人物・伝記

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伊能忠敬

愚直に信念を貫いた生き様

 嘉永6(1853)年、日本に開港を迫ったぺリー提督は、日本の地図を持参していた。江戸湾沿岸を測量したペリーは、その地図の正確さに驚いたといわれる。その地図こそ伊能忠敬(1745〜1818年)が作成した「大日本沿海輿地全図」である。
 
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                      修身教科書の伊能忠敬=「復刻国定修身教科書」(大空社)
 
 忠敬は、上総国(かずさのくに)(現在の千葉県)の名主の家に生まれた。幼名は三治郎。17歳の時に佐原村の名門・伊能家に婿(むこ)入りする。
 
 36歳の時に佐原村の名主になり、天明の飢饉(ききん)の際には、関西から米を買い入れ人々の窮乏を救う一方、「永久相続金」という非常用積立金制度を創設した。
 
 そのため、全国を襲った2度目の天明大飢饉(1786年)の時にも、佐原村だけは一人の餓死(がし)者も出なかった。
 
 この事績を第2期国定修身教科書は、「関東に二回の飢饉ありし際、毎回多くの金穀を出して窮民を救ひ官より厚く賞せられたり。精神一到何事カ成ラザラン」と記している。
 
 ただし、忠敬の人生の真骨頂は、長男に家督を譲り江戸に出た50歳から始まる。19歳も年下の暦学者(天文学者)である高橋至時(よしとき)(東岡)に師事した忠敬は、天体観測と測量技術に関する猛烈な勉強を開始。
 
 東岡の推挙で幕府から蝦夷地(えぞち)(北海道)測量の命を受けた55歳の忠敬は、門人と共に蝦夷地に赴き、僅(わず)か半年で精密な蝦夷の地図を完成させた。
 
その後も、幕府から日本各地の測量を命じられた忠敬が、実に18年の歳月を費やして形としたのが先の「大日本沿海輿地全図」であった。この間、忠敬が測量に歩いた総距離は約4万キロ。地球1周分に相当する長さは歩数にして約4千万歩と換算される。
 
 修身教科書は、この忠敬の偉大な事績と共に、高橋東岡との師弟関係にも項目を設けている。「忠敬は七十四歳にて病を以て江戸に歿(ぼっ)せり。
 
 忠敬の師高橋東岡は忠敬に先だちて早世せしが、忠敬歿するにのぞみ、家族に命じて『我の今日あるは一に東岡先生の教に由れり。先生の大恩今に至るまで忘るる能はず。我死なば必ず遺骸(いがい)を先生の墓の側(かたわら)に埋(うず)めよ』といへり。
 
 よりて家族は其の遺命を奉じ浅草の源空(げんくう)寺なる東岡の側に葬りたり」。この簡明な文書は、忠敬の激烈で愚直なまでに信念を貫いた生き様を清々(すがすが)しい余韻の中に伝えている。(武蔵野大学教授 貝塚茂樹)

消えた偉人・物語
2011.4.23 07:35
産経新聞
 

甦れ日本(上)


お茶の水女子大学名誉教授・藤原正彦

■「真の保守政党」が見当たらない

 政治はドロ沼、経済は停滞、モラルは崩壊…まるで坂道を転げ落ちるかのような日本。「誇りと自信」を取り戻すため、日本人にはいま何が必要なのか…。(文 喜多由浩)
                   
 −−20年も日本の凋落(ちょうらく)が続いています

 藤原 ひとつには長期的視野や大局観をもったリーダーが、政治家にも官僚にも財界にもほとんどいなくなったことですね。真のエリートを育てた旧制高校が戦後、GHQによって解体されましたが、その最後の卒業生たちが、約20年前に引退しています。

 彼らの「教養度」は戦後世代とはまるで違う。日本人が大事にしてきた価値観「個より公」「金より徳」で育った彼らがいなくなった
1990年代から日本は羅針盤なき航海に彷徨(さまよ)い、ガタガタになってしまいました。

 −−真のエリートとは?

 藤原 条件は2つあります。ひとつは、歴史、科学、文学、思想…といった一見“ハラの足しにもならないような”教養を十分に身につけていること。

 これがなければ大局観は持てません。もう一つは、国民、国家のために命をささげる気概をもっていることです。

 −−それにしても政界の混迷はひどい

 藤原 民主党政権ができたときには大いに期待しました。前の自民党政権に幻滅していましたから。おそらく国民の多くもそう思っていたでしょう。

 ところが、民主党は政治のプロではなく“素人集団”でした。そのくせ、官僚を外して「政治主導」をぶち上げたものだから、すべてがめちゃくちゃになってしまった。

 官僚というのは最も優秀な「その分野のプロ集団」。政治家は官僚を排除するのでなく、その知識や経験を利用し、おだてて死にものぐるいで国家に尽くさせればいいのです。

 −−自民党も勢いがありませんね

 藤原 かつての自民党は「保守」でしたが、現在の実態は「リベラル」です。民主党もリベラルですから、自民党に政権が戻っても大差はない。

二大政党がともにリベラルではいけません。少なくとも1つは、自らの力で国を守り、日本人のよき伝統を重んじ、誇りを取り戻させてくれるような「真の保守政党」であるべきです。

そうなっていないから首相が代わっても、政権党が代わっても同じこと。希望を見いだせないのです。

 −−外交はやられっぱなし

 藤原 自分の国を自分の力で守れないような国に、まともな外交ができるはずがありません。(アメリカによって作られた)憲法の前文がいけませんよ。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」なんて…少なくとも経済では、まわりの国は全部「敵」。

 米中露韓どこも敵、自らの国益だけを考え、そのために動いているのです。だからTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)をはじめ、他国からの要求や提案にはまず「NO」が基本なのに日本は相手の「公正と信義を信頼して」いる(苦笑)。

 だから軍事力をもてないどころか、「近隣諸国条項」とか「友愛」などと言いだす首相がでてきます。

 −−防衛の自立もできない

 藤原 日米の軍事同盟は中国の台頭をみても不可欠ですが、現在の日米安保条約は欺瞞(ぎまん)です。条文を読めば、相手国有事の際に(同盟国が)自動的に参戦するようにはなっていません。

 そして、日米の駆逐艦が並走していたときに米艦が攻撃されても日本は助けない、という日本の狡猾(こうかつ)。米軍基地さえ日本に置ければあとはどうでもよいというアメリカの狡猾。

 まやかしの軍事同盟です。日本が相応の武力をもってこそ日米はかつての日英同盟のような「イコールパートナー」になれる。憲法や自主防衛の問題を今こそ“根治”しないと日本はアメリカの属国のままですよ。
                  
【プロフィル】藤原正彦
 
 ふじわら・まさひこ お茶の水女子大学名誉教授。昭和18(1943)年、旧満州新京生まれ。68歳。東京大学理学部数学科卒、同大学院修士課程修了。

 米コロラド大学助教授、お茶の水女子大学教授を歴任。平成17年の「国家の品格」は約270万部の大ベストセラーに。

 近著は「日本人の誇り」(文春新書)。作家の新田次郎・藤原てい夫妻の次男。

話の肖像画 
2011.8.30 03:05
産經新聞

甦れ日本(中)


お茶の水女子大学名誉教授・藤原正彦 

■野心がない いまどきの若者

 −−いまどきの若者たちはどうですか

 藤原 (自虐的な)戦後教育で育ち、祖国に誇りを持てないでいる世代に比べると、ずっとましですよ。ただ、気になるのは若者たちの情緒力が落ちている、とりわけ野心がないことですね。

 大きな夢を抱かず、ただ「つつがなく幸せな人生を送ればいい」という内向きの志向です。例えば、アメリカへの留学生はかつての半数以下、中国や韓国よりずっと少ない。

 学者の世界でも、大きな問題には挑戦せず、“小さな論文”でポイントを稼ぎ、定職を得ようとする…。野心がないと大きな仕事を成し遂げられないし、国も動きません。

 −−藤原さんはもっと野心的だった?

 藤原 野心満々でした(苦笑)。小学生の頃は「貧困をなくすため革命に身を投じよう」。中2でドイツ語、中3でフランス語を始めたのは、「僕はいずれ世界で活躍する数学者になるのだから今から語学を磨いておこう」。

 大学で講義を聴きながら「いつかは天下を取ってやる」。皆似たようなものだったと思いますよ。少々誇大妄想的でした(苦笑)。

 −−政治がデタラメでも今の若者たちは無関心

 藤原 被災地の復興は遅々としたまま、尖閣、竹島、北方領土ではやられ放題、デフレ不況も放置…それでも若者が声を上げない。僕は高2のとき、昭和35(1960)年の安保闘争で、国会を十重二十重(とえはたえ)に取り巻いたデモ隊に加わりました。

 確かに豊かになった現代社会では「食うに困る」ことはありません。だが、社会への責任は? 祖国にどう寄与するのか? こうした視点がまったく抜け落ちています。

 −−現状維持でいいと

 藤原 野心というのは、日本ではあまりよいイメージはありませんが、アメリカでは褒め言葉です。逆に「野心のないヤツは何もできない」と見なされてしまう。

 延命ばかりを考えていた総理がいい例です。野心も、やりたいこともなく、ただ、ただ目の前の「政権維持だけ」しか頭になかったのですから。

 −−活字離れも深刻です


 藤原 (お茶の水女子大教授時代)ゼミの学生に聞いたところ、新聞を取っている学生一人もいなかった。これには衝撃を受けましたね。

 「携帯電話の情報で十分だ」と言うが、ネットの情報は薄い。新聞はその10倍、本はさらに多くの深い情報が詰まっています。活字文化の衰退は、教養の衰退、ひいては、リーダーに不可欠な大局観の衰退に、つながります。

 −−大学教授時代、専門外の「読書ゼミ」(『名著講義』のタイトル   で平成21年に出版)をやったのも、その危機感からですか?

 藤原 数学ばかりを日米英で教えてきて飽きたものですから(苦笑)。福沢諭吉、新渡戸稲造、内村鑑三などの本を読むと、学生たちはみるみる変わっていきましたよ。

 まずこれまでの日本を築いた先人を敬うようになりました。そして「日本は侵略ばかりした恥ずかしい国」と教えられ、萎縮していたのが、真実を知ることで「日本は誇りに足る国だ」と気づき、言動が自信に満ちてきました。1日、1ページでもいいから、本を読む習慣をつけることが大事ですね。
(喜多由浩)

話の肖像画
2011.8.31 02:54
産經新聞

甦れ日本(下)


お茶の水女子大学名誉教授・藤原正彦

−−近著『日本人の誇り』には東京裁判の欺瞞(ぎまん)性や“南京大虐殺”のウソについて詳しく書かれています

 藤原 学校の授業では教師が怖がって近現代史に触れません。「右」「左」双方から糾弾されかねないからでしょう。その結果「日本は残虐な侵略国家」という東京裁判史観がまかり通り、多くの国民が「日本は恥ずかしい国」と思い込んでしまったのです。

 −−米国などの策略だった

 藤原 日本が素晴らしい文化や伝統を持ち、いったん団結すれば、すごい力を発揮するのを知っていますから、戦後、GHQは日本が二度と歯向かうことがないように改造しようと決意しました。

 2発の原爆投下と相殺させるために、南京大虐殺など虚偽の歴史を捏造(ねつぞう)し、罪の意識を日本人に扶植しようとしました。戦争責任を一方的に日本に負わせるためです。

 日本人が誇りと自信を取り戻すには「真実」を知り、「日本は誇りに足る国だ」という確固たる歴史観を持つことです。そうすれば視座も定まる。これが欠けているから、政治も経済も外交もどこか卑屈で、他国の言いなりになり、大局的なビジョンを打ち出せないのです。

 −−震災対応でも混乱が…

 藤原 将来的には「脱原発」に向かわざるを得ないと思いますが、感情的ではなく、理性的に考えることが重要です。

 確かに原発には最終廃棄物を処理できないという致命的欠陥があります。しかし太陽光、風力エネルギーなどですぐに代替できるわけではありません。電力の安定供給が失われれば、企業は外国へ生産拠点を移し、数百万の失業者があふれるでしょう。

 諸外国は大喜びです。日本が工業先進国から脱落してくれるのですから。また太陽光パネルや風力発電が狭い日本の国土のいたるところに並ぶと、せっかくの美しい景観を破壊してしまう。

 すると日本人にとって非常に大事な「美的感受性」が育たなくなってしまい、壊滅的打撃を与えます。

 −−美的感受性とは?

 藤原 自然科学をはじめすべての事象において「神髄」は美しいものです。数学や物理でも重大な成果はみな美しく、また美しい定理や理論ほど後世になって役立ちます。

 美的感受性は、研究者はもちろん、よい政治家や企業人、よい親になるためにも、偏差値や知能指数よりも大事なものです。日本人が文学、芸術、自然科学、ものづくりに秀でているのも稀(まれ)に見るほど鋭い美的感受性のため。その源泉が、日本の繊細で美しい自然なのです。(喜多由浩)

話の肖像画
2011.9.1 03:18 
産經新聞

「慈悲深い征服者と別人」

 日本の終戦から66年を迎えるのを前に、日本軍と戦い、連合国軍最高司令官
マッカーサー元帥の副官として占領下の日本の憲法起草や国会運営にかかわった
リチャード・ブラウン氏に往事の回想を聞いた。同氏は敗戦直後の日本国民の様子をはじめ同元帥や吉田茂元首相との接触、そして憲法9条への微妙な懐疑など感慨をこめて語った。

 米国防総省を1984年に引退したブラウン氏は94歳のいまも、ワシントン市内で夫人のマードさんとともに元気に暮らす。同氏は日米開戦後、米陸軍第32師団の将校としてニューギニア戦線のビアク島の激戦に参加した。43年末から同島に飛行場を造った日本軍との死闘だった。

 「日本軍将兵は強く勇敢でした。戦場では投降する日本兵たちを部下が撃とうとするのを止めたこともあります」

 同氏はこの作戦の前にオーストラリアで初めてダグラス・マッカーサー元帥に
会った。日本軍に攻められ、フィリピンから撤退した元帥は将兵に演説した。

 「元帥は鬼のようでした。憎い敵の日本軍将兵を一人残らず、殺せ、という感じで、終戦後の日本での『慈悲深い征服者』とは別人のイメージでした」

■ 憲法起草に関与「現在は9条改正必要」

 ブラウン氏は、1945年冒頭からのフィリピンでの戦闘でマッカーサー元帥に再会する。マニラ奪回作戦で大尉として砲兵隊を指揮する同氏がある朝、幹線道路にいると、高級幕僚が来て、「いま元帥が近くにいて朝食を必要としているので、すぐ準備せよ」と命令した。

 「部下たちがすぐに朝食を準備し、元帥に供しました。彼は前回と異なり、愛想がよく、私たち数人を招き、懇談した。たまたま私たちがウィスコンシン州兵出身とわかると、自分も同州生まれだといって、さらに友好的になりました」
 戦後のブラウン氏は日本経由で一度、帰国する。敗戦から3カ月の元敵国に緊張して上陸すると、住民たちが歓迎するのに驚いた。

 「佐世保から神戸まで移動する際、日本人たちがオハヨウ、オハヨウというのに意味を知らず、とまどった。米国旗を振る人たちが多いのも意外でした」

 ブラウン氏は46年はじめに日本勤務を命じられ、GHQ(連合国軍総司令部)の民政局の立法府担当官となる。ホイットニー民政局長主導の日本憲法起草にもかかわり、「国会」の部分を担当したという。

 「憲法草案を日本側に渡し、公布から施行までの過程にも関与した。内容については軍事力保持を禁じた9条が日本の外交の支えを奪いかねないと思いました。日本は賢い政策を展開していったけれども、現在は本格的な軍備のためには改正が必要というところまできていますね」

 同氏はまもなく、フィリピンでの朝食を覚えていた元帥に呼ばれ、民政局所属ながら副官の任務をも命じられる。重要な訪問者を世話することも副官任務の一つとなった。

 「ある時、世話をした米国務省関係の有力者が昼食の際、マッカーサー元帥は見えっ張りで、髪の薄い部分を必死で隠しているというのは本当か、と質問してきた。私は言を左右にしたが、なぜかその会話を元帥が知り、詳細を文書で報告せよと命令してきた。仕方なく報告すると、その有力者は24時間以内の日本退去を命じられました」

 だがそんな元帥も日本国民が敵対心を抱いていないとわかると、日本人には非常に温かく同情的な心情を抱くようになった。元帥は同氏がホイットニー局長の秘書だったマードさんに恋をして、婚約したときは喜んで高級なウイスキー2本を贈ってくれたという。

 同氏は49年に米国に戻るまで民政局で日本の国会や内閣の動きをモニターする役を果たした。首相の吉田茂氏とも頻繁に会った。

 「元帥からの書簡を届けるのも私の任務でした。吉田氏の服装はちょうネクタイや山高帽など英国の首相チャーチルをまねているようにみえました」
 こんな日本体験をブラウン氏は総括した。

 「日本の歴史的再生に立ち会えたことは幸運でした。その後の日米関係も本当にこれでよかったと思う。多くの日本人とも親しくなり、その後も何回も訪日した。だから今回の大震災の被害には心を痛めました」(ワシントン 古森義久)


【ワシントン=古森義久】
2011年8月14日(日)08:00
 産經新聞



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