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 光秀の〝誤算〟背後に「黒田官兵衛」の存在…秀吉「中国大返し」は官兵衛のアンテナと予測があってこそか
2014.7.20 07:00  産經新聞

領地の割譲を求める織田信長との一戦も辞さない四国最大の戦国大名、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が本能寺の変の直前、明智光秀の重臣に宛てた1枚の手紙から光秀の謀反の真相を大胆に読むシリーズの第2回は、羽柴秀吉の「中国大返し」を中心に話を展開する。天正10(1582)年6月2日に本能寺で信長を討った光秀だが、その後の思ってもみない誤算の連続に自らの読みの浅さを痛感することになる。そして、その背景に見え隠れする秀吉の軍師、黒田官兵衛の存在も見逃せない。
■早急な作戦
 本能寺襲撃は電撃作戦と呼ぶにふさわしい素早い動きだった。秀吉の援軍として備中高松城に向かうはずの光秀軍は居城・亀山城(現在の京都府亀岡市)から西へ向かわず、京へと兵を進める。
 さらに夜中、京内でも本能寺までの閉ざされた門を次々と開けさせることができたのは、光秀軍が信長親衛隊としての性格を持っていたためのことだろう。
 こうなると、百人足らずの手勢しかいない信長に対して1万3千人の光秀。結果は火を見るより明らかで、ここまでは光秀の計算通りだった。
 だが、光秀が謀反を思い立ったのはそれほど前のことではない。
 光秀の中で信長殺害が具体的になってきたのは、信長の家臣が戦いに出払って早々に帰れないうえ、上洛のための信長の手勢が少なことを知ってからのことだろう。
 また、元親討伐のため信長の三男、信孝と丹羽長秀が四国に出発する日が本能寺の変と同じ6月2日ということも、かかわっていると思う。
 四国統一の寸前、信長に所領の半分の割譲を迫られて一度は刃向かった元親だが、信長の四国討伐の命を知り、信長の指示に従うとする手紙を光秀の重臣・斎藤利三に出したのが5月21日。
こんな元親の弱気な手紙を見た光秀が、信長を討つかわりに味方につくことを求めた結果がこの日だとも考えられる。
■大返しの真意
 こういう状況下、光秀と元親の密約らしい気配を薄々だが察知していた人物もいたのではなかろうか。秀吉の軍師、黒田官兵衛である。
 当時は信長の最大の敵とみられていた甲斐の武田氏も滅び、全国が信長の勢力下に入ろうとしていたとはいえ、まだ有力武将が各地に点在していた時代。
 軍師は先々の作戦を立てる上で各地の情勢を知る必要もあり、自分のスパイを要所に放っていたことは予想できる。特に長宗我部と毛利は織田の当面の敵とみていただろうから、官兵衛も情報収集に余念がなかったことだろう。
 そんなときに起きた本能寺の変。毛利との戦いのため、備中にいた秀吉が本能寺の変を知ったのは3日夜ともいわれている。
 このとき、官兵衛の頭の中にはまず秀吉が、信長を討った光秀を倒し、後継者争いの主導権を握ってもらうことと、あわせて光秀と親しい元親の存在もあったと思う。
 もとは「水攻め」という長期戦に臨んでいた高松城での戦いだったが、信長亡き今、このまま戦いが長引けば、海を越えた元親に背後を奇襲され、毛利との挟み撃ちに会う危険性も考えていたのでは。
 そこで信長の死が毛利側に漏れないよう道路を封鎖すると、その夜、毛利の外交僧・安国寺恵瓊(えけい)を呼び出し、すぐに和睦の交渉に入ったのはそのためだと思われる。
 信長軍と全面衝突して家を滅ぼしたくない毛利軍との交渉は意外に早くまとまり、秀吉軍が戦場を離脱したのは4日午後とも6日午後ともいわれている。
■相次ぐ誤算
 謀(はかりごと)は密にといわれるように光秀は一部の親しい関係者にしか打ち明けず、しかも事前の準備もなくて見切り発車したのが、本能寺の変だった。
 とはいえ、各戦場に散る信長の有力家臣が早急に帰ってくることはないみていた光秀は、多少はある時間的余裕の中で態勢を整えるつもりではなかったのだろうか。
 備後・鞆にいる室町幕府第15代将軍、足利義昭を京都に呼び戻し、朝廷を味方につける。しかも、娘のガラシャを嫁がせている丹後の細川氏や大和郡山の筒井氏ら、光秀と親しい有力大名の加勢も期待していたことだろう。
 ところが秀吉の動きが早すぎた。しかも、備中高松城で和睦したとはいえ、信長の死を知ったことで秀吉を追いかけ、攻撃するだろうとみた毛利軍の姿もなかった。
 実は毛利軍の参謀格、小早川隆景は、秀吉に天下人としての器量を見いだす一方で、足利義昭では再び天下は乱れるとみていたらしく、京都へ戻りたい義昭の要請を一蹴している。
 また武装農民を主体とした長宗我部軍は、田植えのピーク期は過ぎていたものの、まだ農繁期であるこの時期に兵の大量動員はなかなかできず、傭兵の多い三好勢との戦いで四苦八苦していたのかもしれない。
 さらに再三、出動を要請していた丹波の細川藤孝からも断られている。信長の死を機に剃髪(ていはつ)したことなどを理由にしていたが、このまま光秀と組んでも、敗れる可能性が高いとみていたようである。
 ここに、光秀の準備不足と見通しの甘さが露呈した格好となった。
(つづく)


光秀を孤立無援にした「信長」の人望…信賞必罰・強権の裏で民衆・家臣に心砕いていた
2014.7.27 07:00  産經新聞

天正10(1582)年6月2日、京都・本能寺で織田信長を討った明智光秀だったが、その後、あてにしていた有力武将の援軍もなく、天王山のふもとで毛利軍と和解後、あっという間に引き返してきた羽柴秀吉と戦う。一見やることなすことが強権的で、“戦国時代のパワハラ王”ともいえる信長だっただけに反対派も相当多かったはず。それなのに、なぜ光秀は無視されてしまったのか。やはり光秀に人望がなかったのか。それとも…。
■支持率が高い信長
 実力を第一とし、はっきりした信賞必罰をとる信長は、力がある家臣は足軽でも引き揚げるが、失敗するとたまに暴力に訴えることもあった。このため、家臣との確執も絶えず、松永久秀や荒木村重ら数多くの裏切りにあっている。
 それでも力で押さえ込むと一族をも皆殺しにしてしまうなど、恐怖を背景に従える心理的効果は絶大だった。一方、占領したばかりの地でむやみな課税を禁止する命を出して悪い印象を払拭するなど、民衆の支持率には相当に気を配っていたという。
 また仏教や朝廷など旧態依然とした勢力を徹底的に嫌い、新しいものを好んだことから、自分あるいは家臣が治める城下町にいた特権を持つ商工業者組合を解散させ、新興業者に自由な商売を奨励する新しい経済政策をとったことで人気を決定的にした。
 この結果、家臣からは神や仏以上に畏れられ、民衆からはこれまでの閉塞感漂う政治、経済を一掃した革新政治家のイメージを植え付けるのに成功。“信長内閣”の支持率は相当に高かったともいわれている。
こうなると信長を討った光秀は動機はどうあれ、家臣から神仏以上にあがめられていた人を殺害した謀反人で、国民にすれば良き宰相を追い落とした極悪人である。
 光秀に加担した場合も、また謀反人、極悪人となることが十分に予想されたことから、加勢を見合わせたという雰囲気が強いようにも思える。 
■元親は…
 信長の四国侵攻直前、光秀の重臣に信長への恭順の意を示した書状を送っていた長宗我部元親も、どこまで光秀を助けるつもりだったのか。
 元親は「一両具足」と呼ばれる、平時は農作業をしながら、いざというときには作業を途中で放って駆けつける軍事制度を確立している。武士だけでは数が足りず、純粋な農民は動員に時間がかかるという、戦国大名が抱える問題を一気に解決した制度といえる。
 だが、信長や秀吉が確立したとされる、世の中の“あふれ者”を金銭で雇って兵に仕立てる常備軍制度は組織力で一領具足に劣るものの、動員速度ははるかに速い。
 このため、豊富な財力を武器に敵より圧倒的な兵力を用意すれば組織力も高まり、実力次第では、アルバイトから社員、幹部などといった出世も夢ではないだけに、必至で働くことになる。
 本能寺より1カ月前の5月に信長は四国侵攻を決めたとき、このまますぐに攻められては、いくら一領具足の動員力が優れているとはいえ、間に合わないとでも思ったのではないだろうか。
 信長との戦も辞さなかった元親が突然に信長への恭順を表した書状を光秀方へ送ったのも、時間稼ぎ的な意味合いもあったとも考えられる。
その証拠に、本能寺の4カ月後の10月に行われた讃岐・十河(そごう)城攻略戦で元親は3万6千の兵を動員している。しかも、翌年の賤ヶ岳の戦いで秀吉と争う柴田勝家と手を結んでいるところをみると、元親の気力も兵力もいっこうに衰えていない。
 四国攻めのため、四国の対岸の摂津と和泉にいた織田信孝軍は本能寺の変で撤退し、信長の力を背に元親と戦っていた三好勢も逃げる。これで助かった元親は「もう光秀の役割は終わった」と冷徹な目で見ていたのかもしれない。
■孤独の死
 本能寺の変の翌日の夜に信長の死を知った秀吉は備中高松城を介してにらみ合っていた毛利軍と講和を結ぶと6日に出発し、姫路城に到着したのが7日で、9日朝まで休養のために滞在したという。
 秀吉が京都へ引き返していることを光秀が知ったのは8日。近江をほぼ平定して、安土城で朝廷の勅使らと祝賀会を催した後、居城・坂本城に戻ったときともいわれている。
 あまりの秀吉軍の動きの早さに慌てた光秀は準備もそこそこに、とりあえずありったけの兵で天王山のふもとに戦場を設定して待つことにした。
 ここは桂川、宇治川、木津川が合流して淀川へと連なる狭隘(きょうあい)の地。秀吉軍の4万に対して1万6千の明智軍。数の上ではすでに勝負にならないため、光秀は狭い場所で各個撃破する目算だった。
12日、現地に到着した秀吉軍は小泉川(現・円明寺川)を境に光秀とにらみ合うが、やはり多勢に無勢だった。13日、淀川から側面をつかれた光秀軍は総崩れとなる。
 光秀は戦場近くの勝竜寺城まで退却して態勢を整えようとしたが、城が手狭ですべて収容できないことから、ほとんどの兵は逃げてしまう。
 この散々な結果に、光秀は城の北門からひそかに脱出すると、数人の家臣ともに近江・坂本を目指すも、途中の京・小栗栖の竹やぶで土民に竹やりに刺され命を落とす。
 裏切り、裏切られてが当たり前の戦国の世にふさわしい光秀の死だった。
(おわり)

本能寺の変(1)

「魚が腐っているぞ!」信長の叱責で従順な光秀がキレた? 謎を呼ぶ謀反の真相
2013.5.2 08:00 産經新聞

 天下統一を目前にした織田信長が天正10(1582)年、最も信頼を寄せていた家臣の一人、明智光秀に京都・本能寺で討たれる。従順なはずの光秀がなぜ謀反を起こしたのか。
今も多くの謎に包まれ、歴史最大のミステリーになっている。今回はその謎を解きほぐしつつ、5回にわたって事件の真相に迫る。
■事件現場の風景
 信長が討たれた本能寺は今、京都市役所前の河原町御池近くに伽藍(がらん)を見る。だが、当時の本能寺は今の場所から西約1キロの堀川通の近くにあった。
 現在の市立堀川高校の裏手に近い住宅地の中。北端は六角通、南端は蛸薬師(たこやくし)通。東端は西洞院(にしのとういん)通、西端は油小路と、現在とほぼ同じ広さはあったようだ。
 寺といえ当時は石垣が施された幅の広い堀や土居と要塞化され、防御に優れていた。
 が、事件当日は多勢に無勢。光秀の攻撃を受けて信長が寺に火を放つと寺は丸焼けに。その後、豊臣秀吉に整地され、事件から9年後の天正19年、寺は現在地に移っている。
旧寺域からは平成19年から翌年にかけて実施された発掘調査で、石垣や焼け土とともに「能」の異体字の銘を持つ瓦などが大量に出土したのは記憶に新しい。
■現場周辺の風景
 応仁の乱以来、長く続いた戦乱のため、京都は当時の首都とはいえ町は相当に荒れ果てていた。
 相国寺を周辺にした上京と四条通を中心にした下京にわずかに町並みが形成され、かつて都の中心だった二条通周辺は田園地帯と化していた。その上京と下京を結んでいた道路は室町通1本だけというお寒い風景だった。
 そんな中、それぞれに場所や時代も異なるが、室町幕府や信長らは二条通周辺に城郭・御所を築く。この伝統を引き継いだ徳川家康ら江戸幕府が築いたのが、今に残る二条城だ。
 事件時、信長の長男、信忠が宿舎とした妙覚寺は信長の本能寺とは北東約1キロの二条衣棚(ころもたな)にあった。襲撃を知り、信忠は寺を出て光秀を討とうとするが、本能寺が落ちたのを知ると二条御新造で自害する。
■事件前の風景
 事件の約2週間前の5月15日、信長の居城・安土城で、最大のライバルとみられた武田氏を天目山で滅亡させた祝勝会を開いたときのこと。
 徳川家康の接待役に選ばれた明智光秀は料理の魚が腐っていると信長に叱責されると、役目を解任されて備中(今の岡山)で毛利軍と奮戦中の秀吉軍の援軍を命じられる。
 そのうえ領地の丹波と近江を召し上げられた揚げ句に、毛利領の石見と出雲を「自分で取ってこい」と言われる始末。
 この話をそのまま受け取れば、非情な命である。いくら従順な光秀でも怒るのも当然だろう。
 越前・朝倉家や足利将軍家とのつながりが深い光秀が信長の家臣になるころ、信長に命じられた比叡山焼き打ちは信心深い光秀にとっては辛い出来事だったに違いない。
(つづく)

本能寺の変(2)

信長の油断が招いたクーデター 数時間で日本の権力構造が一変
2013.5.3 07:00  産經新聞

 天正10(1582)年6月2日午前4時ごろ、中国地方の毛利軍と戦闘中の羽柴秀吉の援軍要請もあり、京都・本能寺に宿泊中の織田信長は外の騒がしい物音で目が覚めた。
 最初に異変に気付いたのは本能寺門前にいた信長の家臣、村井貞勝といわれている。貞勝も信長も最初は誰かのけんかかと思っていた。
 だが、多くの旗が寺のまわりを取り囲んでいることに気づき、近くにいた小姓の森蘭丸に「謀反? 誰のたくらみか」と聞くと、蘭丸は「旗の家紋がキキョウ。明智光秀のようです」と答える。
 蘭丸はすぐに寺を脱出することを信長に進言したものの、1万3000の明智軍に対し「多勢に無勢」を悟った信長は、「是非に及ばず」と一言。弓を持ち出した。
×  ×  ×
 本能寺の変の1カ月前の5月、かつては戦国最強とうたわれた武田軍を天目山で壊滅させ、四国の長宗我部軍、北陸の上杉軍は信長に対抗する力はなく、中国の雄・毛利軍とも優位に戦いを進めていた。
 すでに天下統一も目前というところで秀吉から援軍要請。低湿地に囲まれてなかなか落とせない備中高松城に4万の毛利輝元軍が接近しつつあるという状況に、おそらく信長は毛利壊滅のチャンスと思ったのだろう。
 信長が自ら備中へ向かうため光秀に先陣を務めるように命令する。このとき信長が本能寺に連れてきた家臣は20〜30人とも160人ともいわれている。
×  ×  ×
 当然、信長本隊の警護が手薄なことは承知していた明智軍は空が白みかけたころ、寺に向けて発砲すると同時に明智光春らが四方から一斉に境内になだれ込んだ。
 弓を持って応戦した信長だったが、数本の矢を撃ったところで弓が折れる。すると今度は薙刀(なぎなた)に持ち替えて奮戦するも、左肩に銃撃を受けるなどしたため、ついに断念する。
 信長は女衆に逃げるように指示した後、奥にこもって「誰も入れさせるな」と寺に火を放つよう蘭丸に指示。自刀して果てた。
 これに対し、村井貞勝は本能寺から北約1キロ離れた妙覚寺に滞在中の織田信忠に光秀の謀反を報告。信忠は寺を出て、隣の二条御新造で光秀勢を迎え撃つことを決意する。
 だが光秀の大軍にはかなわず、城に火をつけて自刃してしまう。以降、織田家は衰退の道をたどる。
 天下統一を目前にした信長の油断が招いた光秀のクーデター。わずか数時間で日本の権力構造が一変する日本歴史上ショッキングな事件となった。
(つづく)

本能寺の変(3)

恩人のドクロで酒宴、比叡山焼き打ち…信長に「鬼」を見た光秀
2013.5.4 07:00  産經新聞

 京都市北区の寺町通沿いに建つ曹洞宗寺院・天寧寺の本堂の天井裏から、明智光秀の位牌(いはい)が出てきたことが以前、話題になった。光秀の死後、数百年経た江戸時代に作られたものらしい。
 「謀反人」という世評もあるため天井裏に置かれたのだろうが、ちょうど本尊の上あたりに置いていたというから、お寺としては相当に大事にしていたのだろうと思われる。
 なぜこの寺に置かれていたのか、ということについては定説はない。天寧寺はもともと会津藩にかかわる寺で、光秀との関係は考えられない。
 だが、この寺が建つ以前は比叡山延暦寺の末寺、松陰坊があったという。延暦寺への参拝前に宿泊するような施設だったようで、今も境内から比叡山が美しく望める。特に門から見る山は絶景で、「額縁の門」の名を持つ。
 つまり、光秀の位牌は松陰坊、ひいては延暦寺と光秀の関わりの深さを物語るもので、それを寺が変わった今も守っている−ということである。
×  ×  ×
 光秀と比叡山で思い出されるのは、元亀2(1571)年9月の比叡山の焼き打ちだろう。実行部隊として信長に従ったものの、教養が高く、信心深い光秀にとっては耐え難い行為だったかもしれない。
 このためだろうか、神仏の嫌いな信長は焼き打ちの戦後処理を光秀に任せたうえで比叡山の麓に領地を与え、光秀は延暦寺のおひざ元・坂本に城を構えることになる。
 このころから、光秀は信長の中に「鬼」を見ていたのではないか。
 その後、かつて仕えていた朝倉義景と浅井久政・長政親子の頭蓋骨に金箔(きんぱく)を張って酒宴を催し、一向一揆では信者を大量虐殺するなど、光秀にとって非情な出来事が次々起こる。 
そして、本能寺の1カ月前。武田家を滅ぼした徳川家康と酒宴を催した際、接待役を任された光秀が因縁をつけられた揚げ句、中国で毛利軍と戦闘中だった格下の羽柴秀吉の援軍を命じられる始末…。
 どこまでが事実かは不明な点はあるが、信長が光秀に仕打ちを行ったエピソードは数限りない。
×  ×  ×
 天正10(1582)年5月27日、光秀は丹波(現在の京都府亀岡市)の亀山城から「明智越え」を経由して愛宕山を参拝する。愛宕神社の本地仏が勝軍地蔵のため、戦勝祈願に出向いた光秀は何度もくじを引いたという。
 翌日の連歌会で光秀が詠んだ句は「時は今 あめが下しる 五月かな」。
 「時」は光秀の出身の土岐氏。「あめが下しる」は「天が下知る」に置き換えることができ、天下取りを意識した句だいうのが大方の見方だ。
 6月1日夕刻、秀吉の援軍に向かうとして、1万3千の兵を率いて亀山城を出た光秀は重臣に謀反の意志を伝え、桂川を渡ったところで全軍にあの名文句「敵は本能寺にあり」と伝えたという。
 山陰街道から七条通に入った明智軍の先鋒(せんぽう)は斎藤利三(としみつ)が務め、暗がりの中で町内ごとにある柵を開かせながらスムーズに本能寺に近づいた。さらに嫡男・信忠のいる妙覚寺へと軍を進めていく。
 わずかな手勢しか率いていなかった信長・信忠親子を夜明け間近に襲った計画は信長の虚を突く、いくさ巧者の光秀らしい作戦だった。
(つづく)



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