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源義経(上)

VS弁慶、ヒラリ、ヒラリ…五条の橋「対決」の真相は

2013.7.21 07:00 産經新聞

 あの有名な源平合戦最大のヒーロー、源義経は少年時代、父の義朝を破った平清盛に命じられ、京の北の果ての鞍馬で勉学に励む。当初は援助を惜しまない清盛を慕ったが、父と自分の素性を知ると一転、武術に励む一方で町で情報の収集と平家打倒を念じた日々を過ごすことになる。そんなある夜、1人の大男と出会う。

■2人の出会い

 今から約850年前、京都・鴨川に架かる五条の橋を静かな月夜にまぎれて笛を吹きつつ渡る義経の前に突然、大柄な僧が現れる。そして「わしと戦え。負けたら、わしのなぎなたはくれてやる」と言い放つと、閃光(せんこう)のような鋭い刃(やいば)が襲いかかってきた。

 川の流れの音だけが響く橋の上で、「えいっ!!」と殺気に満ちた声と同時に振りかざしてきたひと振りを少年はヒラリとかわす。さらにもうひと振り。これも難なく返してしまう。

 これこそ当時、遮那王(しゃなおう)と名乗っていた義経と武蔵坊弁慶の出会いの場。義経は11歳ともいわれている。

 弁慶は日頃から暴力が絶えず、比叡山を追い出された後は、播磨(今の兵庫県)圓教寺に身を寄せたが、ここでも暴力は収まらず、寺を焼いてしまう。

 全く手の付けられない弁慶はこれまでの自分の性を呪いつつ、京都で道行く人から太刀を奪うことで心が救われるのならと千本の願をかけ、あと1本というところで義経に出会う。

■義経、ヒラリ

 弁慶の持つなぎなたは「岩融(いわとおし)」という業(わざ)物。刃の部分の長さだけでも通常の約1・5倍の1メートル以上はあったという。それを振るのだから相当の怪力ということになる。

 そんな弁慶の渾身(こんしん)のひと振りを、橋の欄干の間を飛んでかわす少年の鮮やかな身のこなしに少々焦りを見せ始める。手に握るなぎなたの振りもつい力任せに。だが、義経には相変わらずヒラリ、ヒラリとかわされては扇で頭をたたかれる始末。

 力尽き、ついに降参した弁慶は土下座する。上には上がいることを知ると、これまで有頂天だった心を戒め、義経の家来になることを請うのだった。以来、弁慶は義経とは最後まで生死をともにすることになる。これがよく知られた義経と弁慶の物語だ。

 ところが、弁慶の素性がよくわからない。熊野地方(今の和歌山県)の出身で後に比叡山で修業したとされているが、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡(あづまかがみ)」にその名が出てくるのみで、実態は不明という。

 後の記録には、義経と比叡山の僧兵の間に何らかの親密な関係があったらしいことは明らかになっているのだが…。

■さまざまな説

 五条の橋での義経と弁慶との勝負は、橋上ではなく堀川小路から清水寺までとする話もあり、清水寺には弁慶の鉄下駄(げた)や足形石といったゆかりの品々がある。

 また、今の五条大橋が架かる道は平安京でいう六条坊門小路にあたり、義経と弁慶が出会った当時の五条の橋は、その約300メートル北に架かる現在の松原橋にあたるという。

松原橋の架かる松原通は今も昔も清水寺につながる参道だ。このため、通りの延長にある鴨川に橋を架けのは「寺の使命」と、清水寺の僧が勧進してまわったことから、五条の橋のことを「勧進橋(かんじんばし)」ともいわれていた。

 その松原橋から西約1キロに通る西洞院(にしのとういん)松原の交差点近くに建つ五条天神社(下京区)こそが、2人の出会いの場所とする説が「義経記」にはある。

 神社前を通る南北道、西洞院通にはかつて川が流れ、橋が架かっていたのだという。それを顕彰するフラッグが神社北隣の商店街にズラリと掛けられている。

 実在した人物とはいえども神がかりな話も多く、すでに伝説化している義経。やはり出会いのエピソードも、伝説の域を出ていないようだ。(つづく)


源義経(中)

「禁断の真実」を知った義経は復讐の血をたぎらせた

2013.7.28 07:00 産經新聞 p

 京都・五条の橋で弁慶と対決した源義経。豪快でスピーディーに繰り出す長刀を何度もかわし、弁慶の根負けを誘う方法で見事な勝利を収める。義経はこの時点で11歳とはいえ、すでに相当の武術を身に付けていたことになる。となると短期間にどこで、どのような経緯で、どういった方法で習得していったのか。幼少時代からたどると、とんでもない人?の影が…。

■牛若誕生

 現在、京都市北区の大徳寺の北側周辺に紫竹(しちく)という場所がある。その中に牛若という町名が今も残る。ここにかつて義経の父、義朝の別荘があり、義経は平治元(1159)年に生まれたとされる。母は近衛天皇の中宮、藤原呈子に仕えた常盤御前(ときわごぜん)。

 常盤御前は、呈子の世話をする雑仕女(ぞうしめ)の募集に集まった千人の美女の中からただ1人採用された美女中の美女。そして、そこに出入りしていた義朝に見そめられる。

 義朝との間に3人の子をもうけ、末っ子の義経は丁丑(ひのとうし)年、丑(うし)の日、丑の刻に生まれたことから「牛若」と名づけられた。

 だが、まもなくして起きた平治の乱で義朝は平清盛との争いに敗れ、東国に逃げる途中、家来に殺害される。

 常盤御前は3人の子と大和国(現在の奈良県)の吉野へ身を隠そうとしたが、母が捕らえられたことを知ると清盛に助命嘆願するため、京都・六波羅へと引き返したのだった。
清盛の前で必死に助命を願う常盤御前。その美しさにひかれた清盛は自分の妾(めかけ)になることを条件に助けたと「平家物語」などには書かれているが、真相は今も不明のままだ。

■鞍馬へ

 ただし、ライバル関係にあった源氏の御曹司の存在は、強大な権勢を誇った清盛にとっても怖かったに違いない。ただ、殺害して根絶やしにするだけの胆力もなかった。

 これより先に捕らえた義朝の嫡男、頼朝も命を助けて平家の監視の下で東国に軟禁した。今回も、捕らえた常盤御前の母はいわば人質で、清盛の本当の目的は義朝の3人の息子を目の届く所で管理したかったのだろう。

 牛若の2人の兄は出家させたうえで、牛若についてはそれなりに成長した後に出家させることを命じている。

 このため、しばらくは牛若と暮らした常盤御前だったが、清盛の命に従って牛若を鞍馬寺に預ける。このとき牛若は7歳とも11歳ともされる。

 鞍馬といえば都の北の果て。遮那王(しゃなおう)と名乗ることになった牛若は俗世間のことはしばし忘れ、父・義朝の祈祷(きとう)の師、東光坊の阿闍梨蓮忍(あじゃりれんにん)のもとで勉学に励んでいたが、訪ねてきた1人の男から衝撃的な事実を聞くことになる。

 これまで誰に聞いても話してくれなかった自分の出自のこと、つまり源氏の棟梁(とうりょう)の子だということを知る。

■鞍馬脱出

 遮那王の秘密を明かしたのは、金売吉次(かねうりきちじ)と名乗る商人。吉次と遮那王とのつながりは後日に述べることにして、吉次自体は平家物語などの歴史書に登場する。だが、奥州産の金を京都で売りさばくことを生業としていた以外は不明という謎の多き人物である。

 父、義朝が平治の乱で清盛に敗れて、逃亡中に非業の死を遂げたことを初めて知った遮那王。清盛は命の恩人だったはず。父の面影を清盛に追っていたこともあった。

 だが、事実を知ってしまった以上、遮那王にとって清盛は父の仇(かたき)。源氏の血が復讐心をふつふつとたぎらせていく。

 昼は学問をしていた遮那王も夜になると東光坊を抜け出し、木の根道を通っては奥の院・僧正ガ谷あたりで天狗(てんぐ)相手に兵法修業。陰陽師(おんみょうじ)、鬼一法眼(きいちほうげん)の家に伝わる秘伝の兵法書を法眼の娘を通じて盗ませ、学んだという伝説も残る。

 そんな折、五条の橋で出会ったのが弁慶である。

 毎夜、武芸修業を積んでいることを知った蓮忍は勉学に専念させようとするが、日増しに復讐心が抑えきれなくなった遮那王は金売吉次の手引きで鞍馬を脱出する決意をする。承安4(1174)年、15歳の春のことだった。(つづく)


源義経 (下)

 

「無礼な!」一瞬で平家の9人を切り捨てた義経 「打倒清盛」胸に秘め京を脱出

2013.8.4 07:00 産經新聞

 承安4(1174)年3月、平家打倒を胸に秘め鞍馬山を脱出した遮那王(しゃなおう)は平清盛が思いのままに権勢をふるう京を出て、奥州へ向かうことになった。出迎えるのは国内第2の都市、平泉で栄華を極める藤原氏の第3代当主、秀衡(ひでひら)。東海道を東へと歩を進める遮那王は京の七口のひとつ、粟田口(あわたぐち)を何事もなく出て、脱出は成功したかにみえたのだが…。

■まだ見ぬ地へ

 奥州といえば、遮那王の高祖父にあたる源義家が支配した土地。朝廷に反逆した安倍一族を滅ぼしたのが縁で深い絆でつながれた源氏と藤原氏だったが、100年後もその関係は続いていた。

 当時、国内有数の金の産地で、藤原一族は戦乱に明け暮れる京都を尻目に、金をもとにして平和で豊かな国を築いていった。

 だが、源氏の御曹司(おんぞうし)を迎え入れることで源氏とさらに強い絆を築き、平家以上に強い国をつくりたいという秀衡の意図も見え隠れする。

 そこで、奥州産の金を売りさばくため、奥州と京都を往復していた金売吉次(かねうりきちじ)に遮那王の脱出の手伝いを命じる。金売吉次は「平治物語」に登場するが、確認できる正式な資料もなく、全く謎の人物とされる。

 そんな中、鞍馬山を下りた遮那王は吉次の屋敷に入ると、屋敷内の鎮守社に奥州までの道中の安全を祈願する。この鎮守社が、現在の首途(かどで)八幡宮(上京区智恵光院通今出川上ル)にあたる。

■9人を瞬殺

 遮那王と吉次は三条大橋を渡り、東海道を東へと向かうと、山に突き当たる手前からしばらくなだらかな坂道が続く。現在の京都市街地と山科をつなぐ日ノ岡峠の京都側の「蹴上(けあげ)」という地である。

 桜並木で有名な琵琶湖疏水のインクライン周辺といった方が、わかりやすいかもしれない。

 近くの日向大神宮で参拝を済ませた遮那王は、前方から馬に乗って猛スピードで近づいてくる数人の武士とすれ違う。

 平家の武士、美濃国の関原与一ら9人(あるいは10人)である。

 「見破られたのか?」と道の脇で顔を伏せてかわそうとしたが、どうやらそうでもなさそうな雰囲気。内心ホッとする。

 でも、それも束の間。悪いことに馬が蹴り上げてはねた泥水が服にかかってしまった。だが、謝ることなく過ぎ去ろうとした関原たち。

 ついカッとなった遮那王は「無礼なやつ!!」と叫ぶなり、一瞬のうちに9人を切り捨てたのだ。また、関原だけ耳鼻をそいで逃したという話も残るが、いずれにせよ「旅の吉兆」と喜んだ2人だった。

■遮那王改め、源義経

 蹴上の地名は、義経の服に水がかかったときの馬の「蹴り上げ」から来ているといわれ、今も現場近くには切られた9人を弔ったとされる石仏など、ゆかりの史跡・遺物が数多く残る。

 斜面状になった蹴上インクラインを上り切った所、日向大神宮の途中に「義経大日如来」と呼ばれる高さ約90センチの石仏が1体。蹴上から東に進んだ日ノ岡や御陵(みささぎ)にもゆかりの石仏などがある。
「平治物語」には、遮那王が都を出た日の夜、近江国の鏡の宿(しゅく)(現在の滋賀県竜王町)で、自から髻(まげ)を結うと烏帽子(えぼし)をかぶって元服し、名を源義経と改めたという。

 慣れ親しんだ京を離れて平泉を目指し、東へ東へと進む義経が再び京へ戻ってくるのは、これから約10年を待たなければならない。

 このとき英雄として凱旋するが、平清盛も平家も姿はなく、今度は兄、頼朝への謀反で再び都を追われることになる。(おわり)


作家・瀬戸内寂聴(91)(5)書くことは最大の道楽

2013.8.30 03:09  産経新聞

〈「生きることは愛すること」。高校生から寄せられた質問に答えた問答集のタイトルには強いメッセージと願いがある〉
 この年になると、振り返ってみればそういうことだと思うんです。だれも好きにならないで、だれにも好かれないで、一生を終わるなんていうのは、つまらないじゃありませんか。
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          瀬戸内寂聴さん(蔵賢斗氏撮影)
 「いったい、なんのために生きてきたの?」と思いますよ。傷ついてもいいから、誰かを好きになって、誰かに愛された経験がある方が、ずっと生きがいがある気がします。
 今の若い人たちはちょっと好きになって、初体験はもう中学生くらいから始まって、高校3年生になってつきあったこともないのは恥ずかしい…なんていう時代だから。
 逆に、ほんとうに愛することを知っているのかしらと思いますね。やっぱり、小説をうんと読んで、情緒を養って、「何が愛か」ということを真剣に考えてくれたらいいと思います。
 〈「ぱーぷる」というペンネームでケータイ小説を書いて話題に。インターネットにも早くから注目し、現在、電子書籍化した著書は9冊を数える〉
 私は何でも早すぎるんですね。もっと早く電子書籍が売れると思っていたんですが、2年くらい世間の方が遅れた感じ。出版社がもうからないと邪魔するのでしょうけれど、この流れはもう仕方のないことで、必ず電子書籍の時代がきます。
 長い歴史をみれば、印刷技術だってどんどん変わってきたでしょう? 源氏物語の時代なんて、作品を一つ一つ、墨で写していたんですから。でも、今は電子書籍の源氏物語だって出ている。変わるんです、世の中は。
 〈最近は短編にも凝っている〉
 いわゆる掌(たなごころ)小説です。とても楽しんで書いているんですよ。少し書くと、(原稿用紙で)30枚くらいにはすぐなってしまうんですが、削って削って、短くする。
 それがとても楽しい。それでもまだ7枚か8枚くらいで、そこからさらに3枚半くらいにまで削る。いったいどこまで削れるのか…どんどん削って、そうしたら思わぬ最後の一節が出てきたりする。これはもう、小説家の最後の道楽だと思います。
 〈また、「群像」8月号で新連載の私小説「死に支度」がスタートした。今春、長年支えてきてくれたスタッフが身を引き、若手に代替わり。大きく変化した自らの身辺をつづるが、これまでにもまして筆致は軽やかだ。今も時折徹夜するというエネルギーはどこからくるのか〉
 連載は始まったばかりです。何がそうさせているのか、自分でもよくわかりません。僧侶としての仕事は義務ですが、書くことは道楽。疲れてもこんな楽しいことはありません。(聞き手 山上直子)

作家・瀬戸内寂聴(91)(4)仏縁に導かれて

2013.8.29 03:20 産経新聞

 〈昭和48年、51歳で出家し本名の晴美から寂聴へ。師僧として導いたのは直木賞作家で当時、岩手県の平泉中尊寺貫首を務めていた今東光師だった。今師とは作家としても僧侶としても、浅からぬ縁がある〉

 文芸春秋で作家や漫画家を3人ほど集めて、地方に講演会に行くという企画がありました。町を回って何日も泊まるので、メンバー選びが難しい。あるとき、私に依頼がきたので「一緒に行くのはだれ?」って聞くと、松本清張さんと今先生。

 そのいきさつがね、これ、想像ですけど、全部当たっていると思うんです。当時、清張さんはたいへんな人気作家で売れていました。いい方なんだけど、ちょっと気むずかしいところがある。今先生はたぶんね、「ああ清張か。誰も一緒に行きたがらないだろう。よし、いいよ行ってやるよ」なんてふうで決まった。

 じゃあ“彩り”はだれかということになるの。彩りとは女性作家のことですね。そのころ、きれいで人気があったのが曽野綾子さん、有吉佐和子さん。

 でも曽野さんはご主人の三浦さんがいて怖いし、有吉さんも引っ張りだこの人気者で忙しいでしょう。じゃあ、瀬戸内晴美にするか、ということになって。今先生も「ああ、あれはあっさりしているからいいよ」なんてことで。

 もちろん、私にはそんなことはいいませんよ、お忙しいでしょうけれどって頼みにくるんですけれどね。私にだって選ぶ権利があるってものですけれど、よくよく考えると、あのお二人とならいくら私でもとてもかれんに見えるわ、と思ったんですよ。
 そんなふうで始まったんですが、この旅はほんとうに楽しかった。「今東光一座ドサ回り」と呼んでいましたが、お二人の博識はたいへんなもので、黙って聞いているだけで、もうけものでした。
 〈51歳で出家を決めたものの、頼みに行った各宗派にことごとく断られた。そのとき思いついたのが今師だ。これも仏縁に導かれたということだろう〉
 「今先生もお坊さんだった!」と。先生だけがわかってくださいましたね。何も聞かずただ「急ぐんだね」とおっしゃった。先生も30過ぎで得度されたから、察してくださったんだと思うんです。8月に伺って、その場で11月14日と得度式の日取りまで決めてくださった。
 最初、9月にっておっしゃったので、それじゃあいくらなんでも早すぎますよ、とこちらがあわてました。仕事も整理しなくちゃいけませんでしたから。ところが、その後、がんの手術で入院されてしまったので、得度は今先生の親友の寛永寺貫首さまに代行していただきました。
 出家した直後、病院へごあいさつに伺うと、「いいお姿になっておめでとう」って祝福してくださって。寂聴という名は、今先生の法名の春聴から一字いただいたものです。(聞き手 山上直子)


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