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--- 西郷隆盛 ---

10  岩倉洋行団の出発から西郷内閣まで

 大久保、木戸らの外遊と西郷の留守内閣

 明治4(1871)年11月12日、公家出身の岩倉具視を特命全権大使とし、副使に木戸孝允、大久保利通が任命され、以下同行の留学生を合わせて百名を超える大洋行団が横浜を出港しました。

 岩倉洋行団の目的は、江戸幕府が締結した修好通商条約の条約改正の下準備とヨーロッパ、アメリカなどの文明諸国の視察です。

 しかし、日本はまだ廃藩置県が行われてから、わずか四ヵ月しか経っておらず、いつ騒動が起こるかもしれない状況での洋行団の出発は、時期尚早だという意見も多くありました。

 こんな困難な状況を一手に任されたのが、留守を守ることとなった西郷です。

 国政に関しては課題が山積みの中、無責任に洋行した新政府の首脳達の後始末を引き受けた西郷もお人好しだったと見る意見もありますが、西郷自身も順調に政府を運営していくだけの自信があったからこそ、その留守を引き受けたものと思われます。

 また、木戸や大久保らがいない内に、西郷は斬新な改革を進めようと考えていたかもしれません。鬼の居ぬ間に何とか……という感じだったのかもしれません。

 岩倉洋行団が出発すると、西郷を中心とした留守内閣は、次々と新しい制度を創設したり、改革案を打ち出していきました。

 その中でも特筆したものは、次のようなものがあげられます。

①警視庁の発端となる東京府邏卒の採用、
②各県に司法省所属の府県裁判所の設置、
③田畑永代売買解禁、
④東京女学校、東京師範学校の設立、
⑤学制の発布、
⑥人身売買禁止令の発布、
⑦散髪廃刀の自由、切り捨て・仇討ちの禁止、
⑧キリスト教解禁、
⑨国立銀行条例の制定、
⑩太陽暦の採用、
⑪徴兵令の布告、
⑫華士族と平民の結婚許可、
⑬地租改正の布告

 こういった斬新な改革を西郷留守内閣は次々と打ち出していったのです。

 これら全ての改革が西郷の発案によるものでないことは言うまでもありませんが、西郷が政府の首班(首相)として成し遂げた改革であることは、まぎれもない事実です。
 
よく西郷には政治家としての能力はなく、明治政府においては、ただの飾り物に過ぎなかったと論じている本が多数出版されています。

 しかし、ただの飾り物でしかない西郷を中心として、このような思い切った改革が次々と出来るでしょうか?

 また、西郷が政府の首班として在職していた間は、明治政府の悩みであった農民一揆や反政府運動というものは、ほとんど起こることがありませんでした。これは世の中の民衆が西郷の政治に満足していた結果であると言えるのではないでしょうか。

 明治新政府がやらなければならなかった諸改革のほとんどが、この西郷留守内閣の下で行われたのです。

 このことをもってしても、西郷の政治手腕を高く評価するべきではないでしょうか。(つづく)




ーーーーー 以上 ーーーーー









--- 西郷隆盛 ---

9  西郷の上京から廃藩置県まで

9 - 1  明治新政府の苦悩

 西郷が鹿児島に帰国した後、明治新政府には次々と困難な問題が生じてきました。

 明治2(1869)年6月、明治維新に功績のあった者に対し、「賞典禄(しょうてんろく)」や「位階」といった形で論功行賞が行われたのですが、それらの恩賞は薩摩藩と長州藩出身の人物に厚く、他藩の者が軽く扱われた形となりました。

 倒幕を成し遂げた原動力となったのは長州と薩摩藩でしたので、その結果は当然であったとも言えますが、他藩出身者にはどうも納得出来ません。そのため、薩摩や長州藩出身者に対して、各方面からの非難が起こりました。

 また、長州と薩摩藩の間でも、新政府のポストについての派閥争いが起こり、双方が反目しあうという事態も生じてきたのです。

 このように混乱した状態になると、当然新政府内の風紀も乱れてきます。

 新政府の役人らは、昔の苦労を忘れ、豪華な邸宅に住み、大人数の使用人を雇い、美妾を蓄えるなど、まるで旧大名を真似たような驕奢な生活をするものが増えました。

 そして、権力をかさに着て、民に対し横暴な振る舞いをする者も多く出たのです。

 こんな乱れた新政府に、民衆は大いに失望しました。

「新しい世の中になったと言うが、これでは江戸幕府の時代の方がよっぽどましだ」

 このような声があちらこちらから聞こえてくるような状態となり、全国各地では重税に苦しむ農民らが蜂起し、それが飛び火して一揆が続発しました。

 また、腐敗した政府を憤る者達が政府転覆を企てるなど、反政府行動を取る人物も現れてきたのです。

 当時の新政府の中心人物は、公家の三条実美、岩倉具視、長州藩出身の木戸孝允、そして薩摩藩出身の大久保利通の四人でした。彼らは続発する農民一揆や民の不満等を押さえるため、日夜努力を続けていたのですが、なかなか上手い対策が打てません。

彼らも新政府がこのままではいけないことは十分に分かっていました。このままでは苦労して樹立した新政府が瓦解する恐れがある……。

そんな危機感を持っていた四人は、鹿児島の西郷を東京に呼び戻し、彼の力や徳望をもってして、一大改革をやろうと決心したのです。

 このような混迷した事態を打開するためには、人々から仰ぎ慕われる人望を持ち、かつ勇気と決断力を併せ持った英雄的人物が必要になってきます。

 残念ながら、大久保や木戸には、知謀や知略といったものは十分に持ち合わせていたでしょうが、人々から信頼され、なおかつ勇気を持って改革を成し遂げる力は、当時の彼らには不足していたと言っても過言ではありません。彼らが西郷を鹿児島から呼び戻そうとしたことにそれが表れています。

 西郷は、最もたくましい勇断力と人々から慕われる絶対的な人望を併せ持った人物でした。新政府の危機を乗り越えるには、どうしても西郷の力が必要だったのです。

 西郷の盟友である大久保は、西郷の弟でヨーロッパ視察から帰ってきたばかりの西郷信吾(さいごうしんご。後の従道)に、兄の隆盛を東京に呼び戻してくれるよう説得を頼みました。

 大久保から依頼を受けた信吾は、明治3(1870)年10月、一路鹿児島へと向かったのです。

9 - 2  西郷の上京と廃藩置県工作

 明治2(1869)年6月以来、国元鹿児島に引きこもっていた西郷は、突然の弟・信吾の訪問に驚きましたが、ヨーロッパから帰ってきたばかりの信吾に積もる話もたくさんあったことでしょう、喜んで迎え入れました。

 しかし、弟の信吾から聞かされる新政府の腐敗した実態に、西郷は怒りと憤りを感じました。また、新政府がこんな風に堕落してしまったことに、維新を迎えることなく非業の内に倒れていった数多くの同志達に対し面目が立たないと大いに涙を流したことでしょう。

 弟・信吾から大久保の上京要請の話を聞いた西郷は、いよいよ上京する決意を固めます。鹿児島に引きこもっていたとは言え、西郷の頭の中には常に中央の政府のことがありました。

東京から鹿児島に帰郷した人々を通じて、少ないながらも新政府の情報が西郷の耳に入っていたのです。これらの情報を聞いていた西郷は、堕落し切っている政府をいつか改革しなければならないと常日頃から考えていました。

 明治3(1870)年12月、勅使・岩倉具視と大久保が鹿児島に来訪しました。西郷を正式に東京に呼び戻すためです。

 鹿児島に帰った大久保は、西郷と共に新政府の一大改革案について話し合いました。

 それは、「廃藩置県(はいはんちけん)」のことについてです。

 明治の世になってからは、日本の政治形態を「郡県制度」にするか、それとも「封建制度」のままにするかの大きな議論が起こっていました。

(つまり、「藩」というものを廃止して「県」を置くか、そのまま身分制を引き継いで藩を存続させ封建制にするかの議論)

 明治2(1869)年6月には、新政府が諸大名から土地と人民を朝廷に返還させる「版籍奉還(はんせきほうかん)」を実施していましたが、これは形式だけのことであり、実際には藩はそのままの形で残っており、藩主も「知藩事(ちはんじ)」という名前に変えられただけで、領内の運営は全てこれまで通り藩が行っていたのです。

 しかし、廃藩置県というものは、実質的に諸大名から土地(つまり領土)や人民を新政府が取り上げることとなります。

西郷も大久保も、この廃藩置県を明治維新の総仕上げという風に考えており、これを成し遂げないことには、真の革命が成立しないとも考えていました。

 ただ、この廃藩置県には大きな危険が伴っていました。

 廃藩置県というものは、いわば大名という地位と特権を無くし、各藩の経済的基盤を奪い去ることに繋がります。迂闊に廃藩置県の情報が他に漏れれば、各地の諸大名が蜂起し、日本中にまた内乱が勃発してしまうかもしれません。

そのため、西郷と大久保としては、慎重に事を運んでいかなければなりませんでした。

 西郷と大久保は相談の結果、薩摩、長州、土佐といった三大藩の力を利用して廃藩置県を行うことに決定し、西郷と大久保は岩倉と別行動を取って一路山口へと向かい、当時山口に帰郷していた木戸孝允と面会しました。

木戸との話し合いでも、当然廃藩置県のことについて話が出たことでしょう。

 そして、その後三人は揃って高知に出向きました。薩長土三藩の力無くしては、廃藩置県は断行出来ないと考えたからです。

三人は高知で板垣退助(いたがきたいすけ)と会い、薩摩、長州、土佐を代表とする四人は揃って上京することになったのです。

9 - 3  廃藩置県

 西郷ら一行が東京に着いたのは、明治4(1871)2月のことでした。

 新政府に復帰した西郷は、廃藩置県に向けて着々と準備を始めました。

 西郷を中心とした新政府は、まず薩摩、長州、土佐の三藩に「御親兵(ごしんぺい。政府直属の兵)」を差し出すよう命じました。廃藩置県断行の際に予想される各地の反乱に備えるためです。

西郷も一時鹿児島に帰国し、常備隊四大隊と砲兵四隊(約五千人)を率いて東京に戻ってきました。

 また、西郷らは御親兵以外にも、日本の東西に鎮台(軍の機関)を置くことを決定しました。もし、廃藩置県に反対する諸大名が武力行動に出た際、迅速に鎮圧できるようにするためです。

 このようにして、西郷は軍事面での強化を行なうと共に、6月になると木戸と共に参議に就任し、実質的な新政府の首班となりました。その後、制度取調会の議長となって、内政面での改革にも取りかかりました。

 明治4(1871)年7月9日、木戸邸において、西郷ら新政府の首脳メンバーが集まり、廃藩置県についての秘密会議が催されました。

 しかし、会議は紛糾しました。この後に及んで時期尚早であるとか、廃藩を発表すればどんな騒ぎになるか分からないなどという慎重論が起こり、木戸や大久保の間で大激論となったのです。

 その激論を黙ってじっと聞いていた西郷は、ついに口を開きました。

「貴殿らの間で廃藩実施についての事務的な手順がついているのなら、その後のことは、おいが引き受けもす。もし、暴動など起これば、おいが全て鎮圧しもす。貴殿らはご懸念なくやって下され」

 重いそして力強い西郷の一言でした。

 木戸と大久保は、その西郷の一言で議論を止め、西郷の大きな決断力で、廃藩置県が最終的に決定されることになったのです。

 明治4(1871)年7月14日、「廃藩置県」が発布されました。

 民衆はこの大きな改革に驚きました。また、各地の諸大名にとっては、この廃藩置県に怒り心頭だったことでしょう。地位と財産を一遍の詔勅によって奪い去られたわけですから、当然のことだと思います。

 例えば、当時薩摩にいた島津久光は、廃藩置県を聞いて烈火の如く怒りました。

 以前にも簡単に述べましたが、久光は保守的な性格で、日本の政治形態は今までとおり封建制が望ましいと考えていたのです。

それが自藩士の西郷や大久保らによって、廃藩が行われたと知るや、怒り心頭に達して、鹿児島の磯の別邸(現在の鹿児島市の磯庭園)からいく艘もの船を出し、終夜花火を打ち上げさせ、その鬱憤を晴らしたという逸話が残っています。

 しかしながら、西郷らが作り上げた御親兵や東西の鎮台が反乱に備えて各地ににらみをきかせています。久光や諸大名としては、廃藩置県に反抗するわけにはいきません。

 このように廃藩置県という一大改革は、ごくごく平和的に達成されたのです。

 日本に滞在していた外国の公使らは、廃藩置県が平和的に行われたことに驚愕しました。権利というものに敏感なヨーロッパなどにおいて、このような改革を行なえば必ず戦争になり、平和的な解決は想像できなかったからです。

 廃藩置県という維新革命の総仕上げに、西郷がいかに努力したのかを分かって頂けたのではないかと思います。そして、西郷の徳望と勇断力をもってして、この廃藩置県という一大革命が成し遂げられたと言えましょう。(つづく)





ーーーーー 以上 ーーーーー







-- 西郷隆盛 --

8  戊辰戦争から西郷の帰国まで

8 - 1  彰義隊討伐

 西郷と勝の会談により江戸城の無血開城は達成されたのですが、それに不満を持つ旧幕臣を中心として結成された彰義隊は、江戸の各地において、新政府軍と衝突を起こしました。

 西郷はその事態を憂慮し、勝や山岡を通じて、彰義隊に軽挙な行動は慎むようにとの諭告や説得を続けたのですが、彰義隊の人々は一向耳を傾けようとはしませんでした。

 西郷はそんな状況下でも、諦めずに平和的解決を目指し日夜努力をしていたのですが、そんな西郷のやり方を非難する人々が出てきたのです。

「西郷は勝に騙されている」

「西郷のやり方は生ぬるい」

 といった具合にです。

 その結果、京から軍務局判事として江戸に派遣された長州藩の大村益次郎(おおむらますじろう)が中心となり、とうとう彰義隊の討伐が決定されたのです。

 明治元(1868)年5月15日、午前七時頃、上野に結集した彰義隊約三千人に対して新政府軍の総攻撃が開始されました。

 総攻撃を全面的に指揮したのは大村益次郎です。西郷はこの上野攻撃に際して、最も激戦区となった黒門口攻撃を一薩摩隊の隊長として指揮を取りました。

 戦いは大村の作戦が見事にあたり、午後五時過ぎには彰義隊は完全に鎮圧されたのです。

8 - 2  庄内開城

 彰義隊が討伐されたことにより、西郷は後事を大村に任せ京に向かいました。目的は兵力の増援を藩主に願い出るためです。

 彰義隊が討伐されたとはいえ、奥州各地においては、新政府に反抗の意を示している会津藩を始めとする奥羽諸藩の勢いが盛んになっていました。

新政府軍は常に兵力不足に悩んでいたため、西郷としては何とかして増援部隊が欲しいと考えたのです。

 新政府軍は所詮諸藩の寄せ集めにすぎません。いつ何時、戦況が変われば、新政府軍を裏切る藩が無いとも限りません。結局は頼りになる藩と言えば、薩摩、長州の両藩しかなかったのです。

 西郷は京に帰着すると、藩主・島津忠義と共に鹿児島へ帰国し、その後藩兵を率いて、明治元(1868)年8月10日、新潟の柏崎港に到着しました。

 この前月、越後長岡藩を中心とした兵が、長岡藩の家老・河井継之助(かわいつぐのすけ)の巧妙な指揮により、果敢に戦い、新政府軍を悩ましていたのです。

 西郷の実弟である西郷吉二郎(きちじろう)も、この長岡戦線で重傷を負い、死亡しました。

 しかし、西郷が柏崎に到着した頃には、新政府軍が既に長岡を占領した後でした。

 その後、西郷は、米沢、会津を経て、出羽・庄内藩の城下・鶴岡に到着しました。

 庄内藩といえば、鳥羽・伏見の戦いのきっかけともなった江戸薩摩藩邸焼き討ちを行った主力藩であり、江戸無血開城後も今の秋田地方において、執拗果敢に新政府軍に戦いを挑んでいました。

庄内藩兵は強く、そして勇敢でもあったので、戦局は一進一退となり、新政府軍はややもすれば押し返されるような状態でした。

 しかしながら、いかに庄内藩が頑張ろうとも、周りの奥羽諸藩が次々と新政府軍に降伏してしまい、庄内藩は一藩孤立したのです。

 当時の庄内藩主・酒井忠篤(さかいただずみ)は、重臣と協議した結果、新政府軍に対し降伏恭順することに決定しました。苦渋の選択でしたが、庄内藩としてはもはや援軍を望めない以上、こうするより手立てはなかったのです。

 庄内藩の人々は、降伏した際、新政府軍から過酷な降伏条件を突き付けられることを覚悟していました。今までの経緯から考えると、薩摩藩や長州藩の恨みを多く買っていると考えられたからです。

 庄内藩の降伏の申し出を受け取ったのは、新政府軍の庄内方面司令官の薩摩藩士・黒田了介(くろだりょうすけ。後の清隆)でした。
 その黒田は、意外や意外、そんな庄内藩に対し、非常に寛大な降伏処置を取ったのです。

 実はこれら黒田の寛大な処置は、全て西郷が黒田に対し指示していたことでした。黒田は西郷を尊敬し、西郷の一番弟子を自任していたような人物でしたので、西郷の指示に従い行動したのです。

 そんな黒田と西郷の寛大な態度に感激した藩主・酒井忠篤以下、庄内藩の人々は、西郷を慕うこと一方ならず、その後藩主自ら鹿児島の西郷の元へ教えを請いに出向くなど、この庄内処置をきっかけに、庄内藩士と西郷の交流はその後も長く続いていくことになるのです。

8 - 3  西郷の帰国

 庄内藩の処置を済ませ、その後一度帰国した西郷は、榎本武揚(えのもとたけあき)ら旧幕臣を中心とした集団が立てこもる、北海道函館の五稜郭へと援軍に向かいます。

 しかし、西郷が到着した頃には戦いは既に終わっており、「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」といわれる新政府軍対旧幕府軍との一連の戦いは、この五稜郭の戦いをもって全て幕を閉じることになったのです。
 その後、横浜に帰った西郷は、新政府への出仕を辞退し、明治元(1868)年6月、鹿児島へ向けて帰国しました。

 明治維新最大の功臣と言われた西郷の帰国は、内外を問わず波紋を広げました。

 西郷を扱った伝記や本のなかにも、この西郷の帰国を境に、西郷評価を分けているものが少なくありません。

 「西郷は自分が政治家に向かないと分かっていたので、故郷に帰り隠遁しようと考えたのだ」と書いている本もあり、ひどいものともなると、「西郷が明治を境にバカになった」というようなことまで書いてあるものもあるほどです。

 しかし、これらの批判や見方は、西郷を上辺だけしか見ていない浅薄な論であると言えましょう。

 確かに、西郷には隠遁志向がありますが、この西郷の帰国をそれだけのものとして片付けてはいけないと思います。

私が思うに、この西郷の帰国には、非常に重大な意味が隠されていると感じています。西郷の帰国については、いずれ別の機会にサイト内で取り上げたいと思っています。 (つづく)




ーーーーー 以上 ーーーーー






--- 西郷隆盛 ---

7  王政復古から江戸無血開城まで

7 - 1  王政復古と小御所会議

 「大政奉還」により、日本の政権は幕府から朝廷へと返還されたとは言え、江戸幕府開府以来、政権を幕府に委任してきた朝廷は、既に有名無実のものとなっていました。

そのため、朝廷は突然慶喜から政権を返上され、その対応に困りました。天皇や公家には、実際に政治を運営する能力や事務処理能力などあるはずもなかったのです。慶喜は既にこのことも予期しており、それが大政奉還に踏み切ったもう一つの理由でもありました。

「朝廷に政治を運営する能力は無いのだから、幕府が政権を返還したとしても、結局朝廷はその処置に困り、また幕府に政権を委任してくるだろう」

 これが慶喜の見通しであり、狙いでもあったのです。

 そして、その慶喜の策略は的中しました。

 朝廷内部では、取りあえず政権をもう一度幕府に委任してはどうかという論も出てきたのです。

 西郷はそんな公家らの動揺を押さえると共に、大久保と協力して朝廷を中心とした新政府を樹立するべく努力しました。

 慶応3(1867)年12月9日、西郷が薩摩藩兵を指揮して宮門を固める中、王政復古の大号令が煥発されました。その内容は、幕府や摂政、関白といったものが廃止され、総裁・議定・参与の三職を設置し、国政を運営するというものでした。

 これが幕府に変わる新しい政府の発足でした。

 しかし、この王政復古は実は形だけのものであり、依然として慶喜は、幕府の強大な軍事力と領地を所有していました。

 西郷としては、何とかして幕府の権力を奪わなくては、新しい政権の樹立にはつながらないと考えていました。

 王政復古の大号令が煥発された同夜、御所内の小御所において、当時まだ15歳であった明治天皇が親臨のもと、諸藩の藩主や公家達が集まり、御前会議が開かれることになりました。

 世に言う「小御所会議(こごしょかいぎ)」です。

 小御所会議において、岩倉具視ら反幕府公卿らは、慶喜に対し、
「辞官・納地(じかん・のうち。官職を辞職し、領地を返納する)」を求めることを決定しようとしたのですが、前土佐藩主・山内容堂がそれに反対し、越前福井藩主・松平春嶽も、その容堂の主張に賛成しました。

また、その容堂と春嶽の主張に対し、岩倉具視が再度反論するなど、小御所での会議は紛糾したのです。

 小御所会議の真っ最中、西郷は会議のことは大久保に任せて、自らは薩摩藩兵を率いて御所周辺の警衛と兵隊の指揮にあたっていました。

 小御所会議での議論がもつれ、いったん休憩が設けられると、会議に出席していた薩摩藩の重臣・岩下佐次右衛門(いわしたさじえもん。後の方平)は、西郷を呼び出し、会議が紛糾していることを告げ、助言を求めました。

岩倉もまたその席に来て、西郷の意見を求めると、西郷は「そいは、短刀一本で用は足りもす」と言いました。

「相手を刺すほどの覚悟を持ってすれば、事は自然と開ける」という意味を込めて、西郷は会議に臨む心構えを岩倉に説いたのです。

 西郷の言葉に勇気付けられた岩倉は、山内容堂と刺し違っても
「慶喜の辞官・納地を成し遂げる」と周囲の者に言い放ちました。

その岩倉の決心をまわりまわって聞いた土佐藩の重臣・後藤象次郎は驚き、主君である山内容堂に対し、土佐藩がここまで幕府に肩を持つ義理はないことを進言し、これ以上岩倉らに反対することは、土佐藩にとっても良策ではないことを説きました。

 山内容堂は後藤の進言に歯噛みしながらも翻意し、再開された会議において、沈黙を守ったのです。

 これにより、慶喜の辞官・納地が決定されることになりました。

7 - 2  鳥羽・伏見の戦い

 小御所会議の開催中、徳川慶喜は軍勢を従えて、御所近くの二条城に滞在していました。そこへ松平春嶽から小御所会議の結果がもたらされたのですが、それを聞いた慶喜は「このまま軍勢を京に留めておくことは非常に危険である」と考え、いったん大坂城に退くことに決めました。

辞官・納地を知った幕府兵が激昂し、薩長勢と衝突すれば、朝敵の汚名をかぶせられるかもしれないと慶喜は考えたからです。

 ただ、このような慶喜の冷静な判断とは裏腹に、江戸では庄内藩を中心とした幕府兵が、江戸薩摩藩邸を焼き討ちにするという大きな事件が起こったのです。

 慶喜自身が薩長との争いを避けようと苦慮していたのに対し、その意を汲み取れない下の者達が勝手な行動を起こしたことは、慶喜にとって痛恨の一事となりました。

 江戸で薩摩藩邸の焼き討ちがあったことを耳にした大坂城内の幕府兵は、士気大いに上がり、薩摩討つべしとの論に火が付き、慶喜はその兵の勢いを押さえることが出来なくなったのです。

 ただ、慶喜自身にも薩摩憎しの感情は、当然の如くありました。慶喜は兵の士気が大いに上がるのを見て、これならば薩長軍に勝てるかもしれない……、と色気を持ったのも事実です。

何せ兵力という点においては、薩長軍が約三千に対し、幕府軍は約一万五千以上の兵力があったのです。慶喜がやる気になったのも無理はありません。

 明治元(1868)年1月3日、幕府軍は「討薩の表(とうさつのひょう)」を掲げて、鳥羽、伏見の二街道を通り、大坂から京へ向けて進撃を開始しました。

 迎える薩長側は、主に薩摩藩兵を鳥羽街道に、長州藩兵を伏見街道に配置し、西郷自身は京の入口にあたる東寺に本営を置き、戦況を見守りました。

 そこへ一発の砲声が鳥羽方面に響き渡りました。

 鳥羽街道で幕府側と押し問答を続けていた薩摩側が砲撃を開始したのです。

 これをきっかけにして伏見方面でも戦闘が始まり、「鳥羽・伏見の戦い(とばふしみのたたかい)」の幕が切って落とされました。

 当初、戦いは薩長連合軍側有利で進みましたが、数を頼りにする幕府軍もじりじりと押し返し、一進一退の攻防を繰り広げました。

 しかし、翌1月4日、薩長軍側に高々と「錦の御旗(にしきのみはた)」が翻り、戦局は一変し、薩長軍側の有利に展開したのです。朝廷公認の軍であることの証である「錦の御旗」を見た幕府軍は、戦意を喪失して総退却を余儀なくされたのです。

 劣勢となった幕府軍の諸隊長らは、前将軍・徳川慶喜の直々の出陣を求めました。まだ大坂城には無傷の約一万の軍勢がおり、幕府軍の将兵達が、慶喜の出陣により士気を高め、もう一度薩長軍に戦いを挑もうと考えたのも無理はありません。

 しかし、朝敵の汚名を受けた感じた慶喜には、この段階でもはや戦意はありませんでした。

慶喜は兵士らに対し「明日出陣する」と宣言しておきながら、老中・板倉勝静(いたくらかつきよ)、元京都守護職の松平容保ら数人と共に、夜中密かに大坂城を脱出し、幕府の所有する軍艦で江戸に向けて出発したのです。

翌朝、主のいなくなった幕府軍は大混乱に陥りました。そのため、各自ばらばらに江戸へ向けて退却することを余儀なくされたのです。

 慶喜の江戸退却により、幕府軍は完全に瓦解し、薩長中心の新政府軍の完全勝利となりました。

 最後に一つだけ付け加えますが、「鳥羽・伏見の戦い」が生じる大きなきっかけともなった「幕府による江戸薩摩藩邸焼き討ち事件」については、西郷の謀略であったと言われることが多いかと思います。

 当時、薩長は幕府との開戦のきっかけを求めており、当時江戸にいた浪士達に対し、幕府を挑発するように指示していたのが西郷だったと言われますが、それは事実と反しています。

西郷は最後まで江戸での暴発が起きることを心配し、同志の吉井幸輔を通じて、当時江戸藩邸で浪士達の取りまとめ役をしていた益満休之助に対し、「軽挙な行動は慎むように」と指示した書簡が現存しています。

 前述したとおり、慶応3(1868)年暮れの段階では、京における勢力は、薩長軍が約三千に対し、幕府軍は約一万五千以上の兵力があったのです。

兵数から見れば、全く薩長には勝ち目がないような状態でしたので、西郷や大久保は、現時点で幕府と事を起こすのは時期が悪いと考え、また長期戦をも覚悟していたのです。

そんな薩摩藩首脳部が、江戸の浪士達に暴動を企てるように裏で指示していたことはあり得ない話なのです。

 鳥羽・伏見の戦いが薩長による大勝利に終わったという結果論から、薩長は開戦のきっかけを求めており、浪士達を影で先導したという導き方は、実は誤ったものであることを知って頂ければと思っています。

7 - 3  江戸無血開城

 鳥羽・伏見の戦いで勝利を収めた新政府軍は、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)を「東征大総督(とうせいだいそうとく)」に任命し、東海、東山、北陸の三道に分かれて江戸を目指し進軍することを決定しました。

 西郷は「東征大総督府下参謀」に任命され、東海道を下り、江戸を目指すことになったのです。

 一方、大坂から江戸に逃れた徳川慶喜は、後事を幕臣の勝海舟に託し、自らは上野寛永寺の塔頭大慈院に入り、蟄居謹慎の生活に入りました。

 東海道を進撃する新政府軍の軍勢が現在の静岡県の駿府に入ると、幕臣の山岡鉄太郎(やまおかてつたろう。後の鉄舟)が西郷に面会を求めてきました。

山岡は勝の手紙を携えており、手紙の内容は「嘆願書」と言うよりも、どちらかというと、脅しに近いような内容が書かれていました。いかにも知略有り余る勝らしいやり方です。手紙の要約はこうです。

「現在、主人(慶喜)は恭順しているけれども、いつその主人の意を分からない不貞の者が、新政府軍に対し反逆を企てるか分からない状況にある。また、この無頼の徒が反乱するか、恭順の道を守るかは、貴殿ら参謀の処置にかかっている。

もし、正しい処置(徳川慶喜に対する)を行えば、何の暴動も起こらず、日本にとって大幸であるが、もし間違った処置をすれば、おのずから日本は滅亡の道を歩むだろう」

 おそらく、面識があり、人物と認めていた西郷が参謀だったからこそ、勝はこのような手紙を書き送ったに違いありません。

 西郷は勝の手紙を読むと、すぐさま大総督府に向かい、総督や参謀達と共に慶喜恭順降伏の条件を相談し、その条件を箇条書きにした書付けを山岡に手渡しました。

 山岡はそれら条件を一つずつゆっくりと読み終わると、西郷に対し、一つだけお請け出来ない条件があると言いました。徳川慶喜を備前藩に預けるという条件です。山岡は言いました。

「西郷殿におかれては、仮に私に立場を変えて考えてみて下さい。島津候が現在の慶喜の立場になられたら、西郷殿はこのような条件を受けられるでしょうか。どうぞ切にお考え下さい」

 山岡は、若い頃から禅や剣道で、強靭な精神力を鍛え、人物の押しも西郷に負けず劣らず堂々としています。

 西郷は、その山岡の立派な態度に感心し、

「分かいもした。慶喜公のことについては、おいが責任を持って引き受けいたしもんそ」

 と言いました。

 山岡もその言葉に感動し、泣いて西郷に感謝したのです。

 山岡はその足で江戸へと戻り、勝に西郷との会談の内容、そして降伏の条件等を報告しました。

 その一方、東征大総督府は、江戸総攻撃を3月15日と決定し、続々と新政府軍は江戸に入ってきました。

 明治元(1868)年3月11日、西郷は江戸の池上本門寺に入り、3月13日、高輪の薩摩屋敷において、西郷は勝と約3年6ヶ月ぶりの再会を果たしました。

 この日、西郷と勝の間では、江戸開城に関する重要な交渉事は何もありませんでした。ただ、明日もう一度、芝の田町の薩摩屋敷で会うことを約束して別れたのです。

 そして迎えた翌14日、勝は西郷が山岡に提示した条件についての嘆願書を携えて、西郷の元を訪れました。

 勝はその14日の会談のことを後年次のように語っています。

「いよいよ談判になると、西郷は、おれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。

「いろいろむつかしい議論もありましょうが、私一身にかけてお引き受けします。」西郷のこの一言で江戸百万の生霊(人間)も、その生命と財産を保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。

このとき、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判のときにも、終始坐を正して手を膝の上にのせ、少しも戦勝者の威光でもって敗軍の将を軽蔑するというような風が見えなかったことだ」
(勝海舟『氷川清話』より抜粋)

 勝の回顧談からは、西郷がどんな人物に対しても、礼を重んじ、丁寧に接することを心がけた人であったことがうかがえると思います。

 西郷は勝の嘆願書を読み、勝と恭順の条件について話した後、隣室に控えていた薩摩藩士・村田新八(むらたしんぱち)、中村半次郎(なかむらはんじろう。後の桐野利秋)を呼び、明日の江戸総攻撃の中止を伝えました。

 この両雄の会談が江戸百万の市民を救うことになったのです。
(つづく)




ーーーーー 以上 ーーーーー







--- 西郷隆盛 ---

6  薩長同盟から大政奉還まで

6 - 1  薩長同盟

 長州藩が恭順の意を示したとはいえ、幕府にとって西郷や徳川慶勝が下した処分は、余りにも軽いものと感じられました。これは幕府の驕りにもよるものですが、そんな幕府はまたもや諸藩に対し、長州再征の準備を進めるよう命じたのです。

 長州が恭順の意を示しているにもかかわらず、さらに再征を行なおうとする幕府の方針に対し、西郷は大きな憤りを感じ、「長州再征は幕府と長州の私闘であるため、出兵は拒否する」という方針で藩論をまとめました。

 このような幕府の傲慢なやり方に不満を持っていた土佐藩士・土方楠左衛門(ひじかたくすざえもん。後の久元)と同藩士・中岡慎太郎(なかおかしんたろう)の二人は、これを機に仲違いしている薩摩と長州の手を握らせようと考えました。

 土方と中岡は、同じ土佐藩士の坂本龍馬(さかもとりょうま)にも協力を求め、三人は薩長同盟に向けて動き出したのです。

 中岡は長州藩のリーダー的存在であった桂小五郎(かつらこごろ
う。後の木戸孝允)に対し、薩長融和に向けての説得を開始しました。

 また、土方は薩摩憎しで凝り固まっている長州藩諸隊の幹部の説得を始め、坂本はと言うと、西郷を始めとする薩摩藩の重臣らに対し、薩長同盟の必要性を説いたのです。

 長州にとっても、幕府の再征が目前に迫った現在の状況を考えると、薩摩との同盟は「渡りに船」だったのですが、これまでの経緯を考えると、薩摩へのわだかまりがどうしても拭えません。

八月十八日の政変や蛤御門の変での経験が、長州藩をして薩摩藩との同盟について、二の足を踏ませたのです。

 また、西郷自身はと言うと、薩長同盟の必要性は以前から感じていたのですが、国許の薩摩にいる島津久光は、以前から長州に対して悪感情を持ち続けていたため、西郷の独断では同盟に踏み切ることが困難であったのです。

 このように薩長同盟の道は当初から困難を極めました。

 しかし、坂本龍馬は一計を考えました。

 坂本は自らが設立した「亀山社中(かめやましゃちゅう)」が、薩摩と長州との間に入り、薩摩藩名義で外国から買った武器を長州藩に売ることを考えました。

 当時、諸外国の貿易商は、長州藩に武器を売ることを幕府から禁止されていたため、長州藩は幕府との戦いに備えて武備を整えるために、小銃や大砲といった兵器を外国から買い揃えることが出来ませんでした。

そのため、坂本が仲介役として間に入り、薩摩名義で買った武器を長州に渡すことで、長州藩のわだかまりを払拭しようと考えたのです。

 坂本、土方、中岡の不断の努力がようやく実を結び、京都において、長州藩の代表・桂小五郎と西郷を中心とした薩摩藩首脳部との会見が催されることになりました。

 しかし、長年いがみ合ってきた両藩の確執はそう簡単には消えず、双方とも自重して、なかなか同盟締結の話を切り出そうとはしませんでした。

 そんな中、同盟締結を見届けるべく、坂本龍馬が遅れて京に入って来たのです。

 坂本はお互いがけん制し合うことで、同盟がまだ締結されていないことに驚き、憤りました。

 坂本は西郷に対して言いました。

「西郷さん、桂はあっしにこう言いよりました。長州藩が滅亡すれども、薩摩がその後を継いでくれれば本望であると。桂もこれだけ日本のことを考えとるがぜよ。

西郷さん、ここはお互いの面子を捨て、薩摩から長州に同盟を申し込んでくれんか。これは長州藩のために頼むがじゃない。今後の日本の将来を考えてのことぜよ」

 西郷は坂本の言葉に心を動かされ、ようやく薩摩藩から長州藩に対し、同盟を申し込んだのです。

 こうして、慶応2(1866)年1月20日、坂本龍馬立会いの元で、
「薩長同盟」が締結されたのです。

6 - 2  第二次長州征伐

 薩摩藩と長州藩が密かに同盟を結んでいることなど露知らない幕府は、長州藩を徹底的に討伐するべく、長州再征の命令を諸藩に下しました。

 それを聞いた西郷は、幕府の失墜を痛感し、自ら筆を取って長州再征に反対する拒絶書を幕府に対し提出しました。薩摩の出兵拒否に驚いた幕府でしたが、ここまで来ては後には引けないとばかりに、長州藩に強引に攻め込んだのです。

 しかし、幕府軍はことごとく長州藩に叩きのめされ、各方面で連戦連敗を喫しました。

 幕府軍の敗戦の原因は、坂本龍馬の斡旋で手に入れた外国からの新式の兵器を長州藩が効果的に使ったことにもよりますが、一番の大きな原因は、薩摩藩や芸州藩などの有力諸藩が征長軍に参戦しなかったことにより、幕府軍の士気が一向に上がらなかったことが考えられます。

 このように幕府軍が各地で連敗し続けていた時、江戸から大坂城に入り、戦況を見守っていた第14代将軍・徳川家茂が突然病死しました。

 幕府は将軍の死により、ようやく長州征伐の休戦命令を出すに至ったのです。

6 - 3  大政奉還と討幕の密勅

 将軍・家茂の死後、将軍職に就いたのは一橋慶喜(後の徳川慶喜)でした。

 西郷は若き日、斉彬の命で一橋慶喜を将軍継嗣にするよう働いていたことは前述しましたが、その慶喜が今度は西郷の敵となり、その後立ちはだかっていくことになるのです。

 慶応3(1867)年5月、西郷は、薩摩、越前福井、土佐、宇和島という、当時力を持っていた雄藩と呼ばれる四藩に対し、国政のイニシアチブを握らせるべく、合議によって政治を運営する「雄藩連合会議」を京都において開催することに成功しました。

 当時の西郷は、この雄藩連合に全てを賭けて尽力していたのですが、四つの藩のそれぞれの思惑や利害関係の不一致、将軍・慶喜の巧みな政略などのため、会議は不成功に終わってしまうのです。

 この雄藩会議の失敗により、西郷は日本の変革を成し遂げるには、幕府を倒し、新しい政体を築くしかない、という考えに達したのです。

 雄藩連合会議(四侯会議)の失敗後、西郷や大久保は、倒幕への準備を着々と進めていたのですが、その運動とは反対に、土佐の坂本龍馬は、天下の政権を幕府から朝廷に返還させるという、「大政奉還(たいせいほうかん)」を推進しようと計画し、土佐の後藤象二郎(ごとうしょうじろう)と共に運動を始めました。

 西郷は後藤から大政奉還への同意を求められたのですが、「主旨は大いに理解し賛成するが、現在の日本の状況においては、建白書などで事態を打開することは困難である」と述べ、土佐藩の動きとは別に倒幕へ向けての用意を独自で進めることにしたのです。

 慶応3(1867)年9月18日、薩摩藩は長州藩と倒幕のための出兵盟約を結びました。

 また、大久保一蔵は、朝廷より「討幕の密勅」を降下してもらうべく、公家の岩倉具視(いわくらともみ)と共に執拗な運動を続けました。

 そしてその結果、10月14日、薩摩藩と長州藩に対して、待望の「討幕の密勅」が降下されたのです。

 しかしながら、その動きを事前に察知していた将軍・徳川慶喜は、幕府が自ら進んで朝廷に政権を奉還すれば、薩長の討幕の大義名分を無くすことが出来ると考え、土佐藩の建白を受け入れ、大政奉還に踏み切ったのです。

 この慶喜の思い切った行動は、朝廷や薩摩、長州藩に大きな衝撃を与えました。(つづく)




ーーーーー 以上 ーーーーー







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