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作家・吉村昭の愛した岩手・田野畑村を歩く
崩壊した家、無念の日々
◇「何やってきたのか」元村長自責
◇明治からの伝説「津波石」超え
◇記録文学、対策に生かせず
歴史小説の名手として知られた作家の吉村昭氏(06年逝去)は、東日本大震災の被災地、岩手県田野畑村を愛し、たびたび訪れた。
そこから生まれた一書が、震災後に話題を集めている記録文学「三陸海岸大津波」(文春文庫)だ。氏の足跡を探しに、津波の爪痕も生々しい村へ向かった。【江畑佳明】
「まさか、この石まで津波をかぶるとは思っていませんでした」
そう述懐するのは、田野畑村沿岸部の羅賀地区に住み、漁業を営む川畑州作さん(63)だ。
この地区には、「津波石」と呼ばれる石がある。1896(明治29)年の明治三陸大津波で海から運ばれてきたと伝えられ、津波への警鐘として語り継がれてきた。重さは推定20トン、高さは大人の背丈を超えるほどもある。
近くの盛り土などに、今回の津波の高さを示す青いテープが張り巡らされていた。その位置は、石の頂よりもさらに高いところにある。
川畑さんは「明治の津波で流れてきたと聞いていましたが、まさかこんな巨大なものが、という意識もあった。震災を体験して、言い伝えは本当だったと再確認しました」と石を触りながら話した。地区の住民にとっても、今回の津波は「まさか」の規模だったのだろう。
ふと眼下を見渡せば、なだらかな坂の下にあった海際の家は流され、道路のガードレールもへこんでいる。海に面した10階建ての建物は、多くの客人に憩いのひと時を提供した村随一の宿だったが、3階まで津波をかぶり、営業停止となっていた。吉村氏が村を訪れる際、定宿にしていた「ホテル羅賀荘」だ。
吉村氏は約40年前、この地を訪れ、明治の大津波の体験者に聞き取りをした。その模様や証言は、70年に出した記録文学「海の壁」に盛り込まれた。のちに「三陸海岸大津波」と改題される。
◆
村南東部の島越(しまのこし)地区。急な斜面を上った先に、その家はあった。ぜひ会ってみたかった。
田野畑村の元村長、早野仙平さん(82)。65年に初当選して以降、8期32年間、村のかじ取り役を務めた人物だ。
早野さんは、吉村氏と深い交流があった。短編「梅の蕾(つぼみ)」は都会から村に招かれた医師を描いた物語だが、そこに登場する村長は早野さんがモデルだ。
2人の出会いは50年代後半ごろ。「将来、いくら金を積んでも会えない人物に成長する男だ。田野畑で少し静養させてやってくれ」。村出身の知人から、そう持ちかけられたのがきっかけだった。
当時、田野畑は「陸の孤島」と呼ばれるほど不便だった。盛岡市まで車で6時間以上も費やした。早野さんは吉村氏を村内各地に案内した。「鵜(う)の巣断崖」という高さ200メートルの絶壁からの眺望に魅せられ、「星への旅」を完成させた。
作品は太宰治賞を受賞し、文壇デビューのきっかけとなった。その後、毎年のように村を訪れ、名誉村民にもなった。
2人は意気投合した。早野さんは吉村氏の人となりを「地元産の日本酒が好きで、気さくな性格の人だったな。『作家の大先生』なんてからかうと本気で怒るくらい」と懐かしそうに振り返った。
そんな朗らかな早野さんだが、急に表情が曇った。
「あの日以来、ここからの景色が以前とは違って見えるんだな」。そうつぶやくと、吐き出した紫煙をじっと見つめた。
「あの日」とは、言うまでもなく震災当日。居間の窓からは、美しく広がる海と、津波で崩壊した家々が見渡せた。
島越地区は、全187世帯のうち110世帯が全半壊や浸水となった。村人口約3900人のうち、死者・行方不明は計40人。島越だけで死者15人、行方不明は12人で、村全体の半分以上を占める。
土木学会などで構成する調査グループの発表では、島越の津波は高さ27・6メートルにも及んだ。三陸鉄道の島越駅には吉村氏から寄贈された文庫があったが、駅とともにすべて流された。
早野さんの家は高台にあったため難を逃れたが、「真っ黒い津波が、うねりながら何層にもかぶさって押し寄せるのが見えた」という。
33年の昭和津波についても「おばあさんに背負われて避難した記憶がある」と話すものの、「今回の方がはるかに巨大だ。これまで流されなかった家が津波にのまれた」と声を上ずらせた。
持病のため集団生活はできないと、避難所には行かず自宅で過ごした。食料、水、燃料は備蓄してあった。
何杯目かのお茶をすすったあと、こう切り出した。
「いささか長生きしすぎた。この惨状を見ずに大往生していれば、多少は人から褒められてさ、自己満足したまま逝っていただろうに。今は毎日、反省の気持ちが消えないですね」
しばらくの沈黙の後、尋ねた。反省、とは?
「村長のとき、津波対策が頭になかったわけではなかった。しかし美しい海岸や砂浜を壊してまで大きな防波堤を作ることはできなかった」
早野さんは、橋を架けて道路を整備し、乳製品や漁業など地場産業を育成した。沿岸部を村有地化し、美観を守った。教育に力を入れ、米国の大学との交流も進めた。
自身が若い頃に味わった「県内一貧しい村」の汚名を返上したいとの思いだったが、防災への意識は深められなかった。
「多くの仲間が死んだ。漁業なんて50年は復興できないんじゃないか。俺は32年間、一体何をやってきたんだろうと、毎日考えとるよ」
津波は早野さんの心の奥底をえぐっていた。80歳を超えて後悔の念が募るとは、なんと残酷な現実だろう。
◆
東京に戻り、2人を知る人に話を聞いた。吉村氏の妻で、芥川賞作家の津村節子さん(82)だ。
受話器越しに開口一番、「吉村があれだけ一生懸命調べて本にまとめたのに、警告にはならなかったのでしょうか。この被害を見たら、大変悲しむと思います」と残念がった。
吉村氏は、よくこう語っていたという。「大津波が来て一時は高台に移り住んでも、何十年もたてば、また海の近くに家が建ってしまうんだなあ……」
吉村氏は前出の「梅の蕾」で、こう表現している。
「海は澄み、磯も砂浜も自然の姿を保っている」
吉村氏が変わり果てた田野畑の姿を目にしたならば、どんな文章で我々にメッセージを伝えただろうか。
2011年6月2日15時0分
毎日新聞 特集ワイド
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