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作家・吉村昭の愛した岩手・田野畑村を歩く 
崩壊した家、無念の日々

 ◇「何やってきたのか」元村長自責

 ◇明治からの伝説「津波石」超え

 ◇記録文学、対策に生かせず

 歴史小説の名手として知られた作家の吉村昭氏(06年逝去)は、東日本大震災の被災地、岩手県田野畑村を愛し、たびたび訪れた。

 そこから生まれた一書が、震災後に話題を集めている記録文学「三陸海岸大津波」(文春文庫)だ。氏の足跡を探しに、津波の爪痕も生々しい村へ向かった。【江畑佳明】

 「まさか、この石まで津波をかぶるとは思っていませんでした」

そう述懐するのは、田野畑村沿岸部の羅賀地区に住み、漁業を営む川畑州作さん(63)だ。

 この地区には、「津波石」と呼ばれる石がある。1896(明治29)年の明治三陸大津波で海から運ばれてきたと伝えられ、津波への警鐘として語り継がれてきた。重さは推定20トン、高さは大人の背丈を超えるほどもある。

 近くの盛り土などに、今回の津波の高さを示す青いテープが張り巡らされていた。その位置は、石の頂よりもさらに高いところにある。

 川畑さんは「明治の津波で流れてきたと聞いていましたが、まさかこんな巨大なものが、という意識もあった。震災を体験して、言い伝えは本当だったと再確認しました」と石を触りながら話した。地区の住民にとっても、今回の津波は「まさか」の規模だったのだろう。

 ふと眼下を見渡せば、なだらかな坂の下にあった海際の家は流され、道路のガードレールもへこんでいる。海に面した10階建ての建物は、多くの客人に憩いのひと時を提供した村随一の宿だったが、3階まで津波をかぶり、営業停止となっていた。吉村氏が村を訪れる際、定宿にしていた「ホテル羅賀荘」だ。

 吉村氏は約40年前、この地を訪れ、明治の大津波の体験者に聞き取りをした。その模様や証言は、70年に出した記録文学「海の壁」に盛り込まれた。のちに「三陸海岸大津波」と改題される。

                                        ◆
 
 村南東部の島越(しまのこし)地区。急な斜面を上った先に、その家はあった。ぜひ会ってみたかった。

 田野畑村の元村長、早野仙平さん(82)。65年に初当選して以降、8期32年間、村のかじ取り役を務めた人物だ。

 早野さんは、吉村氏と深い交流があった。短編「梅の蕾(つぼみ)」は都会から村に招かれた医師を描いた物語だが、そこに登場する村長は早野さんがモデルだ。

 2人の出会いは50年代後半ごろ。「将来、いくら金を積んでも会えない人物に成長する男だ。田野畑で少し静養させてやってくれ」。村出身の知人から、そう持ちかけられたのがきっかけだった。

 当時、田野畑は「陸の孤島」と呼ばれるほど不便だった。盛岡市まで車で6時間以上も費やした。早野さんは吉村氏を村内各地に案内した。「鵜(う)の巣断崖」という高さ200メートルの絶壁からの眺望に魅せられ、「星への旅」を完成させた。

 作品は太宰治賞を受賞し、文壇デビューのきっかけとなった。その後、毎年のように村を訪れ、名誉村民にもなった。

 2人は意気投合した。早野さんは吉村氏の人となりを「地元産の日本酒が好きで、気さくな性格の人だったな。『作家の大先生』なんてからかうと本気で怒るくらい」と懐かしそうに振り返った。

 そんな朗らかな早野さんだが、急に表情が曇った。

 「あの日以来、ここからの景色が以前とは違って見えるんだな」。そうつぶやくと、吐き出した紫煙をじっと見つめた。

「あの日」とは、言うまでもなく震災当日。居間の窓からは、美しく広がる海と、津波で崩壊した家々が見渡せた。

 島越地区は、全187世帯のうち110世帯が全半壊や浸水となった。村人口約3900人のうち、死者・行方不明は計40人。島越だけで死者15人、行方不明は12人で、村全体の半分以上を占める。

 土木学会などで構成する調査グループの発表では、島越の津波は高さ27・6メートルにも及んだ。三陸鉄道の島越駅には吉村氏から寄贈された文庫があったが、駅とともにすべて流された。

 早野さんの家は高台にあったため難を逃れたが、「真っ黒い津波が、うねりながら何層にもかぶさって押し寄せるのが見えた」という。

 33年の昭和津波についても「おばあさんに背負われて避難した記憶がある」と話すものの、「今回の方がはるかに巨大だ。これまで流されなかった家が津波にのまれた」と声を上ずらせた。

 持病のため集団生活はできないと、避難所には行かず自宅で過ごした。食料、水、燃料は備蓄してあった。

 何杯目かのお茶をすすったあと、こう切り出した。

 「いささか長生きしすぎた。この惨状を見ずに大往生していれば、多少は人から褒められてさ、自己満足したまま逝っていただろうに。今は毎日、反省の気持ちが消えないですね」

 しばらくの沈黙の後、尋ねた。反省、とは?

 「村長のとき、津波対策が頭になかったわけではなかった。しかし美しい海岸や砂浜を壊してまで大きな防波堤を作ることはできなかった」

 早野さんは、橋を架けて道路を整備し、乳製品や漁業など地場産業を育成した。沿岸部を村有地化し、美観を守った。教育に力を入れ、米国の大学との交流も進めた。

 自身が若い頃に味わった「県内一貧しい村」の汚名を返上したいとの思いだったが、防災への意識は深められなかった。

 「多くの仲間が死んだ。漁業なんて50年は復興できないんじゃないか。俺は32年間、一体何をやってきたんだろうと、毎日考えとるよ」

 津波は早野さんの心の奥底をえぐっていた。80歳を超えて後悔の念が募るとは、なんと残酷な現実だろう。

                                            ◆

 東京に戻り、2人を知る人に話を聞いた。吉村氏の妻で、芥川賞作家の津村節子さん(82)だ。

 受話器越しに開口一番、「吉村があれだけ一生懸命調べて本にまとめたのに、警告にはならなかったのでしょうか。この被害を見たら、大変悲しむと思います」と残念がった。


 吉村氏は、よくこう語っていたという。「大津波が来て一時は高台に移り住んでも、何十年もたてば、また海の近くに家が建ってしまうんだなあ……」

 吉村氏は前出の「梅の蕾」で、こう表現している。

 「海は澄み、磯も砂浜も自然の姿を保っている」

 吉村氏が変わり果てた田野畑の姿を目にしたならば、どんな文章で我々にメッセージを伝えただろうか。

2011年6月2日15時0分
毎日新聞 特集ワイド

話の肖像画

吉村昭と三陸海岸(上)作家・津村節子

■ ずっと津波を気にかけていた

 作家の吉村昭さん(1927〜2006年)が約40年前に著した作品「三陸海岸大津波」(文春文庫)が、ベストセラーになっている。

 明治以降、東北の海岸を3度襲った大津波についての記録文学だ。版元の文芸春秋は東日本大震災以降、約15万部を増刷。

 その印税を被災地・岩手県田野畑(たのはた)村に寄付した妻で作家の津村節子さんに、三陸海岸や吉村さんの思い出を聞いた。
(文 磨井慎吾)

                                              ◇

 −−吉村さんの「三陸海岸大津波」が増刷を重ねています

 津村 最初は5万部の増刷だったのが、どんどん増えていって。古い文書を調べたり、土地の古老に話を聞いて回ったりと、克明な調査に基づく本ですが、ただの記録ではなく、作家としてそれを文学にしたんです。

 吉村はこの本を書いてから、「津波は必ず、また来る」とずっと気にかけていました。かつてない大変な災害の中、この本は一種の予言のような形で読まれているのかな、と。だから印税なんて、とてもいただく気になりません。

 毎年訪れていた田野畑村をはじめ、吉村が愛した三陸の海が、あんなふうになっているんですから。

《田野畑村は岩手県の太平洋岸に位置する。人口約3800人、主要産業は農林水産業と観光業。海岸部は陸中海岸国立公園に属し、景勝地として知られる鵜(う)ノ巣(す)断崖や北山崎など、高さ200メートルほどもある絶壁が続く。東日本大震災では、死者・行方不明者40人、住宅約200棟全壊、漁船のほとんどが失われるなど、被害甚大だった》

 −−吉村さんは田野畑村の名誉村民でもありました

 津村 寄付した後、田野畑村長からお礼状が来まして、津波が来る前と後を同じ場所で比べた写真が添えてあったんです。
(写真を示しながら)見てください、ここは郵便局の側で、ここは…。

 −−すさまじい被害状況です

 津村 一応堤防は造ってあったんです。でも、何の役にも立たなくて。堤防ができたとき、吉村は気にしていたんです。

 ちょっとは安心したけど、また津波が来たとき、この堤防で間に合うかな、と。田老の大堤防(岩手県宮古市田老地区の高さ10メートル、総延長約2・5キロの日本最大級の防潮堤)であの状況ですから、とても間に合うなんてものではありませんでした。

 −−初めて田野畑村を訪ねたのは

 津村 私が昭和40年に芥川賞を受賞したとき、吉村は小説に専念するために、勤めていた兄の会社を辞めたんです。あの人の表現では「会社から帰ってきて、水道の蛇口を開けるとジャーッと水が出るようには小説は書けない。醸す時間が必要なんだ」って。

 当時、私は少女小説をたくさん書いていたので、食べられないことはありませんが、定収はなくなります。

 だから吉村の兄は反対したのですが、最後には折れて、1年間休暇をやるから、それでどうにもならなかったら戻ってこいと。

 期限を切られたことが、かえってよかったんでしょうね。もう死にものぐるいですよ。のんべんだらりと書くのではなく、この1年で勝負と思ったから。それで勤めを辞めて田野畑村に行ったんです。

 《今では歴史小説の大家として知られる吉村さんだが、昭和30年代は芥川賞を目指して同人誌に純文学短編の投稿を重ねるなど、雌伏の時期だった。

 4度芥川賞候補に挙げられたものの、いずれも落選。昭和41年に発表したのが、田野畑村の断崖を舞台とした少年たちの集団自殺を描いた「星への旅」だった》

 −−どういう縁で、田野畑村を選ばれたのでしょうか

 津村 吉村の友達が田野畑村の出身で、いいところだよとよく言ってたんですね。行ってみたら、まあ大変なところで。村に入るまでに1泊しないといけませんでした。

 でも、鵜ノ巣断崖を見たとき、イメージがわいたんでしょうね。のぞき込んでいるうちに目がくらんで落ちてしまいそうな、すごい崖なんですが、海沿いにずっと断崖が屹立(きつりつ)するのを見渡せる絶景です。

 それで吉村は「星への旅」を書き、太宰治賞を受賞しました。田野畑は、吉村にとって作家としての出発点なんですよ。

 −−当時の田野畑村は

 津村 谷が続く地形なのですが、初めて訪ねたころには、橋が架かっておりませんでした。「辞職坂」と呼ばれる深い谷があって、道の上り下りのあまりの苦しさに、村に赴任してくる役人が音を上げて引き返したというほどの険しさです。

 まだ三陸鉄道もなかったころで、いろいろな産物があっても道が不便なために外に出せないんです。村民が畑の作物と海産物を交換し合って暮らすような、自給自足に近い村でした。

 宿もないので、海岸近くにある漁師の番屋に泊まったんですよ。

 −−“陸の孤島”だったんですね

 津村 その後、昭和40〜50年代に大きな橋が何本もできて、観光客も来るようになりました。これだけの絶景がありますから、観光でもうけようと思えばもうかります。

 でも、当時の早野仙平村長、吉村の「三陸海岸大津波」にも出てくる人ですが、この方が企業を入れない道を選んだ。その代わり、酪農や民宿といった形で、村民に直接お金が落ちるようにしたんです。

 東京の有名ホテル進出の話もあって、受け入れていれば大観光地になったと思いますが、自然や景色は今とはまったく違っていたでしょう。村長には先見の明があったと思います。
                   
2011.5.25 03:11 
産經新聞


吉村昭と三陸海岸(下)作家・津村節子


■ 書くことで夫を取り戻した

 −−津波で田野畑村の三陸鉄道島越駅が流され、
    寄贈した「吉村・津村文庫」も失われました

 津村 文庫が流されたことなんて、どうでもいいんです。もっと大変なことが起きている。家も船もみんな流されて、人の命があれだけ失われていて…。

 吉村がいたら、どんなに嘆くことでしょう。家族だけじゃなくて、親戚から友達から、誰でも誘って連れて行く自慢の村でしたから。本なんて、後からいくらでも送れます。

 まずはお金がいるでしょう。だから増刷分の印税なんて、最初から受け取るつもりはありませんでした。

 −−吉村さんの「関東大震災」(文春文庫)は4万部の増刷です

 津村 あの人は、地震のこともずいぶん調べたんですよ。(死者の大半が火災による)関東大震災の教訓としては、2つのことを言っていました。

 まず、みんな大八車に荷物を積んで逃げたのが道をふさぎ、消防を妨げて火事を広げた。だから絶対に自動車で逃げようとするなと警告していました。

 それと、火の気のない場所でも薬品の落下で出火した例が多かった。薬品を扱う企業や学校、病院はしっかり管理をしないといけない。そう繰り返し言っていましたね。

 −−「文学界」5月号に発表した私小説「紅梅」で、吉村さんの最期の日々を初めて書かれました

 津村 吉村の遺言に「3年は書かないこと」というくだりがありまして。それは、私が当然書くだろうと思っていたということです。

 でも、書きたくはなかった。担当編集者に強く背中を押されて書き始めましたが、やっぱりやめようかと何度も思いました。

 あの辛(つら)い思い出をもう一度繰り返すことですから。ただ書き終えた今では、やはり書いてよかった。少しは気持ちに整理もつき、落ち着いた気がいたします。

 −−どのようなご心境ですか

 津村 吉村の没後、あちこちで回顧展が催され、資料や身の回りの品を貸し出したりといった作業に追われていました。

 そうしたことばかりやっているうち、いつの間にか吉村がそばにいた人ではなく、文学館のガラスケースの中に入ってしまって。

 夫でなく、どんどん一人の物故作家になって、遠い遠いところへ行ってしまうんですよ。それは異様な感じでした。

 だから書くことで、吉村を手元にたぐり寄せられた。やっぱり吉村は、私の夫だったんだと思いましたね。(磨井慎吾)

【プロフィル】津村節子

 つむら・せつこ 昭和3年、福井県生まれ。82歳。学習院女子短期大学文学科卒業。学習院文芸部で吉村昭さんと知り合い、28年結婚。主婦業のかたわら、文芸同人誌などで創作活動を行い、40年「玩具」で芥川賞受賞。

平成23年、川端康成文学賞。日本芸術院会員。「智恵子飛ぶ」など主要作品は、岩波書店から刊行された「津村節子自選作品集」(全6巻)に収録されている

2011.5.26 02:49

産經新聞



(55)老将は歴史に消え去るのみ

■ 憲法改正・再軍備…時間がズレたまま2人は逝く

 宰相、吉田茂といえば羽織袴(はかま)に白足袋、葉巻をくゆらせる独特のスタイルであった。その傍若無人な言動からワンマン、ゴウマンと批判され
た。

カメラマンにコップの水をかけ、記者をステッキで「シッシ」と追い払う。野党議員に対する「バカヤロー」の一言で、国会を解散しなければならなくなった。

 そのワンマンも、政権末期には少数単独内閣であるうえに、スキャンダルの続出で政権運営が行き詰まる。朝鮮戦争の休戦は、日本にもたらされた「朝鮮特需の終わり」を意味した。

 特需がなくなれば、米国の経済支援と対日投資で復興を目指すしかなくなる。ところが、米国大統領アイゼンハワーは「アジアのことはアジアで」と表明し、徐々に西太平洋から手を引く構えをみせた。

 吉田は援助を求めて、昭和28年6月から相互安全保障法(MSA)にもとづく日米交渉に臨んだ。またも国務長官ダレスとの軍備増強をめぐる交渉である。米国の援助はほしいが、譲歩をすれば政権がもたない。
 
◆ 吉田政権の終焉

 「辞めどき」を本人に進言していたのは、側近の白洲次郎だった。それは26年9月のサンフランシスコ講和会議で、吉田が念願の平和条約と日米安保条約に調印した帰途であった。

 「あなたの役目はもう済みました。帰朝後になるべく早く辞めて下さい」(白洲『プリンシプルのない日本』)

朝鮮特需がなくなり、冷戦がゆるめば、吉田外交は調整を迫られる。さらに、造船業界からの贈収賄事件が襲い、吉田の強権的な対応から世論の反発を浴びることになった。

 29年の暮れの閣議は、第5次吉田内閣が総辞職するか国会を解散するかで、閣僚の意見が割れた。途中で吉田は隣室に退いた。娘婿の麻生多賀吉が後を追うと、吉田は葉巻をくゆらせながらポツリといった。

 「ではやめて、大磯でゆっくり本でも読むか」(麻生和子『父吉田茂』)

 その瞬間に、吉田の7年2カ月に及ぶ長期政権が終わった。世間の風は吉田に厳しく、石もて追われるようだ。

だが、軍事顧問の辰巳栄一は12月7日の日記に「悪評の吉田氏の真価 歴史家が断ずるであろう」と、その評価を後世に託した。

 辰巳は、吉田辞任とともに政府関係の仕事一切から手を引いた。辰巳はあくまで吉田の「影」であって、政府の役職にもない稀有(けう)な存在であった。

 白洲は終戦連絡事務局次長や貿易庁長官などの公職に赴いたが、辰巳は「敗軍の将」として世間に出ることを自ら戒めた。吉田が求めた警察予備隊の総隊総監も、内閣情報機関のトップの座も辞退した。

 ただ、祖国が敗戦の憂き目にあったのは、国家指導者が的確な情報に基づいて勇断できなかったからだと思う。戦後の混乱虚脱の時代に、適切な判断と指導ができるのは吉田茂以外にはないと考えた。

 辰巳は国防と憲法を確立すべきだという点で、吉田と同じ方向を見ていた。だが、2人の時間軸には大きなズレがあった。

吉田は首相在任中に再軍備をやらず、従って憲法改正はしないという方針を変えなかった。

  しかし、吉田を軽武装・経済中心主義とだけ解釈するのは正しくないし、辰巳が再軍備を促進するために米国に通じて吉田を欺いたとの解釈も正しくない。2人は信頼関係を保ちながら時間差を埋めるために、時に言い争いもした。

 吉田は25年7月の参院本会議で「強大な軍備は敗戦後の国力では耐えられない」と主張した。それが講和条約の調印後から変化をはじめ、次第に「将来の再軍備」を意識する。

 この年の衆院特別委員会で吉田は、「なるべく早く自衛力を持ちたい」と断じ、27年の参院で憲法は「自衛のための戦力を禁じたのではない」と微妙に変化する。

 27年8月に警察予備隊と海上警備隊が一体化して保安庁になり、吉田は自ら初代保安庁長官の事務取扱として幹部に注目すべき訓示をした。

 「私が再軍備しないというのは、国力が許さないからであって、私は一日も早く、国民自ら国を守るようにしたい」

 「保安庁新設の目的は、新国軍の建設にある。諸君はそれまでの間、新国軍建設の土台となる任務をもっている」

 吉田は警察予備隊から自衛隊にいたるまで、彼らを「国防軍」「国軍」と表現している。それを示す辰巳栄一宛ての27年10月29日付吉田書簡がある。

 「国防軍創設ニハ最初か大切と存、小生自から進ん而保安大臣引受候」

 吉田は日本軍のあしき伝統を切断し、新しい軍の創設を考えた。軍事力を厳しく自制したが、軍事力が国際社会で重要な役割を果たしていることを認識していた。

吉田は首相を辞任すると、大磯邸を「海千山千荘」と号して悦に入った。古今亭志ん生の落語を愛し、若手官僚や自衛官を招いては時事放談を楽しんだ。そして老将軍、辰巳は足しげく大磯に通う。あの日、吉田は辰巳を2階の書斎に招くと、頭を下げて口を開いた。

 「国防問題には深く反省している。日本がいまのように国力が充実して、独立大国になったからには、国際的に見ても国の面目上、軍備を持つことは必要だ」

 辰巳はサンフランシスコ講和や自衛隊発足のタイミングで、吉田が憲法改正に踏み切っていたらとつくづく思う。辰巳は一貫して「自衛隊が国土防衛の任務を与えられた以上、当然憲法第9条は改正されるべきである」(『偕行』58年2月号)と考えてきた。

◆ 使い勝手よいイデオロギー

 昭和42年10月20日午後、吉田茂は89年1カ月に及ぶ生涯に幕を閉じた。辰巳は吉田逝去の報に接して大磯に駆けつけた。

 「眠れる如き吉田老の遺影に接し、感極まる わが終生の恩人すべて世を去る 哀痛極まりなし」(辰巳日記)

 辰巳はその晩、思い出が残る応接間に泊まった。彼が尊敬した3人のうち、戦前の武藤信義元帥、本間雅晴中将、そして戦後の吉田もまた亡くなった。

 辰巳が後世の歴史家に託した吉田の評価は、ようやく40年代に入って京都大学教授の高坂正堯が定着させた。だが高坂は、「偉大さの条件」という論文で、軽武装により経済立国の礎を築いた業績を「『吉田体制』にまで高めてしまってはならない」と警告した。

それは、敗戦後の日本という「異常な時期の産物」だったからだ。

 しかし、自民党の保守本流にとって軽武装・経済中心主義は使い勝手のよい政治イデオロギーになった。論壇の「吉田ドクトリンよ永遠なれ」(東工大教授、永井陽之助)と礼賛する声と和して、吉田の真意が歪曲(わいきょく)されていった。

 辰巳は昭和50年に帝国陸軍将校OBの親睦、学術研究団体の「偕行社」会長に就任して、3年間を勤め上げた。その辰巳も、昭和63年2月17日に93歳で死去する。

 通夜は300坪もある世田谷区成城の自邸の庭にテントをはってとり行われた。数百人にのぼる政財官界の会葬者の中に、吉田の三女、麻生和子さんの姿があった。続く葬儀、告別式は港区麻布十番の賢崇寺でしめやかにとり行われた。

 辰巳が死去したとき、偕行社会長だった旧皇族の竹田恒徳は入院中だった。退院後に辰巳の簡素な告別式を知った竹田は地団駄(じだんだ)を踏んだ。後日、竹田が取り仕切って偕行社葬が青山斎場で行われる。

 辰巳の眠る賢崇寺は佐賀・鍋島家の菩提寺(ぼだいじ)として歴代藩主の遺骨が納められている。

 辰巳も佐賀県小城にある伝心庵から父、兵三郎の遺骨をこの寺に移していた。辰巳はやはり佐賀の武人であった。=敬称略(おわり)
(特別記者 湯浅博)

                                                    ◇

 
■ 辰巳栄一略歴

大正 4 陸士卒(第27期)
   4 歩兵少尉(浜田)
  10 独立守備第4大隊
  11 陸軍大学校卒(37期)
昭和 3 第3師団参謀
   6 英国大使館付武官補佐官
   8 関東軍参謀
  10 第5師団参謀
  11 英国大使館付武官
  17 東部軍参謀長
  20 第3師団参謀長
  21 復員、首相軍事顧問
  50 偕行社会長
  63 死去

2011.3.27 08:08 
産經新聞

(54)「中央情報局」構想の挫折 

■ 吉田の求心力低下などで辰巳の奔走は無駄に
 
 内閣官房調査室長の村井順は、調査室が発足した翌年の昭和28
(1953)年8月9日、首相軍事顧問の辰巳栄一らに見送られて羽田から
ワシントンに向かった。

 村井には米中央情報局(CIA)の要員ジョージ・ガーゲットが同行した。スイスへの私費旅行を装ってはいたが、目的は長官のアレン・ダレスと会談することだった。

 このときの村井には、「各国情報活動の視察」という名目で公用旅券が発行されていた。これが、やがて欧州に渡ってあだになる。村井はワシントン郊外のCIA本部を視察し、ダレスとの会談も順調にこなした。

 だが、大西洋を渡ってロンドンに到着すると、予想外のスキャンダルを起こしてしまう。「村井闇ドル事件」である。

 村井は搭乗機を降りるころから、何者かに両脇を固められていた。通関する際に官憲の身体検査を受け、シャツの下から申告しなかった約3千ドルの闇ドルが発見された。

 村井は資金を没収されたうえに、「私費旅行といいながら、なぜ公用旅券なのか」と追及された。

◆ 外務、内務の主導権争い

 事前に、内閣官房調査室が室長の欧米歴訪を通知していなかったばかりに、英国情報機関に怪しまれてしまった。

事件はすぐ東京に打電された。この不祥事により、村井は3カ月後に国警京都府警察隊長に更迭された(春名幹男『秘密のファイル』)。

 辰巳日記に闇ドル事件が登場するのは9月22日である。辰巳は「外務省筋の反村井分子の策謀によりヤミドルの件デマ報道さる」と書いた。

24日には「ヤミドルデマ報道ノ件」として村井を弁護する手紙を吉田茂に送っている。

 日記の記述から辰巳が事件の真相を知っている気配はあるが、それ以上の言及はない。12月24日の日記には、京都府警に左遷された村井を無念のうちに東京駅で見送った。

 事件の流れをみると、どうみても村井の不用意な通関にあるとしか思え
ない。ところが、連合国軍総司令部(GHQ)参謀第2部のキヤノン機関の延禎は、旧内務省と外務省の主導権争いの結果もたらされたことを強く示唆していた。

 「これは調査室を中心にした内務官僚と外務官僚の対立のとばっちりを受け、ワナにはめられた事件だが真相を語るのは、また別の機会にしよう」(『キヤノン機関からの証言』)

 延はこう述べるだけで、それ以上の事実を明らかにしていない。延がこの書物を出版した昭和48年3月の時点でも、まだ明らかにはできなかったのだ。辰巳や延はいったい何を言いたかったのか。

 CIA文書を渉猟(しょうりょう)する早稲田大学の有馬哲夫は、内閣官房調査室内にソ連の情報機関員が浸透し、室長の外遊計画が英国に流れていたとの説をとる。

 内閣官房調査室の創設をめぐっては、内務官僚だった室長の村井と、外務省実力派の曽野明との深刻な対立があった。

外務省は調査室の設立に際し、対外情報に携わっていた情報文化局第1課長だった曽野を中心に、「内閣情報室設置運営要綱」を提出して積極的に関与し
た。

実際には、村井ら元内務官僚を中心に調査室がつくられ、外務省は対外情報活動の権限を調査室に奪われるのではないかと警戒した。外務次官の奥村勝蔵と曽野は、調査室が国内情報のみを担当すべきであると申し入れている。

 曽野はそこで、外務省きってのソ連通である部下の日暮信則を内閣官房調査室に送り込んだ。この日暮がやがて、ソ連のエージェントであることが、29年1月のラストボロフ事件で発覚する。

 ソ連代表部2等書記官だったユーリー・ラストボロフは、米国へ亡命した後、日本でのエージェントや協力者の名前を暴露した。日暮は取り調べのさなかに、警察署5階の取調室から飛び降り自殺してしまう。

 有馬はソ連がこうした調査室内の対立を利用してソ連情報機関が浸透し、さまざまな情報漏れが英国の情報機関MI6にまで流れていた可能性を指摘する(有馬『大本営参謀は戦後何と戦ったのか』)。

 実はこの闇ドル事件で失脚する以前に、村井は独自に「内閣情報機関」の構想を官房長官の緒方竹虎に提言していた。

首相軍事顧問の辰巳と協議を繰り返すうちに、自ら新しい情報機関の構想をつくり上げていく。村井構想は文書収集、通信傍受、工作員活動の3つからなるCIA型情報局を新設するという野心的なものだった。

 内閣官房長官として調査室を担当する緒方の下で、村井構想のほかに古野構想も検討されていた。戦前の同盟通信元社長、古野伊之助を中心に、同盟に代わって海外ニュースの情報収集、分析を行う機関である。

 この機関が、米国のボイス・オブ・アメリカのように「日本の声」として海外発信する通信社型の機能も備えていた。

吉田と緒方は、アジア地域で情報工作活動をするためにも村井構想の実現を目指した。

◆ 野党とメディアの反発

 吉田は27年11月26日の国会答弁で、より穏やかな古野構想を踏まえた情報機関の設立のアドバルーンを上げた。とたんに、野党とメディアから反発を受けた。戦時中の内閣情報局が、言論統制や世論操作に関与したとのイメージがあるからだ。

 この事態に緒方は、村井構想どころか古野構想の規模も縮小せざるを得なくなった。

 28年度予算も当初予定していた10億円から大きく後退させて1億5千万円に大幅削減させた(井上正也「吉田茂の中国『逆浸透』構想」『国際政治』)。

 吉田と辰巳が描いた「内閣情報機関」構想は厳しい局面に立たされていく。香川大学の井上は野党や世論の動向以外にも、新情報機関の前に立ちはだかるいくつかの障害を挙げる。

 政界では、内閣官房調査室を仕切る緒方が、自由党内で力を持ってきたことへの反発があった。緒方が党人派を取り込んでいくことに、官僚派からの警戒感が広がった。

 池田勇人、佐藤栄作ら官僚派は副総理専任(28年3月)となった緒方が、情報機関を握って権力を強大化させるのではないかとおそれた。

 さらに致命的だったのは、吉田の政治的な求心力が急速に低下してきたことだった。

 追放解除で政界復帰した鳩山一郎は、自由党内に民主化同盟をつくって吉田との対立を鮮明にした。

吉田はまず「抜き打ち解散」で反撃した。その7カ月後に「無礼者」などを連発して、今度は「バカヤロー解散」に打って出る。
総選挙で鳩山派が離反した結果、第5次吉田内閣は少数内閣に転落した。

辰巳は3月1日の日記に「吉田首相のバカヤロウ問題にて新聞も賑(にぎ)やかである」と書き、5月19日の日記では、「吉田氏五度首相になる 幸運の人」と驚いている。新情報機関の設立で奔走する辰巳にはハラハラの連続だったに違いない。

 政局の行方をにらみながら、辰巳は村井と新情報機関のことで頻繁に会っていた。だが、事態は徐々に悪化していく。とても新情報機関を設立する政治環境にはなくなりつつあった。

 やがて村井は、「調査室としては、調査分析に重きをおきたい。諜報活動は公安調査庁や国警にやってもらえばいい」と述べざるを得なくなった。加えて村井は、出張先で「闇ドル事件」を引き起こす。

 ただ、内閣官房調査室長のスキャンダルの関連で、1つだけ気になることがある。

 米国務長官ジョン・ダレスは、吉田が進める情報機関の創設には冷ややかだった。彼が日本に期待したのは情報活動ではなく再軍備でアジアの勢力均衡に貢献することだった。

 ちなみに、ダレスの実弟は村井がワシントンで会談したCIA長官のアレン・ダレスである。
その意味では、外務省と米国務省の利害は一致していたという“奇妙な偶然”があった。

 こうして、工作活動を含む情報機関をつくる吉田と辰巳の壮大な構想は望めなくなった。内閣官房調査室は昭和32(1957)年に内閣調査室に改組され、この年を最後にCIA文書から辰巳の名前は消えていく。
=敬称略(特別記者 湯浅博)

2011.3.20 08:04 
産經新聞


勝安芳(海舟) 読む人にも強烈な影響

 昭和16年改訂の国定修身教科書には、勝安芳(かつ・やすよし)(海舟は号)が蘭和対訳辞書『ヅーフ・ハルマ』を筆写したエピソードが載っている。

 蘭学を志した勝が、貧しかったために辞書が買えなかったが、辞書を持っている人に賃料を払って借り、1年かけてそれを筆写したというものである。

 「一念こめて、安芳は写本の仕事を続けたのでした。冬が来ても、寒さをしのぐたきぎがありません。びんぼふが安芳をほろぼすか、安芳がびんぼふをうち負かすか。

 一生けんめいになって戦ひ続けました。(中略)実に、骨をけづり、血をしぼるやうな思ひで、書きうつしたのでした。安芳は、写本の辞書を二冊も作つて、一部は自分が使ひ、別の一部は人に売つて、辞書をかりたお礼をしました」(『初等科修身三』)

 『ヅーフ・ハルマ』は、語数は9万余。全体で58巻に及ぶ大部なもので総ページ数は3千ページを超える。

 緒方洪庵(おがた・こうあん)の適塾(てきじゅく)でも一部しかなかったこの辞書を当時25歳の勝は2部も筆写したわけである。しかもそれは、「貧乏でねェ。メシだって、一日に一度位しか食べやしない」(『海舟座談』)という絶望的な状況の中での作業であった。

「予この時貧骨に到り、夏夜●(かや)無く、冬夜衾(ふすま)無し、唯、日夜机によって眠る。しかのみならず、大母病床にあり、諸妹幼弱にして事を解せず、自ら椽(たるき)を破り柱を削ってかしぐ、困難到千、ここにまた感激を生じ、一歳中二部の謄写成る。(中略)嗚呼、此の後の学業、その成否の如き、知るべからず、期すべからざるなり」。

手元に残った写本の巻末に、勝はこう認(したた)めている。

 実はこの話は戦後の道徳の副読本でも取り上げられたことがある。私も小学校の時にこの話を読んで以来、勝の生き方の虜(とりこ)になっている。

 「道徳的な話など子供の心には何も訴えない」という人がいる。しかし、偉人のエピソードは読む人の生き方を鮮やかに、時として劇的に変えることがある。(武蔵野大学教授 貝塚茂樹)

●=幅のつくりがまだれに樹のつくり


2011.2.5 07:34 
産經新聞



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