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--- 西郷隆盛 ---
5 西郷赦免から第一次長州征伐まで 5 - 1 西郷赦免 薩摩藩は会津藩と手を結んで「八月十八日の政変」を起こすことにより、京都における藩の勢力回復を目論んだのですが、実際それは逆効果にすぎませんでした。 会津藩と結んだことによる効果は意外に少なく、逆に勤皇藩と思われていた薩摩藩が幕府側の会津藩と同盟したことにより、その評判を落とす結果となったのです。 また、会津藩と同盟して以後の薩摩藩は、「参預会議(制度)」という、有力な諸大名が朝議や幕議に参加するための新たな政治制度を提唱し、それを軸にしての政治運営を模索しますが、当時将軍後見職であった一橋慶喜の策謀により、制度自体が形骸化してしまう結果となり、当時の薩摩藩首脳部は、それを打開する新たな方策が見えないような状況でした。 そのような政治的に行き詰まった薩摩藩内に、「この危機を救えるのは西郷吉之助しかいない」という運動が起こり始めました。 最初、先頭に立って西郷赦免の運動を起こしたのは、寺田屋騒動の生き残りである柴山竜五郎(しばやまりゅうごろう)、三島源兵衛(みしまげんべえ。後の通庸)、福山清蔵(ふくやませいぞう)といった西郷と縁の深い人々でした。 三人は協議した結果、大久保や家老の小松帯刀(こまつたてわき)といった久光の重臣達に対し、西郷の赦免を久光に願い出るよう頼むことにしました。 しかし、彼ら重臣の誰もが久光の西郷嫌いをよく知っていたので、三人の依頼になかなか首を縦に振りません。そんな事を進言すれば自分達の立場が危なくなる、重臣達はそんな風に考えたのかもしれません。 そこで三人は、久光の特にお気に入りの家臣である高崎左太郎(たかさきさたろう)と高崎五六(たかさきごろく)の二人に対し、久光に西郷赦免を願い出てもらうように頼んだのです。 高崎両名は、三人の熱意に心を動かされ、死を決して久光に西郷赦免を申し出ました。 「西郷赦免の儀、お聞き届けなくば、この場で割腹つかまつる所存でございもす」 そんな願い出を聞いた久光は、苦々しい表情を浮かべながら、こう言いました。 「左右みな賢なりと言うか……。しからば即ち愚昧の久光ひとりこれをさえぎるのは公論ではあるまい。太守公(藩主・忠義)に伺いを立てよ。太守公において、良いと言われるのなら、わしに異存はない」 久光はそう言うと、くわえていた銀のキセルをギュッと歯で力強く噛み締めました。その銀のキセルには、久光の歯型が残っていたと伝えられています。この伝承をもってしても、久光がどんなに西郷の赦免を嫌がっていたのかが良く分かります。 ただ、久光としても薩摩藩の今後を考えると、西郷のように人望や手腕において右に出るものがいない者をこのまま南島に朽ち果てさせて置くということが情勢上出来なかったのでしょう。久光は渋々ながらも西郷の赦免を了承したのです。 こうして沖永良部島にいた西郷に、赦免の使者が到着しました。 元冶元(1864)年2月21日のことです。 5 - 2 西郷の着京と蛤御門の変 元冶元(1864)年2月28日、西郷は約一年八ヶ月ぶりに鹿児島の地に帰り着きました。 そして、西郷は席の暖まる暇もなく京へ呼び出され、久光より「軍賦役兼諸藩応接係」を任命されました。軍賦役とは軍事司令官のようなものです。この時から西郷の縦横無尽な活躍が始まるのです。 西郷が京に入って最初に手掛けたことは、前年の「八月十八日の政変」で同盟した会津藩と手を切ることでした。 確固とした方策を持たずに、ただ長州藩を追い落とすためだけに会津と手を結んだことへのしわ寄せが、薩摩藩の現状を悪化させていると考え、会津藩と一定の距離を保つために、薩会同盟に関係した人々を薩摩に帰国させ、京での薩摩藩の信頼回復に全力をあげました。 一方「八月十八日の政変」で京から追い落とされた長州藩ですが、この年に起こった「池田屋事件」(長州や土佐藩士などの尊攘派の志士約三十名が、会津藩預かりの新選組の襲撃を受け、七名が死亡し、残りが捕縛された事件)に激昂した長州藩内の急進派と呼ばれる人々は、京での勢力回復を目指し、福原越後(ふくはらえちご)ら三人の家老を将として、京都に向けて大軍を進発してきたのです。 長州藩兵は、伏見、嵯峨、山崎といった京周辺に陣を構え、いつでも攻撃できる準備を始めました。 この事態を憂慮した京都守護職の松平容保は、万一の場合に備え、薩摩藩に出兵を要求したのですが、西郷は「池田屋事件は、会津と長州との間の私闘である」と出兵を拒否し、薩摩藩は御所の周辺を重点的に守るという方針を立てたのです。 元冶元(1864)年7月18日夜、ついに痺れを切らした長州藩兵が動き出し、御所の蛤御門(はまぐりごもん)を中心に攻めかかりました。 前年からの恨みを晴らすかの如く、長州藩の勢いは誠に凄まじく、会津兵を蹴散らし、長州勢は御所に迫る勢いを見せました。 この状況を知った西郷は、自ら藩兵を率いて蛤御門に駆け付け、長州勢と激しい戦いを繰り広げました。西郷自身も軽傷ながら被弾するなど、この蛤御門周辺の戦いは大変な激戦となったのですが、西郷は藩兵を上手く使いこなし、見事に長州勢を退けたのです。 これが世に言う「蛤御門の変」とか「禁門の変」と言われているものです。 この戦いで、薩摩藩兵の強さが際立ったため、西郷吉之助の名も 一躍京において有名となりました。 5 - 3 勝海舟との出会い 元冶元(1864)年9月11日、越前福井藩の堤正誼(つつみまさよし)と青山貞(あおやまさだ)の二人が、突然西郷を訪ねてきました。二人は西郷に対し、「今大坂に幕臣の勝海舟(かつかいしゅう)という人物がいるのだが、勝は幕臣中一廉の人物であるので、是非面会なさった方がよい」と進言してきたのです。 西郷はその話を聞き、早速勝に面会を申し込みました。勝はその申し出を快く受け入れ、ここに薩摩と幕府の英雄が顔を合せたのです。 勝はその席上、ざっくばらんに幕府の内情や、現在の国内情勢や諸問題について、西郷と語りあいました。 西郷はその時の勝との対面を、大久保宛の手紙の中に次のように書いています。 「勝氏と初めて面会したのですが、実に驚くような人物でした。最初はやっつけるつもりで会ったのですが、実際会ってみると、ほんとうに頭が下がる思いになりました。勝氏にはどれだけの知略があるのか、私にはまったく分からないほどです」 西郷がいかに勝の人物を認めたのかが、この手紙の記述でよく分かると思います。 そして、このことが後年江戸無血開城の大立者となった勝と西郷の最初の出会いとなったのです。 5 - 4 第一次長州征伐と五卿動座 蛤御門の変で長州藩を撃退し自信を深めた幕府は、その勢いに乗じて、これを機に長州藩を討伐しようと考えました。 元冶元(1864)年7月23日には、幕府は早くも長州藩追討の勅命を朝廷から受けることに成功し、在京の二十一藩に対し、長州への出兵命令を下しました。西郷も薩摩藩の代表として、征長軍の参謀に任命され、長州に向かうことになったのです。 征長軍の総督は、尾張藩主・徳川慶勝(とくがわよしかつ)でし た。慶勝は、征長についての見込みや意見を西郷に求めると、西郷は長州征伐のような国内の内戦が無意味であることを述べ、武力を使わずに、長州藩の支藩であった岩国藩主・吉川監物(きっかわけんもつ)に本藩を説得させ、恭順させるのが一番の良策であるということを進言しました。 西郷の頭の中には、幕府が考えるように、長州藩を潰すという了見はさらさら無かったのです。 徳川慶勝は西郷の意見を聞きいれ、西郷に征長に関わる一切の工作を委任しました。 慶勝の委任を受けた西郷は、急遽岩国へと向かい、岩国藩主・吉川監物と会談し、無意味な抵抗は愚策であることを論じ、 ①先の蛤御門の変の首謀者である三人の家老や四人の参謀の処罰を徹底し恭順の意を示すこと ②八月十八日の政変で長州に落ち延びた五卿(七卿のうち一人は既に病死し、一人は行方不明になっていた)を他藩に移すこと といった条件を守るならば、征長軍を解兵させるように働くと約束したのです。 吉川は西郷の進言を快く受け入れ、本藩の長州藩に西郷が提示した条件を遂行するように働きかけました。 結果、長州藩は蛤御門の変の首謀者である三家老を切腹させ、四参謀の斬罪を行い、恭順の態度を示したのです。 しかし、五卿の移転に関してだけは事態が紛糾しました。 長州藩が匿っていた三条実美以下の五卿は、長州藩にとって勤皇藩として働いてきた象徴であり、証でもあったからです。 五卿を他に引き渡すという征長軍の条件に、長州藩士らは激昂しました。 特に、前年高杉晋作(たかすぎしんさく)によって結成された奇兵隊を中心とした諸隊と呼ばれる十数の部隊は、強行に五卿の移転に反対しました。 武力を使うことなく、長州処分を行うことが出来ると考えていた西郷にとって、この諸隊の行動は、平和的解決をふいにしかねない、危ういものであると判断しました。 五卿の移転を拒否することは、すなわち幕府に反抗の意を表明する形になり、武力での討伐を推し進める幕府に対し、出兵の名目を与えかねないとも考えられたからです。 そこで西郷は思い切った行動に出ました。 自らが下関の諸隊の本部へと乗り込み、五卿の移転に関して、諸隊の幹部らと直談判しようとしたのです。 当時の長州藩士達の間には、八月十八日の政変や蛤御門の変での恨みが骨髄にまでしみわたっており、薩摩・会津を憎むものが多く、下駄の裏側に「薩賊会奸(さつぞくかいかん)」と書いて歩く者がいたほどです。 また、過激な長州藩士らは、「関門海峡は薩摩にとって三途の川 だ。渡れるものなら渡ってみろ、薩摩藩士と判ったら、討ち伏せてくれよう」とまで放言し、長州という場所は薩摩人にとってまさに死地に等しい場所だったのです。 特に諸藩の幹部連中には過激な論を吐く者が多かったので、その諸隊本部に行くということは、まさに死にに行くようなものであったとも言えましょう。 しかし、西郷はその死地に自らが入ることにより、事態の改善につとめようとしたのです。この西郷の行動は、まさに「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」という故事を実践するようなものでした。 諸隊の幹部連中は、薩摩藩を代表し、征長軍の参謀であった西郷が突然訪問してきたことに驚いたことでしょう。 西郷は諸隊の幹部らに対し、現在の日本の置かれた状況を考えてみれば、内戦を起こしている場合ではないことを説き、また五卿の身の安全を保障し、五卿移転による早急な征長軍の解兵が薩長双方にも有意義であることを述べました。 この西郷の熱心な説得により、諸隊の幹部らは五卿を移転させることをようやく承知したのです。そして、五卿動座が決定されたことにより、征長軍総督・徳川慶勝は、征討諸軍に解兵を命じました。 第一次長州征伐の平和的な解決は、西郷の死を賭した働きによるものだったと言えましょう。 話は少しそれますが、後々にも関係のあることですので、一つ付け加えます。 この五卿動座の方法を見ても分かるように、紛糾した事態を解決の方向へと導く西郷のやり方は、自らを死地においてこそ、解決が生まれるという独特のものであることが分かるのではないかと思います。 これは西郷の生涯を通じての手法であり、手口であり、考え方であり、クセであるとも言って良いでしょう。 いわゆる「征韓論」と言われるもの自体も、この手口に準拠しているものと感じます。 後にまた書きますが、「征韓論」という武力で朝鮮を攻めようなどという暴論を西郷が唱えたことは一度もありません。 逆に、朝鮮を武力で攻めることに反対し、平和的な解決を望んで、そう主張していたのです。 いわゆる「征韓論争」において、西郷自身には朝鮮を武力で攻めようなどという了見はさらさらありませんでした。ただ、西郷は日朝間のこじれた関係を正常に戻すべく、全権大使として、朝鮮に渡り、事態の収拾にあたろうとしたに過ぎないのです。 「死地に入ってこそ、道が開ける」 この西郷独特の手法を世間は誤解し、「征韓論」などという虚像を作り出す結果となってしまったのです。(つづく) ーーーーー以上 ーーーーー |

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