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作家・童門冬二(86)(3)「小説 上杉鷹山」は決算書

2013.12.18 03:06 産經新聞

 美濃部(みのべ)さん(亮吉(りょうきち)元東京都知事、1904〜84年)ですか? 「富士山」ですね。遠くから眺めている分はイイが、近づくと…。ボクを課長から局長にまで、引き上げてくれた人だけど、個人的にはあまり一緒に飲みたい人ではない(苦笑)。もちろん、都政を「都民のもの」にした功績は大きかったし、革新都政の旗手として思い切ったことをやった。「命をかける」ということを恐れない人でしたね。
 〈美濃部氏は昭和42(1967)年、社会党(当時)、共産党が担ぐ革新統一候補として初当選。54年まで3期12年、知事を務めた。童門さんは側近のひとりとして、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。知事のスピーチ・ライターは12年間を通してやり続けた〉
 この12年は、やはり“特別な時代”で議会対策も大変でした。何しろ都議会の最大野党が自民党で、常に猛攻撃を受けるわけ。たとえば、知事への質問通告には(意地悪で)、ただ「知事の姿勢をただす」って書いてあるだけなんです。知事の答弁を書くのはボクだから、都議宅に“夜討ち・朝駆け”を繰り返して「もうちょっと教えてくださいよ。これじゃ答弁は書けません」とお願いする。中には、そんなボクの立場に同情してくれる人情味や侠気(おとこぎ)のあるセンセイ方もいたけどね。
 美濃部さんの退任に合わせてボクも都庁を去った。「殉じる」気持ちは多少、ありましたよ。黙っていれば、まぁ副知事にはなれたでしょう。だけど、ボクはもう居るべきじゃない、と思った。源義経が平家を倒したときと同じく、“美濃部都政12年”のスタッフは特別な仕事を解決するための特別なチーム。終わったらもはや使い道はないんです。ボクもその一員だったから、潔く辞めよう、って。
 〈都庁退職後の昭和58年、56歳のときに代表作となる『小説 上杉鷹山(ようざん)』を上梓(じょうし)、ミリオンセラーを記録する。破綻寸前の藩を、改革と情熱で立て直す若き藩主の姿を描いた作品は鷹山ブームを起こすきっかけになった〉
 「上杉鷹山」は、美濃部都政12年の決算書のつもりで書いた。都庁時代を振り返りながらね。(小説と同じく)都庁内にも“アンチ美濃部”の勢力がいた。実際の上司を何人かをモデルにしたり、発言やエピソードも使っている。美濃部さんと鷹山に似通った面影があるのは、すでにおはなしした通りです。
 結局ボクは「地方自治」が好きなんですな。当時(江戸時代)の藩はいわゆる10割自治。中央(幕府)からの“補助金”はなく、藩の施策は自由にやっていいけど、お金も全部自前で稼げと。そこに改革の精神や名産品が生まれたり、“企業秘密”もあったでしょう。こうした理念を追求した人が過去にいなかったか、といつも考えていたのですよ。
 (ブームは)ただ驚きでしたね。(印税を)少しは残しておくべきでしたな(苦笑)。(聞き手 喜多由浩)


作家・童門冬二(86)(2)純文学に挫折して筆を折る

2013.12.17 03:03 産經新聞

〈昭和2(1927)年の生まれ。19年予科練(よかれん)(海軍飛行予科練習生)に志願し、茨城県の土浦海軍航空隊に入った。「特攻隊」に編入されるものの、出撃しないまま終戦を迎える〉
 土浦航空隊には50メートルプールがあってね。真冬に氷のような水の中に15分間つけられる。熱いコークスの上を裸足で歩く修験者の荒行みたいなこともやったなぁ。よく上官に殴られもしたけれど、今も元気でいられるのは10代のころに“鍛えられた”おかげ(苦笑)。「健康の郵便貯金」をいま引き出している感じですかな。
 ボクは死ぬつもりで特攻隊を志願し、青森の三沢へいったけど、もはや乗るべき飛行機がなかった。15、16歳でボクより先に予科練に入り(特攻で)突っ込んでいった連中はいたけどね。“死に損なった”ボクは虚脱と放心の中にあって、しばらくはすさんだ生活も送った。不本意と挫折を重ねたせいか性格もちょっとねじくれている(苦笑)。ペンネームの「童門(どうもん)」はデーモン(悪魔)からとったくらいだから。
 〈戦後、東京都庁に入り、最初の仕事は目黒区役所の税金徴収係。役人生活と並行して、同人誌に純文学を書き始める。35年には「暗い川が手を叩(たた)く」が第43回芥川賞候補に〉
 戦争中はロクに本も読めなかったから、活字に飢えていてね。貪(むさぼ)るように読みました。太宰(だざい)(治(おさむ))が好きで、いまだに“たったひとりの桜桃忌(おうとうき)(心中した太宰の遺体が引き揚げられた6月19日)”をやっているほど。
 最初に志したのは純文学でした。「芥川賞」候補になった小説は、同人誌に書いたものを、ある評論家が目にとめてくれたんですよ。そのときは受賞した北杜夫(もりお)さん、倉橋由美子さん、なだいなださんらそうそうたる顔ぶれが候補となり、決選投票で北さんが4票、ボクが3票だったかな。落選が決まって、ボクの長屋に詰めていた記者たちが潮を引くようにいなくなったのが忘れられないけどね(苦笑)。
 ただ、候補になったことでバンバン注文が来て4、5編書きましたかな。それも1、2年…。はかなく終わってしまい、限界を知りました。「オレには純文学は書けない」。テーマやモチーフ(動機)を持っていなかったことが決定的でしたね。都庁の管理職試験に合格したこともあり、職務に専念しようと筆を折ったのです。
 〈昭和42(1967)年、“運命の人”ともいうべき美濃部亮吉(みのべりょうきち)氏が革新知事として都庁にやってきた。芥川賞候補の経歴が目にとまり広報部門に移っていた童門さんは、美濃部知事のスピーチ・ライターに登用される〉
 最初から強烈でした。都民向けの所信表明演説の草案を頼まれて持ってゆくと、美濃部さんは一読してゴミ箱へポイ。「都民が耳でわかる文章に書き直したまえ」って。さすがにカッとなったけど、その経験が従来のスタイルにとらわれず「分かりやすく書く」というボクの原点となったのだから人生は分からない。(聞き手 喜多由浩)

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作家・童門冬二(86)(1)朽ち果てないため「50代で学べ」

2013.12.16 03:07  産經新聞
 〈『50代』になったとき人は何を思うのだろう? 「まだまだ」とあがいてみるか、それとも「そろそろ」と諦めるか…。この人は51歳で、局長まで上り詰めた東京都庁を退職、56歳で、ベストセラーとなる『小説 上杉鷹山(ようざん)』を書いた。そして、86歳となったいまなお“売れっ子作家”であり続ける。50代は、まさに「第二の人生」のスタート地点となった〉
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                                                    作家・童門冬二(86)氏(荻窪佳氏撮影)

 ボクが(51歳で)都庁を辞めたとき、実は何の展望もなかった。もちろん、作家になれるとも、なりたいとも思わなかったしね。美濃部(みのべ)さん(亮吉(りょうきち)知事、1904〜84年)の退任とともにボクも目をつぶって飛び降りただけ。家族には「(都庁の)局長時代の給料は保証する」って大ミエを切ったけど、実際には退職金で食いつないでいた。4、5年は「後悔しなかった」と言えばウソになりますな(苦笑)。
 孔子(論語)は「五十にして天命を知る、六十にして耳順(したが)う…」なんて説いたけど、ボクは、とてもじゃないけど、そんな境地には至らない。いまだにです。年を重ねるごとに痛感するのは「オレはものを知らねえな、相撲でいえばまだ十両クラスだなぁ」ってことですよ。未熟だからこそ、もっともっと「知りたい」という知的好奇心、探究心が消えないのです。
 人生を「起・承・転・結」にたとえるならボクは生涯『起・承・転・転』でいい。終身現役、命の最後の一滴まで燃焼させたいと思っています。おかげさまで、この年(86歳)になっても仕事をさせてもらっているし、「色」はともかく「酒」は毎晩、「食」も大丈夫。睡眠時間は3、4時間だけど、大きな病気はしたことがない。もっとも、健康診断にさえ行ってないのは「半分は臆病だから」なんだけど。
 〈近著『50歳からの勉強法』では、人生の終盤まで充実した日々を送るために「学び」の重要性を説いているが、その方法は若いころの勉強とは、ちょっと違う〉
 「人生80年時代」にあって50代は2度目ぐらいの大きな分岐点(転)ですよ。ラストまで目いっぱい生きてゆく、朽ちてしまわないためには何をしたらいいのか? ボクは、好奇心を失わず「学び」続けるという姿勢が大事だと思う。それが“一本の心棒”になって支えてくれる。学びの姿勢を無くしたとき、人は本当の意味で「老いる」のだと思うんです。
 ただ、若いころのように新たなことに挑戦したり幅を広げたりするのはやめたほうがいい。自分の中にある鉱脈を掘ればいいのです。誰でも50歳までの人生には蓄積が、深さがあるでしょう。50代は仕込んだものを発酵させ、結実させる最適の時期なんですよ。「大日本沿海輿(よ)地全図」を完成させた伊能忠敬(いのう・ただたか)だって、測量のために全国を歩き始めたのは50歳を過ぎてから。学びに「遅すぎる」ことはありませんよ。
 ボクの「鉱脈」は30年あまり勤めた都庁時代にあった。たとえば「組織と人間」の問題。こうしたテーマを歴史小説の形を借りて現代に生かすことを考えたのです。上杉鷹山だって美濃部さんに、ちょっと似ているでしょ(笑い)。(聞き手 喜多由浩)
              ◇
【プロフィル】童門冬二
 昭和2(1927)年東京生まれ。旧制中学卒。19年土浦海軍航空隊に入隊し特攻隊を志願するが、翌年終戦。戦後、東京都庁に勤務、企画調整局長、政策室長などを歴任。在職中の35年「暗い川が手を叩(たた)く」が芥川賞候補に。54年都庁を退職。作家活動に専念し、ベストセラーとなった「小説 上杉鷹山」をはじめ、多くの歴史小説を執筆。近刊に『50歳からの勉強法』(サンマーク出版)。
酒田法廷「私をなぜ戦犯としないのか」

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リヤカーで酒田法廷に出廷する石原莞爾元関東軍作戦参謀。

   満州事変の正当性を訴えた

 昭和22年4月30日、つまり新憲法が施行される3日前の早朝、山形県酒田市の酒田駅に多数の外国人らが降りたった。


 ニュージーランド人のノースクロフト判事をはじめ、東京で進行中の極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判の関係者たちだった。検事、弁護人、通訳、タイピスト、それに内外の新聞記者ら総勢85人(一説には65人)で、前夜、東京を発(た)ち夜行列車で乗り込んできたのだった。

 昭和6(1931)年9月18日の柳条湖事件に端を発した満州事変に関し、当時の関東軍作戦主任参謀、石原莞爾元中将を証人尋問するためである。

 石原は事件後、満州全土をたちまち制圧した「首謀者」とされていた。東京裁判が満州事変について審議するにあたり、石原の尋問が不可欠となったのだ。

 しかし石原は昭和16年に予備役編入、つまり現役の軍人から退いた後、21年10月には酒田の北約20キロの吹浦(現飽海郡遊佐町)に農場を開き、移り住んでいた。

しかも当時、膀胱(ぼうこう)がんを患い病床にあった。このため、わざわざ酒田に臨時法廷を設け出張尋問する形をとったのである。

 中には物見遊山気分の者もいたかもしれない。だが、たった一人の証人のためこれだけの人数が約500キロも特別列車を仕立ててきた。いかに戦勝国側が「石原莞爾」に関心を持っていたかがわかる。

 臨時法廷は5月1日と2日の両日、酒田市商工会議所の2階で開かれた。酒田市役所から西へ200メートルばかりの所にあり、現在は駐車場になっている。

石原は着流しの着物で、信奉者の青年が引くリヤカーに乗って法廷に現れた。それだけでも戦勝国側の判事や検事は意表をつかれたのかもしれないが、尋問は終始、石原のペースで行われた。

 裁判長が「尋問の前に何か言うことはないか」と問うと、病人とは思えないしっかりした口調で、「ある」と答えた。

 「満州事変の中心はすべて自分である。事変終末の錦州爆撃にしても、満州建国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を戦犯として連行しないのは腑に落ちない」

 石原の陸軍幼年学校、士官学校を通じての同級生である横山臣平氏が『秘録石原莞爾』(芙蓉書房『石原莞爾の素顔』に抄録)で伝えていることである。裁判長らは「証人はそんなことを言ってはいけない」と制したというが、このことは東京裁判を進める上でのアキレス腱(けん)のようなものだった。

 石原への尋問は戦犯としてではなく、事変時の石原の上司の関東軍高級参謀で、戦犯に問われている板垣征四郎元大将らについての証言を得るためだった。

 なぜ自ら「満州事変の中心」という石原を戦犯としなかったのだろうか。大東亜戦争開戦時の首相である東条英機と犬猿の仲で、支那事変(日中戦争)拡大にも反対していたためなどの説がある。

 だが石原は日本の軍人の中でもずば抜けて明晰(めいせき)な頭脳を持つインテリとして国際的にも知られていた。「世界最終戦争論」という独特の理論も持っていた。

 戦犯となって、満州事変に日本側の正当な理由があったことを堂々と述べられれば、勝者の論理だけで裁く東京裁判が成り立たなくなる。戦勝国側がそう恐れたとする見方も有力だ。

実際、石原は酒田法廷の宣誓口述で、事変前の満州の情勢について理路整然と分析してみせた。日支両軍の関係は「一触即発あたかも噴火山上にあるままに放置されていた」と述べ、関東軍が一方的に悪いのではなく、起きるべくして起きたことを強調した。

 主に尋問に当たったダニガン検事は、満州の軍閥に君臨する張学良が国民党の蒋介石に従属し、中国が整然と満州を支配していたとし、事変は関東軍が中国に仕掛けた戦いとの構図を描こうとした。だが石原はその認識に鋭く反論し、むしろ戦勝国側が満州情勢に無知だったことを際立たせた。

 石原の証言には判事や検事、それに米国人記者らも感銘を受けた。法廷終了後、宿舎に押しかけ話を聞く者もいたという。では石原にとって満州事変とは何だったのだろうか。(皿木喜久)

【プロフィル】石原莞爾

 いしはら・かんじ 明治22年、山形県鶴岡市生まれ。陸軍士官学校(21期)、陸軍大学卒。大正11年からドイツに駐在し、ナポレオンの戦史などを研究。

昭和3年、関東軍参謀として旧満州に渡り、6年満州事変を指揮。陸軍参謀本部作戦課長、作戦部長などを歴任した後、12年から関東軍参謀副長。

第16師団長を経て16年予備役編入。昭和21年から山形県の吹浦で集団農場を開いた。24年8月15日死去。享年60。

 30歳で田中智学の国柱会に入り熱心な日蓮宗信者に。東亜連盟運動を指導した。著書に『世界最終戦争論』『戦争史大観』など。

産經新聞
2011.9.18 15:02 

電光石火「排日運動」高まり占有決意

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       満州事変のとば口となった柳条湖事件は昭和6(1931)年9月18日
              午後10時20分に起きた。

 南満州鉄道(満鉄)が奉天(現瀋陽)駅から長春方面に向かって北東に8キロばかり行った所に柳条湖という場所があった。その柳条湖で満鉄の線路が爆破されたのだ。ちなみにかつては柳条溝と表記されていたが、当時の新聞の誤報によるといい、柳条湖が正しい。

 同じ満州の旅順にあった関東軍司令部にその一報が届いたのは19日午前0時ごろだった。奉天に出張中の高級参謀、板垣征四郎大佐を除く幕僚たちが緊急呼集された。

 石原莞爾の生涯を描いた福田和也氏の『地ひらく』によれば、深夜だけにほとんどが寝間着や和服姿だったが最後に現れた作戦主任参謀、石原中佐だけが軍服を着ていた。

 福田氏はその瞬間のことを「誰もが、怒鳴ろうとし、同時に息を呑んだ。
(可愛くない)と皆が思った」と書く。

 一報がもたらされたとき、幕僚たちの誰もが事件は関東軍、それも石原らの「謀略」に間違いないと思った。その証拠に事件後、現場近くにいた関東軍の独立守備隊が「中国軍による爆破」とし、間髪を入れず中国軍−張学良軍が駐在する北大営を攻撃していた。

 事前に知らされていなかったのは不愉快だった。しかも、石原が自らの「謀略」を隠さないように、軍服姿だったことがかわいくなかったのである。だがすでに戦闘は始まっていた。もはや後戻りはできない。石原らは関東軍司令官、本庄繁中将に今後の軍事行動の決断を求めた。

 東京裁判酒田法廷での石原の証言によれば「日本軍と支那軍の現下の切迫した状態は、もはや一刻も猶予すべきでない」とする石原に対し本庄はこう答えた。

 「よろしい。本職の責任においてやろう」

 『地ひらく』によると、決断を受けた後、石原は「メモ一つ見ずに素早く命令を発した」という。満鉄沿線に駐屯する関東軍の各旅団、連隊、独立守備隊などを電報や電話で次々に出動させた。朝鮮軍司令官の林銑十郎中将に対し、増援要請も打電した。

 19日正午、司令部が軍用列車で約500キロ離れた奉天に移ったとき、奉天はすでに関東軍の手中に落ちていた。中国側の抵抗が続いていた長春での戦いも19日中には終わり、満州の主要都市のほとんどを占領することに成功した。

 当時関東軍の兵力は1万余り、これに対し張学良傘下の中国軍は20万とも30万ともいわれた。軍事的に見れば、石原らによる電光石火の「謀略」の精度の高さを示している。
 だが「謀略」であったとしても、関東軍が一方的に批判される類いの戦闘ではなかった。

 日本は日露戦争の勝利で、旅順・長春間の満鉄とその付属地の権益を得た。清国も日本との条約でそれを認めた。日本は満鉄を中心に満州開発を進め、それを守るために関東軍をおいていた。

 しかし日本がロシアを追い出したことで中国人の満州への移住が進むにつれ、反日・排日運動が高まってきた。特に昭和3年に爆殺された父張作霖に代わりこの地の軍閥を率いることになった張学良が「国旗」を青天白日旗に変える「易幟(えきし)」を宣言し、蒋介石の国民党と手を結んでからはその動きに拍車がかかる。組織的にもなった。

 昭和6年になると中村震太郎大尉殺害事件などが起き、日本人の安全は著しく脅かされる。日本による厳重抗議件数は3千件を超えたとされる。満州にいる日本人ばかりでなく日本国内からも、関東軍に対してその軍事的解決を求める声が強まった。

特に昭和3年、関東軍の参謀となった陸軍の俊才、石原にはその「期待」が一身に集まる。そして、満州を占有することしかこの問題の解決策はないというのが、石原の結論だったのである。

 石原は東京裁判酒田法廷での宣誓口述書の中で満州の状況を「いずれか一方が譲歩するか双方が妥協しない限り、解決は至難と認められた」と述べた。さらに「単なる外交交渉による日本権益の保持は期しがたかった」とし、こう主張した。

 「万一日本が満州より全面撤退したなら、単に権益を失うばかりでなく、ソ連が満州に進出し、日本自体がその国防を全うし得ず支那(中国)もまた国防上重大な関頭に立つといわざるを得ない」

 日本による侵略戦争であったなど、石原にすれば一笑に付すしかなかったのだ。(皿木喜久)

産經新聞
2011.9.19 14:37


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