人物・伝記

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第四部 養成工一期生 《3》 

きずな育てた寮生活

 父の強い勧めでトヨタ自動車工業に入社した山下元良(76)は、浜松から汽車で愛知県挙母町(現・豊田市)に着いた。完成して間もない挙母工場は、二百ヘクタールの大工場だ。 

 〈広いなあ。ここで、自動車いうもんができるのか〉 

 天竜川上流の山里で育った少年の目には、すべてが驚きだった。専用道路を歩いて、工場と地下道でつながる二階建ての寮に着いた。寮も真新しく、大きく、立派だった。 

 付き添ってきた母のうたは「朝は一人で起きれるか」と、息子を気遣った。 

 舎監室を挟み、西に一期生が入る三棟の男子寮、東に二棟の女子寮があった。一期生のほとんどは、愛知、岐阜、三重、静岡の出身だ。出身地の近い者同士が同部屋になり、十五畳の部屋に九人が詰め込まれた。中村信男(77)の部屋は愛知県岡崎市出身ばかりだった。 

 自宅が近くても、最初の一年間は入寮と決められていた。大量生産には、職人肌の職工よりも、集団の枠になじんだ工員が必要だった。 

 舎監は日本刀を腰にぶら下げた軍人である。「朝六時の起床点呼に間に合わないと、刀を抜いて、これがわからぬかと、顔に近づけるんです」と岡田栄次(77)。朝食前には、舎監の号令に合わせての体操が日課だった。 

 厳格な生活にも、明るさはあった。板倉鉦二(76)は、裏庭でバレーボールをした時のいたずらを覚えている。女子棟との間に高い塀がある。「わざと高くボールを上げて、向こう側に入れちゃうんですよ。舎監にそう言えば、入れましたから」 

 食事は、朝八銭、昼十三銭、夜十三銭。日給が六十五銭だから、余った金はささやかな楽しみに使った。一個五銭の大福を買っておき、夜中の十二時に起きて、みんなで食べるという遊びだった。眠り込んでしまえば、起きた者の分け前が多くなる。 

 佐野三雄(77)は、部屋の仲間とあみだくじをして、あんこを小麦粉の皮で巻いた「あん巻き」を買いに行くのが楽しみだった。竹垣をぐいと広げ、穴から抜け出て、店に走る。「舎監に見つかったことはなかったね。始終腹をすかしていた我々を見逃してくれたのかな」 

 技能者養成所の歴史を受け継ぐトヨタ工業技術学園も「同じかまの飯」意識を重視する。「モノづくりは個人プレーではできないからだ」と生徒指導担当の保科道大(44)。 

 一九九八年に全寮制を廃止したものの、寮は残した。生徒のほとんどが入寮を選んでいる。朝晩の点呼があり、トイレとふろは共同、消灯は午後十一時で、外泊も許可が必要だ。同世代に比べ窮屈な印象を受けるが、三年生の伊藤広貴(18)は「友達がたくさんでき、先輩に顔を覚えてもらえる。配属時に、気が楽なのではないか」と話す。 

 中村は「けんかもしたけど、一期生はみんな仲が良かった」と言う。寮の共同生活で培われたきずなが、巨大企業の屋台骨を支えた。(つづく) 

(敬称略)


--- 読売新聞2001年11月22日掲載 --- 



第四部 養成工一期生 《4》 

現場支え「階段」昇る

 「トヨタ自動車には、尋常高等小卒は、部長になれない規定がある。しかし、岡田君の給料は部長と変わらないよ」 

 「トヨタの岡田一家」とあだ名がついた岡田三兄弟の長兄、岡田栄次(77)は、役員からこう言われ、養成工一期生では初めて、部長級に抜てきされた。入社から四十三年目、一九八一年のことである。田原工場第一製造部の部長代理だった。 

 岡田の入社は、父親の意向だった。「近くのトヨタに入って、兄弟の面倒を見なかん」。父親は絶対だった。しかし、飛行機にあこがれていた岡田は、名古屋に工場のある航空機メーカーを内証で受験し、合格する。そのことを告げてから言った。 

 「おとっつぁんの言う通り、トヨタへ行くよ」 

 ボディー担当になった岡田の仕事は、トラックの角のひずみをハンマーでたたいて取る板金だった。使い方がまずいと、先輩から頭にハンマーが振り下ろされた。はさみで鉄板を切る手には、血まめができた。つぶれてはまたでき、血まめの数だけ仕事を覚えた。 

 五一年、岡田は生産現場の代表として、米国・カリフォルニア州から来た新聞記者のインタビューを受けた。 

 「日本人を見て下さい。今履いているあのゲタを、すべて自動車に変えてみせます」 

 本格的な国産乗用車クラウンの開発に着手する前年である。驚く記者の顔を、今でもよく覚えている。 

 生産現場では、七、八人を束ねる班長、次いで三、四班を受け持つ組長へと昇進する。三つほどの組を統括するのが工長で、部下を約八十人抱える係長級の現場責任者だ。 

 岡田は三十歳代前半の組長時代、オーストラリアに出張し、工長時代には労組の副委員長を二期務めた。 

 「お前が組合をやるなら、助けてやる。現場はおれに任せろ」。養成工三期生の梅村志郎(74)は、岡田にこう言われて労組委員長を引き受けた。「口数は少なく、自分でやって見せるタイプ。チームワークに気を使い、現場の信頼は厚かった」と梅村は言う。 

 六六年九月から生産が始まったカローラは、発売四年目で大衆車市場のトップに立ち、七年目には累計で百万台を突破した。 

 在庫が品薄になり、高岡工場でボディー課長になっていた岡田は、生産のスピードアップを求められた。当時は一分に一台のカローラが誕生していた。これを短縮せよ、という要請だ。ラインのスピードを上げるだけでは、コーナーで車が飛び出してしまう。ラインの歯車に改良を加え、十三秒の短縮を実現した。協力会社との徹夜作業だった。 

 当時の副社長斎藤尚一から、「栄ぼうがやったのか」と声をかけてもらったことが忘れられない。 

 生産現場を支えた一期生の多くが、工長で定年を迎えた。初の部長代理となった岡田は、その後、系列会社アラコの工場長も務めた。(つづく) 

(敬称略)


--- 読売新聞2001年11月23日掲載 --- 





第四部 養成工一期生 《5》 

「軍需工場」兵役免除も

 「護国第二十工場」。一九四五年(昭和二十)六月、トヨタ自動車工業挙母(ころも)工場は、こう改名された。 

 前年の四四年一月には、トヨタは軍の統制下に入る軍需会社に指定されている。 

 軍需工場となったおかげで兵役を免れた一期生がいる。徴兵検査で甲種合格の板倉鉦二(76)も、その一人だった。 

 四五年四月に松江の航空隊に入隊することになったが、「軍需工場で働いている重要な人物は、工場に残れるよう申請できる制度があり、会社がやってくれた」という。入隊は九月一日まで延び、八月十五日に終戦を迎えた。 

 一期生の大半は大正十三、十四年生まれで、徴兵検査を受けた最後の世代だった。 

 佐野三雄(77)は徴兵検査を受ける際、「これを渡せ」と、人事部長から封筒を渡された。それを読んだ徴兵官から、「お前は兵隊に行きたくはないのか」と尋ねられた。 

 「中身は知らなかった。どうやら、会社に必要な人間だからと書いてあったらしい。なんか、うれしかったね」 

 それでも佐野は召集され、福岡・大刀洗では兵舎が爆撃を受け、死ぬところだった。 

 成瀬兼吉(76)は、封筒の効果があってか、召集を免れた。会社が評価してくれたからだと受け取った。「努力したかいがあったと思った。だから、銃後の職場を守ろうと一生懸命働いたよ」 

 新実康一(77)は、封筒を破り捨てて徴兵検査を受けた。しかし、配属された栃木・下館の陸軍飛行場には、すでに飛行機は一機もなかった。 

 挙母工場が空襲を受けたのは、終戦前日の八月十四日だった。トヨタの「二十年史」にはこうある。 

 〈午後二時ごろ、挙母の上空に現れた三機のB29が、超大型爆弾を投下した。一個は前山社宅付近、一個は矢作川沿い、そして一個は挙母工場に落ちた〉 

 工場内の落下地点は空き地で、爆風による被害はあったが、死傷者はなかった。最近になって、三個の爆弾は原子爆弾と同型の五トン爆弾で、原爆投下訓練の一環だったことが判明している。 

 終戦直後、米軍は爆弾の効果を調べるため、調査団を挙母に送り込んできた。携えていた爆撃プランでは、一週間後に工場を本格空襲することになっていた。当時、取締役として応対した豊田英二(88)は「背筋が寒くなった」という。 

 多くの一期生が兵役を機にトヨタを去った。「生きて帰れる」とは思わず、退職を選んだからだ。家族に退職金を残すことができた。 

 中村信男(77)は休職扱いにしてもらった。「一度にお金をもらうより、少ないけれど、毎月、家族に給料を送ってもらおう」と思った。それが幸いして、復員後はすぐに復職できた。 

 しかし、仕事はなく、毎日、掃除をしていた。アルミのナベやカマも作った。「自動車屋さんなもんで、ナベが漏れるだわ」と中村は笑う。工場が残っていることが何よりだった。(つづく) 

(敬称略)

--- 読売新聞2001年11月24日掲載 --- 



第四部 養成工一期生 《6》 

「在庫持つな」どなる神様

 チャプリンのような口ひげがあった。そのひげがピクピクしだすと危険信号だった。次には青筋を立てて怒り出すのである。 

 腕に自信があった一期生たちも、工場長の大野耐一が現場に来るだけでびくついていた。 

 世に知られるトヨタの「かんばん方式」は、現場を知り尽くした大野の洞察力と、そのどなり声から生まれた。在庫をゼロにして、極限まで合理化を追求する生産方式は、その後のトヨタの飛躍を支え、大野は副社長となった。 

 中村信男(77)は一九五〇年、一期生では最初の班長となった。大野が独自につくった職制で、機械工場長の大野名の辞令だった。会社が制度を後追いし、中村は三年後、今度は会社名の辞令を受けた。それほど現場部門で、大野の力は強かった。 

  その大野が間もなく、工場の一部で、かんばん方式の試行を始めた。大野は言った。 

 「余分に造るな」「在庫は持つな」 

 現場では当初、その意味が分からなかった。それまでは、仕事ができる人間はどんどん作業を進め、次の工程に流した。部品がよどめば、かたづくまでは休んでいてもいい。能力ある者の特典だった。 

 大野は「それは無駄だ」と言う。それでも、余分に造っておかないと、安心できない。造りだめして隠しておくと、目ざとく見つけた大野が床に放り投げた。 

 大野は「かんばん方式は、米国のスーパーマーケットから思いついた」と語った。客は必要なだけ購入し、店員は売れた分だけ補充していく。少しずつイメージが定着していった。 

 花井十四三(としぞう)(76)は「機械は、まず止まるようにしろ」との大野の言葉を覚えている。記憶がいいからではない。そればっかり言われたからだ。それまでは、機械が止まったら大変だと必死に保守点検してきた。正反対だった。 

 大野としては、旋盤などの機械を、これまでの一人に一台から多数台担当にしていこうとしていた。機械が不良品を産み出したら、自動的に止まるか、現場の判断で止めた方がロスは少ないのだ。 

  塚本静男(77)は工長時代に、余分な部品の在庫が見つかり、大野に絞られたことがある。大野は床にチョークで丸を書き、そこに立っていろという。何のために立たされているのか、皆目、検討がつかなかった。 

 ラインの全体を眺め、自分の段取りに無駄は無かったか、改善点はないか考えろということだと、後日、気づいた。大野はいつも、口では説明しなかった。 

  かんばん方式は、六三年には全工場へと広がった。マニュアルが活字になるまでに、さらに十年かかった。 

 花井たちは大野のことを「大神様」と言う。戸惑いながらも、一期生たちは、神様の言葉を現場に定着させていった。七三年二月に出された冊子「トヨタ式生産システム」には、こうある。 

 〈「かんばん方式」は、生産現場の知恵の結晶である〉 (つづく)

(敬称略)

--- 読売新聞2001年11月25日掲載 --- 





第四部 養成工一期生 《7》 

無駄排除 足の運びまで

 若い時の山下元良(76)には、週に一度、ふろにつかりながらの仕事があった。手のひらに食い込んだ鉄くずを、一つずつ取っていくのだ。 

 鉄くずは、車軸を削る折に刺さった。最初のうちは血が出たが、そのうち足の裏のように分厚くなって、今度は、取るのが大変になった。だからふろで、十分に手をふやかすのである。戦後しばらくしてゴム手袋が登場し、ようやく解放された。 

 そのころの職場には、機械に手を挟まれ、指のない先輩たちもいた。「職場の勲章」ともされたが、そんな労災があって初めて、安全装置が一つずつ増えていった。 

 トヨタでさえ、そんな時代があった。 

 一九六〇年前後、自動車需要の増大に対応して生産設備の近代化が進む中で、労働の質自体も大きく変ぼうしていった。機械が入れ替わっただけでなく、大野耐一による「かんばん方式」の導入で、意識も変わろうとしていた。 

 現場の人間にとって、はっきりしていたのは、生産ラインから人が減っていったことだ。 

 以前の機械は操作に熟練が必要で、一台に一人が張り付いた。徐々に、一人でこなす機械、作業の数が増えた。「わしは十数台を一人で持ったこともある」と、花井十四三(としぞう)(76)は言う。給料は一人分だから、そんなばかなことがあるかと、現場から不満が出たこともあった。 

 最適で無駄のない作業と人員配置を達成するために、工程を見直し、機械の配置が変えられた。 

 杉浦美代市(77)は、機械の間を動いて作業をするのに、右利きの人間は、右回りがいいか、左回りがいいか、ストップウオッチを持って計った。杉浦芳治(77)もやはりストップウオッチを片手に、「歩く方向から、足の運び方、手の位置に至るまで、無駄を徹底的に省いて、最適な手順を探った」と言う。 

 部品を組み立てる一つの工程に二分かかるとする。三秒短縮できれば、一日で約二十分の短縮につながり、生産性が向上する。大野は、このような「科学的な分析」を求めた。それがないと、人は納得しないものだからだという。 

 作業は単調、単純化されていった。しかし、工程の中に新たな無駄を見つけ、改善につなげれば、表彰された。「その達成感が、ラインの中の人間性回復の部分だった」と杉浦芳治は言う。 

 必死に働いてきた一期生たち。山下は、今も妻の信恵(70)から会社人間ぶりをやゆされる。「伊勢湾台風の時でも、ラインが心配だからと会社へ行った。私と娘二人は、畳を上げて、一晩中、窓を押さえていたのよ」 

 花井も、同僚から自虐的な言葉を聞かされた。 

 「トヨタで絞られたから、定年後は三年持てばいい」 

 幸い、花井は今も健康だが、三人の子供はトヨタとは無関係の仕事に就いた。 

 「きつい仕事に、不規則な勤務ぶりを見ていたからね」 

 子供たちが、定年後の花井に買ってくれた車は日産車だった。(つづく) 

(敬称略)

--- 読売新聞2001年11月26日掲載 --- 




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