トヨタ 伝
愛知県豊田市のトヨタ自動車本社の一角に、中学を出た若者たちが学ぶトヨタ工業技術学園がある。トヨタの職業訓練校として、生産現場を支える技能者を育て、14、800余の卒業生を送り出した。
その歴史は、1939年に創立された技能者養成所にさかのぼる。この年、約320人の少年が養成所の門をくぐった。彼ら「養成工1期生」は、文字通りトヨタとともに歩み、モノづくりの担い手となった。喜寿を迎えた彼らの足跡から、日本人の原点が見えてくる。
第四部 養成工一期生 《1》
モノづくりの礎
「This is a nut.(これはナットです) This is a bolt.(これはボルトです)」
教師の発音をまねて、教室では、四十数人の少年たちが、声を合わせていた。
敵性言語として、英語が目の敵にされていた第二次大戦中のことである。教壇から英語が追放され、野球のストライクまで、「よし一本」に変わった。しかし、トヨタの技能者養成所では英語は必修だった。
高等小学校を出て、養成工一期生となった板倉鉦二(76)は、今も当時の英語の教科書を大切に持っている。表紙は、歯車と工場の煙突の絵だ。
「機械も工具も部品も、米国製が多かったので、英語ができないと、仕事にならなかったんです」
板倉は、中学に進学しなくても、英語を学べることが誇らしかったという。
トヨタは一九三八年、愛知県挙母(ころも)町(現・豊田市)に新工場を建設し、同県刈谷市から生産拠点を移した。月に二千台と、旧工場の四倍の生産能力があった。
「とにかく、急速に工員の養成をしなければならない事態となり、臨時の体制を作ってこれに対応しました」
トヨタ自動車最高顧問の豊田英二(88)は九六年、五十期を迎えた職業訓練校の記念講演で、当時を振り返っている。
三九年四月には、政府が公布した「工場事業場技能者養成令」に基づき、挙母工場内に技能者養成所が開校された。養成期間は三年。「生産現場の中核を担う人材の育成」が目的だった。若き日の英二自身も教壇に立った。
各企業の養成所は戦後、中卒者対象の職業訓練校として存続した。これらの訓練校と連携し、高卒資格を付与してきた科学技術学園高校(東京)によると、ピークの七〇年ごろには、全国で四十三の連携校があった。日本の高い工業技術力の礎だった。
それが今では、日立製作所、東京電力、関西電力、デンソー、日野自動車とトヨタだけで、自前の育成はわずかとなった。しかし、トヨタは頑として方針を変えない。英二はこうも語っている。
「人間がモノを作るのだから、人をつくらねば仕事も始まらない」
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自前教科書に佐吉精神
トヨタ自動車の職業訓練校「トヨタ工業技術学園」には、独自の歴史教科書がある。「トヨタの歴史」である。「トヨタの理想をくみ取り、トヨタの精神を身につけることが、君たちにとって、まず第一の大切な仕事です」で始まり、第一章は「創祖豊田佐吉翁」だ。佐吉の精神を受け継ごうとすることは、養成工一期生の六十年前から変わっていない。
パソコンがずらりと並んだ技術学園の教室で、約三十人の若者が、それぞれの画面に複雑な設計図を描き出す。高等部三年の生徒が、CADと呼ばれる製図ソフトの操作方法を学んでいた。
学科や技能実習は、工業高校とほぼ同じだが、トヨタの工場と同じ機械を使うなど、より実践的なカリキュラムとなっている。
卒業すれば高卒の資格が与えられるうえ、「生徒手当」として毎月十万五千円から十四万円支給され、夏・冬のボーナスまで出る。
学園長の松永哲扶(てつお)(54)は「生徒の八割は就職というより、工業高校に来ているとの意識が強い。就職内定付きの高校進学というところです」と、今の若者気質を語る。
戦前に開校された技能者養成所でも、給料が支給された。中村信男(77)は、寮から養成所に通い、日給は六十五銭だった。大福一個が五銭の時代で、「当時の花形産業」の航空機や電車会社の初任給にも負けていなかった。
一期生は二班に分けられ、一方が授業の日は、もう一方が工場実習だった。授業では三角関数から自動車工学まで学んだ。新実康一(77)は「原子核壊変による巨大なエネルギーについて、話してくれた教師がいた」という。原爆のことだったと知るのは数年後だ。
精神教育も重視された。手嶋佐久三(77)によると、毎朝、豊田佐吉の精神を基にまとめられた社是「豊田綱領」を暗唱したという。綱領に沿った重役の講話もあった。
工場にはまだ、口よりも早く鉄けんが飛んでくる職人肌の工員が多かった。ハンマーで殴られた一期生もいた。しかし、教師からは何度も「将来、中堅の社員になってもらう」と言われた。「かつては、見て盗めという徒弟制度でしたが、言葉でも指導できる人をつくりたかったのでしょう」と中村は言う。
一期生に今日のトヨタを予想していた者はいない。花井十四三(としぞう)(76)や都築定夫(77)は、「地元の企業だから」が入社の理由だった。
花井は「よく絞られ、仕込まれたが、金には換えられない財産になった」と話し、都築は「トヨタを一流にするのも、支えていくのも、おれたちだと、張り切っていた」という。
現場のメエリートモとして育てられた一期生も、戦争や戦後の倒産の危機の折に会社を去り、あるいは病に倒れるなどして、今は三十一人が残るだけである。
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養成工一期生の軌跡
トヨタ工業技術学園の一期生は、約320人いた。東海4県の尋常小学校や青年学校を卒業し、トヨタの繁栄を下支えした。
国策に沿って生産現場のリーダーになるよう育てられたことから「養成工」と呼ばれている。大正末期に生まれた一期生のうち、戦争や労働争議をくぐり抜けた最後の31人に、技能者としての自負や職場の思い出を聞いた。
名前 年齢 ひとこと
板倉鉦二 76 二男も養成工。59年に一級技能士を取り、上着の胸に付けているのが技能士章。1期生はトヨタの旗本だ
中村信男 77 トヨタ時代、特許を8つ、実用新案を4つ取った。働き盛りの時に、日の当たる仕事につけて良かった
佐野三雄 77 国産初の本格乗用車クラウンの試作ボディーを作り、喜一郎の夢をかなえた。ハンマーを持った右腕は今も太い
杉浦芳治 77 大野耐一さんが初めて「トヨタ生産方式」を導入した第3機械課で、1秒刻みの工程短縮に努めた
山下元良 76 兄弟5人ともトヨタ。伊勢湾台風でも、まず工場に走った会社人間だが、妻と出会えたのが一番の幸せだ
土井三吉 77 父親と私、息子の親子3代、トヨタに勤めた。大学生の孫もトヨタに入ってくれれば、いいなと思う
杉山正明 77 足を痛め、通算で6年ほど会社を休んだ。障害者になったが、解雇されることもなく、ありがたかった
伊藤季昌 77 50年ほど前は給料が滞ることもしばしばで、夫は会社に行くと、自転車でアイスキャンデーを売り歩いた(妻)
塚本静男 77 戦後、会社を去った仲間も多いが、やめていたら、4人の子供を独立させることもむずかしかった
小野鉄次郎 76 辞める時に買ったトヨタの作業服が3着もある。自分のやつは自分できっちり着てから死ね、と息子に言われた
東野三郎 76 トヨタのことはもう忘れてしまったので、話したくない。今も、仕事を続けており、体はいたって元気
徳山稔 78 2年前に脳こうそくで倒れ、トヨタ病院でリハビリ中。夫婦で庭仕事をしている時が一番楽しい
成瀬兼吉 76 工作機械の管理を長年担当。役職を離れる時、会社がハワイ旅行に連れていってくれたのが最高の思い出だ
都築定夫 77 1期生初の技能検定で、トヨタで1番の成績を取ったことが誇り。つい間板ヘルニアになり自宅療養している
杉山幸夫 78 中国東北部でソ連軍に捕まり、シベリアに抑留された。カメラが好きで、近くの教室で習うのが楽しみ
梅林四郎 77 退職して以来、病気で何度も倒れて入退院を繰り返しており、ほとんど寝たきりの状態です(妻)
新実康一 77 34歳で職場の班長になった時が一番うれしかった。組長、工長にもなれたが、自分では早すぎると思った
加藤良男 76 トヨタの相撲部で力道山の相手を務めたのが自慢だった。定年前に病気で倒れ、ずっと療養している(妻)
野田孝夫 78 トヨタは家族的で、親分、子分という人間的なつながりが強かった。私自身、13人の仲人をした
花井十四三 76 現場では、よく冷や汗をかいた。子供がトヨタに入らなかったのは、仕事のきつさを見ていたからだろう
神谷尚武 77 尊敬する工場の管理職のおしゃれやしゃべり方までまねをした。いまでも髪は七三にきちんと分けている
杉浦美代市 77 初代のコロナを出した時、日産のブルーバードに押されっ放しで、設計陣に文句を言ったものだ
岡田栄次 77 弟2人も養成工の4期生と9期生。トヨタ自動車の「岡田一家」とあだ名がついた。今、一代記を書いている
手嶋佐久三 77 初めて買った車は中古のパブリカ。同居する三女の婿も豊田工機だ。前立せんがんが治り、自宅で療養中
佐原安夫 77 豊田佐吉と同じ静岡県湖西市生まれ。ヒーローの佐吉にあこがれ入社した。10年前に妻を亡くし独り暮らし
内海正二郎 76 長年、フライス盤を扱い、100分の1ミリぐらいなら感覚でわかる。あの時代は養成工が会社の基準だった
田中敏男 76 トヨタは本家。あそこがあってのデンソー。トヨタには1年間、世話になったし、幸せな人生を歩んできた
間瀬義光 77 体調がすぐれず、今は、お話できる状態ではない(妻)
亀井十一 76 お酒が好きで、事故を起こすといけないので、車の免許は取らせなかった。自転車で通勤していた(妻)
山本作夫 77 台風や災害があると、夜でも会社に駆けつけていた。まじめだった(妻)
磯谷真二 77 働きながら名工大で学ばせてくれた。戦後、移った「車体」では常務に。系列との一体感の源は養成工だ (つづく)
(敬称略)
--- 読売新聞2001年8月31日掲載 ---