだ。
 ここに互いの意見が真っ二つに割れてしまった。
■緩やかなはずが…
 織田信長はキリスト教布教を奨励したことから各地に南蛮寺と呼ばれる教会が建てられた。だが、一向一揆のような宗教による大規模な反乱を警戒した秀吉は天正15(1587)年、キリスト教の布教禁止などを命じる。
 ただ、このとき禁じたのは布教活動だけで信仰までは禁じていなかった。貿易による利益を優先したためだが、漂着事件以来、秀吉はスペイン、さらにはキリスト教による日本征服を恐れるようになっていく。
 一説には、積み荷を没収された腹いせに、乗組員の一人が「スペインは日本征服のために宣教師を送り込んだのだ」などとする内容の暴言を吐いたためともいわれている。
 このとき、乗組員の前でひとつの秀吉の書状が読まれている。
 その中には、都にいる複数のポルトガル人らの証言として、「スペイン人は海賊」「世界各国を武力征服したように日本も征服するため測量に来た」などと書かれていたという。
 だが、この疑心暗鬼ともとれる秀吉の書状の内容をよく見れば、秀吉の根拠となっている証言者は日本と最初に貿易を始めたポルトガル人である。
 船が種子島に漂着して以来、50年間ずっと日本と交易してきたのはポルトガルである。その意味からすれば、遅れて出てきたとはいえ、スペインは商売がたきであり、面白くない存在であるはず。
秀吉はそんなポルトガルの口車に乗ってしまった…ともみられなくもないが、漂着事件直後の文禄5年12月、再び禁教令を公布する。
■伸びる弾圧の手
 天正の禁教令で南蛮寺などすべての布教施設が壊された京都で、文禄2(1593)年にフィリピン総督の使節として来日したフランシスコ会の宣教師、ペトロ・バプチスタは、秀吉から今の四条堀川周辺に広大な土地を与えられると、教会や病院、学校などを建てた。
 病院には当時、手の施しようもなかった病気の患者や、貧しい人たちを収容して治療を行ったとして、その精神に共感して活動に参加する日本人も数多くいたという。
 ところが、サン=フェリペ号事件後に出された禁教令で様相が一変する。
 秀吉は、京都にいるキリスト教の一派、フランシスコ会の宣教師や信者、関係者全員を逮捕するとともに磔(はりつけ)の刑にすることを奉行の石田三成に命じる。
 日本の文化や伝統を尊重しつつ、大名ら上層部から浸透させたイエズス会に対し、自分たちのスタイルにこだわり、貧しい階層に入っていったフランシスコ会の活動が、秀吉には挑発的に見えたというのだ。
 だが、ここでも先発・イエズス会に対する後発・フランシスコ会の構図が見えていただけに、またしても秀吉は乗せられたのだろうか。
 バプチスタらに逮捕のときが迫ってきた。
(つづく)



 刃物で1人ずつ、左の耳たぶが切り落とされていった…キリスト教憎しの秀吉、磔刑前の教徒24人への仕打ちは民衆への“見せしめ”
2014.5.4 07:00  産經新聞

文禄5(1596)年10月、台風で土佐沖に座礁したサン=フェリペ号の事件をスペインの日本征服の第一歩と邪推した豊臣秀吉はキリシタンへの不信感を募らせると、石田三成に命じてフランシスコ会の関係者を次々と逮捕する。その数は24人にのぼり、あとは全員、死を待つばかりとなっていた。だが、それでも許せない秀吉は、さらにむごい仕打ちを用意していたのだった。
■地震や嵐も
 この年の9月、京・伏見付近で大地震が発生し、秀吉の居城・伏見城の天守が倒壊したのに続いて、サン=フェリペ号が遭遇した台風は近畿にも大被害をもたらした。
 それだけに、サン=フェリペ号事件は、秀吉の主治医・施薬院全宗(せやくいんぜんそう)ら反キリスト教派の格好の攻撃材料になったともされる。
 全宗といえば、信長の比叡山焼き打ち後に延暦寺を復興させた一人として知られるが、このとき健康を害していた秀吉にとって主治医の言葉は染み渡るように響いたことだろう。
 秀吉が再び禁教令を出すと、キリシタン全員の逮捕と処刑を京都奉行の石田三成に命じた。ただちに逮捕予定者のリストを作る。イエズス会に入会している小西行長ら秀吉配下の有力大名もいる中、名簿の筆頭は摂津・高槻や播磨・船上(ふなげ)の城主を務めた高山右近だった。
 右近は秀吉のバテレン追放令に反し、教えを捨てなかったため任を解かれ、政治アドバイザー的な身分で加賀の前田利家のもとにいた。
 だが、キリシタンにとって信仰で命を失うことは殉教であり、聖人となる機会ととらえていた時代。名簿の話を聞いた右近は喜んで利家に別れを告げたとされる。細川忠興夫人・ガラシャも晴れ着を作って、そのときを待ちわびていたという。
このため、のちの影響を考えのだろうか。三成は対象をキリシタン全員とすることに反対する。
■次々と捕らえられ
 そこで最初の標的となったのは、宣教師のペドロ・バプチスタらフランシスコ会の関係者だった。
 フィリピン総督の日本最初の使節として文禄2(1593)年に来日し、謁見した秀吉から京都・四条堀川近くに広大な土地を与えられると、禁教令下にもかかわらず修道院や教会、病院などを建てる。
 病院は京都初の西洋式施設で、多くの貧民やハンセン病患者を収容するなど布教・奉仕活動を積極的に進めたことから、周辺は200人以上の信者でふくれあがり、ひとつの町を形成するほどだったという。
 これが秀吉には反抗的にみえたのだろう。サン=フェリペ号事件後の文禄5年11月、再び禁教令を出すと、12月8日に秀吉は逮捕命令を出した。
 深夜、秀吉の命を受けた三成は翌9日、手勢を連れて京都のフランシスコ会修道院に向かい、尾張のレオン烏丸(48)▽尾張のパウロ鈴木(49)▽伊勢のトマス小崎(14)−ら5人の日本人を逮捕した。
 10日には、大坂にも追及の手が伸び、摂津のパウロ三木(33)▽五島のヨハネ五島(19)▽備前のディエゴ喜斎(64)−らが捕まる。(年齢はいずれも死亡時)
 結局、翌年の1月までに京都で17人、大坂で7人が逮捕されて、京都・小川通沿いにある牢屋敷に相次いで投獄される。
 ペドロ・パウチスタとマルチノ・デ・ラ・アセンシオンの両神父をはじめ、ほとんどがフランシスコ会所属の修道士およびその信徒だが、パウロ三木ら3人のイエズス会信者も含まれていた。
■度重なる受難
 捕らえられた24人はこれから起きる運命、つまり磔(はりつけ)による刑死を受け入れる覚悟はできていた。そして年が開けてまもない1月3日、牢から少し北の堀川に架かる「一条戻り橋」に連れて行かれる。
 この日は、前夜の雪模様から一転して晴天で、朝食をとったあと後ろ手に縛られて、雪の残る道を歩いて橋に向かった。
 一条戻り橋といえば、死者がこの橋上で生き返ったとか、死刑囚が真っ正直に生まれ変わるよう引き回しの際にはここを通ったなどといった、平安の昔から生と死にかかわってきた歴史がある。
 そのような所で「今度は何事か」と集まった多くの民衆を前に、見せしめとしていきなり左の耳たぶを切り落とされたのだ。秀吉は両耳を落とすように指示をしたが、ここでも三成のとりなしで片耳になったとか。
 刃物で一人ずつ切り落とされ、そのたびに血を流しながら顔をゆがませる。待つ身としては恐怖もあろうが、宣教師を中心に不安を取り除くような言葉をかけ合い、粛々と進んでいった。
 切られた耳はその場に捨てられたが、イエズス会の3人分は大坂奉行所の役人ながら同会信者の野田源助が拾いあげ、同会宣教師のオルガンティノに手渡したという。
 オルガンティノは涙ながらに、「これは日本イエズス会の初穂(はつほ)、私たちの労働の実り、新しい教会の花です。これを主、イエス・キリストにささげます」などと祈ったといわれている。
 24人の受難は、さらに続く。
(つづく)



 耳そいだまま市中引き回し、長崎の刑場まで
850キロ歩かせて磔刑…秀吉の“非人間性”ここに極まる
2014.5.11 07:00 産經新聞

 豊臣秀吉の厳しいバテレン追放令の下、逮捕された24人のキリシタンは慶長2(1597)年1月、京都・一条戻り橋で全員、左耳を切り落とされると、血に染まった傷口を覆う間もなく、市中を引き回された。そこで秀吉から下った処刑の命。しかも、850キロ先の長崎の刑場まで歩くという過酷ものだった。それから1カ月にわたるキリシタンたちの死への長い旅路は始まった。
■処刑命令
 1月3日、一条戻り橋で左耳を切り落とされた24人は牛のひく荷車で引き回されるため、奉行所の役人の監視の中、3人一組となって乗り込む。
 当時、長引く戦乱のため崩壊寸前だった京都で人の集まる町といえば、現在の今出川通周辺の「上京」と四条通周辺の「下京」で、両町を結ぶ道は室町通しかないという、殺風景なありさまだった。
 そんな中、8台の荷台は列をなして一条通をギシギシと不気味な音を立てながら東へ向かい、室町通から南下するなどしてひと通り回った。
ポルトガルのカトリック宣教師、ルイス・フロイスの報告書によると、時刻は午後10時を過ぎ、周囲は真っ暗にもかかわらず、珍しい外国人を含む引き回しということで、沿道は多くの人だかりで、屋根の上から見ている人の姿もあったという。
 翌日、大坂と堺でも同様に引き回されるため小川牢屋敷を出発し、東寺口から京都を出た一行。ここで刑の対象から外れた信者に血まみれの十字架を手渡して別れを惜しむフランシスコ会の宣教師、ペトロ・バプチスタの姿もあった。
 京都、大坂だけでなく堺が選ばれたのは、当時、南蛮貿易で栄え、多くの外国人やキリシタンが集まっていたためとされている。
 そして1月8日、24人は処刑命令を受ける。場所は長崎・西坂の刑場。多くののキリシタンの見せしめのため、「歩いて行け」というものだった。
■一通の手紙
 堺での引き回しの後に大坂に戻ったのは9日。その翌日に長崎に向けて大坂を出発すると山陽道を通って13日に播磨に入り、14日には明石、15日には姫路へ進んでいる。
途中の西宮では、カトリック宣教師のオルガンチノから24人の道中の世話をまかされた京都のペトロ助四郎とフランシスコ吉ら2人が続けざまに受刑者の列に加えられるよう願い出る。
 吉は京都のフランシスコ修道院近くに住み、事件後も磔刑(たっけい)を志願していたらしいが、加わることができなかったので、川沿いの茶店で休息する一行の中に飛び込むと、バプチスタの足に泣いてすがりつき、列に加わったという話も残る。
 ここで26人となった受刑者は19日に現在の岡山市から三原へと進み、22日に広島市に入っている。三原では14歳のトマス小崎が城の牢内で、伊勢で暮らす母親に信仰を捨てないよう求めた手紙を書いている。
 この手紙は母に渡ることはなく、同じく捕らえられて処刑された父親・ミゲルの襟元から血の付いたかたちで見つかり、その訳本がローマに保管されている。
 28日、下関に着いた26人は船で九州・小倉に渡ると唐津、武雄、嬉野(うれしの)を通り、長崎・彼杵(そのぎ)に到着したのが2月4日午後。目的地の西坂は目の前に広がる大村湾の対岸にあった。
■賛美歌が途切れ
 舟で対岸に着いたのが午後11時のため、舟で一夜を過ごし、刑場に着いたのは5日午前9時半ごろ。この時、混乱を避けるために外出禁止令が出されていたにもかかわらず、4千人以上もの信者がまわりを取り囲んでいた。
 ルイス・フロイスの記述などによると、刑場には他の罪人の十字架も数本立っていた。すでに26人の十字架を立てるための穴も用意され、穴の前には十字架が1本ずつ置かれていた。
 到着するなり刑は執行された。縄は刑場内で解かれるが、今度は横たわる十字架上に鉄枷(かせ)で手足を、縄で首と胴を固定したあと十字架の下部を落とすように穴の中入れて一斉に立てられると、周囲からは悲鳴にも似た叫び声が起こった。
 3、4歩間隔で整然と一列に並んだ十字架の両端には4人の執行人が槍(やり)を持って立っていた。2人一組で左右から刺す。槍の先が心臓を貫くため、ほとんどがひと突きで息絶えるが、すぐに死ねない場合は絶命するまで何度も刺す。
 鞘(さや)が取り払われると周囲の信者はざわつき、受刑者の間からは「イエズス、マリア」の声が響いた。パウロ三木は説教者にふさわしく、絶命するまで周囲の人たちにキリスト教を信仰するよう大声で説いた。
 最初に執行されたのはメキシコ人修道士のフェリペ(24)。十字架のサイズが合わなかったため首の縄が締まり、窒息死寸前だったための処置だった。
 以後、ひとり、またひとりと駆け足状態で刺されていくたびに周囲から悲鳴が起こる一方、刑場内での神をたたえる声は少なくなっていった。そして、賛美歌を歌うバプチスタの声が途切れたところで刑は終わった。午前11時ごろといわれている。
(おわり)



 光秀は「信長」「秀吉」同時討伐を狙っていた…電撃戦術をほつれさせた「長宗我部」の弱気
2014.7.13 07:00  産經新聞

天正10(1582)年6月2日、織田信長が家臣の明智光秀に討たれた本能寺の変の直前、四国最大の大名、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が光秀の重臣に送った1枚の手紙が最近見つかり、話題になった。直前に迫った信長の四国派兵を恐れた元親が信長に従うとした内容で、信長軍の出撃日と本能寺の変の日が重なるだけに、関連資料として、より注目される結果となった。一戦も辞さない覚悟とみられた元親の気弱ともとれる意外な内容だが、ここから光秀がどのように刺激され、本能寺へ結びついていったのか。大胆に仮説を立ててみた。
■信長の指示に従い…
 信長と元親の関係は当初は良好で、光秀を交渉の窓口に、四国で元親が占領した分はすべて所領にしてもよい−などとする信長の約束をとり付けている。
 ところが、元親と争う阿波の三好氏が信長に接近して以降、信長と元親の関係はしだいに悪化。ほぼ四国全土を手中に収めていた元親に、信長は土佐と阿波の南半分以外をすべて返還するよう命じる。
 当初の約束をほごにされた元親は信長の命令を拒否し、天正9年には交渉も決裂すると、反織田勢力の毛利氏と同盟を結び、この時点で信長との戦いは必至の状態となった。
 そして信長が天正10年5月上旬に四国攻めを決定。三男・信孝を総大将に摂津と和泉に数万人を集結させる一方、先陣の三好康長が阿波北部の城を攻撃。長宗我部勢はほとんど抵抗することなく、阿波南部に退却している。
 手紙はこういった状況の中、元親が、かつて信長との交渉窓口だった光秀の筆頭家老で、婚姻などを通じて親類関係にあった斎藤利三宛てに5月21日付で送っている。
 これによると、阿波の一宮、夷山、畑山の諸城からは撤退するが、海部、大西両城は土佐の出入口にあたるので、このまま領地としたい。信長が甲斐の武田征伐から帰ってきたら、従いたい−などといった内容になっている。
■光秀の意図
 手紙の日付から10日後の6月2日に本能寺の変は起き、ついに信長は光秀に倒される。この日は、信孝が四国に向けて出撃する日でもあり、これは単なる偶然だろうか。
 長宗我部、明智両氏は親族なのだから、信長の四国征伐を阻止する目的で、密約があったという予測も成り立つ。
 しかも、信長配下の有力武将は他の戦いに明け暮れて、京都には誰もいないといった好材料がそろっていた。
 信心深い光秀と比叡山を焼き打ちにするような信長とは水と油。光秀が敬う朝廷を信長は軽視し、自分の領地の近江、丹波までも召し上げようとする信長を光秀はどうしても許せなかったのでは。
 そこで信長の殺害を決意するのだが、光秀が自分に味方する勢力などを考えるにあたって、まず思い浮かんだのが、室町幕府第15代将軍の足利義昭だったのではなかろうか。
 光秀がかつて仕えていた義昭は信長に京都を追放されて毛利領の備後・鞆(とも)に身を寄せていたとはいえ、このときはまだ征夷大将軍の地位のままである。
 この義昭を担ぎ出し、良好な関係を築いてきた朝廷からの支持を得て幕府を再興すれば、かつての足利氏家臣、細川藤孝や義昭の面倒をみてきた毛利氏の援助も期待できる。
 さらに相当に切羽詰まった心情が伝わってくる元親の手紙を見た光秀は「信長を倒すことを条件に味方になってくれるだろう」と確信したに違いない。
 このため、元親の手紙を受け取るとすぐに、光秀は「四国出撃の日の6月2日に信長を討つので、手を貸してほしい」といった内容の手紙を元親に送った可能性もある。
 それどころか、時間も押し迫っていたので、正確に作戦を伝えるため、直接に家臣を四国へ赴かせたかもしれない。
■ターゲットは秀吉?
 ここで考えられる元親の役割はやはり、毛利攻めで備中高松城にいた羽柴秀吉の背後を突くことだったと推測する。
 長宗我部軍は、「一領具足(いちりょうぐそく)」といわれる、ふだんは領地で田畑を耕している武装農民を主体としていただけに結束力が高かったのに対し、信長軍の兵は雇い兵が多かった。
 雇い兵はすぐに数がそろえられる半面、集団としての結びつきが希薄で、四国攻めの兵は信長の死で混乱したというから、元親からすれば、備中にいた3万の秀吉軍をターゲットにすればよいということになる。
 しかも、秀吉軍とにらみ合うのは、長宗我部と同盟関係にある約4万の毛利軍である。
 本能寺の直前まで信長の威光の下で元親と戦っていた三好軍が信長の死で動揺している隙に、長宗我部の家臣、池頼和(いけよりかず)率いる水軍の力を借りて秀吉の背後をつけば、勝利の可能性も高くなる。
 ただし元親に問題になることがひとつあった。農民が兵の主力となっていた元親軍にとって、5月から6月初旬は田植えの時期にあたることだった。
 「強力な信長の兵に対して、どれだけの兵がそろうのだろう?」。あの気弱ともとれる光秀への書状の裏には、こういった背景も隠されていたのではないだろうか。
 このあたりから、光秀の思惑のほつれが始まったようにも思う。
(つづく)


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