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本能寺の変(4)

消えた信長の遺体 光秀の捜索でも見つからず謎呼ぶ暗殺劇
2013.5.5 07:00  産經新聞

 全国統一が間近だった織田信長が絶対的に信頼を寄せていた家臣、明智光秀の襲撃を受けた本能寺の変も今でいうサラリーマンの出勤時までには片が付いたと思われ、光秀は焼け落ちた本能寺の中から信長の遺体の捜索を命じる。
 だが、探しても信長の遺体は見つからない。「もしかして信長は逃げ出したのか…」。焦る光秀軍は洛中の住宅に一軒一軒入り込んで、家捜しをする慌てぶりだったという。
 実は、織田家と深い親交のある阿弥陀寺の清玉(せいぎょく)上人が、本能寺のことを聞きつけると現場に向かい、信長の遺体を持ち帰ったというのだ。
 この話は阿弥陀寺の記録に残っている。もう少し詳しく述べると、次のようになる。
 上人は20人ほどの僧を連れて本能寺と二条御新造に向かう。本能寺では表門から入ることができず裏門から入ると信長の遺体を側近が焼く場面に出くわす。そこで頼み込んで遺骨を引き取ると衣に包み、混乱に紛れて阿弥陀寺に運んだという。
×  ×  ×
 しかし、明智軍が必死で信長の遺体を捜索している最中に清玉上人が遺骨を引き取ったというのは、どこまで信用できる話か疑問が残る。
 信長が蘭丸に命じて火を付けさせ、寺は丸焼けになっているのである。遺体も炭化していて、どの遺体が誰なのか、今のように科学捜査の技術が発達していれば可能だろうが、当時としては無理なこと。
 だが、寺町通沿いに仏閣を見せる阿弥陀寺の墓地には、「織田信長信忠討死衆墓所」として信長ほか、本能寺の変で亡くなった信長の小姓、森蘭丸らの墓も建つ。
この点からして、事後に信長のいた本能寺と信忠のいた二条御新造に入った清玉上人らは、残骸の中に残っていた無数の正体不明の遺骨を拾い、阿弥陀寺に収容したと見る方が自然。たぶんその中に、信長や信忠の遺骨もあったようにも思える。
×  ×  ×
 信長の正式な墓はどこか−となると、これもまた難しい。
 京都市内だけでも阿弥陀寺(上京区)のほか、信長が襲撃を受けた本能寺(中京区)は特に有名。
 信長の後継者として世間的に印象づけたい羽柴秀吉が信長の葬儀を盛大にとり行い、菩提(ぼだい)寺とした大徳寺塔頭(たっちゅう)・総見院(北区、通常非公開)には信長の正室、帰蝶(濃姫)や側室、お鍋の墓ら一族の墓が並ぶ。
 秀吉は清玉上人に信長の一周忌法要を依頼するが、政治的な宣伝に使われると読んだ上人は秀吉の依頼をはねつける。そうして建てられたのが総見院。遺灰も遺骨もない中、2体作った信長の木像うち一体を火葬にしたという。
 この後、秀吉は阿弥陀寺はこの仕返しとして、今出川大宮にあった阿弥陀寺を東約1・5キロの寺町通の現在地に縮小、移転させている。
 このほか、信忠の菩提寺の大雲院(東山区、通常非公開)▽信長の乳母の菩提寺、妙心寺塔頭・玉鳳院(右京区、通常非公開)−など。全国的にみると信長の墓は相当数にのぼり、どれが本物かはまったくの不明である。
(つづく)

本能寺の変(5)

秀吉の超人的破壊力に屈した「天王山」 
無残!光秀「12日天下」の夢

2013.5.6 07:00  産經新聞

本能寺の変のとき、織田信長の同盟者、徳川家康や有力家臣たちは、どこにいて、どのような状況だったのか。
 羽柴秀吉は備中・高松城(現在の岡山市)で毛利軍と対峙(たいじ)していたのだが、信長と同盟を結んでいた徳川家康は大坂・堺で観光中だった。
 さらに織田信長の有力家臣の中、柴田勝家は越中・魚津城(富山)で上杉軍と壮絶な戦いを展開。滝川一益は上野・厩(うまや)橋(東京)で北条氏、四国の長宗我部を討つために待機中の丹羽長秀は家康の接待役を命じられ、大坂にいた。
 このようにバラバラの状態で主君の死の知らせを受けたのだが、この中で最も素早い行動をみせたのが秀吉だった。
 事件翌日の3日夜、知らせを聞いた秀吉は信長の死をまだ知らない毛利軍と和睦すると、5日に撤兵を始め、7日には姫路入り。11日には尼崎と、当時としては考えられないスピードで京へ向かった。
×  ×  ×
 一方、光秀は事後、安土城に入ると、有力武将を身方に引き入れようと説得していくが、予想以上に難航した。
特に期待していた娘の嫁ぎ先、細川氏のほか筒井順慶ら畿内の有力大名、5日間にわたり説得した朝廷にも支持されることなく、四面楚歌(しめんそか)のまま秀吉軍を迎えることになる。
 12日は摂津富田(せっつとんだ)まで迫った秀吉軍。2万の軍隊が1週間ほどで180キロを動いたのだ。この素早さは光秀にとっては計算外だった。
 戦いの準備が整わないうちに出陣した1万強の光秀軍は京都の入り口、天王山の麓、山崎で秀吉軍を待つことになった。
 天王山と男山に挟まれた地に宇治、木津の3川が流れる交通の要衝。摂津の有力武将を味方に付けて自軍の倍以上にふくれあがった秀吉軍と13日午後4時、ついに激突した。
×  ×  ×
 初めこそ斎藤利三らの奮戦で優位に進めたが、側面を突かれた光秀軍は総崩れとなる。日没が幸いして光秀は近くの勝龍寺城まで退却したが、兵は相次ぐ脱走で700まで減少する。
 ここで討ち死にも考えた光秀だったが、「坂本などに合わせて5千の兵が健在です。再起を」という家臣の進言もあり翻意。居城の近江・坂本城に一旦戻り、兵を立て直すことを決意する。
少ない手勢とともに闇に紛れて勝龍寺城を脱出した光秀は雨の中、30キロほど進んだだろうか。小栗栖(おぐりす)(京都市山科区)の本経寺の裏の竹薮にさしかかった所で落人狩りに遭い、竹槍で脇腹を突かれる。
 光秀はそこで絶命したとも、家臣の介錯で自刃したとも伝えられる。本能寺の変からわずか12日のことだった。光秀の首は、粟田口(あわたぐち)(京都市東山区)に埋められたとされ、知恩院の近くに「首塚」とされる五重の石塔が残る。
(おわり)

酒飲ませ寝込み襲った近藤一派「双頭の鷲」が招いた内部抗争
2013.4.7 07:00  産經新聞

 池田屋事件で新選組は局長、近藤勇の統率下、京都御所に火を放ち天皇を奪おうとした尊王攘夷派志士の犯行を抑えた。副長、土方歳三と作り上げた組織が一枚岩となった成果ともいえる。
だが、この事件以前には近藤以外に芹沢鴨(せりざわかも)というもう一人の局長が存在した時期があった。そこには組織が二分する危機がはらんでいた。
■芹沢鴨、死す
 文久3年9月16日、雨がひどく降る夜だった。京都・壬生の新選組屯所、八木邸の一角で「ワッ」という大きな声とともに、バタバタとした騒々しい音がしばらくの間続いた後、再び静まった。
 「何事か!?」と駆けつけた隊士が見たものは首が切られた筆頭局長、芹沢鴨の血みどろの遺体だった。さらに芹沢と同じ床にいた妾(めかけ)のお梅と、芹沢と衝立(ついたて)を隔てて寝ていた隊士の平山五郎も首が切られて亡くなっていた。
 お梅と平山は玄関から上がってすぐの居間で倒れていたが、芹沢は隣の八木源之丞(げんのじょう)の妻子が寝ていた部屋で倒れていた。
隣の部屋の鴨居(かもい)に犯人がつけたとみられる刀傷があり、その下に小机が置いていたことから、隣に逃げ込んだときに小机に脚をとられ、倒れたところでとどめを刺されたとみられる。
 犯人は逃走したが、目撃者によると、頭巾で顔を隠した数人の男だったというのだ。
 近藤が犯人探索を命じたが、結局は長州藩士の仕業と結論づけ、事件の2日後、八木邸の斜め向かいにある前川邸で盛大に葬儀が営まれた。
■計画的犯行
 芹沢は北辰(ほくしん)一刀流の腕利きとも神道無念流免許皆伝ともいわれている。
 事件の2カ月前、大坂で相撲取り50人を相手に起こした乱闘で見せた芹沢の豪胆さは隊の中でも群を抜いていたといい、たとえ複数人が襲ったとしても、そう簡単に切られるような相手ではなかった。
 だが、事件当夜は島原の角屋で平山、平間重助、土方歳三らと宴会を催し、八木邸に戻った後も飲み続けて泥酔し、お梅と寝込んでいた。その夜に芹沢の暗殺−。
犯人は平山を殺害すると芹沢に切りかかる。芹沢は寝込みを襲われたかたちだ。事情を知った者の犯行の疑いが強く、計画的犯行ともいえる。
 平間は芹沢と別の部屋で島原・輪違(わちがい)屋の芸妓、糸里といたため助かるも、隊を逃げ出した。
■本当の犯人は?
 西本願寺侍臣(じしん)で尊王攘夷派の西村兼文が後に書き残した「新撰組始末記」によると、犯人として土方のほか、沖田総司、山南敬助、原田左之助の名を挙げている。4人はいずれも近藤が江戸で道場主を務めていた試衛館ゆかりの人物で、西村は隊内の内部抗争を裏付けている。
 幕府第14代将軍、徳川家茂の上洛に伴う警護のためにと、山形・庄内藩出身の志士、清川八郎の要請に応じて大勢の浪士とともに芹沢と近藤のグループも上洛を果たす。
 水戸藩の尊王攘夷派としての実績を持つ芹沢グループと町道場を拠点に活動した近藤グループ。浪士組をわがものにしようとした清川の真意を知ると、芹沢は近藤に呼びかけて京都守護職、松平容保(かたもり)の下で壬生浪士組を結成する。
 ここまではよかった。しかし、エリート意識の強い芹沢と剣客揃いの近藤とはやはり思いの違いが表面化し、両グループの行動は次第にかけ離れていくのだった。
(つづく)

大砲で商家を破壊、遊郭で刃傷沙汰 稀代のワル芹沢の無法ぶりに近藤は…
2013.4.14 04:00 産經新聞
 
 文久3(1863)年8月12日夜、シーンと静まりかえった京都・堀川一条周辺に「ドーン」という一発の砲声がとどろいた。「何事か!!」とあわてて外に出た住民が葭屋町(よしやまち)通一条下ルの生糸商、大和屋前で大砲と複数の侍の集団を目撃する。
 新選組筆頭局長、芹沢鴨とその一派である。芹沢は覆面をして向かいの家の屋根に座り込み、見下ろす形で配下に命じていたという。参加した隊士は36人とも。
 この端緒は数日前、尊王攘夷(尊攘)派の中でも特に過激で知られる天誅(てんちゅう)組が仏光寺高倉の油商、八幡屋を襲い金を奪ったうえ、主人の首をさらすという事件にあった。
 八幡屋は開国以来、交易で相当にもうけていたらしく、このとき犯人は同様に巨額の利を得ていた大和屋も同罪とする札を置いていったことから、大和屋は京都守護職の会津藩に警備を依頼した。
 ところが、大和屋は天誅組にも多額の献金をしたらしく、それを聞きつけた芹沢グループが大和屋に「1万両を寄こせ」と乗り込んだのだが、断られる。
 これでは収まらない芹沢。当時、大砲を持ち出すにはまず局長同士の話し合いの上で会津藩の許可が必要だったのだが、芹沢は無断で持ち出し、大和屋に向けて発砲した。
 当時の大砲の弾は赤くなるまで熱した鉄の球だったため、大きな音の割には一発で破壊するだけの威力はなかった。だが何発も射撃し続けたことで、店は火の海と化す。
 過激な尊攘派を抑えるのに資金は必要だが、芹沢一派の強引な資金集めの手口には会津藩も手を焼いた。しかも京都・島原や大坂で酒を飲んでは刀を振り回すなど乱暴な所業に世間からも非難ごうごうだった。
ここで、隊内でも価値観の相違から仲間割れ寸前だった近藤勇ら旧試衛館グループと会津藩の利害は一致した。
 芹沢の行為が新選組の局中法度にある「勝手に金策いたすべからず」に触れるとして、芹沢グループの排除の前段階として、まず芹沢グループナンバー2、新見錦(にしき)に目をつける。
 新見は芹沢と同様、神道無念流の使い手で、文久3年3月の新選組結成当初の編成では芹沢、近藤と並んで局長となったが、5月に会津藩士を三条木屋町で殺害した罪で局長から副長に降格されている。
 大和屋事件にはいなかったが、日ごろから任務より遊び重視で、隊費と称して民家から金銭をねだるといった行動は芹沢が手を焼いたほどともいわれ、暗殺の3日前の9月13日、近藤と土方歳三、沖田総司らは祇園で遊ぶ新見の前で罪状を挙げて切腹を強要している。
 芹沢も新見の切腹は知らされていなかった。荒れたことだろう。そんな中、9月16日、土方らとともに飲んで酔っ払った末に寝込んだ芹沢は暗殺される。芹沢グループのうち平山五郎は芹沢とともに殺され、平間重助は難を逃れるも、そのまま行方不明に。
 そして芹沢グループで唯一、隊に幹部として残っていた野口健司もその年の12月27日、突然に切腹を言い渡される。原因は不明。
 これで、近藤グループにとっての目の上のこぶはすべていなくなった。(おわり)

新選組分裂(上)

博識のイケメン参謀・伊東甲子太郎 近藤、土方との「路線対立」が鮮明に
2013.4.21 07:00 産經新聞

 芹沢派を一掃後、一人の大物が新選組・壬生屯所の門をくぐる。常陸(ひたち)国(今の茨城県)出身の伊東甲子太郎(かしたろう)。博識で温厚な伊東はこれまで新選組になかったタイプで、局長・近藤勇の期待も厚かった。ところが伊東は「思想が異なる」と隊を離脱し、組織分裂という最大の危機を迎える。これに対し、近藤は伊東の暗殺とともに伊東グループの壊滅を謀るのだった。

■大物の入隊

 元治元(1864)年11月、数人の仲間とともに壬生の屯所に現れた伊東は背がスラリとしたスマートな美男子だった。

 水戸で勉学に励んだだけあって、近藤らと同様に攘夷(じょうい)の志を持ち、しかも高い教養を持っていた。さらに伊東と北辰(ほくしん)一刀流の同門だったという新選組幹部、藤堂平助も認めるほどの使い手。

 この時期、新選組は組織拡張を目指して近藤ら幹部が隊士のスカウトに全国を走り回り、その折に藤堂の仲介などもあって入隊することになった。

 荒くれ者集団のイメージを変える絶好の人物だったのだろう。近藤は「新選組参謀」という破格の待遇で迎え入れた。

■考えが違う

 全国でスカウトしたかいがあって、新選組は慶応元(1865)年夏には130人を超える大所帯となっていた。こうなると壬生の屯所も手狭になってきたため新しい屯所を西本願寺に求め、北集会所と太鼓楼を使うことになった。

理路整然として、さわやかな伊東の話しぶりは相変わらず人気の的で、近藤や副長の土方歳三もうらやむ人望の高さだった。

 そんな中、しだいに近藤らと伊東との考えの違いが大きくなってくる。同じ攘夷で結ばれてはいたが、幕府を主体とする近藤と朝廷を主体とした伊東。

 伊東の勤王思想は筋金入りで、公家中心にした新政府の設立を提唱するほどだった。

分裂の危機

 近藤と伊東との確執が決定的になると、伊東は慶応3(1867)年3月、新選組を離脱し、「禁裏御陵衛士」を結成。東山の月真院に屯所を置いた。倒幕に傾く薩摩の偵察と前年、突然に亡くなった孝明天皇の陵墓警備が任務という。

 伊東の同調者の中には当初から伊東グループだった鈴木三樹三郎や篠原泰之進のほか、近藤とは試衛館時代からの仲間だった藤堂平助や、近藤が伊東グループの内情を調べるために潜り込ませた斉藤一(はじめ)ら12人の名前があった。

 博識でリーダーとしての資質を兼ね備えた伊東の離脱で、「もっと離脱者が出てしまえば」と、近藤と土方は新選組分裂の危機感を抱く。そんな時、斉藤から「屯所を放火して局長を殺害し、隊を乗っ取る計画がある」という知らせが入る。

 「殺(や)らなければ、殺られる」。近藤と土方はついに伊東の殺害を決断する。(つづく)


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