人物・伝記

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--- 西郷隆盛 --- 

5  西郷赦免から第一次長州征伐まで

5 - 1  西郷赦免

 薩摩藩は会津藩と手を結んで「八月十八日の政変」を起こすことにより、京都における藩の勢力回復を目論んだのですが、実際それは逆効果にすぎませんでした。

会津藩と結んだことによる効果は意外に少なく、逆に勤皇藩と思われていた薩摩藩が幕府側の会津藩と同盟したことにより、その評判を落とす結果となったのです。

 また、会津藩と同盟して以後の薩摩藩は、「参預会議(制度)」という、有力な諸大名が朝議や幕議に参加するための新たな政治制度を提唱し、それを軸にしての政治運営を模索しますが、当時将軍後見職であった一橋慶喜の策謀により、制度自体が形骸化してしまう結果となり、当時の薩摩藩首脳部は、それを打開する新たな方策が見えないような状況でした。

 そのような政治的に行き詰まった薩摩藩内に、「この危機を救えるのは西郷吉之助しかいない」という運動が起こり始めました。

 最初、先頭に立って西郷赦免の運動を起こしたのは、寺田屋騒動の生き残りである柴山竜五郎(しばやまりゅうごろう)、三島源兵衛(みしまげんべえ。後の通庸)、福山清蔵(ふくやませいぞう)といった西郷と縁の深い人々でした。

三人は協議した結果、大久保や家老の小松帯刀(こまつたてわき)といった久光の重臣達に対し、西郷の赦免を久光に願い出るよう頼むことにしました。

 しかし、彼ら重臣の誰もが久光の西郷嫌いをよく知っていたので、三人の依頼になかなか首を縦に振りません。そんな事を進言すれば自分達の立場が危なくなる、重臣達はそんな風に考えたのかもしれません。

 そこで三人は、久光の特にお気に入りの家臣である高崎左太郎(たかさきさたろう)と高崎五六(たかさきごろく)の二人に対し、久光に西郷赦免を願い出てもらうように頼んだのです。

 高崎両名は、三人の熱意に心を動かされ、死を決して久光に西郷赦免を申し出ました。

「西郷赦免の儀、お聞き届けなくば、この場で割腹つかまつる所存でございもす」

 そんな願い出を聞いた久光は、苦々しい表情を浮かべながら、こう言いました。

「左右みな賢なりと言うか……。しからば即ち愚昧の久光ひとりこれをさえぎるのは公論ではあるまい。太守公(藩主・忠義)に伺いを立てよ。太守公において、良いと言われるのなら、わしに異存はない」

 久光はそう言うと、くわえていた銀のキセルをギュッと歯で力強く噛み締めました。その銀のキセルには、久光の歯型が残っていたと伝えられています。この伝承をもってしても、久光がどんなに西郷の赦免を嫌がっていたのかが良く分かります。

 ただ、久光としても薩摩藩の今後を考えると、西郷のように人望や手腕において右に出るものがいない者をこのまま南島に朽ち果てさせて置くということが情勢上出来なかったのでしょう。久光は渋々ながらも西郷の赦免を了承したのです。

 こうして沖永良部島にいた西郷に、赦免の使者が到着しました。

 元冶元(1864)年2月21日のことです。

5 - 2  西郷の着京と蛤御門の変

 元冶元(1864)年2月28日、西郷は約一年八ヶ月ぶりに鹿児島の地に帰り着きました。

 そして、西郷は席の暖まる暇もなく京へ呼び出され、久光より「軍賦役兼諸藩応接係」を任命されました。軍賦役とは軍事司令官のようなものです。この時から西郷の縦横無尽な活躍が始まるのです。

 西郷が京に入って最初に手掛けたことは、前年の「八月十八日の政変」で同盟した会津藩と手を切ることでした。

確固とした方策を持たずに、ただ長州藩を追い落とすためだけに会津と手を結んだことへのしわ寄せが、薩摩藩の現状を悪化させていると考え、会津藩と一定の距離を保つために、薩会同盟に関係した人々を薩摩に帰国させ、京での薩摩藩の信頼回復に全力をあげました。
 
 一方「八月十八日の政変」で京から追い落とされた長州藩ですが、この年に起こった「池田屋事件」(長州や土佐藩士などの尊攘派の志士約三十名が、会津藩預かりの新選組の襲撃を受け、七名が死亡し、残りが捕縛された事件)に激昂した長州藩内の急進派と呼ばれる人々は、京での勢力回復を目指し、福原越後(ふくはらえちご)ら三人の家老を将として、京都に向けて大軍を進発してきたのです。

 長州藩兵は、伏見、嵯峨、山崎といった京周辺に陣を構え、いつでも攻撃できる準備を始めました。

 この事態を憂慮した京都守護職の松平容保は、万一の場合に備え、薩摩藩に出兵を要求したのですが、西郷は「池田屋事件は、会津と長州との間の私闘である」と出兵を拒否し、薩摩藩は御所の周辺を重点的に守るという方針を立てたのです。

 元冶元(1864)年7月18日夜、ついに痺れを切らした長州藩兵が動き出し、御所の蛤御門(はまぐりごもん)を中心に攻めかかりました。
 前年からの恨みを晴らすかの如く、長州藩の勢いは誠に凄まじく、会津兵を蹴散らし、長州勢は御所に迫る勢いを見せました。

 この状況を知った西郷は、自ら藩兵を率いて蛤御門に駆け付け、長州勢と激しい戦いを繰り広げました。西郷自身も軽傷ながら被弾するなど、この蛤御門周辺の戦いは大変な激戦となったのですが、西郷は藩兵を上手く使いこなし、見事に長州勢を退けたのです。

 これが世に言う「蛤御門の変」とか「禁門の変」と言われているものです。

 この戦いで、薩摩藩兵の強さが際立ったため、西郷吉之助の名も
一躍京において有名となりました。


5 - 3  勝海舟との出会い

 元冶元(1864)年9月11日、越前福井藩の堤正誼(つつみまさよし)と青山貞(あおやまさだ)の二人が、突然西郷を訪ねてきました。二人は西郷に対し、「今大坂に幕臣の勝海舟(かつかいしゅう)という人物がいるのだが、勝は幕臣中一廉の人物であるので、是非面会なさった方がよい」と進言してきたのです。

 西郷はその話を聞き、早速勝に面会を申し込みました。勝はその申し出を快く受け入れ、ここに薩摩と幕府の英雄が顔を合せたのです。

 勝はその席上、ざっくばらんに幕府の内情や、現在の国内情勢や諸問題について、西郷と語りあいました。

 西郷はその時の勝との対面を、大久保宛の手紙の中に次のように書いています。

「勝氏と初めて面会したのですが、実に驚くような人物でした。最初はやっつけるつもりで会ったのですが、実際会ってみると、ほんとうに頭が下がる思いになりました。勝氏にはどれだけの知略があるのか、私にはまったく分からないほどです」

 西郷がいかに勝の人物を認めたのかが、この手紙の記述でよく分かると思います。

 そして、このことが後年江戸無血開城の大立者となった勝と西郷の最初の出会いとなったのです。

5 - 4  第一次長州征伐と五卿動座

 蛤御門の変で長州藩を撃退し自信を深めた幕府は、その勢いに乗じて、これを機に長州藩を討伐しようと考えました。

 元冶元(1864)年7月23日には、幕府は早くも長州藩追討の勅命を朝廷から受けることに成功し、在京の二十一藩に対し、長州への出兵命令を下しました。西郷も薩摩藩の代表として、征長軍の参謀に任命され、長州に向かうことになったのです。

 征長軍の総督は、尾張藩主・徳川慶勝(とくがわよしかつ)でし
た。慶勝は、征長についての見込みや意見を西郷に求めると、西郷は長州征伐のような国内の内戦が無意味であることを述べ、武力を使わずに、長州藩の支藩であった岩国藩主・吉川監物(きっかわけんもつ)に本藩を説得させ、恭順させるのが一番の良策であるということを進言しました。

 西郷の頭の中には、幕府が考えるように、長州藩を潰すという了見はさらさら無かったのです。

 徳川慶勝は西郷の意見を聞きいれ、西郷に征長に関わる一切の工作を委任しました。

 慶勝の委任を受けた西郷は、急遽岩国へと向かい、岩国藩主・吉川監物と会談し、無意味な抵抗は愚策であることを論じ、

①先の蛤御門の変の首謀者である三人の家老や四人の参謀の処罰を徹底し恭順の意を示すこと

②八月十八日の政変で長州に落ち延びた五卿(七卿のうち一人は既に病死し、一人は行方不明になっていた)を他藩に移すこと

 といった条件を守るならば、征長軍を解兵させるように働くと約束したのです。

 吉川は西郷の進言を快く受け入れ、本藩の長州藩に西郷が提示した条件を遂行するように働きかけました。

 結果、長州藩は蛤御門の変の首謀者である三家老を切腹させ、四参謀の斬罪を行い、恭順の態度を示したのです。

 しかし、五卿の移転に関してだけは事態が紛糾しました。

 長州藩が匿っていた三条実美以下の五卿は、長州藩にとって勤皇藩として働いてきた象徴であり、証でもあったからです。

 五卿を他に引き渡すという征長軍の条件に、長州藩士らは激昂しました。

 特に、前年高杉晋作(たかすぎしんさく)によって結成された奇兵隊を中心とした諸隊と呼ばれる十数の部隊は、強行に五卿の移転に反対しました。

 武力を使うことなく、長州処分を行うことが出来ると考えていた西郷にとって、この諸隊の行動は、平和的解決をふいにしかねない、危ういものであると判断しました。

五卿の移転を拒否することは、すなわち幕府に反抗の意を表明する形になり、武力での討伐を推し進める幕府に対し、出兵の名目を与えかねないとも考えられたからです。

 そこで西郷は思い切った行動に出ました。

 自らが下関の諸隊の本部へと乗り込み、五卿の移転に関して、諸隊の幹部らと直談判しようとしたのです。

 当時の長州藩士達の間には、八月十八日の政変や蛤御門の変での恨みが骨髄にまでしみわたっており、薩摩・会津を憎むものが多く、下駄の裏側に「薩賊会奸(さつぞくかいかん)」と書いて歩く者がいたほどです。

 また、過激な長州藩士らは、「関門海峡は薩摩にとって三途の川
だ。渡れるものなら渡ってみろ、薩摩藩士と判ったら、討ち伏せてくれよう」とまで放言し、長州という場所は薩摩人にとってまさに死地に等しい場所だったのです。

 特に諸藩の幹部連中には過激な論を吐く者が多かったので、その諸隊本部に行くということは、まさに死にに行くようなものであったとも言えましょう。

 しかし、西郷はその死地に自らが入ることにより、事態の改善につとめようとしたのです。この西郷の行動は、まさに「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」という故事を実践するようなものでした。

 諸隊の幹部連中は、薩摩藩を代表し、征長軍の参謀であった西郷が突然訪問してきたことに驚いたことでしょう。

 西郷は諸隊の幹部らに対し、現在の日本の置かれた状況を考えてみれば、内戦を起こしている場合ではないことを説き、また五卿の身の安全を保障し、五卿移転による早急な征長軍の解兵が薩長双方にも有意義であることを述べました。

 この西郷の熱心な説得により、諸隊の幹部らは五卿を移転させることをようやく承知したのです。そして、五卿動座が決定されたことにより、征長軍総督・徳川慶勝は、征討諸軍に解兵を命じました。

 第一次長州征伐の平和的な解決は、西郷の死を賭した働きによるものだったと言えましょう。

 話は少しそれますが、後々にも関係のあることですので、一つ付け加えます。

 この五卿動座の方法を見ても分かるように、紛糾した事態を解決の方向へと導く西郷のやり方は、自らを死地においてこそ、解決が生まれるという独特のものであることが分かるのではないかと思います。

 これは西郷の生涯を通じての手法であり、手口であり、考え方であり、クセであるとも言って良いでしょう。

 いわゆる「征韓論」と言われるもの自体も、この手口に準拠しているものと感じます。

 後にまた書きますが、「征韓論」という武力で朝鮮を攻めようなどという暴論を西郷が唱えたことは一度もありません。

逆に、朝鮮を武力で攻めることに反対し、平和的な解決を望んで、そう主張していたのです。

 いわゆる「征韓論争」において、西郷自身には朝鮮を武力で攻めようなどという了見はさらさらありませんでした。ただ、西郷は日朝間のこじれた関係を正常に戻すべく、全権大使として、朝鮮に渡り、事態の収拾にあたろうとしたに過ぎないのです。

「死地に入ってこそ、道が開ける」

 この西郷独特の手法を世間は誤解し、「征韓論」などという虚像を作り出す結果となってしまったのです。(つづく)




ーーーーー以上 ーーーーー







4  寺田屋騒動から八月十八日の政変まで

4 - 1  寺田屋騒動

 西郷が捕縛され、久光の命令で国許薩摩に送還されると、久光の行列はいよいよ威風堂々と京の都に入りました。

 西郷という統制者を失った京・大坂に集まった浪士や有馬新七(ありましんしち)を中心とする薩摩藩の急進派藩士らは、この久光の入京を機に、倒幕の先鋒として兵を挙げることを計画し、京都伏見の船宿「寺田屋」に集結し始めました。

 久光は元来保守的な性格で統制主義者です。このような自分の計画をぶち壊すような浪人達や藩士らの行動を不快に思いました。折角堂々と国政に乗り出してきたにもかかわらず、一部の過激な者達の行動によって自分の計画の邪魔をさせられたくもありませんでした。

 また、当時の朝廷自体も、このような過激な浪士達が不穏な動きを見せていたことを憂慮していたため、朝廷は久光に対し、彼ら過激浪士らの鎮撫を命令したのです。

 浪士鎮撫の朝旨を受けた久光は、文久2(1862)年4月23日、倒幕のための挙兵を計画し、薩摩藩士らが集結した寺田屋に、大山格之助(おおやまかくのすけ。後の綱良)や奈良原喜八郎(ならはらきはちろう。後の繁)といった、いずれも武術に優れた藩士を九名選び、寺田屋に派遣しました。

 久光はその九名の藩士に対し、

「寺田屋の連中が、もし自分の命令に従わない時は、臨機の処置を取れ」

 と厳命したのです。
 臨機の処置とは、命令に刃向った場合、上意討ちにしても構わないということです。

 当時、寺田屋に集結していた有馬新七、柴山愛次郎(しばやまあいじろう)、橋口壮助(はしぐちそうすけ)といった薩摩藩士らと久光の派遣した鎮撫士とは、同じ誠忠組の同志でもあったのです。

 寺田屋に着いた大山達は、有馬達に対し、軽挙な行動は慎むようにとの久光の命令を告げました。

 しかし、有馬は、

「事ここに至ってはもはや中止は出来もはん」

 と、久光の命令を拒否したのです。

 それを聞いた大山ら鎮撫士は、「君命ごわす!」と叫び、有馬らに斬りかかりました。

 ここに同志相討つ寺田屋の惨劇が起こったのです。

 大山ら鎮撫士は、いずれも剣術に長けた藩士ばかりでしたので、寺田屋にいた人々は次々と斬り倒されていき、まるで生き地獄のような光景となりました。

 特に、有馬新七の最後は壮絶を極めています。

 有馬は鎮撫士の道島五郎兵衛(みちじまごろうびょうえ)を斬りあいに及んだ後、道島を壁へと押し付け、その上に自分が覆いかぶさり、同志であった橋口吉之丞(はしぐちきちのじょう)に対し、

「おい(自分)ごと突け〜! おいごと刺せ!!!」

 と、絶叫しました。

 有馬の絶叫を聞いた橋口は、「チェスト〜!!!」と気合いをかけ、有馬と道島を同時に刀で突き抜いたのです。

 何と、壮絶なことでしょうか……。想像するだけでも悲惨極まりない光景です。

 結果、寺田屋に集結していた浪士達は、有馬以下六名が死亡、二名が重傷を負い、鎮撫士側は、有馬と共に突き刺された道島のみが死亡しました。

 また、寺田屋に集結していたその他二十数人の薩摩藩士達は、大山らに熱心に説得され、倒幕のための挙兵を諦め、薩摩藩邸に出頭することになりました。
 そして、久光の取ったこの迅速な鎮圧行動に、朝廷は久光に対し、絶大なる信頼感を持ったのです。
 
このように同じ薩摩藩内の若者達が斬りあった寺田屋騒動で、久光は朝廷の信頼を得ることになったのは、余りにも悲惨かつ皮肉過ぎる出来事であったと言えましょう。

4 - 2  沖永良部島遠島

 久光の逆鱗に触れ、薩摩へと送還された西郷は、その後藩から徳之島への遠島を申し付けられました。

 これが西郷にとって初めての罪としての遠島となります。

 そしてその後、西郷は沖永良部島への遠島替えを命令されることになるのですが、沖永良部島での西郷の遠島生活は、峻烈を極めました。

 西郷は、昼夜囲いのある牢屋の中に閉じ込められ、常に番人二人に見張られる生活を強いられました。

 沖永良部島と言えば、本土よりも沖縄に近く、高温多湿で非常に雨量も多い島です。吹きざらし、雨ざらしに等しい獄舎での生活は、まさに西郷に死ねよと言わんばかりの処罰であったことがうかがわれます。久光はそれほど西郷のことを憎んでいたのです。

 西郷は、その獄舎の中で三度の食事以外は水や食料もろくに口に含まず、常に端坐し続け、読書や瞑想を続けていたと伝えられています。

 このような過酷な生活を続けていた西郷は、日増しに痩せ細り、体力も限界へと近づいていったのです。

4 - 3  生麦事件と天誅の嵐

 沖永良部島で西郷が過酷な苦難を続ける中、島津久光は朝廷より念願の幕政改革の勅許を得ることに成功し、勅使である公家の大原重徳(おおはらしげとみ)を護衛して、文久2(1862)年6月7日、威風堂々と江戸に入りました。

 勅使の大原は、当時の第14代将軍・徳川家茂に対し、幕政改革の朝旨を伝えました。久光としては初志を貫徹し、さぞや満足のことであったでしょう。

 文久2(1862)年8月21日、目的を果たした久光の行列が江戸から引き上げる際、東海道生麦村(現在の横浜市郊外)において、当時の日本を揺るがす大きな事件が起こりました。

 久光の行列の中を四人のイギリス人が馬で乗り入れ、行列を横切ろうとしたため、薩摩藩士・奈良原幸五郎(ならはらゆきごろう。前名喜八郎)は、「無礼者!」と一喝するや、腰の刀を引き抜き、イギリス人一行に斬りかかり、その内の日本に観光に来ていたチャールス・レイックス・リチャードソンが死亡したのです。

 これが世に言う「生麦事件(なまむぎじけん)」です。

 この生麦事件が、後年の薩英戦争へとつながっていくのですが、それはまた後で述べることとします。

 このように大きな事件を起こしながらも、久光は文久2(1862)年閏8月7日、京に戻ってきました。

 久光としては、幕府に対する幕政改革の要求に成功し、朝廷の覚えも目出度く、その首尾は上々であったのですが、京における久光の評判は余り良いものではありませんでした。天皇を含む上流公家達の間では久光の評判は高いものでしたが、下級公家や一般のいわゆる志士や浪士、他藩の下級藩士らには、評判が良くなかったのです。

 それには大きな理由があります。

 長州藩の長井雅楽という人物が「航海遠略策」という論策を持って国政に乗り出したことは前述しましたが、この論策は久光が上京したことにより、評判がガタ落ちとなりました。

これは長井の策が「幕主朝従」といった形での幕府主導型の公武合体策であったことと(実際はそうでもないのですが)、久光が上京を機に、因循な公武合体策ではなく倒幕に踏み切るものと、一般の志士らには期待されていたからです。

 久光が上洛した際、倒幕が成ると考えた人々は多くいたのですが、久光が京に入ってまずしたこととは、寺田屋での倒幕派の鎮圧という、一般には理解しがたい行動でした。その後の久光の動きを見ても、長井の行動と特段の変わりを見せなかったため、久光の評判は上がるどころか、逆にどんどん下がっていったのです。

 また、長井雅楽はその後どうなったのかと言うと、長井は藩のために努力したにも係わらず、航海遠略策のために切腹を命じられるという不合理なことまで起こりました。長州藩内の松下村塾メンバーを中心とする下級藩士らが、長井の排撃運動を目論み、久光の上京により評判の落ちた航海遠略策の責任を追及し、彼を切腹にまで追い込んだのです。

 最後には、長州藩政府は、航海遠略策は長井が勝手に主唱したものであって、藩は一切無関係であったとまで極論しました。

 長井という人物は、余りにも悲劇的な人だと感じられてなりません。

 長州藩は長井の航海遠略策を引っ込めた後、藩論を急展開させ、最も過激な尊王攘夷論を藩論と定めました。

 尊皇攘夷とは、読んで字の如く「王(天皇)を尊び、夷狄(いてき。外国)を攘う(はらう。撃退する)」という過激なものです。

 長州藩の急進派藩士達は、下級公家を中心に過激な尊皇攘夷論を吹聴し、これが大きな勢いを持ち始めました。このような大きな情勢の変化により、久光の主唱する公武合体論は、京において、またもや古い産物となりました。

わざわざ薩摩から京に出てきて、公武合体論を展開した久光としては、そんな長州藩の動きに対し、歯噛みする悔しい思いだったに違いありません。
 しかしながら、久光としてはこのまま京に留まり、もう一度この政治情勢を変えることが出来ませんでした。

 生麦事件の報復と称し、イギリス艦隊が薩摩を砲撃するという噂が流れたためです。

 久光としては、イギリスの報復行動に対する準備を整えるため、帰国せざるを得なくなり、久光が薩摩に向けて帰国した後、京の町にはテロリズムの嵐が吹き起こりました。

 安政の大獄に幕府の手先として働いた者や、開国論を唱える者、はたまた攘夷実行に邪魔になる者全てが暗殺という手段により殺されていったのです。

 まさにこの時期は幕末という時代の中でも、最も凄惨で暗黒の時期であったと言えるでしょう。

4 - 4  薩英戦争と八月十八日の政変

 文久3(1863)年7月2日、横浜から海路鹿児島の錦江湾に集結したイギリス艦隊七隻と薩摩藩との間で激しい砲撃戦が繰り広げられました。

 世に言う「薩英戦争(さつえいせんそう)」です。

 イギリス側は前年に起こった生麦事件の犯人の引き渡しと賠償金の請求を薩摩藩に要求したのですが、薩摩側はこれを拒否したため、戦端が開かれました。

 アームストロング砲を備えたイギリスの最新軍艦に対し、薩摩藩は旧武装ながらも勇猛果敢に戦いました。結果、薩摩側の戦死者が五名であるのに対し、イギリス側の戦死者は十三名にものぼり、イギリス側は旗艦・ユーリアラス号のジョスリング艦長までも戦死するという損害を受けました。

 しかしながら、イギリス艦隊の砲火により、城下町をことごとく焼かれた薩摩藩も、こ薩英戦争で外国の強大な力を思い知り、藩論を大きく展開することになりました。イギリスから軍艦や武器の購入を行ない、また留学生を派遣し、紡績機械を輸入するなど、薩摩藩は親イギリス政策を取り、両者の間柄は急激に親しいものとなっていったのです。

 薩摩藩がイギリスと激しい砲撃戦を経験した時期、遠い京の地では、長州藩の勢いは益々盛んとなっていました。

 長州藩の藩論が航海遠略策から最も過激な尊王攘夷論に変化したことは前述しましたが、長州藩の急進派と呼ばれる藩士らは、盛んに公家達に尊王攘夷論を吹聴し、京における長州藩の台頭は著しいものがありました。

 また、勢いを得た長州急進派の藩士らは、文久3(1863)年3月に加茂神社、4月には男山八幡宮に攘夷祈願のために天皇を行幸させるなど、自らの思うがまま朝廷を操るような状況が続いていたのです。

 このような長州藩の暴走を当時苦々しく見つめていた二つの藩がありました。

 一つは、当時京都守護職の要職にあった松平容保(まつだいらかたもり)を藩主とする会津藩です。

 会津藩主・松平容保は、前年文久2(1862)年閏8月、幕府より「京都守護職」を拝命し、12月に藩兵約千人を引き連れて京の都に入りました。

 しかし、その頃の京都は天誅と称したテロリズムの嵐が吹き荒れており、その様子を間近で見た松平容保は大いに憤りもしたでしょうが、テロを続ける長州や土佐の過激派集団の背後には、これまた過激論を息巻く急進派公家がいたため、容保としてもなかなか容易には手が付けられない状況であったのです。

 京都守護職として赴任しながらも、長州藩の横暴を食い止めることが出来ないことに、容保としては歯噛みするような思いで毎日を過ごしていました。

 そしてもう一つの藩は薩摩藩です。

 前述しましたが、島津久光は国政のイニシアチブを握るべく、遠い薩摩からわざわざ兵を率いて京都に入り、江戸にも下向して幕府に対して幕政改革を迫ることに成功していたのですが、京に帰ってみると、長州藩の尊皇攘夷論の勢いが盛んになっていました。

 この原因については以前簡単に述べましたが、ともかく久光としては、折角の努力が長州藩のために水泡に帰したわけですから、久光の中に長州藩憎しという感情が芽生えたのは当然のことだったと言えるでしょう。

 結果、会津藩と薩摩藩はお互いの利害関係が一致し、お互いに接近し合い、手を握るという前代未聞の出来事が起こったのです。

 文久3(1863)年8月18日未明、薩摩・会津の兵が俄かに動き出し、武装して御所の門を固めました。

 公武合体論者であった公家の中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう)は急遽御所に参内し、天皇から急進派公卿の三条実美ら七名の国事掛免職の勅許を得ました。

 それと同時に長州藩は、受け持っていた御所の堺町御門の守衛を免じられ、三条実美ら七人の公卿と長州藩士らは、京から勢力を一掃され、落ちざるを得なくなったのです。

 この会津と薩摩の長州藩追い落としクーデターを「八月十八日の政変」といいます。(つづく)



ーーーーー 以上 ーーーーー





3  奄美大島潜居から島津久光の上京まで

3 - 1  土中の死骨そして奄美大島へ

 冬の冷たい鹿児島錦江湾の海に身を投じた西郷と月照でしたが、月照は絶命し、西郷だけは奇跡的に蘇生しました。

 一人だけ生き残った西郷は、苦しみに苦しみぬきました。

 共に身投げした相手が死に自分だけが生き恥をさらしているのです。武士として、そして一人の人間として、これほどの恥辱はなかったことでしょう。

 西郷はこの自殺未遂から一ヶ月後に書いた手紙の中で次のように書いています。

「私事土中の死骨にて、忍ぶべからざる儀を忍び罷り在り候。(私は今や土中の死骨で、忍ぶべからざる恥を忍んでいる身の上です)」

 西郷の苦しみや悩みはいかばかりであったでしょうか……。察するに余るほどの苦しさであったに違いありません。

 そんな状態の西郷に対し、藩政府は奄美大島行きを命じました。

 これは遠島(流罪)という処分ではありません。よく西郷は二度の島流しにあったと書かれている本がありますが、この一回目の奄美大島行きには、年六石の扶持が付いていますので島流しという処分ではありません。

西郷が奄美大島行きを命じられたのは、安政の大獄によって西郷にも幕府から捕縛命令が出ていたため、幕府の目から逃れさせるための処置でした。西郷は先君であった斉彬の無二の寵臣であったので、この運びになったのでしょう。

 胸に大きな傷を負った失意の西郷は、翌安政6(1859)年1月、奄美大島へと旅立ちました。

3 - 2  奄美での生活

 奄美大島での西郷の生活には数多くの逸話が残されています。

 最も有名なものを一つ紹介しましょう。

 当時の奄美大島と言えば、貴重な砂糖の生産地であり、島民には最も厳しく、そして過酷な取り立てが行われていました。

 例えば、当時島の農家には各戸それぞれの砂糖の負担生産額が割り当てられており、いかに不作の年であっても、そのノルマが達成出来ない時には、厳しい処罰が待っていました。

 今ではとても信じられない話ですが、幼い子供が隠れてサトウキビを少しでもかじったのが役人に見つかると、厳しく処罰されたくらいなのです。

 このように自分の畑で作ったサトウキビなのに、一口さえもその生産農家の人々に入ることがありませんでした。

 西郷が奄美大島にやって来たこの年、サトウキビが不作であったため、ノルマを達成出来なかった農民達が十数人出ました。島役人達はその事が自らの手落ちになることを恐れ、その農民達に厳しい拷問を加えました。

 常日頃から、西郷はそんな農民達の窮状に心を痛め、役人達の非情なやり方に憤っていたのでしょう。西郷は農民達が拘束されていることを聞きつけ、ある日、在番役人の相良角兵衛(さがらかくべえ)に面会を求め、農民達を解放するように頼みました。

 しかし、普段から島民に対し威張り切って傲慢になっていた相良は、西郷の意見を完全に無視しました。

 そんな相良の態度に怒った西郷は、

「おはんが方針を改めんのなら、おいにも考えがごわす。直接藩主公に対し建言書を書き、おはんの日頃の態度も併せて上申するつもりごわすから覚悟しておられよ」

 と言い放ち、席を立ちました。

 いつの時代でも役人は上役に自らの不始末を報告されるのを嫌い、これにより出世が遅れることを恐れるものです。驚いた相良は大いに後悔し、態度を豹変して、西郷に対し平謝り、農民を解放することを約束しました。

 こんなことがあったことや、西郷は元来優しい性格で、病人や老人に対して、自分の扶持米などを分け与えていたことなどから、西郷は次第に島民に慕われるようになりました。

 そしてついには、西郷の住居があった龍郷(たつごう)一の名家である龍家の一族の娘・愛加那(あいかな)と結婚したのです。

 西郷はここで三年もの間、片時の幸せな新婚生活を過ごすことになったのですが、時代はまた西郷を必要としていたのです。

3 - 3  公武合体運動と島津久光の上京計画

 西郷が奄美大島に身を隠している間、時代は大きく変わろうとしていました。

 恐慌的な暴圧政治を行なっていた井伊大老は、万延元(1860)年3月3日、江戸城桜田門外で水戸藩士を中心とした集団に襲われ、殺害されるという事件が起こりました。

 いわゆる「桜田門外の変」です。

 この事件により、幕府は急激に力を失うことになり、井伊大老の失政を反省した幕府は、今後幕府のみで国政を運営していくのは無理があると考え、朝廷と幕府が力を合わせて国政を運営しようとする「公武合体運動(こうぶがったいうんどう)」に力を入れるようになったのです。

 しかしながら、朝廷側が幕府に外国との条約の破棄を求めるなど、幕府の公武合体運動は当初から困難を極めました。

 その時、一つの藩と一人の人物が、混沌とする日本の国政に乗り出してきたのです。

 それは長州藩と長州藩士・長井雅楽(ながいうた)という人物です。
 長州藩は長井の提唱した「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」というものを藩論とし、国政に乗り出してきました。

 長井は「航海遠略策」の中で、現在の日本の国難を乗り切るためには、国論の統一が必要であることを述べ、そのためには朝廷と幕府とが力を合わせて一つになっていくことが重要であることを論じました。

そしてまた、朝廷が頻りに幕府に対して要求する諸外国との条約破棄は、そう簡単に出来るものではない。鎖国というのは、朝廷が言うように日本古来のものではないため、今は外国に対して開国・通商し、日本自体が力を付けることによって日本の国威を上げていくことが、すなわち外国の侮りを受けないことにつながるということを主張したのです。

 このように長井の「航海遠略策」は、非常に理にかなった堂々とした論策であったため、公武合体運動に行き詰まっていた幕府にとっては渡りに船の政策であり、長井の論ずるところは非常に現実的な政策であったので、朝廷にも大変受けが良かったのです。

 以上のようなことから、航海遠略策は、京都において一大旋風を巻き起こしました。

 長州藩と言えば、薩摩藩と共に明治維新を成し遂げた原動力となった藩ですが、長州藩が日本の国政に積極的に乗り出してきたのは、この航海遠略策が初めてのことです。

 一方、西郷のいない薩摩藩ですが、斉彬の死後、新しく藩主に就任したのが斉彬の異母弟の久光の子・忠義であったことは前述しましたが、その忠義の後見人であった斉彬の父・斉興が亡くなると、忠義は実父・久光を藩主と同等の待遇を受けることが出来る「上通り(かみどおり)」という身分にしました。

 お由羅騒動と呼ばれるお家騒動で、斉興が斉彬ではなく、側室・由羅の方の子である久光を藩主にしたいと考えていたことは、お由羅騒動の際に述べました。結局は兄の斉彬が藩主に就任したのですが、弟の久光はと言うと、臣籍(家臣の身分)に下っていたのです。

 久光の子の忠義という人物は、非常に親思いの優しい性格を持つ人物であったので、実父を家臣の待遇のままにしておくのは、子として孝道にそむくと考え、久光を藩主と同等の待遇を受けることが出来る身分としたのです。

 久光という人物は、頑固で保守的な性質でありましたが、人物の押しも堂々としており、国学を中心に学問の造詣も深い人物でした。その久光が、長州藩が朝廷や幕府間で、その勢いが大いに振るうのを見て、自らも公武合体を実現させるために国政に乗り出そうと考えました。

 久光は斉彬が考案し、結局は成し遂げることが出来なかった、あの率兵上京計画を実現させようと考えたのです。

3 - 4  西郷の召還と久光上京

 久光の重臣としての地位を確立しつつあった誠忠組の同志であり、西郷の盟友であった大久保一蔵は、この率兵上京計画を実現するにあたり、先君・斉彬の寵臣として働いた西郷を奄美大島から召還させることを久光に願い出ました。

 そして、文久2(1862)年2月11日、西郷は約三年ぶりに本土・鹿児島に戻ることとなったのです。

 しかし、奄美大島から帰還した西郷は、大久保の期待を裏切り、久光の率兵上京計画に猛烈に反対しました。西郷は、斉彬が計画した当時と現在の政治状況が余りにも違うこと、兵を率いて上京する準備が整っていないこと、今軍勢を率いて京に入れば予期せぬ事態が起らないとも限らないこと、斉彬に比べて久光が人物的にも数段劣ることなどを理由に、久光に対し、面と向かって堂々と反対意見を述べたのです。

 久光としては、そんな西郷の態度を快く思うはずがありません。颯爽と国政に乗り出そうとしていたのを、たかが一藩士にあからさまに反対されたのですから。この瞬間から、久光と西郷の長く深い確執が始まったと言えるかもしれません。

 西郷の召還をはかった大久保は、予想外の西郷の態度に戸惑いましたが、根気よく西郷を口説き落とし、久光の上京計画への協力を求めました。

 そんな目的に向って邁進して止まない大久保の態度に、西郷は、

「おはんがそこまで考えておるのなら、気張って(頑張って)やりもんそ」

 と、大久保に協力することを了承し、久光の行列が出発する約一ヶ月前に、「肥後の形勢を視察し、下関にて行列の到着を待て」という命令を久光から受け、同志の村田新八(むらたしんぱち)と共に薩摩を先発しました。

 西郷が下関に入ると、西郷の予期した憂いは的中していました。久光や藩の重臣達が考えている以上に、情勢は激しく揺れ動こうとしていたのです。

 久光が実行しようとしている率兵上京計画を薩摩がいよいよ倒幕に踏み切ったと勘違いした脱藩藩士や浪士、薩摩藩内の急進派藩士らが、ぞくぞくと京・大坂に集結し、不穏な動きを見せようとしていたのです。

 久光は元来保守的な人間で、大きな改革は望まない人物です。ましてや、久光の頭の中には幕府を倒すなどという考えは毛頭ありません。久光の素志は、公武合体政策なのです。

 緊迫する状況を聞いた西郷は、このまま久光の行列が京・大坂に入れば、思いがけない事件が起こるかもしれず、何とか未然にそれを食い止めなければならないと考え、久光から下された下関で待てとの命令を無視し、その足で急遽大坂へと向かったのです。

 大坂に到着した西郷は、騒ぎ立てる浪士達に対し、軽挙な行動を起こさぬように戒め、自分の命令の元に従うことを約束させ、騒ぎの鎮静化に尽力していたのですが、下関に着いた久光は、命令を無視し勝手に行動した西郷に激怒しました。そしてその後、兵庫に入った久光は、つに西郷の捕縛命令を下すのです。

 久光が西郷の捕縛命令を下したことを知った大久保は、西郷を急遽兵庫の須磨の浜辺に呼び出し、西郷に向かってこう言いました。

「久光公のお怒りは尋常ではごわはん。もしかすると、吉之助さあに切腹を命じるやもしれもはん。こげな事態になったのには、おいにも大きな責任がごわす。吉之助さあだけを死なすわけにはいきもはん。おいも一緒に死にもす。吉之助さあ、おいと一緒に刺し違えて死にもんそ」

 大久保の目は本気です。大きな決意に満ちています。

 しかし、西郷は首を大きく横に振り、こう言いました。

「今、おいとおはんの二人が死んだら、薩摩藩の今後はどげんなりもすか。天下のことはどげんなりもすか。死ぬ時は、いつでも死ねもんそ。男が黙って歯を食いしばり、恥を忍んで気張らんといかんのは、こん今でごわすぞ」

 西郷の言葉に、大久保はようやく改心し、西郷を自分の宿舎に連れて行き、久光に対して西郷が謹慎していることを伝えました。

 このように、西郷はどんな困難な場面に遭遇したとしても、決して自ら命を絶つようなことはしませんでした。それは若き日に、月照と共に投身自殺をはかったにもかかわらず、自分一人だけ死ぬことが出来なかった経験からくる、西郷の天命への自覚によるものです。詳しくは、本サイト内の「敬天愛人について」をお読み下さい。
(つづく)


------ 以上 ------









2 将軍継嗣問題から西郷の入水まで

2 - 1 諸外国の圧迫と将軍継嗣問題

 安政元(1854)年3月3日、幕府はアメリカとの間に「日米和親条約」を締結しました。

 前年、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが浦賀に来航し、武力を背景とした強圧的な脅迫とも言うべき開国要求を行ないました。江戸幕府第3代将軍・徳川家光の時代以来、鎖国を国是としてきた幕府にとって、ペリーの来航は幕府内や諸大名間に衝撃を走らせました。また、ペリーに続いて、ロシアのプチャーチンが長崎に来航し、幕府に対し開港通商を要求したのです。

 これら諸外国の外圧に対し、幕府は確固とした方針や方策を持っておらず、その場しのぎの対応を行なっていたため、諸外国の侮りを受ける結果となりました。

 また、当時の第13代将軍・徳川家定(とくがわいえさだ)は、心身共に虚弱な人物で、この国難に対しリーダーシップを発揮して、到底立ち向かえる人物ではありませんでした。

 そのため、幕府は半ば強制的に、アメリカ、ロシア、イギリス、オランダといった諸外国との間に和親条約を調印させられる結果となったのです。

 薩摩藩主・島津斉彬は、このような幕府の弱腰外交に対し、国防の充実がまず第一の急務であることを建言し、またこの国難に対し、諸大名や幕閣の意見をまとめられる真のリーダーが必要であると考えました。

 その結果、斉彬が白羽の矢を立てたのが、水戸徳川家出身で当時一橋家の当主であった一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ。後の徳川慶喜)でした。

 一橋慶喜は、当時諸大名の間でも、聡明でかつ英明と噂されていた人物であり、斉彬はその慶喜に将軍・家定の跡を継がせ、将軍にすることにより、日本を一つにまとめ上げ、この大きな国難に対処しようと考えたのです。

 斉彬は、日頃から親しく付き合っていた老中の阿部正弘や土佐藩主・山内豊信(やまのうちとよしげ。後の容堂)、福井藩主・松平慶永(まつだいらよしなが。後の春嶽)、宇和島藩主・伊達宗城(だてむねなり)といった人々と力を合せ、一橋慶喜を次期将軍にするべく運動を始めました。

 当時、斉彬の無二の寵臣として働いていた西郷は、この「将軍継嗣問題」にも斉彬の使いとして、また、朝廷方面の運動者として大いに働いたのです。

2 -2 井伊大老の登場と斉彬の死

 第13代将軍・徳川家定の跡目相続を巡る問題、いわゆる「将軍継嗣問題」は、当初斉彬が加担していた一橋慶喜を擁立する一橋派が優位に形勢を進めていたのですが、それに反して、徳川御三家の一つの紀州藩主で、当時まだ10代半ばであった徳川慶福(とくがわよしとみ)を将軍に推そうとする動きが出てきたのです。

 その運動の中心人物は、紀州藩の付家老・水野忠央(みずのただなか)でした。

 水野がなぜこのような動きに出たのかについては、古来色々と説があるのですが、それは一先ず置き、水野は「血筋から言うと、次期将軍には一橋様よりも紀州様の方が適任である」という血統論を元にした将軍継承論を展開していきました。

 また、一橋慶喜の父である前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)は、大奥の女性達に対して非常に評判の悪い人物であったので、大奥方面からも慶福を擁立しようとする動きが活発化してきたのです。

 これに勢いを得た水野忠央は、最後の秘策を登場させました。

 当時、彦根藩主であった井伊直弼(いいなおすけ)を大老に就任させるように画策したのです。

 井伊直弼は、彦根藩第11代藩主・井伊直中(いいなおなか)の第14男として生まれたため、幼い頃より非常に悪い待遇の元に育ち、他の大名への養子のあてもなく、藩から捨扶持をもらいながら質素に生活していました。

 彼はそんな自分のみじめな境遇を恨むかのように、自ら邸宅を「埋木舎(うもれぎのや)」と名付け、一生涯世に出られない自分の運命を嘆いていたのです。

 しかし、そんな井伊に幸運が巡ってきました。藩主に就いた兄を始めとする兄弟が次々と亡くなるという不思議な運命の巡り合わせで、直弼は奇跡的に彦根藩主の座に就くことが出来たのです。

 そして、水野忠央は当時井伊の腹心であった長野主膳(ながのしゅぜん)と共謀し、安政5(1858)年4月、井伊を大老に就任させることに成功したのです。

 大老に就任した井伊直弼は、強大な権力を手中に収め、まず当面の問題であった将軍継嗣問題を強引に慶福を擁立する紀州派有利に展開させ、次期将軍を慶福にすることを内定させました。

 また、井伊は朝廷の勅許を得ず、アメリカとの間に「日米修好通商条約」を無断調印することも決定したのです。

 このような井伊の強引で横暴な政治手法に対抗するべく、当時薩摩で状況を見守っていた斉彬は、思い切った秘策を計画しました。

 斉彬自身が薩摩から兵を率いて京都に入り、朝廷より幕政改革の勅許を受け、強大な兵力を背景に井伊大老を中心とする幕府に対し改革を迫る。一種のクーデター計画です。

 斉彬は井伊の強権政治を目の当たりにし、最早尋常の手段では幕府を改革出来ない、日本の国難を救うには、この率兵上京計画という手段しかないと考え、この計画を立案しました。また、西郷は斉彬の命を受け、その前準備のために京都に先発し、朝廷方面の下工作を手がけました。

 しかし、西郷がその下準備に忙しく追われている中、薩摩では衝撃的な出来事が起こりました。

 斉彬が城下の天保山で兵を調練中、俄かに発熱して病状が悪化し、その8日後の安政5(1858)年7月16日、突然急逝したのです。

2 - 3 安政の大獄と西郷の入水

 西郷にとって、師であり、恩人であり、そして神のような存在でもあった斉彬の突然の死は、西郷に大きなショックを与えました。

「斉彬公亡き今、もう生きてはいけない……」

 西郷は国許に帰り、斉彬の墓前で切腹することを覚悟したのです。

 しかし、西郷は、京都清水寺成就院の住職であった僧・月照(げっしょう)に殉死することを諌められました。月照は、将軍継嗣問題や斉彬の上京計画において、薩摩藩と朝廷との橋渡し役を務め、西郷とも既知の間柄でした。
 月照は西郷に対し、こう言いました。

「西郷はん、このまま斉彬公の後を追って死んだとして、天上の斉彬公が「吉之助よくやった」とお褒めになると思われますか。いや、必ず斉彬公は烈火の如くお怒りになるでありましょう。吉之助、なぜわしの志を継いで働こうとはしなかったのだ、と」

 そんな月照の諌めに西郷は涙を流して謝り、「おい(自分)が間違っていもした……」と殉死することをあきらめ、斉彬の遺志を継ぐことを決意したのです。

 しかし、当時の政治状況は益々悪化する一方でした。

 井伊大老は自分の方針に反対する大名や公家の多くを謹慎処分にし、その他幕府に批判的な意見を持つ一般の志士達を一斉に捕縛し始めたのです。

 これが世に言う「安政の大獄(あんせいのたいごく)」と呼ばれるものです。

 この安政の大獄を始めとする井伊大老の恐怖政治の始まりにより、薩摩藩と朝廷との橋渡し役を務めていた月照も、その身が危険となりました。

 西郷は月照を薩摩藩内に匿うことを計画し、急遽先行して薩摩に帰国したのですが、斉彬が急死したことにより、藩政府の方針は一変していたのです。

 斉彬の死後、藩主の座に就いたのは、斉彬の異母弟・島津久光(しまづひさみつ)の子の忠義(ただよし)でしたが、忠義はまだ当時19歳と若かったので、藩政後見人として藩内の権力を握っていたのは、斉彬の父であり、前々藩主の斉興だったのです。

 斉興は子の斉彬の政策をまるで忌み嫌うかのように、旧の体制に戻すことに専念しました。西郷が帰国した時には、斉彬が興した近代工業全て縮小に追い込まれ、薩摩藩内は静まり返ったようになっていたのです。

 それでも西郷は帰国するや否や、藩政府の要人に対し、月照の保護を熱心に求めました。

 しかしながら、藩政府の態度は非常に冷たいものでした。まるで、嫌なものに触れるかのように、西郷の意見に一切耳を傾けません。西郷はその後も月照が薩摩藩のためにどれだけの努力をしてきたのかを説明し、執拗に月照の庇護を求め続けましたが、藩政府の態度は変わることがありませんでした。

 西郷がそのような努力をし続ける中、月照は筑前浪人の勤皇志士・平野国臣(ひらのくにおみ)に付き添われ、困難な道中を乗り越えて薩摩にやって来ました。

 しかし、藩政府は無情にも西郷に対し、月照を国外に追放するように命じたのです。

 安政の大獄が既に始まり、月照を匿うことによって幕府に睨まれることを恐れた薩摩藩政府の方針でした。

「斉彬公さえ生きておれば……」

 西郷は歯噛みする思いで、この命令を聞いたことでしょう。

 しかし、薩摩藩士として、藩の命令に背くわけにはいきません。かと言って、月照を幕府の捕り方がいる藩外に追放することも、愛情深く、そして義理がたい西郷にとっては、当然の如く出来ませんでした。

 西郷は、もう自分の力ではどうすることも出来なくなったのです。

 このような事態に絶望した西郷と月照は、二人で相談し、相伴って寒中の海に身を投じました。

 安政5(1858)年11月16日、西郷吉之助30歳のことでした。
(つづく)


------ 以上 ------



--西郷 隆盛---

1 誕生から斉彬との出会いまで

1 - 1 誕生そして郡方勤務へ

 文政10(1827)年12月7日、西郷隆盛は、鹿児島城下の下加冶屋町山之口馬場(したかじやまちやまのぐちばば)で生まれました。

 幼名は小吉(こきち)、長じて隆永、隆盛と名乗り、通称は吉之助(きちのすけ)で通しました。南洲(なんしゅう)はその雅号です。

 西郷家の家格は「御小姓与(おこしょうぐみ)」で、士分では下から二番目の身分である下級藩士でした。

 少年時代の西郷については資料が少なく、はっきりとした事は分からないのですが、稚児(ちご)の時(薩摩では少年のことを言います)、けんかで右ひじを負傷し、完全に右ひじを曲げることが出来ないようになったため、この時より武術をあきらめ、学問に精を出すようになったと言われています。

 このように、幼少の頃、武芸ではなく、学問に励んだことが、西郷にとって後年大いに役立っていくのです。

 16才の時、西郷は藩の郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)に任命されます。

 薩摩藩では、武士の家庭の子弟がある程度の年齢に達すると、家計の助けとなるように小さな役目に付ける慣習がありました。これは武士人口が多い薩摩藩ならではの慣習です。

 例えば、書の巧みな者は役所の書役(事務)、武術の長けた者は藩校・演武館の助教(教員)といったように、個人の能力や資質に応じて様々な役目に就かせたのです。

 西郷は右ひじのケガのため、武芸をあきらめ学問に精を出していたので、書がかなり巧みだったのでしょう、郡方書役助、つまり農政をつかさどる役所の事務官の補助、といった役目に任命されたのです。

 藩の郡方は年貢(税)の徴収等も行なっていたので、藩内のあらゆる場所に出張しなければならない非常に体力のいる役目です。西郷の生まれついての雄大な体格も、郡方に任命された一つの理由だったのかもしれません。

 西郷が郡方に任命された時の郡奉行は、迫田太次右衛門利済(さこたたじうえもんとしなり)という人物でした。迫田は城下でも有名な気骨ある武士で、西郷はこの迫田に非常に大きな影響を受けています。

 ある時、迫田は重税に苦しむ農民の窮状を憤り、役所の門に、

「虫よ 虫よ いつふし草の根を断つな 断たばおのれも 共に枯れなん」

 と書いて、郡奉行を辞職しました。

 虫とは役人を意味し、いつふし草とは重税に苦しむ農民のことを指しています。

 つまり、「役人が農民に過剰な税を課すことは、自らを破滅に導くことに繋がる」という事を暗に風刺し、迫田は郡奉行を辞職したのです。

 この句には「国の根本をなすものは農民である」という、迫田の信念が表れているような気がします。

 西郷はこの迫田から農政に関する考え方を一から学んだのです。また、迫田から学んだ農政に関する知識や経験が、後に西郷が藩主・島津斉彬に見出される要因となるのです。

1 - 2 お由羅騒動

 西郷が郡方に勤務して5年後の嘉永2(1849)年、薩摩藩に大きなお家騒動が起こります。

 俗に言う「お由羅騒動(おゆらそうどう)」と呼ばれているものです。
 島津家27代当主で薩摩藩主の島津斉興(しまづなりおき)は、正室であった周子(かねこ)が産んだ世子である斉彬(なりあきら)ではなく、側室・由羅(ゆら)の方が産んだ子の久光(ひさみつ)を藩主にしたいと考えていました。(付記:世子とは、藩主の跡継ぎになる子供のことを言います)

 斉彬は進取気鋭の性格で、当時の日本を取り巻く諸外国の事情にも通じ、世間からは「三百諸侯中の世子の中でも随一」と言われるほど噂高い人物でしたが、藩主の斉興はそんな斉彬のことを嫌い、自らの家督をいつまでも譲ろうとはしなかったのです。

 当時、斉興は58歳になっており、斉彬は既に40歳になっていました。これは当時の社会状況から考えても異常なことです。

 世子が20歳代にもなれば、父である藩主は自ら隠居して、子に家督を譲るのが通例であったのですが、斉興は自らが50歳代を過ぎ、子の斉彬が40歳になろうとも、隠居しようとはしませんでした。

 なぜ、斉興がこれほど斉彬のことを嫌ったのかには大きな原因があるのですが、ここで詳しく書くことは控えます。

(付記:この二人の関係については、薩摩的幕末雑話 第三話「父と子−島津斉興と斉彬−」または第二十二話「島津斉興の密書−斉興と斉彬と久光の関係−」をご覧下さい)

 斉興がいつまで経っても斉彬に家督を譲ろうとしない、この異常な状態に対し、薩摩藩内にも不満を持っていた集団がありました。

 斉彬を慕う高崎五郎右衛門(たかさきごろううえもん)と近藤隆左衛門(こんどうりゅうざえもん)を中心とした一派です。彼らは斉興のやり方に反発し、「斉興隠居・斉彬擁立」へと動き、暗に活動を始めました。

 そのような高崎らの反体制への動きを知った藩主・斉興は、烈火のごとく激怒し、高崎、近藤の両名に切腹を命じ、その他この運動に関わった者達に対し、切腹や遠島、謹慎といった重い処分を下したのです。

 これがいわゆる「お由羅騒動」とか「嘉永朋党事件(かえいほうとうじけん)」、「近藤崩れ」、「高崎崩れ」と呼ばれている薩摩藩のお家騒動です。

 西郷の父である吉兵衛が御用人を勤めていた関係で、西郷家と非常に縁の深かった赤山靱負(あかやまゆきえ)も、この「お由羅騒動」に連座し、切腹してこの世を去りました。

 青年の頃から赤山の影響を受けて育った西郷は、赤山の見事な切腹の様子を父から聞くと、涙を流しながら赤山の志を継ぐことを決意したのです。
 このお由羅騒動は、若き日の西郷に大きな影響を与えました。

1 - 3 斉彬襲封と西郷の江戸出府

 お由羅騒動により、斉彬派と呼ばれる一派は、急激にその勢力を落としたのですが、斉彬自身は藩主になることを決して諦めませんでした。

 自らが得た知識や経験を藩政に生かし、大幅な改革を推進したい、そして、諸外国の圧迫が迫る日本のために、自らの手腕を藩政に生かしたい。

 このような大きな目的と希望を持っていた斉彬は、藩主に成るべく一計を講じたのです。

 まず、斉彬は日頃親しくしていた老中・阿部正弘(あべまさひろ)の協力を得て、薩摩藩の密貿易(琉球(現在の沖縄)を通じて、薩摩藩は幕府から許された額以上の貿易を外国との間で行なっていました)を幕閣の問題にあげて、斉興とその腹心であり、財政責任者でもあった調所笑左衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)を追い詰めようとしたのです。

 自らの藩の秘密を漏らし問題にすることは、斉彬にとって苦肉の策であり、諸刃の剣を使うようなものでしたが、斉彬としては何とかして藩主になるためには、こうするより手立てがなかったのです。

 そして、この斉彬の秘策は的中しました。
 斉興の腹心であった調所は、藩内の貿易に関する責任は一切自分にあるという理由で服毒自殺して果て、藩主の斉興もまた、この密貿易問題と先年のお由羅騒動などの不祥事を幕閣から突きつけられ、その後隠居せざるを得なくなったのです。

 こうしてようやく嘉永4(1851)年2月2日、斉彬は島津家28代当主の薩摩藩主に就任しました。

 また、斉彬は藩主に就任するやいなや、この激動の時代を生き抜くため、薩摩藩を近代藩にするべく、徹底的に新しい改革を始めました。
 斉彬が行なった改革は、非常に多岐にわたります。

 蒸気船の製造、汽車の研究、製鉄のための溶鉱炉の設置、大砲製造のための反射炉の設置、小銃の製造、ガラスの製造(薩摩切子(さつまきりこ)として今日でも有名です)、ガス灯の設置、紡績事業、洋式製塩術の研究、写真術の研究、電信機の設置、農作物の品種改良

 一々挙げていけば切りがないほどの、当時の技術水準から考えれば、信じられないほどの改革を斉彬は藩内に推進していきました。

 現代においても、斉彬が江戸時代随一の名君であり、英明君主であったと言われる所以は、斉彬が興した近代事業をもってしても分かることでしょう。

 また、斉彬は新しい人材登用や育成にも力を注ぎ、藩内に「藩政において、自分が気付かないことがあれば、どんどん意見書を出すように」という布告を出したのです。

 斉彬が藩主に就任した頃、西郷は同じ加冶屋町郷中の吉井仁左衛門(よしいじんざえもん。後の幸輔、友実)や上之園郷中の伊地知竜右衛門(いぢちりゅうえもん。後の正治)、高麗町郷中の有村俊斎(ありむらしゅんさい。後の海江田信義)、そして、高麗町から加冶屋町郷中に移住してきた、後年西郷の無二の盟友となる大久保正助(おおくぼしょうすけ。後の一蔵、利通)らと共に、朱子学の「近思録」を研究するグループを作っていました。(付記:郷中とは、ごじゅうと読み、町内の区画のことを言います)

 この若き二才(にせ。薩摩では青年という意味)達が集まった集団は、後に「誠忠組(せいちゅうぐみ)」と呼ばれるようになり、西郷は加冶屋町郷中の二才頭(にせがしら。町内の若手リーダーのことを言います)を務めていた関係から、非常に人望があり、その誠忠組のリーダー的存在となっていきます。 
 また、斉彬の布告を見た西郷は、せっせと建白書を書き、藩庁に提出しました。

 西郷が提出した建白書は、現在は残っておらず、その内容は定かではありませんが、藩の農政に関するものであったと伝えられています。

 西郷の建白書は、いかに農民が重税に苦しみ、困難な生活を強いられているかというようなことを切々と訴えたものであったことでしょう。これは以前、郡奉行の迫田から学んだ「国の根本は、農民である」という西郷の愛農思想に準拠したものだと言えます。

 また、西郷は農政に関すること以外でも、先年のお由羅騒動で処罰された正義の武士達が、未だ遠島や謹慎の処分を解かれていないことに不満を持ち、そのことも意見書に書き度々提出したと伝えられています。

 このような西郷の建白書や意見書は、後に藩主・斉彬の目に留まり、斉彬は西郷の存在を知るようになったのです。

 そして、安政元(1854)年、西郷は郡方書役助から「中御小姓・定御供・江戸詰(ちゅうおこしょう・じょうおとも・えどづめ)」を命ぜられました。
 西郷終生の師であり、神とも崇めた斉彬との出会いは、この時から始まったのです。

1 - 4 江戸勤務

 斉彬の参勤交代に付き従い、薩摩から江戸薩摩藩邸に勤務することとなった西郷は、斉彬より「庭方役(にわかたやく)」を拝命しました。

 庭方役と言えば、何だか植木職人のようなイメージを受ける方も多いとは思いますが、実際はそのような役目ではありません。

 当時、身分の低い藩士が、藩主や家老といった身分の高い人物に拝謁する際には、随分と面倒な手続きが必要でした。身分に関して厳しい封建制とはこういうものなのですが、西郷の書いた建白書を何度も読み、西郷のことを頼もしい若者と感じていた藩主・斉彬は、西郷を薩摩藩を背負って立つ人物としての将来性を見込み、面倒な手続きを取らずに自由に庭先などで会うことの出来る庭方役に任命したのです。

(付記:西郷が庭方役に任命されたことを幕府の「隠密」のような職に就いたと記している書籍がありますが、それは大きな誤解です)

 庭方役に任命された西郷は、そこで初めて斉彬に拝謁しました。

 自分にこれだけの配慮をしてくれた斉彬に、西郷は涙が出んばかりに感激したことでしょう。「この人のためなら喜んで命を捧げよう」とも、西郷は考えたことでしょう。

 この日から西郷は、斉彬より日本の現在の政治情勢や諸外国の状況と事情、そして日本の政治的課題等を詳しく教育されました。斉彬自身も西郷と接する度、「この若者は、必ずものになる」と確信し、愛情を持って西郷を一人前の人物になるよう教育したのです。

 そんな二人の関係を示すものとして、薩摩地方には「斉彬公が西郷どんを呼んでお話をなさる時は、たばこ盆をおたたきになる音が違った」という伝承が残されています。

 斉彬の薫陶を受けた西郷は、当時天下に名を馳せていた水戸藩の藤田東湖(ふじたとうこ)や戸田蓬軒(とだほうけん)、越前福井藩の橋本左内(はしもとさない)といった名高い人物と交流を持つこととなり、次第に西郷の名も諸藩士の間で知られるようになっていきました。

 このようにして、西郷は斉彬によって天下のことを知り、世に出さしめられたのです。(つづく)


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