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吉村昭『三陸海岸大津波』の先見
作家・高山文彦
■「安心は慢心」過去からの警鐘
地図で見る三陸海岸は、ノコギリの刃のようだ。楔(くさび)を打ち込まれたように幾重にも鋭く切れ込んだ湾は、すぐに山々に取り囲まれてしまう。
沿岸を旅すると、よく慰霊碑に出会った。父祖の代から津波の恐ろしさを語り継いできた人たちは、避難訓練を欠かさなかった。しかしその甲斐(かい)もなく、壊滅的な痛手を被った。
私は最初「東北で大地震」と聞いたとき、反射的に三陸を思い浮かべたが、被害はそこだけではすまず、東日本一帯に及んだことに絶望に近い衝撃をうけた。
吉村昭氏に『三陸海岸大津波』(文春文庫)という作品がある。
これは明治29年と昭和8年に三陸地方を襲った大津波の恐怖を調査・記録した一書で、昭和35年のチリ地震や昭和43年の十勝沖地震による大津波の模様も記録されている。
被災規模は今回の比ではないが、やはりこの一書は未曽有の天災襲来を予見し、警告して、少しも古びない。
◇
明治の大津波について、吉村氏は経験者の古老から波が50メートルの高さにまで襲いかかってきたことを聞き出している。山の上の家にまで押し寄せて来たのだという。とてつもない高さである。
昭和の大津波についても詳細にしるしてあるが、明治と同様の不気味な前兆が海で見られることに私は興味をおぼえた。
沿岸各地は例年にない大豊漁に沸きかえり、鰯(いわし)が大群をなして海岸近くに殺到したという。また波打ち際に大量の鮑(あわび)が打ち寄せ、無数の海藻が海岸をうずめるほど漂着したらしい。
津波襲来まえ、稲妻のような青白い閃光(せんこう)が空に走り、「ドーン」という大砲のような爆発音が二度三度聞こえた、と各地の調査報告にある。明治も昭和も夜中の出来事だから、このように閃光が見えたのだ。
そして干潮時でもないのに海水が急激に沖に向かって引いてゆき、その速度は湾内の岩や石をたがいに激突させるほどで、「たちまちに、湾内の海底は干潟のように広々と露出した」と、吉村氏はつづける。
「沖合に海水と岩の群をまくし上げた海面は、不気味に盛り上がった。そして、壮大な水の壁となると、初めはゆっくりと、やがて速度を増して海岸へと突進しはじめた」
今度の津波の詳細についても、やがて明らかになってくるだろうが、こうした現象は各地で見られたはずだ。
◇
三陸では津波を「ヨダ」と呼んだ。怪物でも呼ぶような言いかたは、津波というものが遠い世界のものではなく、常に身近に存在する恐ろしいものとして考えられていたことがわかる。
しかし残念なことに、どれだけ身近とはいえ、このような経験や知恵はうまく後世に引き継がれないものらしい。
昭和のときも地震直後に人びとは飛び起きたが、すぐに蒲団(ふとん)にもぐり込んでいる。「冬季と晴天の日には津波の来襲がない」と信じられていたからだ、と吉村氏は書く。
家々では明治の津波を経験した老人たちがそう口にし、家族は安心して床に就いた。それで逃げ遅れた人がいたのである。迷信は人を怠惰にする。
私が好きだった田老という小さな港町がある。いまは宮古市の一地区になっている。ここは明治昭和の津波で最大の被害を出し、「津波太郎」と呼ば
れた。
昭和の津波の翌年、全国一の規模を誇る防潮堤の工事が開始され、チリ地震や十勝沖地震の津波でもびくともしなかった。だが今回の津波の凄絶(せいぜつ)なエネルギーはこれをも打ち砕き、家々を壊滅させた。
報道によると、ある老漁師は地震直後、高さ10メートルのこの防潮堤の上に避難した。ところが「堤防の倍くらい高かった」という大津波が沖に見えて、あわてて丘に上がり助かったという。
防潮堤があるので安心していたのだ。同じ感想は、田老のほかの人からも聞かれる。
安心は慢心に通ずる、とあえて酷な言いかたをしよう。死者がもっとも伝えたいのはそのことであったろうと、吉村氏の本を読み返してみて、あらためて思う。
◇
【プロフィル】吉村昭
よしむら・あきら 作家。昭和2年、東京出身。45年『三陸海岸大津波』発表。『破獄』で読売文学賞、『天狗争乱』で大佛次郎賞。平成18年、79歳で死去。
◇
【プロフィル】高山文彦
たかやま・ふみひこ 作家。昭和33年、宮崎県生まれ。平成12年『火花 北条民雄の生涯』で大宅壮一ノンフィクション賞などを受賞。評伝、小説、ルポルタージュを手掛け、『水平記』『エレクトラ』『父を葬る』『あした、次の駅で。』など著書多数。吉村昭『三陸海岸大津波』では解説を書く。
2011.4.8 14:32
産經新聞
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