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白昼メッタ刺し、斬首…攘夷派の「憎悪」誘発した“開国攘夷派・象山”の「とんでもない計画」
2014.3.23 07:00 産經新聞
ペリー率いる米艦隊が浦賀に来航して以来、世論が開国か、外国を打ち払う攘夷(じょうい)かで揺れていた元治元(1864)年7月11日、京都・木屋町で開国派の兵学者、佐久間象山が白昼、数人の男に刺されて死亡する事件が起きた。開国派が攘夷派に狙われたという当時としてはお決まりの構図のようにも思えるが、その中には象山のとんでもない計画への阻止行動という意味合いも強く含まれていた。その計画とは−。
■西洋かぶれ
暑い夏の日だった。
象山はこの日の朝、宮家創設間もない山階宮(やましなのみや)に自ら策定した開港の勅許案を説明するために木屋町御池の宿所を出ると、京都御所の南西角にある閑院宮(かんいんのみや)邸を訪ねる。
そのあと、いったん南に向かって、知り合いの本覚寺(富小路五条)に立ち寄り、それから宿所へ戻るため寺町通を北上してしていた。
象山は開国派とはいってもただ外国に追従するだけではなく、外国の先進技術を学びながら国力をあげたのち、列強の仲間入りを果たすといった、他の開国論者とはひと味違う、いわば開国攘夷論者だった。
とはいえ、当時の江戸幕府第14代将軍、徳川家茂(いえもち)の要請で3月に江戸から上洛したとき、洋装で様式の鞍(くら)を付けた白馬にまたがる象山の姿は、攘夷論者にとっては西洋かぶれの腑抜(ふぬ)けに見えたのだろう。
この前年、攘夷派の公家や長州藩士らが京都から一掃されると、報復として開国論者が攘夷派に狙われて命を落とす事件が多発する状況下、朝廷や幕府要人らに開国を説く象山が攘夷派の刺客に狙われる確率はかなり高かった。
その確率といったら、長州・吉田松蔭のかつての師でもあった象山に、攘夷派ながら一目を置いていた長州の桂小五郎も、知人を通じて警戒を促したといわれるほどに切迫した状況だった。
■待ち構える刺客
本来ならば、いくら警戒してもし足りるということはないのだが、象山本人は周囲の心配をよそに馬引きら数人のみで街中を移動するなど、いっこうに意に介していない様子。
それどころか、背丈が当時としては大柄の170センチはあったとされる象山が黒の裃(かみしも)と白い小袖(こそで)という粋ないで立ちで、白馬にまたがった姿は相当に目立っていたはずで、「襲えるものなら襲ってみろ」と、攘夷派を挑発しているようにもうかがえる。
だが、この過剰な自信が命取りとなった。この日、象山の行く先々に刺客の罠が何重にも巡らされていたのだ。悠々と寺町通を進む象山が最初に刺客の存在に気がついたのは、四条通に差し掛かった所だったともいわれている。
だが、刺客が象山を最初に襲ったのは、三条通と木屋町通が交差する三条大橋の西詰、つまり三条小橋に近いところだった。いきなり刀を抜いた2人の男が象山の前に現れる。
危険を察知した象山は目と鼻の先まで迫った宿舎に逃げ込もうとしたのか、馬を走らせて木屋町通を北上しようとした。だが、ここで馬が切られる。
それでも何とか馬を走らせた象山だったが、馬が宿舎前を通り過ぎて御池通に出たところで、さきほどとは別の2人の刺客の待ち伏せに遭い、挟み撃ちにされてしまう。
■血まみれの小袖
「お前ら、何者だ!!」と象山は剣を抜いて応戦したが、ここで馬が力尽き、すごい土煙とともに象山も転落する。
そこに襲いかかった刺客は、熊本藩士の河上彦斎(げんさい)と平戸脱藩浪士の松浦虎太郎(とらたろう)の2人。松浦が最初のひと太刀を浴びせ、居合い抜きの名人の河上がとどめを刺したとも。
象山の小袖は血で真っ赤に染まり、翌朝、三条河原に首がさらされたというからには発見時は遺体に首がなかったのだろう。メッタ刺し状態だったといい、かなり恨みに思われていたに違いない。
それもそのはず。ちょうどひと月前、攘夷派が三条・池田屋で新選組の襲撃に遭い多数が死傷する事件をきっかけに、長州藩を中心にした攘夷派が幕府との対決姿勢を強める中、象山は天皇の御座所を幕府の警護の行き届いた彦根に移す計画を進めていたのだ。
これでは京都に戻るきっかけを失う攘夷派は7月10日、計画の真偽を象山に問うたところ、象山はあっさりと認めたという。その翌日の象山暗殺。
10日後、三条大橋に攘夷派の犯行声明ともとれる斬奸状(ざんかんじょう)が立った。これには次のような内容が書かれていた。
元来、西洋学を唱えて開港を主張。会津、彦根二藩と天皇を彦根に移そうとしている。これは人道を踏み外した行為で、とうてい受け入れることのできない国賊的行為につき、三条木屋町で天誅(てんちゅう)を加えた。
元治元年7月21日 皇国忠義士
(つづく)
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