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蛤御門の変・番外

敗走の長州、追う新選組…「幕末の天王山」の
意外な結末 

2013.12.15 07:00 産經新聞

 元治元(1864)年7月19日、幕府軍と長州軍が御所周辺で衝突した蛤(はまぐり)御門の変は長州の敗退で一応の決着はみた。長州側はほとんどの兵が夜のうちに引いたものの、真木和泉(いずみ)ら約200人の敗残兵は山崎・天王山(標高約270メートル)に集まり、最後の一戦に挑もうとした。これを追う幕府側は1500人。到底勝ち目のない真木は200人全員を長州へ帰そうと、ある思い切った行動に出る。

■思い届かず

 19日午前零時、伏見・藤森で福原越後軍が大垣藩の軍勢と戦闘を始めると、同日未明、嵯峨天龍寺に陣を構えていた国司信濃・来島(きじま)又兵衛隊が御所へ突入を始めた。

 そして、天王山にいた真木和泉と久坂玄瑞ら約600人は前日の18日午後8時に出発したが、悪路がたたって、目指す御所・堺町御門前に着いたときには福原隊と国司・来島隊の勝敗が決した後だった。

 すでに、福井藩や薩摩藩などの軍勢で門は守られていたため、門を突破することはできず、迂回して門近くの鷹司(たかつかさ)関白邸で抵抗を続けるのみだった。
だが、幕府軍の強力な火力と圧倒的な兵力の前にどうしようもできず、久坂はこの場で自害する。

 真木も銃撃で足を負傷するが、「最後の一戦」のために長州藩家老の益田右衛門介との合流地点、天王山へ200人の残存兵と引き返した。

 だが、益田は逃走した後で、午後2時ごろ天王山に着くもその姿はない。真木の到着を待っていた長州の宍戸九郎兵衛は再起を促したが、真木は「私は御所を血で汚した今回の戦の主犯。死をもって責任を取りたい」と辞退した。

■しんがり

 筑後(福岡県)・久留米の水天宮の神職の家に生まれた真木は家を継ぐとともに尊王攘夷の活動家でもあった。薩摩に通じ、藩主の上洛に乗じて向かった京都で長州に急接近する。

 攘夷派の長州が公武合体派の幕府に京都を追い出された8・18の政変で三条実美らとともに長州へ落ちると、武力での京都奪回を強行に主張した。

 だが、結果は長州のひとり負けの形。さらに御所に向けて発砲したかどで、朝敵の汚名も着せられることになった。
今回の戦いは、長州藩主の毛利敬親(たかちか)も乗る気でなかっただけに、強行に戦いを主張した真木にとって、今回の敗戦は相当に心苦しかったに違いない。

 もう1人の強行派の来島又兵衛は御所で戦死しており、たった1人で責任を取って幕府軍と対峙するつもりだったが、「自分も残りたい」などとする16人の若者が申し出てきた。

 真木の退却の説得も聞かず、そばを離れようとしない。結局、真木を含めた17人が、後退する部隊の最後尾で追っ手から味方を守る「しんがり」を務めることになったのだ。

 京都、大阪の境にある天王山。中腹まで登ると、男山との狭い平地の間を桂川と宇治川、木津川が合流して淀川へとつながっていく光景が一望できる。

 真木ら17人は死を覚悟して、たぶん、そんな所から味方の退却を見送ったのだろう。

■17烈士の自害

 山の中腹に立てこもる真木らは20日、郡山藩の退却の勧告にも耳を貸さずに断ると、翌21日、新選組を先頭に会津の兵士たちが山へ入っていった。

 天王山の麓にある離宮八幡の境内に長州が捨てた大砲を新選組が捕獲し、天王山めがけて撃ったという話も残る。山道を登って追いかける会津藩と新選組。じわり、じわりと追い詰められた真木。

 新選組隊士の永倉新八が書き残した記録には、局長の近藤勇が山の中腹あたりで金の烏帽子(えぼし)に錦の直垂(ひたたれ)姿の真木と銃を持つ数人の浪士が立っているのを見つけた。

 真木は大声で「互いに名を名乗ろう」を声をかけると「毛利家家臣の真木和泉である」と続けた。対する近藤も「私は幕府配下の近藤勇だ」と応じる。

 そして真木は詩吟を歌い勝ちどきを上げた直後、周囲にいた浪士が幕府軍目がけて発砲し、弾を避ける隙に山頂に向かって走り去った。

 少し間を置いて近藤らが登っていくと、炎をあげて燃える小屋を発見。急いで小屋に駈け寄る近藤らが見たものは自害して果てた黒こげの真木の姿だった。

 小屋の中にあった火薬で吹き飛ばされたらしく、死にきれない浪士は新選組の隊士が介錯したという話もある。

 ここに蛤御門の変は完全終結した。真木ら17人の遺体は賊徒の墓として、地元の人の手で宝積寺の三重塔前に葬られた。それでも地元の人からは17人を“残念さん”と親しみを込めて呼ばれ参拝する人が絶えなかった。

 それに困った幕府は別の場所に改葬したうえで、一般人の登山を禁じたとも伝わる。

(おわり)

池田屋事件(上)

新選組、天下にその名を…敵の謀略暴いた
土方歳三の拷問

2013.3.17 07:00 産經新聞

 「四条河原町の桝屋の動きがどうも騒がしい」。新選組の秘密警察「監察」の島田魁(かい)、山崎烝(すすむ)らから報告を受けた局長の近藤勇と副長の土方歳三が桝屋の家宅捜索を命じたのが元治元(1864)年6月5日だった。
 「御用改めである」。武田観柳斎を筆頭に新選組が踏み込み、くまなく捜索したところ武器弾薬類や諸藩浪士関係の書類が出てきたため店の主、喜右衛門を逮捕する。
 この桝屋喜右衛門こそが反幕府の皇族、有栖川宮熾仁(たるひと)親王と長州藩の間をつないだ尊王攘夷(尊攘)派の志士、古高俊太郎だった。
 近江国古高村(現在の滋賀県守山市)で代官所の下級役人の子として生まれた古高は尊攘派の儒学者、梅田雲浜(うんぴん)に弟子入り。肥後藩出身の尊攘派で長州藩でも影響力を持つ宮部鼎蔵(ていぞう)とも親交があり、店は尊攘派の拠点になっていた。
 文久3(1863)年8月18日、会津藩、薩摩藩ら公武合体派によるクーデターで京都から追放された長州藩ら尊攘派が巻き返しを狙っている最中だっただけに、古高の逮捕は大きな打撃だったに違いない。
 古高の動きの裏に潜む事の重大性を読んだ近藤と土方が、壬生の八木邸と並ぶもうひとつの屯所・前川邸で行った取り調べはすさまじいものだった。
 2階建ての土蔵で逆さづりにし、1階で胴、2階で足をむち打つ。それでも口を割らないため、土方がくぎを足の甲から裏に打ち抜き、そこに火の付いたロウソクを立てさせる。こんな冷酷な攻めに音を上げた古高はついに恐るべき計画を自供した。
祇園祭の風の強い日に御所に火を放ち、そのすきに公武合体派の中川宮を幽閉。将軍後見職の一橋慶喜と京都守護職の松平容保(かたもり)を殺害するとともに孝明天皇を長州へ誘拐する−というものだった。
 さらに捜査を進めたところ、古高逮捕を受けて計画の実行か中止を決める会合を三条小橋近くの池田屋か四国屋で開くことも判明した。
 上洛する将軍、徳川家茂の警護のため京へ入った近藤ら。いかつい風体から“壬生浪(みぶろう)”とさげすまれたその名を一躍天下に知らしめた池田屋事件はこうやって幕を開けたのだった。
(つづく)

池田屋事件(中)

新選組・近藤、土方、沖田…宵々山の出撃 
その後の名声を決定づけた「偶然」

2013.3.24 07:00 産經新聞                                           
 四条河原町に店を構えながら尊王攘夷(尊攘)派志士として活動していた古高俊太郎が、孝明天皇を略奪するクーデターの全貌を自白した元治元(1864)年6月5日、新選組は尊攘派の一掃を目指してただちに行動に出る。
 この日は祇園祭の宵々山で、日も暮れてから町はにぎわいを見せ、「コンチキチン」の祇園囃子が町のあちこちから聞こえてきたことだろう。
 動きを相手に悟られないよう、隊士らは普段と変わらない様子で三々五々、3人、5人と連れだって壬生の屯所を出る。そして町を見回った後、午後9時前には、八坂神社西楼門近くの祇園町会所に全員が集まった。
 隊内に病人などが続出したため集合した隊士は総勢30人余り。だが、会津藩もこの機を逃せば再び尊攘派の巻き返しを受けることは必至と出兵を決定。京都所司代や町奉行らとも示し合わせて動く予定だった。
 ところが、手配の遅れなどで会津らは来ない。「遅い」。しびれを切らせた新選組局長の近藤勇と副長の土方歳三は、応援を待たずに新選組単独での捜索を命じた。
 尊攘派志士の集合場所がわからず、立ち寄りそうな会津藩のリストをもとに近藤は木屋町、土方は祇園に分かれてしらみつぶしに探索した。
 この結果、午後10時過ぎに会所から北西約1キロ離れた三条小橋西詰の旅籠(はたご)屋「池田屋」と同小橋北の旅籠屋「四国屋丹虎(たんとら)」に浪士が集まっているという情報をキャッチする。
長州藩邸に近い池田屋は同藩の定宿で、この日の会合には20人以上の志士がいて、長州の尊攘派の中でも過激派の桂小五郎も顔を出す予定だった。
 そんな中、土方隊が四国屋に向かう。そのとき池田屋へ行く近藤が連れていた隊士は5、6人とも、10人ともいわれている。
 近藤が池田屋にいる志士の数をどこまで把握していたかは不明だが、少人数ながら近所から池田屋の間取りを聞き込むなど極めて冷静だった。
 さらに表口、裏口に隊士を配置させた後、沖田総司や永倉新八、藤堂平助という“腕利き”と一緒にこう言って突入する。
 「御用改めである!!」
(つづく)


池田屋事件(下)

龍馬の“同士”ら9人切り捨てる 新選組の強さ示した伝説の「急襲」を再現

2013.3.31 07:00 産經新聞

 元治元(1864)年6月5日午後10時過ぎ、新選組局長の近藤勇が「主人はおるか、ご用改めである」と声を張り上げ、沖田総司らとともに三条小橋西詰の旅籠(はたご)屋「池田屋」に突入した。
 2階に約30人の尊王攘夷(尊攘)派の浪士がいたことから、池田屋主人、惣兵衛はうろたえながら階段を上がっていった。
 惣兵衛の慌てぶりに浪士の存在を確信した近藤は永倉新八、藤堂平助を1階に待機させ、沖田総司と裏階段を駆け上がる。
 そこで浪士とかち合った近藤と沖田。近藤は多勢に無勢と思ったのか、いきなり「手向かいすると切り捨てるぞ!!」と怒鳴って相手を威嚇。両者に一瞬、緊張感が走った。
 が、にらみ合いもそう長くは続かなかった。突然に切りかかった浪士を沖田がバッサリと切り捨てたところで戦闘が始まった。
 浪士の多くは池田屋から北約300メートルの長州藩邸を目指し、吹き抜けから1階の中庭に飛び降りて脱出しようと試みる。ここで「1階が主戦場」とみた近藤は2階に沖田を置き、1階へ下りる。
 1階の永倉と藤堂は土間付近で脱出を図ろうとする浪士を相手に応戦。藤堂は額を切られ、永倉も左手を負傷する。2階の沖田は無類の強さを見せたが、吐血をして倒れ、戦線を離脱してしまう。
 近藤も囲まれるなど苦戦の連続だった。だが、ここで三条小橋北詰の四国屋丹虎(たんとら)に浪士がいないことを確認した副長、土方歳三の隊が合流してきたため形勢は逆転。戦いは2時間で終了した。
浪士集団のリーダー的存在だった肥後藩・宮部鼎蔵(ていぞう)や、勝海舟が創設した神戸海軍操練所で坂本龍馬と訓練を受けていた土佐・北添佶摩(きつま)ら計9人が死亡、4人が捕らえられたという。翌日も会津藩などによる掃討作戦でさらに多くの尊攘派を失う。
 北添が事件に加担していたため、幕府の反感を買った操練所は廃止を余儀なくされ、行く先を失った龍馬はこのあと、倒幕へ走り出す。

 一方、ダメージを受けた長州は報復のために挙兵すると、事件から1カ月半後の7月19日に蛤御門(はまぐりごもん)の変が勃発。京の街は一瞬にして灰になってしまうのだった。
(おわり


怒りの龍馬、本邦初の「損害賠償」請求提訴へ…海難事故で大量の武器が海の藻くずに

2013.8.18 08:00 産經新聞

 元号が明治に変わる前年の慶応3(1867)年4月24日、坂本龍馬ら海援隊が操船する「いろは丸」が瀬戸内海を航行中、紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突して沈没した。沈んだ船は伊予・大洲藩からの借り受けたもの。しかも積み荷が海の藻くずと消える始末。これでは収まらない龍馬は国際ルールをたてに紀州藩相手に前代未聞の損害賠償請求訴訟を起こす。後にいわれる「いろは丸事件」の始まりである。
■近づく巨大船
 4月23日夜、穏やかな瀬戸内海を進む「いろは丸」の姿があった。文久2(1862)年に英国で建造された3本マストの蒸気船で45馬力、160トン。
 島や遠くに見える沿岸にわずかばかりの明かりは確認できるが、「漆黒」の2文字にふさわしい暗闇に包まれた海。そして蒸気船の動力の音、波の音しか聞こえない。
 ところが午後11時ごろ、現在の岡山県笠岡市の笠岡諸島・六島の沖にさしかかったところで、船上の乗組員が、別の動力音とともに右前方から向かってくる大きな船の影を目撃した。
 目をこらすと、おぼろげに船の形は見えた。操だ室からも右舷灯が見え、続いてこちらに向かってきていた。相手の船の波を切る音も大きくなってきた。
 しばらくして、いろは丸が何隻も入りそうな巨大な姿が現れた。「船じゃあ!」。「取り舵いっぱーい!」。大声で叫ぶ龍馬。すぐに操だ手は舵を左に切った。
■いろは丸
 海援隊は、諸藩の武家商法を斡旋(あっせん)する顔を持ち始めていた。藩が外国商人に売りたい物産を大坂から長崎へ運び、長崎では藩が欲しい機械などを買い付けて大坂へ戻る−といった具合である。
 だが、隊の所有船は風帆船の大極丸。時間はかかり荒波にも弱い。「せめて蒸気船があれば」と、龍馬はたまたま長崎へ来ていた知り合いの大洲藩士、国島六左衛門に蒸気船購入の話を持ちかける。
 船主は大洲藩、借りて運航するのは海援隊という取り引きだ。そこでオランダ人商人から購入したのが、いろは丸だった。
 今回の航海も諸藩に売るための鉄砲や弾薬、物産などを積んで4月19日、長崎を出港。大坂に向けて東へと進路をとっていた。そんなときの災難だった。
■海の藻屑
 取り舵、つまり左折したいろは丸だが、明光丸は面舵(おもかじ)、つまり右折してきたのだ。後を追うように右に旋回する明光丸。互いに同じ舵ならば事故は回避できたが、同じ方向へ進んだため避けきれず、ついに衝突。
 160トンのいろは丸に対して880トンの明光丸。いろは丸の右舷に突っ込むと轟音(ごうおん)とともに甲板に乗り上げてマストを折った。明光丸は一度後退したが、再び前進して激突した。
右舷を大破して、自力航行ができなくなったいろは丸は、風雨が激しくなった24日早朝、鞆(とも)港(広島県福山市)への曳航(えいこう)中、宇治島沖で沈没した。
 自力航行を断念したとき明光丸に乗り移っていたため、いろは丸の乗組員は全員無事だった。
 だが、自分の好きな海で起こしてしまった事故だけに、明光丸の甲板上にはじっと唇をかみしめ、沈むいろは丸を見つめる龍馬の姿があった。
(つづく)


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