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新選組分裂(下)

飲ませて闇討ち…美化された新選組の “本性” 
芹沢と同様に消された伊東

2013.4.28 07:00 産經新聞

 同じ攘夷(じょうい)思想を持ちながら「天皇を敬いつつも」という近藤勇に対し、「天皇の旗の下で」という伊東甲子太郎(かしたろう)の一派が思想が異なると分裂した新選組だが、ついに近藤が伊東一派の粛清を決意した。

■奸賊(かんぞく)ばら!!

 慶応3(1867)年11月18日、「先生と国事などについてお話をしたい」と近藤が七条堀川近くの妾(めかけ)宅に伊東を呼び出した。近藤を得意の弁舌で説き伏せる自信のあった伊東は「これはチャンス」とばかりに乗ってしまう。

 散々に弁舌をふるい、酒も相当に飲み、上機嫌で帰途に就いた伊東は木津屋橋通(東西道)から油小路通(南北道)に差し掛かろうとした夜道、待ち伏せていた新選組の大石鍬次郎(くわじろう)らに不意を突かれる。

 板塀の隙間からやりでのどを突かれた伊東は数十メートル逃げながら、「奸賊(凶賊)ばら」と叫び、本光寺前で息絶える。
油小路の戦い

 伊東の遺体は新選組によって七条油小路交差点近くに放置され、今度は遺体を引き取りに来る伊東が創設した禁裏御陵衛士を待ち伏せした。

 たぶん「わな」ということは承知しながら鈴木三樹三郎や篠原泰之進、藤堂平助ら御陵衛士の7人は決戦覚悟で現場に現れる。そこを約50人の新選組隊士が取り囲む。

 新選組創設以来の生え抜きの藤堂ら3人が討ち死にする。藤堂は、近藤の意向で逃げられるように道をあけていたが、事情を知らない隊士から額から鼻にかけて切られる。即死だったという。

 伊東らの遺体は同志を呼び出すために2日間野ざらしされた後、壬生の光縁寺に埋葬され、翌年、鈴木らが泉涌寺塔頭(たっちゅう)の戒光寺に改葬している。
伊東はうぬぼれ屋?

 伊東は新選組にはこれまでになかったタイプとして人気があった。「参謀」という地位は組織上ナンバーワンではないが、知力や話術を駆使して非公式なリーダーとしての素養は十分にあった。

 そんな伊東が組織を割るという。結成以来、大組織に育て上げた近藤や土方歳三にとっては、伊東グループの分裂は新選組を二分にする可能性を秘めた、結成以来の危機だったに違いない。

 だから事が大きくなる前に伊東一派を消す。自分の才能を過信する“うぬぼれ屋”と見た近藤らは、“巧言”を使って伊東をおびき出す。

 そして酒をさんざん飲ませた上で暗がりを襲うという芹沢を暗殺したとき同様の手口で出て、あっさりと殺害してしまう。ただし油小路の戦いで篠原ら多くのメンバーを逃がしたのは失敗だった。

 篠原らは薩摩藩邸に囲われ、1カ月後に伏見街道で近藤を銃で狙撃する。近藤は肩に重傷を負い、治療のため大坂に下り、後に起こった鳥羽伏見の戦いで指揮を執ることはなかった。(おわり)

新選組番外編

「鉄の規律」に潰された新選組、全死亡者「45人のうち39人が内部抗争・切腹」から浮かぶ “組織論”

2013.5.12 07:00 産經新聞

 「一、局を脱するを許さず」「一、勝手に金策いたすべからず」−。言わずと知れた新選組の「局中法度書」の一節である。5箇条からなり違反者は切腹という厳しいもので、これで命を落とした隊士も相当いたという。

法度を後世の創作とする説もあるが、規律のない組織も常識的には考えられない。そこで法度の真偽も含め、新選組と規律の関係を検証してみたい。

■禁令がモデルか?

 子母澤寛の小説「新選組始末記」によると、局中法度は5箇条からなり、新選組の結成直後の文久3(1863)年に定められたとされている。

 ただそういった正式の記録はなく、新選組の生き残り幹部、永倉新八がのちに語った回想録の中で、「禁令(または法令)」なるものがあったということがわかっている。

 その内容は局中法度5箇条のうち、「私の闘争を許さず」を除いたもので構成されていたという。この結果、子母澤が新選組の小説を書くにあたり禁令を母体にして「法度」を創作した可能性はある。

 だが、「私の闘争…」の項目をのちになぜ加える必要があったのか。武道でいう他流試合は認めない、つまり、新選組が一枚岩の組織だったことを際立たせたかったのだろうか。

■では禁令はいつ?

 文久3年3月、新選組の前身、壬生浪士組は試衛館の近藤勇派と水戸藩の芹沢鴨派の2グループの24人で発足した。

 両グループに接点はなかったが、それぞれのグループ内のメンバーは旧知の間柄で結束も固く、規律を文章化する必要性もなかっただろう。
このころ、禁令の内容にも似た規律が暗黙の了解の部分で存在していたことは推測される。だが隊士がふくれあがると、そうはいかない。暗黙の了解では物事は進まなくなる。

 確かに、元治元(1864)年6月の池田屋事件の直前、隊士の脱走が問題になっている。そして池田屋事件直後、全国をスカウト行脚した結果、200人を超す大所帯に。

 こうなるとひとつの軍隊だ。むしろここらで池田屋事件前の相次ぐ脱走を教訓に明文化した規律がなければ組織は成り立たなくなってきただろう。

■山南敬助の切腹

 元治2(1864)年2月、試衛館以来の同志で新選組総長の山南敬助が「江戸に行く」と手紙を残して隊を脱走する。

 かなり強い勤王派だった山南が脱走した理由については、同じ勤王派の伊東甲子太郎の入隊で居場がなくなった▽長州藩と近く、勤王色の強い西本願寺に屯所を移したことが山南に耐えられなかった▽近藤と副長の土方歳三らとの対立−などがあげられている。

 山南は近藤に追跡を命じられた沖田総司に大津宿で捕まり、隊の脱走を禁じたことを定めた法令違反の罪で2月23日、壬生・前川邸で切腹している。

 新選組が結成して以来、鳥羽・伏見の戦い以前の5年間で出した死亡者は45人で、うち戦いで死亡したのは6人のみ。ほとんどが内部抗争の果ての切り合いか法令違反で切腹した者たちである。

■晩年は足かせ

 新選組の禁令は“鉄の規律”といわれながら、生死の裁量は近藤や土方らに任せられていたという、あいまいなものだった。だが新選組が、えたいの知れない浪士集団から正式の軍隊へ変わったとき、隊の進むべき指針を示すものとして規律は十分に役立った。

 組織を運用させるためには目標達成機能と組織維持機能のバランスをってこそ成り立つ。新選組の場合は近藤や土方の指導力があって初めて機能するが、数百人もの“闘う集団”を維持していくためには規律は必要だし、近藤や土方を絶対視させるためにも強硬な裁量も仕方なかった。

■新選組の壊滅

 組織も成熟してくれば自然と隊士にも裁量や自由の欲求も出てくる。こうなると近藤らの裁量は隊士にとって窮屈なものとなり、邪魔以外の何ものでもなくなる。これまで切腹一辺倒だった裁量も状況に応じて変化しなければ、組織は自然と崩れる。

 慶応4(1868)年1月の鳥羽・伏見の戦い前後に大量の脱走者が出る。

 江戸幕府が政治を朝廷に返還したことで、一気に新選組が不利になった今、情勢を見極めて飛び出したのだろう。だが、この戦いの前、近藤が敵の銃弾に負傷して戦場にいなかったのが響いたと思う。

 数々の隊士を禁令違反の下で死に追いやった強硬派の土方にどれだけのカリスマ性と指導者としての気構えがあったことか。

 隊は以降落ちのび、明治2(1869)年5月、北海道・函館での土方の戦死で新選組は事実上、壊滅する。

 

蛤御門の変(上)

壮絶内戦、京を血で染めた「長州VS会津・薩摩」泥沼の戦いの〝実相〟

2013.11.24 07:00 産経新聞

 江戸時代末の元治元(1864)年7月19日、京都御所の近くから「パン、パン、パン」と銃声が響き渡った。「蛤御門(はまぐりごもん)の変」の火ぶたが切られた瞬間だった。御所を守る幕府ら公武合体派の相手は長州藩を中心とする攘夷派。

結果的に攘夷派が鎮圧されるが、天皇の住まい周辺を兵士の血で汚す凄惨(せいさん)な戦いとなった。以後、両軍は泥沼の戦いへと突入するが、実はこの因縁の対決、1年前のある政治事件から始まっていた。

■この門、入るべからず

 アメリカのペリー来航以来、次々と押し寄せた諸外国と開国条約を結んだことから、国内世論が開国派と武力で外国人を追い払う攘夷派に二分されていた。

 孝明天皇も幕府に攘夷を約束させるなど熱心な攘夷主義者だったが、攘夷を決行しない幕府に業を煮やして過激な行動を起こす長州藩の傲慢な行動も苦々しく思っていた。

 そんな中、文久3(1863)年8月18日、京都御所の9カ所の出入口がいつにも増してものものしい雰囲気に包まれた。

 さらに、御所の南にある堺町御門にはいつもの長州藩士の姿はなく、薩摩藩士が固めていたのだ。

 午前4時、御所に呼び出された各藩関係者を前に、三条実美ら過激な攘夷を主張する公卿(くぎょう)の参内(さんだい)禁止▽長州藩の堺町御門の警備解任▽攘夷祈願の大和行幸(ぎょうこう)の延期−を決定する。

異変に気づいた長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞(くさかげんずい)、それに三条ら失脚した公卿らは堺町御門横で長州藩と親しい摂関家の鷹司(たかつかさ)家に集まった。

 その数は千人を超えた。対する幕府は会津藩を中心に約2千人。桂や久坂らは戦いを覚悟に準備を整えたが、長州・毛利氏一門の吉川経幹(きっかわつねまさ)に「長州藩を朝敵にしたいのか」と説得され、渋々断念させられる。

 そして翌19日、東山・妙法院に移動した三条ら7人の公卿らをともない都を後にし、故郷・長州に向かった。これが一般に言われる「七卿の都落ち」である。

■幕末の京が殺戮の舞台に

 8月18日の政変が起きた文久3年は、世論が二分していたとはいえ、まだゆるやかな空気が流れていた京都を、一瞬にして殺戮(さつりく)の舞台へと変えてしまう年となった。

 攘夷を実行しない幕府に対し、5月、下関で外国の艦船を砲撃した長州藩の発言力は日増しに強まり、朝廷で主導権を握る三条ら急進派の公卿とも結びつく。

 この年、長州藩が支援する過激派浪士が開国派要人を「天誅(てんちゅう)」と叫んで殺害する事件が多発する。京都守護職・松平容保(かたもり)のもとで新選組が結成されたのもこのころだ。

 ところが5月20日夜、今度は三条と並ぶ過激な攘夷派公卿、姉小路公知(あねがこうじきんとも)が御所・猿が辻で切り殺される事件が発生。京都守護職と町奉行所は、現場にあった刀から容疑者として薩摩藩の田中新兵衛を逮捕する。

これまで外国に強い立場をとりつつ会津藩と過激派を取り締まり功をあげてきた薩摩藩は、この一件で朝廷から排除された。

 このため8月18日の政変は、長州藩を煙たがる天皇の心情を知る薩摩藩が朝廷内での復権をかけ、会津藩や公武合体派の中川宮朝彦親王、近衛忠煕(ただひろ)らとともに過激派を排除するために起こした行動だともいえる。

 このとき、薩摩、会津両藩は「攘夷祈願の大和行幸は長州藩ら過激な攘夷派の主導で仕組まれたもの。決して帝の本意ではない」などと主張している。

■潜伏、そして池田屋

 政変の翌日の8月19日に京都を去った長州藩と過激攘夷派だったが、全てが去ったわけではなかった。朝廷に許しを請うため、京都に潜伏して活動する藩士も何人かいた。桂小五郎もその1人だった。

 桂は兵庫まで同行したあと、一行から抜けだして長州の入洛禁止令が出ている京都へ侵入。新選組ら警備の目が厳しいため、新堀松輔(にいほりまつすけ)と名を変えて、なじみの商家に潜伏することになった。

 朝廷に何度も復権を求める長州側に対し、首を横に振るばかりだったという。

 一方、勝った公武合体派で占められた京都では、朝廷と将軍後見職の徳川慶喜や有力藩の代表者が、長州処分のほか、各国と結んだ通商条約の破棄と貿易を許した港の閉鎖などについて話し合った。

 特に港の閉鎖問題となると天皇の強い攘夷への思いもあったが、もともと開国論者の集まりのため、結論は出ずじまい。この“弱腰”ぶりに、各地の攘夷論者から出てきたのが長州待望論だった。

 この世論を背に、長州藩内でも武力で上洛して復権を果たそうとする声が上がる。だが、「時期尚早」とする一派と、乱闘寸前まで対立する。

 そんなとき、「京都・三条の池田屋に集まった長州藩士ら攘夷派の志士が新選組に多数切り殺された」という知らせが入ってくる。

 「蛤御門の変」の1カ月少し前の元治元(1864)年6月のことだった。

(つづく)

蛤御門の変(中)

鬼気迫る長州・来島隊に押され絶体絶命の幕府軍、救世主は「西郷隆盛」だった

2013.12.1 07:00 産經新聞

 過激攘夷(じょうい)派の長州藩が京都から追放された翌年の元治元(1864)年6月、新選組が三条の旅籠(はたご)「池田屋」に集まる攘夷派浪士を襲撃した事件は長州藩を大いに刺激した。これをきっかけに、「武力で御所奪還を」などと主張する強行派が慎重派を押し切ってしまう。兵を嵯峨天龍寺、伏見長州屋敷、山崎天王山へ続々送り込む長州に対して御所を守る幕府。お互いににらみ合う中で7月19日、戦端は開かれた。

■いざ、御所へ

 長州は京の西の外れの嵯峨天龍寺、そして南の外れの山崎天王山と伏見長州屋敷の3方向から御所に向かう。天龍寺に陣取るのは家老の国司親相(ちかすけ)隊の800人で、その中心は遊撃隊総督の来島(きじま)又兵衛。

 遊撃隊は来島が設立した部隊で、高杉晋作の奇兵隊同様、身分や門閥などを問わなかったことから、町人や農民、他藩出身者などで構成された。

 この集団の中に、後に坂本龍馬ともに近江屋で倒された土佐藩・中岡慎太郎の姿もあった。

 さて、兵を御所まで進めたいが、寺の前には薩摩藩ら5藩が進路を遮るように陣を構えていた。この状況に対し、19日午前零時をもって国司と来島の二手にわかれて各藩の陣の隙間を抜ける作戦に出る。

 そして御所の東1キロの堀川に架かる一条戻り橋から三隊にわかれ、それぞれ中立売(なかだちうり)御門、蛤御門、下立売(しもだちうり)御門へと向かった。

 午前7時、来島隊が御所前に到着すると、蛤御門を固める約1500人との戦いとなった。無数の乾いた銃の音の後に続く悲鳴にも似た突撃兵士の声。

 250年続いた安寧の世を破る戦いの音が、真夏の都の空に響いた。

■勇躍、西郷隆盛

 蛤御門の正式名称は新在家御門という。開かずの門だったが、天明8(1788)年の大火で開いたことから、火に焼かれて口を開けたハマグリに例え、そう呼ばれるようになった。

 今は東向きに建てられているが、当時は南向きに入り口があった。このため門に入るためには、塀にいったん突き当たった所で左手に折れる必要があった。

 それにしても来島隊の士気は高く、会津兵中心の幕府軍の防衛線を突破して御所へ侵入してしまう。がむしゃらに進む来島隊。天皇のいる宮中まであと一歩という所まで迫った。

 蛤御門の北隣、中立売御門周辺で戦った国司隊、下立売御門で奮戦する児玉小民部の隊もそれぞれ突破を果たす。

 このように、ことごとく防衛線を破られて絶体絶命の幕府軍だったが、ここでやって来たのが、薩摩藩の西郷隆盛だった。

 西郷は東洞院錦小路(現在の大丸京都店付近)の藩邸から天龍寺に向かう予定が、予想以上の早さで状況が進んだため、方針を変えて御所に駆けつける。

 当時、最強といわれた薩摩兵に来島隊も歯が立たなかった。西郷は中立売門の北隣の乾(いぬい)御門から入り、長州兵を攻撃する。

 来島隊は幾度の戦いで疲労しており、1人、2人と倒される。さらに清水谷家の椋(むく)の木の近くで、来島は薩摩の銃で胸を撃たれて死亡する。実質的なリーダーを失った来島隊はここで敗走した。

■砲撃戦の末、丸焼け

 総勢8万人の幕府軍の指揮は天皇の住む禁裏・建礼門前の「凝華洞(ぎょうかどう)」に仮本陣を置く京都守護職、松平容保(かたもり)が執るはずだったが、病のため、代わって執ったのが禁裏御守衛総督の一橋慶喜。

 長州藩家老、福原越後率いる伏見の藩邸からの700人を伏見稲荷の手前で防ぐも、山崎天王山を出発した同家老、益田親施(ちかのぶ)が指揮する600人には堺町御門まで進撃を許した。

 とはいえ、蛤御門の戦いで雌雄が決していた後だっただけに、すでに長州に当初の勢いはなく、門近くの鷹司邸内に立てこもり抵抗を続けるのみ。

 この隊には、追放以降も京都で長州藩、藩主、三条実美ら七卿の復権を訴え続けてきた久坂玄瑞や、福岡・久留米の水天宮の神職で攘夷活動家の真木和泉守もいた。

 久坂は戦闘直前まで“多勢に無勢”などを理由に自粛を主張したが、来島や真木らの強行派に押し切られて、しぶしぶ参戦する。だが、やはり多勢に無勢。会津相手に砲撃するも隣の九条邸から幕府軍の砲撃を受けると負傷し、自決する。

 ほどなくして鷹司邸から上がる火の手。当時の御所は200以上の宮家、公家の邸宅が軒を並べていたため火の回りも早く、これがもとで京都を焼き尽くしてしまう。

 現在、京都市街地に江戸時代の町家が見られないのはこのためで、当時の人たちはこの火事を「どんどな焼け」とか「鉄砲焼け」と称した。

(つづく)

蛤御門の変(下)

桂小五郎、坂本龍馬、新選組…戦乱の最中、幕末のヒーローたちはどう動いた

2013.12.8 07:00 産經新聞 

 幕府軍の完勝に終わった蛤御門(はまぐりごもん)の変。このあとすぐに残党の掃討戦に移っていったが、当初は天皇のいる禁裏(きんり)近くまで長州軍に押されたのも事実。そんな激戦の中、当事者の長州・桂小五郎や新選組、さらに他藩ながら長州軍に参戦した土佐の中岡慎太郎、そして中岡の盟友・坂本龍馬ら歴史の著名人はどこにいて、何をしていたのだろう。意外な人の意外な事実が…。

■逃げる桂

 一触即発の状況を察していた桂小五郎は、7月18日に加賀藩の兵が長州藩邸を取り囲んだとき、長州に同情的な対馬藩邸にいた。だが、同夜に対馬藩邸が囲まれると約80人を連れ、攘夷派が少なからずいた因幡藩邸に入る。

 そんなとき、御所の方から聞こえる砲声。19日早朝に長州勢が蛤御門などで戦闘状態に入ったのだ。「時間がない」。桂は因幡藩邸を抜け出すと、銃弾が飛び交う中、因幡藩の警護する猿が辻の有栖川宮邸に向かい、同藩の尊攘派、河田景与(かげとも)と交渉する。

 「今すぐ手を貸してくれるなら勝てる」と切り出した。でも、「時期尚早」を主張する河田を説得できない桂は天皇が下鴨に避難する情報をキャッチすると、天皇に藩の無実を直接訴える方針へ転換する。

 まわりを見ると、さっきまでいた80人はいない。初志を貫きたい桂は1人になっても天皇を待ったが、待ち人は来なかった。

 常にやることなすことがすべて後手、後手に回ってしまった。そこでいったん御所から出ると、久坂玄瑞の立てこもる五摂家のひとつ、鷹司(たかつかさ)家の邸宅のある堺町御門へと向かった。しかし、ここで見たのは炎上する鷹司邸。

 負けを悟った桂は火災の混乱に乗じて禁裏の北端・朔平(さくへい)門まで戦況を確認して御所を脱出した。この後、伏見方面へと逃れていく。

 突進型の多い長州勢の中で転戦に次ぐ転戦で何とかしのいだ桂。「犬死に」を最も嫌う男にふさわしい戦い方だった。

■突進後、負傷の中岡

 「天皇の御前で死ぬことができれば…」。7月19日の戦いの直前、土佐脱藩の攘夷派、中岡慎太郎はこのような遺書を残して出陣したという。

 蛤御門の変の前年、文久3(1863)年8月18日に、攘夷派の長州藩が会津藩・薩摩藩を中心にした公武合体派に京都を追い出された後、土佐藩でも攘夷派が弾圧されるようになると中岡は脱藩し、長州藩に亡命する。

 その後、都を追われた攘夷派の公卿、三条実美(さねとみ)の護衛役として各地の攘夷派との連絡役を務めた。それから1年。来島(きじま)又兵衛の編成する遊撃隊に属し、蛤御門の北隣、中立売御門で桑名藩の兵と戦い、左足を銃で撃たれる。

 痛みはなかったが、戦線離脱を余儀なくされた中岡は幕府軍の中に潜り込むと、薩摩藩の支藩・佐土原藩の医師宅を訪ね、「戦を見物していて負傷した」と偽って治療をしてもらう。

 御所の北西約1キロにある本門法華宗大本山、妙蓮寺の庫裏(くり)の柱などに残る、敗走する長州勢を追う薩摩藩の兵士がつけた刀傷が、当時の戦いのすさまじさを今に伝えている。

■近藤、龍馬は?

 蛤御門の変のひと月半前に三条・池田屋に集まる攘夷派浪士を襲撃して武勇を馳せた新選組だが、諸藩が揃うこのような戦では、重要なポジションを任せてもらうだけの格がまだなかった。

 だが、いつお呼びがかかってもよいよう態勢を整えていただけに、19日未明、伏見・竹田街道で長州の福原越後隊700人と衝突した大垣藩から出動要請が来たときの動きは素早かった。

 局長、近藤勇ら隊士は会津と一緒に伏見稲荷付近へ駆けつけたのだが、すでに騒ぎは鎮圧していた。どこかもどかしさの残る近藤は1・5キロほど南の墨染まで追いかけてみたものの、このとき福原は淀川を行く船の上にいた。

 戦果が得られなかった近藤ら新選組はこの後、天王山に引き返した真木和泉ら残党の掃討戦に参加する。

×  ×  ×

 桂小五郎と並ぶ幕末ヒーローの坂本龍馬は、幕府の軍艦奉行だった勝海舟が設立した神戸海軍操練所にいた。池田屋事件や蛤御門の変では長州側に操練所の塾生がいたため、操練所の存続が危ぶまれている最中だった。

 そんな時、龍馬は8月1日、東山粟田にある青蓮院の塔頭・金蔵寺でお龍と内祝言をあげ、同中旬には勝の紹介で西郷隆盛と初対面している。

 同年秋、操練所は解散を命じられる。拠り所をなくした龍馬は操練所の仲間と海援隊の前身、亀山社中を結成。このあと、倒幕運動に大きな役割を果たすことになる。

(つづく)



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